瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の真宗

 江戸時代の高松御坊と塩屋御坊は、つぎのような関係にありました。     
①高松御坊(高松藩)は、興正寺末の勝法寺が管理
②塩屋御坊(丸亀藩)は、西本願寺直轄で本山の輪番寺が管理
西本願寺と興正寺の間には、本末関係にありながら根深い対立があったことは以前にお話ししました。西本願寺は興正寺を自派の末寺と考えていたのに対して、興正寺は自ら本山と称していました。このような両者の対立は、明暦元年(1655)4月には、幕府によって興正寺19世准秀が越後へ流罪となるような事態も生みました。それでも興正寺は、別派を立てる運動をやめません。そのため興正寺別院の高松御坊(勝法寺)も、西本願寺に素直に従おうとはしなかったようです。高松御坊にすれば、三好実休以来の伝統があり、最近出来たばかりの丸亀の塩屋別院とは歴史も格もちがうという自負心もありました。それを高松藩が応援します。

高松藩藩祖の松平頼重は、興正寺との間に次のような姻戚関係がありました。
①興正寺18世准尊の娘良子が父頼房の側室に上がっていたこと、
②自分の娘万姫が20世良尊円超の養女となり、三男で21世を継いだ寂眠の室となったこと
このため興正寺や勝法寺を保護し、西本願寺との争いでも興正寺方に強く肩入れします。高松御坊からすれば、西本願寺のもとで新たに設置された丸亀藩の塩屋御坊は、自派に対しての切り崩し拠点のように見えたのかも知れません。そのため対抗的な姿勢を示します。それを高松藩も支援するという空気が生まれていきます。そのギクシャクした関係を見ておきましょう。

享保19(1734)年に、教法寺の住職が追放され、西本願寺の別院となったことは以前にお話ししました。
その際に、西本願寺は、御坊御請の御礼に高松に戒忍寺住職を派遣しています。彼は、高松藩へのあいさつを終わると、6月8日には高松勝法寺(高松御坊)へ出向いて塩屋御坊のことをよろしくおねがいしますと挨拶を済ませています。それ以前の6月5日付で、西本願寺からも高松の勝法寺へ次のような挨拶状が送られています。
一筆中さしめ候……然らば其の国丸亀領塩屋村教法寺儀、四年以来御本山え願い置かれ候処、今度、御領主え仰せ入れられ御許容の上 御坊に 仰せ付られ候間、万端御坊輪呑示し合さるべく候、触等の儀は在来の通りに候間、その意を得らるべく侯、不宣
六月五日                三人
高松 勝法寺
追啓 法中え 仰せ渡されの御使僧として戒忍寺御差下候間、左様心得らるべく候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上奉り候……讃岐国丸亀領塩屋村教法寺について、先年以来、本山に対して別院化の願いがあった。そこで、丸亀藩主に願いでたところ許可が下りたので、正式に塩屋別院(御坊)とすることが認められ。ついては、万事について塩屋別院と協議しすること。なお、触頭等については従来の通りに行われるように、取り計らうように依頼する。不宣
六月五日            三人
高松 勝法寺
追伸 法中への仰せ渡しの使僧として戒忍寺を派遣して、以上のようなことを伝えたと、心得えていただきたい。以上

しかし、その後の経過を見ると、西本願寺が期待したようには、勝法寺と御坊輪番寺との関係はうまくいかなかったようです。
讃岐の真宗興正派の寺からは、丸亀藩の塩屋別院は西本願寺の讃岐への教勢拡大の拠点として設置された寺院で、自分たちの勢力圏に打ち込まれた布石とみられていたような気配がします。そのため塩屋御坊の活動については、非協力的な態度で臨みます。例えば塩屋御坊ができて4年後の元文2年(1737)には、次のような事件が起きています。
本願寺から御影が届きました | 浄泉寺
祖師(親鸞)御影
この年5月、塩屋別院に祖師御影が下付され、6月21日から28日まで開帳が行われることになります。そこで、開帳セレモニーへの参加を、讃岐の真宗寺院に呼びかけるために、塩屋別院の当時の輪番寺・弘願寺は「御遷座の節、法中・門中参詣の義」の触れ(通知)を出します。
 これに対して、丸亀城下の正玄寺(西本願寺末)から異議が出されます。それは高松藩の触頭寺は、高松御坊(勝法寺)であるので、その触れ(通知・指図)がなくては参詣できないと断ってきたのです。困った弘願寺は、西本願寺に経過報告するとともに、対処方を相談しています。これに対して西本願寺は、次のように答えています。

……是迄も御触・連署差し下し候節は、惣法中の触は正(勝)法寺え向け添状遣し正法寺より相触れ候、其御坊えは格別に別紙を以て御触の趣申し遣し候事に候、此度の儀も共の元より正法寺え向け連署相渡され正法寺より相触させ候えば、初発より御定の通りに相違致さずと中ものに候、其の元より直に触れられ候故、其の御坊の触下の様にも成るべきかと正法寺よりもこばみ候ものと推察せしめ候……

  意訳変換しておくと
 これまでも本山からの御触・連署を差し下す時には、真宗寺院の触頭寺である高松の正(勝)法寺へ送付し、それを正法寺から讃岐の各真宗寺院へと相触(連絡)するという方法をとってきた。これについては、以前に別紙で「触等の儀は在来(従来)の通り」と高松御坊(勝法寺)に伝えている。
 この度の件については、勝法寺へ連署を渡たし、勝法寺から相触(連絡)させれば、問題は起きなかったはずである。それが勝法寺を通さずに、丸亀別院(輪番寺弘願寺)から直接に、各寺委員への連絡通知をだしたことが、勝法寺の機嫌を損ねたのだろうと推察する…。
ここからは高松領、九亀領ともに真宗寺院への触れは高松の勝法寺から触れるのが筋道だと西本願寺でも承知していたことが分かります。それを守らなかった輪番の弘願寺に落ち度があるとも云わんばかりの内容です。これが慣例なのかもしれませんが、丸亀藩における連絡網としては、機能不全です。丸亀御坊が丸亀藩の真宗寺院に触れを出す場合にも、その都度高松御坊に依頼して出さなくてはならないということになります。これは、不便ですし、何より屈辱的です。

塩屋別院3
塩屋御坊(讃岐国名勝図会) 現在の本堂は安永4年のもの
安永4年(1775)の丸亀御坊の本堂上棟の時のことです。
30年余りの工期の末に、立派な本堂が完成します。その御書請待(セレモニーへの参加依頼書)が、藩主には西本願寺門主からの御書が、丸亀藩家老ヘは本山坊官からの連署が下されます。これに対して、興正寺末の金倉円龍寺と津森光善寺は「先例に従わないもの」と不承知の意思表明をします。そこで、丸亀御坊の当時の輪番寺だった善行寺は、丸亀藩の寺社役・安達覚左衛間、安藤貞右衛門、明石六太夫へ掛け合って、寺社役名で、門主の御書を受け取るように領内の末寺へ申し渡します。これは「特別措置」なのでお礼として、西本願寺は門跡から丸亀藩主に薫物と肴、家老と寺社役へは本山からそれぞれ羽二重と肴、加賀絹と肴が贈られています。「お手数をおかけしました」というお礼とお詫びの意味が込められていたのでしょう。
 しかし、西本願寺のこのような動きに対して、興正寺も黙っていません。
使僧桃源寺を丸亀に派遣して、これを先例としないように立ち働いたようです。その結果、翌(1777)年になって興正寺末の寺々からは不承知の旨が藩に対して出されます。藩では、それをも聞き入れて御書聴写猶予の触れを出しています。この当たりには、丸亀藩の高松藩に対する配慮ぶりがうかがえるように見えます。
 これに対して西本願寺はからは、次のような不満の書状が丸亀藩に送られてきます。
「……塩屋村掛所再建労に付き、御領中の末寺・門徒ども弥増しに法義相続候様に相示され候儀にて、 一国中におよひ候儀にて御座無く候故、寺法に差間と申す筋にては御座無く候……」

意訳変換しておくと

「……塩屋村掛所(御坊)の本堂再建の落慶法要について、御領中の末寺・門徒に対して法義に基づいて、通達連絡を行おうとしました。これについては讃岐一国のことではなく、丸亀藩内だけに関わることです。(どうして高松の勝法寺を通す必要があるのでしょうか。) 寺法を乱すものだという批判は、的外れです。」

しかし、丸亀藩の意向を変えることはできません。
このように京都の本山同士の争いが続いている間は、興正寺末の勝法寺やその他の諸院と塩屋御坊との関係は、決して円滑な者ではなく、ぎくしゃくとした関係だったようです。

以上をまとめておくと
①塩屋別院(御坊)は、もともとは赤穂からやって来た製塩集団を門徒たち建立した西本願寺を本寺とする寺だった。
②それが18世紀前半に、住職と門徒集団の争いで住職が追放され、西本願寺直属の御坊となっり、本山の僧侶が輪番で管理運営するようになった。
③しかし、讃岐の真宗寺院の触頭寺・勝法寺(高松御坊)からすると、宗派も異なり自分のテリトリーを犯す存在と写ったのか、反目が絶えなかった。
④こうして西本願寺別院としての塩屋御坊は、多数派の真宗興正派寺院からは冷たい眼で見られた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

18世紀頃になると中本山である安楽寺から離脱していく讃岐の末寺が出てきます。どうしてなのでしょうか。その背景を今回は見ていくことにします。
本寺と末寺(上寺・下寺)の関係について、西本願寺は幕府に対して次のように説明しています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」
              「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)
 ここには下寺(末寺)は、本山より上寺(中山)に預け置かれたものとされています。そして下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要とされました。上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗改派は禁じられていたのです。
  ところが17世紀になると情勢が変わってきます。本末制度が形骸化するのです。その背景には触頭(ふれがしら)制の定着化があるようです。触頭制ついて、浄土宗大辞典は次のように記します。

江戸時代、幕府の寺社奉行から出された命令を配下の寺院へ伝達し、配下寺院からの願書その他を上申する機関。録所、僧録ともいう。諸宗派の江戸に所在する有力寺院がその任に当たった。浄土宗の場合は、芝増上寺の役者(所化役者と寺家役者)が勤めた。幕府は、従来の本末関係を利用して命令を伝達していたが、本末関係は法流の師資相承に基づくものが多く、地域的に限定されたものではなかった。そのため、一国・一地域を区画する幕藩体制下では、そうした組織形態では相容れない点があった。そこで、一国・一地域を限る同宗派寺院の統制支配組織である触頭制度が成立した。増上寺役者は、寛永一二年(一六三五)以前には存在していたらしい。幕府の命令を下すときは、増上寺管轄区域では増上寺役者から直接各国の触頭へ伝達され、知恩院の管轄区域では、増上寺役者から知恩院役者へ伝えられ、そこから各国の触頭へ伝達された。

幕府に習って各藩でも触頭制が導入され、触頭寺が設置され、藩の指示などを伝えるようになります。浄土真宗の讃岐における中本山は、三木の常光寺と阿波の安楽寺でした。この両寺が、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがった真宗ネットワークの中心でした。しかし、各藩毎に触頭と呼ばれる寺が藩と連携して政策を進めるようになると、藩毎に通達や政策が異なるので、常光寺は安楽寺は対応できなくなります。こうして江戸時代中期になると、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反を押さえる策から、合意の上で金銭を支払えば本末関係を解消する策をとるようになります。つまり「円満離末」の道を開きます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

 安楽寺の高松平野方面での拠点末寺であった安養寺の記録を見ておきましょう。
西御本山
京都輿御(興正寺)股御下
千葉山 久遠院安養寺
一当寺開基之義者(中略)本家安楽寺第間信住職仕罷在候所、御当国エ末寺門従数多御座候ニ付、右間信寛正之辰年 香川郡安原村東谷江罷越追而河内原江引移建立仕候由ニ御座候、然ル所文禄四年士辛口正代御本山より安養寺と寺号免許在之相読仕候。
意訳変換しておくと
安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から第間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。

整理すると次のようになります。
①寛正元年(1460)に安楽寺からやってきた僧侶が香川郡安原村東谷に道場をかまえた。
②その後、一里ほど西北へ離れて内原に道場を移転(惣道場建立?)
③文録四年(1595)に本山より安養寺の寺号が許可

①については、興正寺の四国布教の本格化は16世紀になってからです。また安楽寺が興正寺末寺となり讃岐布教を本格化させるのは、讃岐財田からの帰還後の1520年以後で、三好氏からの保護を受けてのことです。1460年頃には、安楽寺はまだ讃岐へ教線を伸ばしていく気配はありません。安楽寺から来た僧侶が道場を開いた時期としては早すぎるようです。
安養寺 安楽寺末
安楽寺と安養寺の関係

②については、「香川郡安原村東谷」というのは、現在の高松空港から香東川を越えた東側の地域です。安楽寺のある郡里からは、相栗峠を挟んでほぼ真北に位置します。安楽寺からの真宗僧侶が相栗峠を越えて、新たな布教地となる香東川の山間の村に入り、信者を増やし、道場を開いていく姿が想像できます。そして、いくつもの道場を合わせた惣道場が河内原に開かれます。これが長宗我部元親の讃岐侵攻時期のことであったのではないかと思います。
 以前に見たまんのう町の尊光寺由来に「中興開基」として名前の出てくる玄正は、西長尾城主の息子として、落城後に惣道場を開いたとあります。つまり、惣道場が開かれるのは生駒時代になってからです。
③には安養寺の場合も1595年に寺号が許されるとあります。しかし、西本願寺が寺号と木仏下付を下付するようになるのは、本願寺の東西分裂(1601年)以後のことです。ちなみに龍谷大学の史学研究室にある木仏には次のように記されたものがあるようです。

「慶長12(1609)年、讃岐国川内原、安養寺」

この木仏は西本願寺→興正寺→安楽寺→安養寺というルートを通じて、安養寺に下付されたものでしょう。「寺号免許=木仏下付」はセットで行われていたので、寺号が認められたのも1609年のことになります。
 どちらにしても安養寺は、安楽寺の末寺でありながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院として発展します。そのため初代高松藩主としてやってきた松平頼重は、高松城下活性化と再編成のために元禄2(1689)年に、高松城下に寺地を与えて、川内原より移転させています。以後は、浄土真宗の触頭の寺を支える有力寺になっていきます。寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
真宗興正派安養寺末寺
安養寺末寺

安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)
安養寺末寺一覧
安養寺の末寺
  以上から安養寺は安楽寺の髙松平野への教線拡大の拠点寺院の役割を担い、多くの末寺を持っていたことが分かります。それが髙松藩によって髙松城下に取り込められ、触頭制を支える寺院となります。その結果、安楽寺との関係が疎遠になっていたことが推測できます。安養寺の安楽寺よりの離末は、宝暦七(1757)年になります。離末をめぐる経緯については、今の私には分かりません。

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尊光寺(まんのう町長炭東) 安楽寺の末寺だった
まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)

一札の事
一其の寺唯今迄当寺末寺にてこれあり候所、此度得心の上、永代離末せしめ候所実正に御座候。然る上は自今以後、本末の意趣毛頭御座なく候。尤も右の趣御本山へ当寺より御断り候義相違御座なく候。後日のため及て如件.
阿州美馬郡里村
安永六酉年        安楽寺 印
十一月           知□(花押)
讃州炭所村
尊光寺
意訳変換しておくと
尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があります。これに対して安楽寺文書にも、次のような文書があり離末が裏付けられます。
第2箱72の文書「離末、本末出入書出覚」
「安永七年四月り末(離末)」
第5箱190の「末寺控帳」写しに
「安楽寺直末種村尊光寺安永七年四月り末(離末)」
  このような離末承認文書が安楽寺から各寺に発行されたようです。

興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅
興泉寺(琴平町)

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)が安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。  
 尊光寺の場合も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺は徳島城下の末寺で、触頭寺となった東光寺と本末論争の末に勝利します。しかし、東光寺が触頭として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に政策転換したことが分かります。17世紀半ば以後には、讃岐末寺が次々と「有償離末」しています。

 そのような中で、長尾の超勝寺だけが安楽寺末に残こります。
長勝寺
超勝寺(まんのう町長尾)
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺だけが末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。山を越えて末寺として中本山に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)
讃州長尾村超勝寺本末の式相い失い、拙寺より本山へ相い願い、超勝寺誤り一札仕り候
写、左の通り。
(朱書)
「八印」
御託証文の事
一つ、従来本末の式相い乱し候段、不敬の至り恐れ入り奉の候
一つ、住持相続の節、急度相い届け申し上げ候事
一つ、三季(年頭。中元。報思講)御礼、慨怠無く相い勤め申し上ぐ可く候事
一つ、葬式の節、ご案内申し上ぐ可く候事
一つ、御申物の節、夫々御届仕る可く候事
右の条々相い背き候節は、如何様の御沙汰仰せ付けられ候とも、毛頭申し分御座無く候、傷て後日の為め証文一札如件
讃岐国鵜足郡長尾村
            超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
これを深読みすると、安楽寺の末寺はこのような義務を、安楽寺に対して果たしてきていたことがうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。

安楽寺の末寺総数83ケ寺の内の42ケ寺が安永年間(1771~82)に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第2箱108)。離末理由については何も触れていませんが先述したように、各藩の触頭寺を中心とする寺院統制が整備されて、本山ー中本山を通して末寺を統制する本末制が有名無実化したことが背景にあるようです。

来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
常光寺(三木町)
このような安楽寺の動きは、常光寺にも波及します。
幕末に常光寺が藩に提出した末寺一覧表には、次の「離末寺」リストも添付されています。
安養寺末寺一覧
常光寺の高松藩領の離末リスト

これを見ると髙松藩では、18世紀前半から離末寺が現れるようにな
ります。
常光寺離末寺
常光寺の離末リスト(後半は丸亀藩領)

そして、文化十(1813)年十月に、多度・三豊の末寺が集団で離れています。この動きは、先ほど見た安楽寺の離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。
常光寺碑文
常光寺本堂前の碑文
常光寺本堂前の碑文には、上のように記されています。75寺あった末寺が、幕末には約1/3の27ヶ寺に減っていたようです。

以上をまとめておくと
①讃岐への真宗伝播の拠点となったのは、興正派の常光寺(三木町)と安楽寺(阿波郡里)である。
②両寺が東と南から讃岐に教線を伸ばし、道場を開き、後には寺院に格上げしていった。
③そのため讃岐の真宗寺院の半分以上が興正派で、常光寺と安楽寺の末寺であったお寺が多い。
④しかし、18世紀になると触頭制度が整備され、中本山だった常光寺や安楽寺の役割は低下した。
⑤そのような中で、中世以来の本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
⑥そこで安楽寺や常光寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑦安楽寺を離れた末寺は、興正寺直属の末寺となって行くものが多かった。
⑧しかし、中にはいろいろな経緯から東本願寺などに転派するお寺もあった。
⑨また、明治になって興正寺が西本願寺から独立する際に、西本願寺に転派した寺も出てきた。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号

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