瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐の霊山

   
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 善通寺の西に並んでいる山々を五岳(ごがく)と呼びます。東から香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山のことで、我拝師山はその中央に象の頭のようなどっしりとした山容で聳えています。
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  この山の麓や谷間からは、数多くの銅剣や銅鐸類が出土しています。また、現在の農事試験場から「子どもと大人の病院」に架けては、改築工事で地下を掘る度に遺物が出土していて、この辺りが「善通寺王国の都」があった所と研究者は考えているようです。ここから見上げる五岳は、霊山としては最高です。五岳の盟主である我拝師山が古くから霊山として崇められてきたことは、この山を見ていると納得できます。
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 この山には早くから行者たちが入ってきて修行をおこなっていた気配があります。そして、空海もこの山で「行道」し、「捨身」を行ったという話が伝わっています。

まず、幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説を見てみましょう。
ある日、真魚(まお)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
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4 捨身ケ嶽というのは捨身の行場ということです。
 『日本霊異記』には、奈良時代の辺路修行者が実際に捨身をしたことが、いくつも記されています。本元興寺の稚児が身を投げたという記事が、平安時代の中期ごろに、醍醐天皇の皇子重明親王が書いた『史郎王記』という日記の中にも出てきます。この頃は、盛んに捨身が行われていたようです。そのため養老二年(718)に出された養老律令の坊さんと尼さんを取り締まる「僧尼令」の第二十七条に、「焚身捨身を禁ず」という条があります。
 焼身自殺が焚身、高いところから飛び下りることが捨身です。惜しげもなく命を捨てる修行者が多く出たので、法律で禁止しなければならなくなったのでしょう。
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   今も大峰山で行われている「覗き」の行は、捨身の形を変えたものかも知れません。
 命綱はありますが、突き出されたときにひやっとします。そのときに新しい魂が入って生まれ変わるのだといいます。「覗きの行」は、「捨身」を真似て安全を確保した上で「擬死再生」を体験させているのかもしれません。死んでしまったら元も子もないので、死の一歩手前ぐらいの体験をさせて「生まれ変わった」とするようになったのでしょう。「今日は、これくらいでゆるしてやろか」というところでしょうか。
 死に向き合うという宗教体験をすることによって、今までとは違う自分に気づき、新しい何かを自分のものとすることがあります。現実の見方が変わり「自己確立」への道が開かれるということもあります。
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  さて、事件は現場で起きる、現場を見てから話を進めよという原則に従って、捨身ケ岳に行って見ましょう。まずは、出釈迦寺にお参りします。境内には私の知らない間に、こんな太子像がありました。ここでも空海は、虚空蔵求聞持法の修行を行ったようです。空海の行場であるという事を、お寺は掲げています。

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 この寺は、かつては捨身が嶽の遙拝所でした。それが発展してお寺に成長してきました。
出釈迦寺の本堂から整備されたアスファルトの急坂を30分ほど登ると、我拝師山と中山の鞍部にある奥の院行場・根本御堂に着きます。
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空海からおよそ3世紀後に西行も、ここへやってきて修行を行っています。
彼は鳥羽院に使える武士でしたが、23歳で出家し、高野山で修行を重ねて、真言宗の行者になっていました。西行は、仁安2年(1167)50歳の10月、空海ゆかりの讃岐の地へ修行のためにやってきます。最初に白峯にある崇徳院の墓に参ります、もうひとつの旅の目的は崇徳上皇の怨霊を沈めるためだったようです。その後、この山の麓に庵を結んで2年ほど滞在していたようです。その時に、我拝師山の捨身ケ嶽を訪れています。
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鉄の鎖をつたって登って行くと自然の石を利用した護摩壇があります。
ここからは北側に瀬戸内海が広がります。ここで聖なる火を焚いたのでしょう。
西行の『山家集』によると、捨身が嶽は「曼荼羅寺の行道所」と記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことにに大事なり。かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて   
廻りあはむ ことの契ぞ たのもしき
きびしき山の  ちかひ見るにも
①行場へは「世の大事にて手を立てたる」ようで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った
②行場には、空海が写経した経典が埋めてある
②高さ3mほどに土を盛った壇が築かれており、空海が毎日登って修行したという言い伝えがあった。
③めぐり行道のために二重の壇が築かれていた二つの壇がある
と記しています。
ここからは西行の時代には、捨身が岳が空海の青年時代の行道修行の遺蹟とされていたことがわかります。

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「登るほどの危ふさ」ときたら大変なものであり「構えて這ひまはり付きて」(這うようにしてしっかりしがみついて)壇の周りを廻ったと記します。
西行も、空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。
 廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。空海も、この行場を何度もめぐっる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略
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西行はなぜ我拝師山にやってきて、2年もここで修行するつもりになったのでしょうか?
『山家集』の「善通寺・我拝師修行期」には何度も「大師」(=空海)が出てきます。
先ほど述べたように、西行は、空海が行ったと信じて、3mもの高さの壇に登り、這い回るようにして修行しています。空海が捨身して釈迦如来に逢ったという捨身ヶ嶽に、しがみつくようにして登っています。西行は、空海と自分を重ねることで、空海に対して身体的な共感を作りだし、その境地に少しでも近付こう・理解しようとしているように見えます。それが、真言行者である西行にとって、宗教的修行だったのかもしれません。
 相手に近付く・理解するために疑似体験をする方法は、今の私たちも行っています。福祉教育で行われる車椅子体験などもそうかもしれません。スポーツ等であこがれのプレーヤーに近付くために、同じ練習法を取り入れるというのも同じです。状況を重ね、身体的に何とか共感を図ろうと試みることは、他者を理解し、精神的な距離を近付けるための、ひとつの方法論なのでしょう。
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話がわき道に逸れてしまいました。空海に視点をもどします。
  行道修行は、もともとは洞窟に龍る静的な禅定と、動的な行道を交互にくりかえすものです。
 四国の辺路修行者は我拝師山に来れば、西行のように近くに庵を営んで、静に禅定します。そして、一日に三回から六回の勤行には、鉄鎖をよじ登って捨身行の形をしたり、頂上で塔をめぐったりの行道をしたようです。
 
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 北から見れば平凡な山ですが、西面と南面は厳しい岩稜で霊山で「四国の辺地」の修行所に選ばれたのも納得がいきます。多分、ここでは南面の絶壁に身をのり出して、谷底をのぞく「覗きの行」が行われていたのでしょう。この「覗き」の捨身行があったから、空海七歳の捨身伝説が生まれてきたと研究者は考えているようです。

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 どちらにしろ西行がやってきた12世紀後半は、プロの修験者達が我拝師山で修行をおこなっていたことは確かなようです。そして、行場のルートは、この山から弥谷寺へ、そして七宝山へとのびていたようです。
 以前にも紹介しましたが『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎」
とあます。ここには、大師(空海)が「七宝山修行」を創始した記されています。そして、空海が観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から弥谷寺・五岳の行場を「辺路修行」しながら、山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼があったのです。
 このルートは、中世のプロの修験者の辺路修行ルートですから、山の中を行く獣道のような「辺路道」で、近世後半の「遍路」たちが歩いた遍路道とは異なるものでしょう。しかし、道は違ても観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルートは存在していたのではないでしょうか。そして、今は忘れ去られた行場がこれらの山中には埋もれていると私は想像しています。

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  空海がここで修行したとすれば、いつでしょうか?
捨身が嶽に登って、ボケーッとしながら考えた「仮説」を最後に示します
平城京の大学に上がる前に、佐伯家の氏寺・善通寺の僧侶(佐伯家一族)から影響を受けて雑密の影響を受け、ここで虚空蔵求聞持法の初歩的な行を行っていた。

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大学をドロップアウトして、その報告のために善通寺に帰省し、僧侶として生きていく事を親族に告げて、ただちに我拝師山で修行に入った。その後、大瀧・室戸への本格修行に出た。

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大学ドロップアウト後に、吉野金峰山で修行し、自分なりの一応のめあすができて善通寺に帰ってきた。そして、我拝師山での修行をしながら一族の同意を取り付け、四国巡礼に旅立った。

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大学ドロップアウト後は、佐伯家とは連絡を絶ち、各地での修行に没頭した。そして、遣唐使の一員になるために僧籍を得る必用があり、この時に善通寺には帰ってきた。遣唐使に選ばれるまでの期間に、生家(佐伯家)の「裏山」である我拝師山や弥谷寺、七宝山までの行場を廻った。
捨身ケ嶽で修行もせずに、ボケーとこんなことを、考えていました。
以上・・
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族
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中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの  

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中寺廃寺遊歩道
中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。
ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。
 お手洗いの付属した休憩所の上から谷間に下りていく急な散策路を下っていきます。人が通ることが少ないようで、これでいいのかなあと思う細い道を下っていくと・・・猪除けの柵が現れ、進むのを妨げます。「石組遺構」らしきものはその向こうの平場にあるようです。柵を越えて入っていきます。
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中寺廃寺Cゾーン

あちらこちらに石組跡らしきものはありますが、崩れ落ちていて石を積んだだけに見えます。その配列や大きさにも規則性はないようです。私が最初の推察は「墓地」説でした。この寺院の僧侶の墓域ではないかと思いました

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中寺廃寺石組遺構
後日に手に入れた報告書を読むとこう書かれていました。
「当初、「墓地」の可能性を考え下部に蔵骨器や火葬骨などの埋葬痕跡の有無に注意を払った。しかし、外面を揃えて大型の自然石を積み、内部に小振りの自然石を不規則に詰め込むという手法に、墓地との共通性はあっても、埋葬痕跡はまったくなく、墓の可能性はほぼ消滅した。」
 山林寺院に墓地を伴う例はありますが、墓地が形成されるのは中世(平安後期)以降のことのようです。この中寺廃寺は中世には廃絶しています。

それでは何のために作られたものなのだろう?

報告書にはそれも書かれていました。読んでいて面白かったので紹介します。
報告書の推論は「石塔」説です。、
仏舎利やその教えを納めるという仏教の=象徴としての「塔」、
あるいは象徴としての「塔」を建てる行為は功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。
  『法華経』巻2「方便品」には。
在家者が悟りを得る(小善成仏)のために、布施・持戒などの道徳的行為、舎利供養のための仏塔造営と荘厳、仏像仏画の作成、華・香・音楽などによる供養、礼拝念仏などを奨励する。
その仏塔造営には、万億種の塔を起し=て金・銀・ガラス・宝石で荘厳するものから、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで、ランクを付けて具体例を挙げる。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」なのである。
 童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る
にも見えます。 平安時代前期には民間布教に際に語られていたようです。また、平安時代中頃までに、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していた例もあります。
 「三宝絵」下巻(僧宝)は、「正月よりはじめて十二月まで月ごとにしける、所々のわざをしるせる」巻です。その二月の行事として記載されているのが「石塔」です。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。『心経』を書きあつめ、導師をよびすへて、年の中のまつりごとのかみをかざり、家の中の諸の人をいのる。道心はすすむるにおこりければ、おきな・わらはみななびく。功徳はつくるよりたのしかりけば、飯・酒多くあつまれり。その中に信ふかきものは息災とたのむ。心おろかなるものは逍邁とおもへり。年のあづかりを定めて、つくゑのうへをほめそしり、夕の酔ひにのぞみて、道のなかにたふれ丸ぶ。
 しかれどもなを功徳の庭に来りぬれば、おのづから善根をうへつ。『造塔延命功徳経』に云はく、「波斯匿王の仏に申さく、「相師我をみて、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏すくひたすけ賜へ』と。仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為のようです。
山に登って、ケルンを積むのも「作善」とも言えるようです。わたしも色々なところで石を積み無意識に「作善」してきたことになるのかもしれません。
さて、この『三宝絵詞』が描く年中行事としての「石塔」の記録から分かることがいろいろあります。 報告書は次のように続けます。
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中寺廃寺石組遺構
 まず、重要なのは、「石塔」を積む場が「川原」であることです。
 川原は葬送の地、無縁・無主の地で、彼岸と此岸の境界でもあります。そして「駆込寺」が示すように、寺院はアジールであり、時には無縁の地ともなります。中寺廃寺C地区は、仏堂・塔・僧房などの施設があるA地区やB地区とは、谷を隔てた別空間を構成しています。C地区は葬地でなくても「川原」だと考えられます。石組遺構が、谷地形に集まっているのも、それを裏づけるとします。これは後世の「餐の河原」に通じる空間とも言えます。
このC地区に37残る石組遺構は、年中行事である[石塔]として毎年春に作られて続けた累積結果と考えられるようです。   
次に報告書が注目するのは「石塔」が「よろずの人の春のつつしみ」であることです。
『三宝絵詞』は、石塔を積んだ人たちを「諸司・諸衛の官人・舎人」や「殿ばら・宮ばら」配下の「召次・雑色」が、「石を重ねに塔の形にする」した人々とします。しかし、この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族だけでなく、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人も、「石塔」を行なったはずです。Aゾーンの本堂や塔などの法会は僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったのではないでしょうか。
ここでは、祈りと宴会が行われていた? 

そう理解すると「春」という季節や、単に石を積むだけでなく「飯・酒多くあつまれ」という饗宴行為もぴったりと理解できます。
 春の予祝行事である、その年の豊饒を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、あるいは山桜の咲く頃に、豊作祈願や大川|山からの国見を兼ねて中寺廃寺に参詣し、C地区で石を積む姿が見えてくるようです。
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。その頃に大川山詣でをする人たちがこの谷に立ち寄って、石を積み上げていったと考えたくなります。
 大川山を霊峰と仰ぐ里の住民は、官人・豪族・村人の階層を問わず、中寺廃寺に参詣したはずです。中寺廃寺C地区の石組遺構群は、そうした地元民衆と寺家との交流の場だったのかもしれません。
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 報告書は更にこう続けます。  
「石塔」行事の場である「川原」が、平安京に隣接する鴨川などの川なら、官人や雑色が積み上げた「石塔」が遺構として残る可能性は限りなくゼロに近い。平安代後期まで存続せず、炭焼が訪れる以外は、人跡まれな山中に放置された中寺廃寺の方形石組構であるからこそ残ったのである。もし、中寺廃寺が中世まで存続したら、付近で墓地が展開した可能性は高く、埋葬をともなわない「石塔」空間を認識することは困難になったかもしれない。
つまり「平安時代のまま凍結した山寺院関係の遺跡=中寺廃寺」だからこそ残った遺構なのです。そして「石塔」とすれば、はじめての「発掘=発見」となるようです。

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