香川県には、現在以下の3つの「讃岐国絵図」が残されています。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)②金刀比羅宮本 (1640年作成)③高松市歴史資料館本 (元禄年間 18世紀初頭前後)④内閣文庫本 (1838年作成 天保国絵図)
大きさはどれも畳一畳ほどのものです。今回は、これらの国絵図が何の目的で、作られたのかを見ていくことにします。「テキストは羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報 平成26年度」です。
グーグルで「讃岐国絵図」を検索して、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、④の天保国絵図を覗いてみます。自由にポイントを選んで拡大できるので、近世の讃岐のことを地図上で確認するには重宝しています。私の愛用サイトのひとつです。
④讃岐国絵図 内閣文庫本(1838年作成 天保国絵図)
江戸幕府は、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの絵図等を各藩に命じています このうち最後の作成となった天保国絵図は、天保6年(1835)に作成指示が出され、3年後の1838年)に完成しています。その作成方法等について、国立文書館デジタルライブラリーの説明画面には次のように記されています。
縮率・描法等は元禄図と同様で、1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、川、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。
讃岐国絵図 天保版 (金毘羅周辺拡大図)
各絵図の一隅には、郡ごとの色分け・石高(こくだか)・村数を列挙した凡例が記され、最後に国絵図の作成に関係した勘定奉行・勘定吟味役・目付の氏名が加えられています。
(以下略)原図サイズ:455cm×南北301cm。
天下統一を果たした秀吉や家康は、各国の国絵図の提出を大名達に命じます。
秀吉は天正十九年(1591)に、大名から郡ごとの絵地図を提出させて天皇に献上しています。家康は慶長九年(1604)に西日本の大名から郷帳と国絵図を提出指示、家光は寛永十年(1633)に、全国の大名に国絵図を提出させています。しかし、これらの地図に、作図法の統一はなかったようです。
正保元年(1644)に家光は、再び全国の大名に国絵図を提出させます。この時に作図法について、次のような指示が出されています。
慶長九年に国絵図奉行の西尾吉次が指示した作図マニュアルには、次のように記されています。
①田郡名を墨書して、一郡ごとの田畑数・分米高・村数を朱書きすること②村名を俵形に記入し、その外側に村の石高を書きつけること③国境を入念に描くこと、④田色絵にして川や道を区別すること⑤絵図全体が大きくなりすぎないこと
この指示に基づいて、生駒藩でも讃岐の国絵図が制作されたようです。このため正保年間以後に作られた国絵図は、統一性があります。それ以前のものとは、一目見て違いが分かるようです。その後も幕府は元禄・天保に国絵図を提出させています。なお、寛永の国絵図は、急な提出命令だったので慶長国絵図などの今までに書かれていた国絵図を写したものが多かったようです。
さて、幕府に提出された讃岐国絵図の中で、讃岐に残されたコピー版を見ていくことにします。
丸亀市立資料館には「寛永国絵図」が保管されています
丸亀市立資料館蔵『讃岐国大絵図』は、金刀比羅宮蔵と記載内容、表現、色遣いまで非常によく似ているので、同系統版と研究者は考えているようです。丸亀市の高木伝太氏が所蔵していたものを、市が買いとったもですが、そこに書かれている内容は、金刀比羅宮蔵のものとほとんど同じのようです。
寛永国絵図の幕府提出用の原本は、慶長国絵図をテキストにして急いで作成されたもので、両者はほぼ同じものだったようです。異なる点は、寛永国絵図には西島八兵衛がつくった90余りの大の代表的な大池12が描かれていることです。ここからは、寛永国絵図には普請奉行の西島八兵衛が関与・作成したことが推測できます。
次に金刀比羅宮蔵『讃岐国大絵図』を見てみましょう。
この絵図の裏書きには「寛永拾年酉三月日」、「生駒高俊公御寄付写 讃岐国大絵図 寛永拾七辰年」と記されています。
この絵図の裏書きには「寛永拾年酉三月日」、「生駒高俊公御寄付写 讃岐国大絵図 寛永拾七辰年」と記されています。
ここからは、寛永十年(1633)に幕府に提出するために作成された絵図をコピーして、さらにそれを寛永17年(1640年)に再コピーしたものを金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことがうかがえます。製作時期からみて、幕府巡見使派遣の際に作成された寛永国絵図原本のコピー版を、生駒藩取りつぶしの直前の寛永17年(1640)に奉納したようです。領国支配のためには重要な情報が書き込まれた国絵図ですが、出羽国一万石に移封となった生駒家にとって、『讃岐国絵図』は不要のものです。そこで日頃から信仰の厚かった松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)に奉納したというストーリが考えられます。
このように寛永十年(1633)に幕府に提出した原本からは、少なくとも金刀比羅宮蔵版と丸亀市立資料館蔵版2つのコピーが作成されていたことになります。
この両者の関係を研究者は、次のように考えているようです。
①九亀市立資料館本は、原本が作成された寛永十年に写されたもので、書かれた内容は金刀比羅宮本とほぼ同じである。
①九亀市立資料館本は、原本が作成された寛永十年に写されたもので、書かれた内容は金刀比羅宮本とほぼ同じである。
②1640年に寄贈された金刀比羅宮本の方が丸亀市立資料館本よりも、すっきりと洗練されたものになっている。
③西嶋八兵衛1639年に、伊勢に帰っていて金刀比羅本の作成にかかわっていない。
両者の細部を検討すると、丸亀市立資料館蔵版は、原本完成の直後の寛永十年にコピーされたもので、金刀比羅宮版より原本に近いようです。つまり、2枚の讃岐国絵図は、幕府に提出するために作成されたものの原本をコピーして讃岐国内に残したものと研究者は考えています。
系統の違う高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』を見ておきましょう。

高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』
高松市資料館のHP解説には、次のように記されています。
本絵図は縦79センチメートル、横212センチメートルの法量で、墨書に一部着色し南を上にする構図である。黄色く着色された短冊形の枠には郡名を、着色の無い円形枠には村などの地名を記す。郡境は墨書き、道は朱書きによって表現し、山、川、海は薄墨で着色している。社寺には墨及び朱書きをし、黄色や薄墨の着色で建造物が表現されている。
各村には石高が表示されており、裏面には郡ごとに総石高と田方、畑方のそれぞれ総反畝数が記されている。そして、絵図の裏(折本の表紙にあたる箇所)には角型と壺型の印章があり、印文は角型が「別所信治」、壺型が「孫四郎」と読める。これらの印章から『寛政重修諸家譜』第8の播磨三木城主別所氏の一族である別所常治(正徳元(1711)年没)が所蔵していたものと考えられる。同書によれば、常治は最初の名が「信治」、名乗りが「孫四郎」であり、延宝6(1678)年に家督を継ぎ、書院番や使番などを務めた後、長崎奉行に任じられている。これと同じ角型と壺型の印章が、明石市立文化博物館蔵「播磨国絵図」、鳥取市歴史博物館蔵「因幡国絵図」「伯耆国絵図」でも見られることから、この常治が収集したコレクションの一部であったと推察される。
この絵図には、金毘羅寺(松尾寺:現金刀比羅宮)に、三つの建造物が朱で描かれています。

高松市歴史資料館 讃岐国絵図
その三つの建造物は観音堂・新金昆羅堂(薬師堂)・多宝塔のようです。
①観音堂は宥雅が元亀二年(1571)前後に建立したものです。長尾氏出身の宥雅は、翌年の元亀四年(1572)に観音堂に登る坂道の北側に金毘羅堂を建立しています。
②新金昆羅堂(薬師堂)は、生駒藩外戚の山下家出身の院主によって元和九年(1623)に建立され、それまでの金毘羅堂は役行者堂に衣替されます。
③多宝塔は延宝元年(1673)に、生駒騒動の後に、初代高松藩主としてやってきた松平頼重が建立寄進したものです。
高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、③の多宝塔が描かれているので、慶長国絵図をテキストにして延宝元年(1673)以降の元禄年間に作成されたことが考えられます。つまり、寛永十年(1633)作成の九亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵のものよりも新しいものになるようです。
ところがもうひとつ問題があります。
この国絵図には満濃池が書かれていないのです。満濃池は源平合戦の最中に決壊して以後450年間放置され、その跡には「池内村」ができていたと伝えられます。その「池内村」が、この絵図には記さています。西嶋八兵衛が満濃池を改修したのが寛永5(1628)年のことです。
また、丸亀城が「圓亀古城」となっているのはいいとして、引田城が「城」と記されています。これは慶長20(1615)年の一国一城令以前のことを描いていることになります。
以上のように高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』からは、次のようなことが読み取れます。
①金毘羅大権現の多宝塔からは、17世紀後半のことが記されていること。②満濃池跡の「池内村」や引田城からは、17世紀初頭のことが描かれていること
①②の矛盾する内容が、同位置地図に描かれていることになります。これに対して、研究者は次のように考えているようです。
A 高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、慶長末期までの詳細な情報を記す原図があったことB その原本に基づいて、コレクターの別所常治が亡くなる正徳元年までの間で書写した国絵図である。
幕府の元に集められ保管されていた各国の慶長国絵図を、元禄気になってコピーしたのかもしれません。どちらにしても、高松市歴史資料館蔵『讃岐国絵図』には、丸亀市立資料館蔵や金刀比羅宮蔵の「寛永国絵図」系統のものにはない江戸初期の讃岐の様子が描かれた史料であることになります。そこに書かれている内容は、慶長年間(1596一1615)頃のものが含まれているようです。しかし、製作年代については、元禄年間に作成されたもので、丸亀市立資料館本より40年以上新しいと研究者は考えているようです。そして、高松市歴史資料館本は、慶長国絵図が存在していたことを示す貴重な史料と云うことになるようです。

高松市歴史資料館蔵の讃岐国絵図
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報 平成26年度



















