瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐国府跡

都市―ローマ人はどのように都市をつくったか』|感想・レビュー - 読書メーター

善通寺市の旧練兵場遺跡群の報告書を読んでいて「古代の都市的景観が、ここには現れている」という表現に出会いました。私の愛読書のひとつが上の「絵本」なので、「都市」と言われるとローマやギリシャの古代都市国家を、イメージしていまいます。しかし、どうも編者の伝えたい内容とは違うようです。讃岐の「古代都市」とは、何なのでしょうか。それを今回は追いかけて見ます。テキストは「阿部良平 都市の形成と展開  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
 古代都市の条件として、研究者は次の3つの条件を挙げています。
①政治的中心機能
②経済的中心機能
③文化的中心機能
  たくさんの人が住んでいるだけでは都市とはいえないと云うのです。これには耳が痛い地方都市があるかもしれません。③の「文化的中心」が見当たらない地方都市は、たくさんあるように思えます。

中国の咸陽や長安に似せて作られた平城京や平安京は、日本を代表する古代都市ということになります。
これらは都城とも呼ばれ、天皇の居所、政治の場であった官と、官人らが住む京から成っていました。京には官人の住居のほか寺院や市もあったので、政治・経済・文化の中心機能を持っていました。
それでは、讃岐はどうでしょうか?

讃岐国府跡復元図2

讃岐にも現在の県庁に当たる国衙が置かれていました。国衙は国司が行う政治の場であり、その近くに国司館や国分寺・国分尼寺などがあり、市も置かれていました。国司の数は、国の規模によって違いますが、守・介・佐官・目を合わせ、小国でも20人、大国では70人くらいはいたようです。さらに、彼らの家族や国分寺・国分尼寺の僧侶たちもいたので、ただの村でなかったことは間違いありません。
讃岐の国衙は、発掘によって坂出市府中町にあったことが確実視されるようになっています。開法寺周辺を中心に官衛らしきエリアがポツンポツンと散在していたことが分かっています。これも「古代都市的景観」のようです。
讃岐国府跡 4
讃岐国府の位置と構成

 讃岐の中世都市の成立
律令制の崩壊とともに平安京は衰退し、右京は廃絶して田園化してしまいます。代わって院政期なると鴨川沿いの白河に政治の中心が移っていきます。そうすると左京から白河にかけて、「平城京から京都へ」と新たな都市として京都は再生します。同じ頃に、筑前(福岡県)の鴻櫓館(迎賓館)とともに日本の国際交流の拠点だった博多津が国際港湾都市に生まれ変わり、唐人たちが居留する唐坊と呼ばれるチャイナタウンも登場するようになります。
この時代の讃岐国衙は、どうだったのでしょうか?
国衙遺跡存続表1
国衙の存続期間

国衙は10世紀頃に廃絶するところも出てくることは以前にお話ししました。しかし、政務を請け負った現地の国司(受領)らが、それまでの国衛を留守所と呼ばれる役所に再編し、一国支配の拠点とします。留守所の多くは13世紀半ば頃には、鎌倉幕府が任命した守護に政務の主導権導権を奪われ、守護館を中心とした府中と呼ばれる都市域の中に消えていった所が多いようです。もちろん留守所と守護館が別の所にあったこともあり、そこでは留守所の廃絶後、守護館を中心に新たな政治都市が形成されることになります。
讃岐国府跡建築物との比較
           讃岐国府跡の遺跡消長表
 

上表の坂出国府跡遺跡でも、建物の数は減りますが11世紀中頃までは機能していたことが分かります。綾氏などの武士化していく在地勢力は留守所を拠点としていたようです。
 このほか、院政期に整備された諸国の一宮(各国の中で最も社格の高いとされる神社)を中心に宮中という都市が成立する所もあります。宮中は府中とともに鎌倉期の地方都市の代表でした。こうしてふたつの都市が地方に見られるようになります
①府中 守護館を核に守護の菩提寺・家臣屋敷を伴う
②宮中 一宮を核に神宮寺や神官たちら屋敷を伴う
府中や宮中は、国府津の港町を支配下に置き、さらに街道沿いに成立した宿も緩やかに掌握するようになります。
 讃岐の一宮は田村神社(高松市)、伊予は大山祇神社(今清市)、備前は吉備津彦神社(岡山市)、備中は吉備津神社(岡山市)です。田村神社周辺にも「宮中」的なものがあったのかもしれません。
しかし、府中・宮中はまだまだ隙間だらけの都市でした。
府中は守護館・菩提寺・家臣屋敷を中心に一定のまとまりを持っていました。しかし、経済集落である宿・町や港町とは、離れていて一体化はしていなかったことは前回にお話しした通りです。宮中も一宮・神宮寺・神官屋敷などが一定のまとまりを持っていましたが、宿や港町は少し離れて存在しました。門前町と呼ばれる段階ではなかったようです。

 中世都市の発展と宿・町と市
鎌倉幕府が成立し、鎌倉が東国の首都として発展すると、京都と鎌倉を結ぶ東海道の重要性が増します。2つの中心都市の間を輸送される物資が増大し、往来する武士や公家・僧侶・百姓なども増加するようになります。京都と鎌倉の間には、いくつかの府中や官中がありました。その間に宿と呼ばれる町場が次々と成立します。これは山陽道や南海道でもおなじです。鎌倉時代になると、京都と各地の府中・官中の間に宿・市が相次いで姿を現します。

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『一遍上人絵伝』に描かれた備前福岡の市の賑わい

福岡の市は山陽道が吉井川を渡る地点にありました。立ち並ぶ市小屋の中には米・布・魚や備前焼など様々な商品が並べられています。武士・僧侶・商人・旅人・子どもをはじめ多くの老若男女が描かれて、市の開催日の賑わいのさまが伝わってきます。

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          備前福岡の市(拡大)
この絵が描かれた13世紀末頃は、月に3度開かれる三斎市が中心でした。それが15世紀になると、六斎市になって開催日が倍増するようになります。市日でないときの市場は、乞食や犬・鳥が描かれていて、閑散とした様子が強調されています。もっとも市と宿・町とは別物でした。河原に立っている福岡の市とは別に、山陽道の道沿いに福岡の宿があった研究者は考えています。
 こうした市や宿・町が13世紀以降、各地に次々と立てられるようになります。讃岐でも、港周辺や街道の交流点などには、このような市が立っていたはずです。さらに時代が下ると市は、町に発展していきます。同時に、瀬戸内海沿岸部の港町も、その数を増していきます。
5 居館・城郭と宿・町・市
鎌倉幕府は東国武士が源頼朝を担ぎ上げて、東国に成立した武士政権です。承久の乱などを期に、東国武士の一族が西日本に守護や地頭としてやってくるようになります。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
武士の居館

彼らは征服者として東国にいたときと同じように、地域の要となるところに居館を構え、その周辺に一族・家臣を配置します。そして、周辺にある宿・町・市に寄生する形で経済的な優位性を確保しようとします。同時に土器川などの氾濫原などの未開の荒野の開発を進め、地域の支配者として定着していきます。
 そのような中でも守護としてやってきた有力な東国武士の中には、国府の近くに守護所を建て、周辺に一族や家臣を配置し、国府ゆかりの工人や商人を自己の支配下に編入していきます。さらに近隣の街道沿いの宿・町・市や港町を緩やかに統合し、菩提寺なども建立します。こうして武士の居館を中心に、府中と呼ばれる都市が姿を見せるようになります。
府中城 - お城散歩
国府のあった跡に築かれた中世の府中城(茨城県石岡市)
 守護の本拠である府中は15世紀前後に充実期を迎えます。
14世紀の山口市の大内氏館跡 再現CG 友森工業7 - YouTube
大内氏館
その代表が、周防・長門の守護大名の大内氏館(山口市)です。館内には立派な庭園を設け、隣には迎賓館として利用されたとされる築山館を伴い、街道沿いには町も発展していました。また、豊後守護大友氏の館は大分川河口近くの府内(大分市)にあり、庭園跡や遺物が出土しています。

6宇多津2
   中世宇多津の復元図 多くの寺院が青野山の麓に並ぶ

 讃岐守護の細川氏の館は、青野山の麓(香川県宇多津町)にあったようです。
将軍義満の信頼を得ていた細川頼之が失脚したときに、一時的に宇多津に留まります。しかし、その他は幕府管領として在京することが多く、宇多津にはほどんどいませんでした。国元の支配を守護代に委ねていたため、宇多津が「府中」として発展することはなかったようです。
6宇多津1
中世宇多津復元図
 戦国城下町の成立と発展
 16世紀になると戦国大名と呼ばれる地域権力が登場します。彼らは守護大名より進んだ支配方式を取り入れるようになります。それが、防御に強い山や台地などに城郭を築き、その城下に一族・家臣団を集めるという方式です。こうして、いままでの宿・町・市に加えて、新たに新宿・新町と呼ばれる町の建設を行い、城下町を地域経済圏の中心に置いた経済政策が進められるようになります。こが戦国城下町の登場です。大内・大友・河野氏らは守護から戦国大名化し、府中を戦国城下町に発展させます。しかし、讃岐では先ほど見たように管領細川氏の被官で京都に在勤することの多かった安富氏や香西氏などは、本国経営がおろそかになり戦国大名化が進まず、本格的な城下町も出現しませんでした。一部、讃岐守護代の香川氏にその動きが一部見られる程度のようです。
太閤検地 タイムスリップ
近世城下町の出現 検地や刀狩りの中で進みお城造り
 近世城下町から近代都市へ
16世紀末~17世紀初の戦国時代から天下統一・江戸幕府成立の時期になると、生き残った大名や新規に取り立てられた大名が、藩づくりのために城と城下町の建設・改変をセットで進めるようになります。この時期の城下町建設ラッシュによって、姫路・岡山・福山・広島・小倉・高松・丸亀・今治・松山など、瀬戸内海の主要都市の配置ができあがります。

野原の港 俯瞰図イラスト
中世の野原(現高松)復元図
 高松城とその城下町は、16世紀末に讃岐にやってきた生駒氏が中世の港町である野原の上に建設したものです。生駒氏の後、松平頼重が高松12万石の大名になり、城と城下町を改修して近世城下町高松を完成させていくことは、以前にお話ししました。

6 高松城 天守閣2
取り壊される前の高松城天守
城下町は、明治になると廃藩置県で城が廃止され、その主人である武士がいなくなると、衰退するところも出てきました。
しかし、多くの城下町の場合、城跡に県庁・市役所などの役所、学校、図書館、軍隊などの公共施設が建設されます。それらの施設が核となって新たな活力を都市に与え、城下町を近代都市に再生させていくエネルギー源のひとつとなります。瀬戸内の都市の多くは、こうして時代の変化に対応しながら生き残り、発展してきたのです。
丸亀連隊 明治38年
      明治以後の丸亀城大手町は、陸軍がいた。

以上をまとめておくと
①中世には、市、宿、哺、泊、津、境内、門前と呼ばれる場所が、流通や宗教などの機能と補完し合う形で存在していた。
②これらは1か所に密集していたのではなく、分散しながらも緩やかに連携しあって「都市的場所」を形成していた。
③近世になると、それがら城下町に取り込められて城下町などに再編成される。
④城下町は、それまでの都市的空間をいくつも取り込むことで、巨大化した。
⑤明治維新になり、城下町から武士はいなくなったが、それまで通りの政治的中心機能を維持することで、地域社会の中心で在り続けることができた。
⑥それが高度経済成長期やバブル崩壊を機に、地方都市はふたたび厳しい時代を迎えている

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿部良平 都市の形成と展開  瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会

図書館の発掘調査報告書のコーナーを見ていると、ひときわ厚い冊子がありました。引っ張り出して見ると「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」とあります。いままでの発掘調査の総括となるもののようです。国の史跡指定に向けての報告書でもあるのでしょう。
 発掘調査の各報告書の巻頭「概観」には、それまでの研究史や研究到達点がコンパクトに紹介されています。もうひとつの楽しみは、いままでに見たことのないデーターが視覚化され載せられていることです。そのためできるだけ報告書類には目を通すようにしています。この報告書にも充実した「概観」が載せられています。今回はこの報告書をテキストにして、どうして讃岐国府が府中に造られたのかを追ってみます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
中央を流れるのが綾川 赤が横穴式石室をもつ古墳 青が古代寺院
右下が府中で青四角が国府跡推定地

讃岐国府は、広いとは云えない「綾北平野」の最奥にあります
この平野は綾川下流域にできた沖積平野で、海際の最大幅でも3、5kmしかありません。国府周辺はさらに狭まくなります。東西と南の三方を丘陵で囲まれ、平野側の間は約500~600mしかありません。高松平野や丸亀平野に比べると、狭い平野が意図的・選択的に選ばれたようです。
 国府周辺で、綾川は谷間から出て阿野北平野に流れ込みますが、その周辺で不自然に屈曲します。かつては歴史地理学の視点から

「人為的な流路変更が古代に行われ、そこに国府が造られた」

という説もありました。私も、この説を主張する本を読んで信じていました。しかし、その後の研究で江戸期の絵図「高松藩軍用絵図」には、直角に屈曲する流路形状は描かれていないことが分かりました。明治21年の陸地測量部作成地図には、現在の流路になっています。そのため、この屈曲は明治の河川改修によるものとされるようになりました。

讃岐の郷分布図
讃岐の郷分布図
讃岐国には『和名類衆抄』によると11郡、90郷がありました。
全国的に見ると上位の郷総数となり(15位)、面積に比べると郷数がかなり多いことが分かります。上図は位置が分かる郷名を地図上に示したものです。このような形で、各郷の位置と広さが示された分布地図を見たのは初めて見ました。興味深く眺めてしまいました。
地図では、郷が次の3つの類型に分けられています
①類型1は、1~2km四方の領域で、後背地となる山野がなく、各平野の中央部にある。
②類型Ⅱは各平野の周縁部にあり、幅2 km、長さ5㎞程度で、一方に丘陵部をもつ
③類型Ⅲは各平野の外周部にあり、5 km四方を大きく超える領域で、その大半は山野である
 こうしてみると各平野の中央部に類型1が集中し、その縁辺に類例Ⅱ、その外周に類型Ⅲが分布する傾向が見て取れます。丸亀平野と高松平野では同心円状の郷分布になっています。これは丸亀・高松平野の郷分布が弥生時代以降の伝統的な生産基盤や地域的なまとまりの中から形成されてきた結果だと見ることができます。
 そこで国府のある綾北平野周辺をみてみると、丸亀・高松平野とは明らかにちがいます。府中のある甲知郷は類型3に分類されます。中心地域ではなかったところに、国府は置かれたことになります。ここには、不自然さを感じます。逆に政治的な働きかけがあったことがうかがえます。「政治的な働きかけ」を行い、国府の「地元誘致」に成功した勢力がいたようです。讃岐国府ができる前の阿野北平野の動向を見ておきましょう。

綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
讃岐の大型石室を持つ古墳分布図 阿野北平野に集中しているのが分かる。

まず注目すべきは大型横穴式石室墳の多さです
阿野北平野には、古墳時代中期までに造られた古墳は少ないのですが、蘇我氏政権下の7世紀前葉になると、突然のように新宮古墳、それより少し遅れて醍醐3号墳が姿を現します。これを皮切りに
①綾川左岸の城山北東部(醍醐古墳群)
②城山東部、東岸の連光寺山西麓(加茂古墳群)
③五夜嶽西麓(北山古墳群)
などに大型横穴式石室墳が相次いで築かれるようになります。その石室スタイルは観音寺市(後の刈田郡)にある大野原古墳群の影響を受けた複室構造を採用しています。その後は、前室の形骸化、羨道との一体化という方向で全ての古墳に共通した変遷が見られます。ここからは次のようなことがうかがえます。
①阿野北平野の横穴式石室をもつ古墳は共通性があり、一族意識をもっていた
②三豊の刈田郡勢力との何らかの関係をもつ集団であった。
それよりも注目すべき点は、その後の築造動向です。

綾北 香川の横穴式古墳規模2
阿野北の横穴式石室は、規模も大きい 紫が阿野北平野の石室

醍醐・加茂・北山の各古墳群では、その後も大型石室墳が築造され続け、これまで讃岐の盟主的地位にあった大野原古墳群を凌駕するようになります。また讃岐各地の古墳が築造停止する7世紀中葉以降も築造が続けられていきます。

こうした阿野北平野の背景には何があるのでしょうか
大久保氏は、綾北平野周辺諸地域勢力が結集し、共同して綾北平野とその周辺の開発を進め、港津や交通路、各種の生産基盤の整備を進めたからと指摘しています。ここでは、7世紀中頃まで空白地帯(未開発地帯)だった阿野北平野に、突然のように大型古墳が何基も造られるようになり、3,4グループが同じ石室のタイプをもつ古墳を造り続けたことを押さえておきます。その上で古墳造営の背景を考えて見ましょう。
『日本書紀』天武天皇十三(684)年11条に、綾君氏が「朝臣」の姓を賜ったという記事が出てきます。
古墳が続けられた後のことです。「綾」は「氏」集団の名称で、「君」は「姓」というもので「朝臣」も同じです。氏というのは、実際の血縁関係や疑似血縁的意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団のことです。しかし、一般民衆の血縁的集団を指すのではなく、大和政権に奉仕する特別な有力者集団を示します。ここがポイントで、綾氏は「君」や「朝臣」を貰っているので、朝廷と直接的な関係を持つ集団だと認められていたことになります。
 氏の首長である氏上は、氏を代表して政治に参与します。その政治的地位に応じて称号である姓を与えられ、血縁者も姓を称することを許されます。6世紀後半以後、阿野北平野の開発などの進展で、新たに開発された所に拠点を移す「分家」が現れ、一族の中でも居住地が離れていきます。その結果、氏内部に小集団(別氏)の分離・独立化の傾向が起きて分裂していきます。つまり、いくつもの綾氏の分家が6世紀後半には阿野北平野に現れたということになります。そして「各分家」も、新拠点で古墳造営を始めます。その際の石室スタイルは「本家」のものと同じにします。このようにして大型石室を持つ古墳は造営されたと研究者は考えているようです。大型石室の被葬者たちは綾氏一族の分家した各首長としておきましょう。本家の仏壇を真似て、分家の仏壇も設置されているのと同じなのかもしれません。

次に、国府以前に建立されていた古代寺院を見ていきます。
阿野北平野には、開法寺跡、醍醐寺跡、鴨廃寺の3つの古代寺院があります。醍醐寺跡や鴨廃寺は大型石室を持つ古墳群が築かれた場所の目の前に寺院が建立されています。ここからは、古墳群を造った勢力が、古墳築造停止後に氏寺建立に転換したことがうかがえます。
 先ほど見たように綾北平野の古墳は石室形態を共有していました。同じように寺院建立の際にも、同じ瓦が使われています。ここにも相互の強い結びつきが見られます。同時に狭い阿野北平野に3つの寺院が並び建つ状況は他では見られません。有力勢力が密集していたエリアだったことがうかがえます。これらの古墳や寺院を築造した勢力は、綾氏に繋がり、684年の八色の姓では朝臣の姓をもらっています。善通寺市の大墓山・菊塚古墳から仲村廃寺・善通寺へと移行していく佐伯直氏と同じ動きがここでも見えます。
坂出 海岸線復元3
坂出の古代海岸線復元図の中の国府と城山

阿野北平野のことを考える際に、避けて通れないのが古代山城・城山城です  
 屋島と城山の古代山城は備讃瀬戸をはさんで西と東にあり、前面には塩飽諸島、後者には直島諸島が連なり、多島海の眺望を眺めるには最高の場所です。これを戦略的に見ると、防衛ラインを築くには城山や屋島は最も適した立地となります。近年では対岸の吉備の山城と対で設置された可能性も指摘されています。
 古代山城は地方豪族が立地場所を決めたわけではありません。中央政府の視点で、選択的選地がなされています。もちろん地方有力者の助言・意向は反映された可能性はあります。
 讃岐国内の2城は同時着工で短期間で築城されたようで、地元から動員された労働力は膨大な数だったはずです。築城には中央から監督役人が派遣され、亡命百済技術者集団が指揮したと私は考えています。派遣された築造担当の中央役人は、地元の有力豪族を使いながら強制的な労働力徴発を行ったのでしょう。山城築造や南海道整備などの強制は、結果的には律令国家体制が急速に、地方豪族に身に泌みる形で浸透していく契機になったのかもしれません。そうだとすると山城築造が讃岐に与えた影響は計り知れないものだったと云えそうです。

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城山頂上に残る礎石群

 その後、山城が完成すると、その管理・運営が問題になります。
城だけ造っても防備にはなりません。そこに兵員の組織・配置・訓練・移動も行わなければなりません。唐・新羅連合軍の来襲という危機意識の中で、複数の国を統括する太宰・総領が置かれます。この時期、讃岐は伊予総領の管轄下にあったようです。伊予総領の課題としては、今治・城山・屋島の戦略要衝の機動的な運用が目指されたはずです。そのためには兵員・戦略物資の融通移動や情報の迅速交換のためにも基幹交通路となる南海道の整備は、最重要課題のひとつになります。

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こうして、東から大坂峠を越えて南海道が城山を目指して一直線に伸びてくることになります。幸いにして南海道が戦略的な機能を果たすことはありませんでいたが、この時期の投下された社会資本整備が後世に大きな意味を持つことになります。国府が置かれる府中周辺は、白村江の敗北への対応策として、大きな社会資本が継続的に投下され整備されたエリアだったと報告書は指摘します。

氏名の由来と八色の姓
綾という氏名の由来は、地名の阿野郡からきているとされます。綾氏は、古代阿野郡を本拠とする豪族で、今までに見てきたように古墳や寺院跡などの分布から綾川下流域が中心拠点だったことが分かります。次に姓というのは、政治的地位に応じて与えられる称号で、臣・連・君などがありました。綾君に朝臣という姓が贈られる1ヵ月前に「八色の姓」が制定されています。これは、従来からあった臣・連などの姓をすべて改めて、新たに真人・朝臣・宿而・忌寸・道師・臣・連・稲置などの8級の姓を制定したものです。ここには伝統的な氏姓制度を再整備し、天武一族を最上位に置き、その当時の勢力関係をプラスして、厳然たる身分制度を新たに作ったものです。
 綾君氏は「朝臣」をもらっています。
この姓は、大和政権を支えた畿内とその周辺地域の有力氏族52氏に与えらました。地方豪族としては群馬の上毛野君・下毛野君氏、二重の伊賀臣・阿閉臣氏、岡山の下道臣氏・笠臣氏、北部九州の胸方(宗像)君氏だけです。彼らは地方の大豪族で、讃岐はもとより四国内では綾君氏のみです。ここからは、綾氏がこれらの地方有力豪族と肩を並べる存在であったことがうかがえます。
 さらに綾君氏で研究者が注目するのは、祖先系譜です。
『日本書紀』景行天皇五十一年八月条に、妃である古備武彦の女吉備穴戸武媛が、武卵王(たかけかいこう)と十城別王(とをきわけのみこ)を生み、兄の武卵王は讃岐綾君の始祖であると、記されています。『古事記』にも同じような記事があります。景行天皇は実在が疑われているので、これらの記事が史実かどうかは別として、天皇家に直結する始祖伝承が『日本書紀』、『古事記』に記されていることは事実です。ということは、この紀記の原史料成立時期の7世紀前半頃、または『日本書紀』、『古事記』の編纂時の8世紀に、綾君氏が大和政権の中で一定の地位を築いていたことを物語ります。
 当時讃岐では、高松以東では凡直氏、高松市域では秦氏、善通寺市域では佐伯直氏、それと観音寺市域では氏姓は分かりませんが罐子塚・椀貸塚・平塚・角塚古墳を造り続けていたいた豪族(紀伊氏?)がいました。これらの中で天皇家に連なる祖先系譜を持っているのは綾氏だけです。ここからは、7世紀前半において、讃岐における綾氏の政治的位置や政治力の大きさがうかがえます。
5讃岐国府と国分寺と条里制

  以上、どうして讃岐国府は坂出・府中に置かれたのかという視点に立って、その理由を報告書の中から選んでしるしてみました。それをまとめておきます。

①讃岐国府は現在の坂出市府中に置かれた
②しかし、府中は丸亀平野や高松平野などの後背地がなく、また古墳時代以来の開発蓄積があった場所でもなかった。また6世紀後半までは国造クラスの有力豪族もいなかった。
③阿野北平野の豪族は6世紀後半以後に急速に力を付けていく。
④彼らの首長は、観音寺市の大野原古墳群の石造スタイルを真似て、新宮古墳を築く。
④これをスタートに阿野北平野の4つのグループも、新宮古墳をコピーしたスタイルのものを造営するようになる。これには統一性が見られる
⑤この被葬者たちは、新宮古墳の被葬者の末裔で一族意識(祖霊意識)をもつ同族で「本家と分家」の関係にあった。
⑥彼らは7世紀後半には、古墳に代わって氏寺を建立するようになる。
⑦これが古代の綾氏の祖先で、綾氏は讃岐でもっとも勢力のある豪族に成長し、城山城や南海道の建設に協力し、中央政権とのパイプを強め、信頼を得ていく。
⑧それが坂出府中への「国府誘致」の原動力となった。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  讃岐国府跡の位置と地理的環境 
    「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」所収
        香川県教育委員会

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

         
3古代坂出湾地図

古代の遺跡を見る場合に、その当時の地理環境を復元することが大切なようです。例えば古代と現在の海岸線では大きく変わっています。川も流れを変えられている場合もあります。まず巨視的に古代の坂出湾を見ておきましょう。
 この地図は標高3m以下にグラデーションを付け「海の下に沈めて」古代の海岸線をよみがえらせたものです。五色台の先端を境に備讃海峡の東西両側の平野部に、大きく湾入する低地が浮かんできます。東側では、高松市街地と屋島の間に大きく湾入する低地で、近世の干拓の範囲と重なります。屋島は陸と離れた島で、この地域の中心は現在の古高松とその外港である方本(かたもと)湊です。そして現在の高松市街地は郷東川の河口で、野原村がありました。これが中世以前に存在した海域「古・高松湾」です。このエリアについては以前紹介しました。

3坂出湾1
 目を西側に転じると、坂出市街地にも深く湾入する低地があります。

大屋富一青海一高屋一林田-西庄一江尻一福江一坂出一御供所

と集落が連なる旧海岸線と、その中央に幾筋もにも分かれゆったりと注ぎ込む綾川が浮かび上がってきます。西には宇多津、東には木沢・王越があります。これらの海域世界を研究者は「古・坂出湾」と呼んでいるようです。古・坂出湾には、港がいくつかありました。

坂出・丸亀の古代海岸線復元
坂出市周辺の古代海岸線復元

この中で中世史料に登場するのが松山津と福江です。
「松山津」の史料上の初見は、西行が崇徳上皇の慰霊のために讃岐に渡ってきた時の様子が山家集に次のように記されています。
「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ]
これに続いて『白峯寺縁起』(1406年、応永13)に「松山津」と見えます。これら以外は「津」がなく「松山」とのみ記す史料ばかりで、『とはずがたり』(1313年)や新葉和歌集(1381年)、『鹿苑院殿厳島詣記』(1389年、康応元)などがあるようです。
  ここから中世に「松山津」があったことは確かなようです。
しかし、菅原道真の「菅家文草」には「津」と記されただけですので、これを「松山津」と同一視するのには研究者は慎重なようです

3坂出湾2
  古・坂出湾拡大図 島は津山と聖通寺山
もう一方の福江は、私は初めて聞く名前でどこにあるのか分かりませんでした。
  福江は現在の坂出市街の南側にそびえる金山の麓にあった湊で、
坂出商業や坂出高校は海の中にあったようです。神櫛王の悪魚伝説を伝える「綾氏系図」(南北朝期)に「福江湊浦」と記されています。また、兵庫関に入った船に「福江丸」があったことが記録されています。(1460年、長禄4、「六波羅蜜寺文書」)ここからは崇徳院御影堂領北山本新庄の年貢積み出し港としての役割をもった湊がここにあったことがうかがえるようです。
 また、『玉藻集』(1677年、延宝5)には、天正7年の香川民部少輔(西庄城主)の讃岐復帰の際のこととして、次のような記述があります。
 讃州宇足津の浦にわたる。香川、潮を計て遠干潟の坂出の浜魚の御堂より八町計沖の方を一文字に渡し、西ノ庄へ押着ける。(中略)
 彼中道と云は、聖通寺山より西ノ庄の間一里なり。外は道なく、陸路の方より八町計は歩の者足も立たざる深江なり。沖は満汐にてなけれ共、猶足入なり。
 ここには戦国時代末期に香川民部が西ノ庄の城に帰る際に、宇多津から角山(津の山)の北から西の庄に向けて「潮を計り」って干潟になった「海の中道」を押し渡ったと記されます。海の中道は、現在の坂出市寿町2丁目、本町2丁目、元町2・4丁目の砂堆のことです。これが戦国末期には形成途上で、福江の浜との間はまだ水深があり、福江の港湾機能は維持されていたことがうかがわれます。確かに福江の街並みを歩いてみると、石組みの古い井戸が残されたりしていて瀬戸の島の港町の雰囲気が感じられます。この地域が中世までは、古・坂出湾の西部の湊町だったようです。
古・坂出湾の東側=「松山津」と、西側=福江浦(のち御供所・平山・宇多津)の対抗関係は?
砂堆形成、潟湖埋積、河道変化などの地形環境の変化を背景に、各時代ごとの湊の盛衰の推移を簡単に見ておきましょう。 図式としては、
  両者の並立(7世紀)→「松山津」の優勢(8~12世紀)
→宇多津・平山・御供所の優勢(13~17世紀)→坂出浦の興隆(18~19世紀)

という流れを研究者は考えているようです。
2 レベル2:備讃海峡》
 海峡の西側(古・坂出湾)と東側(古・高松湾)は、讃岐国内での港湾機能をめぐる対抗関係がありました。それは政治拠点がどこにあったかということと結びついています。
 図式としては、
両者の並立(7世紀)→古・坂出湾の優勢(8~14世紀)→
両者の並立(14~16世紀)→古・坂出湾の優勢(16世紀末葉)→古・高松湾の優勢(16世紀末葉~17世紀中葉)→古・坂出湾外周地域の拡張・丸亀城下町建設)と、両者の並立(17世紀中葉~19世紀)
という流れを研究者は考えているようです。
 大まかな全体像は、これくらいにして具体的に見ていくことにしましょう。
3綾川河口復元地図
綾川河口の総社神社遺跡は林田津?
 まず総社神社の由来です。古代、国司にとって「国祭り」重要な任務の一つでした。そのためは各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたといいます。しかし、これは手間暇が掛かるので国府近くに国内の神を集めて合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになったようです。この総社神社は、もともとの讃岐国の総社だと、この神社の由来は伝えます。確かに、府中に近く松山湊にも近い地理的にはふさわしい場所に鎮座する神社です。
 社殿では、旧林田村の郷社であり、926年に国府近くにあったものが現在地に移ってきたといいます。戦国末期の1597年(慶長2)に新社殿が建てられ、江戸時代には現在のような状況になったようです。どちらにしても讃岐一国の総社として存在したのは10世紀以降のことと研究者は考えているようです。
5讃岐国府と国分寺と条里制
 境内には総社神社遺跡があり、弥生時代中期中葉の壷形土器がほぼ完形で出土していることから、これまで弥生時代の遺跡とされてきました。しかし、改めて遺跡の立地を見ると、総社神社境内と東側・北側にまとまる総社集落は、周囲の土地とははっきりとした高低差がある微高地です。最初に見た国土地理院「5mメッシュ標高データ」でも、このエリアが小高い場所であることが確認できます。つまり、総社神社周辺の微高地は、自然堤防もしくは砂堆で「古代の古・坂出湾において最も海側に突出した安定した地形面に遺跡が所在」する場所で、8~9世紀の綾川河口の林田郷において、唯一の臨海性遺跡といえるようです。
 この遺跡からは製塩土器や漁携具が出て来ない代わりに、畿内系土師器が出てきます。ここからは、外部との交易活動を行う港湾機能をもった湊ではなかったのかと推測できます
 古・坂出湾の古代臨海性遺跡としては、福江浦に近い文京町二丁目西遺跡があります
ここも古代は漁労活動(飯蛸漁)を行っていたのが8世紀後半頃から交易機能へ転じていったことが分かっています。これは総社神社遺跡の活動と、同じ時期のようです。

3綾川河口条里制

3.菅原道真が「寒早十首」を詠ったのは林田湊?
 讃岐に国司としてやって来た菅原道真は、庶民の生活に視線を注いでいます。『菅家文草』巻第三の「寒早十首」には「賃船の人」(206)・「魚を釣る人」(207)・「塩を売る人」・「商(塩商人)」(208)が、津頭(港のたもと)に集い売買や廻漕の請け負いをする姿が詠われています。

3菅原道真が「寒早十首」
何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早釣魚人    寒さは釣魚人に早く来る
陸地無生産    陸地じゃ何にもできないから
孤舟独老身    じいさん一人で舟の上
撓絲常恐絶    釣り糸切れそうで心配し
投餌不支貧    魚とれても貧乏のまんま
売欲充租税    税金ばっかり取られっぱなし
風天用意頻    風空まかせのその日暮らし

何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早売塩人    寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る
煮海雖随手    塩焼きは手馴れているけれど
衝煙不顧身    煙にむせて身を擦りへらしている
旱天平價賤    お天気続きは塩の値段を下げちゃうから
風土未商貧    この地で塩商人は大もうけ
欲訴豪民攉    お役人に訴えたくて、港で待っているんだ。
886年(仁和2)に作られたと見られるこの漢詩を通して、たくましい庶民の暮らしが見えてきます。  讃岐人にとって、先祖に当たるこの人達を道真が見かけた湊はどこなのか?というのは古くから興味の的でした。まず最初に思い浮かぶのは、
「予れ近会、津の11る客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」
との自註(234)があり、別の詩(222)で「小松を分かち種ゑて」と詠んだ「官舎」=「松山館」に程近い「松山津」です。しかし、松山津は現地に立ってみると分かるとおり雄山・雌山の東側に広がる入江に面した閉鎖的な港湾です。そのため
「松山館の主要機能は要人の接待・逗留であることから、限られた人的な移動(交通)を前提にするものであり、一般的な流通とは一応切り離される
と考える研究者が今では多いようです。
 これに対して林田郷周辺は、綾川の河川交通と海運が結びつく結節点です。「石清水八幡宮文書目論」(石清水文書)の1023年(治安3)の文書で讃岐国の石清水領として見える「林津」が、林田巷湾(林田津)とも考えられます。
 したがって「寒早十首」のいう「津頭」とは、林田(林津)の一角と捉え、総社神社遺跡周辺が最もふさわしい場所と多くの研究者は考えているようです。
 また、この漢詩には「津頭」には、「塩を売る人」が塩商人を訴えることを考えた「吏」がいたことが詠われています。ここからは、港湾の管理を行う役人と役所が存在したことがうかがえます。このような機能を持っていたのが総社神社遺跡のようです。
3綾川河口ezu JPG
 
次は林田町の綾川右岸に鎮座する総倉神社を見てみましょう。
先ほどの総社神社とよく似ていますから混同しないでください。
この神社の近くには西梶と東梶という地名が残っています。梶は「舵」で中世の船舵たちの拠点であったと考えられている地域です。
 ここには地元で「碇石」と呼称される石造物が2基あります。西碇石は総倉神社の西約150mの水田の中に、東碇石は同神社の東約100mの宅地にあります。
これらは『綾北問尋紗』(1755年、宝暦5年)には次のように記されています。
  攬(ともづな)石 〔神功〕皇后御船の梶取し石とて東西にあり。其間十町計り。
 神功皇后がここに着岸したのは、「三韓征伐」の際に強風が吹き航行が危険になったためと、同書の「東梶・西梶」の項で記されています。同じような説話は、幕末の『讃岐国名勝図会』にもあります。また、総倉神社境内の石製注連柱(1888年、明治21)の片側には「霊区碇石表神威」と刻されていて、総倉神社との関わりをうかがわせます。しかし。これは明治の神仏分離以前には牛頭天王(惣蔵天王)と呼ばれていたこの神社が神功皇后の船の右揖を守護したとする伝承(『綾北問尋炒』「東梶・西梶」「牛頭天王」の項)に由来するもののようです。
 「綾北問尋炒」では、両碇石(徴石)の間隔は10町(約1,100m)とされていますが、現在は約250mです。この違いはどこから来るのでしょうか。
同書が書かれた時には、東の碇石が東梶神社周辺にあったのではないかと研究者は考えているようです。ちなみに西碇石から東梶神社旧境内地までは800m程度であり、字「城ノ角」の東限までは約1,100mであることから、この推測は距離の点では整合します。
 東碇石が現在の石造物になったのは、神社郷士運動が進められる明治末期頃に東梶神社が総社神社に合併され、拠るべき伝承地がなくなってしまったためのようです。その時に、東碇石が東梶から移されたのか、新たに西梶の石造物が東碇石とされたのかは分かりません。
 東西の碇石を考古学者は次のように分析しています
西碇石は五夜ケ嶽産の凝灰角傑岩で作られた六角石憧であり、東碇石は五夜ヶ嶽産凝灰角傑岩の五輪塔水輪と考えられる。両者ともに15~16世紀の所産と思われ、伝承で語られるような係船石柱ではないことは明確である。
 つまり、碇石(緻石)というのは事実無根な伝承ということになります。しかし、この地域の石造物の多くが総社神社や薬師院(総倉神社)に集められたのに、西碇石だけは、ぽつんと水田の中に斜めに埋まって残されたのでしょうか。その不思議さは消えません。

3綾川河口条里制
2.中世の梶取名と「潮入新開」
 先ほど述べたように中世の東梶・西梶は、八坂神社文書や「昭慶門院領目録案」、薬師院所蔵の鰐口銘(1390年、明徳元)には「梶取名」と呼ばれていたことが記されています。
 京都の祇園社は、文永年間(1264~74年)に林田郷内の「湖(潮力)人新開」を寄進され、開発を進めていました。この「新開」はどこなのでしょうか?
 祇園社関係の史料を見ると、 1340年(暦応3)の「顕増譲状」に次のような記載があります。
 讃岐国・(潮力)入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪附等在之
 「塩浜5反のうち、3反分に条里の坪付がある」というのです。ここから塩浜(塩田)の一部は条里制の中にあったことが分かり、条里型地割の広がるエリアに近接して塩田があったうかがわれます。ここで祇園社領の新開田が、「湖入新開」あるいは「潮入新開」と記されていることを再確認すると「湖入」というのは、綾川旧河道と砂堆の間のラグーン状の水域と推測できます。以上から八坂神社領として新田・塩浜の開発が行われたのは、東梶・西梶・川向(以上、林田町)、東条・南条(以上、江尻町)付近のエリアの範囲内であったと研究者は考えているようです。
 条里型地割を伸ばしての開発と、地形に応じた不定形な開発単位。この二者が、綾川河ロエリアの中世開発パターンであったようです。京都の祇園社は、そうした土地や飛び地を少しずつ開発したことが見えてきます。
以上をまとめると
①古代讃岐には五色台を挟んで「東の古・高松湾と西の古・坂出湾」のふたつの大きな湾入があった。
②古代の古・坂出湾では、林田津と福江津が並び立っていた
③総社神社遺跡が古代林田津であると考えられる
④菅原道真が「寒早十首」を詠ったのも林田湊ではないか?
⑤総倉神社周辺は、京都の祇園矢坂神社の荘園があり周辺の開発を行っていた。
参考文献
西村尋文・佐藤竜馬  綾川河口域における開発史一古代から中世の林田郷周辺-
                    香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ
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