瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の石造物

香川の石切場分布図
讃岐の中世石切場
讃岐には中世には、凝灰岩の石切場が各地区に分散してあり、それぞれが石造物を生産していたことがこの分布図からは分かります。この中で有力なのは、東讃の火山と、西讃の弥谷寺・天霧山でした。
  讃岐の中世石造物については、以前に次のように要約しました。
①第一段階に、火山系凝灰岩で造られた石造物が現れ、
②第二段階に、白峰寺や宇多津の「スポット限定」で関西系石工によって造られた花崗岩製石造物が登場し
③最後に、弥谷寺の石工による天霧石製の石造物が登場すること
④天霧石製石造物は、関西系の作品を模倣して技術革新を行い、急速に市場を拡大したこと
⑤その結果、中世末には白峯寺の石造物のほとんどを天霧系のものが占めるようになり、火山産や花崗岩産は姿を消したこと
天霧・火山石造物分布図
天霧系・火山系・花崗岩製石造物の分布図
 
上の鎌倉・南北朝時代の分布図からは、天霧系と火山系の石造物が讃岐を東西に分ける形で市場占有していたことが分かります。その中で、五色台の白峰寺周辺には、櫃石島で作られた花崗岩系の石造物が集中しています。この背景については、以前に次のようにまとめました。
①白峯寺周辺の花崗岩製石造物の石材は、櫃石島の石が使われていること、
②白峯寺十三重塔(東塔)などの層塔は、櫃石島に関西からの何系統かの石工たちが連れてこられて、製作を担当したこと
④櫃石島の石工集団は近江、京、大和の石工の融合による新たな編成集団で、その後も定着し活動を続けたこと。
④櫃石島に新たな石造物工房を立ち上げたのは、律宗西大寺が第1候補として考えられる。そのため傘下の寺院だけに、作品を提供した。そのひとつが白峰寺であった。
  このようにしてみると、中世の讃岐の石造物制作の中心は、天霧山・火山・櫃石島の3つで、その中に豊島石は、含まれていなかったことが分かります。それでは、豊島系石工達の活動は、いつからなのでしょうか?県内で年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔
②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)
②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらの五輪塔には、火輪に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は判断します。豊島石工の活動開始は15世紀半ば頃のようです。しかも、その製品の供給先は高松周辺に限られた狭いエリアでした。それが17世紀前半になると、一気に讃岐一円に市場を広げ、天霧石の石造物を駆逐していくようになります。その原動力になっていくのが17世紀になって登場する「豊島型五輪塔」です。これについては、前回にお話ししたので詳しくは述べませんが、要約すると次のようになります。
①豊島型五輪塔は、今までになく大型化したものが突然に現れること
②それはそれまでの豊島で作られてきた五輪塔の系譜上にはないこと、
③それは天霧系五輪塔を模したものを、生駒氏に依頼されて作成したために出現した

豊島型五輪塔の編年表と各時期の分布図を照らし合わせながら見ていきます。
豊島型五輪塔編年図
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期(17世紀)
Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ(17世紀後半)
Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程(18世紀)
Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、(18世紀後半)

豊島型五輪塔の分布的特徴を見ていくことにします。
豊島型五輪塔分布図
豊島型五輪塔Ⅰ期分布図
1期の分布を図を見て分かることは次の通りです。
①西は琴平町、東は白鳥町にかけて広域的に分布する
②東讃に集中し、三豊地域や丸亀平野には少ない
Ⅰ期に豊島型五輪塔が香川県西部に広がらなかったのは,どうしてなのでしょうか?
それは西讃にはライバルの石工達がいたからだと研究者は指摘します。天霧石を使う「碑殿型五輪塔」を制作する石工集団です。戦国末の戦乱で西讃守護代の香川氏が滅亡した際に、弥谷寺の石工達も四散したようです。近世になって、生駒氏が藩主としてやってきて、弥谷寺を菩提寺として保護するようになると、新たに天霧山東山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新たな石切場を開かせたようです。そして、生駒氏の求めに応じて石造物を提供するようになります。その代表作品が弥谷寺の生駒氏の巨大な五輪塔です。こうして香川県西部では、天霧石を使った近世五輪塔が今でも、多度津町、善通寺市、琴平町、豊中町などに数多く分布しています。これらの石材は、天霧山東麓の善通寺市碑殿か、高瀬町の七宝山の石材が使われたと研究者は指摘します。
碑殿型五輪塔も紀年銘がないものが多くて造立年がよく分かりません。そのため年代確認が難しいのでが、次の点から17世紀の作品と研究者は推測します。

碑殿型五輪塔
          碑殿型五輪塔(天霧石)
①火輪の形態から弥谷寺にある17世紀初頭の生駒親正墓の系統上にあること
②この頃に多く現れるソロバン玉形をした水輪の形
つまり、17世紀初頭には、碑殿型五輪塔が西讃地方の五輪塔市場を押さえていたために、競合関係にあった豊島型五輪塔は西讃への「市場参入」が阻まれたという説です。豊島型五輪塔が西讃市場に入っていくのは、碑殿五輪塔が衰退した後のⅡ期以後になります。

生駒親正夫妻墓所 | 香川県 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)
弘憲寺生駒親正の墓
 火輪の形態からは碑殿型五輪塔の系譜は、弘憲寺生駒親正の墓が想定されます。
生駒親正の墓 | あー民のブログ

一方、豊島型五輪塔は志度寺生駒親正墓が想定できます。両者ともに生駒家関係の五輪塔になります。ここにも豊島五輪塔の出現には、生駒氏の関与がうかがえます。
豊島型五輪塔系譜
豊島五輪塔の系譜

豊島型五輪塔のⅡ期の分布図を見ておきましょう。

豊島型五輪塔分布図3
①分布の中心は東讃にあるが、高松地区や三豊地区にも拡大。
②一方で、Ⅰ期に比べると造立数は大幅に減少。
②丸亀平野には、見られない。
特に高松市の姥ケ池墓地では、Ⅱ期になると造立数は激減し、Ⅲ期にはなくなってしまいます。 この衰退背景には、何が考えられるのでしょうか?

近世の墓標
近世墓標の型式

それは花崗岩製の墓標の登場です。
姥ケ池墓地の墓標では、花崗岩製墓標は1640年代から確認され、60年代年代になると数を増します。そして、元禄期の1690年代には一般的に普及するようになります。こうして、18世紀には石材は、ほとんど花崗岩が用いられるようになり、豊島石の墓標は1割程度になります。つまり、この時期に五輪塔から墓標へ、豊島石から花崗岩へと主役が交代したのです。高松市法然寺の松平家墓所には多くの近世五輪塔がありますが、これらは全て花崗岩だと報告されています。
 18世紀のⅢ期の終わりになると豊島五輪塔は、豊島の外には提供されることはなくなります。
   島外に提供された最後の製品とされるのが、長尾町の極楽寺歴代住職墓地と寒川町蓮井家墓地に10基ほどの豊島製五輪塔です。一方でこの墓地には、花崗岩製の墓石も多く立っています。ここにも豊島製五輪塔から花崗岩製の墓石への転換がみえます。
 極楽寺歴代住職墓では、44世宗栄の墓は豊島型五輪塔です。しかし、49世堅確(1737年没)以後の墓は花崗岩製の五輪塔に替わっています。ここからは、豊島型五輪塔が使われたのは18世紀前半までで、それから後は花崗岩製の五輪塔になったことがうかがえます。
 蓮井家墓地を見ておきましょう。
蓮井家は1568年に土佐から讃岐に移り、寒川町の現在地に住んで、江戸時代には大庄屋を務めていた大富農です。蓮井家墓地は11基の豊島型五輪塔があります。家系図と照らし合わせると初代元綱(1603没)から4代家重(1711年没)までは、それぞれの墓標は見つからないようです。墓標があるのは、5代章長(1732)年没、6代孝勝(1768年没)の墓からで、これには砂岩製の宝筐印塔が使われています。7代孝澄(1816年没)以降は砂岩製の墓標になります。ここからは、墓石の見つからない初代から4代までは豊島型五輪塔が用いられた可能性があると研究者は考えています。
 蓮井家墓地の墓石変遷は、極楽寺住職墓と同じように次のようになります。
16世紀前半までは豊島型五輪塔
18世紀中頃からは砂岩製の宝筐印塔
19世紀からは砂岩製の墓標
 長尾町と寒川町のふたつの墓地からは18世紀前半に豊島型五輪塔から花崗岩か砂岩の墓石への変化があったことが分かります。そして18世紀中頃以降は、花崗岩よりも安価な砂岩の普及によって、豊島型五輪塔の販路は絶たれるようです。 そしてⅣ期になると、島外からの注文がなくなった豊島型五輪塔は、豊島内にだけのために作られます。しかし、豊島の石工達は五輪塔や燈籠の製作からは手を引きますが、その他の新製品を開発して販路を確保していきます。

豊島の加工場左
「日本山海名産名物図会」に紹介されている豊島の作業場
 その様子が「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の作業場の姿なのです。ここでは「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」の石造物が作られています。そして燈籠③は一基だけです。五輪塔や燈籠生産から日常生活関連の石造物生産に営業方針を切り替えて生き残っていたのです。
以上をまとめておきます
①中世の墓石として、畿内は花崗岩製、阿波や土佐は板碑や自然石塔婆が用いられたが、讃岐では墓石として凝灰岩の五輪塔が主に用いられた。
②特に東讃の火山石と西讃の天霧石製が代表的な五輪塔であった
③その中で、生駒氏の保護を受けた天霧石の石切場が新たに牛額寺奥の院に開かれ活動を開始した
④そこでは生駒氏の求めに応じて巨大化したものが作成されるようになった。
⑤高松に作られた生駒氏関係の五輪塔を任された豊島系石工たちは天霧山の五輪塔を参考に、大型の五輪塔を造り出すようになった。これが豊島型五輪塔である。
⑥豊島型五輪塔の最盛期は17世紀で、この時期は墓標の出現期と重なり、墓制史において重要な画期であること
⑦17世紀中頃から五輪塔に替わって墓標が登場するが、それは花崗岩を用いたものだった。讃岐で最初の墓石は、花崗岩製だった。
こうしてみると、豊島型五輪塔とは中世以来の凝灰岩を用いた讃岐の伝統の中で、最終期に登場したものと云えるようです。凝灰岩の使用を中世的様相、花崗岩の使用を近世的と色分けするなら、中世的様相の最終場面での登場ということになります。

最後に墓制史として墓域(墓地)との関わりを見ておきましょう。
①豊島型五輪塔は、多くが墓地の中に建っている。
②中世五輪塔は、今では墓地機能を失った所に残されていることが多い。
これをどう考えればいいのでしょうか
高松市の神内家墓地では、中世段階の墓域と近世以降の墓域では場所が違います。豊島型五輪塔は、近世以降の墓域の中に建てられています。さらに二川・龍満家の墓地では豊島型五輪塔を中心にして、次世代の近世墓標が形成されています。ここからは豊島型五輪塔が近世墓地の形成の出発点の役割を果たしていると研究者は指摘します。そういう意味では、豊島型五輪塔は中世的性格と、近世的性格を併せて持つ過渡期の五輪塔とも云えます。
 そして、中世五輪塔とくらべるとはるかに大きく大型化します。その背景には五輪塔が個人や集団のシンボルとして受け止める墓への観念の変化があったようです。さらに、刻銘が重視される墓標の出現に向かうことになります。現在の墓標が登場する前の最後の五輪塔の形が東讃岐では、豊島型五輪塔だったとしておきます
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
    松田朝由 豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年
     東かがわ市歴史探究ホームページ     香川県の中世石造物の石材

15・16世紀には、瀬戸内海に多くの石造物を供給していた弥谷寺石工たちは、17世紀になると急速に衰退していきます。その背景には、軟らかい凝灰岩から硬い花崗岩への石材変化があったことを以前にお話ししました。もうひとつの原因は、ライバルとしての豊島の石工集団の成長があったようです。今回は、豊島石工たちがどのように成長し、弥谷寺石工達から市場を奪っていったのかを見ていくことにします。テキストは「松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」です。

豊島の加工場左
豊島の石工作業場(日本山海名産名物図会)
前回は「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の石切場と石造物について見ました。豊島石製品として「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」とありました。さまざまな石造物が制作されているのですが、燈籠や五輪塔については触れられていませんし、挿絵にも燈籠③が一基描かれているだけでした。この図会が出版された18世紀末になると、豊島でも五輪塔の生産は、終わっていたようです。
豊島石の五輪塔は近世(江戸時代)になると、形を大きく変化させ独特の形状になります。これを豊島型五輪塔と呼んでいます。豊島型五輪塔は香川県、岡山県の広域に流通するようになり、それまでの天霧石の石造物から市場を奪っていきます。

豊島型五輪塔2
豊島型五輪塔

豊島型五輪塔の特徴を、研究者は次のように指摘します
①備讃瀬戸を跨いで香川、岡山の両県に分布する
②中世五輪塔と比較すると、他よりも大型である
③宝医印塔の馬耳状突起に似た突起をもつ特異な火輪が特徴である
②風輪と空輪が別石で構成される
④少数ではあるが正面に方形状の孔を穿った地輪がある、
⑤地輪の下に台石をおく
⑥塔内部が彫られて空洞になっている

具体的な検討は省略し、形態変遷から明らかとなった点だけを挙げます。
豊島型五輪塔編年図
豊島型五輪塔編年図
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期
Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ
Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程
Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、
それではⅠ期の「豊島の五輪塔の最盛期」とは、いつ頃なのでしょうか。
豊島型五輪塔が、出現した時期をまずは押さえます。造立年代が推定される豊島産の石造物は24例で、高松以東が14例、高松から西が10例になるようです。各世紀毎に見ると次の通りです。
15世紀段階では、高松以東では豊島石が2例、豊島石以外が4例で、豊島石が多いとはいえない。この時代の石材の多くは「白粉石」と呼ばれる火山の凝灰岩で、スタイルも豊島型五輪塔独特の要素はまだ見られず、その萌芽らしきものだけです。
16世紀 3例中の2例が豊島石。形態は地蔵と板碑。
17世紀初頭 生駒家当主の墓は超大型五輪塔でつくられるが、石材は豊島石ではなく、天霧石が使われている。
一方、高松から西の地域の状況は次の通りです。
15世紀 豊島石石造物は見つかっていない。
16世紀 6例あるも、豊島石ではなく在地の凝灰岩。
17世紀初頭 在地の凝灰岩使用

次に豊島石の搬出開始時期について見ていくことにします。
香川県内において年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔
②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)
②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらは五輪塔に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は推測します。ここからは、豊島型五輪塔が作られるようになる約150年前から豊島石の搬出は、行われていたことが分かります。
つまり、豊島石工集団の活動は15世紀中頃までは遡れることになります。
五輪塔 火輪変化
火輪のそりの変化による年代判定
それでは、中世後半段階に豊島石石造物は、県内でどの程度拡がっていたのでしょうか。
高松市中山町の原荒神五輪塔群
高松市香西の善光寺五輪塔群
芝山五輪塔群
宇佐神社五輪塔群で数基
屋島寺や下田井町、木太町など
ここからはその流通エリアは高松市内に限られることがうかがえます。木田郡から東は火山石など凝灰石を用いた石造物が多く、豊島石はほとんどありません。また、高松市から西にも、豊島石はみられず、天霧石など凝灰岩がほとんどです。
 かつては、豊島石は天霧石によく似ていて、その違いは「豊島石は礫の大きさが均一で、黒く、白色の礫である長石が目立つ点」です。また、「日本山海名産名物図会」に「讃岐の石材はほとんどが豊島石」と記されたために、天霧石の存在が忘れられていた時期があります。そのため白峰寺の十三重塔(西塔)も、豊島石とされてきたことがありました。しかし、その後の調査で豊島石ではなく、天霧石であることが分かっています。今では、香川県西部に豊島石石造物はないと研究者は考えています。
  ここでは、次のことを押さえておきます。
  ①中世後半段階において豊島石は高松市を中心とした局地的な分布であり、それ以外の地域への供給はなかったこと。
  ②高松市内においても、弥谷・天霧山からの凝灰岩が多数派で、豊島石は少数派であったこと。
豊島石は高松地域のみで使用されていたようです。

白峯寺 讃岐石造物分布図
天霧系・火山系石造物の分布図(中世前期に豊島石は存在しない)

次に生駒3代当主と豊島型五輪塔との関わりを見ていくことにします。
 高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
法泉寺生駒氏廟
この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。
龍松山 法泉寺 : ひとりごと
        生駒一正と三代・生駒正俊の五輪塔
これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。
まず2代目一正の五輪塔から見ていきます。
彼はは1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。

讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
生駒家二代生駒一正(左)と三代・生駒正俊の五輪塔(右)
火輪は豊島型五輪塔の形態で、空輪、風輪もその特徴を示します。ところが空輪や水輪のスタイルは、豊島型五輪塔とはちがう要素です。同じ水輪スタイルとしては、仁尾町金光寺にある細川頼弘墓を研究者は挙げます。細川頼弘は1579年に亡くなっているので、一正の五輪塔の水輪の特徴は、16世紀の時代的な特徴とも考えられます。
 このように一正の五輪塔は、全体的には豊島型五輪塔と云ってもいい属性を持っています。ところが問題は、石材が豊島石ではないのです。この石材は、天霧山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新しく開かれた石切場から切り出されたものであることが分かっています。これをどう考えればいいのでしょうか?

次に隣の生駒正俊(1621年没) の五輪塔を見ておきましょう。
 火輪は、一正五輪塔と同じ豊島型五輪塔のスタイルです。空輪、風輪も豊島型五輪塔の属性をもちます。全体的に、一正の五輪塔よりも、より豊島型五輪塔の特徴を備えているようです。しかし、この正俊塔も石材は豊島石ではなく、碑殿町の天霧石が使われています。
このように宝泉寺生駒廟のふたつの五輪塔は、豊島型五輪塔Ⅰ期古段階に位置付けることができます。しかし、台石がないことと、石材が豊島石でないという問題点があります。
 生駒家当主の墓のスタイル変遷から見ると、次の系譜の先に豊島型五輪塔が姿を見せると研究者は考えているようです。

①志度寺の生駒親正墓→ ②法泉寺の生駒一正供養塔 → 
③法泉寺の生駒正俊供養塔

これら生駒家の五輪塔は、今見てきたように形は豊島型ですが、石材はすべて天霧山からの採石です。

研究者が注目するのは、四国霊場弥谷寺(三豊市三野町)にある2代生駒一正の五輪塔です。
生駒一正五輪塔 弥谷寺
生駒一正五輪塔(弥谷寺)
弥谷寺は、生駒一正によって菩提寺とされ再興された寺院です。そして天霧石の採石場が境内にありました。弥谷寺と、生駒家には深い関わりがあったのです。
弥谷山と天霧山の関係については、以前に次のようにまとめました。    
①弥谷寺は、西讃岐守護代だった香川氏の菩提寺で、その五輪塔創立のために採石場があり、石工集団がいた。
②弥谷寺境内には、凝灰岩の露頭や転石に刻まれた磨崖五輪塔が多数あること
③弥谷山産の天霧石五輪塔は、県内を越えて瀬戸内海全域に供給されたこと
④長宗我部元親の讃岐占領、その後の秀吉の四国平定で、香川氏が没落して弥谷寺も一時的に衰退したこと
⑤讃岐藩主となった生駒氏の菩提寺として、弥谷寺は復興したこと。そこに、超大型の五輪塔が藩主墓碑として造立されたこと。
⑥その際に弥谷寺採石場に替わって、天霧山東側の牛額寺奥の院に新たに採石場がつくられたこと
こうして天霧山周辺には、弥谷寺境内と、牛額寺奥の院というふたつの採石場ができます。
弥谷寺磨崖五輪塔と、牛額寺奥の院の磨崖五輪塔を比べると、次のような相違点が見られます。
①火輪の軒隅が突出している
②空輪が大型化している
③水輪が扁平化している
特に①②は近世的変化点で、違いの要因は時期差であると研究者は考えます。つまり、磨崖五輪塔は「弥谷山(弥谷寺) → 天霧山(牛角寺)」への変遷が推測できます。ここからも、牛額寺奥の院が新たに拓かれた採石場であることが裏付けられます。
 どうして、時期差が現れたのでしょうか           
 採石活動の拠点が、弥谷山から天霧山へ移ったと研究者は考えています。中世には採石は、弥谷山でも天霧山でも行われていたようです。しかし、最初に採石が行われるようになったのは、弥谷山でした。それは、磨崖五輪塔が弥谷寺本堂周辺に集中していることから推測できます。弥谷山には、天霧城主で西讃守護代とされる香川家の歴代墓が今も残っています。弥谷寺は香川氏の菩提寺でもありました。ここからは、香川氏など有力者に提供する五輪塔製作のために、周辺で採石が行われていたことが考えられます。それが次第に販路を広げていくことになります。一方、天霧山は天霧山がある山で、城郭的性格が強く採石場としては弥谷山よりも規模は小さかったと研究者は考えます。
 こうした中、16世紀後葉の阿波三好氏の来襲によって、香川氏は一時的に天霧城退場を余儀なくされています。この時に、菩提寺の弥谷寺も荒廃したようです。戦国末期の混乱と、保護者である香川氏をなくして弥谷寺は荒廃します。それを再興したのが生駒家二代目の一正で、「剣御山弥谷寺略縁起」には、次のように記されています。

『武将生駒氏、当国を鎮ずる時、当時の廃絶ぶりを見て悲願しに勝ず、四隣の山峰を界て、当寺の進退とし玉ひ、住侶別名再興の願を企てより以来、吾先師に至て中興暫成といへども、住古に及ぶ事能はず』(香川叢書第一)

意訳変換しておくと

『生駒氏が当国を支配することになった時、当寺の廃絶ぶりを見て復興を決意して、周囲の山峰の境を決めて、当寺の寺領を定めた。僧侶たちも再興の願の元に一致協力し、先師の時代に中興は、あらかた成った。しかし、かつての隆盛ぶりには及ばない』

  ここからは、生駒一正による再興が行われ、それまでの弥谷寺の景観が一新されたことがうかがえます。信仰の場として弥谷寺の伽藍再整備が進む中で、境内にあった採石場の天霧山東麓への移転が行われたと研究者は考えているようです。逆に言うとそれまでは、弥谷寺境内の中で採石や五輪塔への加工作業が行われていたことになります。 
 その石造物製品は、お参りにきた信者の求めに応じて、彼らの住む地域に「発送」されたかもしれません。また、弥谷寺には多くの高野聖たちや修験者が布教活動の拠点としていました。彼らによって、石造物建立が行われる場合には、弥谷山の採石場に注文が入ったことも考えられます。突っ込んだ言い方をすると、弥谷寺が採石場を管理していたということになります。石工たちも、その経営下にあったとしておきます。
それが近世になって生駒氏による再興の折に、信仰と生産活動の分離が行われ、採石場は天霧山東南麓の碑殿町に移されたという説になります。
七仏薬師堂 吉原 弥谷寺 金毘羅参詣名所図会
吉原大池から望む天霧山(金毘羅参詣名所図会)
これらの材質が天霧山南斜面の牛額寺の奥の院(善通寺市碑殿町)で採石されていることが分かっています。
碑殿町の石材は、地元で「十五丁石」と呼ばれていて、丸亀市本島宮本家墓や善通寺歴代住職墓に使用されていること、それに加えて、超大型五輪塔はすべてが碑殿産(十五丁石)が用いられていることが分かっています。ここからは、中世末に姿を現す超大型の五輪塔が墓観念や姿形からして、豊島型五輪塔と深く関係していると研究者は考えているようです。
 そして超大型五輪塔の出現背景には、藩主生駒家が深く関わっているとする裏付けは次の通りです。
生駒親正夫妻墓、生駒一正供養塔など、超大型五輪塔10基のうちの4基が生駒家のものです。超大型五輪塔ではありませんが高松市法泉寺の生駒廟に安置されている生駒家二代正俊の五輪塔は、スタイルは豊島型五輪塔です。
 ここには、生駒家の関わりがうかがえます。このような生駒家の五輪塔から影響を受けて、登場するのが豊島五輪塔だと研究者は考えています。それは豊島型五輪塔の祖型いうべき要素が、弥谷寺の五輪塔には見られるからです。例として挙げるのが、弥谷寺の磨崖五輪塔には地輪に方形状の孔が穿たれたものがあります。この孔からは、遺骨が確認されています。ここからは五輪塔が納骨施設として使用されていたことがうかがえます。弥谷寺の納骨孔が、豊島型五輪塔の地輪にもある方形状の孔に系譜的につながると研究者は考えています。

以上のように「超大型五輪塔 + 生駒家歴代当主墓」が最初に姿を現す弥谷寺や天霧山の石切場には、豊島型五輪塔の祖形を見ることができます。これらの要素は、中世豊島石の五輪塔にはありません。以上を図示化すると以下のようになります。

豊島型五輪塔系譜
豊島型五輪塔の系譜

豊島型五輪塔の成立背景を、まとめておきます。
①中世豊島石の五輪塔系譜の上に、生駒氏が弥谷寺で作らせた大型五輪塔のインパクがあった
②それを受けて豊島型五輪塔が高松地区で姿を現す
③その際に豊島の石工集団に対して、生駒藩が何らかの「介入・保護」があった
④県内の石切場の終焉と豊島型五輪塔の広域搬出は、時期が一致する。
③④については、「生駒氏という新しい領主による社会秩序形成を目的とした政治的側面」があったと研究者は指摘します。具体的には、生駒氏が政治的にも豊島の石工集団を保護下において、生産流通に特権を与えたということです。
豊島型五輪塔が出現するのは、案外遅くて17世紀初頭になるようです。そして、急速に天霧石の五輪塔を駆逐し、市場を占有していきます。こうして天霧山の石造物は忘れ去られ、近代にはそれが豊島産と誤解されるようになっていきます。

以上をまとめておくと
①14・5世紀には、弥谷寺石工達が瀬戸内海各地に石造物を提供するなど活発な生産活動を行っていた
②その背後には、西讃守護代としての香川氏の保護があった。
③16世紀末の長宗我部元親の侵攻と、秀吉の四国平定の戦乱の中で香川氏は滅亡し、弥谷寺も衰退する
④それを救ったのが生駒氏で、弥谷寺を菩提寺としてそこに超大型の五輪塔を造立する。
⑤生駒氏は天霧山東麓の牛額寺奥の院に新たに採石場を設けて、高松に天霧石を供給させる。
⑥その際に、加工を命じられたのが豊島石工で、天霧石を使った豊島型五輪塔が高松に登場する。⑦それまで高松地区にだけに石造物を提供するだけだった豊島石工集団は、生駒氏の保護育成を受けて、天霧石石造物を駆逐する形で、瀬戸内海への流通エリアを拡大していく。
⑧しかし、それも長くは続かずに花崗岩産の石造物へと好みが変化すると、豊島石工達は豊島石の特長を活かして、石カマドや、石筒、火鉢などの製品開発を行うようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」
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弥谷寺の墓標

前回の弥谷寺境内の作られた年紀が入っている石造物数の推移グラフをを、もう一度見てみましょう。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
         弥谷寺の石造物数の推移グラフ
①1651年に最初の紀年名石造物である丸亀藩藩主の山崎志摩守祖母の五輪塔が本堂横に設置される。
②弥谷寺の紀年名石造物の多くは墓標で、地蔵刻出の占める割合が多い。
③その推移は18世紀初頭から急増し、世紀中頃にピークを迎える。
④石造物数は、1761年~70年に半減じ、その後持ち返すが19世紀中頃には激減する。
1830年代以後になると墓標以外に石造物が設置されることはなくなっていきます。
しかし、これは弥谷寺だけの動きのようです。讃岐全体の展開では、1830年代以降に墓標の大型化と多量造立という墓標の最盛期を迎えます。墓標正面に俗名や先祖代々の銘を刻む事例が増加し、一方で梵字や地蔵刻出墓標下部の蓮華坐は省略されていくようになります。墓標に「墓」の字が多くなるのもこの頃です。墓標が家の記念碑的なもへと変化していく時期です。墓標の大型化とともに戒名における院号・居士号の増加、葬式の大規模化などが見られるようになります。そのため天保2年(1831)には幕府によって墓石の大きさを制限するなどの禁令が出されるほどでした。一般的には、「墓標の増加・大型化」という動きの中で、弥谷寺では、1830年代以後に激減していきます。これはどうしてなのでしょうか?

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弥谷寺の墓標
 前回見たようにV期に、数多くの弥谷寺を建てていたのは弥谷寺周辺の人々でした。そこで、研究者は弥谷寺周辺地域の大門、久保谷、国広、西大見、浅津、田所、落合、大屋敷、南原等14ヶ所の共同墓地の墓標の展開を調査します。その対象は1910年までの823基に及んだようです。
次の表21は上が弥谷寺境内の石造物の推移、下が弥谷寺周辺共同墓地の墓標の推移です。
弥谷寺
弥谷寺境内の石造物と周辺集落の共同墓地の墓標推移表

このグラフからは次のようなことが分かります。
①弥谷寺の石造物造立が減少と反比例するように共同墓地の墓標造立が著しく増加していること
②共同墓地に墓標が現れるのは1680年代
③弥谷寺においても1680年代以降に墓石は増加していて、寺檀制度確立に伴う墓標造立の開始期であること。
④弥谷寺境内では1760年代までは造立が盛んで、共同墓地14ヶ所の墓標総数よりも多い。
⑤共同墓地の墓標が増加していくのは1770年代からで1830~60年代にピークを迎える。
⑥この時期の共同墓地のピーク時で、弥谷寺の衰退期と重なる。
⑦共同墓地でも1870年代以降になると減少傾向に転じる
⑧この背景には、明治期になると1基の墓標に刻まれる戒名数が増えていて、個人墓標から家墓へ変容したことが推測される。
以上から、弥谷寺境内における墓標衰退と弥谷寺周辺の共同墓地の墓標増加には、密接な関係があったことが分かります。共同墓地にお墓を建てることが一般化して、それまで弥谷寺に建てていた周辺の人々たちも集落周辺の共同墓地にお墓を建てるようになったようです。確かに、弥谷寺境内には近代の墓標はあまり見かけません。
 弥谷寺境内の墓標は1830年以後に数を減らし、立てられなくなります。しかし、位牌を収める風習は忌日過去帳に見る限り大きな変化は見られないようです。
弥谷寺に最も近い四房の共同墓地の調査の結果を、研究者は次のように報告しています。
①四房墓地は、19世紀前半期には天霧石製墓標が多く、20世紀初頭まで天霧石製が使われていたこと
②ここから19世紀になって再び弥谷寺近くて採石が行われるようになった可能性があること。
③明治初めまで石塔を作る石屋が近くに住んでいたという伝承があること。
④19世紀の絵図や記録には、弥谷寺で石造物生産を行っていたような記録ないので、外部で生産された可能性が強いこと。
西大見の共同墓地については
①他の墓地に比べて地蔵刻出墓標が多く、墓標144基の中で84基にあたること。
②戒名から多くは子墓ではなく大人の墓標としての使用されていて、弥谷寺との密接な関係が見られること
③一番古いのは元禄13年(1700)銘で、18世紀段階では49基中42基が地蔵刻出墓標であること
③の時期は、弥谷寺でも地蔵刻出墓標造立の最盛期で、19世紀になると西大見共同墓地でも他の集団墓地とおなじように地蔵刻出墓標以外の墓標が多くなります。ただ、地蔵刻出墓標も少数派になりますが作られ続けます。その後、明治期になると地蔵刻出墓標の割合が減って1880年代以降は一部に留まるようになります。この動きについて、研究者は次のように記します。
「西大見共同墓地からは墓地形成以降18世紀までは弥谷寺墓標の強い影響下にあったが、19世紀になって各地で墓標造立が普及するようになると、次第に各地の墓地と同じように刻出墓標以外の墓標が選択されるようになる。」

 弥谷寺に近い西大見地区では、弥谷寺信仰の影響力が強く、地蔵刻出墓標を選ぶ人たちが多かったのが明治後半になると、弥谷寺の影響力を脱して、一般的な墓標を建てることになっていったようです。

最後にもう一度研究者がまとめた弥谷寺石造物の時期区分を見ておきます。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の中世墓地に弥谷寺内部産の五輪塔の造立
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所にで弥谷寺内部産の石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが活発に造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が活発に造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
弥谷寺での石造物生産活動はI~Ⅳ期で、Ⅳ期には外部産石造物が搬入されるようになり、石工たちはいなくなり、弥谷寺での石造物生産活動は衰退・終焉します。弥谷寺に石造物を建てた階層はⅡ~Ⅳ期では弥谷寺を菩提寺とした香川氏や寺院再興をした生駒氏、墓塔を造立した山崎氏など権力者たちでした。それがⅣ~Ⅵ期になると、寺檀制度の確立に伴い弥谷寺周辺の人々によって墓標造立が始まります。藩主などの権力者がやっていたことを、有力者たちが真似出すのです。 
 Ⅵ期の衰退期の背景としては、弥谷寺周辺の共同墓地に墓標が建てられるようになったからです。弥谷寺よりも自分の住む集団墓地の吸引力の方が強くなったようです。その一方で、Ⅵ期は尾州、備前など讃岐外部の人々が弥谷寺に墓標を建てるようになります。
 最後に研究者が、弥谷寺の特徴としてあげるのが納骨施設と地蔵菩薩です。

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本堂西側の磨崖五輪塔の横の方形孔(弥谷寺)
弥谷寺では納骨施設として、鎌倉時代の磨崖五輪塔に方形孔が開けられ、そこに埋葬されていました。以後に生産される層塔・宝塔・五輪塔も、内部を空洞にして納入孔を設けたものが数多く見られます。また、近世になると水場が納骨処として使われていたことが宝暦11年(1761)の灯籠銘文からうかがえます。
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磨崖の水場
 これまで大日如来や薬師如来とされてきた平安時代末期~鎌倉時代の磨崖仏が、実は地蔵菩薩である可能性を研究者は指摘します
また、弥谷寺産の層塔・宝塔の塔身には地蔵の像容の刻まれたものが多いようです。さらにⅢ期なると、境内各所に地蔵坐像が生産され置かれるようになります。V期には、外部産の地蔵刻出墓標を搬入され造立されています。以上から納骨施設と地蔵さまが弥谷寺の石造物の特徴と研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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