瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図

 琴平町三水会の横関智也氏によって提供された「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)を見ています。

金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館
讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)
前回は、天領の絵図下部の五条村を見ました。今回は中央の髙松街道沿いに発展した榎井村を見ていくことにします。榎井村東部の拡大図です。

榎井村 髙松街道 18世紀後半 讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」
髙松街道と榎井村東部(拡大)
上の絵地図から読み取れる情報を挙げておきます。
①榎井村の中央を髙松街道(茶色)が貫き、沿道に家が建ち並んでいる。
②土器川を渡った髙松街道が真楽寺の所でドッグレッグして、春日神社の北側を西に伸びていく
③春日神社には出水が描かれている
④法蔵寺近くの十字路の東側に高札場と郷倉があり、榎井村の中心であった

①については、後に述べます。
②について、髙松街道が真楽寺の所でドッグレッグしているのは何故でしょうか?
その理由として考えられるのは、土器川(祓川)の渡場から真っ直ぐに西に伸びてきた髙松街道を、金倉川にかかる鞘橋に結びつけるには、どこかで南にルート変更する必要がありました。その変更点がこの地点だったと私は考えています。ここには榎井の村社である春日神社があります。そして春日神社には、こんこんと湧き出す泉(出水)があります。春日大社と鞘橋は早くから生活道で結ばれていたのかもしれません。
DSC05362
              春日神社(琴平町)の本殿横の出水
③の春日大社の出水は、前回お話しした五条村の大井神社と同じで、神聖な場であると同時に、下流の水源地としても機能していました。春日大社の水源をもとに開かれたのが榎井村になることは以前にお話ししました。五条が本村、榎井が新村です。

駅から近いです
奈良市の高札場
④の高札場と郷倉が榎井村の中心だったようです。この辺りに中世の石井氏の居館もありました。

琴平 本庄・新庄2
琴平の五条の能勢氏の本庄城と、榎井の石川氏の石川居館(山本祐三氏 琴平の山城より)
現在は春日神社と呼ばれ、「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記されています。そして、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたことが棟札からも分かります。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興
貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
ここに出てくる新庄氏・本庄氏は、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーです。彼らは小松荘の本庄(五条)・新庄(榎井)に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。以上からは、春日神社は新庄氏や石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが近世になって「榎井大明神」から「春日神社」に接ぎ木されて株取りされたようです。どちらににしても春日神社と石川氏の居館跡の辺りを中心に、中世の中心はあったのでしょう。それが18世紀になって髙松街道沿いに東西に発展していきます。ここに高札場が設けられたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。

絵地図の西側を見ておきましょう。

榎井西部 興泉寺
榎井村西部
⑤髙松街道沿いに、南に法蔵寺・玄龍寺、北に興泉寺がある。
⑥興泉寺が金毘羅寺領の新町との境界であった。
⑦興泉寺には南東から(琴平マルナカ)流れる水路が描かれている

  18世紀初頭の元禄時代に書かれた金毘羅大祭行列屏風図と見比べて見ましょう。

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
大祭行列屏風図の榎井と寺領境界(元禄年間)
多く人達が行列を組んで髙松街道を、本社に向かっている姿描かれています。この絵図からは次のような事が読み取れます。
①榎井の間には、木戸が金毘羅寺領の新町側に木戸が構えられている。
②街並みは新町側で終わっていて、榎井側には家並みはなく田んぼが続いている
この絵図が書かれたのが18世紀初頭です。そして、池御料地図は18世紀後半に書かれたものです。そうだとすると、18世紀の短期間の間に、榎井の髙松街道沿いに家並みが建ち並び都市化したことがうかがえます。18世紀は、榎井村にとっては大発展の世紀であったことを押さえておきます。

木戸前後
               大祭行列屏風図の榎井との境界部の拡大
木戸を抜けると金毘羅領です。頭人の奴行列が金毘羅領に入ろうとしているところです。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。大祭に奉仕する女頭人を乗せた駕籠が、丸亀街道との合流点に立つ鳥居を今まさにくぐったところです。そして男頭人は、乗馬姿で髙松街道を池の御領方面からやってきて木戸に差し掛かろうとしています。その木戸を入ったところに、うどんの看板を掲げた店があります。これが讃岐でのうどん屋出現を示す最も古い史料になります。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説です。
今度は幕末の讃岐国名勝図会に描かれた榎井村を見ていくことにします。

榎井・五条天領 大井八幡
髙松街道沿いの榎井村(讃岐国名勝図会)
北からの髙松街道榎井の俯瞰図になります。この絵図からは次のような事が読み取れます。
①東から伸びてきた髙松街道が真楽寺でドッグレッグしている。
②榎井村の西端に興泉寺が描かれていて、街道には切れ目なく民家が建ち並び門前町を形成している。
③街道沿線には、寺社がいくつも描かれている
こうしてみると、幕末には榎井村は人口がさらに増えて街道の背後まで家が建ち並ぶようになっていたことが分かります。讃岐国名勝図会が榎井村の名勝として絵図入りで紹介している玄龍寺です。

榎井 玄龍寺の松
榎井村の玄龍寺
左からうあってきた髙松街道が右の金毘羅側に続き。多くの往来が描かれています。この辺りに、榎井村の高札と郷倉があったことになります。
天領と寺領
池御料三村と金毘羅寺領(上が南)

榎井の東端でドッグレッグした髙松街道を東に進むと、四条村です。ここは髙松藩になります。四条については、讃岐国名勝図会には次のように描かれています。

讃岐国名勝図会 髙松街道 土器川・四条
土器川周辺・四条村 (讃岐国名勝図会)
以上をまとめておきます。
①古代中世の榎井は、春日神社(榎井大明神)の出水を利用したエリアに集落が形成された。
②中世には大井神社を中心とする五条が本所(庄)で、石井氏の榎井大明神(春日神社)は新所(庄)で、それぞれの国衆の氏神であった。
③春日神社と石井氏の居館を結ぶ用水路沿いと、その下流域が榎井エリアであった。
④それが流行神の金毘羅神の登場で、金比羅寺領の門前町化が18世紀になって進むと、榎井も髙松街道沿いに人家が建ち並ぶようになった。
⑤榎井村の高札場は、石井氏の居館に近い髙松街道沿いに建てられた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考史料
 横関智也の提供「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)
関連記事

   決壊中の満濃池   
満濃池と池御料三村(白色)と金毘羅寺領(黄土色)
1640年に生駒騒動で生駒藩が転封すると、その後の讃岐は髙松藩(草色)と丸亀藩(茶色)の東西に分割されます。その時に満濃池の管理費の捻出のために設置されたのが池御領という天領(白色)でした。こうして金毘羅寺領に接した①榎井②五条③苗田の三村は、幕府の直轄地となり倉敷代官所などの支配下に置かれることになります。金毘羅寺領と池御領の位置関係は上の絵図の通りです。

1648年 幕府の金光院への朱印状
金毘羅寺領と天領三村の石高
倉敷代官役所管下の天領・窪屋郡倉敷村の庄屋を勤めた小野家には、「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」という大きな一枚の絵図があります。これを初めて紹介したのは、琴平町の三水会の横関智也氏です。
金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館

横関氏は、次のように報告しています。
①提出先が倉敷代官「万年七郎右衛門 様 御役所」 となっている。
②この代官の任期は、一回目が明和7年~安永4年(1770年~1775年) 、二回目の任期が天明4年~天明7年没(1784年~1787年没)なので、制作されたのは18世紀後半
④提出者が苗田村・東庄屋新左衛門と同村西庄屋五郎衛門 
⑤いままでの紹介されたことのない新史料の絵地図であること
以上から、この絵図が18世紀後半に池御料で制作されて、倉敷代官所に提出されたものであることが分かります。今回は、この絵地図の中の五条村について見ていくことにします。
五条村の部分からは、次のような事が読み取れます。

五条村絵地図 18世紀後半
五条村の部分
①川は青色で描かれていて、金倉川と買田川が石淵の手前で合流している。
②石淵の対岸には神事場は描かれていない。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新後。
③街道は茶色で描かれていて、阿波町から阿波街道が五条村の中央を東西に貫通している。
④阿波街道沿いに札場と所蔵(郷倉)がセットであり、ここが行政的中心であったこと。
⑤札場から阿波街道はくねくねと曲がっているが、これは出水①の用水路沿いに作られたため。
⑥出水①が中世以来の五条の水源で、その水の供給範囲が中世の荘園領であった。
⑦出水④の水が湧き出す霊域に祀られたのが「大井神社」で、その背後は四条村になる。

高札場とはどんなものだったのかを見ておきましょう。

高札場とは何?復元された名古屋市緑区東海道鳴海宿の高札場に行った感想

名古屋市の東海道鳴海宿の高札場

高札場のことを。AIに訊ねると次のように答えます。
高札場とは幕府や領主が、法度(法律)や禁制(禁止事項)を記した木の板(高札)を掲げた施設のこと。設置場所は、村の中心部や、橋のたもと、十字路など、人の往来が多い所。構造は、権威を示すために一段高く作られ、雨風から札を守るための屋根や、保護のための柵が設けらた。
次に郷倉を見ておきます。

吉野上村郷倉平面図
まんのう町吉野上村の郷倉平面図です。明治になって小学校や交番として利用されるようになります。

幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。

 
これを受けて高松藩・丸亀藩や天領でも一斉に、郷倉(所蔵:ところくら)が設置されます。そして、年貢米の一時的集積地となります。池御料の年貢米は、ここから那珂郡と鵜足郡の人夫と馬の夫役で、宇多津まで運ばれ、そこから倉敷へ送られました。 
 郷倉は明治になって、戸長役場や小学校・交番に転用されます。ちなみに各村の郷倉は、年貢の一時保管庫以外にも、犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場の役割も果たしていたことは以前にお話ししました。ここでは、札所と郷倉はセットで、村の中心に作られたことを押さえておきます。五条村では、現在の琴平高校の南側の旧阿波街道沿いに建てられていたようです。この辺りに、本村や本条という地名も残っています。
 私が注目したいのは、出水①④のある大井神社と五条村の関係です。
  角川の地名大辞典には、次のように記します。

五条は金倉川の上流域に位置する。地名の由来は、条里制那珂郡五条にあたることにちなむ。南部の買田峠の三坂山一体には古墳群があり、仲多度農業普及事務所(琴平マルナカ東)の構内からは弥生式土器が出土している。

琴平町五条
現在の琴平町五条 中央水色が金倉川

グーグル地図で現在の琴平町五条を押さえておきます。
①五条の真ん中を、東西に金倉川が貫通する。
②大井八幡が氏神で、この周辺の出水から導水されたJR土讃線の北側の範囲に集落が形成された。
③R32号が金倉川を渡る橋の東側下に、いまも豊かな出水があり、古代の重要な水源地となっていた。
④その水源を霊地として「大井神社」が建立された。これは榎井の春日神社よりも古い。
⑤五条集落の形成は、榎井よりも早い。五条が本村で、榎井は新村(分村)

琴平大井・春日神社
五条附近の金倉川痕跡 
上記の土地利用図からは次のような情報が読み取れます。
A 金倉川は三坂山の所で流路を大きく変えていたこと
B かつての河道は大井神社から春日神社方面や、買田峠のすぐ下を流れていたことあったこと。
C 五条方面では、JR土讃線に沿うように流れていたこともあった。
こうしてみるとBの大井神社や春日神社にいくつも出水があり、それが聖域化し、そこに神社が建立されたことや、」C沿いに伏流水が流れて、それに沿って阿波街道も開けたようです。

まんのう町条里制と遺跡
三坂山の群集墳と準郡衙的な買田岡下遺跡と四条の弘安寺
⑥買田の三坂山には、古墳時代後期の群集墳があったとされ、岸上には、横穴石室の古墳もある。
⑧買田のJOYの南側からは、8世紀の官衛的遺跡も発掘されている。
⑨五条の東側の四条には、白鳳時代の瓦が出土している弘安寺が建立されている。
以上からは五条・買田附近では、弥生時代に大井神社付近の出水を水源にして稲作が始まり、古墳時代には群集墳の渡来人による開発が進み、律令時代には官衛的な建物や古代寺院が姿を現すようになったと云えそうです。古代から順調に力を伸ばし続けた勢力の拠点地であったことがうかがえます。これをまとめると次のようになります。

五条・買田の歴史

つまり、那珂郡の最南端の条里制や、四条の弘安寺・買田の郡衙的建物は、五条近辺に勢力を持っていた古代豪族によって作られたと私は考えています。それは佐伯氏ではありません。ここは多度郡ではなく那珂郡です。佐伯氏の勢力の及ぶ範囲ではありません。また、和気氏(因支首氏)でもありません。ましてや神櫛王(綾氏)でもありません。それについては、以前にお話ししたのでここでは触れません。
丸亀平野条里制 琴平の五条・四条
丸亀平野の条里制 琴平町の五条は那珂郡条里制の最南端に位置する

次に中世の五条周辺を見ておきましょう。

まんのう町の郷
五条は小松郷に属した

延慶二年(1309)の九条家の「九条忠教注給条々」には、次のような記載があります。
  小松荘 御馬飼赳晶公器談
此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也 
意訳変換しておくと
 小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。

ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと
②飼育を行っていた行宣も預所であったこと
③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には九条家の馬を飼育する牧場があったことが分かります。つまり、九条家の荘園になっていたことが裏付けられます。
九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます
南北朝動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
    御判  (足州義満)  
備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、
応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。

ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
 以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
讃岐の細川家の所領も、このころには細川氏の手を離れたようです。以後の備中細川家の安堵状には、小松荘の名は見えなくなります。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。
 16世紀初頭の永世の錯乱後、阿波勢力の讃岐侵攻を受けて讃岐は各国に先駆けて戦国時代に突入します。そのような中で丸亀平野をめぐっては、阿波三好氏に属した長尾城主と、反三好の天霧城香川氏の勢力争いが展開されます。そのような中で小松庄の国衆は、長尾氏の参加に編入されていったことは以前にお話ししました。その拠点とされるの五条の古城です。

琴平 本庄・新庄
琴平高校北側の本庄城は能勢氏の居館((山本祐三 琴平町の山城より)
 一枚の絵地図を見ながら、私の考えている五条の歴史を振り返ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
横関智也氏提供 「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」
参考文献
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