瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の神仏分離


史談会11月 2024年 神仏混淆

比較宗教学という立場からの神仏混淆のお話しも、今回で三回目。いよいよ地元の「身近な例」を使って、神仏混淆から神仏分離への道筋が聞けそうです。時間と興味のある方の来場を歓迎します。場所は、四条公民館です。

C-23-1 (1)

 明治初期に吹き荒れた神仏分離・廃仏毀釈の嵐を、金毘羅大権現は金刀比羅神社に姿を変えることで生き残りました。そこでは、仏閣から、神社への変身が求められました。それに伴って金毘羅大権現の仏像・仏具類も撤去されることになります。仏さん達は、どこへ行ったのでしょうか。全て焼却処分になったという風評もあるようですが、本当なのでしょうか。金毘羅大権現を追い出された仏達の行く方を追って見たいと思います。

  松岡調の見た金毘羅大権現の神仏分離は       
 明治2年(1869)4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現・以後は金刀比羅宮使用)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。

 (前略) 護摩堂、大師堂なとへ行見に、①内にハ檀一つさへなけれハ、ゐてこしヽ老女の涙をおしのこひて、かしこき事よと云たるつらつき、いミしうおかし、かくて本宮へ詣て二拝殿へ上りて拝奉る、御前のやう御撫物のミもとのまヽにて、其外は皆あらたまれり、白木の丸き打敷のやうなる物に、瓶子二なめ置、又平賀のさましたる器に、②鯛二つかへ置て奉れり、さて詣っる人々の中にハ、あハとおほめく者もあれと、己らハ心つかしハそのかミよりは、己こよなくたふとく思へり、
絵馬堂へ行て頚(くび)いたきまて見て、やうように下らんとす、観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像ハとりたる跡へ御簾をかけて、白幣を立置たり
  意訳しておきましょう
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、②鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もあるが、私は、その心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子が見えてきます。仏像仏具に関しては
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任します。
1 金毘羅 狛犬1

さて、撤去された仏像はどうなったのでしょうか。
 取り除かれた仏像・経巻・仏具類は、仏堂廃止とともに境内の一箇所に取りまとめて存置されていたようです。それが動き出すのは、松岡調が金刀比羅宮の禰宜に就任した年になります。明治5年4月に香川県宛に旧金光院時代の仏像の処分について、伺いが出されています。これについては『年々日記』明治五年四月二十四日条に、
二十四日 一日ハ(晴)れす、会計所へものせり、さきに県庁へねき聞へし条々につきて、附札にてゆるされたる事ども
事比羅神社社用之廉々伺書
一 当社内二在之候従来之仏像、御一新後悉皆取除、山麓之蔵中江集置候処、右撥遣(廃棄) 二相成候上者、如何所置可仕哉、焼却二及候而も不苦候哉之事、
      焼却可申事 (○中略)
事比羅神社
  県庁御中
意訳しておくと
当社内に保管する仏像について、維新後に全て取除き、山麓の蔵中へ集めて保管してきました。これらについて廃棄することになった場合は、どのように所置すればよろしいか。焼却してもよそしいか。

この伺いに対する香川県の回答が「焼却可申事」であったようです。ここからは仏像類の処分方法について、金刀比羅宮が事前に香川県の承認をうけていたことが分かります。4月に焼却処分の許可を得た上で、8月4日に仏像類の大部分を焼却したようです。
これだけ見ると「全ての仏像・仏具を焼いた」と思われそうです。実際に、そのように書かれた本や言説もあります。しかし、松岡調の日記を見ると、そうではないことが分かります。

1 金毘羅 狛犬222表

 処分に先立って、松岡調自ら仏像・仏具類を納めた倉庫を検分したり、松崎保とともに社中に残し置くべき仏像などについて、立ち合い検査を行なっています。6月から7月になると『年々日記』に、次のような記述が見られるようになります。
 
五日 (中略)今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり、(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕、読点筆者)

八日 雨ふる、こうきあり、例の時より会計所へものセり、西の宝庫に納たりし雑物を出して塵はらわせり、来る十一日にハ、仏像仏具を始、古きものともをうらんとて置そす、今夜いミしう雨ふる、(以下略)(『年々日記』明治五年〔七月八日条〕)

6月5日には、金毘羅さんのお膝元・榎井村の行泉(興泉)寺が梵鐘を227円50銭で買いつけています。これも、戦中の金属供出で溶かされたのでしょうか、今は興泉寺に、この鐘はないようです
7月8日には、西の倉庫に保管されていた「雑物」を出して奇麗にしたようです。それは仏像仏具を売りに出すための準備であったようです。
 九日 雨はれす、二字(2時)のころやうくはれたり、御守所へ詣てつ、間なく裏谷なる仏像、仏具を納たる倉を見にものセるか、大きなる二層の倉の上にも下にも、かの像ともの古きなる小きなる満々たり、小きこまかなるは焼ハらふも、いとあたらしきワさなれハ、仏ゑと共にうらんとて司庁(社務所)へおくりやる、数多の中に大日仏の像なとは いみしき銅像になん、
(『年々日記』明治五年 〔七月九日条〕)
意訳すると
7月9日 
雨晴れず、2時頃からようやく晴れてきた。御守所へ参拝してから「裏谷」の仏像、仏具を保管している倉を見行く。そこには大きな2層の倉の上にも下にも、古い仏像や小さい仏像などで満ちている。小さい仏像は燃いても、造られたばかりの新しいものは、仏絵と共に売ることにして司庁(社務所)へ運んだ。数多くある中でも大日如来像は、価値のあるもののように見える。       
ここからは、次のような事が分かります。
①「裏谷」にある倉に仏像、仏具を保管してあったこと
②倉の中には、仏像でいっぱいだったこと
③新しい仏像は、仏絵と共に販売するために運び出したこと
④大日如来像はすぐれた作品であると「鑑定」していたこと
明治元年に撤去された仏像たちは、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されていたようです。そして、売れるものは売るという方針だったことがうかがえます。
1 金毘羅 備前焼狛犬1

十日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ 
   (『年々日記』明治五年 【七月十日条】)
     ○
意訳すると
7月10日 明日11日から始まるオークションの準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものである。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

  仏画類については、前日に書院のなげしに掛けて「鑑定」を行って、おおよその価格を事前に決めていたようです。
1 金毘羅1 狛犬11

さて入札当日は、どうだったのでしょうか。
十一日 御守所へものセり、十字のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、
 (『年々日記』明治五年 七月十一日条)
意訳すると 
7月11日 10時ころより、多御守所でセり(入札)が始まり。多くの人がやって来て入札品を見てまわった。しかし、仏像などは鑑定眼がないので、近寄る者はいない。難物や古かねの類の価値のないものはおおから買取り手が見つかった。ある人が言うには、仏像の類は15日が過ぎるまで待ったらどうか。近くの寺々に、この入札会のことを知らせれば、買い手も集まってくるだろう。

十二日 東風つよく吹けり、会計処へものセり(払い下げ)、今日も商人数多ものして、くさくさの物かへり、己ハ柳にて作れる背負の鎧櫃やうのもの、価やすけれハかいつ、よさり佐定御願へものセるに、かたらへる事あり。    
意訳
7月12日 束風が強く吹いた日だった。会計所へ払下品を求めて、今日も商人たちが数多くやってきて、買っていく。自分は、柳で編んだ背負の鎧櫃のようなものを、値段が安いので買った。佐定は御願へもとするのに使うために、相談があった。

仏像・仏具の払い下げが、11日から始まったようです。最初に売れたのは、「難物・古金」のように重さで売れるものだったようです。仏像などは、見る目がないので手を出す者は初日にはいなかったようです。そして、ここでもコレクターとしての血が騒ぐのでしょう、松岡調は「柳で編んだ背負の鎧櫃」を買い求めています。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12
18日 今日も同じ、裏谷の蔵なる仏像を商人のかハんよしをぬきだし、ままに彼所へものさハりなきをえり出して売りたり、数多の商人のセりてかへるさまのいとおかし
 (『年々日記』明治五年 [七月十八日条])

十九日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、(○以下略)『年々日記』明治五年〔七月十九日条〕)
意訳
7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。
     
7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)
1 金毘羅 牛屋口狛犬12

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、大かた売り払った。(『年々日記』明治五年七月二十一日条〕)

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったよです。
二十三日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり
 (『年々日記』明治五年〔七月二十三日条〕)
意訳すると
23日 御守所での競売で、旧万燈堂に安置されていた大日如来像が金600両で売れた。

1 金毘羅 高灯籠1

 二十日 会計所へものせり、去し六月のころ厳島の博覧会にいたセる、神庫物品目録と云を見に、仏像、仏具を数多のセたるより、ワか神宮の仏像の類も古より名くハしき限りハのこし置て、さハる事もなからすと思ふまゝに佐定とかたらひ定て、この程県庁へさし出セし神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録かかせて、明日戸長の県庁へものセんと聞かハ、上等使部山下武雄をやりてかたらひつ、此つひてに志度郷の神宮の宝物、また己かもたる古器をも、いさヽかいつけ(買付けて)てことつけたり、
  (○中略)
 よさり佐定と共に裏谷に隠置(かくしおき)たる物を検査にものセしに、長櫃二つあり。蓋をとりて見に、弘法大師の作といふ聖観音立像、及智証大師の作といへる不動の立像なといミしきもの也、外に毘沙門また二軸の画像なとの事ハ、こヽには記しあへす、今夜矢原正敬かりに宿る。
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])
意訳すると 
会計所での「ものせり(入札)」の日である。昨年6月に安芸の宮島厳島神社の博覧会の時の「神庫物品目録」を目にした。そこには仏像、仏具を数多く載せてある。我が金刀比羅宮の仏像類も古くて価値があるものは残して置いても支障はないと思うようになる。
 佐定と相談して、県庁へ提出した神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録に追加させた。それを明日、琴平の戸長(町長)が県庁(高松)へ出向いて入札すると聞いたので、上等使部山下武雄を使いにやって、志度郷の神宮の宝物、また自分のものとして古器なども、かいつけ(買付けて)を依頼した。
  (○中略)
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。        (『年々日記』明治五年[七月二十日条])
1 JR琴平駅前狛犬

ここからは、次のようなことが分かります。
①宮島厳島神社の目録を見て、価値のある仏具類は残すことが出来ないか考えるようになったこと
②一部は志度の多和神社や自分のものとして、買い付けていたこと。
③裏谷の倉の長櫃から弘法大師や智証大師の作という仏像が出てきた
④その他にも毘沙門天像や軸物など「お宝」でいっぱいだったこと。
⑤矢原正敬を訪れ、今夜はそこに泊まること
ここからは価値のある仏像類は、残そうという姿勢がうかがえます。また、個人蔵とするために、お宝を買い付けていたことが分かります。このあたりに、松岡調のコレクターしての存在がうかがえます。多和神社や多和文庫の中には、金毘羅大権現からやってきたものがあるようです。
  そして、矢原正敬が登場してきます。
「矢原家家記」によると、矢原氏は讃岐の国造神櫛王(かんぐしおう)の子孫を自称し、満濃池再興の際には、弘法大師が先祖の矢原正久(やばらまさひさ)の邸に逗留したと記し、自らを「鵜足郡と那珂郡の南部を開拓し郡司に匹敵する豪族」とします。
 そして、近世になって西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、池の中に出来ていた「池内村」を寄進し、再築に協力したと伝えられます。その功績で、満濃池の池守として存続してきた家です。 矢原正敬はその当主になります。   歴史的な素養もあり、骨董品についても目利きであったようなので松岡調とは、気心があったようです。この日も、夜を明かして、「裏谷の倉」に眠る「お宝」についての話が続いたのかもしれません。

倉の中に保管していた仏像・仏具を、明治五年になって処分しようとしたのはなぜでしょうか。
それは、宥常が進める事業の資金を賄うためであったようです。
明治5年4月,宥常は権中講義に補せられ,布教活動プランを提出するよう教部省から求められます。これに対して、宥常は早速に東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を設置案と提出します。しかし、これには多くの経費が必要となりました。上京していた宥常は、資金調達のため一旦帰国しています。そして、6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まるのです。ここからは、東京での出費を賄うために「仏像・仏具の入札」という方法が採られたと研究者は考えているようです。

 残った仏像類の処分に関しては、次のような記録があります
 葉月三日 四日
   今日第八字ヨリ於裏谷、仏像不残焼却致候事、
   担シ 禰宜、社掌、筆算方 立合ニ罷出候
中略
佐定云、さハりありとて残置し仏像を此八日の頃に皆焼きすてたり、一日の内に事なくハて、灰なとハ何処となく埋めさセたり、ことにをかしき事にハ、たれに聞きつけたるか、其日の日暮れ頃に老いぼれたる老女の二三人、杖にすかりあえき来て、かの仏像を焼たる跡に散りぼひたる灰を、恐ろしきことよとつまミ取て、紙に包ておしいたヽきて帰りしさまと、又仕丁ともの灰をかきよセて埋る時に、眼の玉を5つ六つ7つなと拾ひて、緒しめにせんなと云あへりし事よ、又瓔珞(ようらく)の金具のやけ残りたるを集さセて売しに、金三両にあまれりなと かたれり。
 (『年々日記』明治五年〔八月十八日条〕

意訳すると
8月3・4日 今日8時から裏谷で、仏像を全て焼却した。これには、禰宜、社掌、筆算方は立ち会ていない。(中略)
佐定は次のように話した。
「障りがあると残していた仏像を、皆焼きすてた。一日の内に、無事終えて、灰などは何処となく埋めさせた。印象に残ったことは、誰に聞いたのか、その日の日暮頃に老女が二、三人、杖にすがり喘ぎながら登ってきて、仏像を焼いた跡に散らばる灰を、「恐ろしきことよ」と、拾い集めて、紙に包んで押し頂くように帰って行った姿と、仕丁たちが灰をかき寄せ埋る時に、眼の玉をいくつも拾ひて、緒び締めにしようと言い合っていたことである。
 また瓔珞(ようらく)の金具のやけ残を集めて売ったところ、金三両になったと云うことだ。 
 こうして仏像・仏具類などは売却され、残ったものは焼却処分にされたようです。
ここからは「全てが焼かれた」のではないことが分かります。例えば、最後まで残った大日如来像が金600両で入札されています。松岡調が目を付けていた仏像だけの価値はあったようです。これがどこの寺に収まったのか気になるところです。入札で、買い手が付いた仏像や仏画などは商人の手を経て、どこかの寺に収まったのかもしれません。また、全国ネット取引を通じて、横浜に運ばれ海外に流出したものもあるのかもしれません。それも仏像に「流出先 金毘羅大権現 明治5年競売」とでも書かれていない限りは、探しようがありません。どちらにしても大量の仏像・仏具が、明治初期には市場に出回ったことがうかがえます。
 そして、こうした仏像は「寺勢」のある寺に自然と集まってくるのです。古い仏像があるだけでは、そのお寺の年暦が判断できないのは、こんな背景があるからなのでしょう。
 
禰宜であった松岡調が「宝物」として遺した仏像類も何体かあったようですが、現在残るのは次の二体です。

Kan_non
①伝空海作とされていた十一面観音立像(社伝では正観音といわれており、旧観音堂本尊)重文
1 金刀比羅宮蔵 不動明王

②伝智証大師円珍作とされていた不動明王像
(旧護摩堂本尊)重文
 
備前西大寺には、金毘羅から二体の仏像が「亡命」しています。
これは万福院の宥明(福田万蔵)が、明治3年に岡山の実家角南悦治宅に移したものでした。裏谷の倉の中に保管されていた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したようです。このような例は、これ以外にもあったのではないかと思うのですが、その由来が伝わっているところは、あまりありません。確かに本尊伝来書に
「金毘羅さんで競売された仏を入札したのが現在の本尊」

と書くのは憚られます。それに、似合う物語を創作するのが住職の仕事でしょう。
西大寺の金毘羅大権現の本地仏
西大寺に移された仏像
以上をまとめておくと
①神仏分離で金毘羅大権現の仏像・仏具類は撤去され、裏谷の倉に保管された
②明治5年に、東京虎ノ門の事比羅社内に神道教館を設置することになり資金が必要になった。
③そこで、保管していた仏像・仏具類の入札販売を行うことになった
④6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まり、7月末には売却を終えた。
⑤8月に残ったものを償却処分にした。
ここから多くの仏像は、競売品として売られていたことがうかがえます。それが、いまどこにあるのかは一部を除いてわかりません
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
松原秀明    神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
西牟田 崇生 金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

                                                        


慶応4年(1868)9月に元号を明治と改元、欧米の文化・制度を積極的に取り入れて、明治維新の大変革が始まります。封建制度が崩れて藩境の関所が取り除かれたことは、手形無しでどこでも自由に通行できる時代がやってきたことを意味します。「移動の自由」を庶民が手に入れたのです。ところが、明治前期には遍路の数は減少して一時的に停滞期を迎えます。どうしてでしょうか?
 遍路の動向を知るために、幾つかの札所に残る過去帳から1,345名の遍路を抽出してグラフにまとめたものを見てみましょう
2グラフ1
このグラフからは次のようなことが読み取れます
①18世紀後半から遍路の数は増加傾向を見せ始め
②19世紀前半にピークを迎える
③明治初期には1/3に激減する
 2グラフ12
西国巡礼の数を比較してみると、次のような事が分かります
①天保期の巡礼者の増加率は四国遍路の方が大きい
②明治維新前の政治的混乱で巡礼者は四国は半減、西国は1/4に激減する
③明治になって、西国に回復傾向は見られるが、四国遍路にはみられない。
この2つのグラフから分かることは、明治前期はしばらく停滞の時期が続いていたということです

明治前期の遍路の停滞の要因は何だったのでしょうか?
それは、次の2点のようです。
①神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動による札所の衰退
②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
  今回は①の神仏分離・廃仏毀釈運動が札所に与えたダメージを見ていくことにしましょう。
 遍路行の第一の目的は、言うまでもなく札所において読経・納経し、札を納めることでしょう。いまの寺社ブームも、納経帳と朱印帳がなければ、これほどまでには成長しなかったかもしれません。納経・朱印を目的に多くの若者達が各地の寺社を訪れる時代がやって来ています。もし、その寺社が「明日から朱印は押せないよ」と云われれば、人気寺社を訪れる朱印マニアの人たちはがっかりすると同時に、参拝客も激減することが予想できます。
 明治維新には、そんな状況が現れたと云うことです。
その原因は「廃仏毀釈」です。札所の多くが衰退したり、廃寺となって一時的に消滅してしまったのです。やってきた巡礼者は納経も朱印ももらえません。神仏分離については、以前にお話ししましたので簡略に記しておきます
①外来宗教である仏教と日本固有の神に対する信仰を調和・合体させる神仏習合が進んだ
②この正当化のために、神はもともとは仏であって衆生を救うために仮に神の姿で日本に出現したという本地垂迹説が広がった。例えば、天照大神の正体(本地)は、実は大日如来だとされた。
③この結果、神を祭る神官よりも仏をいただく僧侶の方の立場が強くなる。
④こうして江戸時代には、幕藩体制と結びついた寺院が、別当寺・神宮司など呼ばれ神社の管理を行っていた。僧侶が神社を管理していた。
 ところが、幕藩体制の崩壊・明治政府の成立とともに一変します。明治政府は近代国家の出発に際して、王政復古・祭政一致の方針を取り、天皇の神権的権威のもとに神道の国教化を掲げます。
その最初の政策が「神仏分離」だったのです。
 まず、神社にいた別当や社僧としての僧侶を認めません。
彼らの還俗と僧位僧官の返上を求めたのです。これに真っ先に答えたのが奈良の興福寺の僧侶達です。一斉に春日大社の神職に変身します。うち捨てられた興福寺は、廃寺のような存在となって荒れ果てていたことは有名です。
 これに続いて、讃岐の金毘羅大権現の社僧も神官になり、琴平神社と名前を改め、大権現は追放します。このように僧侶達が雪崩を打って神官になった結果、神宮寺などは廃寺になる所が数多く現れたのです。
土佐で神社が札所だった所は?
元禄2年(1689)に刊行された寂本の『四国偏礼霊場記』には、札所として「仁井田五社」「石清水八幡宮」「琴弾八幡宮」など神社名が記されています。また近藤喜博氏は、神仏習合的色合いの濃かった札所として、一番・二十七番・三十番・三十七番・四十一番・五十五番・五十七番・六十番・六十四番・六十八番の10か所を挙げています。これらの札所は神仏分離で、今までは神社とその別当寺が一体化していたのが分離されます。そして、寺院である別当寺が正式な札所なります。例えば
①土佐の仁井田五社は、別当寺である岩本寺が三十七番札所となり、
②伊予清水八幡宮については別当をつとめる山麓の寺が栄福寺として五十七番の札所へ
③讃岐の琴弾八幡宮は、別当寺の神恵院が六十八番札所へ
こうして現在のような、八十八ヶ所の札所が全ては寺院で構成されるようになります。それでは高知と愛媛の状況を見てみましょう。

  廃仏毀釈の展開と札所 高知県の場合
土佐藩は、比較的規模の大きな寺院は檀家が少なく、藩主の保護のもとで広い寺領を持っていました。大きな寺は庶民的性格を持っていなかったのです。四国遍路の札所でも、堂塔が壊れたりすると、檀家である藩主の手によって修理が行われています。
 ところが維新後、高知藩の「社寺係」となった国学者北川茂長は、きわめて強力な廃仏政策をとります。まず明治3年(1870)に廃仏的意図を持って、寺院から土地山林を没収し、僧侶の還俗を要請する布告を出します。さらに旧藩主山内家自身が、それまでの仏葬祭をすべて神葬祭に変更するのです。山内家の菩提寺として寺領100石を有していた真如寺は還俗し、神官として教導職をつとめるようになります。殿様の菩提寺が廃寺になります。
 これを見て士族のほとんどが神葬祭に転向し、庶民に対しても神葬祭が勧められます。真如寺の跡地は神式葬祭場になってしまします。このような風潮の中で廃絶する寺院が続出し、土佐国内の寺院総数615の約3/4にあたる439寺が廃寺になるのです。
 四国遍路の札所については、土佐16か寺中、津照寺、大日寺、善楽寺、種間寺、清瀧寺、延光寺の7か寺から廃寺の届出が出されます。届け出のない札所も、実質的には廃寺に近いものもだったようです。
明治4年に高知藩では、神葬祭を広め、あわせて廃寺となって失業した僧侶を救済するために、彼らを「神葬祭式取扱」に任命して神葬祭を行わせています。しかし、翌年5年9月には一斉に罷免しています。これについて、ある研究者は次のように記しています。
「華々しく(?)開始された神葬祭式も、たいして効果があがらず、この時をもって終止符がうたれたと考えたい。」
このころから高知県における廃仏の動きは収束していったようです。どちらにしても神仏分離の展開で、札所の寺院が廃寺状態で機能しなくなっていたのは事実のようです。
 明治11(1878)になって島根県から来た遍路の小須賀おもとの納経帳を見ると、そこには二十五番「旧津寺」、三十五番「旧清瀧寺」とあるので、まだこれらの寺が廃寺のままであったことが分かります。三十三番は高福寺(雪蹊寺の古称)となっていますが、ここも廃寺同然になっていたようで、納経事務を竹林寺で代行しています。
 これら寺院の名称が復活していくのは明治10年代以降です。
①雪蹊寺は明治12年、
②種間寺・清滝寺は明治13年に
③岩本寺も明治22年(1889)
に一応の復興にこぎ着けたようです。

讃岐の七十六番金倉寺で、このころ広がった霊験話を紹介しましょう。
明治10年に、不自由な両足で四国遍路を回っていた男が讃岐の金蔵寺で、突然に足が直り、立って歩けるようになります。この男は、和歌山県の北岡増次で、その霊験話はたちまち四国各地に広まります。その後も彼は遍路を続け、四国中の善根宿などで歓待を受けます。その彼が翌年に金蔵寺に送った手紙には、善根宿は土佐が最も熱心なことや、土佐では位牌を焼き捨ててなくなった家が多いので仏法のありがたさを説いて位牌を作り、私戒名を授けたことなどが記されています。
ここからも、過激な廃仏毀釈の熱狂が冷めた後の土佐の反動がうかがえます。しかし、廃物の動きが収まった後も、その傷跡はかなり後の時代まで残ったようです。
例えば、明治40年,室戸岬の最御崎寺を訪れ滞在した小林雨峯は、この寺の衰退ぶりを嘆いて、日記に次のように書き残しています。
其の僧坊伽藍の荒廃衰残の状 大抵の人は皆慨嘆の声を洩らすのが普通である。(中略)
荒廃せる坊中にあつて再興のためによく種々の困難に凌ぎつつある住僧の辛抱強きには驚嘆せざるを得ないんだ。風吹き雨降りし一日、雨滴は本尊前の縁板を流れて居る。予の臥つて居る室の一角の天井板は全く傾いてしまって、それを仰臥して見つめて居ると、将に落ちんとする状がある。
杉の帯戸の向かひの座敷は全く跡形なく荒廃し戸を開く事も出来ぬ始末である。日本有数の霊場と日本有数の廃坊を余は室戸崎に於て見るのである。」
廃仏の嵐が過ぎ去っても、寺院の復興は一朝一夕にできなかったことが分かります。明治の時代を通じ、各札所で経済的に厳しい状況が続いていたのです。
 平成の時代になってようやく解決に至った「三十番札所の問題」
これも神仏分離・廃仏毀釈がおおもとの原因でした。江戸時代に出版された遍路関係の著作物によると、もともと三十番札所は「土佐国の一宮」、すなわち高鴨大明神社(現在の土佐神社)でした。その別当寺として神宮寺と長福寺(善楽寺)があったようです。ところが神仏分離で、まず神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とする措置がとられます。そのため、ふたつあった別当寺が両方ともなくなってしまいました。
 そこで善楽寺の本尊は二十九番国分寺に合祀され、三十番の納経は国分寺で兼ねることになったのです。ところが明治9年(1876)に安楽寺(高知市洞ヶ島町)が旧善楽寺の本尊を国分寺から移して、ここを三十番の札所とします。
 昭和になると一宮村の有志連中が旧善楽寺跡に善楽寺(高知市一宮)を再興して三十番札所とします。その結果、ふたつの三十番札所が並立することになってしまいました。こうして、両寺の間で三十番札所をめぐる争いが起こり、長い間、高知を訪れる多くの遍路を迷わせてきたのす。この問題はが解決したのは、平成の代になってからでした。三十番札所は善楽寺、安楽寺はその奥の院ということで決着したようです。

 愛媛県の状況   明治初期の札所の経済的な困窮
愛媛県における神仏分離・廃仏毀釈の動きは土佐に比べるとはるかに穏健に進められました。しかし、六十二番宝寿寺のように檀家を持ちながら一宮神社と分離後に廃寺とされ、明治10年になって再興されたという札所もあります。
 ここでは明治期の札所を経済的な側面から見てみましょう
 上知令によって寺領は没収され、札所を経済的困窮に追い込まれます。例えば上知については、明治4年(1871)に
「社寺領現在ノ境内ヲ除くノ外一般土地 上知セシツ…」
という命令が出されます。さらに、地租改正の際には境内付属地までを含めた上知が命令されます。明治4年の旧松山藩領寺院の上知記録を見ると、寺領の推移は次のようになります。
①石手寺は、 4町6反 → 1町8反
②番繁多寺は、4町9畝 →   4反8畝
③太山寺は 10町   →約1町です。
②③は1/10になっています。それまでムラの庄屋と同じ位の田んぼを持っていた大寺院が、持っている田畑を政府に奪われたのです。経済基盤を失い、今までのような財政運営が出来なくなり困窮化する札所が続出するのは当然です。

 また、檀家のいない寺は廃寺にすべしという命令が出されます。
五十五番南光坊は、大三島神社の神宮寺で檀家は持ちませんでした。そのため4・5軒の家に頼んで檀家になってもらい廃寺をまぬがれたと云います。栄福寺も住職が還俗していなくなり、なんとか新しい住職がやって来ますが、寄付を頼む檀家がなく、茶碗や鍋さえ整わないという時期があったといいます。
 四十六番浄瑠璃寺では、住職が庫裡の裏を畑にして芋などを植えてしのいでいたが、とうとう耐え切れず出て行ってしまい、無住になったので檀家総代が建物を管理し、葬式や法事の際には近所の寺から僧侶に来てもらっていたと云います。遍路が納経を頼みに来た時には、近所に住んでいた総代が出て行って朱印を押したそうです。このような経済的な困窮が札所を襲い、後継者もいなくなってしまいます。
 石鎚信仰の中核だった前神寺・横峰寺と廃仏毀釈
 愛媛で最も大きな打撃を受けたのは、六十番横峰寺・六十四番前神寺のふたつの札所でしょう。江戸時代半ば以降、石鎚山の別当職を争ってきた両寺ですが、金毘羅大権現と同じく「石鎚大権現は神にはあらず」という明治政府の前に廃寺の憂き目を見ることになります。
 前神寺の札所の特徴は、石鎚修験道の核として蔵王権現を祀ってきました。ところが明治3年(1870)の神祇官通達で
「仏像と判断される蔵王権現は祭るに及ず」
という決定を受け取ります。つまり、蔵王権現を祭る前神寺の存在そのものが否定されたのです。これに対して住職は、権現像を山上に安置して庶民の信仰維持を図り、行政に抵抗します。ところがその最中の明治5年に本堂と庫裡が火災で消失しています。そこで無住になっていた末寺の医王院に移り、権現像は封印して地元の戸長に預けられました。3年後には、県から正式に廃寺通達が送られてきます。これに対して、寺側は裁判を起こして抵抗しますが決定は変わりませんでした。
しかし、その後も檀家総代から寺の存続を求める嘆願書が提出され続けます。明治12年には檀家は協議の上で「前神寺復旧出願」を提出します。これには180余戸の檀家の祖霊祭祀に支障が出ていることや六十四番札所としての数百年来の信仰の問題などを述べたうえで、次のように記されます
寺号ニテ御差支ノ廉モ有之候ハバ 御指揮二従ヒ前寺卜改寺号仕候ナリトテモ 再興一寺建築願ノ趣御採用ノ程奉懇願候
これに対して県は
「故寺号ニテハ差支ノ儀有之候条、前寺毎号候儀卜心得ベシ」
と回答し、前神寺では許さないが前上寺なら許そうという条件で再興が認められます。そこで、現在地にとりあえず前上寺(ぜんじょうじ)という名称で再建します。前神寺にもどるのは、それから10年後のことです。
 横峰寺も石鎚神社西遥拝所横峰社となって、廃寺になってしまいます。
檀家は六十一番香園寺の檀家とされます。六十番札所がなくなってしまったので、同じ小松町の平野部にある清楽寺に札所が移されました。そのためこの時期の納経帳には、六十番札所として清楽寺の印が押されているようです。
 横峰寺も前神寺と同じ時期の明治10年に地元の檀家総代より再建願いが出されます。そこには
「二百三十余戸ノ檀中一同(中略)香園寺へ埋葬相頼来候共 
遠隔之地ニシテ実二困入夙夜悲難仕候」
と記されて、香園寺が村から遠すぎるために葬式の際などに大変困っていることを訴えています。そのうえで、
「一寺永世維持方法相調ント勉励シ(中略)今年二至り五百円二満ツ(中略)反別五町村中共有地二罷在候 間土地上木共永世寄付仕候条偏二再建之旨奉懇願候]
と、寄付金を集めて、村の共有地も寄付すつもりなので、ぜひとも寺の再建を認めて欲しい訴えています。
 こうして翌年には、愛媛県令から再興を認める決定を引き出します。横峰寺は、明治13年にまずは大峰寺という名称で復活します。その後の清楽寺との協定で、清楽寺は前札所ということになり、六十番札所は山の上に戻ってきました。横峰寺の旧称に復帰するには、さらに30年近くの年月が必要でした

以上、神仏分離が札所に与えたダメージを土佐と伊予について見てきました。この打撃のために札所は廃寺になったり、無住となって札所の機能が果たせなくなった所が数多く出てきたようです。それが明治初期の四国遍路の激減につながったというのがまとめになるのでしょうか。
  讃岐や阿波にの神仏分離政策については以下の関連記事をご覧ください。タグ「讃岐の神仏分離」
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
        平成12年度遍路文化の学術整理報告書
関連記事

 明治と年号が変わる直前の慶応4年の3月に新政府から神仏分離令が出されます。この一連の通達を受けて、丸亀藩や高松藩はどのように対応したのでしょうか? 新政府の通達を見ると
「仏像をもって神体とし、また仏像、仏具を社地に置いている場合はすべて取り除き・・・・」
とあります。
 この通達をうけた各藩が先ず行わなければならなかったのは何でしょうか?
それは「神社の御神体のチェック」ということになります。まずは、何を御神体として祀っているのかを確認しなければ、取り除くかどうかも判断できません。こうして明治2年2月5日、「御神体検査」を行う実行メンバーが招集され、八日には打合会が開かれ辞令が公布されます。そして、担当エリアと担当者が次のように決まります。
松岡調   大内、寒川、三木、山田、香川東の五郡
吉成好信 黒木茂矩 香川西、阿野。鵜足、那珂の四郡
大宮兵部 原石見  三野郡
川崎出雲、真屋筑前 豊田郡
 東讃から高松にかけて五郡をひとりで担当する松岡調がリーダー的存在だったようです。彼らに課せられた「御神体チェック」は、先祖が大切に本殿の奥深くに祀ってきた御神体を白日の下にさらすということです。これは、当時の人々にとっては、まさしく恐れを知らぬ行為と思われても仕方がありません。検査官」を見守る人々は、恐怖と不安で眺めていたでしょう。御神体のベールをはがそうとする「検査官」を、敵意のこもった目でみる人もいたかも知れません。調査に当たった人たちもお役目とはいえ、相当の胆力が求められたように思います。御一新の世の中だからこそ出来たことかも知れません。
 さて「御神体チェック」は、どのように行われたのでしょうか?
松岡調が残した高松市周辺の神社の調査記録を見てみましょう。
松縄村熊野社 神体円石 梵字 仏像仏具は本門寿院へ。
伏石村八幡宮 大石
太田八幡宮  新しき木像外に厨子入り小仏像、本地堂は大宝院へ。
一ノ宮村田村大社 男女木像、鏡三面。
 ここからは御神体として、神像、鏡、石、仏像・鏡などが納められていたことが分かります。仏像・仏具類は近くの寺院へ移しています。粗略に扱ったり、集めて燃やすなどの「廃仏」的な行為は、行っていません。これは、小豆島巡礼の八幡さんに祀られていた仏さんが神仏分離で、近くの新しくお堂に移されていたり、かつて四国巡礼の札所で会った観音寺の琴弾神社にあった仏さんが、観音寺の境内に移されているのは、この時の検査チェックの結果だということが分かります。一宮の田村神社には、仏さんは祀られていなかったようです。
 この他にも、棟札などの古いものを入れてあるところもあります。また神像にも木像、立像、坐像、男神、女神と実にさまざまな御神体が出てきました。「御一新」の名の下に社殿の奥深くから引き出され白日のもとにさらされた神々もびっくりしたでしょう。
 こうして御神体が仏像などであった場合は、取り除かれました。
すると御神体がなくなる神社が出てきます。そこで新政府は、明治二年(1869)5月
「御神体なき神社には新しい御神体を勧請せよ」
という通達を出しています。この時に、新しくご神体を調えた神社も多かったようです。
  調査が進められている中で、さらなる通達がやってきます。
【太政官布告】 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日 
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候 
条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
 某国某郡某村鎮座 某社
1.宮社間数 並大小ノ建物
1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
1.神位
1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書スヘシ
1.社地間数 附地所古今沿革之事
1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
1.造営公私或ハ式年等之別
1.摂社末社の事
1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別 1.社中男女人員
1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
1.同管轄之庁迄距離里数
ここには、示された項目に従って、藩内の神社すべてを調査して12月までに提出せよという内容です。これが「神社取調」と呼ばれる作業になります。

神社取調ひな形様式2 M15年茨城県

項目を見れば、神社については、社殿の間取りや大きさから始まり、いつ勧進してきたのか、新旧の社号、神社の歴史沿革、勅願所の有無、社領の石高、さらには神官については神職の職名や、僧侶からの還俗者であるかどうか、他社との兼務有無など多岐にわたっています。
 これは、新政府の神祇科が進めようとする神社のランク付け(神社位階)や延喜式の式内神社指定の根本資料になるものでした。この作成を行う事になったのが「御神体チェック」作業を行っていた7人のメンバー達でした。彼らはすでに、主な神社には出向いて調査を行っていました。さらに各神社に通達を出し、これらの項目についての回答を求めると供に、再度出向いて確認も行ったはずです。彼らは調査権を行使できる立場にあったのです。彼らは、讃岐の神社の実態データーを握ったことになります。そして、神社の専門家に育っていきます。

神社取調帳 徳島県
 さて、調査される側の立場に立って見ましょう。
この調査票が送られてきた神社は、どう対応したのでしょうか。
 神職がいた神社は対応ができたでしょうが、神職がいない「村の鎮守さま」などはどうしたのでしょうか。村の庄屋層たちが集まって、協議したでしょう。しかし、村の鎮守のような小さな神社は、歴史・沿革などは分からないこと多かったようです。にもかかわらず、藩からは期限を切って提出を求められてきます。提出しなければ神社として認められないのです。存続のためには「創り出す」ほかありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれた所も多かったようです。極めて短期間に、この「調書」は作成されたようです。そのため
「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で、付会・でっち上げを行う過程であった」
と指摘する研究者もいます。
こうして、提出期限までの約2ヶ月の間に、各神社の「取調」書が作成され新政府の神祇科(じんぎ)に送られました。この作業に従事したメンバーは讃岐の神社について最も精通している人物たちに成長していきます。なかでもその後の神道界の権威になるのが松岡調です。彼については次回に見ていく事にして、先を急ぎます。
 明治三年11月には政府から
「伝説による神号で呼んでいるところは神道による神号へ改めよ」
という通達が来ます。
この結果「伝説神号」とされた次のような神社名が新しい名前に改められます。
祇園社    → 須賀神社
王子権現   → 高津神社
妙見社    → 産巣日神社
皇子権現社  → 神櫛神社
十二社権現社 → 木熊野神社
金毘羅権現  → 琴平神社
こうして、讃岐の二十六の神社に新しい神号が与えられます。
4-Z6-25-2復飾取調書上帳
調査が進んでいくと、金毘羅大権現がたどった道と同じような道を歩む寺院が出てきます。つまり、神社の別当寺の僧侶が還俗し、神主となるという対応です。
その結果、次のような別当寺が廃寺となります。
大川郡では志度町鴨部にあった西光寺ほか十二力寺。
木田郡では牟礼村の愛染寺、最勝寺ほか五ヵ寺。
小豆郡は土庄町渕崎の神宮寺ほか四力寺。
香川郡は香南町の由佐にあった宝蔵寺。
綾歌郡では綾南町滝宮にあった竜燈院ほか三ヵ寺。
高松市は前田地区の押光寺ほか十四ヵ寺。
坂出市が川津町の宝珠院ほか三ヵ寺。
丸亀市は土器町の寿命院ほかIヵ寺。
仲多度郡は琴平町の金光院ほか一力寺。
観音寺市は粟井町の大円坊一力寺のみ。
三豊郡では山本村財田大野の阿弥陀院ほか六ヵ寺。
   讃岐全体では総数で六十一力寺が廃寺となりました。  しかし、この数は高知と比べると1/8程度の数です。
どうして、讃岐では廃寺となる寺院が少なかったのでしょうか。
  それは還俗する僧侶の数が少なかったからです。高知では全体の2/3近い僧侶が還俗する「雪崩現象」が起きましたが讃岐ではそれが見られません。その原因を考えて見ましょう。 
 以前にも示しましたが神仏分離令を契機として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がって廃寺が多く出た藩には、次の共通する3つの要因があります。
平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。
廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。
庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
①については、讃岐の神社・仏閣の調査メンバーは、平田神学信奉者ではなく過激な「廃仏毀釈」行動はとっていません。神社に祀ってあった仏像などへの対応ぶりからも、それはうかがえます。
②丸亀藩の最後の殿様は、明治政府の「華族は神道式の葬儀・墓石」という指示にもかかわらず国元の墓は仏教式を用いています。ここからも神道強制には批判的な立場であったことが分かります。高松藩も神仏分離は行うが「廃仏毀釈」まで踏み込もうとする姿勢は見られません。
③については、前回にお話ししたように小藩の多度津藩では「一藩一宗位置寺院」という過激な寺院削減縮小案が初期には出されますが、領民挙げての反対を受けて、撤回に追い込まれています。
つまり「廃仏毀釈」の火の手が大きく上がっていく条件にはなかったようです。
 さらに、加えるなら讃岐は真宗王国で浄土真宗のお寺が8割を越えます。
特に、高松藩は婚姻関係を何重にも結んでいた西本願寺興正寺派のお寺を保護してきた経緯があります。興正寺派のお寺のネットワークは宗学研究や講活動などでも活発な日常活動をを行っており、宗教的な情熱をもつ僧侶も多かったようです。これらが多度津藩の「一藩一宗位置寺院」への反対運動を支援したりもしています。
 さらに、中央においても東西本願寺は新政府への奉納金などを通じて、深いつながりをすでに作っていました。神仏分離の際には、真宗エリアの地域には新政府は配慮を行ったといわれます。こうした要因が、讃岐で廃仏毀釈運動が広がらなかった要因と私は考えています。
「神社取調」が終わった後の村では、今までと違う光景が見られるようになります。
例えば、村の八幡神社とその別当寺は隣接して、一体のもとして住職さんが祭礼を行っていました。しかし、神社とお寺の間には、垣根や玉垣などの人工的な境界が作られ分離されていきます。また、お寺の目の前の神社の祭礼を行うのは、他の村に住む神主さんがやってきて行うという光景が見られるようになるのです。

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