瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐国絵図

 香川県には、現在以下の3つの「讃岐国絵図」が残されています。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)
②金刀比羅宮本 (1640年作成)
③高松市歴史資料館本 (元禄年間 18世紀初頭前後)
④内閣文庫本 (1838年作成 天保国絵図)
大きさはどれも畳一畳ほどのものです。今回は、これらの国絵図が何の目的で、作られたのかを見ていくことにします。「テキストは羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」です。

グーグルで「讃岐国絵図」を検索して、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、④の天保国絵図を覗いてみます。自由にポイントを選んで拡大できるので、近世の讃岐のことを地図上で確認するには重宝しています。私の愛用サイトのひとつです。

讃岐国絵図 天保版1
   ④讃岐国絵図 内閣文庫本(1838年作成 天保国絵図)

 江戸幕府は、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの絵図等を各藩に命じています このうち最後の作成となった天保国絵図は、天保6年(1835)に作成指示が出され、3年後の1838年)に完成しています。その作成方法等について、国立文書館デジタルライブラリーの説明画面には次のように記されています。
縮率・描法等は元禄図と同様で、1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、川、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。
讃岐国絵図 天保版2金毘羅周辺
      讃岐国絵図 天保版 (金毘羅周辺拡大図)

 各絵図の一隅には、郡ごとの色分け・石高(こくだか)・村数を列挙した凡例が記され、最後に国絵図の作成に関係した勘定奉行・勘定吟味役・目付の氏名が加えられています。
(以下略)
原図サイズ:455cm×南北301cm。
天下統一を果たした秀吉や家康は、各国の国絵図の提出を大名達に命じます。
秀吉は天正十九年(1591)に、大名から郡ごとの絵地図を提出させて天皇に献上しています。家康は慶長九年(1604)に西日本の大名から郷帳と国絵図を提出指示、家光は寛永十年(1633)に、全国の大名に国絵図を提出させています。しかし、これらの地図に、作図法の統一はなかったようです。
 正保元年(1644)に家光は、再び全国の大名に国絵図を提出させます。この時に作図法について、次のような指示が出されています。
 慶長九年に国絵図奉行の西尾吉次が指示した作図マニュアルには、次のように記されています。
①田郡名を墨書して、一郡ごとの田畑数・分米高・村数を朱書きすること
②村名を俵形に記入し、その外側に村の石高を書きつけること
③国境を入念に描くこと、
④田色絵にして川や道を区別すること
⑤絵図全体が大きくなりすぎないこと
この指示に基づいて、生駒藩でも讃岐の国絵図が制作されたようです。このため正保年間以後に作られた国絵図は、統一性があります。それ以前のものとは、一目見て違いが分かるようです。その後も幕府は元禄・天保に国絵図を提出させています。なお、寛永の国絵図は、急な提出命令だったので慶長国絵図などの今までに書かれていた国絵図を写したものが多かったようです。
さて、幕府に提出された讃岐国絵図の中で、讃岐に残されたコピー版を見ていくことにします。
 丸亀市立資料館には「寛永国絵図」が保管されています

 丸亀市立資料館蔵『讃岐国大絵図』は、金刀比羅宮蔵と記載内容、表現、色遣いまで非常によく似ているので、同系統版と研究者は考えているようです。丸亀市の高木伝太氏が所蔵していたものを、市が買いとったもですが、そこに書かれている内容は、金刀比羅宮蔵のものとほとんど同じのようです。
 寛永国絵図の幕府提出用の原本は、慶長国絵図をテキストにして急いで作成されたもので、両者はほぼ同じものだったようです。異なる点は、寛永国絵図には西島八兵衛がつくった90余りの大の代表的な大池12が描かれていることです。ここからは、寛永国絵図には普請奉行の西島八兵衛が関与・作成したことが推測できます。

次に金刀比羅宮蔵『讃岐国大絵図』を見てみましょう。
この絵図の裏書きには「寛永拾年酉三月日」、「生駒高俊公御寄付写 讃岐国大絵図 寛永拾七辰年」と記されています。
 ここからは、寛永十年(1633)に幕府に提出するために作成された絵図をコピーして、さらにそれを寛永17年(1640年)に再コピーしたものを金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことがうかがえます。製作時期からみて、幕府巡見使派遣の際に作成された寛永国絵図原本のコピー版を、生駒藩取りつぶしの直前の寛永17年(1640)に奉納したようです。領国支配のためには重要な情報が書き込まれた国絵図ですが、出羽国一万石に移封となった生駒家にとって、『讃岐国絵図』は不要のものです。そこで日頃から信仰の厚かった松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)に奉納したというストーリが考えられます。
 このように寛永十年(1633)に幕府に提出した原本からは、少なくとも金刀比羅宮蔵版と丸亀市立資料館蔵版2つのコピーが作成されていたことになります。
この両者の関係を研究者は、次のように考えているようです。
①九亀市立資料館本は、原本が作成された寛永十年に写されたもので、書かれた内容は金刀比羅宮本とほぼ同じである。
②1640年に寄贈された金刀比羅宮本の方が丸亀市立資料館本よりも、すっきりと洗練されたものになっている。
③西嶋八兵衛1639年に、伊勢に帰っていて金刀比羅本の作成にかかわっていない。

両者の細部を検討すると、丸亀市立資料館蔵版は、原本完成の直後の寛永十年にコピーされたもので、金刀比羅宮版より原本に近いようです。つまり、2枚の讃岐国絵図は、幕府に提出するために作成されたものの原本をコピーして讃岐国内に残したものと研究者は考えています。

系統の違う高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』を見ておきましょう。
讃岐国絵図|高松市
高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』

 高松市資料館のHP解説には、次のように記されています。    
本絵図は縦79センチメートル、横212センチメートルの法量で、墨書に一部着色し南を上にする構図である。黄色く着色された短冊形の枠には郡名を、着色の無い円形枠には村などの地名を記す。郡境は墨書き、道は朱書きによって表現し、山、川、海は薄墨で着色している。
社寺には墨及び朱書きをし、黄色や薄墨の着色で建造物が表現されている。
高松市歴史資料館所蔵「讃岐国絵図」、市文化財に/文化財保護審議会が答申 | BUSINESS LIVE

各村には石高が表示されており、裏面には郡ごとに総石高と田方、畑方のそれぞれ総反畝数が記されている。
そして、絵図の裏(折本の表紙にあたる箇所)には角型と壺型の印章があり、印文は角型が「別所信治」、壺型が「孫四郎」と読める。これらの印章から『寛政重修諸家譜』第8の播磨三木城主別所氏の一族である別所常治(正徳元(1711)年没)が所蔵していたものと考えられる。
同書によれば、常治は最初の名が「信治」、名乗りが「孫四郎」であり、延宝6(1678)年に家督を継ぎ、書院番や使番などを務めた後、長崎奉行に任じられている。これと同じ角型と壺型の印章が、明石市立文化博物館蔵「播磨国絵図」、鳥取市歴史博物館蔵「因幡国絵図」「伯耆国絵図」でも見られることから、この常治が収集したコレクションの一部であったと推察される。

この絵図には、金毘羅寺(松尾寺:現金刀比羅宮)に、三つの建造物が朱で描かれています。
讃岐国絵図 高松市資料館蔵の池内村
高松市歴史資料館 讃岐国絵図

その三つの建造物は観音堂・新金昆羅堂(薬師堂)・多宝塔のようです。
①観音堂は宥雅が元亀二年(1571)前後に建立したものです。長尾氏出身の宥雅は、翌年の元亀四年(1572)に観音堂に登る坂道の北側に金毘羅堂を建立しています。
②新金昆羅堂(薬師堂)は、生駒藩外戚の山下家出身の院主によって元和九年(1623)に建立され、それまでの金毘羅堂は役行者堂に衣替されます。
③多宝塔は延宝元年(1673)に、生駒騒動の後に、初代高松藩主としてやってきた松平頼重が建立寄進したものです。
 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、③の多宝塔が描かれているので、慶長国絵図をテキストにして延宝元年(1673)以降の元禄年間に作成されたことが考えられます。つまり、寛永十年(1633)作成の九亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵のものよりも新しいものになるようです。
 ところがもうひとつ問題があります。
この国絵図には満濃池が書かれていないのです。満濃池は源平合戦の最中に決壊して以後450年間放置され、その跡には「池内村」ができていたと伝えられます。その「池内村」が、この絵図には記さています。西嶋八兵衛が満濃池を改修したのが寛永5(1628)年のことです。
 また、丸亀城が「圓亀古城」となっているのはいいとして、引田城が「城」と記されています。これは慶長20(1615)年の一国一城令以前のことを描いていることになります。
 以上のように高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』からは、次のようなことが読み取れます。
①金毘羅大権現の多宝塔からは、17世紀後半のことが記されていること。
②満濃池跡の「池内村」や引田城からは、17世紀初頭のことが描かれていること
①②の矛盾する内容が、同位置地図に描かれていることになります。これに対して、研究者は次のように考えているようです。
A 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、慶長末期までの詳細な情報を記す原図があったこと
B その原本に基づいて、コレクターの別所常治が亡くなる正徳元年までの間で書写した国絵図である。
 幕府の元に集められ保管されていた各国の慶長国絵図を、元禄気になってコピーしたのかもしれません。どちらにしても、高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、丸亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵の「寛永国絵図」系統のものにはない江戸初期の讃岐の様子が描かれた史料であることになります。そこに書かれている内容は、慶長年間(1596一1615)頃のものが含まれているようです。しかし、製作年代については、元禄年間に作成されたもので、丸亀市立資料館本より40年以上新しいと研究者は考えているようです。そして、高松市歴史資料館本は、慶長国絵図が存在していたことを示す貴重な史料と云うことになるようです。
讃岐国絵図 高松市資料館版新聞報道
高松市歴史資料館蔵の讃岐国絵図
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度


金倉川河口 土地利用図
金倉川河口付近(土地利用図) 旧流路が幾筋も見える 
丸亀平野を流れる金倉川について、丸亀市史は「人工河川」説を唱えています。満濃池築造時に金倉川は流路変更され、その跡に用水路が整備されたと以前にお話ししました。そんな中で
「金倉川の下流部も、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉現在の現在の西汐入川である。」

という説が出てきました。それは、香川大学の田中教授です。この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
.西汐入川jpg
青が西汐入川の流路
 
廃城となった丸亀城  
慶長15年 (1610)に生駒藩では初代一正が亡くなると、嫡子正俊が家督を継ぎます。正俊は高松城を領国支配の拠点と定め、祖父親正の時代に築城された丸亀城を廃城とします。その後に作成された「高松国絵図」には城地に「圓亀古城」と注記され、「丸亀国絵図」 には、樹木の茂る小山として描かれいます。ここからは丸亀城は生駒時代に、城割は行われていたことがうかがえます。
廃城後の丸亀城址について
寛永17年(1640)2月15日「生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳」には、那珂郡の中で丸亀城跡の地名が次のように記されています。
一、高四百六石八斗九升壱合  圓亀(丸亀浦)
   内拾八石古作      見性寺領
    四拾七石三斗五升七合 新田悪所
また、翌18年10月20日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物成帳には、次のように記されています。
一、銀子弐百拾五匁  円亀村
  但横町此銀ニ而諸役免許
一、米三石      円亀村
  但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許
この二つの史料からは、次のようなことが分かります。
① 廃城後の旧丸亀城下町は「」 や「村」になっていたこと
②しかし、築城後に作られた横町や南条町、上ノ町などの町場も残っていたこと。
生駒家の改易後、寛永18年(1641)9月、西讃岐五万石の領主としてやってきたのが山崎家治です。山崎家は翌年7月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府に認められ、丸亀城の再築と城下町作りに着手します。山崎家は三代で絶えますが、初代家治のとき、正保二年 (1645) に幕府の命を受けて、丸亀城の領分の絵図を提出しています。この時の絵図は、「讃岐国丸亀絵図」で検索すると、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。
 研究者は、同時期に作られた「正保国絵図」の 「讃岐国丸亀絵図」と比較することで、丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかにしていきます。それを見ていきたいと思います。

金倉川流路変更 

まず研究者が示すのは上図です。高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 には「圓亀古城」とあり、海側に「町」と記されています。これが、先ほど史料で見た廃城後も存続した城下町の一部のようです。海沿いのほんの一部にしか過ぎなかったようです。この地図で、注目したいのは西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、地図に書き込まれた地名を見ると、上流の流域が細い部分には、「上金倉」や「今津」が見えます。どうやら金倉川のようです。金倉川が今津の北で流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出していたようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、上図の国立公文書館版の讃岐国絵図を見ると、丸亀城の西側を流れる川は、そのまま北に直流して、下金倉村で海に流れ出しています。ほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違うのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は「この両図が作成される間に金倉川の河道は、付け替えられた」と指摘します。
 ここで、研究者が注目するのは砂州や砂堆です。丸亀城の北側 (海側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれています。先ほどの絵図では、金倉川の河口は、二本の砂堆の間にあります。この砂堆は、現在のどの辺りになるのでしょうか。次に研究者が利用するのは、国土地理院の土地利用図です。
丸亀の砂嘴・砂堆
 「図13」 は、丸亀城周辺地域の砂堆と河道を示したものです。
黒い部分が砂堆や砂州です。これを見ると丸亀城の北側の海岸線には、東西方向に延びる①と②の二本の砂堆が発達していたことが分かります。さらに、西北部には③と④二本の砂堆があります。これらの砂堆が並んでいるために、旧金倉川は北流することが出来なくて、砂堆と平行に東流して丸亀城の北側で海に流れ出していたようです。
丸亀平野の扇状地
多度津から丸亀の旧海岸線には砂堆や砂州が形成されていた

旧金倉川の流れをもう少し詳しく見てみましょう。
①河口に三角州帯が形成されたため⑤の砂堆に沿って東へ流れる
② ④の砂堆との切れ目を抜けて海岸近くへ流れる
③しかし、③や②の砂堆に妨げられてまたも東へ方向を変える
④最終的には②と①の砂堆の間から海へ流れ込む。
このように旧金倉川は、いくつもの砂堆によって北に流れることを邪魔されて、東へ東へと導かれていたようです。この流路地と【図12の「高松国絵図」に見える金倉川の流路は、一致します。以上から、次のように研究者は結論づけます。
旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。この川は【図13】から知られるように、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。

それでは、金倉川の付け替えが行われたのは,いつでしょうか。
金倉川の流路変更2

その、決め手史料として研究者が提出するのが【図15】です。
この絵図の中央下よりの海岸線近くには、小判型の中に「円亀」と記されています。その上には小山に木が茂っている様子が描かれています。これが丸亀城跡のようです。「丸亀」の左脇に「三浦」が同じ小判型の中に記されています。寛永一七・八年ごろ、「丸亀浦」や「九亀町」と呼ばれていた城下町跡です。この地域が「古町」になるようです。
 河川については、土器川と金倉川が次のように描かれています。
①津郷の上井・高津両村と、同じく津郷の土器村との間を流れる土器川、
②下金倉村と杵原今津村との間を流れる金倉川
土器川の流路は、【図12】の「正保国絵図」と変わりありません。研究者が注目するのは、金倉川の流路です。こちらも「正保国絵図」と流路は同じです。ということは、【図12】の「高松国絵図」が作られたのち、「正保国絵図」が描かれるまでの間、さらに時期を絞れば、【図15】が作られる寛永10年(1633)までの間に、金倉川の流路は付け替えられたことになります。この間は、九亀城は廃城になっていた時期に当たります。九亀城は、無くなっているのに金倉川の付け替えという工事が行われなければならなかったのか。何らかの理由があったはずです。
  それを、研究者は次のように説明します。
旧丸亀城下町には、港が置かれていた。九亀は「」であって、そこは「町」となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできるよう港湾の保全を図る必要があった。金倉川を遠方へ付け替えることで、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河ロヘ流入する土砂の減少をはかったのである。

 お城はなくても、港と古町は残った。それを守るために金倉川の付け替え工事は、行われたと研究者は考えているようです。
 満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2
整備された満濃池用水

最後に、私の仮説を出しておきます。
 丸亀城廃城後の寛永10年(1633)までの間に、生駒藩が金倉川の付け替えと、西汐入川の新設を行ったことについて、もう少し広い視点から見ておきたいと思います。注目したいのは、この時期の西嶋八兵衛の動きです。襲い来る旱魃に対して、生駒藩奉行に就任した西嶋八兵衛は治水・灌漑を各地で進め、危機に立ち向かう姿勢を藩全体で作り出す事によって難局を乗り越えようとします。その目玉が1628年に着工し、3年後に完成させた満濃池でした。しかし、満濃池の水を丸亀平野全体に供給するためには、整備された用水網が必要です。

まんのう町 満濃池のない中世地図
満濃池が描かれていない絵図。かつての池の中に池之内村があった。

 ここからは以前にもお話ししたので要点だけ記します。
 満濃池の工事に先駆けてか、平行して、丸亀平野の用水路整備が行われたと私は考えています。これは治水工事とセットで行う必要がありました。その治水工事の大きな柱が、暴れ川の金倉川の流路変更です。何カ所かで金倉川は付け替えられた痕跡があることは、丸亀市史が指摘するとおりです。その時期は、満濃池完成までに間に合わせる必要があります。池ができても、用水路がなければ水は来ません。用水路を整備するためには、何匹もの龍が暴れるような川筋を持つ金倉川や四条川を「退治」する必要があったはずです。高松平野の郷東川や新川・春日川で行われたことが丸亀平野の金倉川に対しても行われたということにしておきます。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺与北町付近の金倉川旧流路跡 
 そして、金倉川下流での流路変更は、丸亀の湊と町を守るためであった。さらに、流路変更後の河川跡地が新田開発されていったのではないでしょうか。研究者は次のように指摘します
西汐入川は「中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。」
西嶋八兵衛の動き
1627年寛永4年8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任
1628年寛永5 10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
           この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
 1631年 寛永8 2・-満濃池の全工事,完成する.
1635年 寛永12 4・3 奉行西島八兵衛,生駒高俊の命により矢原又右衛門に50石を与え満濃 池の管理を命じる
    9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する
1637年 寛永14 春 西島八兵衛,松島から新川の間の堤防築造。
1639年 寛永16 12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる。生駒騒動勃発
1640年 寛永17 7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,出羽国矢島1万石に移す.

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

  満濃池は修築と決壊を繰り返して現在に至っています。
「満濃池 歴史」の画像検索結果

空海が築池別当を勤めて改修した30年後には、満濃池は再び決壊します。そして、改修されますが平安末期に決壊すると、以後は江戸時代初期に修復されるまで450年間、満濃池は姿を消していました。中世の鎌倉・室町時代は武士集団の分立、抗争が続き、復旧工事を行う労働力の組織化を行えるシステムが働かなくなったのが原因です。そのため旧満濃池の底地は、耕地化され集落ができていたようです。これを江戸時代末期の讃岐国名勝図会では「池内村(いけのうち)」と記しています。
 その間のことを資料的に確認してみようと思います。
 
関連画像

「萬之池」は、旧満濃池が再開発されて荘園となったもの

 嘉元四年(1305)六月十二日 昭慶門院御領目録 竹内文平旧蔵文書『香川県史8資料編 古代・中世史料』香川県 昭和61年 
 一 讃岐国(中略) 万之池 泰(秦)久勝   
   亀山上皇が、皇女の喜子内親王に譲った「昭慶門院御領目録」の中の讃岐の条には、飯田郷をはじめ29の郷と保の名が記されています。そこには、良野郷や良野新名、万之池等の郷名が見えます。そして、良之郷の下には行種、万之池の下には秦久勝という知行人(土地を治める人物)の名が記されています。ちなみに秦久勝は、讃岐国の分国主亀山上皇の随身です。

「萬之池」は、旧満濃池跡が再開発されて荘園となったもので、後の「池内村」の呼称であったと考えられます。
良之郷と良野新名、萬之池はその地を領有していた開発領主が、国司の苛酷な収奪から逃れるために土地を亀山上皇に寄進し、その後領主である泰久勝が、上皇の荘園の荘司として現地を支配していたようです。つまり、満濃池決壊後に底地の再開発が行われ、14世紀初頭には荘園化され上皇に寄進されていたわけです。

イメージ 1

その後、萬濃池は上賀茂神社の荘園になります。

京都の上賀茂神社の「賀茂別雷神社文書」(第一史料纂集古文書編 続群書類従完成会(昭和63年)には、その後の「萬濃池」のことがうかがえる3つの資料が載せられています。そのひとつは、受請者「瀧宮新三郎」が荘園主の京都の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書で、次のように記されています。

長禄二年(1457)五月三日
 讃岐国萬濃池公用銭送状送り参らす御料足事 合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬濃池内御公用銭、送り参らすところくだんのごとし。                    
                    瀧宮新三郎      長禄二年五月三日            賓明(花押)
      賀茂御社

内容は「萬濃池」の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料も入っています。とあります。「口銭」は手形決済の手数料です。この時代には、すでに手形決済が行われていました。
 この文書からは荘園主が亀山上皇から上賀茂神社に変わり、請負者も泰久勝から瀧宮新三郎に変わっていることが分かります。瀧宮新三郎という姓から、請負人は現在の滝宮を拠点とする綾氏系統の武士団の統領かもしれません。続いて60年後には、瀧宮新三郎に代わって、栗野孫三郎が萬濃池代官職請文を提出しています。

イメージ 2
次の史料は、永正十七年(1520)四月十六日 栗野景昌讃岐国萬濃池代官職請文です。
賀茂御社領讃岐の国萬濃池の内面競望申すにつき、御補任を成し下され候。畏み存じ候。しかれば、御公用の事は、毎年四月中旬に六貫九百文、はたまた、十一月中に五貫八百文分、京着定め、社納申すべく候。
万一無沙汰申し候はば、かの代官職の儀御改替あるべく候。
その時一言の子細申すべからず候。よって後日のため請文の状くだんのごとし
                    栗野孫三郎
 永正十七年四月十六日         景昌(花押)
  請負人名が栗野孫三郎に代わって上賀茂神社に提出した文書で
「毎年四月中旬に六貫九百文、十一月中に五貫八百文分を手形で京の上賀茂神社に送ること、もし契約を守らないときには代官職を罷免させられても文句をいうことはありません」
と記されています。
 ここで目にとまるのは、請負料が60年間に比べて年間6貫600文から12貫700文の約2倍に引き上げられていることです。これは旧萬濃池の荒地開発が進み、領地の価値が上がったことが背景にあるのかもしれません。
上記の文書と同日発行でセットになっているのが、次の文書です。
イメージ 3
永正十七年四月十六日 讃岐国萬濃池公用銭請文
請乞い申す、賀茂御社領讃岐国萬濃池の内御公用の事、栗野孫三郎御代官職として、毎年四月中旬に六貫九百文、はたまた、十一月中に五貫八百文申し請けらるところ、万一無沙汰の儀これあらば、私として、御神事前に社納申すべく候。
なおもって難渋候はば、堅く御催促に預かるべく候。
よって後日のため請文の状くだんのごとし
                はたすハふ守
  永正十七年四月十六日     安家(花押)
  これは「はたすハふ守」の上賀茂神社への「保証書」です。
「もし、請負人の栗野孫三郎が契約を守らないようなことがあれば、督促し年貢を遅らせます。」と請負料納入の保証をしています。このように鎌倉から室町に掛けて、萬濃池跡地は開発され田地化が進み、讃岐の請負人が支配する荘園となっていたことが分かります。
しかし、「池内村」という地名はでてきません。池内村でなくではなく「萬乃池」です。 「池内村」と表記されているのは、下の「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵・江戸時代初期)が初めてのようです。
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「讃岐国絵図」(丸亀市立資料館所蔵・江戸時代初期)
上図の中央の金倉川を、源流にさかのぼっていくと小判型の中に「池内」と記されています。この絵図では、村名が小判型で示されていますので「池内」は村名です。江戸時代初期に作成されたこの絵図には、中世の荘園から発展してきた旧満濃池内の村落が「池内村」と呼ばれていたことを証明する根本史料になります。
この後の寛永年間(1633)に西嶋八兵衛による再築がなされ、中世の池内村は姿を消すことになります。そして、満濃池が450年ぶりに姿を現し、近世が始まります。


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参考史料 田中健二(香川大学名誉教授)「江戸時代の開発」の講演資料による

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