18世紀頃になると中本山である安楽寺から離脱していく讃岐の末寺が出てきます。どうしてなのでしょうか。その背景を今回は見ていくことにします。
本寺と末寺(上寺・下寺)の関係について、西本願寺は幕府に対して次のように説明しています。
「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」
              「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)
 ここには下寺(末寺)は、本山より上寺(中山)に預け置かれたものとされています。そして下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要とされました。上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、かなり厳しい上下関係があったようです。そのため、上寺の横暴に下寺が耐えかね、下寺の上寺からの離末が試みられることになります。
 しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、上寺の非法があったとしても、下寺の悲願はなかなか実現することはありませんでした。当時の幕府幕令では、改宗改派は禁じられていたのです。
  ところが17世紀になると情勢が変わってきます。本末制度が形骸化するのです。その背景には触頭(ふれがしら)制の定着化があるようです。触頭制ついて、浄土宗大辞典は次のように記します。

江戸時代、幕府の寺社奉行から出された命令を配下の寺院へ伝達し、配下寺院からの願書その他を上申する機関。録所、僧録ともいう。諸宗派の江戸に所在する有力寺院がその任に当たった。浄土宗の場合は、芝増上寺の役者(所化役者と寺家役者)が勤めた。幕府は、従来の本末関係を利用して命令を伝達していたが、本末関係は法流の師資相承に基づくものが多く、地域的に限定されたものではなかった。そのため、一国・一地域を区画する幕藩体制下では、そうした組織形態では相容れない点があった。そこで、一国・一地域を限る同宗派寺院の統制支配組織である触頭制度が成立した。増上寺役者は、寛永一二年(一六三五)以前には存在していたらしい。幕府の命令を下すときは、増上寺管轄区域では増上寺役者から直接各国の触頭へ伝達され、知恩院の管轄区域では、増上寺役者から知恩院役者へ伝えられ、そこから各国の触頭へ伝達された。

幕府に習って各藩でも触頭制が導入され、触頭寺が設置され、藩の指示などを伝えるようになります。浄土真宗の讃岐における中本山は、三木の常光寺と阿波の安楽寺でした。この両寺が、阿波・讃岐・伊予・土佐の四国の四カ国またがった真宗ネットワークの中心でした。しかし、各藩毎に触頭と呼ばれる寺が藩と連携して政策を進めるようになると、藩毎に通達や政策が異なるので、常光寺は安楽寺は対応できなくなります。こうして江戸時代中期になると、本末制は存在意味をなくしていきます。危機を感じた安楽寺は、末寺の離反を押さえる策から、合意の上で金銭を支払えば本末関係を解消する策をとるようになります。つまり「円満離末」の道を開きます。

宝暦7年(1757)、安楽寺は髙松藩の安養寺と、その配下の20ケ寺に離末証文「高松安養寺離末状」を出しています。
安養寺以下、その末寺が安楽寺支配から離れることを認めたのです。これに続いて、安永・明和・文化の各年に讃岐の21ケ寺の末寺を手放していますが、これも合意の上でおこなわれたようです。

 安楽寺の高松平野方面での拠点末寺であった安養寺の記録を見ておきましょう。
西御本山
京都輿御(興正寺)股御下
千葉山 久遠院安養寺
一当寺開基之義者(中略)本家安楽寺第間信住職仕罷在候所、御当国エ末寺門従数多御座候ニ付、右間信寛正之辰年 香川郡安原村東谷江罷越追而河内原江引移建立仕候由ニ御座候、然ル所文禄四年士辛口正代御本山より安養寺と寺号免許在之相読仕候。
意訳変換しておくと
安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から第間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、何代か後に内原に道場を移転し、文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。

整理すると次のようになります。
①寛正元年(1460)に安楽寺からやってきた僧侶が香川郡安原村東谷に道場をかまえた。
②その後、一里ほど西北へ離れて内原に道場を移転(惣道場建立?)
③文録四年(1595)に本山より安養寺の寺号が許可

①については、興正寺の四国布教の本格化は16世紀になってからです。また安楽寺が興正寺末寺となり讃岐布教を本格化させるのは、讃岐財田からの帰還後の1520年以後で、三好氏からの保護を受けてのことです。1460年頃には、安楽寺はまだ讃岐へ教線を伸ばしていく気配はありません。安楽寺から来た僧侶が道場を開いた時期としては早すぎるようです。
安養寺 安楽寺末
安楽寺と安養寺の関係

②については、「香川郡安原村東谷」というのは、現在の高松空港から香東川を越えた東側の地域です。安楽寺のある郡里からは、相栗峠を挟んでほぼ真北に位置します。安楽寺からの真宗僧侶が相栗峠を越えて、新たな布教地となる香東川の山間の村に入り、信者を増やし、道場を開いていく姿が想像できます。そして、いくつもの道場を合わせた惣道場が河内原に開かれます。これが長宗我部元親の讃岐侵攻時期のことであったのではないかと思います。
 以前に見たまんのう町の尊光寺由来に「中興開基」として名前の出てくる玄正は、西長尾城主の息子として、落城後に惣道場を開いたとあります。つまり、惣道場が開かれるのは生駒時代になってからです。
③には安養寺の場合も1595年に寺号が許されるとあります。しかし、西本願寺が寺号と木仏下付を下付するようになるのは、本願寺の東西分裂(1601年)以後のことです。ちなみに龍谷大学の史学研究室にある木仏には次のように記されたものがあるようです。

「慶長12(1609)年、讃岐国川内原、安養寺」

この木仏は西本願寺→興正寺→安楽寺→安養寺というルートを通じて、安養寺に下付されたものでしょう。「寺号免許=木仏下付」はセットで行われていたので、寺号が認められたのも1609年のことになります。
 どちらにしても安養寺は、安楽寺の末寺でありながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院として発展します。そのため初代高松藩主としてやってきた松平頼重は、高松城下活性化と再編成のために元禄2(1689)年に、高松城下に寺地を与えて、川内原より移転させています。以後は、浄土真宗の触頭の寺を支える有力寺になっていきます。寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
真宗興正派安養寺末寺
安養寺末寺

安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)
安養寺末寺一覧
安養寺の末寺
  以上から安養寺は安楽寺の髙松平野への教線拡大の拠点寺院の役割を担い、多くの末寺を持っていたことが分かります。それが髙松藩によって髙松城下に取り込められ、触頭制を支える寺院となります。その結果、安楽寺との関係が疎遠になっていたことが推測できます。安養寺の安楽寺よりの離末は、宝暦七(1757)年になります。離末をめぐる経緯については、今の私には分かりません。

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尊光寺(まんのう町長炭東) 安楽寺の末寺だった
まんのう町尊光寺には、安楽寺が発行した次のような離末文書が残されています。

尊光寺離末文書
安永六年(1777)、中本山安楽寺より離末。(尊光寺文書三の三八)

一札の事
一其の寺唯今迄当寺末寺にてこれあり候所、此度得心の上、永代離末せしめ候所実正に御座候。然る上は自今以後、本末の意趣毛頭御座なく候。尤も右の趣御本山へ当寺より御断り候義相違御座なく候。後日のため及て如件.
阿州美馬郡里村
安永六酉年        安楽寺 印
十一月           知□(花押)
讃州炭所村
尊光寺
意訳変換しておくと
尊光寺について今までは、当安楽寺の末寺であったが、この度双方納得の上で、永代離末する所となった。つてはこれより以後、本末関係は一切解消される。なお、この件については当寺より本山へ相違なく連絡する。後日のために記録する。

安楽寺の「離末一件一札の事」という半紙に認められた文書に、安楽寺の印と門主と思われる知口の花押があります。これに対して安楽寺文書にも、次のような文書があり離末が裏付けられます。
第2箱72の文書「離末、本末出入書出覚」
「安永七年四月り末(離末)」
第5箱190の「末寺控帳」写しに
「安楽寺直末種村尊光寺安永七年四月り末(離末)」
  このような離末承認文書が安楽寺から各寺に発行されたようです。

興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅
興泉寺(琴平町)

この前年の安永5(1776)年に、天領榎井村の興泉寺(琴平町)が安楽寺から離末しています。
  その時には、離末料300両を支払ったことが「興泉寺文書」には記されています。興泉寺は繁栄する金毘羅大権現の門前町にある寺院で、檀家には裕福な商人も多かったようです。そのため経済的には恵まれた寺で、300両というお金も出せたのでしょう。  
 尊光寺の場合も、離末料を支払ったはずですが、その金額などの記録は尊光寺には残っていません。尊光寺と前後して、種子の浄教寺、長尾の慈泉寺、岡田の慈光寺、西覚寺も安楽寺から離末しています。
 以前にお話ししたように、安楽寺は徳島城下の末寺で、触頭寺となった東光寺と本末論争の末に勝利します。しかし、東光寺が触頭として勢力を伸ばし、本末制度が有名無実化すると、離末を有償で認める方針に政策転換したことが分かります。17世紀半ば以後には、讃岐末寺が次々と「有償離末」しています。

 そのような中で、長尾の超勝寺だけが安楽寺末に残こります。
長勝寺
超勝寺(まんのう町長尾)
超勝寺は、西長尾城主の長尾氏の館跡に建つ寺ともされています。周辺の寺院が安楽寺から離末するのに、超勝寺だけが末寺として残ります。それがどうしてなのか私には分かりません。山を越えて末寺として中本山に仕え続けます。しかし、超勝寺も次第に末寺としての義務を怠るようになったようです。
超勝寺の詫び状が天保9(1838)年に安楽寺に提出されています。(安楽寺文書第2箱72)
讃州長尾村超勝寺本末の式相い失い、拙寺より本山へ相い願い、超勝寺誤り一札仕り候
写、左の通り。
(朱書)
「八印」
御託証文の事
一つ、従来本末の式相い乱し候段、不敬の至り恐れ入り奉の候
一つ、住持相続の節、急度相い届け申し上げ候事
一つ、三季(年頭。中元。報思講)御礼、慨怠無く相い勤め申し上ぐ可く候事
一つ、葬式の節、ご案内申し上ぐ可く候事
一つ、御申物の節、夫々御届仕る可く候事
右の条々相い背き候節は、如何様の御沙汰仰せ付けられ候とも、毛頭申し分御座無く候、傷て後日の為め証文一札如件
讃岐国鵜足郡長尾村
            超勝寺
天保九(1838)年五月十九日 亮賢書判
安楽寺殿
意訳変換しておくと
讃岐長尾村の超勝寺においては、本末の守るべきしきたりを失っていました。つきましては、拙寺より本山へ、その誤りについて一札を入れる次第です。写、左の通り。
(朱書)「八印」
御託証文の事
一つ、従来の本末の行うべきしきたりを乱し、不敬の至りになっていたこと
一つ、住持相続のについては、今後は急いで(上寺の安楽寺)に知らせること。
一つ、(安楽寺に対する)三季(年頭・中元・報思講)の御礼については、欠かすことなく勤めること。
一つ、葬式の際には、安楽寺への案内を欠かないこと
一つ、御申物については、安楽寺にも届けること
以上の件について背いたときには、如何様の沙汰を受けようとも異議をもうしません。これを後日の証文として一札差し出します。
これを深読みすると、安楽寺の末寺はこのような義務を、安楽寺に対して果たしてきていたことがうかがえます。丸亀平野の真宗興正派の寺院は、阿讃の山を超えて阿波郡里の安楽寺に様々なものを貢ぎ、足を運んでいた時代があることを押さえておきます。

安楽寺の末寺総数83ケ寺の内の42ケ寺が安永年間(1771~82)に「有償離末」しています。讃岐で末寺して残ったのは超勝寺など十力寺だけになります。(安楽寺文書第2箱108)。離末理由については何も触れていませんが先述したように、各藩の触頭寺を中心とする寺院統制が整備されて、本山ー中本山を通して末寺を統制する本末制が有名無実化したことが背景にあるようです。

来迎山・阿弥陀院・常光寺 : 四国観光スポットblog
常光寺(三木町)
このような安楽寺の動きは、常光寺にも波及します。
幕末に常光寺が藩に提出した末寺一覧表には、次の「離末寺」リストも添付されています。
安養寺末寺一覧
常光寺の高松藩領の離末リスト

これを見ると髙松藩では、18世紀前半から離末寺が現れるようにな
ります。
常光寺離末寺
常光寺の離末リスト(後半は丸亀藩領)

そして、文化十(1813)年十月に、多度・三豊の末寺が集団で離れています。この動きは、先ほど見た安楽寺の離末と連動しているようです。安楽寺の触頭制対応を見て、それに習ったことがうかがえます。具体的にどのような過程を経て、讃岐の安楽寺の末寺が安楽寺から離れて行ったのかは、また別の機会にします。
常光寺碑文
常光寺本堂前の碑文
常光寺本堂前の碑文には、上のように記されています。75寺あった末寺が、幕末には約1/3の27ヶ寺に減っていたようです。

以上をまとめておくと
①讃岐への真宗伝播の拠点となったのは、興正派の常光寺(三木町)と安楽寺(阿波郡里)である。
②両寺が東と南から讃岐に教線を伸ばし、道場を開き、後には寺院に格上げしていった。
③そのため讃岐の真宗寺院の半分以上が興正派で、常光寺と安楽寺の末寺であったお寺が多い。
④しかし、18世紀になると触頭制度が整備され、中本山だった常光寺や安楽寺の役割は低下した。
⑤そのような中で、中世以来の本末関係に対して、末寺の中には本寺に対する不満などから解消し、総本山直属を望む寺も現れた
⑥そこで安楽寺や常光寺は、末寺との合意の上で金銭的支払いを条件に本末関係解消に動くようになった。
⑦安楽寺を離れた末寺は、興正寺直属の末寺となって行くものが多かった。
⑧しかし、中にはいろいろな経緯から東本願寺などに転派するお寺もあった。
⑨また、明治になって興正寺が西本願寺から独立する際に、西本願寺に転派した寺も出てきた。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   藤原良行 讃岐における真宗教団の展開   真宗研究12号