瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐生駒藩

     
西嶋八兵衛60x1053
 
最初に 村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』で彼の略歴を見ておきましょう。
慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれた(八兵衛自身の由緒書などの史料には記載なし)幼名は之尤(ゆきまさ)で、八兵衛は通称です。木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号する文人でもありました。
八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光で、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため浜松で隠居生活に入ったようです。
慶長17年(1612)、八兵衛が満16歳の時に、父は息子を高虎へ出仕させようと駿府(静岡市)に行き、家老藤堂古采女(采女元則)の斡旋で、父の跡を継ぐ形で高虎に仕え始めます。父子共に高虎の家臣となります。当時、家康は駿府を隠退の地として、江戸城から移っていました。藤堂高虎もそれに付き添うように、駿府に屋敷を設けていたようです。
生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎

八兵衛は、最初は高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。達筆な筆跡の文書が伝わっています。同時に、高虎の身近に仕えて、次第にその信頼を得るようになっていったようです。
 主人の藤堂高虎は、秀吉の弟秀長に仕えていた頃から和歌山城・今治城を築き、次第に「築城の名人」と云われるようになり、家康の下では江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城しています。八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接する中で、築城や土木工事に関わる諸知識を身につけていったようです。
 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎は、この時に八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
生駒親正

生駒親正
  生駒家と藤堂家には、強い絆が結ばれていました。
藤堂高虎は仕えていた秀長(秀吉の弟)が亡くなり、その甥で養子の豊臣秀保も文禄4年(1595年)早世すると、高野山で出家して隠遁生活を送っていました。その将才を惜しんで「復職」の説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名に「再就職」することができたのです。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。
  これ以外にも生駒家と藤堂家は秀吉の子飼い大名という出身ながら、関ヶ原の戦い前後の大政治変動を巧みに泳ぎ抜けた経歴などに似通ったところがあります。そして、両藩共に外様ながら家康からも一目置かれる雄藩だったのです。特に藤堂高虎は、秀吉の弟の秀長の家老に任ぜられていましたが、処世にはなかなかの練達者で、秀吉の死後はぴったりと家康に密着し、外様大名の中では最も家康の気に入られる存在になっていきます。この変わり身のうまさを「風見鶏」とも揶揄されたりもするようです。

生駒騒動 関係図1
 生駒・藤堂家の関係は、その後もいろいろな形で婚姻関係が結ばれるようになります。三代目正敏には高虎の養女が嫁いできます。正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたのです。生駒藩四代目として生まれてきた高俊は、藤堂高虎から見れば「孫」に当たります。両家は親戚で、強いパートナーシップをもつようになります。
そのような中で生駒藩に危機が訪れます。
三代目正俊が元和7年に36歳で亡くなるのです。正俊には、たった一人の男の子・小法師(高俊)がいましたがやっと11歳でした。当時の幕府は家光の「外様取りつぶし策」の全盛時代でした。幼年の藩主の場合には、責任ある統治が出来ないとの理由で大幅に領土を削られた例もありました。
 そこまで至らなくても幼年藩主の場合は、監督のために幕府から毎年国目付をつかわすことになっていました。その際には、歓迎儀式やなどで格式張った気づかいが求められます。どちらにしても生駒藩としては避けたいところです。
 何らかの不利益な措置が幕府によってとられるのではないかという危惧が、生駒藩内に漂いました。そんな中で藤堂高虎は生駒藩のために一肌脱ぎます。自らが生駒藩の幼い藩主(孫)の「後見人」となって、支えることを幕府に申し出ます。家康の信頼の厚かった藤堂高虎の申し出に幕臣達も動けなかったようです。こうして藤堂藩の家臣達が「客臣」(レンタル家臣)として送り込まれることになります。
西嶋八兵衛4
西嶋八兵衛
高虎が家中から選んで、諸事の目付として讃岐につかわしたのが西嶋八兵衛です。
 西嶋八兵衛は讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。
 一番最初に西嶋八兵衛が讃岐にやって来たのは、正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者とでした。そこで、高虎の下で鍛えられた事務処理能力を遺憾なく発揮して、煩雑な事務を処理し、きちんと高虎に報告します。
 その後、後見人である藤堂高虎の目付的な客臣が高松藩に派遣されることになります。その際に、高松藩側からは、この時の手腕や人柄を高く評価して、西嶋八兵衛の再度の来讃を求めたといいます。高虎も西嶋八兵衛は、子飼いの側近で信頼も厚い人物だったので異論はありません。こうして西嶋八兵衛の二回目の来讃が実現します。
 八兵衛の普請奉行としての二回目の来讃は、寛永二年(1625)のことです。
彼が30歳の時のことで、サラリーは500石で、三年間滞在となります。彼の屋敷は、城内には確保することが難しかったようで、当時の城下町最南端であった寺町のさらに南側に構えられました。今の四番丁小学校の西北角に当たります。幕末の「高松城下町屋敷割図」に、大本寺は「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」との注釈がつけられています。
生駒藩 西嶋八兵衛の元屋敷大本寺
大本寺には「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」と記されている
彼は日蓮宗の高僧、日省上人に帰依していたようで、屋敷跡に大本寺は建立されたと寺伝には記されています。四番丁小学校は、そのお寺の境内に明治に建てられます。
生駒 大本寺

ちなみに「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、西嶋八兵衛の屋敷が記されています。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
その位置は、中堀に面する一番西側で重臣層と肩を並べるロケーションです。この屋敷割図が作られた時点では西嶋八兵衛がVIP待遇であったことが分かります。少し回り道をします
「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのかが分かりませんでした。そんな中で、この西嶋八兵衛の屋敷から作られた年代が明らかにされました。その過程を見ておきましょう。西嶋八兵衛は寛永2(1625)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあったこと、その後に大本寺は建立されたことが,大本寺の寺伝にあることは前述しました。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では、寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作されたと研究者は考えています。
 八兵衛がやってきた寛永二年(1625)は、大変な年でした。
「寛永三年閏四月七日大雨あり爾後 雨なきこと九十五日、秋七月十五日に至る田毛皆枯死し民人飢餓に迫りて餓死する者多し」

ここには
「寛永3年(1626)4月、大風雨となり、その後、7月に至るまで雨がなく干ばつとなった。稲は枯死し、人々は飢餓に瀕した。」
とあります。年代順に並べると
寛永2年(1625) 秋に大地震 西嶋八兵衛が来讃
寛永3年 大暴風雨、次いで大干ばつ、三か月という長期日照りで作物全滅、餓死者発生
寛永4年 大地震、暴風雨による風水害、収穫皆無
寛永5年 満濃池再築に着手
と、自然の猛威が連続して襲いかかってきたことが分かります。。稲が実らず、五穀も残らず、百姓らの困苦は一方でなく、他国に逃散する者も出てくる始末です。藩の存亡の危機でもありました。首席家老の生駒将監は、必死に対応に努めたようです。
  このことは藤堂藩から来ている目付の西島八兵衛は、当然に高虎に報告します。それを受けて、高虎は家老の将監や生駒家の重臣らに、次のように指示します。
「今日第一の急務は、灌漑の便をよくし、百姓共を落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、当地にいる頃郡奉行をつとめ、それらのことに巧者の者である故、家老らよく西島と心を合わせて事を運ぶよう」
 生駒家の重臣らは西島に、この指示書を見せて頼みこんだのではないでしょうか。高虎からの指示でもあり、生駒家の重臣らの頼みもあります。また、目の前の百姓らの困窮を視ているし、やれるという自信もあったのでしょう。西島は、
 「かしこまった。やってみましょう」
 と答えたのでしょう。そして、讃岐国内を巡って現地を見た上で、各地のため池と用水路の築造計画を立てます。
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
なぜ短期間に、集中してこれだけの工事が行われたのでしょうか?
それは生駒藩が「自然災害による藩存亡の危機」という状況にあったからだと私は思っています。何もしないで座していたのでは、未来に希望を持てない百姓達は讃岐から「逃散」しています。その流れを食い止めるためにも、後見人の藤堂高虎が西嶋八兵衛にやらせろと命じてきたのです。
 危機の中で、未來に希望の持てる大土木工事を行うというのは、有能な政治家がとる方策です。その危機管理責任者に藤堂藩からレンタル派遣されていた西嶋八兵衛が就いたのです。そして、彼を危機感で団結した家臣団や百姓が担いだのだと私は思います。
 こうして、三谷三郎池(現高松市内)の嵩上げも行われ、続いて寛永5年には源平合戦の中で決壊放置されていた満濃池の修築にかかります。満濃池は400年以上、姿を消し、池の中は再開発され「池内村」が形成されていたのです。この再築については、以前触れましたので、ここでは省略します。
西嶋八兵衛 香東川
 八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。
洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。大正時代の水害で河川敷きからこの石碑が出てきました。鑑定などの結果から八兵衛の直筆とされています。 
 満濃池築造のはじまった寛永4年に高俊は15歳になります。
生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
藤堂高虎の子の高次が烏帽子親となって元服させ、一字を与ええて高俊と名乗らせます。そして、高虎は生駒家に対する幕府の覚えをよくするために、高俊と老中首席の土井利勝の女との婚約をとりもちます。後見人としての高虎の生駒家にたいする心づかいは、細やかです。
  若き藩主と幕府老中の娘との結婚が執り行われた年には各地で進めたため池が完成します。水源確保や暴れ川のルート変更などによって新田開発は一挙に進みます。この新田開発を推進したのが、生駒家に再雇用された讃岐侍たちであったことは前回お話ししました。開発した土地が知行地として認められたために、土着勢力は争って新田開発を行います。それが出来ない他国侍からの不満が生駒騒動の要因になっていくのです。
どちらにしても、この時点では生駒藩では太閤検地後の知行制から俸給制への切り替えがきちんと行われていなかったようです。武士達にはサラリーでなく知行地が与えられていることを示す史料が残っています。
生駒藩 西嶋八兵衛知行地
例えば上のグラフは、丸亀平野の苗田村(現琴平町)に知行地を持つ家臣団を示したものですが、西嶋八兵衛もこの村に知行地があったことが分かります。ちなみに西嶋八兵衛が讃岐を去る直前の知行高は1000石にまで加増されています。
生駒藩知行地2

西嶋八兵衛の進める灌漑・治水工事について、批判的な藩士もいたようです。
 「百姓は飢え疲れている七、無用な工事をおこして、民を虐げる」
 「農事の水利のことのみを目的としている故、国の要害はまるで失われてしまう」

1630年に藤堂高虎が江戸で亡くなります。
その前に西嶋八兵衛は、江戸に出向いて讃岐の状況を報告する一方、帰国願いを再度願いでたようです。高虎の後を継いだ高次は、このあたりのことを承知していたようです。しかし、生駒藩で重要ポストを占めるようになった西嶋八兵衛は、後見人である目付としては最適で、これに代わる人物はいません。
「八兵衛は帰りたがっているが、生駒家の様子を見ると、当分は西島がいて目を光らせていたほうがよさそうである」
と高次は考えたのではないでしょうか。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊賀に帰ることが聞き届けられるのは、生駒騒動の勃発直前のことでした。「沈みゆく生駒丸」からの脱出だったのかもしれません
  高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐国の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。
これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。こうして、西島は五百石の加増を受けて、藤堂家からの目付として讃岐駐在をつづけることになります。覚悟を決めた西嶋八兵衛は、いよいよ満濃池再築に向けて動き出すのです。
 西嶋八兵衛のから目から見た当時の生駒藩の政策課題は何だったのか?
それはやはり「知行制からサラリー制へ」の移行、讃岐侍や有力農民による自由な開発に規制をかけること。つまりは家臣団と土地を切り離させること、藤堂藩の事例からそれが藩主権力の強化につながることを熟知していたはずです。そういう目で、生駒藩を見た場合に「危うい藩」と見えたはずです。ため池や治水は完成し、新田開発は行われて石高は増えていますが、それが領主の懐には入ってこないシステムが温存されているのです。これは時代に逆行した制度だったのです。それが保守派の動きで進まない生駒藩は「危うい」と思っていたはずです。
讃岐を去って伊賀に帰った後の西嶋八兵衛は?

西嶋八兵衛 伊賀市
 生駒騒動が始まる前に伊賀に帰ってきた八兵衛は、正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。
 この間に、生駒藩は取りつぶしとなり、松平藩への引渡し作業が行われます。その際に、高松城や讃岐のことを熟知する人物として彼に白羽の矢が当たり、上使案内役として讃岐入りします。これが4度目の来讃となります。この時に高松城や城下町、あるいは自分の屋敷跡をどのような思いで見つめたのでしょうか。心血を注いで立て直した生駒藩がなくなったことへの思いは、いかばかりであったことでしょうか。中国の文人達ならその思いを漢詩に託して詠んだことでしょう。しかし、西嶋八兵衛が四度目の来讃で残した俳句は伝わっていません。
正保2年(1645)、八兵衛は、藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となります
この頃、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)に江戸より帰国します。八兵衛も共に帰国し、伊賀でための新設29池、修理14池を行ったと伝えられます。さらに、翌年からは新田開発を始めます。
 その業績を受けて、慶安元年(1648)、52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
これはは大和・山城に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職です。一時、伊賀奉行も拝命したようですが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務します。引退して3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。享年84歳。
 ここからは若い時代に藤堂高虎のもとで学んだ築城術を、讃岐の地でため池の築造に活かし、その経験を晩年には、故郷の伊賀の地に還元した姿が見えてきます。
西嶋八兵衛は文人でもあり、俳句や書にも秀でて流麗な筆致を残しています。
 彼の墓は伊賀上野市紺屋町の正崇寺にありますが、脇に正五位の贈位の碑が建っている。大正四年になって香川県の上申で叙位されたようです。ちなみに八兵衛を祭った神社は香川県にはありません。彼が神となって敬われることはなかったようです。ただ、津市高茶屋の水分神社だけです。彼のことが後の讃岐では忘れられた存在となっていたことが分かります。自分の親分の政治家の銅像を建てようとするのは近代に流行になりますが「讃岐の大恩人・西嶋八兵衛」の銅像が讃岐に建てられることはなかったようです。
 満濃池を作ったのは空海と云われますが、これは「空海伝説」です。史料的に、それを裏付けるものは現在の所ありません。研究者は「空海が造ったと云われる満濃池」という言い方をします。その意味では、現在の満濃池の直接の築造者は、西嶋八兵衛に求められると云っても過言ではないように思います。しかし「空海築造」は云われても、西嶋八兵衛による再築を語る人は少ないようです。
 「そんなものだよ歴史は・・・」と八兵衛は、つぶやいているかもしれません。

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

   

 

満濃池と龍3
 
 満濃池には、古くから龍が住むという伝承があります。
『今昔物語集』には龍の棲む池として、また中世の『志度寺縁起』には、蛇になった志度の猟師当願の住む池として語られています。
『讃岐国名勝図絵』嘉永7年(1854)刊行にも、空海の築堤の説話と、池に棲む大蛇が海に移る際に堤が壊れたと記されます。そのうえで、元暦の大洪水による決壊後は長らく村と化していたが、寛永年間に西嶋八兵衛により再築が行われたことが語られます。

満濃池と龍

 今回は西嶋八兵衛による満濃池再築を見ていくことにします。
「満濃池営築図」原図(坂出の鎌田博物館の所蔵)を見てみましょう。
DSC00813










満濃池営築図 原図(寛永年間)
この図には、中央に池の宮がある小山が描かれ、その左右に分かれて水流が見えています。 ここに描かれているのは、源平の兵乱の中の元暦元年(1184)に崩壊して以来、450年間にわたって放棄された満濃池の再築以前(寛永初め)の景観です。少し見にくいので、トレス版でみることにします。まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 トレス版(寛永年間)
A 左下から中央を通って上に伸びていくのが①金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。
B金倉川を挟んで中央に2つの山があります。左(東)側が④「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる「聖地」です。現在では、この岩は満濃池に浮かぶ島となっています。川の右(西)側にも丘があり、よく見ると神社建っています。これが②「池の宮」です。現在は神野神社と飛ばれていますが、江戸時代の史料では、神野神社という表記は出てきません。丘の右側の小川は③「うてめ」(余水吐)の跡のようです。「余水吐き」が川のように描かれています。
C古代の満濃池については、何も分かりませんが、この二つの丘を堰堤で結んでいたとされていいます。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿です。つまり、これが「古代満濃池の堤体跡」なのです。そこを上(南)側の旧池地から金倉川流れ落ちて、大小の石が散乱してます。

実は、これは絵図の全てではありません。絵図の上部を見てみましょう。
DSC00814










満濃池営築図 原図(寛永年間)
④旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
⑤さらに上部には、文字がぎっしりと書かれています。
何が書かれているのか見ていくことにしましょう。
この絵図の上側に書かれた文字を起こしてみます。
 満濃池営築図[寛永年間(1624~45)】摸写図
満濃池営築
寛永五辰年 奉行西嶋八兵衛之尤
 十月十九日 鍬初 代官出張 番匠喚
 十一月三日 西側堀除
 十二月廿日 普請方一統引払候
同六巳年
 正月廿八日 取掛
 二月十八日 奉行代官相改
 三月十九日 東ノ分大石割取掛
 四月十日  奉行代官立会相改 皆引取
 八月二日  底土台 亀甲之用意石割掛
 同十五日  西側大石切出済
 十月廿八日 座堀取除出来
 十二月十二日台目取除二掛ル
 同廿二日  奉行一統引払
同七午年
 正月廿八日 取掛
 三月十八日 台目所出来
 四月十日  櫓材木着手
 同十一日  流水為替土手築立
 同十八日  底樋亀甲石垣取掛 ’
       五月廿四日迄二出来
 六月五日  底樋取掛
 同廿九日  一番櫓建立
 七月六日より底樋伏込 同廿九日迄二           
 八月十五日 木樋両側伏込
 十月六日  堤埋立出来 竪樋座堀掛
 同十八日  竪樋下築立 同晦日出来
 十一月十七日 打亀甲石垣
  同廿九日  二番櫓立                                 
 十二月十日 三番櫓立
 同十五日  四番櫓立
 同廿二日  五番櫓立
同八未年    裏
二月五日  堤石垣直シ
同十五日  芝付悉皆出来
上棟式終 普請奉行 下津平左衛門  福家七郎右衛門
那珂郡高合 一万九千八百六十九石余
宇多郡高合 三千百六十石余
多皮郡高合 一万二千七百八十五石二斗余
  三郷合 三万五千八百十四石二斗余
西嶋氏、寛永三年八月、矢原正直方え来、当郡年々旱損二付、懇談御座候付、池内所持之田地不残差出申候
 ここには満濃池再建工事の伸張状況が記されていることが分かります。
 寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、
 同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が書き込まれています。
DSC00881
        満濃池営築図 トレス版

最後の文を専門家は次のように解釈しています。
寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へ来た。
那珂郡の毎年の旱害について懇談がなされた。
そこで、正直は、池内に所持している田地を残らず差し出す旨、申し出た。
 研究者は、この図に描かれた家と農地は、池ノ内側に描かれており、ここが池内村の中心であって、その領主が矢原家であったと推定します。そこで、満濃池の再築のためには、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったというのです。 
 
矢原家が満濃池跡に所持していた田地を池の復興のため差し出したという内容です。これを、裏付けるのが西嶋八兵衛書状(矢原家文書)(a2)8月15日付の文書になるようです。漢文書下文)
先日は、御目に懸かり大慶存じたてまつり候。兼て申し上げ置き候、満濃池内御所持の田畠二十五町余、このたび断りいたし、欠け候のところ、衆寡替えがたく御思召寄す、今日御用にて罷り出で、相窺い候ところ、笑止に思召し候。
いずれも同前の事に候。なお追々存こ畜りこれある趣、仰せられ候。三万石余の衆人上下、承知せしめ候。千載御家たちまちに相聳い候成り行き、何とも是非に及びがたき事候。
恐々謹言        
 八月十五日      西嶋八兵衛之尤(花押)  
 矢原又右衛門様                  
このたびは ぬさも取りあえず 神野なり 
   神の命に 逢う心地せり         
現代語に直し意訳すると次のようになります。なお、括弧内は文意を整えるための補遺です。
 先日は、お目にかかることが出来て大変歓んでいます。兼てから申し上げていた矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。本日、御用で主君に会った折りに、その行為についてお喜びの様子であった。。
 いずれの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。三万石余の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。

田畑25町を差し出した矢原家とは、何者なのでしょうか
 幕末に成立した「讃岐国名勝図会」には、平安末期の元暦元年(1184)に決壊した満濃池について次のように記します。

「五百石ばかりの山田となり。人家なども往々基置して、池の内村といった」

意訳変換しておくと
(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。

 当時の田1反(10a)当たりの米の収穫量は、ほぼ2石(300kg)です。西嶋八兵衛の書状に見える25町余の田畠は、石高でいえば、500石余にあたります。この石高は、「讃岐国名勝図会」に見える池内村の石高とぴったりと一致しますから、ここからは矢原家は池内村全体の領主であったことになります。
矢原家と池内村との関係を「讃岐国名勝図会」の記事から、探ってみましょう。
矢原家に伝わる「矢原家傅」には、矢原家は神櫛王の子孫酒部黒麿が、延暦年間(782 - 806)に池の宮の近辺に住んだことに始まと伝えます。池の宮(現神野神社)は、時代と共にその位置を変えながら現在でも、満濃池の堤に続く丘の上に鎮座します。
矢原家伝が伝える内容を箇条書きにすると
①貞治元年の白峯合戦では細川清氏方に加担。
②天正12年(1584)、長宗我部氏の西讃侵攻に際しては、矢原八助(正景)が、神野寺に陣取った元親の嫡子信親と戦い、のち和睦。
③豊臣秀吉の部将で讃岐一国の領主となった仙石秀久のとき、正景は那珂郡七ケ村東分で高45石を賜る。
④同13年(1585)、戦国秀久より長男正方と次男猪兵衛に刀と槍を賜わる。
⑤同15年(1587)6月、生駒家より合力米200石を賜り、文禄の役に際しては当主正方の弟猪兵衛が従軍し、
⑥慶長6年(1601)その戦功を賞して、200石の知行地を賜る。
⑦矢原正方は備前国日比家の養子となり衝三右衛門と名乗って宇喜多秀家に仕えた。
⑧宇喜多秀家が没落後は故郷に帰り、元和2年(1616)没。
⑨寛永3年(1626)、正方の子正直が、西嶋八兵衛によるに満濃池再築の際に、正直宅に寄宿して指揮に当たった。
⑩この間の功績により生駒家は正直を満濃池の池守にした。⑪正直は慶安2年(1649)に没した。
 上に述べた内容のうち、
①慶長6年(1601)、生駒親正より200石の知行地を賜った。
②寛永の再築時の功績により、生駒家は正直を満濃池の池守に任じた。
この2件については、矢原家文書の中に該当するものがあります。す。                     
矢原家文書[慶長六年(1601)・寛永十二年(1635)」
  ①慶長六年(1601年十月十四日 生駒一正宛行状 矢原家文書
  扶持せしむ知行所事
   豊田郡 五十七石一斗四升  植田
   香西郡百四十二石八斗六升  中間 ミまや
                 合二百石
 右の分まったく知行せしむべきものなり
   慶長六年十月十四日  生駒讃岐守 一正(花押)
 (日比呉三右衛門)
 ここには、慶長6年(1601)の知行地給付は、正直の父である日々典三左衛門(正方)宛てで給地は豊田郡植田、香西郡中間・御厩の計200石が記されています。
②寛永十二年(一六三五)四月三日 生駒家家老連署奉書 矢原家文書
 御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。よってくだんのごとし。
   寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)
                浅田右京 直信(花押)
 (正直) 矢原又右衛門
【資料 ②】からは、正直が満濃池を管理する池守に任命され、同池上下において50石を与えられたことが分かります。
 また、「讃岐国名勝図会」に収める神野神社の釣燈篭の銘文からは、矢原家の歴代当主が、氏神である神野神社の社殿の造替や堂舎の再建を願主として行っていたことが読み取れます。
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この由緒から次のような事が云えます
①矢原家は、神野寺付近に本拠を持つ小領主で
②戦国時代の末期は長宗我部氏と戦い、
③近世初期には、仙石・生駒藩に臣従していた
④満濃池の再築の功績により、池守に任じられた
矢原家は池内村の領主であったといえるようです。しかし、それがいつまで遡れるかは分かりません。池ノ内村を領有していた矢原家の奉納した池内村は、満濃池ができあがると再び池の中に姿を消すことになったのです。

参考文献 
香川大学名誉教授 田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊

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