瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐国分寺


タイムトラベル 奈良時代
中学校の歴史教科書(帝国書院)の「タイムトラベル 奈良時代」のイラスト
中学校の歴史教科書(帝国書院)には、絵図史料の時代考証をきちんと行ったうえで、各時代のようすが載せられています。今回は、その中の奈良時代の国分寺建設の風景を描いたものを見ていくことにします。
 まず季節を確認します。右端で、女性が稲の刈り入れを行い,調・庸などの税を納めるようすが描き込まれているので秋ということがわかります。男達は半袖や上半身が裸で働いているので晴れた暑い日のようです。画面は左側の国分寺建設と右側の大道部分に分けられます。
 国分寺は、741(天平13)年に、聖武天皇の発願で国府近くに僧寺と尼寺をセットで建てるように勅命がだされました。これにもとづいて各国に派遣された国司は争うように国分寺建設に着工します。そのための資金と労働力集めが彼らの手腕の見せ所となります。讃岐では国府の東の国分台の麓で建設に着工し、金堂・講堂・五重塔・僧坊などの伽藍が姿を見せるようになります。『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)に「讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜」とあるので、この頃には伽藍が整っていたようです。

 全国の国分寺の伽藍は、方2町(約210m四方)が標準で,中門と金堂を回廊でつないだ空間の外側に,塔・講堂・僧坊(共同生活所)などを配置するのがスタンダード版でした。

讃岐国分寺 伽藍
讃岐の国分寺の伽藍配置
讃岐の国分寺は、南北240m×東西220mで、南北が少し長く、現在は東隣に隣接する宝林寺も寺域に含んでいました。大官大寺式伽藍配置で、中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂を回廊で結んだ内側の区画の東側に塔が建てられていました。
 国分寺建設の目的は,疫病や兵乱,新羅との緊張関係などから国家鎮護を願ったものとされます。その建設地の立地条件については、人々の集まりに便利な「好処」を選べと命令されています。讃岐国分寺は、南に南海道が東西に走り、国府にも近く、五色台をバックに南面して髙松平野を望む「好処」といえます。ここに描かれているような工事作業が行われたことが想像できます。

タイムトラベル 奈良時代 国分寺
        タイムトラベル 奈良時代の拡大 国分寺建設(帝国書院 教科書)

  国分寺の建設現場では,人夫たちを監督する役人たちが描かれています。
役人は、次のように服の色で身分(位階)がわかるシステムでした。
A 四位と五位の貴族は緋(あけ)色 ( 四位は深こき緋,五位は薄緋)
B 六位と七位は緑色
C 八位と初位は縹(はなだ)色

古代官職と衣類の色
そうすると、ここに描かれている人の中で一番偉いのはウの緋色を著て馬に乗っている役人になります。
国司の編成 丸亀市史
国司の編成表
上の編成表からすると、
① ウは五位以上の貴族で,中央から派遣された長官(国司の守)
② そのまわりで緑系の服のを着て木簡や笏を持つ役人たちは六位以下
③ 青い服の役人は、さらに下級の者で、地方採用の官吏

讃岐国司(守)としてやってきた菅原道真は、浅緋色の服を着て職務をこなしていたことになります。また、地方の郡司クラスの子弟で、国府に採用された綾氏のような人達は、青い服を着ていたのでしょう。
讃岐国分寺建立の頃の三木郡大領の小屋県主の宮手を見ておきましょう

宮手は、罰を受けた妻の虫女を救うために多くの財を東大寺に寄進したと日本霊異記は次のように記します。
三木郡の田中真人広虫女の夫・小屋県主宮手とは?

しかし、東大寺への寄進の目的は、それだけだったのでしょうか? 『続日本紀』765年の「天平神護」には次のように記します。

「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く。」

ここには讃岐の日置(叱)登乙虫が銭百万両を国家に奉納する代償として、外従五位下の爵位を得ています。銭を献上することで、官位を得ています。いわゆる売官制度です。771年(宝亀二)には、三野郡の丸部臣豊球は、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられています。この時期になると、郡司などの地方役人の経済基盤が掘り崩されてうまみがなくなります。そのため空海の実家の佐伯直氏などの本家も本貫を京に移し、中央貴族化をめざす動きが現れることは以前にお話ししました。その兆しが見え始めているのかもしれません。讃岐国分寺は、このような有力者の寄進を受けて進められたようです。
古代国家が姿を現す頃の讃岐

『万葉集』の山上憶良「貧窮問答歌」には、ムチをもって税を取り立てにくる里長が描かれています。里長のような下級の役人には、徴税権と刑罰権がセットで与えられていました。ここに登場する人夫達も里長によって割り当てられ、動員された農民達であったことになります。彼らの労働は「雑徭」で、賃金が支払われることはなく、無償の労働提供でした。つまり人頭税でした。
  税の名前  納めるもの    納め先      対象
租(そ) 稲(収穫の約3%) 地方の正倉 口分田を持つ男女
調(ちょう) 布・絹・地方特産物 都(中央政府) 成年男子
庸(よう) 都での労役10日(または布2丈6尺) 平城京 成年男子
雑徭(ぞうよう) 無償労働(年最大60日)地方の役所 成年男子
出挙(すいこ) 稲の利子(50〜100%) 国・郡や貴族 農民全般
道路に面した竪穴式の作業小屋では、国分寺を荘厳する金属製品が作られています。

タイムトラベル 奈良時代 大道と側溝

足踏みのふいご
炉とるつぼ
鋳型
などを使って技術者集団が釘などを作っています。その背後の建設現場では材木の加工が,やりがんなや手斧により行われています。これらはハイテク技能を持つ技術者集団でなければ担当することはできません。そのような職能集団を確保することも国司の手腕だったのかもしれません。絵図には,過酷な労働で倒れている人夫も描かれています。建設材料の運搬には荷車や修羅(しゅらら)が使われています。
 寺院は瓦葺きでした。そのため瓦を焼く半地下式の登窯が粘土が確保できる所に作られます。
遠くに煙が何本も上っているのが登り窯です。この姿は、藤原京の宮殿の瓦を製造するために誘致された三豊市の宗吉瓦窯の登窯を連想させます。

宗吉瓦窯 想像イラスト
宗吉瓦窯(三豊市) 船で遠く藤原京に運ばれた
寺院の瓦を焼くために作られた窯なので、工事が終了するとうち捨てられ、技術者集団も次の作業現場へと去って行きます。これも渡来人集団のハイテク技術に頼らなければなりませんでした。ちなみに瓦を作る粘土は、左の前方後円墳を削り取った土が用いられています。この時期になると、かつて権力の象徴であった前方後円墳は、その用途も忘れ去られ、信仰の対象でもなかったことがうかがえます。

タイムトラベル 奈良時代 大道と側溝

画面右側には、真っ直ぐに伸びた「官道」が描かれています。いろいろな人々が歩いています。
まず調庸を平城京に運ぶ「運脚夫」が大きな荷物を背負って役人に引率されて歩いています。大きな荷物の中身は,何だったのでしょうか。荷物の脇には,調庸の種類や量,納税者の所属する国郡名を記した「木簡」がつけられています。手前の人物の木簡には「遠江国」と記載されているのが読み取れます。
貢納品荷札の例
調として都に運ばれた荷物に付けられていた木簡
この木簡からは尾張国知多郡の農民が調として納めた塩が納められていたことが分かります。
讃岐からも塩が運ばれたことを裏付ける木簡を見ておきましょう。

讃岐国三野郡阿麻郷・戸主佐伯直赤猪調塩三□〔斗

讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年 調塩」平城京
この他にも讃岐から運ばれたモノとしては、次のような木簡が正倉院に保存されています。
讃岐から運ばれた調 木簡


庸は、平城京での労役10日か布2丈6尺でした。これは布で納める方が、農民達には有利だったので布が納められています。調は、布・絹・地方特産物で、その長さも決まっていました。23は鵜足郡小川郷の戸主大伴首三成が調(特産品)として納めた布です。讃岐からは布が調や庸として実際に都に運ばれていたことが裏付けられます。その他に伊豆からは鰹節が送られています。
都に送られた調 特産品

イラストの運脚の中には、疲れのためにうづくまる者も描かれています。
 
都に調を運ぶ農民達
授業実践例の中には、それぞれの人達のセリフを考えさせて、そのあとグループで集団決定して、それを演じるという事例も報告されています。楽しい授業になりそうです。
A もう歩けない 疲れた
B 何をしているのだ! それでは今日の駅家までたとりつけないぞ。立って歩け
C こっちは重い荷物をかつがされているんだ。あんたは馬に乗って怒るだけか
D 振り返るな さっさと歩け 
E おおい! 水を持ってきてくれ!
運脚夫の後ろに隊列を組んでやってくる一段は、都や九州などに送られる兵士たちのようです。
防人が残した手紙

野田嶺志『防人と衛士』教育社歴史新書、p144には、次のように記されています。
「防人の武器は、自前の随身兵器と国家営造の戎器からなっていた。(中略)
防人の私自備の器杖は、兵器と戎具であった。刀剣・弓箭を自装したと思われる。しかし、(中略)私有を禁じた兵器として、弩・甲があげられているところから、甲冑を自装していたとは思われない。(中略)
防人ひとりひとりの武装状況は、刀剣と弓箭であったと考えられる」。
防人達は、武具も食糧も自弁で徴兵されていたと研究者は考えています。国家支給のGI(ガーバメント イッシュ)とはほど遠い存在でした。世界中の古代国家の財政基盤は、土地税ではなく人頭税です。律令国家でも租よりも、庸や雑徭の方が農民にとっては負担が多かったのです。その中でも防人や衛士として徴兵は最大の負担となりました。別の見方をすれば、このイラストには農民の最大の負担である労働地代(人頭税)としての以下の三つが描き込まれています。
A 雑徭(国分寺造営工事や官道整備)
B 都への庸調の運搬
C 防人や衛士としての徴兵   

都と諸国を結ぶ交通動脈として、白村江の敗北の後に軍用道路としてして整備されたのが東海道・東山道など七道の「官道」です。

1300年前のハイウエイを探る -古代官道ロマン-:古代官道ロマン

紀伊と四国は南海道に属し、讃岐には紀伊・阿波を経て南海道が伸びてきました。この道路は以前にお話ししましたが、側溝をもつ幅10mを超える直線道で,16㎞ごとに馬を常備した駅家(うまや)がおかれていました。まさに「古代の高速道路」でした。この官道を使って、平城京へモノは運ばれました。瀬戸内海の海運が利用されるようになるのは、もう少し後のことになるようです。
絵図には、道の両側に側溝を掘っている人夫が描かれています。

古代の山陰道の復元イラスト
                古代の山陰道の復元イラスト(鳥取県埋蔵文化財センター)

この側溝が丸亀平野からも出てきたことは以前にお話ししました。

岸の上遺跡 南海道の側溝跡
丸亀市飯山町の岸の上遺跡 南海道の側溝 道は一直線に善通寺の我拝師山に続く

こうしてみると、南海道は人とモノの輸送を円滑に行うためのものではありますが、そこに次のような明確に国家意思が表れています。
①始皇帝の大道のように、軍事道路で軍隊移動の円滑化
②全国の物資を支配者のすむ平城京に運ぶための輸送道路
つまり、地方のモノと人を収奪し、中央の支配者に納めさせるシステムの一部だったとも云えます。これを中央集権制度と呼ぶのでしょう。戸籍と土地台帳で、個別人身支配体制を作り上げたヤマト政権が中央に富を運び、軍隊を円滑にスウイングさせるために必要なシステムとしておきます。そして、中央に富を吸い上げられた均田農民たちは、有利な場所を求めて有力者の庇護下に入っていきます。それが荘園制への移行へとつながると中学校では教えているようです。
たタイムトラベル 均田農民の没落背景 

 この絵図は、讃岐の古代の姿が垣間見えてきます。想像力を羽ばたかせながら絵図をみることを楽しんでいる今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 奈良時代
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  今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
テキストは    「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

高野聖が果たした役割


土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。 


高野聖の勧進活動は高野山に財をもたらした
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。

落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
             「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

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