瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の真宗寺院

安楽寺文書
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)
 真宗の四国への教線拡大を考える際の一番古い史料は、永正十七年(1520)の三好千熊丸(元長または 長慶)が安楽寺に対して、亡命先の讃岐財田から特権と安全を保証するから帰ってくるようにと伝えた召還状(免許状)です。これが真宗が四国に根付いていたことをしめすもっとも古い確実な史料のようです。
Amazon.com: 大系真宗史料―文書記録編〈8〉天文日記1: 9784831850676: Books

その次は「天文日記」になります。これは本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた日記です。『天文日記』に出てくる四国の寺院名は、讃岐高松の福善寺だけです。ここには16世紀前半には、讃岐高松の福善寺が本願寺の当番に出仕していたこと、その保護者が香西氏であったことが書かれています。
その他に讃岐の有力な真宗寺院としては、どんな寺院があったのでしょうか?
幻の京都大仏】方広寺2021年京の冬の旅 特別拝観の内容と御朱印 | 京都に10年住んでみた
秀吉が建立した京都方広寺の大仏殿
天正14(1586)年、秀吉は当時焼失していた奈良の大仏に代わる大仏を京都東山山麓に建立することにします。高さ六丈三尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を造営し、これを安置する壮大な大仏殿を、文禄4(1595)年頃に完成させます。大仏殿の境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,洛中洛外図屏風に描かれています。現存する石垣から南北約260m,東西210mの規模でした。モニュメント建設の大好きな秀吉は、この落慶法要のために宗派を超えた全国の僧侶を招集します。浄土真宗の本山である本願寺にも、声がかかります。そこで本願寺は各地域の中本寺に招集通知を送ります。それが阿波安楽寺に残されています。大仏殿落慶法要参加のための本願寺廻状で、その宛名に次のような7つの寺院名が挙げられます。

阿波国安楽寺
讃岐国福善寺・福成寺・願誓寺・西光寺・正西坊、□坊

阿波では、真宗寺院のほとんどが安楽寺の末寺だったので、参加招集は本寺の安楽寺だけです。以下は讃岐の真宗寺院です。これらの寺が、各地域の中心的存在だったことが推測できます。ただ、常光寺(三木)や安養寺などの拠点寺院の名前がありません。安養寺は安楽寺門下ために除外されたのかもしれません。しかし、常光寺がない理由はよくわかりません。また、「正西坊、□坊」などは、寺号を持たない坊名のままです。
 この七か寺中について「讃岐国福成寺文書」には、次のように記されています。
当寺之儀者、往古より占跡二而、御目見ハ勝法寺次下に而、年頭御礼申上候処、近年、高松安養寺・宇多津西光寺、御堀近二仰付候以来、其次下座席仕候

意訳変換しておくと
当寺(福成寺)については、古くから古跡で、御目見順位は勝法寺(高松御坊)の次で、年頭御礼申上の席次は、近年は高松安養寺・宇多津西光寺に次いで、御堀に近いところが割り当てられています。

ここからは江戸時代には、讃岐国高松領内の真宗寺院の序列は、勝法寺(高松御坊)・安養寺(高松)・西光寺(宇多津)・福成寺という順になっていたことが分かります。先ほど見た安養寺文書の廻状に、福成寺・西光寺の寺名があります。ここからも廻状宛名の寺は、中世末期までに成立していた四国の代表的有力寺院であったことが裏付けられます。今回は、これらの寺の創建事情などを見ていくことにします。テキストは、千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」です。

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まず宇多津の西光寺です。この寺の創建について「西光寺縁起」には、次のように記します。
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。

意訳変換しておくと
天文八年十一月、向専法師が、本尊の奇特を感じて西光寺を創建した。向専の父は進藤山城守で其手長兵衛尉宣絞という。子細あって、大谷の本願寺で、発心出家し、本願寺十代証知の弟子となり、法名向専を賜った。

ここには、天文年間に大和国の進藤宣政が本願寺証如の下で出家し、宇多津に渡り、西光寺を創始したと伝えます。これを裏付ける史料は次の通りです。
①『天文日記』の天文20年(1551)3月13日の条に「進藤山城守今日辰刻死去之由、後聞之」とあり、西光寺の開基専念の父進藤山城守は本願寺証如と関係があったことが分かる。
②西光寺には向専法師が下賜されたという証如の花押のある『御文章』が保存されている
③永禄十年(1567)6月に、三好氏の重臣で阿讃両国の実力者篠原右京進より発せられた制札が現存している。
以上から、「西光寺縁起」に伝える同寺の天文年間の創立は間違いないと研究者は判断します。
③の西光寺に下された篠原右京進の制札を見ておきましょう。
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
西光寺ではなく「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」とあります。鍋屋というのは地名です。その付近に最初に「念仏道場」が開かれたようです。それが元亀2年(1571)に篠原右京進の子、篠原大和守長重からの制札には、「宇足津西光寺道場」となっています。この間に寺号を得て、西光寺と称するようになったようです。

宇多津 讃岐国名勝図会2
宇多津の真宗寺院・西光寺(讃岐国名勝図会 幕末)
 中世の宇多津は、兵庫北関入船納帳に記録が残るように讃岐の中で通関船が最も多い港湾都市でした。そのため「都市化」が進み、海運業者・船乗や製塩従事者・漁民などのに従事する人々が数多く生活していました。特に、海運業に関わる門徒比率が高かったようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちでした。

6宇多津2135
中世の宇多津復元図 
西光寺は大束川沿いの「船着場」あたりに姿を現す。
 西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。それが「鍋屋道場」の名前になったと推測できます。どちらにしても手工業に従事する人々が、住んでいた中に道場が開かれたようです。それが宇多津の山の上に並ぶ旧仏教の寺院との違いでもあります。
東本願寺末寺 高松藩内一覧
17世紀末の高松藩の東本願寺末寺一覧
つぎに高松の福善寺について見ておきましょう。
福善寺という名前については、余り聞き覚えがありません。 上の一覧表を見ると、福善寺は7つの末寺を持つ東本願寺の有力末寺だったことが分かります。そして、この寺は最初に紹介したように讃岐の寺院としては唯一「天文日記」に登場します。天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
「就当番之儀、讃岐国福善寺、以上洛之次、今一番計勤之、非向後儀、樽持参

ここには「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあり、福善寺が本願寺へ樽を当番として持参していたことが記されています。本願寺の末寺となっていたのです。これが根本史料で讃岐での真宗寺院の存在を証明できる初見となるようです。
 この寺の創立事情について『讃州府志』には、次のように記されています。
昔、甲州小比賀村二在り、大永年中、沙門正了、当国二来り坂田郷二一宇建立(今福喜寺屋敷卜云)文禄三年、生駒近矩、寺ヲ束浜二移ス、後、寛永十六年九月、寺ヲ今ノ地二移ス、末寺六箇所西讃二在り、円重寺、安楽寺、同寺中二在リ

意訳変換しておくと
福善寺は、もともとは甲州の小比賀村にあった。それを大永年中に沙門正了が、讃岐にやってきて坂田郷に一宇を建立した。今は福喜寺屋敷と呼ばれている。文禄三年、生駒近矩が、この寺を東浜に移した。その後、寛永16年9月に、現在地にやってきた。末寺六箇寺ほど西讃にある。また円重寺、安楽寺が、同寺中にある。

ここにはこの寺の創建は、大永年中(1521~28)に、甲斐からやってきた僧侶によって開かれたとされています。

高松寺町 福善寺
高松寺町の真宗寺院・福善寺(讃岐国名勝図会)

それでは、福善寺のパトロンは誰だったのでしょうか?
天文日記の同年7月22日は、次のような記事があります。
「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」

ここには、讃岐の香西神五郎が始めて本願寺を訪れたとあります。香西一族の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。つまり、16世紀中頃には、讃岐の武士団の中に真宗に改宗する武士集団が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者も出てきたことが分かります。
三好長慶政権を支える弟たち
天下人の三好長慶を支える弟たち
どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?
 当時、讃岐は阿波三好氏の支配下にありました。そして、三好長慶は「天下人」として畿内を制圧しています。長慶を支えるために、本国である阿波から武士団が動員され送り込まれます。これに、三好一族の十河氏も加わります。十河氏に従うようになった香西氏も、従軍して畿内に駐屯するようになります。三好氏の拠点としたのは堺です。堺には本願寺や興正寺の拠点寺院がありました。こうして三好氏や篠原氏に従軍していく中で、本願寺に連れて行かれ、そこで真宗に改宗する讃岐武士団が出てきたと推測できます。

西本願寺末寺(仲郡)
願成寺は丸亀平野の農村部にある。

丸亀市郡家の願誓寺は、文安年中(1444~49)に蓮秀によって開かれたとされます。
周辺部には、阿波の安楽寺や氷上村の常光寺の末寺が多い中で、買田池周辺の3つの寺院は西本願寺を本寺としてきました。周辺の真宗寺院とは、創建過程がことなることがうかがえます。しかし、史料がなくて、今のところ皆目見当がつきません。

西本願寺本末関係
高松領内における西本願寺の末寺一覧(17世紀末)
20番が願誓寺で、末寺をもつ。



福成寺は天正末年(1590)に、幡多惣左衛門正家によって栗熊村に創立されたと伝えられます。
この寺も丸亀市垂水町の願誓寺とおなじで、丸亀平野の農村地帯にあります。眼下に水橋池が広がり、その向こうに讃岐山脈に続く山脈が伸びています。境内には寒桜が植えられていて、それを楽しみに訪ねる人も増えているようです。丸亀平野の終わりになる岡の上に伽藍が築かれています。農民の間にも、真宗の教線が伸びてきたことがうかがえます。しかし、その成立過程についてはよくわかりません。

 福成寺
   
以上、廻状宛名の讃岐国六か寺のうち四か寺についてみてきました。残りの正西坊と坊名不明の二か寺については、どこにあったのか分かりません。
ただ、正西坊については、伊予松山の浄念寺ではないかと研究者は考えています。
浄念寺はもともとは三河国岡崎にあった長福院と称する真言宗の寺でした。それが長享年間(1487―89)に、蓮如に帰依して真宗に転じます。そして永禄年間(1558~70)の二代願正のときに、伊予道後に来て道場を開きます。天正14(1586)年、3代正西のときに、本願寺から木仏下付を受けています。讃岐国では所在不明の正西坊は、この伊予国道後の正西坊だと研究者は推測します。その後、慶長年間に松山に移建したといわれています。
以上をまとめておくと
①真宗教団は四国東部の阿波・讃岐両国、とくに讃岐でその教線を伸ばした。
②その背景としては、臨済・曹洞の両教団が阿波、伊予ではすでにその教圏を確立していて、入り込む隙がなかったこと
③それに対して讃岐や土佐はは鎌倉仏教の浸透が遅く未開拓地であったこと。
④それが真宗教団の教線伸張の方向を讃岐・土佐佐方面に向けさせたこと
⑤四国における真宗教団の最初の橋頭堡は、阿波国郡里(美馬)の真宗興正派の安楽寺だったこと
⑤安楽寺は三好氏の保護を受けて、讃岐に教線を伸ばし有力な末寺を建てて、道場を増やしたこと⑦それが安楽寺の讃岐進出の原動力となったこと。
⑧讃岐には、三好氏や篠原氏に従軍して出向いた堺で、真宗に改宗し、菩提寺を建てるものも出てきたこと
⑨宇多津の西光寺のように、海上交易センターとして海運業者などの門徒によって建立される寺も現れたこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 四国における真宗教団の展開 地域社会と真宗399P 千葉乗隆著作集第2巻」
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四国各県の宗派別寺院数と真宗占有率
香川県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗で、それは約47%になります。その中でも興正寺派の占める割合が非常に多いようです。その背景として、次のような要因が考えられることを以前にお話ししました。
①15世紀に仏光寺(後の興正寺)が教勢拡大拠点として三木に常光寺、阿波の郡里(美馬市)に安楽寺を開き、積極的な布教活動を展開したこと
②本願寺も瀬戸内海沿い教線拡大を行い、宇多津に西光寺などを開き、周辺への布教活動を行ったこと
③戦乱の中で衰退傾向にあった真言勢力に換わって、農民層に受けいれられたこと
④髙松藩が興正寺派と幾重もの姻戚関係を結び、その保護を受けたこと
讃岐の浄土真宗寺院分布図
浄土真宗寺院の分布図
この中の①の阿波の安楽寺の丸亀平野方面への教線拡大過程は以前に押さえましたが、常光寺のうごきについては見ていませんでした。そこで、今回は常光寺の教線拡大ルートを見ていきたいとおもいます。テキストは 「藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号」です。
来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
興正寺派の布教拠点となった常光寺(三木町)

江戸時代後半の19世紀前半に、常光寺が髙松藩に提出した由緒書きが残っています。それを見ると、常光寺というお寺の性格が分かります。
『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕(意訳)
 当寺の創建は、足利三代将軍義満の治世の時(1368年)とされます。泉洲大鳥領主で生駒左京太夫光治の次男政治郎光忠と申すものが発心し、法名浄泉と名前を改め、仏光寺で修行しました。その後、常光寺の号を与へられました。仏光寺門下に秀善坊という者がいて、安楽寺と号していました。
 あるときに仏光寺了源上人は、二人に四国への教線拡大を託します。浄泉と秀善のふたりは、ともに応安元年に四国へ渡り、秀善坊は、阿州美馬郡香里村安楽寺を創建しました。一方、浄泉坊は当国へやって来て、三木郡氷上村に常光寺を建立します。布教活動の結果、教えは阿讃両国の間にまたたくまに広がり、真宗に帰依する者は増えました。こうして安楽寺・常光寺の両寺の末寺となる寺は増え続け、日を追って両山門は繁昌するようになりました。
 開基の浄泉より百余年後の文明年中(1469~87年)、五代目の住侶浄宣のことです。仏光寺の経豪上人は本願寺蓮如上に帰依し、仏光寺を弟経誉上人に譲り、蓮如上人を戒師にして、その頼法名を蓮教と改名し、京都山科の口竹に小庵を構へました。その寺は、蓮如上人より興正寺と名付けられました。これを見て、蓮教を慕う当寺の浄定坊も仏光寺末を離れて、文明年中より興正寺蓮教上人の末寺となりました。こうして、応安元年に浄泉坊は当寺を建立しました。
22代の祖まで血脈は連残し、相続しています。
要約すると
①足利義満の時代に(1368)に、佛光寺(後の興正寺)了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣した。
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿波美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。
④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。

以上は、300年以上経た19世紀になってから常光寺で書かれた由緒書きなので、そのままを信じることはできないにしても、大筋は認められると研究者は考えているようです。
常光寺や安楽寺は14世紀後半に創建されたとされますが、それが教線を拡大していくようになるのは16世紀になってからになるようです。この報告書には、続きがあります。そこには、常光寺の末寺が次のように列挙されています。
常光寺末寺1
常光寺末寺 1(髙松藩領内)
常光寺末寺2
常光寺末寺(前半髙松藩 後半丸亀藩領内)

かつて末寺あった寺としてあげられているのが次の通りです。
(年号は離末した年)
常光寺離末寺
常光寺離末寺(末寺を離れた寺院)

ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は興正寺の中本山として、41ケ寺の末寺をその管理下においていたこと。
②最盛期には、豊田郡流岡村(観音寺市)や、三野郡麻(三豊市)にまで末寺があり、三豊まで教線を伸ばしていたこと
③離末していく寺が18世紀になって増え、文化10(1813)年には多度津以西の寺が集団で離末していること

丸亀平野の末寺に絞り込んで見ると次の通りです。
①那珂郡七ケ村 円徳寺
②      垂水村 善行寺
③      垂水村 西教寺
④      原田村 寶正寺
⑤垂水村 西 坊     (円徳寺末寺)
丸亀藩領
⑥那珂郡 田村  常福寺
⑦那珂郡 佐文村 法照時(円徳寺末)
⑧那珂郡 苗田村 西福寺(円徳寺末)
旧末寺
⑨那珂郡 榎井村 玄龍寺
⑩多度郡  吉田村 西光寺
⑪多度郡 下吉田村浄蓮寺
⑫多度郡 三井村 円光寺
⑬多度郡 弘田村 円通寺

興正寺派常光寺末寺
丸亀平野の常光寺末寺分布地図
この中で①の円徳寺(現まんのう町七箇照井)は、⑤⑦⑧の3つの末寺を持っていたようです。
円徳寺・法照寺本末関係
那珂郡南部の常光寺の本末関係

常光寺の教線拡大図に阿波・安楽寺の末寺を重ねてみましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
阿波郡里の安楽寺の末寺分布図
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾〉
慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)尊光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦) 妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
安楽寺も勝浦の長善寺などを拠点に、教線ラインを次第に「讃岐の山から里へ」と伸ばしていく様子が浮かび上がってきます。
常光寺と安楽寺の教線拡大ラインと比較すると次のようになります。
常光寺 
三木から三豊へと讃岐を東西に結ぶ内陸の農村部を中心にした教線拡大ライン
安楽寺
阿波郡里から讃岐山脈を越えて丸亀平野や三豊平野に下りていく、南から北への教線拡大ライン

クローズアップして、現在の丸亀市垂水の両寺の末寺を見てみます。

垂水の興正寺派末寺
丸亀市垂水の善光寺・正教寺・浄楽寺

 以前にお話ししたように垂水は古代においては、土器川の氾濫原で条里制施行の空白地帯だったエリアです。それが中世になって有力武士団などによって、治水灌漑が行われ耕地整備が進んだと研究者は考えているようです。それを示すかのように、現在でも土器川生き物公園は、土器川の氾濫寺の遊水池として近世には機能していました。いわば土器川氾濫原の中世の開発地区が垂水や川西地区だと私は思っています。この開拓への入植農民達への布教活動を活発に行ったのが真宗の僧侶達だったのではないでしょうか。宗教的な情熱に燃える真宗僧侶が東の常光寺から、南の阿波安楽寺からやってきます。そして、道場が開かれ寺に成長して行くという道をたどったようです。
例えば、垂水の善行寺と西教寺は、もともとは常光寺の末寺で、善行寺は寛文年中(1661~72)に、西教寺は寛永年中(1624~44)に木仏・寺号を許されたといいます。

一方、この両寺の間にある浄楽寺は、讃岐名所図会に次のように安楽寺末寺と記されています。
一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり

とあり、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し創建したと伝えられています。また、まんのう町買田の恵光寺の記録には、次のように記されています。
(この寺はもともとは、(まんのう町)塩入の奥にあった那珂寺である。長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建された

 琴南町誌には、現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また檀家も存在することが記されています。 以上から、垂水の藤田大隅守の城跡へ、塩入にあった那珂寺が垂水に移転再建され浄楽寺と呼ばれるようになったようです。どちらにせよ安楽寺の教宣拡大戦線の丸亀方面の最前線に建立された寺院であるといえます。この寺は、寛永年中に寺号を許されたようで、後には安楽寺を離れて西本願寺末となります。

  垂水の真宗興正派の3つのお寺を見ると、まさに西に向かって伸びていく常光寺の教線ラインと、北に伸びていく安楽寺の教線ラインが重なったのが丸亀平野なのだと思えてきます。このようなふたつのルートの存在が互いのライバル心となり、さらに浄土真宗の丸亀平野での拡大にはずみをつけたのかも知れません。これが16世紀半ばから17世紀前半にかけてのことです。
 これを真言宗の立場から見てみるとどうなるのでしょうか。
例えば当時の真言勢力の拠点と考えられるのは、阿野北平野では白峰寺、丸亀平野では善通寺です。これらの寺院は中世には、いくつもの子院や別院を持ち、多くの伽藍を擁する大寺院に成長し、僧兵を擁していた可能性もあることは以前にお話ししました。しかし、戦国時代になると戦乱と西讃岐守護の香川氏などの周辺武士団の押領を受けて勢力を失っていきます。白峰寺や善通寺・弥谷寺なども16世紀後半には、それまでの伽藍の姿が大きく縮小し、子院の数も激減しているのが残された絵図からは分かります。讃岐の真言勢力は衰退の危機的な状態にあったと私は考えています。そういう中で、古い衰退していた寺を、真宗僧侶は中興し、真宗に宗派替えしていきます。
 浄土真宗への転宗寺院の一覧表を見てみましょう。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
 ここからは、次のことがうかがえます。
①どの宗派から真宗に転宗した寺院が多いか
②どの郡に転宗寺院が多いか
①については、密教系修験者の山林寺院が多かった天台・真宗からの転宗が多いことが分かります。
②については、鵜足・那珂・多度郡など丸亀平野を中心とする中讃地域に多いことが分かります。
また、転宗時期は、天文年間以降に多く見られます。この表からも讃岐で真宗寺院が増加していくのは天文年間以後であったことが裏付けられます。
  
次の表は各史料に書かれた讃岐の浄土真宗の創建年代を、年代別に示したものです。
讃岐の真宗寺院創建年代
16世紀までの讃岐の真宗寺院創建年代

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐最初の浄土真宗のお寺は、暦応4年(1341)に屋島沖の大島に創建された法蔵院(現真行寺)
②14世紀中に設立されたとする32寺院について、常光寺のように史料的に裏付けられるものは少ないこと
③讃岐における浄土真宗寺院の増加は16世紀以後のことであること。
④16世紀半ば以後に、真言・天台の大寺が衰退し、その勢力が弱まったこと。具体的には修験者の活動が停滞したこと。
⑤その隙間を狙うように、真宗興正寺派の教宣ルートが丸亀平野に延びてきたこと。

上の讃岐における真宗寺院創建年代を、更に詳しく郡別に分けた次のような表を研究者は作成しています。
四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐真宗寺院創建年代一覧(郡別)
ここからは16世紀までに創建されたとされる真宗寺院は、香川・阿野(綾)・鵜足・那珂に多いことが分かります。
以上のデータから当時の常光寺や安楽寺の教宣拡大戦略を私なりに考えて見ると次のようになります。
①戦乱の中で今まで大きな力を持ていた白峰寺や善通寺が衰退している。
②そのため多くの修験者や聖達が離れて、農村部への布教活動もままならない状態となっている。
③丸亀平野では「宗教的空白地帯」が生まれている。
④これは我々にとっては大きなチャンスである。丸亀平野を真言から「南無阿弥陀仏」念仏に塗り替えるときがやってきた。
⑤我々の新天地は、丸亀平野に在り! 丸亀平野が我々の西方浄土である!
⑥この仏の与えたチャンスをいかすために、我々の教宣活動の中心を丸亀に向ける
このような戦略が16世紀前半には立てられ、それが実行に移され浄土真宗寺院の数が増え出すのが16世紀半以後と私は考えています。

 一方このような浄土真宗の拡大に危機感を持った真言僧侶もいたはずです。
その一人が西長尾城の城主の弟とされる宥雅です。彼は善通寺で修行を重ねていましたが、長尾氏の勢力下でも増え続ける照度真宗のお寺や道場、真宗僧侶の布教活動のようすを見て脅威や危機感を感じていたののではないでしょうか。その対応策として考えたのが、松尾寺の守護神として新たな流行神である「金毘羅神」を祀るということでした。私は金毘羅神は、丸亀平野での真宗拡大に対する真言側の対応の一つ出ないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号
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