瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐漁業史

 大槌島は鰆の好漁場 讃岐と備前の漁民の漁場争い  

イメージ 1

備讃瀬戸航路からの大槌島

鰆の好漁場大槌島をめぐる紛争

瀬戸大橋の東方、五色台の沖に海の中からおむすび型の頂を覗かせる2つの島があります。この北側の島が大槌島です。この島から東に延びている細長い砂地の浅瀬は、大曽の瀬と呼ばれました。連絡船がこの上を通っていた時には、船の上から海の底が見えたというくらい浅いんです。浅い砂地にはイカナゴがたくさんいて、それを食べに春には鰆がやってきて産卵しました。だから鰆を捕る絶好の漁場でした。

イメージ 2
鰆は痛みが早いので、この時代に流通ルートに載せることができたのだろうか
と思いました。調べてみると、肉を食べるのではなく鰆の卵巣からカラスミを作っているのです。からすみは、もともとはボラの卵を原料にして江戸時代初期に長崎で作られて将軍家に献上するようになります。
 「本朝食鑑」という本によると、元禄ごろから備前や讃岐・阿波・土佐でも作られるようになって、いずれも将軍への献上品になっています。ただ、備前・讃岐のものは原料が鰆なんです。味はボラで作ったものより少し落ちるようです。しかし値段はとても高いし、珍味です。決しておかずにするようなものではありません。
イメージ 3
備讃瀬戸航路からの瀬戸大橋の日の出
 ところが元禄時代は「大江戸バブルの時代」で、京・大坂・江戸などの都市を中心に大商人が大勢現れたころです。こういう富裕な人たちが、お祝い事や贈答品・茶の湯の料理・魚の肴として「将軍への献上品カラスミ」を、お金にかまわずに求めたのです。高級品志向・グルメ志向の仲間入りをカラスミが遂げたわけです。今までは商品価値のなかったものが高級品として売れ出します。それが、鰆を求めて周辺の漁民達が大槌島周辺に押しかけ騒ぎを起こさせた原因だったようです。今の時代にも、よく似た話は対象を買えて「再生産」されています。

イメージ 4

この大曽の瀬をめぐって江戸時代に備前の日比・利生・渋川三力村と讃岐の香西が争います。備前側の言い分は次の通りです
「去年(享保一六年)以来香西浦の者共みだりに入り込み漁猟せしめ、あまつさえ大槌島をも浦内とあいかすむる段」
香西の漁民がみだりに入り込み、大槌島は讃岐香西のものだとかすめると訴えています。しかし、双方の訴状を見てみると、備前側の方が出漁している船は多いのですが・・。
 
イメージ 5

 裁定は、どう進んだんでしょうか。

「右論所あい決せざるにつき木村藤九郎・斉藤喜六郎さし遣はし検分を遂げるところ」
 評定所の役人が江戸から実地検分に来たようです。そして判決は、次の通りでした
「大槌島の中央を境と定め、双方へ半分ずつあい付け候」
つまり、大槌島が讃岐と備前の「境」となったのです。
からすみをめぐる漁場争いが大槌島を二つに分けたと言えるのでしょうか。
イメージ 6
大槌島

参考文献 千葉幸伸 讃岐の漁業史について 香川県立文書館紀要創刊号 
関連記事

 イメージ 1

紀州からやってきた鯛網漁の漁船団

秀吉が大阪城を築城しているころのことです。
小豆島沖に紀州から何艘もの漁船がやってきて、沖での漁を願い出ます。
彼らは紀州塩津浦(和歌山県)の漁民たちで、当時のハイテク技術で装備された鯛網の操業集団でした。そのさい、無断で漁場に入り込んだのではなく小豆島土庄村に入漁費を支払います。
イメージ 2

和歌山漁民の小豆島庄屋への約定書

 慶安四年(一六五二)に紀州塩津村(和歌山県海草郡下津町)の彦太夫らが小豆島土庄村大庄屋の笠井三郎右衛門に宛てて出した約定書です。読んでみましょう。
「貴殿鯛網の引き場預かり申すにつき進物の色々あい定むること。一つお年頭に参るとき、酒二斗……、一回二月網に参るとき……」
 漁を行う代償として、笠井家に贈る進物が約されています。大変な数の贈り物と入漁料です。鯛網がいかに大きな利益をもたらすものだったかがうかがわれます。
日付けが四月一日ですから、旧暦三月の鯛網の季節が過ぎて帰るときに次の年の入漁を約束したものでしょう。笠井家の他の文書を見ると紀州からの入漁は慶長年間から始まっていることがわかります。

イメージ 3

 取れた鯛を、どこへ持っで行って売ったのでしょうか。

それは大坂です。大阪ではまだ秀吉が生きていた頃に魚市場が作られています。遠くまで魚を生きたままで運べる生簀船も現れます。
大坂で売って、豊富な資金をもって他国へ出漁したのでしょうか?
そうではなく、大坂商人の前貸しを受けていたようです。
魚を捕る技術に長けた紀州漁民を経済的に大阪商人が支援していたのです。

イメージ 4

地元の網元達は、紀州漁民にの活躍ぶりを見ていただけでしょうか。
そうではありません。寛永二十(1643)年には豊島甲生村漁民が紀州鯛網をまねて操業を始めます。しかし、大金をはたいて大網や船を揃えますが、技術や経験ががともなわなかったため思うような漁獲が得れなかったようです。「真似してやったが失敗して借金だけが残った」と地元には伝わっています。
 したがって、当初は地元漁民が鯛網をおこなうより紀州漁民に漁場を賃貸する方が村にとっては利益が高かったようです。

イメージ 5
それでは、讃岐の人々は鯛大網の技術をマスターできなかったのでしょうか。
そうではありませ。リベンジが行われます。
例えば真鍋島の真鍋家文書を見ると、寛文三年(1663)、真鍋島に近い丸亀藩領の海で「鯛こぎ網のかずら場」という言い方が出てきます。こぎ網というのは、岡にこぎ寄せて捕る地漕ぎ網かもしれませんが、紀州の漁民が開発した方法です。元禄期に、真鍋島近海に紀州塩津の漁師が入漁してきたということが出てきますから、讃岐の人々が紀州の漁民に学んだようです。
そして、讃岐にも鯛網漁はしだいに普及していきます。
大槌島と香西浦の間にある榎股や大槌島と小与島の間の中住の瀬という漁場は鯛網の良漁場として知られるようになります。

イメージ 6

 香西 漁民は初めは紀州のやりかたを学んだ

 榎股で鯛網を行ったのは主として香西の漁民でした。
土庄の笠井家文書によると、天和三年(一六八三)という時期に香西の利兵衛という漁師が土庄沖での鯛網を願い出て請け負わせてもらっています。香西漁民は、小豆島近海に出漁して紀州のやりかたを学んだのではないでしょうか。
イメージ 7

高松市生島沖の榎股は、全国に知られる鯛の漁場に

それから100年ほど後に刊行された「日本山海名産図会」には讃州榎股の鯛網が紹介されて、「明石鯛・淡路鯛よりたくさん捕れる」と書かています。
榎股というの高松市生島沖の海です。ここが全国的な鯛の漁場として有名になります。紀州網の入漁から数えると200年たっています。
この間に讃岐の漁民は鯛大網の漁法をマスターし、そのトップランナーに成長していたと分かります。同時に、鯛の好漁場をめぐる漁場の対立が頻繁に起こるようになってくるのです。

参考史料 千葉幸伸 讃岐の漁業史について 香川県立文書館紀要創刊号

このページのトップヘ