瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の荘園

讃岐郷名 丸亀平野
丸亀平野周辺の郷

以前に「讃岐の荘園1 丸亀市川西町にあった二村郷 いつ、どうしてふたつに分かれたの?」を書きました。これについて、次のような点について、もう少し分かりやすく丁寧に説明せよという「リクエスト(?)」をいただきました。
「二村荘ができたときの経過は、どうなのか?」
「どうして二村郷と二村荘に分かれたのか?」
これに応えて、今回は二村荘に立荘過程に焦点をあてて見ていきたいと思います。前回分と重なる部分がありますが悪しからず。また、期待に応えられ自信もありません、重ねて悪しからず。  テキストは「田中健二 讃岐国の郷名荘園について  香川大学教育学部研究報告89号 1994年」です。
川津・二村郷地図
丸亀平野の古代郷名 二村郷周辺
 
律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。
そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。
讃岐の郷名
讃岐の郷名
二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。古代の二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
二村荘が初めて史料に登場するのは暦応四年(1341)11月日の興福寺衆徒等申状案です。その中の仁治2年(1241)2月25日の僧戒如書状に、二村荘の立荘について、次のように記されています。
讃岐国二村郷文書相伝並解脱(貞慶)上人所存事、
副進
上人消息案文、
右、去元久之比、先師上人、為興福寺 光明皇后御塔領、為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏女(故小野法印定勝女也。)時当国在庁雖申子細、上人並親康令教訓之間、去進了、爰当国在庁宇治部光憲、荒野者都藤原氏領也。(今は尊遍領地也)見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了、但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条、可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者官丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、云当時御定、随御計、可存知之状如件、
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
意訳変換しておくと
元久年間(1204~6)に、貞慶上人は興福寺の光明皇后が建立された五重塔の寺領とするために、二村郷に荘園を立荘されようとした。当時の二村郷の地主(開発領主)は藤原貞光であったので、協議の上で、七・八両条内の荒野部分を興福寺関係者である藤原氏女(故小野法印定勝の娘)に寄付させる形をとった。当時の讃岐国守にも子細を説明し、了承を得た上で、貞慶上人と親康は七・八条の立荘を行った。こうして、七・八条エリア内では、「荒野は藤原氏領(今は尊遍領)、見作は親康領」ということになった。しかし、これは里坪が混在して、非常に土地管理が困難であった。そこで両人が和与(協議)して、見作荒野に限らず、七条は親康領、八条は藤原氏女領(本田)とすることになった。ただし、「春日新宮」の後方の九町の地は七条内ではあるが八条に加え入れて「西庄」領とした。従って、七条以東の郷内はすべて親康領である
  宣旨・官丁請状案文等にも、二村郷のうち七・八両条内の見作分は、国領(公領)として京都泉湧寺へ寄付されていると記されている。以上が二村荘の当時の御定で、このような経緯を伝えるために書き残したものである。
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
この文書に出てくる貞慶(じょうけい)は、法相宗中興の祖と云われています。
解脱上人、貞慶特別展: 鹿鳴人のつぶやき
 
彼が13世紀初頭の二村荘の立荘を行ったことが、ここには記されています。貞慶(久寿2(1155)~ 建暦3(1233)年)の祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲です。何もなければ彼も貴族としての一生を送ったのでしょう。祖父信西は、保元元年(1156年)の保元の乱の功で一時権勢を得ます。ところが平治元年(1160年)の平治の乱で自害させられ、父藤原貞憲も 土佐に配流されてしまいます。生家が没落したために、幼い貞慶は藤原家の氏寺である興福寺に入るしか道がなくなったようです。こうして11歳で出家し、叔父覚憲に師事して法相・律を学ぶことになります。彼は戒律の復興に努め、勧進僧と力を合わせて寺社復興にも大きく貢献しています。
 一方、法然らの提唱した専修念仏の弾圧側の当事者としても知られています。文治2年(1186年)に、大原勝林院で法然や重源によって行われた大原問答に出席していますし、元久2年(1205年)には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めてもいます。
 貞慶は、興福寺を中心に活動を展開していました。そのような中で元久年間(1204~6)に、二村郷を聖武天皇皇后の藤原光明子が建立した興福寺五重塔の寺領として立荘しようとします。そこで先ず行ったのが二村郷の七・八条の荒野部分(礫河原)を、開発領主の藤原貞光から興福寺関係者の小野法印定勝女子へ寄付させることでした。領主の藤原貞光は、地元讃岐の古代豪族綾氏の武士化した綾藤原氏の一族です。彼については、後に触れます。

丸亀平野 条里制地図二村
鵜足郡と那珂郡の郡境と土器川

 その上で、二村郷の七・八条の荒野部分が立荘されて興福寺五重塔領となります。この文書の中で、戒如は次のように述べています。

「二村郷のうち七・八両条内の見作分は、現在は公領として京都泉湧寺へ寄付されている」

ここからは、七・八条はまだ国領があったことが分かります。整理しておくと、二村荘には二種類の土地があり、それぞれ所有者が異なっていたと云うことになります
①土器川の氾濫原で、荒地に分類されていた土地 興福寺五重塔寺領
②見作地(耕地)に分類された土地       国領地
 一方、『泉涌寺不可棄法師伝』には、二村荘の国領部分について、次のように記されています。

嘉禄3年(1227)春、泉涌寺の僧俊高が重体に陥った際に、彼に帰依していた入道前関白藤原道家が病床を見舞い、「讃岐国二村郷内外水田五十六町」を泉涌寺へ寄付し、寺用に充てた

 この「水田五十六町」が②の二村郷の見作部分(耕作地)で、国領管理下にあった領地のようです。当時、藤原道家は讃岐国の知行国主でしたから、国守権限にもとずく寄進だったようです。
 その後の文和3年(1354)12月9日の後光厳天皇綸旨には、「讃岐国七条村並二村付けたり四か名」が、泉涌寺へ安堵されています。ここから②は、泉涌寺の寺領となっていたことが裏付けられます。

丸亀平野 条里制地図二村2
土器川左岸の鵜足郡七・八条の荒地に成立した二村荘
空白部が荒地で条里制が未施行エリア

ここでは、二村郷の七・八両条は鎌倉初期にふたつに分けられたこと。その耕地部分は公領のまま泉涌寺領に、荒野部分は立荘されて興福寺領二村荘になったことを押さえておきます。この両者は、同一エリアを荒地と耕地の地種で分割したものですから、当然に所有地が混在することになります。その状況を戒如は次のように述べています。
「荒野は藤原氏領なり、今は尊遍領なり、見作は親康領なり、しかりと雖も里坪交通す」
「里坪」とは、条里の坪のことで、藤原氏女領に属する荒野と親康領に属する耕地がモザイク状に入り乱れていたようです。これでは管理上、都合が悪いので、両者の間で話し合いが行われ次のような分割案が成立します。
①耕作地と荒野の種別を問わず、七条は親康領とし、八条は藤原氏女領とする。
②但し、「春日新宮」の後方九町の地は七条内であるが八条に加え入れて「西庄」領とする。
③従って、七条以東の郷内はすべて親康領となる。
この和解案の結果、藤原氏女と親康とは、どちらも所領内の荒野部分について興福寺へ年貢を納めることになります。こうして、土器川の東側は二村郷、西側の八条は二村荘と呼ばれることになったと研究者は考えています。
香川県丸亀市|春日神社は1000年の歴史がある神社!月替わり御朱印も郵送OK
二村郷産土神と書かれた春日神社 しかし郷社ではない 

鵜足郡8条に成立した二村荘の中心地には、春日大社が勧進され、「春日新宮」と呼ばれるようになります。
藤原氏の氏神さまは春日大社で、菩提寺は興福寺です。藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するのが恒例のことでした。二村荘の場合も、興福寺領の荘園ですから氏神として春日社を祀ったのでしょう。それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
 江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているのは、荘園の立荘と関係があったようです。

  さて、二村荘の立荘については次のような疑問が残ります。

①立荘当時の二村郷の状況は、どうだったのか。七・八条だけが荒野部分が多かったのか
②耕地でない荒野部分を荘園化して何のメリットがあるのか
①については、いつものように地図ソフトの「今昔マップ」を検索して、土器川周辺の国土地理院の土地条件図を見てみましょう。丸亀平野は扇状地で、古代にはその上を線状河川がいくつもあり大雨が降ったときには幾筋もの流れとなって流れ下っていたことが分かっています。
丸亀平野 二村(川西町)周辺
丸亀平野土器川周辺の旧河川跡
上図を見ても、現在の土器川周辺にいくつもの河道跡が見え、河道流域が今よりもはるかに広かったことがうかがえます。川西町の道池や八丈(条)池は、皿池でなくて、その河道跡に作られたため池であることが分かります。道池の北側には七条の地名が残ります。

丸亀道池
道池からの飯野山

また、春日神社は八条に鎮座します。確かに、この周辺の七条・八条は、氾濫原で礫河原で開発が遅れたことが予想できます。七・八条エリアは、古代条里制施行も行われていない空白部分が多いようです。それにくらべて土器川右岸は河道跡は見えますが台地上にあり、条里制施行が行われた形跡があります。また、想像力を膨らませると、かつては七・八条に土器川の本流があって、どこかの時点で現在のルートに変更されたことも考えられます。もう一度、条里制施行状況を見てみましょう。
丸亀平野 条里制地図二村2

 空白地帯は条里制が施行されていないところです。
土器川の氾濫原だった七・八条には空白部分が相当あるのが分かります。この部分が最初に立荘され、二村荘となった部分のようです。そして、13世紀初頭には、今まで放置されてきた荒れ地に関しても開発の手が入って行きます。興福寺の貞慶が、二村郷の荒地を荘園化したのも、すでに灌漑などの開発が進められ耕地化のめあすが立っていたのかも知れません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
いままでは、興福寺という中央の視点から二村荘を見てきました。
こんどは地元の視点から立荘過程を見ていきたいと思います。先ほどの史料をもう一度見てみると、当時の所有者について、次のように記されています。
当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、

 13世紀初頭に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分の「地主」は藤原貞光だったことが分かります。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。いわゆる「開発領主系寄進荘園」だったようです。
 未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。これは興福寺の論理です。
 しかし、寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします
しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
⑥二村荘には庄家(庄園の管理事務所)が置かれていたこと。これが現在の春日神社周辺と推測されること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
 せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。

貴族政権時代の地方在地領主

13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
以上をまとめておくと
①律令時代の二村郷は土器川を、またいで存在していた
②そのうちの鵜足郡七・八条は土器川左岸にあり土器川の氾濫原で条里制が施行されない部分が荒野として放置されていた。
③鎌倉時代初頭に鵜足郡七・八条の荒野開発をおこなった開発領主が藤原貞光であった。
④彼は開発領地を興福寺に寄進し、寄進系荘園として権益確保を図った。
⑤ところが興福寺は、荘園管理のために混在していた荒地を一括して、八条エリアを荘園領地とすることを国領側と協議しまとめた。
⑥この結果、開発領主の藤原貞光の権益は大きく侵害されることになった。
⑦そこで藤原貞光は、実力行使に出たが、興福寺から六波羅探題に提訴され敗れた。
こうして、丸亀川西町の中世のパイオニアであった藤原貞光は、「悪党」として記録に残ることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   
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『八坂神社(祇園社)記録』(増補続史料大成)
 (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

前回は、この史料から京都の祇園社(八坂神社)の社領となっていた大野荘(三豊史山本町)の代官が年貢を手形で決済したことを見ました。今回は大野荘の管理にあたっていた武士をを追いかけてみます。
「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」
とあります。ここからは「際符=手形」を近藤氏の家臣が、八坂神社から年貢督促のために派遣された社僧伊予房と同道して上洛したことがわかります。そして、大野荘の管理を行っていたのが近藤氏であったようです。
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 室町時代に応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」とあって、室町期には二宮、麻のふたつの近藤氏がいたことが分かります。
①二宮近藤氏は、大水上神社領を中心とする二宮荘を根拠地
②麻近藤氏は、麻を拠点に勝間、西大野に所領を持っていた
この史料に出てくるのは②の麻近藤氏のようです。
近藤氏がどのように「押領」したのかを年表で見ておきましょう。
讃岐守護の細川氏の下で、北朝方として活動していたようです。
1354 文和3 8・4 
幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田における新宮三位房の濫妨停止を,守護細川繁氏に命じる
1355 文和4 7・1
守護細川繁氏,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の下地を祗園社執行顕詮に打渡すよう,守護代秋月兵衛入道に命じる
同年7・4近藤国頼,祗園社領西大野郷の年貢半分を請負う
1361 康安1 7・24
細川清氏,細川頼之と阿野郡白峯山麓で戦い,敗死する.
 10・- 細川頼之,讃岐守護となる
1363 貞治2 8・24 
足利義詮,祗園社領三野郡西大野郷における近藤国頼の押領停止を,守護細川頼之に命じる
14世紀半ばの祇園社領大野郷では、新宮三位房による濫妨(乱暴)が行われており、これに手を焼いた祇園社は幕府に訴え出ています。この訴えに対する幕府の対応は、新宮三位房を排除し、代わって麻の近藤国頼に代官職を任せるというものでした。これが近藤氏の大野郷進出のきっかけとなったようです。
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近藤氏の麻城へ「たけのこ道」を行く
 しかし、その8年後の貞治二(1363)年には、近藤国頼は祇園社に訴えられ「押領停止」を、命じられています。これを命じているのが新しく讃岐守護になった細川頼之です。この時期から近藤氏による「押領」は始まっていたようです。そして、その後も八坂神社と国頼の争いは続きます。

1368 応安1 6・17 守護細川頼之,祗園社領西大野郷の下地を領家雑掌に打渡すよう,守護代細川頼有に命じる. 
   9・20 守護代細川頼有,重ねて祗園社領西大野郷における近藤国頼代官の違乱を止め,下地を領家雑掌に打渡すよう,守護使田村弥三郎入道・大庭六郎左衛門入道に命じる
1369 応安2 9・12 守護細川頼之,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行うよう口入する.
  12月13日,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行う
応安元(1368)年、細川頼之は調停に乗り出します。領家職の下地を渡付するように近藤国頼に守護使を通じて命じます。その一方で翌年に頼之は、国頼の言い分にも耳を傾け、近藤国頼の代官職継続をはかります。国頼は年貢の三分の一を代官得分とするという条件で代官職請負契約を結んでいます。

細川頼之1

 この文書の端裏には「矢野左衛門口入大八色云し」とあり、矢野遠村の仲介で近藤氏と八坂神社の和解がおこなわれたことがうかがえます。守護の細川頼之が近藤国頼の権益確保を図ったのは、当時の讃岐をめぐる軍事情勢が背景にあった研究者は考えているようです。

細川頼之4略系図
当時の政治情勢を年表で見ておきましょう。
1371 応安4 三野郡西大野郷,大旱魃となる
 1372 応安5 伊予勢(河野軍)侵入し,讃岐勢は三野郡西大野郷付近に布陣
1377 永和3 細川頼之,宇多津江(郷)照寺を再興
1379 康暦1 3・22 細川頼之,一族を率い,讃岐に下る
 諸将,足利義満に細川頼之討伐を請い,義満は頼之の管領を罷免
1388 嘉慶2 この年 幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の役夫工米の段銭を免除
1389 康応1 3・7 守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1392 明徳3 3・2 守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
伊予河野氏が西讃に侵入してきた
 細川頼之が調停に乗り出した応安元(1368)年は、後村上天皇が亡くなり南朝が吉野に拠点を移し、南北間の抗争が再燃する時期です。細川頼之にとって、予想される伊予との抗争に備えて、西讃の武将達との関係強化に努める必要がありました。
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 伊予の河野氏は、一時的には九州に逃れていましたが、この年に伊予に戻り、南朝方として反撃を開始します。そして応安五(1372)年には、讃岐に侵攻し、大野郷に布陣するのです。先ほど見た祇園社への年貢が手形で納められたのは、この年のことなのです。近藤氏にとっては、まさに寺領が他国者によって踏み荒らされる状況でした。

DSC05491麻城

一方讃岐守護の細川頼之は、管領として河内・伊勢等での南朝軍との転戦で、地元讃岐に援軍を派遣できません。讃岐の武将達は苦しい戦いを強いられます。にもかかわらず近藤氏ら西讃の武将達は、侵入してきた伊予軍を大野荘近辺で迎え撃って、そこからの進軍を許しませんでした。ある意味で細川頼之の「恩=土地」に対し、近藤国頼が「忠=軍事力」で「奉公」し、「一懸命」を実践する時だったのかもしれません。 
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その後、讃岐細川方は攻勢に転じて、逆に伊予領内に侵入していきます。
①応安八(1375)年に伊予三島社に細川頼之の願文が納められていること
②永和三(1377)年に伊予府中の能寂寺に細川頼之が禁制が出していること
などから讃岐勢力が、伊予の府中あたりまでを勢力圏にしていたことが分かります。
細川頼之 54
西条周辺までが細川氏の支配領域に含まれている

以上をまとめておくと、
①当時の讃岐は、伊予河野氏と抗争中で、そのためにも近藤氏のような西讃の国人を掌握しておく必要があった。
②その一貫として、細川頼之は大野荘をめぐって対立していた近藤国頼と八坂神社の間を取り持ち、調停した
となるようです。

DSC07925
 
伊予との「臨戦状態」の中でも、大野荘は京都の八坂神社に対し、年貢、灯油、仕丁を負担したことが『八坂神社記録』の応安四年と五年の両年の記録に記されています。灯油は現物で祇園社に納めています。これは西大野郷内の名(地区)ごとに徴収されたものです。また、祇園社に労役として奉仕する仕丁も近藤氏は出していますが、それがしばしば逃亡しており、その都度、祇園社は近藤氏に通報しています。近藤氏は、祇園社と対立をはらみながらも、祇園社への宗教的な奉仕は果たしていたようです。
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 室町期の近藤国房
 近藤氏の菩提寺である財田の伊舎那院からは
「大平三河守国房法名道覚 応永元年七月二十四日」
と没年を書いた竹筒が出土しています。これは麻近藤氏の国頼の次の世代の当主・国房のことだと研究者は考えているようです。
 また、讃岐国内の段銭徴収の際に、金蔵寺領名主、沙汰人に対し、段銭徴収方式を条々書にしている文書があります。段銭は一段当たり三〇文が徴収されており、寺社領、御料所、同所々人給分も除外しないなどの事柄が記されています。この中には近藤国房が守護細川氏の使者としてこの旨を申し入れたことが記されています。細川氏の讃岐家臣団の中で、近藤氏がある程度の立場にあったことが分かります。
 国房の居城については『西讃府志』には、知行寺山城(現山本町大野・神田)の城主として大平伊賀守国房の名前が記されています。この城を根拠地として西大野郷を支配していたのかもしれません。
 ところが明徳四(1394)年に、国房は西大野郷を押領した罪に問われて、所領を没収されてしまい、その翌年に死去します。今まで見てきたように近藤氏の大野郷への「押領」は、昔から続いてきたことなのに、なぜこの時には「所領没収」という厳しい処分が出たのでしょうか。今の私には分かりません。
 国房の次の当主・国有は、西大野の上村を領有したといいます。
「大野村両社記」には、大野は上下に分かれ、下村は祇園社の負担に応じなかったと記します。上村については、麻近藤氏を通じ年貢が納入されたようです。文安三(1446)年には、麻近藤氏にあてて、10貫文の受け取りが祇園社から出されています。年貢額が70年前の応安年間の半額になっています。荘園領主側の立場の弱体化がここにもうかがえます。しかし、半額にはなっていますが麻近藤氏が年貢を、祇園社に送り続けていることがうかがえます。以前見た長尾の荘では、14世紀に入ると醍醐寺三宝院には未払い状態が続いていたことを思い出すと対照的です。それだけ、国房の時の西大野押領による領地没収処分がの効き目が継続していたのかもしれません。別の視点からすると祇園社の方が幕府への影響力が強かったのかもしれません。あるいは、大野郷に勧進された祇園社への信仰が高まり、それが本社への「納税」を自主的に行う機運を作り出すようになったのかもしれません。単なる想像で裏付けの史料はありません。 
 国有の時代は、所領を没収され経済的にも苦しい状況に近藤氏は追い込まれていたようです。
この時代にこんな讃岐侍の話が広がりました。
「麻殿」という讃岐の武士が京都で駐屯していた。「麻殿」は貧しいことで知られ、「スキナ」を「ソフツ(疎物)」としていた。人々の嘲笑をかっていることを知った麻氏は
「ワヒ人ハ春コソ秋ヨ中々二世の「スキナノアルニマカセテ」
という和歌を詠んだ。これに感じ入った守護細川満元は、旧領を返還した。田舎者と馬鹿にされていたが、和歌のたしなみの深い人物であった。
というのです。
ここからは次のような事がうかがえます
①近藤氏のような讃岐武士団が細川氏に従軍し、京都にも駐屯していた。
②京での長期間の駐屯で、教養や遊興・趣昧など教養を身につける田舎侍も現れた。
③「旧領返還」されたのは、大野の代官職のことか?
④ 細川満元の時代とあるので、麻近藤氏の国有が最有力。
それを裏付けるように、
①享徳三(1454)年に、足利義政から近藤越中守(麻近藤氏)に対して、西大野郷代官職と勝間荘領家職の安堵
②文明五(1473)年には、祇園社から十年契約で、二〇貫文の年貢を請負
とが記録されています。これが、かつて没収された「旧領の返還」だったのかもしれません。
 その後の近藤氏は・  
 応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」に麻近藤氏のものが見えます。また、細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、伊予の河野氏を攻撃します。この戦いに麻近藤国清も参加していましたが、戦陣中に伊予寒川村で病死しています。
近藤国敏は阿波三好氏と連携強化
 その次の国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。これが近藤氏衰退のターニングポイントになります。近藤氏が阿波三好氏と結んだのに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
    織田信長=天霧城の香川氏  VS 阿波の三好氏=麻近藤氏
この結果、敗れた三好側についた近藤も所領を没収されます。それが香川氏配下の武将たちに与えられたようです。近藤氏の勢力は、この時期に大きく減退したと考えられます。
 近藤氏の没落 
 そして、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まり、讃岐の戦国時代は最終段階を迎えます。麻城は、侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城したと伝えられます。近藤家の城主国久は、麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地は横死ヶ谷と呼ばれています。
 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領に麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬といった近藤氏の所領が記されていることが指摘されています。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったようです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が入植してきたようです。その後の近藤氏の様子は分かりません。しかし、近世の神田村に神主の近藤氏、同村庄屋として近藤又左衛門の名が見えます。近藤氏の末裔の姿なのかもしれません。

以上を、私の想像力交えてまとめておくと次のようになります
①麻地区を拠点としていた近藤氏は、14世紀半ばに京都祇園神社の大野荘の代官職を得ることによって大野地区へ進出した
②讃岐守護の細川頼之は近藤氏など西讃地方の国人侍と連携を深め、伊予勢力の侵攻を防ごうとした。
③そのため伊予勢力の圧迫がある間は、細川氏は近藤氏などを保護した。
④大野荘から京都の祇園神社に年貢が手形で運ばれたのもこのような伊予との抗争期のことである。
⑤この時期から荘園領主の祇園社と代官の近藤氏の間では、いろいろないざこざがあった。しかし、伊予との緊張状態が続く中では、細川頼之は祇園社からの訴えを聞き流していた。ある意味、近藤氏にとってはやりたい放題の状況が生まれていたのではないか。
⑥平和時になって、これまで通りの「押領」を続けていたが「所領没収」の厳罰を受ける。
⑦この処罰の効果は大きく、以後近藤氏は15世紀後半ころまで、年貢を祇園社に納め続けている。
⑧大野郷と祇園社は近世に入っても良好な関係が続く背景には、近藤氏の対応があったのではないか。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 高瀬町史

                          

       
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大野の須賀神社(祇園さん) 
前回は年貢計算書でしたが、今回は手形決済です。年貢を手形決済で行ったのが大野荘です。大野荘は、財田川が山域から平野部に流れ出す三豊市山本町の扇状地に開けた地域で、洪水に苦しめられた所です。ここは京都祇園宮の社領でした。荘園ができると、本領の神々が勧進されるのが常でした。大野郷では京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)を産土神と勧進します。香川郡に大野があるので、これと区別するために西大野と呼ばれたようです
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大野郷の祇園神社
 貞享5(1688)年の当社記録『大埜村両社記』には
「古老相伝ヘテ曰夕、昔牛頭天皇アリ。光ヲ放チテコノ山上ノ北二飛ビ来タル。其所今現ニアリ、コレニヨリ宮殿ヲカマエ、コレヲ祀ル」

とあります。毎年京都の祇園宮への王経供養のための御料として指定されてからは、隆盛を極めたようです。

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『大埜村両社記』には
「大埜地五百石ヲ以テ社領二付シ、七坊ヲ割テ神事ヲ守ル。富栄知ル可キナリ。大社タルヲ以テ毎歳洛ノ祇園ヨリ燈料胡麻三解ヲ課ス
とあり、毎年本宮である京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。今も、この胡麻を収納したと思われる字上岡・字上川原・字南川原の三ヵ所に塚が残っています。
  この程度の予備知識を持って「八坂神社記録」を見てみましょう。
『八坂神社記録』(増補続史料大成) (応安五年(1372)十月廿九日条)
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。
 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。14世紀後半の南北朝時代の記録になります。一行目に
  「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」
とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。前回見た長尾荘が醍醐寺三宝院に納めていたのは、米麦の現物納入でしたから、こちらの方が進んでいたようです。
ぜに 

 銭一貫=銭千枚ですから納めるべき年貢は銭二万枚です。当時の銭は、日本では鋳造されずに中国の宋銭や明銭を海外交易手に入れて、国内で「流用」していました。そのため何種類もの中国製銅銭が流通していましたが、どれも同価値扱いでした。重さは、十円王より少し重くて一枚五グラム程度です。そうすると、2万枚×5グラム=100㎏になります。100㎏の硬貨を讃岐から都まで運ぶのは、現在でも大変です。
 そこ代銭納の登場です。これは年貢を現物で納めるのに対して、銭で納めることです。しかも、実際には実物の銭は動きません。手形決済システムなのです。
  伊予房という人物が出てきます。
この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来ています。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、自分で払うことになります。
「今年年貢当方」で、八坂神社に納められる分は二十貫。
「この内一貫在国根物」とあり、「根物」というのは必要経費です。つまり、食事をしたり、泊まったりというその必要経費に一貫を使いました。
「又一貫上洛根物に取ると云々。」 
これは上洛、つまり都に運ぶ費用になります。ですから合計二貫文が引かれ、都合十八貫文になります。その後に「この際符」という聞き慣れない言葉が出てきます。後に見ることにして先に進みます。

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」

近藤という人物が西大野荘の代官
です。近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符」で年貢を持参して一緒に、上洛することになったようです。ところが、
「今日近藤他行、明日問答すべきの由伊子房申す」
とあり、どうやら今は近藤氏がどこかへ行って不在であるので、明日協議を行うことになったといいます。
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ここまでを整理すると、
①この年は荘園領主の使が、十八貫の年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符」で、京都に持参することになった。
  さて「際符」とは、なんでしょうか?
「際符」は正式の名称は割符と書いて「さいふ」と読むそうです。「さきとる、さく」という意味で「さいふ」となります。符というのは札の意味で、今の為替と同じです。この時代は「加わし」と呼んでいたようで、それが「ためかえ」で、「かわせ」に変化していくようです。ここでは「際符=為替」としておきます。つまりは、「遠隔地取引に用いられる信用手形」=「手形決済」です。この時代すでに讃岐の西大野と都の間では、手形決済が行われていたことになります。
それでは、この手形は誰が発行したのでしょうか?
また、どうやって換金したのでしょうか?
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

「際符」は、運送業者を兼ねた商人である問丸が地方の荘園で、米・麦などの年貢を購入し、代金相当の金額と京都・山崎・堺などの替屋(割符屋)の名を記した割符を荘官に発行します。荘官は、都の荘園領主のもとへ割符を届け年貢の決済を行うというシステムのようです。荘園領主は受け取った「際符」を替屋に持って行って支払日の契約を取決め、裏書を行い(裏付け)を行い現金化したようです。
 この時も讃岐財田大野で問屋が発行した「際符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやってきたのです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符」に書かれている内容は
①金額 銭十八貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
のみが書いてあったと研究者は考えているようです。ちなみに実物は、まだ見つかっていないそうです。このように代銭納というのは、実際に現金(大量の銅銭)を動かすのではなく手形決済という方法で行われたようです。確かに都まで、大量の銭を運ぶのは危険です。二十貫文=100㎏の銭は腹巻きにも入れられませんし、運ぶのは現実的ではありません。決済のためには責任者が都まで出向く必要はあったようです。
 大野荘でも代官を務める地元の近藤氏と、荘園領主の八坂神社との関係は悪化していきます。そこには、やはり「押領」があったからです。以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
次回は近藤氏が大野荘をどのように「押領」していったのかをもていきます。
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参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)

 

南北朝後の長尾荘の領主となったのは醍醐寺三宝院です。三宝院には長尾荘に関する史料が残されています。その史料から長尾荘の所務請負の状況を研究者が整理したのが下表です。
(備考の番号は、三宝院文書の整理番号)

長尾荘 長尾荘の所務請負の状況
            
上表で応永四年(1397)に、荘園管理を請け負った僧・堅円法眼(判官)が残した長尾荘の年貢納入の決算書が残っています。どんなふうに年貢が決められ、どんな方法で京都に送られていたのかが見えてくる史料です。まずは史料を見ておきましょう。
応永四年(1397)讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)
讃岐国東長尾 応永3未進分 御年貢事
 合
一、米六十五石五;十一石一斗 海上二分賃これを引く。
  尼崎まで 残る五十四石四斗、この内十五石太唐米
一 麦三十四石内 六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで
  残る廿八石、この内一石二斗もみ、麦不足、これを入る
  又五十四石四斗内 海上二分賃、 
  尼崎より京都まで九石六升六合
  定御米四十五石三斗三升四合
  又ニ十八石内 海上二分賃、
  尼崎より京都まで四石六斗 六升八合
  定麦二十三石三斗三升二合
都合六十八石六斗六升四合 京定め右、算用の状くだんのごとし。
 応永四年二月十六日 光長(花押)
 長尾荘の現地管理者堅円法眼が荘園領主の醍醐寺三宝院に年貢を運んだときのものです。何にいくらいったという計算をしています。運ばれた年貢は米と麦です。
  まず、「米六十五石五斗内」とあります。
一石は百八十㍑、だいたいドラム缶一本分です。
  「十一石一斗、海上二分賃これを引く、尼崎まで」、
 どこの湊から出たのは分かりませんが津田港か三本松、或いは引田が候補地になるのでしょう。そして、尼崎へまず運んでいます。そして「海上二分賃」とあります。これが船賃だそうです。
定額料金制度でなく、積荷の2割が運賃となるのです。ここからは、当時の運送業者の利益が大きかったことがうかがえます。船主に大きな富が集まるのも分かります。積荷の2割が輸送代金とすると

 積荷六十五石五斗×0,2=13石

になるはずですが、決算書には「十一石一斗」となっています。だいたいの相場が1/6ぐらいだったとしておきましょう。この時代はそろばんもまだ入ってきていないようです。占いの時に使う棒みたいな算木をおきながら計算しています。計算結果もよく間違っているようです。
2 赤米
太唐米=赤米
太唐米は何でしょうか?
  「残る五十四石四斗」で、この内「十五石太唐米」と出てきます。
これは「赤米」と呼ばれる米だそうです。これが讃岐で赤米栽培が行われていたことを示す最初の資料になるようです。室町時代に讃岐で赤米が栽培されていたのです。赤米は、今では雑草扱いにされて、これが田圃に生えていたらヒエと一緒に抜かれるでしょう。赤米はジャポニカ米でなく、インディカ米です。粒が長い外米の一種で、病害虫や塩害に強い品種です。そのため、海を埋め立てた干拓地の水田には向いた米だったようです。特に三豊で作られていたことが分かっています。

2 赤米2

 ここでは普通の米が足りなかったから、十五石太唐米(赤米)を足しておいたと記されます。
  「麦が三十四石、六石海上二分賃、これを引く、尼崎まで」

三十四石に対して六石、六分の1近くが運賃です。こうして船で、尼崎まで運びました。そこからは、川船に乗せ替えて京都まで運びます。次は川船の運賃計算です。

  「又五十四石四斗内、河上二分賃、尼崎より京都まで、九石六升六合、定御米」

納める年貢の量(=最初に積んだ米量)から、船運賃を次々に引かれていきます。そして、残ったものが東寺に納められたようです。尼崎から京都まで、川舟で運びますがこれには何回もの積み替えが必要でした。その都度、運賃計算が行われ、東寺に納める年貢は少なくなっていきます。
一番最後の「都合」というのは、すべて合わせてという意味です。ここでは合計という意味になるのでしょうか。

「都合六十八石六斗六升六合」

のはずですが、ここでは、四合になっています。「京定め」とありますが、これが荘園領主の三宝院に納めるべき年貢の量です。
 当時の年貢計算は、「京定め」から逆算して都に着いたときこれだけ必要だから、川での運賃を足す、海での運賃を足す、讃岐から運び出すときには、これだけの量を積んでおかなければならないとうい計算方法のようです。ここからは、年貢が、運ぶ側が運賃も人件費も負担する原則であったことが分かります。律令時代納税方法を継承しています。それを計算したのがこの算用状です。この計算ができるのはある程度の「教育」が必要になります。これができるのは「僧侶」たちということになるのでしょう。
 算用というのは決算のことです。で、結局運賃がこれだけ要りました、最終的にこれだけ納めることになりました、というのを示しているようです。ただ、こういう形で米や麦を運ぶというのは大変なことだったので、次第に銭で納める代銭納に換わって行きました。次回は、代銭納について見ていこうと思います。
長尾荘 古代長尾郷
古代の寒川郡長尾郷の周辺郷
さて、この頃の長尾荘を取り巻く情勢はどうだったのでしょうか
 讃岐の守護職は室町時代を通じて管領の細川氏が世襲しました。守護職権を代行する代官として守護代があり、東讃の守護代は安富氏でした。津田・富田中・神前の境界となっている雨滝山(253m)にある雨滝城が、安富氏の城跡です。また、長尾荘は、建武の新政の挫折によって幕府に没収された後に醍醐寺三宝院が管理するようになったようです。
長尾荘 昼寝城


   このくらの予備知識をもって、年表を見てみましょう。
1389 康応1 3・7 
守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える
1391 明徳2 4・3 
細川頼之,足利義満の招きにより上京する.
1392 明徳3 3・2 
守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
足利義満の政権が安定して、失脚していた細川頼之を宇多津に迎えにやってきた頃です。
1396 応永3 
2・19 
安富盛家,寒川郡造太荘領家職を200貫文で請け負う
2・19 石河浄志,寒川郡長尾荘領家職を200貰文で請け負う
4・25 醍醐寺三宝院領寒川郡長尾荘の百姓・沙汰人,同荘領家方を年貢400石・ 公事物夏麦62石ほかをもって請け負う
この年 若狭堅円法眼が長尾荘沙汰人・百姓等にかわり,領家方を請け負う
1397 応永4 2月 長尾荘から年貢納入(讃岐国長尾庄年貢算用状)
12月 長尾荘の給主相国寺僧昌緯,同荘の地頭・沙汰人・百姓等が除田・寄進・守護役などと称して給主の所務に従わぬことを注進する.4年・5年両秋の年貢は,百姓逃散などにより未納
1398 応永5 2・15 長尾荘の百姓宗定・康定が上洛して昌緯の年貢押取・苅田等を訴える
長尾荘をめぐる事件を年表に沿って追ってみます
14世紀末(1396)2月19日に、守護被官の
沙弥石河浄志が、200貫文で請負います。しかし,わずか2ヶ月後には村落の共同組織である惣の地下請に変更されます。請負条件は、年貢米400石・夏麦62石・代替銭25貫文の契約です。ところがこれも短期間で破棄され、今度は相国寺の僧昌緯に変更になります。荘園請負をめぐって、有力名主と地元武士団、それと中央から派遣の僧侶(荘園管理役人)の三者の対立が発生していたようです。
翌年12月には、昌緯が醍醐寺三宝院に次のような注進状を送っています。
①地頭・沙汰人らが地頭・下司・田所・公文の「土居」「給田」,各種の「折紙免」,また「山新田」などと称し,総計73町余を除田と称して,年貢の納入を拒否している
②「地頭土居百姓」は守護役を果たすと称して領家方のいうことに従わない
③領家方の主だった百姓36人のうちの3分の1は、公事を勤めない
④守護方である前代官石河氏と地頭が結んで領家方の山を勝手に他領の寺に寄進してしまった
⑤百姓らは下地米90余石について,前代官石河氏のときに半分免が行われ,残る40余石についても去年より御免と称して納入を行わない
ここには、守護や地頭をはじめとする武士の介入や,農民の年貢減免闘争・未進などの抵抗で、荘園管理がうまくいかないことが書かれています。
  これに対して農民達は、昌緯のやり方に対して逃散で対抗し、この年と翌年の年貢は納めません。さらに農民代表を上洛させて、昌緯の年貢押取などを訴えるのです。その結果,昌緯は代官を解任されています。
 室町時代初期の長尾荘に次のような問題が発生していたようです。
①現地での職権を利用して在地領主への道を歩む地頭
②百姓達の惣結合を基礎に年貢の未進や減免闘争
③請負代官の拒否や排除を行うまでに成長した農民集団
このような動きに領主三宝院は、もはや対応できなくなったようです。そこで,現地の実力者である地頭寒川氏に荘園の管理をいっさいゆだねることにします。そのかわり毎年豊凶にかかわらず一定額の年貢進納を請け負わせる地頭請の方法を採用します。
 寒川氏は寒川郡の郡司を務めてきた土着の豪族で,当時は讃岐守護の細川氏の有力な被官として主家に従って各地を転戦し,京都と本国讃岐の間を行ききしていました。
 当時の東讃岐守護代・寒川出羽守常文(元光)は,京都上久世荘の公文職を真板氏と競っていた人物で、中央の情勢にも通じた人物です。現地の複雑な動きに対応できなくなった三宝院は,守護細川氏の勢力を背景に荘園侵略を推し進める寒川氏に,その危険性を承知しながらも荘園の管理をまかせざるを得なかったのでしょう。
1399 応永6 2・13 
長尾荘地頭寒川常文,同荘領家職を300貫文で請け負う
1401 応永8 4・3 
相国寺僧周興,長尾荘を請け負う(醍醐寺文書)
1404 応永11 7・- 
寒川元光(常文),東寺領山城国上久世荘公文職を舞田康貞に押領されたことを東寺に訴える.以後十数年にわたり寒川氏と舞田氏の相論つづく(東寺百合文書)
1410応永176・21 
寒川常文,三宝院領長尾荘領家方年貢を260貫文で請け負う
 こうして応永6年に寒川常文は,300貫文で請け負うことになります。ところが寒川常文は、早速300貫文は高すぎると値切りはじめ,やがてその値切った年貢も納めません。そこで三宝院は、領下職を寒川常文から相国寺の周興に、変更し同額の300貫文で請負いさせています。
 しかし、これもうまくいかなかったようです。9年後の応永17年には再び常文に260貫文で請負いさせています。40貫の値引きです。ところがこれも守られません。三宝院の永享12年12月11日の経裕書状案には
「年々莫太の未進」
とあるので、長い間、未納入状態が続いていたことが分かります。所領目録類に長尾荘の記載はされていますが、年貢納入については何も記されなくなります。おそらくこの頃から,長尾荘には三宝院の支配は及ばなくなり、寒川氏に「押領」されたことがうかがえます。

   14世紀末・足利義満の時代の長尾荘の情勢をまとめておくと
①台頭する農民層と共同組織である惣の形成と抵抗
②武士層の荘園押領
などで荘園領主による経営が行き詰まり、年貢が納められない状態が起きていたことが分かります。
 最初に見た「讃岐国長尾庄年貢算用状(三宝院文書)」は、長尾荘から三宝院に年貢が納められていた最後の時期にあたるようです。こうして荘園からの収入に頼っていた中央の寺社は経済的な行き詰まりを見せるようになります。その打開のために東大寺は、末寺への支配強化をはかり、末寺の寺領から年貢を収奪するようになります。そのために苦しめられるのが地方の末寺です。中世・善通寺の苦闘はこのようにして始まります。

参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)
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