瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の祭礼

        讃岐のちょうさ(布団太鼓台)は、いつどこからやってきたのでしょうか。
f6b9a9a9ふとん太鼓か?/摂津名所図会
それに応えてくれるのが摂津名所図会の中にあるこの絵です。この「図会」が刊行されたのは寛政10年(1798)ですから、今から二百年余り前の太鼓台が描かれています。太鼓台が現れているのは御堂筋に面する現在の難波神社の祭礼です。大坂のど真ん中に当たります。多くの男達に担がれた太鼓が左から右へと移動して行きます。確かに布団をのせた私たちが見慣れた太鼓台です。
左下隅は階段になっています。階段の先では担手の男達が顔洗いにやってきています。つまり、これは雁木(がんぎ)のようです。先ほど云いましたように難波神社さんの近くですから、西横堀川か、長堀川か、そのあたりの浜(川岸)を移動しているようです。手前の欄干は、川に架かる橋でしょうか。ここからも太鼓台を眺める人たちがいます。しかし、天秤棒を背負って足早に橋を渡っていく姿も書き込まれています
 前を行く大きなふたつの提灯には「太鼓]の文字がみえます。その左手隣には赤い大きな笠の下に女性と子どもがいます。これはどんなシーンなのでしょうか?
 今まで太鼓を叩いていた子ども達に、お母さんやおばさんが笠を差し掛け「ようやった、ようやった」という感じで、子供を褒めたり世話しているのではないでしょうか。 
太鼓打ちの乗子の所作
 
太鼓台の中を拡大してみると、子供が4人で四方から太鼓をたたいています。向こう側の2人は鉢を振り下ろし、手前の2人は鉢を掲げています。これは早打ちではなくどーんどーんとゆっくりと刻むように太鼓を打っているように見えます。背中を向けた子供は投げ頭巾をかぶっています。この投げ頭巾は白色のようです。
 積み上げられて布団を見て見ると模様があるようにも思えます。「雨龍の刺繍」が入っていると指摘する研究者もいます。
 蒲団太鼓を舁いている人たちは、ふんどしに足袋姿で、ほぼ半裸です。よくみると刺青の入った人が何人かいるようです。 絵図史料からは、大坂の布団太鼓台についてのいろいろなことが読み取れます。
ところが、このの祭礼行事を見ていた同時代人が書き残した日記があるのです。
その人物とは大田蜀山人、あの狂歌で有名な人です。
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彼は江戸のお役人で、享和元年(1801)3月から翌年の3月までの1年間を大坂銅座御用で勤めます。53歳ぐらいの時のことだったようです。南本町5丁目の宿舎から今橋の銅座へ出勤しますが、お勤めは朝8時から午後2時まです。その後はフリーなので、大阪中を見物して歩きまわっています。そして『蘆の若葉』という日記を残します。これは当時の大坂の様子がよくわかって研究者には有り難い史料のようです。その中に船場の三神社である御霊神社、坐摩神社、難波神社の夏祭りの見物記があります。
大田蜀山人が残したの難波神社の祭礼見物記の見てみましょう。
6月21日 晴 晩雨又晴 仁徳天皇稲荷明神(難波神社)の祭なりとて、
人家の軒に菊桐の紋つけたる桃灯をかかぐ。祭わたるべき大路は、埒をゆひてみだりに人を通さず。家々の前にも手すりをまうく。博労町のほとり見にまかりしに、所謂だんじりのごときものに似て、檜皮ぶきなる上に、錦の茵五ツばかり重ねしきて、下には童部ども筒長き頭巾きて、中に大きなる太鼓をすへ、めぐりよりこれをうつ音かしがまし。きほひ、いさめる若きものども二三十人ばかり、此車をひかんとて、先にたちて、てうさや、ようさやと口々によぶ。そのあとより、れいの俄といふものあまた来たりしかど、ここの心をわかたねばかひなし。ややありて太鼓の音聞こゆるに、かの猿田彦の神馬に乗りてわたる。(後略)
意訳すると
  6月21日に 難波神社の祭り見物に出かけた。人家の軒に菊桐の紋が入った提灯が下がっている。神が渡る大路は、人は入ることはできない。家々にも手すりが置かれている。神社周辺の博労町の運河のほとりを見に行ったが、だんじりに似ているが、檜皮ぶきの上に錦の座布団が5つほど重ねられて、その下では童が筒の長い帽子をかぶって、中に大きな太鼓をすへ、周りからこれを打つ音が大きく響く。
気負い立ち、勇み立つ若者が2,30人ほどこの車を曳こうと、先に立って「ちょうさ ようさ」と口々に叫ぶ。その後から「俄」と呼ばれる者達がやってきた・・・・ 
以上から分かったり、疑問におもえることを箇条書きすると
① だんじりとはちがう、布団太鼓台が出ていたこと
②筒の長い帽子をかぶった童子がと大きな太鼓を周りから叩いていたこと
③若者達のかけ声が「てうさや ようさ」であったこと
④「車をひかんとて・・」は、太鼓台を担いでいたのではなく、曳いていたのか?
この中で③のかけ声は、私には「ちょうさや よらさ」に聞こえます。讃岐の西部では布団太鼓のことを「ちょうさ」とよびますが、これに通じるのではないかと思っています。
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さてもういちど絵図に返りましょう。
向こう側の商家では、幕を張り、提灯を吊し、屏風を立てています。そしていろいろなものが担手に振舞われています。なにが、振舞われているのでしょか
①奥の緑内では家の奥さんらしき人と担ぎ手が、お茶を飲みながら談笑しています。
②店の前や中から「どうぞこちらで休んでくだされ」と言わんばかりに手招きをしている人が何人もいます。
③ 店の前に出された縁側では、スイカを食べている担ぎ手がいます。
④その奥から、旦那さんとその仲間たちが豪華な部屋で見物しています。そこに親しげに話しかける笑顔のひき手と笑顔で返す旦那さん。身分を超える一面が、この時代から祭にはあったのかも知れません。
「川で顔を洗う人、太鼓打ちの少年の交代、スイカが準備されたお店」などから考えると、ここは太鼓台の休息場所のようです。そしてそれは、運河に面した大店の家と云うことになりそうです。
d0508b5f大坂にも車楽(だんじり)があった/摂津名所図会
最後に絵図の右上からの文字史料を見ておくことにしましょう。
祭日神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。周禮に云(いハく)、韗(うん)人太鼓を昌(はる)にかならず春三月の節啓蟄の日をもってす。
注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。」
と記されています。
 まず、太鼓が神輿を先導するお先太鼓の役割をしていることが記されます。続いて、中国の周礼には太鼓が雷声の発するを表していると云います。難波の太鼓は数百の雷鳴のようで、天地に轟くように大きな音が響き渡るというのです。当時の人に布団太鼓が迫力ある夏の催し物として好まれた様子が伺えます。
18世紀末の大坂で布団太鼓台が登場しているのは分かりました。
そして、それがどのように運営されていたのかもかすかに見えてきました。
次は、どのようにして瀬戸内海の港に伝播拡大していったかを探りたいと思います。
a9b3b5fb太鼓伝播図

参考文献  近江晴子 大坂三郷の氏神さんと夏祭り

         
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    讃岐は獅子舞王国?
 田んぼの畦に彼岸花が咲くことになると、讃岐の里は秋祭りに向けた準備が進められていきます。讃岐のお祭りで演じられる芸能の代表格といえば獅子舞でしょう。獅子舞は県下全域に広がっていて、その数はうどん屋さんと同じ約800頭が「生息」していると言われます。「獅子生息密度」の高さは、全国のベストテンの上位にランクされ、富山県とトップ争いをしているそうです。(出典不詳・・・)
 獅子はいつ、どこから、何のためにやってきたのでしょうか? 
讃岐では、室町時代には獅子頭が祭礼に現れていたようです。南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた
というあまり目出度くない記事ですが、これが一番が古いようです。ちなみにこの犯人は捕まったと、後にでてきます。この縁起の永和元年(1375)には
「放生会大行道之時獅子面を塗り直した
と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。
 香川県内の古い神社には、中世の木製獅子頭が伝わっています。
 東かがわ市の水主(みずし)神社は、中世は四国の熊野信仰の中心拠点として機能し、それを背景に登場した勧進僧の増吽が阿波や吉備、瀬戸の島々の寺社を再興します。その河口の三本松も重要な港町でした。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭
 ここにはは、県内で一番古い年代の入った木造獅子頭(県有形文化財)があります。
上顎裏側に文安五年(1448)に三位公全秀によってつくられ、文明四年(1472)に彩色されたと墨で書かれています。
銘文には「奉安置獅子頭事」とあります
が、胴衣を縫い付けた孔も残り、獅子頭内側には、上下顎をつなぐ軸棒のほか、上方にもう一本横棒が渡っており、そこを持ち手として獅子頭を扱ったと考えられます。「安置」するだけでなかったようですが激しく頭を振り回すような機能はありません。パレードへの参加用のようです。
次の訪れるのは善通寺と琴平町の境にある大麻神社です。
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 大麻山を甘南備山とする式内社大麻神社(善通寺市)に伝わる木製の獅子頭です。
下あごが失われているために少し見慣れない感じもしますが、形状などから水主神社の獅子頭とおなじく室町時代、ひょっとするとそれ以前の鎌倉時代のものと考える研究者もいるようです。そうだとすれば「現存する県内で一番古い獅子頭」ということになります。残念ながら下顎をなくしているが惜しまれます。この木造獅子頭は、江戸末期の『西讃府志』巻第五六にも「大麻神社所蔵之獅子頭圖」として上顎部のみが描かれています。
よくみると
後の方に、油単を縫い付けたと思われる小穴が7ヵ所ほどあるのが見えますか?
これもパレード用と考えられています。
祭礼行列の参加以外にも、獅子の出番が出てきます。
享徳元年(1452)に書かれた観音寺の『琴弾八幡宮放生会祭式配役記』には、行道の「獅子首二人」とは別の姿を見せます。それは「舞車」の上で舞う「師子舞」です。獅子が稚児「楠法師」と褐鼓舞(小さな鼓=掲鼓を胸に付けて打つ舞)を演じるのです。これは当時の都で、風流(ふりゅう)拍子物として人気のあった流行物です。新しい芸能の流れを汲んだ獅子の姿です。
  そんな中で登場してくるのが紙製の獅子頭です。
 紙製の獅子頭で一番古いのは式内神社の黒島神社(観音寺市池之尻町)に残るものです。江戸時代中期の宝暦八年(1758)の銘があります。
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この獅子頭の内部は「土」の字型の木組構造です。その構造は現在の獅子頭の持ち手と同じです。紙製の補強のための縦材を持ち手に利用することで、獅子頭を片手で持つことできるようになりました。これは紙製という軽量化とあわせて、獅子を使いやすくしたはずです。獅子が激しく動き舞えるようになったのです。
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 この黒島神社の獅子頭とセットで「稚児頭巾」と呼ばれる赤い紐飾りのついた円錐状の笠が残っています。これは先ほど見た琴弾八幡神社の「獅子が稚児と舞う褐鼓舞」の際に稚児がかぶっていたものではないでしょうか。観音寺に伝わった中世の風流踊りが近世三豊の地域に、祭礼の中で広がって行ったのではないかと私は考えています。
その際に紙製の獅子頭が果たした役割は、決して小さくないような気がします。芸能性に富んだ獅子舞が生まれた要因の一つかも知れません。

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 香川県の獅子舞の大きな特徴は、獅子頭が紙製ということです。
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紙製の獅子頭は、型にあわせて和紙を張り重ね、漆を塗ったり毛を植え込んだりして仕上げます。伝統的工芸品の「讃岐獅子頭」を見てきた私は、「獅子頭は紙製(張り子)」という思い込みありました。ところが差に非ず。全国的には獅子頭は木製が主流でないようです。
 たしかに紙製獅子頭も全国各地にあり、型抜きや竹骨組など形状や構造も様々なものがあるようです。しかし、香川県以外で二人立ち獅子舞で紙製獅子頭を使うのは、松山・徳島・播磨等の瀬戸内圈、と臼杵・宇土・熊本等の九州の一部、ほか京都・和歌山・静岡・長野・岩手等にも点々と広がる程度です。しかも、局所・散在的で香川ほどの分布密度はないようです。「紙製の獅子頭」というのは讃岐の大きな特徴のようです。

最後に、獅子頭の成長ぶりをもう一度確認しておきましょう。
 中世は 小豆島肥土山の祭礼のパレードに参加する獅子
 中世末は観音寺琴弾八幡の太鼓に合わせて舞う獅子
 近世は 紙製獅子頭の登場で舞い踊る獅子へ 
これを祭礼の風流(ふりゅう)化と言うそうです。
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参考文献 高嶋 賢二 香川県の獅子舞と獅子頭 
           香川県立ミュージアム「祭礼百選」所収





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