瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の雨乞い

まんのう町山脇
まんのう町山脇
まんのう町の山脇は、JR土讃線の財田駅の東側に拡がる盆地で、ここには念仏踊りが伝えられています。この念仏踊りがどんな系譜のものだったのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」です。

最初に滝宮念仏踊りをめぐる動きについて、次のように押さえておきます。
①江戸時代を通じて滝宮では「滝宮神社(牛頭天王社)+天満宮+龍燈院滝宮寺」が神仏混淆的な宗教センターを形成し、龍燈寺の社僧が管理運営を行ってきた。
②その布教活動として社僧(修験者)が、蘇民将来のお札などを配布するとともに、祖先供養のために念仏踊りを村々に伝えた。
③社僧達は「芸能運搬者」として、念仏踊りを村々に伝えた。
④村々は連合して踊組を組織し、夏越しの供養に風流盆踊りを惣社に奉納するようになった。
⑤その踊りは牛頭天王信仰と菅原道真の天神信仰の中心でもあった滝宮にも奉納されるようになった。
滝宮への奉納を行っていたのは、次のような踊組でした。
A北条組念仏踊り(坂出市)
B滝宮組念仏踊り(綾歌町)
C坂本組念仏踊り(丸亀市)
D七箇村組念仏踊り(琴平町+まんのう町)
E南鴨組念仏踊り(生駒藩騒動後、讃岐の東西分離後には停止)
これらの地域は、滝宮牛頭天王社の信仰エリアであったことになります。
 さて山脇集落に話を戻します。山脇はこのうちのDの七箇村組に所属していたことが資料から分かります。それがどうして、「山脇念仏踊」を踊り出したのでしょうか?

大正時代に書かれた「念仏踊り略縁起」には、次のように記されています。
抑此の念仏踊は日本念佛の元祖法然上人の始め給ひしものなり。上人御年七十五歳の御時、流罪の御身となりて建永二年二月二十六日護岐の国塩飽の地頭駿河権守高階保速の方に御着。それより日を経て善通寺並に金昆羅権現へ御参詣の働り南の方を眺め給へば紫の雲のたなびく所あり。定めて有縁の霊地ならんと即ち宮田の西光寺へ歩を運ばせ給ひ御滞留。寒くとも袂に入れよ西の風弥陀の国より吹くと思へばと御詠ありて日夜衆生に念仏を動め給へ共其の頃一般の人心信仰の念薄く念仏を唱ふるもの砂かりき。然るに不思議なるかな上人念仏御修業の御徳にて岸石に泉を得給ひ、或は庭前の松に夜な夜な明星天下りて影向し給へり。又其の年夏照り打続き草木将に枯死せんとするに至りて上人日く念仏を唱ふれば必ず雨降るべしと。それより南方山脇と云ふ在所へ歩を運び給ひ、丘上に衆人を集め手踊りに念仏を合し盛に踊らしめたるに忽ち雨降りければ、人々生還の思ひをなして喜悦すること一方ならず。それより念仏踊りと称して後生に永く伝へられ、封建の昔は非常なる格式を与へられ遠く滝宮に至りて踊るを例とせられ、史実に残る西七ケ村の念仏踊り乃ち之れなり。
上人の衆人を集め給ひし丘山は山脇より阿波の国東山に超ゆる街道の畔の南に轟瀧眼下に上讃本線さぬき財田駅更に西方は遠く遂灘眺望絶佳の地にて法然上人をまつる廣場通称念仏場乃ちこの由緒
を樽へる踊り磯祥の地なり。時うつり世は変りて明治の文化開けて幾星霜全く村人より忘れられ
んとせしが、大正の末期古老有志相諮りて比の曲緒ある念仏躍を復活し、上人の御徳を偲ぶことを得たり。では謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませぅ。合掌
  意訳変換しておくと
そもそも、この念仏踊は日本念佛の元祖法然上人が始めたものである。上人75歳の時に、讃岐流罪となって、建永2年2月26日に護岐国塩飽の地頭である駿河権守高階保速の方に到着した。その後に、善通寺や金昆羅権現へ参詣した際に、南方を眺めていると紫の雲のたなびく所が見えた。これは有縁の霊地だろうと、宮田の西光寺(法然堂)までやってきて留まった。
その時の御詠が
寒くとも袂に入れよ西の風 弥陀の国より吹くと思へば
こうして日夜、衆生に念仏を勧めた。しかし、その頃の人々は信仰の念が薄く、念仏を唱ふるものも少なかった。ところが不思議なことに、上人の念仏修業の徳によって、岸石から泉が湧き、庭前の松に夜な夜な明星が天下りて影向したりした。また、その夏は旱魃で草木が枯れ、作物も育たない有様であった。そこで上人は「念仏を唱えれば必ず雨降るべし」と云い。宮田の南方の山脇まで歩を進め、丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。するとたちまち雨が降り、人々生き返る思いと喜悦した。以後、これを念仏踊りと称して後生に永く伝へることにした。
 江戸時代には、高い格式を与えられ滝宮にも奉納されたと伝えられる。史実に残る西七ケ村の念仏踊りがそれである。
上人が衆人を集めた丘山は、山脇から阿波の国東山に続く街道沿いの岡で、南に轟(とどろき)滝、西には土讃本線さぬき財田駅、さらに遠く燧灘まで見える眺望絶佳の地である。この丘が法然上人をまつる廣場(通称念仏場)であり、この由緒を伝える踊り発祥の地である。時は移り、世は変わってこのことは村人から忘れ去られようとしている。そこで大正の末期、古老有志で相談し、由緒ある念仏踊りを復活し、上人の御徳を偲ぶこととした。謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませう。合掌
以上を要約しておくと
①讃岐に流刑となった法然は紫の雲のたなびくのを見て宮田の法然堂(西光寺)に留まった。
②夏の旱魃に法然は山脇の丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。
③するとたちまち雨が降り、これを念仏踊りと称して後生伝へた。
④これが七箇村念仏踊りの起源で、滝宮へも奉納された格式高い念仏踊りである。
⑤忘れ去られようとしていた念仏踊りを大正末年に復活させ、法然上人を偲ぶことにした。
宮田の法然堂
まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
ここでは山脇念仏踊は、法然上人によって始められたことが強調されています。ちなみに雨乞い踊りの由来に登場する伝播者を振り返っておくと、次のようになります。
A 滝宮念仏踊  菅原道真の雨乞成就に感謝して
B 佐文綾子踊  弘法大師が綾子に伝授
C 山脇念仏踊  法然上人
この「伝書」には、念仏踊りの踊り方や下知役の踊り方などの指南書的な内容になっています。大正末年には、昭和9・14年に匹敵する大旱魃が襲ってきました。そのため県などでも為す術がなくて、市町村に雨乞踊りの復活を通達を出しています。こうして何十年ぶりかに復活した雨乞い踊りを残すための踊り方指南書や、持ち物製作手順や由緒書きなどが新たに書かれます。佐文の尾﨑清甫が最初に綾子踊に関する記録を残すのも大正時代のことでした。ここでは、各地で雨乞い踊復活運動が起こり、新たな記録が残されたことを押さえておきます。

この伝書には「法然が山脇で念仏踊りを始めた。」
「念仏踊りの発祥の地が山脇だ。」、
そして山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊に「発展」したのだとされていました。これを検証しておきます。
まず、七箇村組念仏踊りのメンバーを見ると、「旧仲南町 + 旧満濃町の岸の上・真野・吉野 + 旧天領(五条・榎井・苗田・西山」など、数多くの村々の連合体だったことが次の表からは分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

その中で、山脇村に対しても役割や動員人数が割り当てられています。山脇は西七箇村に属しますが、構成メンバーの一員にしか過ぎません。ここからは、山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊りに成長・発展したとは云えないようです。それよりも踊られなくなった七箇念仏踊りを、山脇だけで復活させたと見た方が良さそうです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

   諏訪大明神(真野諏訪神社)に奉納された七箇村組念仏踊

どうして七箇念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか? 
①滝宮牛頭天王社の龍燈寺が廃仏毀釈運動の中で廃寺となり、滝宮念仏踊りの主催者がいなくなった
②七箇念仏踊自体が「天領+丸亀藩+高松藩」領の寄せ集め集団で内紛が絶えなかったこと
以上の理由から七箇念仏踊りは、空中分解してしまいます。そのような中で、西七箇村の最も西で、三豊郡境に接する山脇集落では、自分たちだけで念仏踊りを復活させようとしたのだと研究者は考えています。これは佐文の綾子踊も同じような歩みを辿ります。佐文の場合は、いろいろな騒動を組内で起こし、主要な役割を失っていきます。そのため佐文単独で風流踊系の綾子踊りを導入していたようです。どちらにしても、山脇と佐文という七箇村組の「西方辺境」の二つの集落が、自分たちだけで雨乞踊りを復活させようとしたのです。

龍燈院・滝宮神社
 滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)と天満宮を管理していたのは龍燈院

まんのう町民具館(旧仲南北小学校)の展示室には、山脇念仏踊の鉦がひとつ保存されています。
鉦の縁に「西七ケ村、山脇、香川景親」と彫り込まれています。この鉦の他にも、山脇にはこれと同じ鉦を保管する家が10軒ほどあると聞きます。この鉦からは次のような事が分かります。
①鉦の中側には「池下氏」と墨書があるが、年代がないのでいつのものかは分からない
②鉦の外側に紐をつける耳があり、経の糸を織としてそれに持ち手をつけてある。
③形や大きさは、坂本念仏踊のものと同じもの
なお、七箇念仏踊の「鉦打」は、60人。そのうち山脇が属する西七ケ村には21人が割り当てられています。

以上をまとめておきます
①大正時代に書かれた山脇念仏踊りの由来には、讃岐に流刑となった法然が、旱魃の年に山脇の丘の上に衆人を集めて、念仏踊りを踊らせたと書かれている
②それが山脇念仏踊の始まりで、これが後世に七箇村念仏踊りとして、滝宮へも奉納されるようになったとする。
③しかし、史料的には山脇は七箇念仏踊りの一員に過ぎず、中心的な役割を果たしていたわけではない。
④明治に七箇村組念仏踊が解体した中で、大正期の大旱魃の際に山脇が単独で念仏踊りを復活させたものが現在に継承されていると研究者は考えている。
どちらにしても、明治以後に踊られなくなり、忘れ去られようとしていた讃岐各地の雨乞い踊りが一時的に蘇るのが、大正の大旱魃期でした。県が市町村に、雨乞踊りや祈願の復活実施を指示したのが、そのきっかけです。その結果、多くの村々で雨乞い踊りが復活します。それは山脇や佐文でも同じでした。その際に、きちんとした資料や由来書を残したところが現在にまで継承されているように私には思えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」
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佐文誌には、1939(昭和14)年の大干魃の時に青年団が雨乞いのために、金刀比羅宮に参拝して神火を貰い受けてきたことが、白川義則氏の日記として次のように載せられていました。(意訳)。
(1939年)7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)

ここからは金毘羅さんが雨乞祈願先として選択されていることが分かります。そして金毘羅は近世から雨乞の聖地としても農民達の信仰を集めたいたという説もあります。これは本当なのでしょうか?

今回は金刀比羅宮の雨乞祈願について見ていくことにします。
テキストは「前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)」です。
明治維新の神仏分離で、金毘羅さんは大権現という仏式スタイルから金刀比羅宮(神道)へと大きく姿を変えます。同時にそれまでなかった信仰スタイルを打ちだすようになります。それが「海の守り神」というスローガンです。ここで注意しておきたいのは「海の神様」という信仰は、金毘羅大権現時代にはあまり見られなかったことです。これは幕末から近代になって、大きく取り上げられるようになったものであることは以前にお話ししました。特に明治になって琴綾宥常によって設立された「大日本帝国水難救済会」の発展とともに拡がっていきます。ある意味では、明治の金刀比羅宮になってから獲得した信仰エリアともいえます。これと同じようなものが雨乞信仰なのではないかと私は考えています。
金光院の「金光院日帳」で、雨乞いに関する記事を見ていましょう
金光院日記は、金昆羅大権現の金光院の代々の別当が記した一年一冊の公用日記です。宝永5年(1715)から幕末まで続く膨大な記録ですが、公用的な要素が強くて、読んでいてもあまり面白いものではありません。それを研究者は雨乞記事を抜き題して、次のように一覧表化します。
金毘羅大権現への雨乞一覧 江戸時代
江戸時代の金毘羅大権現の雨乞記録(金光院日帳)

一番最初に、正徳3年(1713)7月2日に「那珂郡大庄屋ョリ雨乞願出」とあります。これが最も早い記録のようです。ここからは次のようなことが分かります。
①約百年間で、雨乞事例は15例と少ない。
②近隣の那珂郡や多度郡に限られている他には、高松藩や丸亀藩からも雨乞祈願があるだけであった
③祈願者は、庄屋や奉行・代官・山伏などで、そこには農民の姿は見られない。
これを見ると江戸時代の金毘羅大権現は、雨乞祈願のメッカとしては農民に認知されていなかったことがうかがえます。

以前にお話したように、讃岐各藩では雨乞祈願のための「専属寺院」が次のように指定されていました。
高松藩   白峰寺
丸亀藩   善通寺
多度津藩  弥谷寺
これらの真言宗の寺で、空海によって伝えられた善女(如)龍王を祀り、旱魃時には藩の命で雨乞祈祷を行っていたのです。正式な寺社では、公的な雨乞いが行われ、民間では山伏主導のさまざまな雨乞いが行われる「棲み分け現象」がとられていたことは以前にお話ししました。
 そし、明治時代の雨乞い記事は「名東県高松支庁より祈雨の祈祷を命じられる」と1例あるだけで、明治6年8月10日から17日まで雨乞祈祷が行われているだけです。明治・大正は、このような状況が続きます。
 それが大きく変化するのが1934(昭和9)年です。

 金刀比羅宮雨乞一覧1934年の旱魃
1934年の金刀比羅宮への雨乞祈願 
象頭山麓の村々を中心に、愛媛・高知・岡山など遠方から、雨乞いの祈祷に人々がやって来ています。この背景には、この年に西日本全体が大干魃に襲われたことがあるようです。時の香川県知事が「雨乞祈願」として、善通寺11師団長に大砲を大麻山に向けて発射することを依頼しています。また県知事は、各市町村に雨乞いを行うように通達しています。これを受けてさまざまな雨乞い行事が、旧村ごとに行われます。
この表からは次のような事が読み取れます。
①1934(昭和9)年7月2日から8月18日の間に67の団体からの雨乞祈願参拝があった。
②「祈願者 部落名他」という項目にあるように、祈願者が市町村ではなく「部落(近世の村)」であったこと
③旱魃深刻化する7月初旬から、大川郡・木田郡・香川郡など、香川県東部の村や町から始まった
④地元の仲多度郡からは「7月9日郡家村大林 11日十郷村買田 12日十郷村宮田」が7月中見える。
⑤8月になると、仲多度・三豊・綾歌郡などにも拡がっていくが、すべての村々が雨乞祈願におとづれているわけではない。
⑥佐文集落の名前はないので、この年の旱魃には金刀比羅宮への雨乞祈祷は行っていなかったようです。佐文が初めて金毘羅さんへ神火をもらいに行くのは、1939年からだったことが分かります。
「神火返上日」という欄があります。これはもらって帰った神火の返上日が記されています。神火は、験があってもなくても必ず返上しなければならなかったようです。

金毘羅さんからいただいた神火は、どのようにあつかわれていたのでしょうか? 武田明氏は、次のように記します。
讃岐の大川郡や綾歌郡の村々では雨が降らないとこんぴらのお山に火をもらいに行く。
  昔の村落の生活には若衆組の組織があったから何日も雨が降らぬ日がつづくと、村の衆がよりより相談の上、若衆に火をもらいに行ってもらう。割竹を数本巻いて、長さが一米ばかりのたいまつを作る。竹の中には火縄を入れて尖端にはボロ布などをつける。若衆はそれを持って行き、こんぴらさまの本宮で神前に供えた燈明の火をもらい、我村まで走って帰る。途中で火が消えてはならぬのでリレー式にうけついで、やっとわが村へ帰ると、其の火を村の氏神の燈明にうつして、村の衆一同で祈願をこめる。そうすると雨が浦然と降ってくるのだという。

 「神火」を持ち帰える時の注意は、次の通りでした。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
1939年の大干魃の時には佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいて降雨祈願したことを以前にお話ししました。

以上から私が疑問に思うことを挙げてみます
①明治・大正期に金毘羅さんに雨乞いに訪れる集落はなかったのに、どうして昭和9年になって急増したのか。
 これを解く鍵が1934(昭和9)年の次の写真です。

DSC00556
 盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝(金刀比羅宮)
この写真は1934(昭和14)年7月7日に始まった盧溝橋事件(支那事変)2周年記念祈願参拝の模様です。場所は、金刀比羅宮本宮前です。説明文には次のように記されています。
 皇威宣揚と武運長久の祈願祭を行った。遠近各地より参拝者が多く、終日社頭を埋め尽くした。写真は、県下青年団が団旗のもと参拝した時のようす。提供 瀬戸内海歴史民俗資料館)

ここに集まっているのは、武運長久を祈願する各町村の男女青年団員であることが分かります。この時期の日本は、満州事変を起こして終わりの見えない「日中15年戦争」に突き進んでいました。戦争の長期化への対応策のひとつとして政府が推進したのが戦意高揚のための神社への集団参拝です。
DSC01528
金刀比羅宮に奉納された武運長久を祈願する幟

靖国神社や護国神社と共に地方の主要な神社が対象として指定されます。香川県では明治以来、神社庁の拠点があったのは金刀比羅宮でした。そこで、県下からの集団参拝先として選ばれたのが金刀比羅宮になります。その時にこの運動の先頭に立ったのが各集落の青年団でした。この時期の青年団員にとっては、集団参拝と云えば金毘羅さんだったのです。
戦時中の金刀比羅宮日参動員
家族・一族の金刀比羅宮への集団参拝

その結果、県知事が「雨乞祈願」を通達したときに、東讃の青年団の若者達は、金毘羅さんへ集団参拝して「神火」をもらって帰ります。それが青年団ネットワークを通じて、周辺へも広がり青年団による「神火」受領が大幅に増えたと私は考えています。
DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
                     戦時中の金刀比羅宮への集団参拝       
もうひとつの疑問は、それまでの佐文は、財田上の渓道(たにみち)龍王社から「神火」を迎えていました。それがどうして1939年の大干魃からは、金毘羅さんから迎えることに変更されたのか?
これも今説明してきた時流の中で、解けるように思います。
①満州事変後の国威発揚のための集団参拝の強制
②その先頭になって集団参拝を繰り返した青年団
③昭和の2つの大旱魃の際の「雨乞祈願」先として、金毘羅さんの選択
④それまでの雨乞信仰先であった財田上の渓谷龍王社から、金毘羅さんのへ転換

以上をまとめておくと、
①近世から大正時代までは、農民が金毘羅大権現を雨乞信仰先としていた史料はない。
②金毘羅さんが農民達の雨乞信仰の対象となるのは、国家神道のもとでの戦意高揚策が叫ばれるようになった戦前期のことである。
③それを定着させたのは、集団参拝を繰り返していた青年団が金毘羅さんの神火を迎えるようになってからのことである。

こうして見ると庶民信仰としての雨乞祈願が、時の国家神道に転換されたことになります。佐文ではそれまでの渓道龍王は次第に忘れ去られていきます。そして、戦後は金毘羅山からの「神火」のもらい請けだけが語り継がれることになります。

長い間、金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明氏は「金毘羅信仰が庶民信仰」として捉えられることに疑問を持っていました。
そして金毘羅大権現の成長・発展の契機は、次の点に求められると指摘します。
①長宗我部元親の讃岐支配の宗教センターとしての整備
②金光院院主の山下家出身のオナツが時の生駒家の殿様の寵愛を受けたことによる特別な保護
③髙松藩初代藩主松平頼重による保護
④その後の各大名の代参や石造物などの寄進
⑤明治維新でいち早く金毘羅大権現(仏式)から金刀比羅宮(神道)への転身に対する新政府の保護
ここからは時の支配者や政権の保護を受けて、それを庶民達が追認していくという道筋が見えて来ます。庶民信仰の前に権力者の庇護があり、それを利用しながら信仰拡大に結びつけた行った姿が見えてきます。戦前の金毘羅さんへの雨乞祈願にも、そのようなパターンがあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       前野雅彦  こんびらさんの雨乞い ことひら59(平成16年)

              
讃岐は記録を見ると、近世には約5年に1度は千魃が起きています。特に寛永3年(1626)・明和7年(1770)・寛政2年(1790)・文政6年(1823)が大千魃の年であったようです。この干魃に対して、藩専用の雨乞い祈祷寺院として、丸亀藩は善通寺を、多度津藩は弥谷寺を指定していました。それでは、高松藩の雨乞い寺院は、どこだったのでしょうか。

P1150748
白峯寺の善(女)龍王社

 白峯寺に紫陽花を見に行きました。

伽藍の中で一番上にある本堂と大師堂にお参りして、ついでに洞林院跡を見ておこうと思って東に伸びる道を辿ろうとすると堀に囲まれて「善如龍王」の小さな社がありました。
2善女龍王 神泉苑g
神泉で雨乞い祈祷を行う空海とそこに現れた子蛇(善如龍王)

善女龍王については、これまでも紹介しました。空海が平安京で、雨乞い祈祷を行った際に祈った水神とされます。姿は、時と共に次のように「進化」します。
当初は  表記は「善龍王」で、姿は「小さな蛇」
高野山で、表記は「善龍王」で、姿は「唐服姿の男子像にしっぽ」
醍醐寺で 表記は「善龍王」で、姿は「女神化」
この変化の背景には、雨乞い祈祷の主導権をめぐる醍醐寺の戦略があったことは、以前にお話ししました。ここでは醍醐寺によって女神化する以前には、龍王は「善如龍王」と表記され男神像として描かれていたことを思い出します。それでは白峯寺の龍王は、どうなのでしょうか。
P1150750
白峯寺の雨乞い水神は「善龍王」と書かれていた

社殿には「善如龍王」と書かれています。帰ってから白峰寺に残されている善如龍王の絵図を見てみると次の通りです。
白峯寺 善女龍王2
白峯寺の善如龍王(後に龍のしっぽが見える)
  唐の官僚衣装を身につけた男子像姿です。ここからは次のようなことが分かります。
①白峯寺では水神「善如龍王」に対して雨乞い祈祷が行われていた。
②水神は醍醐寺の「善女龍王」ではなく高野山スタイルの「善如龍王」であること
③これは白峯寺が高野山と直接的に結びつき、人とモノの交流が頻繁に行われいたために高野山の雨乞い方式が伝えられたことによる
善女龍王
女神化した醍醐寺系の善女龍王

2善女龍王の表記1

それでは白峯寺の雨乞祈祷は、どのように行われていたのでしょうか。
「白峯寺大留」・「白峯寺諸願留」の中に、高松藩が干魃に際して白峯寺に雨乞祈祷を行なわせている記事が多く出てきます。それを今回は見ていくことにします。テキストは「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
5善通寺
善通寺の善龍王社

白峯寺の最初の雨乞いの記事は、宝暦12年(1762)のものです。
崇徳上皇600年回忌の前年で、それに向けて白峰寺の伽藍整備計画が髙松藩藩主松平頼恭によって進められていた頃になります。
雨が降らず「郷中難儀」しているとので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。雨乞い中に少しの雨は降りますが、効果はなく雨乞祈祷は27日まで行われます。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。ちなみに、白峯寺の善如龍王社もこの時期に、境内に姿を見せるようです。

2善女龍王 高野山
高野山の善如龍王 (小さな尻尾が雲の中から見える)

文化3年(1806)には、5月7日に雨乞いが命じられます。
この時には翌日8日から10日朝まで祈祷が行われます。が、効果がありません。そこで髙松城下へ場所を移して、11日に大般若祈祷を勤めて、12日から雨乞祈祷を再開しています。15日になってようやく降りますが、それも「潤沢」ではなかったようです。そこで、白峰寺の法力だけでは不足とされたのでしょうか、22日からは五智院(阿弥陀院?)・地蔵寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院・白峯寺の十か寺が揃って雨乞祈祷を行っています。この十か寺は、各郡に一か寺ずつ置かれていた「五穀成就之御祈祷」に指定されていたお寺でもあるようです。
郡奉行からは、雨が降るまで雨乞い修法を行うように命じられています。エンドレス祈祷の始まりです。ようやく待望の雨が25日に降りますが「潤沢」ではありません。そこで白峯寺は27日に6月朔日までの降雨祈蒔修法を行う事を寺社役所と郷会所へ伝えています。さらに6月朔日には、引き続き修法を行うことにしています。しかし、その後も降雨はありません。6月19日には、再び十か寺へ26日までの雨乞修法を行うことになります。この時の十か寺の合同修法は、五智院へ他の九か寺が集まって実施されています。この時の干魃がいつまで続いたかはわかりません。雨乞いは、エンドレスであったことを押さえておきます。この時には、5月7日から始まって6月26日まで祈祷しても雨が降らずに、その後も続けられたようです。

2年後の文化5年にも6月22日に雨乞執行が命じられ、翌日の23日晩から行われています。この時は、28日晩から大風雨となったため、雨乞執行は期限通りに9日で終わっています。

文化14年の旱魃の時には郡奉行から、雨乞祈祷を行うように命じられています。
22日から白峰寺で祈祷が始まり、開始5日後の27日に降雨があっりました。そのため十か寺の合同雨乞祈祷は行われませんでした。
このように白峯寺は、高松藩の雨乞祈祷担当寺院でもあり、藩からの依頼に応えて雨乞祈祷が行われていたのです。

P1150747
白峯寺の善如龍王社

19世紀になると、地域の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化2(1805)年に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いがあり、5月から行っています。(「白峯寺大留」7-6)。
文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(報告書312P)
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、近隣の村々の有力者の支持や支援を受けることにつながって行きます。以前にお話しした弥谷寺でも、多度津藩の雨乞祈祷寺院になることで、大庄屋の支持を得て、彼らの墓碑が建てられ、いろいろな奉納物が寄進されるようになりました。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。
P1150751
白峯寺の善如龍王社

文化7(1810)年には、青海村単独での五穀豊穣・雨乞い祈祷の依頼がありました。

文化七午年十一月十一日、青海政所嘉左衛門殿致登山申様ハ、当秋己来雨天相続、此節麦作所仕付甚指支難渋仕候、依之大小政所評定之上二夜三日之間、五穀成就御祈稿修行頼来候所、折節院主出府仕居申候二付、義観房私用も有之二付致出府、示談仕、当十四日より十六日迄之間、常例之通二五大虚空蔵法修行仕候様、相決し、院主十二日二帰峰仕、十四日より十六日迄五大虚空蔵法修法仕、助呪等諸事例月之通、尤導師意楽二而止風雨之本尊大檀向之右之方江奉掛井修法申印明等相加江行法仕候、且又十五日中国二相当り朝大小政所井組頭共人九人斗致参詣、吸物酒井蕎麦切茶漬等致饗応候、但し役所向届方之義ハ勤方江相尋候処、郡方よりも申出不仕候旨二付、当山よりも役所江ハ届ヶ不仕候、

  意訳変換しておくと
文化七(1810)年11月11日に、青海村の政所嘉左衛門殿が登山してきて次のような依頼をした。この秋は雨天が続き、麦の成長がよくない。そこで、大小政所が集まって評定し、二夜三日間、五穀成就の祈祷修行をお願いすることになったという。
 しかし、院主が出府、義観房も私用で不在であることを告げ、相談した結果、十四日より十六日までの間、通例通りの五大虚空蔵法修行を行う事になった。院主は十二日帰峰し、十四日より十六日迄五大虚空蔵法を修法した。助呪などの諸事例は通例通りで、導師意楽が主催し、本尊大檀に向かって右側に奉掛や修法申印明などが位置して行法した。十五日朝には、大小政所や組頭たち九人が参詣し、吸物酒並びに蕎麦・切茶漬などを饗応した。但し、役所への届出については、藩の勤方に相談したところ、青海村単独の雨乞いなので必要なしとのことであった。そのため当山からは役所へは届けなかった。

ここらは「藩 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し「民衆化」していること。当初は雨乞い祈願であったものが、二毛作の麦も含めた「五穀豊穣」のための祈願と姿を変えながら「守備範囲」を広げていることがうかがえます。
5善女龍王4jpg
神泉苑の善女龍王朱印
文化10(1813)年の暮れにも、秋から降雨が少なく、溜池の水が減って麦・莱種子の生育がよくないとして、阿野郡北の大政所は「五穀成就雨乞」の祈祷を依頼しています。その翌年の文化11年4月に入っても雨が少なかったらしく、阿野郡北大政所の富家長三郎は白峯寺に出向いて、降雨祈蒔を願い出ています。この祈祷に続いて郡奉行からも引き続き祈祷を続けるよう命じられています。
 周辺の庄屋たちの依頼による祈祷活動を年表化しておきます。
文政3(1830)年「稲作虫指」のため「虫除五穀成就」の祈祷
文政7(1834)年 阿野郡北の大政所単独の祈願依頼。(要約)
青海村の政所嘉左衛間が白峯寺へきて、この秋以来雨天が続き、麦の作付けが困難になっているので、大・小政所が相談して、二夜三日の五穀成就の祈祷をお願いしたい。これに応えて、11月14日から16日に「修行」実施。15日には大・小政所と組頭8・9人が白峯寺へ参詣。
文政12(1839)年6月 阿野郡北の依頼で、「虫除五穀成就」の祈祷
PayPayフリマ|絶版 週刊原寸大日本の仏像12 神護寺 薬師如来と五大虚空蔵菩薩 国宝 薬師如来立像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵

最後に、どんな祈祷が行われていたのかを見ておくことにします。

先ほど見た1810年の史料には「通例通りの五大虚空蔵法を修行」
とありました。ここからは「虚空蔵求聞持法」を唱えながら護摩が焚かれたことが考えられます。しかし、これだけではよく分かりません。
文化五(1809)年6月の記録には、次のように記されています。
敷地書状政所へも届け申候、於頓証寺例之通り水天供執行荘厳等。前々之通り衆徒皆参 
初夜申刻ョリ             出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

一十四日夜五ツ時少バラバラ雨降ル 真正
一廿七日、早てより終日日曇り五ツ時ホコリジメリニ降ル
一廿六日、香西植松武兵衛参詣〈西瓜大一酒二升/持参)
一廿七日西庄大政所参詣酒二升
一同日高屋政所来ル、初穂一メ
一廿八日晩方より日曇り夜九ツ時分より降出、翌十九日
終日大風雨二而、降雨廿八日栗原理兵衛、尾池彦太夫
二人同道二而参詣、右大風雨故、川越出来[  ]へ廿九日
滞留、翌晦日早て二帰ル
意訳変換しておくと
敷地書状を政所へも届け、頓証寺でいつものように水天供執行の荘厳を行う。 前例通りのメンバーが集まってくる 
初夜は申刻から祈祷が始まった。出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

24日 夜五ツ頃 ぱらぱらと小雨が降る 真正
27日 晴天から終日曇りに変わり、五ツ頃から埃を湿らす程度に降ル
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
 同日 高屋の政所も来る、初穂一〆
28日 晩方から曇り、夜九ツ時分から降り出す
29日 終日大風雨
右雨乞修行之届申
ここからは、祈祷が行われた場所や、白峯寺やその子院の住職が役割が分かります。実施場所については、私は善如龍王社の前で行われていたのかと推測していたのですが、そうではないようです。頓證寺を会場として荘厳したと記されています。頓證寺が白峰の公的な祈りの場であったことがうかがえます。
 面白いのは次の記録です。
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
里の村々の有力者が、雨乞い祈祷を見守るために参詣しています。その際に、酒2升やスイカを持参しています。雨乞い成就の際には、それなりのお礼が行われます。そして、積もり積もって、土地寄進や灯籠などの寄進につながったようです。
翌年の文化6年も雨不足だったようで、雨乞い祈祷が次のように行われています。(要約)
5月14日晩方から雨乞修行を頓証寺に壇を設け荘厳して、修法水天供を始めた
一導師   院主増明法印
一助呪   義観房   自光房 善能房   深賢房
十四日の朝方にぽろぽろ降り始め、夜分にも少し降った。十五日には恒例の五穀祭りに、大小政所も参詣のためにやってきた。大政所の青海政所へ雨乞修行のことについて申聞させた。十五日の晩方から十六日朝まで大雨となった。そのため十六日朝には檀を撤去し、朝より法楽理趣三味となった。(後略)
ここからは、雨乞い祈祷が頓證寺の境内の中に壇を築いて、荘厳して行われたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」

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この資料からは次のような事が分かります
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参考文献 丸尾寛  日照りに対する村の対応

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