瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐守護代香川氏

史料に出てくる讃岐最初の海賊は?
 瀬戸内海は古代から「海のハイウエー」として機能してきました。そこには海賊が早くから出没したようです。海賊は、平安時代初期の史料には見え、末期になると活発化します。鎌倉幕府成立後、西国に基盤を持たない源氏政権を、見透かすかのように活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、召し捕るように命じています。
 寛元四年(1246)三月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺で最初の「海賊討伐」史料のようです。しかし、この海賊がどこを拠点としていたかは分かりません。そのような中で、讃岐の海賊衆の活動がうかがえるのが次の史料です。
   僧承誉謹中
    当寺御領伊予国弓削島所務職間事
    (中略)
 去正和年中讃岐国悪党井上五郎左衛門尉・大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下凶賊等、率数百騎大勢、打入当島、致悪行狼籍之時者、承誉以自兵糧米、相具数百人之勢、捨身命、
致合戦、討退彼悪党等、随分致忠節早
    (後略)
意訳すると
鎌倉時代の正和年間(1312年から1317年)に讃岐の悪党・井上五郎左衛門尉と大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下の賊党が数百騎を率いて、伊予の弓削島を襲い悪行狼籍を働いた。承誉は、数百勢を率いて防戦し、命を捨てて戦い悪党どもを打ち払った。忠節な輩である。

讃岐の悪党が塩の荘園として有名な東寺の弓削荘を襲っている記録です。ここに出てくる「悪党」は海賊衆でしょう。讃岐から芸予諸島に出向くには、燧灘を越えていかなければなりません。船が必要です。悪党=海賊と考えられます。ここには、讃岐の海賊衆の姿があります。
それから約140年後にも讃岐の海賊は、弓削荘への略奪・押領を行っています。その主役である山路氏のことについて、以前お話ししました。山路氏のその後の歩みについて、今回は見ていきます。

弓削荘の寛正三年(1462)の史料にも山路氏は登場します。
  (紙背)
  弓削島押領人事  公家奉公 小早川小泉方  
  海賊 能島方 山路
  此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永専口説記之
前の史料に出てきた小早川小泉・能島(村上氏)・山路がここでも登場します。小早川小泉は「公方奉公」とあります。後の小早川隆景の配下で活躍する小早川家の有力一族です。能島と山路には「海賊」の注記があります。小早川小泉は海賊でありながら細川氏の奉公衆として仕えていました。そして、能島村上氏は後の村上武吉を生み出す海賊衆です。ここでは、山路氏は能島村上氏と同列に、海賊衆として記されています。山路氏は西讃守護の香川氏の配下に入って行くことになります。その過程を追って見ようと思います。

西讃守護代の香川氏と山路氏の出会いは?
香川氏は天霧城を拠点に、後には領域支配を広げて戦国大名化していきますが、応仁の乱以前においては、あくまで守護細川氏に忠実で支配エリアも狭かったようです。そのような中で、香川氏の活動の一端がみえるのが瀬戸内海の交易活動です。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』では、国料船の船籍地が変更されています。
国料は寺社などの修造費のために給付された修造料国料の〈国料〉に由来するようです。転じて海の関所通行にあたって関銭免除の特権を持つ船になります。過書による船の特権が1回限りのもので、積荷の品目・数量についても関所でその都度、検査が行われたのに対して,国料船のチェックは緩やかだったようです。
 香川氏が守護代として管理する国料船の船籍は、元々は宇多津でした。それが香川氏のお膝元の多度津に移動しています。香川氏は、多度津の本台山(現桃陵公園)に居館を構え、詰城として天霧城を築いていたと云われます。
 多度郡の港は次のように変遷していきます。
①古代 弘田川河口の白方港
②中世 砂州後方に広がる入江の堀江港 
    港湾管理センターは道隆寺
③近世 桜川河口の多度津港
 香川氏は多度津に居館を築くと同時に、それまでの多度郡の港であった堀江湊から桜川河口に新たな港を開き直接的な管理下に置こうとしたと私は考えています。そして、瀬戸内海交易活動によって経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃一帯へ力を広げていくという筋書きが描けます。
それでは、その船の管理運営にあたったのは誰なのでしょうか?
そらが白方を拠点に「海賊」活動を行っていた山路氏だと研究者は考えているようです。燧灘を隔てた芸予諸島の弓削荘への「押領」活動が出来る海上輸送能力を山路氏は持っています。新たに開かれた多度津港に出入りする船の管理・防衛を行うには山路氏は最適です。香川氏にすれば海賊衆を支配下におくことにより、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を計ろうとしたのかもしれません。これは能島村上氏と毛利氏・小早川氏の関係にも似ています。

もうひとつ山路氏の活躍する場面が考えられます。
応仁の乱後の讃岐武士団の動きを年表で見てみましょう。

1467 寛政8・26 細川勝元,西軍の将一色義直を攻め,応仁の乱はじまる
   6・24 讃岐西方守護代香川五郎次郎と東方守護代安富盛保,上洛し合戦参加
   10・3 安富元綱,相国寺合戦において西軍に討たれる
1477 文明9 11・11 応仁の乱,終わる
   1・2 香川氏,一条家領摂津国福原荘の代官をつとめるが,年貢納入を果た
       さ ぬため興福寺より催促をたびたび受ける
1487 長享1 足利義尚,六角高頼を討つため近江坂本に布陣する
     12・7 香川元景・安富元家・安富与三左衛門尉・香西五郎左衛門尉ら,細
        川政元に従い近江六角攻めに参加する(蔭涼軒日録)
1489 延徳18・12 香西・牟礼・鴨井・行吉ら,香西党としてその勢力が京都に
        おいて注目される
 1491 延徳3 香西元長・牟礼次郎・同新次郎・鴨井藤六ら,細川政元の奥州遊覧
        に随行する
   5・16 香川元景・安富元治,細川政元邸での評定に参加する
   8・- 安富元家,足利義材より近江守護代の権限を与えられる
1492 明応13・28 香西五郎左衛門尉,荘元資とともに備中守護細川勝久と戦う
       が敗れ切腹する.
この戦で, 讃岐の軍兵の大半が討死する
   9・21 安富元家,帰京し,近江より四国勢を帰国させる.
1493 明応26・18 京都の羽田源左衛門,讃岐国は13郡,西方は香川が東方は安富が統治し,
小豆島は安富が管理していることなどを蔭涼軒主に伝える

年表からは次のような事が分かります。
①応仁の乱に、香川氏・安富氏など讃岐武士団が細川方の主力として上洛参戦している
②讃岐武士団は、京都で常駐し、その勢力が注目を集める存在になっている
③しかし、1492年の備中守護細川勝久との戦いに敗れ,讃岐の軍兵の大半が討死し、讃岐武士団の栄華の時代は終わる。
 この年表を見て気がつくのは、香川氏は細川氏の招集に応じて、京都に向けて大規模な軍事行動を応仁の乱も含めて2回行っています。
 畿内への出陣には、輸送船や警護のための兵船も必要でした。それを担ったのも山路氏ではなかったのでしょうか。山路氏は、香川氏の支配下に入り、香川氏の畿内出陣への海上勢力となったと研究者は考えているようです。
 晴元が政権を掌握した後には、西讃岐の支配は香川氏によって行われるようになります。
「讃岐国は13郡あり,西方は香川が、東方は安富が統治し,小豆島は安富が管理する」

という「蔭涼軒日録」の記述にあるように、生き残った香川氏の一族は、領国支配への道を歩み出すことになります。 その香川氏の配下についたのが山路氏や高瀬の秋山氏のようです。
 なぜ、山路氏は香川氏の配下に入ったのでしょうか。
その背景には、能島村上氏による瀬戸内海の制海権掌握が考えられます。能島村上氏は、16世紀になると管理エリアを拡大し、塩飽や小豆島までも直接的な支配下に置くようになります。謂わば村上水軍による「海の平和」が一時的にせよ、もたらされたのです。この体制下では、巨大な海軍力をもつ村上氏に楯突くことはできません。弱小海賊衆は海賊行為もできないし、警固衆として通行税の徴収もできなくなります。つまり、弱小海賊衆の存在意義が失われていったのです。
そのような中で山地氏が生き残りの活路を求めたのは、戦国大名に脱皮していく香川氏です。
  山路氏は、海賊衆から陸地の武士へと転換せざるを得なかったようです。そして、香川氏の方にも海賊衆山路氏を支配下に収めることにより、新たな領主の道を歩もうとします。両者の思惑が一致します。それが讃岐の海賊衆の終焉でもあったようです。

香川氏は、細川氏の一族抗争による衰退後は、独自の領域支配を行うようになります。
それは戦国大名化していく道でした。それに応じるように山路氏は香川氏の下で、海から陸への「丘上がり」を果たしていきます。
その姿を追ってみましょう。
  次の史料に見えるのは、香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす山路氏の戦闘姿です。それは海ではなく、陸の戦いでした。「天正十一年の香川信景の感状」です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 信景
     山地九郎左衛門殿
これは大内郡入野庄の合戦での山地九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面山に陣を敷きます。そして、十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉方の仙石秀久軍を攻めます。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山地氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
 この文書の奥付には、後世に次のように追記されています。
「右高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利薙侍之、此九郎左衛門ハ香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子乎」

とあり、意訳すると
この文書は高知の山地氏が保管していたものである。元親の次男五郎次郎が、讃岐の香川信景の養子となったが、後に病で高知に帰ってきた。岡豊城の西の小野村に居を構え、元親の家臣となった内藤左衛門・山地利薙侍は、この感状に名前のある九郎左衛門は、香川家の旧臣であり利奄蓋九郎左衛門の子のことである。
この文書からは次のような事が分かります。
①山地九郎左衛門は、香川信景の家臣として参陣している。
②山地九郎左衛門の子孫は、長宗我部元親が土佐一国に領土を削減された際に、香川氏と共に土佐に亡命し、元親の家臣となっていた
さらに研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、三木池戸村(三本松)中城跡  安富端城也、
後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、
詫間ノ城ノ城主
ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は、かつての安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。

三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。

ここからは三本松・中城の城主・山地九郎右衛門は、海賊衆山路氏の末裔であったことが分かります。そしてもともとは詫間に城を持っていたといいます。
 どうして、海賊衆であった山路氏が詫間城主となり、その後三木郡へと移動したのでしょうか。
『西讃府志』に、その謎を解く記述があるようです。
 詫間弾正居レリト云、古城記二ハ 甲斐国山地右京進細川氏二従テ来リ、此城二居テ多度三野豊田等ノ三郡ノ旗頭夕リ、(中略)
旧ク詫間氏ノ居ラレシコト明ナリ、山地氏ノ居リンハ、恐ラクハ此後ノコトニテ、香川氏二属テ、詫間氏ノ城ヲ守りシナドニヤ、又兎上(爺神)山ニモ詫間弾正ノ城趾アルナド思フニ弾正ノ時二至り、細川氏二此地ヲ奪レ、兎上山二移りシナルヲ、ヤガテ山地右京進二守モラシメシガ、其子九郎左衛門二至り、故アリテ池戸城二移サレツルナルベシ
西讃府志は、同時代史料ではありませんが、そこに書かれていることをまとめておきましょう
①甲斐国から細川氏に従って、讃岐になってきた山地氏は詫間城に拠点を構えた。
②しかし、もともとは詫間城は詫間弾正の居城であったものを守護・細川氏に奪われ
③詫間弾正は高瀬の兎上(爺神)山に逃れて、そこ拠点として新城を築いた
④その後に、守護代・香川氏は、山路氏を支配下に収めると、西讃支配を強化のために山路氏を詫間城に入れた
⑤白方から詫間へと山路氏は移動するが、詫間の港も併せ管理運用するようになった。
⑥詫間の南の高瀬郷は、同じ西遷御家人の秋山氏が香川氏のもとで領域を拡大しつつあった。

疑問点としては、甲斐からやって来た御家人がどのようにして「海賊」になって、弓削島まで荒らすようになるのかは分かりません。どちらにしても山地氏は、守護の細川氏と深い繋がりがあったようです。
 そして守護・細川氏が衰退していく中で、戦国大名への変身を遂げる香川氏の勢力下に山地氏も組み込まれていったようです。香川氏が領域支配の拡大をするにつれて、山路氏は海賊衆から陸地の領主へと性格を変えていきます。そのような中で長宗我部氏に配下に下った香川氏は、東讃平定の先兵の役割を担わされることになります。
 その先陣を勤めたのが山地氏です。入野合戦の戦功により、城を与えられたのが「中城」なのでしょう。『讃陽古城記』に「安富端城」とあるように、もともとは安富氏の出城でした。ここに山地氏を入れることにより、東讃攻略の拠点とします。東讃攻めのために十河氏を包囲する戦略的な要地です。香川信景は長宗我部勢の一隊として戦いに参陣しています。石田城攻めにさいしては、秋山杢進(一忠)も信景から次のような感状を受けています。
 今度石田城行之刻、別而被抽粉骨、鑓疵数ヶ所被蒙之由、誠無比類儀候、無心元存候条、為御見廻、此者差越候、能々御養生専一候、委細任口上候間、不及多筆候、恐々謹言
 中
 二月廿八日  
               信景(花押)
     秋山杢進殿
           まいる
このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。そして、論功行賞は、長宗我部元親ではなく香川氏が行っています。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度任されていたのではないかと研究者は考えているようです。
それを窺わせる次のような元親の書状があります
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」
意訳すると
敵の数は多かったが撃ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」
「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 山地氏を詫間から三木の池戸へ移したのも、香川氏の東讃攻略の一つかもしれません。入野合戦の際には、山地氏はこの池戸の城から出陣したはずです。その際の姓が「山路から山地」へと改名されています。これは単なる「誤読」ではなく、海賊衆から陸の武士への変身に合わせて改称したとも思えます。山地となることにより、香川氏の家臣団の組織に組み込まれたことを示すと同時に、山路氏の海賊衆からの「足洗い」の意思表明だったのかもしれません。
以上をまとめてみると
①讃岐白方を拠点とする山路氏は、芸予諸島の弓削荘に対して海賊行為や押領を行っていた
②山路氏は海賊であり「海の武士団」として備讃瀬戸の海上軍事力勢力であった
③その力を西讃守護代・香川氏は活用し、交易船や軍事行動の際の軍船団として使った
④能島村上氏の備讃瀬戸への勢力拡大と共に、讃岐の弱小海賊は存在意味をなくしていく。
⑤このような中で山路氏は、香川氏の配下で詫間城を得て丘上がりする
⑥さらに長宗我部元親の東讃平定時には三本松の城主として、戦略拠点の役割を果たした。
⑦長宗我部の土佐撤退時には香川氏と共に土佐に「亡命」した。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

   橋詰 茂    讃岐海賊衆の存在     瀬戸内海地域史研究8号2000年

 海民から海賊へ、そして海の武士へ
  室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。このような「海賊=海の武士団」のような性格の勢力は讃岐にもいました。それが多度津白方や詫間を拠点とした山地氏のようです。 今回は讃岐の海賊・山地氏を探ってみましょう。テキストは「田中健二 中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要」です 

塩の荘園弓削(ゆげ)庄を押領した海賊たち
 海賊行為は南北朝の動乱の中で活発化します。
芸予諸島の弓削島は、塩の荘園として京都の東寺の荘園でした。しかし、南北朝以後になると小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に派遣し、荘園下地を獲得することに成功しています。それに要した費用を計算した算用状の中に、能島村上氏が次のように登場します。

野島(能島)酒肴料、三貫文」

これは、野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。 このように能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力の姿で記録に残っています。

3弓削荘1
 ところが約百年後の康正二(1456)年には、村上氏は押領側として、次のように記されています。
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一〔康正三年(1456)村上治部進書状〕
弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに、(あきの国)小早河少泉方、(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路方、(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉、山路ハ細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、御さいそく二よつて公物等をもさた申候ハヽ、少分にても候へ、とりつき可申候
 ここには、応仁の乱の直前にの1456(寛正3)年に、島の経営を任されていた東寺の僧が弓削島から塩が納入されない背景を報告しています。その理由として挙げているのが、周辺勢力のからの押領です。押領者として挙げているのが次の3者です
①(あきの国)小早河少泉(小泉)氏
②(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)氏、
③(いよの国)能島両村(村上氏)
  5年後にも、次のような記録があります
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一 〔弓削島庄押領人交名案〕
一、弓削島押領人事、①小早川小泉方、③能島方、②山路方三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之、寛正三年(1462)五十七

①の小早川少泉(小泉)氏は、後の毛利元就の息子隆景が養子として入ってきて、大大名に成長していく小早川氏の一族です。小早川氏が三原を拠点に、東寺の荘園を横領しながら芸予諸島に勢力を伸ばしていく様子がうかがえます。
③は能島ですから能島村上氏のことです。後の海賊大将といわれる村上武吉が登場してくる所です。
京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘

 安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、能島村上氏と共に、讃岐国の山地氏は弓削荘を「押領」している「悪党=海賊」と東寺に訴えられています。村上氏は百年前には警固役だったのが、応仁の乱の前には押領(海賊)側になっています。ここからはこの時代の「海賊」には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
   ①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
 ②荘園押領(侵略)を行う海賊
 香川県の研究者が注目するのが「(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)方」です。
この「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいたこと、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

3 天霧山4
  香川氏の天霧城

 気になるのが白方の山地氏と多度津の香川氏の関係です。
香川氏は、讃岐守護細川氏の下で西讃の守護代を務めていました。居館を現在の多度津桃陵公園に置き、堅固な山城を天霧山に築いて丸亀平野や三野平野に睨みをきかせていました。山地氏の拠点白方は、そのお膝元になります。

3白方Map

 白方は、弘田川河口にあった古代多度郡の港です。
古代善通寺勢力の外港は白方港でした。盛土山古墳を初めとする古墳群が港周辺の小高い丘に並びます。弘田川の堆積作用を受けて、港としての機能が低下し、ラグーンの入江奥の堀江港にその地位を譲ります。堀江港の管理センターの役割を果たしたのが四国霊場道隆寺だったことは以前にもお話ししました。

3 堀江

 戦国時代の末期に、信長との石山合戦の戦局打開のために毛利軍が讃岐に押し寄せてきます。信長方の阿波三好勢力と元吉(櫛梨)城をめぐって戦った元吉合戦ですが、その際に毛利軍が上陸してきたのは堀江港でした。桃陵公園下の多度津の港が本格的に活動を始めるのは近世以後のようです。多度郡の港は 
①古代 白方港 → ② 中世 堀江港 → ③近世 多度津
と変遷していることは以前にお話ししました。

3 天霧山5

   話を山地氏と香川氏の関係に戻しましょう
 瀬戸内海の海の関所の通行記録である『兵庫北関入船納帳』には、多度津港を母港とする船も記録されています。多度津の船は、香川氏管理下にあって、京都在住の守護細川氏にいろいろなものを送り届けたので免税扱いとなっています。ここで注意したいのは、守護代香川氏の便船を動かしていた船乗りたちは、どんな海民たちだったかということです。第1候補は、白方を拠点とする山地氏ではなかったのかと研究者は考えているようです。
 以上から推察できることをまとめておきます。
①山地氏は詫間城を本拠にしながら、香川氏の配下として天霧城の外港である白方を守っていた
②山地氏は香川氏の水軍の指揮官で、近世の船手に当たる存在だった。
3 天霧山2

研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、同池戸村(三本松)中城跡 安富端城也、後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、詫間ノ城ノ城主ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。
三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。
『翁嘔夜話』讃州府志の三野郡の項目
山地右京進城
在詫間、至山地九郎左衛門、徒千三木郡池戸城、天正十三年没、其臣冒姓、子孫於今為庶、秋山、山地泣原甲州人、従細川氏而来
意訳すると
 山地右京進の城は詫間にあり、山地九郎左衛門の時に、三木郡池戸城に移った。天正十三年の戦役で没落し、一族は下野した。秋山・山地氏は、もともとは甲州出身で、守護の細川氏とともに讃岐にやって来た

以上のように近世になって書かれた上の二つの資料からは、次のようなことが読み取れます。
①山地氏は甲斐国出身の武士で、右京進の時に三野郡詫間城が本拠
②山地右京進の時に、西讃守護代の香川氏の配下へ
③その子の九郎左衛門の時に、三木郡池辺城へ移動
④山地氏は、秀吉の四国制圧で没落
⑤生駒氏に重臣として登用された三野四郎左衛門は山地氏の子孫
疑問になるのは、どうして山地氏が詫間から三本松へ移されたかです。それはひとまず置いておいて先に進みます。
山地氏が香川氏の臣下となったとありますが、別の資料で確認します。
「壼簡集竹頭」所収文書 東京大学史 高知県立図書館原蔵
〔香川信景感状写〕
去十一日於入野庄合戦、首一ツ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也、
天正十一年五月二日           信景
山地九郎左衛門殿
(注記)
高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利奄侍之、此九郎左衛門香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子手、
  この文書は、注記に見えるように、香川氏と共に高知に亡命した山地家に残されていたものです。内容は天正11年(1583)4月21日に行なわれた大内郡入野庄での合戦で、山地九郎左衛門が挙げた軍功を香川信景が「首一ツ討捕、無比類働神妙候」と賞したものです。ここからは山地氏が香川氏の配下にあったことが分かります。
 この中に見える九郎左衛門は『讃陽古城記』と『翁嘔夜話』から山地右京進の息子で、三木郡池戸城へ移り天正十三年に没したと記されていた九郎左衛門と同一人物のようです。山地家は右京進のあとは、九郎左衛門と左衛門督の二家があり、九郎左衛門の子孫は香川信景の養子に従い土佐へ亡命し、左衛門督の子孫は讃岐に残ったようです。
 讃岐に残った一族が、先ほど資料で見た「生駒家で重臣に登用された三野四郎左衛門」の祖先になります。 
 山地氏も香川氏の家臣団に編入されていたことが分かります。

 山地氏は海賊であると同時に、香川氏の「水軍」部隊として活躍していたことが分かります。
九郎左衛門が詫間から三木郡へ移住したのも、香川氏の命令だったのでしょう。当時の香川氏の課題は、東讃の十川氏や阿波の三好氏と対立をどう有利に運ぶかでした。そのために海軍力を持ち機動性の高い山地氏を東讃に送り込んだと研究者は考えているようです。この文書では九郎左衛門が大内郡で戦い、その論功行賞を香川氏が行っています。戦った相手は、十川氏や三好氏だったのではないでしょうか。

3 天霧山からの庄内半島
天霧城より望む備後福山方面

山地氏が香川氏直属の海軍として、あるいは輸送部隊として活躍したと推察できる資料として、研究者は次の資料を挙げます。
18世紀初頭の『南海通記』の「細川晴元継管領職記」で、今からちょうど500年前のことが次のようにあります。
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守之長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク

出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元
西方関亭中

  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について当時の情勢を説明した内容で3段に分けることが出来ます。
 まず一段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 第2段に「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用します。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」
 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
発給元は細川晴元 宛先は「西方関亭中」とあります。これも謎です。最後に晴元書状については、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

 宛先の「西方関亭中」とは誰のことでしょうか。
研究者や次のように解読していきます。
中世の讃岐国で「西方」と呼ばれるのは、室町時代以降は、両守護代安富・香川両氏の管轄地をそれぞれ東方、西方と呼んでいるようです。つまり、西讃地方の「関亭中」となります。
それでは「関亭中」とは何のことでしょうか。
宛先の「○○中」の表記は、たとえば、名主中、年寄中のようにある集団を指すようです。現在の「○○御中」と同じ使い方です。最後に残ったのは「関亭」です。これは、「関立」の誤読だと研究者は指摘します。それでは「関立」とは何でしょうか.
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書一九九七)の第六章「海賊と関所」に次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
「関立」(海賊)を「山立」(山賊)と比較すると、「山立」は縄張りとしている山を通行する人々から「山手」という通行料を徴収します。それに対して「関立」は「海手」を徴収します。つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。
 「関立」とは海賊のことのようです。
ちなみに、小豆島の明王寺釈迦堂の瓦銘には「児島中、関立中」と刻まれています。これは、今風に訳すると、児島中は備前児島の海賊、そして関立中は小豆島の海賊ということになります。小豆島にも海賊=海の武士集団がいたようです。

 宛先の「西方関亭中」は「西方関立中」で「西讃の海賊へ」ということになります。
そして、書状が山地家に保管されていました。これは「西方関亭中=山地氏」ということでしょう先ほどの細川晴元の書状を「超意訳」すると
「軍勢の準備が出来たので、明日そちらに向かわせる。輸送船を準備し早急に瀬戸内海を渡り畿内に輸送するように命じる。このことは香川氏の了解も得ている。
ということになります。
 ここからは 
①守護細川氏 → ②守護代香川氏 → ③水軍 山地氏
という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。
 讃岐には塩飽の島々以外にも、海賊はいたようです。

以上をまとめておくと
①山地氏は、塩の荘園弓削庄を押領する海賊であった
②一方で詫間城主として、西讃守護代香川氏に仕える「海の武士団」でもあった
③山地氏は香川氏の海軍・輸送船団として、管領細川氏の軍事行動を支えた。
④山地氏の拠点港としては、天霧城の麓の白方港が考えられる。
⑤山地氏は香川氏の対三好・十川戦略のために三本松に拠点を構え戦った
⑥長宗我部の讃岐侵攻の際には、香川氏と共にその先兵を務めた
⑦秀吉の四国制圧で、山地氏の本家は香川氏について高知に亡命した
⑦山地氏の分家は、讃岐に留まり生駒藩では重臣として登用されるものもいた。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
橋詰茂 「室町後期讃岐国における港津支配」    四国中世史研究1992年
田中健二「中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要
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