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本門寺 西門

 本門寺は、中世に高瀬郷に西遷御家人としてやってきた秋山氏が氏寺として創建した西国で最も古い法華宗寺院です。地元では、高瀬大坊と呼ばれ親しまれています。秋の日蓮上人命日(旧暦十月十三日)に開かれる大坊市は、くいもん市とも呼ばれ、食物を商う露店が多く集まり、近隣各地から多くの参詣者を迎え賑わってきました。
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本門寺案内図
 境内には、元禄十(1697)年建立の開山堂を始め、本堂・古本堂・庫裡・客殿・鐘楼・宝蔵・山門・西門などの堂字が点在し、いくつもの末坊を擁する大寺院です。

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開山堂と客殿
 本門寺は、甲斐国から乳飲み子時代にやってきた秋山泰忠(日高)が、建立したと寺院です。彼は、日華の弟弟子を招き、最初は那珂郡杵原郷田村(現丸亀市田村町)に法華堂を建立します。そして、丸亀を拠点として法華宗の流布に努めます。が、兵火で焼け落ちてしまいます。そこで、武元(1334)年 高瀬郷に一堂(後の中之坊)を建立し、日仙を招き法華堂の上棟を目指し、翌年に完成させます。これが現在の本門寺です。このように本門寺は、秋山氏の氏寺として創建されます。
創建者の秋山泰忠は、弘安年間(1278~88)に、西遷御家人の祖父の光季(阿願)と来讃します。
その時の年齢は10歳未満だったと考えられています。
 泰忠の祖父阿願は、甲斐において法華信仰に深く、帰依していました。泰忠はその影響を受け、幼少より法華信仰に馴染んでいたようです。故郷を離れ、遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、年少の頃から南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経に信仰心を傾けていったようです。彼は、晩年に置文(遺言状)を12回も書いていますが、そこには子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。残された置文からは、年を経るに連れて法華宗への信心が深まっていったことがうかがえます。
 泰忠により本門寺は創建され、彼の庇護のもとに領民に法華宗が広められていき、後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立するということになります。甲斐からやってきた一人の男の信仰心と強い意志が現在の下高瀬の法華信仰を形作ったのです。本門寺に残された文書から秋山泰忠と本門寺の関係を見ていくことにします。参考文献は「三野町文化史3 三野町の中世文書」  です。

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本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 本門寺に残された中世文書
 本門寺には桐箱の中の黒漆塗りの本箱に中世文書12が収納されています。その中で分類番号1・2号を読んでみましょう。その前に注意点として
①全文がひらがなで書いているため大変読みづらいので、( )内は漢字変換しています。
②文書の上の方が虫食いで欠けているので読めない部分(空白?)があります。
③当時は濁音表記がありません。想像力で補っていきます。
内容は、沙弥日高(泰忠)の置文で本門寺中に対して出された遺戒です。子孫や郷内の人々に本門寺以外の崇敬を禁ずることを戒めています。本門寺の一番古い文書である沙弥日高(秋山泰忠)置文を見てみましょう。
のためにさためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事
?月十五日は、こハゝにて(故母にて)わたらせ給候人の御めい日(御命日)
???給候、別に月こと(月毎)にそのひ(日)をかき申し???と
???ともその日か(書)き申候事のみ候あいた御???
???のために御はたき(畑)しんたてまつり候 はたけ(畑)あはせて三たん(三段)なり
このところは、あくわん(阿願)よりにんかう(日高)ゆつり(譲り)給ハるなり
しかるを、うは(乳母)にてわたらせ給候人と、はは(母)にてわたらせ給二人の御けふやう(供養)のために、そう(添)ゑ御やしき(屋敷)のためにきしん(寄進)候ところなり、しかるをまこ(孫)七わか(我)ゆつり(譲)うち(内)といらん(違乱)を申事あらは、なかくふけふ(不孝)の人なり ほんかう(本郷)?い 
 しんはま(新浜)とい(土井分)ふんと にんかう(日高)かあと(跡)においてはふん(分)もち(知行)きやうする事あるへからす、もしまこ(孫)七いらん(違乱)を申候はゝ、かの人のふん(分)をは、きやうたい(兄弟)のなか(中)にかみ(上)へ申てちきやう(知行)すへきなり、
 又はそう(僧)お そむ(背)き申候はんすることもまことも(孫共)又は、そうしう(僧衆)のなかにもはしまし候ハんする人とく いんきよ(隠居)し候ハ、ふけふ(不孝)の人としてにんかう(日高)かあとにおいてハ ちきやう(知行)すへからす
御そう(僧)(御僧は百貫坊日仙)より御のちハたいの御そう(僧)一ふんものこさす御あとハ御ちきやう(知行)あるへきあいた、こ(後)日のためにいまし(戒)めのお(置)きしやう(状)くたんのことし
ちやハくねん(貞和9年)十月三日

                      しゃミ(沙弥)にんかう(日高)(花押)
文頭に
「さためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事」

とあるので置文だということが分かります。置文とは、将来にわたって守るべき事柄を示したものです。ある意味、遺言のような性格もあります。
 文末署名は
「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」

と記されています。これを「につこう」と読むようです。日高は、前回にお話しした秋山泰忠のことで、彼の法名です。法華宗では法名に「日」の文字を用いることが多いようです。秋山家文書の置文は「秋山孫次郎泰忠」の署名で残されています。一方、宗教関係で本門寺に残された文書には 「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」が用いられて云います。俗と聖を使い分けているようです。それだけの分別ができる人だったようです。
 年紀には、ひらがなで「ちやハくねん」と記されています。当時は濁音がありませんので、これを「じょうわ」と読むようです。
 日高(秋山泰忠)は、60歳を越えたと思われる文和2年(1353)から翌年にかけて置文を多く発給しています。死期を察したのかもしれませんが、実はその後も40年近く生き続けます。そして、息子よりも長生きすることになり、置文を何度も書き直すことになります。結局12通も残しています。
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本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 もう一度置き文に戻りましょう。
文中に「あくわん」と見えますが、これは秋山文書にも登場した「阿願」で、秋山泰忠の祖父・光季のことです。祖父の時代に乳飲み子の泰忠は、「阿願」に連れられて高瀬郷にやってきたことは前回にお話しした通りです。
「しんはまのといふん」とありますが、これは「新浜土井分」です。
新浜には塩浜(塩田)が開発されており、塩の生産が行われていました。秋山家文書にも、新浜の年貢貢進の記事があり、この年貢は塩年貢のことと推定できます。塩田からの収入が秋山氏の経済的な強みであったことは、前回にお話ししました。
 後半では、本門寺と秋山家とは必ず寺檀関係を保つべきことを特に戒めています。これは本門寺が根本檀越であるとの立場を強く打ち出しています。秋山家の身内に残した置文とは、性格が少し違うようです。
「御そう(僧)」は本門寺を開基した百貫坊日仙です。「たいに(第二)の御そう」は日寿で、どちらも本門寺の歴代住職になります。
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              正面には延文4年 日高大居士(泰忠)
本門寺文書 文書番号2の日高置文 その2を見てみましょう
申しまいらせをきゆつりしやう(置き識り状)にも、いましめの□やうにしのおち(字の落ち)候ところ候は、みな入し(字)をして候、これをうたか事あるへからす候、
ともにもゆつり(譲り)おき候しやううことに志(字)のおちて候ところには、みなみな入しをして候
 かうかしそんの中に大にの御そう(第二の御僧=日寿)のほかに し(師)をとり申候人もし候はゝ、日かう(日高)かあとにをき候ては、 一ふんちきやう(知行)する事ゆめゆめあるましく候、もしも候はゝ、そうりやうみつた(惣領水田)かはからいとして、かみ(上=幕府)へ申て御たう(塔)へきしん(寄進)申へく候

 十三日のかう(講)、又十五日かう(講)の人  ひやくしやう(百姓)も、御めい(命)をそむ(背)き候は、みなみな大はうほうとして、りやうない(領内)のかま(構)いあるましく候 
 ちうふん(註文)やふ(破)れ候ても候はゝ、もと(元)ことくきしん(寄進)申候ところおは、そうりやう(惣領)まこ(孫)四郎まんそく(満足)には(果)すしまいらせ候へいくらも中をきたき事とも、なをもをんて申し候へく候
おうあん五年二月二日    
しやミ日かう(花押)
内容は
 最初に、以前に書いた置文に、字の欠けたところがあったので、その部分を追記した。それをもって偽文書とうたがうことなかれと云っています。この時代にも譲り状に関して、偽物が出回っていたことをうかがえます。自分の書いた譲り状に対しての疑義は認めないという強い意志表明です。

次に、泰忠の子孫は「大弐(二代目)の僧日寿」を本門寺の住持として崇めるよう強く戒めています。
もし、日寿以外を師とする者が出てきたら、泰忠の遺領を知行することは認めない。そしてそのような者は惣領の孫四郎泰久(水田)から幕府へ申し出て、他に堂塔を寄進して新たに寺をおこすようにせよ、と本門寺に対して背くことはならないと戒めます。法華宗の本義としての不受布施の立場を表明したものと研究者は考えているようです。

1 本門寺 御会式

 十三日の講とは、日蓮の命日に行う報恩講のことであり、

秋山一族だけでなく、領内の百姓にまでも絶対に行うよう厳命しています。本門寺を中核とした、秋山一族の結合を図っていこうとするねらいがうかがえます。これについては、
秋山家の惣領家にも次のように置文をのこしています。
秋山家文書 文和二年の源泰忠置文、一ッ書き五条目十月の十三日の御事
十月の十三日の御事をハ、やすたたかあとをちきやうせんするなん志、ねう志、まこ、ひこにいたるまて、ちうをいたすへし、へちに御たうおもたて申、このうちてらをそむきも申ましき事、たといないないハきやうたいとい、又ハいとこ、おちのなか、又ハいとことものなかにも、うらむる事ありといふとも、十三日にハよりあいて、御ほとけ上人の御ため、そう志うおもくやう申、志らひやう志、さるかく、とのハらをも、ふんふんに志たかんて、ねんころにもてなし申ヘきなり、ない〆ハいかなるふ志んありとも、十三日、十五日まで、ひところにあるへきなり
漢字変換すると
(十月の十三日の御事をば)  (泰忠が跡を知行せんする男子)、(女子、孫)  (ひごに至るまで忠を致すべし)  (別に御堂をも建て中し)  (この氏寺を背きも申すまじき事)    (たとえ内々は) (兄弟と言)   (又はいとこ)(叔父の中) (又はいとこ共の中にも)  (恨むる事)(ありというとも)(十三日には寄り合いて) (御ほとけ上人=日蓮の御ため)(僧衆をも供養申し) (白拍子)(猿楽)(殿原をも)(分々に)(従って) (懇ろにもてなし申すべきなリ)  (内々はいかなる不信ありとも)(十三日、十五日まで)(一心にあるべきなり)

ここからは次のような事を指示していることが分かります。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 十月十三日の日蓮上人の命日法要は、法華信仰を培っていくための重要なイヴェントと考えていたことがうかがえます。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたのでしょう。
その祭事については
「白拍子・猿楽・殿原をも分々に従って懇ろにもてなし申すべきなリ」

とあり、地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸が催されるイヴェントであったことが分かります。殿原とは廻国の武芸者のようです。それを今後も続けよと具体的に指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたのでしょう。

1 本門寺 大坊市2

 ちなみにここには芸能集団を「懇ろにもてなし申す」と、宿泊させてもてなすように指示しています。ところが百年後の高松の田村神社文書には「興行が終了したら即座に退去させる」と、芸能集団に対する差別意識が生まれているのがうかがえます。さらには、十三日から十五日の間は「皆心にあるべし」との戒めます。これらの戒めは、本門寺の発展と共に郷内に広まり「皆法華」の宗教圏を形成することとになるようです。
 他に残された置文を見てみると、次のような戒めも記されています
① 泰忠が信仰するのと同様に勤行をしなさい
②「蚊虻浅謀」といって法華宗以外の宗義を信仰することは、蚊や虻のごとき浅はかさである。
 この「十月の十三日の御事」が現在の本門寺門前において市が立つ「大坊市」の起源となっているのです。ひとりの男の思いが引き継がれてきた祭事のようです。
1 本門寺 大坊市


 秋山泰忠は、日仙への帰依することを通じて、戦いで血糊のついた己の姿を清め、武士の安心を得ようとしたのかもしれません。同時に、この法華信仰を媒介として秋山一族、家人や下高瀬郷内の百姓住人すべてを支配することを望んだようにも思えます。

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日仙上人の隠居寺である上の坊の墓
晩年の応安五(1372)年の沙弥日高置文(本門寺)には、本門寺への信仰を次のように求められるようになります。
①開山日仙と共に二代日寿(大弐房、本門寺歴代では、日華の跡の三代目)にも忠孝を尽くし、
②氏寺本門寺の「師」以外に宗教上の「師」を認めず、
③子ども・若党から下々まで不信心者は「大法度」である
と記します。さらに十三日・十五日の講会に参加しない郷民らには「碩びいのか樋い」が許されないとされるようになり、法華信仰の実を見せなければ、実質的には高瀬郷内には生活できなかったようです。その信仰拠点が、大坊本門寺であり、数多く建立された寺内坊や支坊でした。

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日仙上人の墓(上の坊)

次の表からは、幕末の下高瀬住民の法華宗比率は90%を越えていることが分かります。
1 本門寺 皆法華

室町時代以降は、秋山氏が支配する高瀬郷内のすべての住人が皆法華の状況であったようです。
 以上のように、秋山泰忠は法華宗への熱烈な信仰心を持ち、個性的な独特の置文を残しています。そして、讃岐の新しい所領に「郷内皆法華」の法華王国の実現をめざして、強力な宗教政策を展開していきます。
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本門寺本堂
次に、本門寺や子院が果たした役割を、別の視点から見てみましょう。秋山氏は、水利管理についても、寺の力を利用していたことがうかがえます。例えば、高瀬郷領内の要所に本門寺末坊を配置していまが、その配置場所を見てみると
①音田川からの取水源である木寺井近くに上之坊があり、
②高瀬川と音無川の合流地点の荒井及び中ノ井近くに宝光坊、
③その下流の屈曲点の新名井及び額井近くに西山坊、
④そして、高瀬川の旧河口付近に中之坊
  これは井手の分岐点の近くに子院が配置されています。つまり、お寺という宗教組織を通じて、用水管理を行っていたのです。
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本門寺の子院 奥の院

これらの「井手五箇所」は、中世以来の井手(取水堰)です。
そこに配置された子院の住僧には、あらかじめ寺領免田への用水使用の優先権を持たせていたことが秋山文書からは読み取れます。これらの井手からの用水確保は「一日二枚宛」と決め、子院が管理していたのです。この権利を通して、各坊は信者である住人を監督・勧農させていたのです。この体制の下では、本門寺門徒でない非法華信者は、水利権においても差別的な待遇を与えられたことが考えられます。このような経済的な強制も「皆法華」体制を形作る力となったのでしょう。
1 本門寺 子院

  以上をまとめておきます
①鎌倉幕府は西国の防衛力強化のために甲斐から讃岐高瀬郷の地頭として秋山氏を西遷させた。
②少年としてやって来た秋山泰忠は、熱烈な法華信徒になり新天地に法華王国を築こうとした。
③そのために百貫坊日仙を本山から向かえ、氏寺として本門寺を創建した
④本門寺は、秋山泰忠の篤い保護の下に地域の宗教・文化・教育・水利管理センターとしても機能し、寺勢を拡大していった
⑤秋山泰忠は、具体的な信仰実践を子孫に書き残し、戒めとするように伝えている。
⑥秋山泰忠亡き後も、本門寺は教勢を拡大し「皆法華」体制を形作っていく。