丸亀市の今津町で江戸時代に庄屋を務めた横井家の倉から出てきた文書が香川県立文書館で公開されるようになりました。その中から新しく分かったことが紹介されていました。見てみましょう。
横井家について
横井家について
横井家の先祖は香川郡東横井村(高松市香南町)に住し、讃岐守護細川氏の重臣であった尾池氏に従う土豪クラスの武士だったようです。天正年間の長宗我部侵攻の際には、当時の当主であった横井元正がこれと戦ったことが分かる文書もあります。 面白いのは「征服」された横井元正が秀吉軍の四国侵攻の際に、その手引きをしたことを示す文書も残っているのです。これは天正一三年五月四日付け丹後守(正元)宛ての羽柴秀吉書状案です。
どのようにして正元は秀吉からの書状を得たのでしょうか?
長宗我部元親
当時の情勢を見てみましょう。長宗我部家の記録には次のように記されています。

当時の情勢を見てみましょう。長宗我部家の記録には次のように記されています。
天正六年(1578)四国制覇を目指し、讃岐侵攻を開始した元親は、6年後の天正12年月には東讃岐の十河存保の十河城を攻め落とした。城主の存保は、かろうじて脱出した。この合戦以後の讃岐は、すべての勢力が土佐軍の下に従い、支配下に入った。さらに翌13年春までに伊予を攻め、河野氏をも破った。こうして元親は、ほぼ四国も掌中に入れた。

はたして土佐側史料の通りに、讃岐も伊予もて完全に討ち滅ぼされ支配下に収まったのでしょうか?伊予では、河野氏サイドの史料研究から道後地域を中心にゲリラ的な抵抗運動が続いたことが分かります。そんな中で、讃岐の反長宗我部の抵抗運動の具体的な活動をうかがえるのが、横井家の史料なのです。
長宗我部元親 初陣像
秀吉の四国征圧作戦の開始 織田信長の後継者となった羽柴秀吉は、長宗我部元親が四国征圧を果たした翌年の天正13年春から本格的な四国攻略に取り掛かかります。安芸の小早川家の4月13日付文書によれば、秀吉は小早川隆景に近く自らの四国出馬を伝え万全の準備を命じています。
黒田孝高には「5月3日」を「XーDAY」として、四国上陸のための準備を進めるように指示します。さらに、側近の一柳(市介)のに宛てた秀吉の朱印状が伊予小松一柳文書に伝わっています。そこには次のようにあります。
「急度申遣候、掲長曽我部為成敗来月(5月)三日至四国出馬渡海候、就者其方人数半分召連、至明石可着陣候、則船等申付候、不可有由断候也、」
5月3日に長宗我部征伐のための四国へ軍を海を越えて渡らせる。そのため保有戦闘員の半分を引き連れて明石で待てという内容です。これと同じ日付の文書が横井家に残る横井元正宛ての文書です。横井家のものは秀吉朱印でなく花押ですが、その内容は一柳文書と同じで「来月三日」の四国渡海による作戦開始を伝え、讃岐の丹後守(横井元正)に具体的な作戦行動を指示したものです。そのミッションとは、小豆島方面に滞陣する仙石権兵衛の四国渡海の案内手引きをせよということです。
長宗我部軍の下で雌伏し、密かに刀を研いでいた横井氏など反長宗我部勢力の情報を、秀吉方は掴んでいたのでしょう。何度か情報交換の後に、横井氏等に内応工作が進められたことがうかがえます。これを待っていたかのように、横井元正は書状を受け取ると同時に、仙石氏の讃岐上陸に備えるための行動を開始したことでしょう。
長宗我部元親は、どのように動いたのでしょうか
元親は、阿波の岩倉に着陣していたと言われます。元親の下には秀吉軍が伊予と阿波及び讃岐の三方面から、しかも同時に攻め掛かってくるとの情報が既に伝えられていました。
それに対する防戦戦略について家臣団の意見の不統一もあったようで、戦意は上がりません。
そんな中で、秀吉軍の上陸決行予定日が突如延期されます。理由は、秀吉のちょっとした病にあったようです。あるいは、朝廷・公家等から親征中止の要請があったことも原因かも知れません。
しかし、約一月遅れの6月16日には、秀吉は四国征討軍の総大将である弟秀長に総軍発進を命じます。諸史料からも阿波・讃岐・伊予の三方面からの四国総攻撃はいずれも、6月16日に開始されたと記されています。そして、あっけなく2ケ月後の8月6日の和議成立で四国攻めは終了します。横井氏の長宗我部氏に対するゲリラ戦術も勝利の旗が揚がり、雌伏の時は終わります。
短期間で長宗我部征討作戦が終了したのは、なぜでしょう?
それは、伊予における状況と同じように、讃岐でも長宗我部の支配体制が確立していなかったからではないかと研究者は見ているようです。
それは、伊予における状況と同じように、讃岐でも長宗我部の支配体制が確立していなかったからではないかと研究者は見ているようです。
確かに、長宗我部の侵入が早かった中讃や三豊では、統治のための坪付が行われたことが確認できます。そして、新たに土地を給付された土佐方の武将等が領主として所領経営を始めていたのです。「長宗我部による讃岐支配の実態」という視点での研究はあまりされていません。近年に高瀬町誌が「長宗我部が残した物」として、町内の土佐神社や土佐の武将による農業経営などに光を当てているのが異色です。
長宗我部軍は引き上げても、そのまま讃岐に残って定着しようとした人たちはかなりいたようです。
例えば元親の側近として従軍してきた修験道僧侶の宥厳は、金毘羅さんの金光院院主を任されます。そして、土佐勢の撤退後も象頭山に留まり、新たに領主してやって来た生駒家などとの関係を結んでいき金毘羅発展の基礎を築いていきます。また、その後の宥睨は、土佐からの移住者である山下家の出身です。山下家は、長宗我部侵攻前後に三豊市財田に定住していた家系です。このように西讃においては長宗我部が引き上げた後も讃岐に残り、郷士としての力を維持し、寺院や神社を残した勢力はいくつもあったようです。
長宗我部軍は引き上げても、そのまま讃岐に残って定着しようとした人たちはかなりいたようです。
例えば元親の側近として従軍してきた修験道僧侶の宥厳は、金毘羅さんの金光院院主を任されます。そして、土佐勢の撤退後も象頭山に留まり、新たに領主してやって来た生駒家などとの関係を結んでいき金毘羅発展の基礎を築いていきます。また、その後の宥睨は、土佐からの移住者である山下家の出身です。山下家は、長宗我部侵攻前後に三豊市財田に定住していた家系です。このように西讃においては長宗我部が引き上げた後も讃岐に残り、郷士としての力を維持し、寺院や神社を残した勢力はいくつもあったようです。
しかし、占領が始まったばかりの東讃地方では、時間的に見て坪付けに至るなど統治政策を開始するまでには至ってなかったようです。
それは伊予の状況と共通する情勢で、残存勢力の「ゲリラ戦」などもあり「掃討作戦中」であったという所でしょう。そうだととするならば、食糧確保や山城構築・陣形整備など防備体制の整備は、もちろん進んでいなかったでしょう。それが土佐軍が徹底抗戦を行わずに、戦闘の短期終結となった一因といえるようです。そのような混乱の中での反長宗我部への抵抗運動を担ったのが横井家の先祖・横井元正だったようです。
それは伊予の状況と共通する情勢で、残存勢力の「ゲリラ戦」などもあり「掃討作戦中」であったという所でしょう。そうだととするならば、食糧確保や山城構築・陣形整備など防備体制の整備は、もちろん進んでいなかったでしょう。それが土佐軍が徹底抗戦を行わずに、戦闘の短期終結となった一因といえるようです。そのような混乱の中での反長宗我部への抵抗運動を担ったのが横井家の先祖・横井元正だったようです。
さて、秀吉からの朱印状を受け取った横井元正は、どのようにして仙石氏の讃岐上陸作戦を手引きしたのでしょうか。そして、その恩賞は?
残念ながらそれを伝える文書は残っていません。小説家のように想像力を膨らませて各自のSTORYを描くしかないようです。


