前回は江戸時代中期に書かれた二宮三社(現大水上神社)縁起の前半を見てみました。今回は、その後半を読んでいくことにします。まず、二宮三社神社の修築に関する記事が次のように記されています。まずは棟札から始まります。

意訳変換しておくと
二宮大水上神社大明神の社殿の棟は建長六(1256)寅甲年八月午戊四日に挙げられ大願主は沙弥寂阿 大工は 額田国弘
建立に当たって、後小松帝、弥光帝・後花園帝この三帝の勅書が内陣に保管してあったが、土州之賊徒(長宗我部元親)の悪逆で紛失した
ここでは13世紀半ばに、朝廷の勅書で社殿が建立されたと記されています。その勅書は長宗我部元親の「悪逆」でなくなったと云うのです。讃岐の寺社の由緒書きのパターンです。土佐軍の兵火で焼かれて、証拠となる文書は燃やされてしまったという「釈明」です。
応永34(1427)年8月20日夜 にわかに大風が吹いて、周囲が十六間もある桧木が、社殿に倒れかかり大破した。そこで、年8月29日に、仮殿を建て、三神を仮殿に移した。新たな社殿の造営について京都からの援助があり、正長元(1428)年東讃守護代の安富有富が修復責任者として工事に当たった。
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永享3(1431)年7月、仮殿が雨漏りして、経蔵に宮を移した永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、11月に京都より帰国し、造営が開始された。しかし、工事は遅々として進まなかった。そこで、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。八幡大菩薩 本地阿弥陀如来大水上大明神 本地釈迦牟尼如来三嶋竜神 本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏を安座した。
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今上皇帝は「聖寿万安」 将軍源朝臣は「武運長久 福禄増栄 国家安泰 万民豊楽 庄内繁昌 貴賤各願」の成就を祈願した。先だって性智院殿は讃州一国の人別銭で二宮社の落慶を行おうとしたが思うようには進まなかった。そこで、近藤二宮但州国茂を造立奉行にして三社神社の造営にあたらせた次第である。この一巻は、三社神社が大風で大破したのを近藤氏が再興したことについて記した。筆者 高松太郎頼重末葉正春
15世紀半ばに、二宮三社神社は(近藤)国重によって建立された?
二宮三社神社の修復に国家(朝廷?・幕府?)から東讃守護の安富氏が責任者に任じられたが、何年経っても完成しないので、二宮の近藤氏が造営奉行に任命されて、京都から帰り短期間で完成させたと記されています。その際に、東西の守護代である安富氏と香川氏から150貫の寄付があったというのです。
前半部については、にわかには信じられない内容です。中世には、地方の小さな寺社を国家が保護することはありません。また守護代が他人の氏寺の修理に寄進することもありません。いろいろな虚実を取り去った後に残る核の部分は「永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が社殿を完成させた」という部分です。これは本当なのではないかと研究者は考えているようです。
前半部については、にわかには信じられない内容です。中世には、地方の小さな寺社を国家が保護することはありません。また守護代が他人の氏寺の修理に寄進することもありません。いろいろな虚実を取り去った後に残る核の部分は「永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が社殿を完成させた」という部分です。これは本当なのではないかと研究者は考えているようです。
前回に見た縁起の初頭部分に、二宮の国人・近藤正光のもとに現れた八幡神を自分の館に祀り、館は藤の花で彩られるようになり、正光は藤樹公と呼ばれるようになったこと。そして、館は神社となり多くの人が参拝するようになったこと。社司は近藤家が勤めてきたことが記されていました。
それは、今見てきた近藤氏による二宮三社神社(現大水上神社)の建立と重なり合うのではないかと思えてきます。
最後の巻で縁起は長宗我部元親について記します。それを見てみましょう。
昔は二宮三社神社は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になっていました。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。
これに対して、毎日山伏が千から二千、時には三千が夜になると鬨の声を上げて長宗我部元親を責めた。山伏は長宗我部元親の目には見えても、諸卒の目にはみえない。これは二宮三社や金毘羅大権現の神罰ではないかと疑うようになった。そこで元親は両神へお詫びのために金毘羅へ中門建立の願をたて別当金毘羅寺に、一七日の護摩修行を行わせた。これで狂気が去った元親は、大に悦び、近辺で兵卒が掠めとった宝物を残らず神納した。そして、任御門を建立した。これが今、金毘羅の門で棟札には長曽我部元親寄進とある。
ここからは次のようなことが分かります。
①土佐軍侵入で二宮三社神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会った
②近世のはじめの二宮三社(大水上神社)は、保護者の近藤氏を失い再建不能な状態にあったこと
③長宗我部元親が「金毘羅権現の近辺に放火」「金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃」と記されます。しかし、事実は、長尾氏出身の金光院院主宥雅が堺に亡命し、金毘羅は無傷で長宗我部元親の手に入っています。そこに、土佐修験道の指導者宥厳を入れ、讃岐平定の総鎮守としたことは以前にお話ししました。平定成就を感謝して建立されるのが現在の二天門です。
④長宗我部元親は、西讃や丸亀平野の平定の際には、琴平に本陣を置いたと記されます
⑤「香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って」と、香川氏が不在であったという書き方です。香川氏の毛利への一時亡命と混同しているようです。香川氏は、長宗我部元親とは一戦もせずに同盟関係に入っています。
⑥本陣を置いた金毘羅では「毎日山伏が千から二千、時には三千が夜になると鬨の声を上げて」とあります。ここからは、当時の金毘羅が山伏(修験者)の集まる霊山であり修験の場であったことがうかがえます。
⑦「金毘羅へ中門建立の願をたて別当金毘羅寺に、一七日の護摩修行を行わせた」とありますが、大門が建てられるのは高松藩の松平頼重の時代になってからです。この時には金毘羅寺(松尾寺)には山門はありません。「中門」という表現は、これが書かれたのが大門建立以後のことであることを示します。
以上のように、長宗我部元親についての記述は他の史料との整合性がないものばかりです。「長宗我部元親=悪逆」という編者の先入観にもとづいて、それを示すための例が並べられている印象を受けます。
意訳変換しておくと
その後、元親は阿波に向かい秀吉公と一戦を交えた。その時に、秀吉軍の先手の真先に武者三騎が現れた。大声を上げて元親の首を伐て、軍門に曝さんと名乗掛ける。見ればまん中の騎馬武者は雪よりも白い馬に跨がり、長さ三尺あまりの幡を掲げる。そこには地白に朱で八幡大菩薩とある。その左の騎馬武者は、栗毛の馬に乗り、幡に大水上大明神、その右は青の馬に乗馬し、幟は三嶋竜神とある。太閤秀吉は、これを見てこのような武士が味方にはいない、敵が紛れ込んでいるのではないかと使番に仰せ付けられたが、他人の目には見えない。
八幡大神の加勢だ、ありがたい思し召しと南無八幡大菩薩と念誦し、筑紫宇佐の方に柏手を打ち遥拝したという。三騎は一文字に元親に向かって突入した。元親が乗った馬は膝をおりわなき振え、元親も身すくみしゃべることさえ出来ない。土佐軍の兵卒は退却するしかなかった。この時に討取らた首は375にものぼる。これこそ二宮三社(大水上神社)の仇討ちであったと諸人は知った。
その後、秀吉公は滝川伊与守を二宮三神へ遣わして代参さた。その時には、元親違乱以後の後に建てられた薮の中に小さな社殿に参拝し帰京し、秀吉公へ報告した。この際に二宮三社の社司は秀吉公と元親との対陣の折りに起きた奇怪な出来事の端末を、次のように語った。その時には社殿が三日間震動し、三体の神輿が東南の方へ飛び去るのを肝を潰しながら見守った。どこに行ったのかもしれず、讃岐国中を尋ね探したが見つからず、
五十日程して神輿はいつものように拝殿に戻っていた。その側には切々になった幡があり、人々は不思議に思って、国中に尋ねたが幡の主は分からなかった。二三年後に、土州老士がこの村にやってきて元親秘蔵の幡が紛失したことを聞て思いあたった。秀吉公はこのことを聞いて、二宮三社の造営を命じ下さった。しかし、ほどなくして朝鮮出兵がが始まり、再建工事は始まりませんでした。その後は大坂冬の陣の時には、国主生駒雅楽頭殿に再建を命じましたが進まず、大坂落城後はほどなく権現(家康)様に再建を願いでましたが、これもかなわず、いままも社殿は大破したままである
ここに書かれていることをまとめておくと
①二宮三社の三祭神が軍神として秀吉軍を加勢し、長宗我部元親軍を大敗させたこと
②その軍功に報いて、秀吉は社殿再興を約束したが朝鮮出兵などで適わなかったこと
③その後、生駒藩時代にも再建計画があったが実現しなかったこと
④そして、いまも社殿は再建されていないこと
この巻は二宮三社の軍神達の活躍ぶりが印象に残ります。
八幡神は軍神として当然ですが、大水上明神も三島明神も武者姿として戦っています。「二宮三社=軍神」という目で、もう一度この縁起を見てみましょう。
最初の巻で八幡神の軍神としての性格が語られ、次に源平合戦での神託が語られ、そして土佐軍との戦いぶりが語られていました。これは「二宮三社=軍神」観をアピールするためだったようです。
アピールの対象は誰でしょうか。
それは最後の一行に現れています。秀吉も、生駒家も、家康も、再建を約束したのに、未だ社殿は大破したままだと記すのです。これは、京極家に対する社殿再建の請願です。別の見方をすると「二宮三社縁起」は、「社殿再建請願書」であったと思えるようになってきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史資料編134P 二宮文書












