瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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   大仏造営東京書籍
小学校社会科教科書 東京書籍

  東大寺の大仏造については国家プロジェクトとして越えなければならない壁がいくつもありました。その中で教科書でも取り上げられるのが、東北からの金の産出報告です。しかし、下の表を見れば分かるように、金の使用量は440㎏にすぎません。金は銅像の表面に鍍金(メッキ)されたので、この程度の量です。それに比べて仏像本体となる銅やすすの量は、それよりもはるかに多くの量が必要とされたことが分かります。これの銅の多くは、秦氏によって採掘された「西海の国々」から運ばれてきました。

大仏造営 資材一覧
 この表の中で水銀2,5トンとあります。水銀はなんのために使われたのでしょうか?
金を塗装するためには「アマルガム」を使った技法が用いられてきました。これは、水銀とほかの金属とを混ぜ合わせた合金のことです。水銀は常温では液体の金属なので、個体と混ざって粘性のあるペースト状になります。水銀に金を触れさせると、金は溶けるように水銀と一体化して、 ドロドロとした半液状の 「金アマルガム」となります。

大仏造営 金アマルガム2

  これを大仏本体に塗り付けて火であぶると、沸点の違いにより金アマルガムから水銀だけが蒸発して、最後に金だけが薄く残ります。この技法は、金が水銀に溶けて消えていくように見えるので古来日本では「滅金(めっきん)」と呼ばれ、これが「メッキ」という言葉の語源となったようです。奈良の大仏も、この金アマルガム法によって金の塗装がなされています。

大仏造営 金アマルガム1

先ほど見たように、金440kg、水銀2500kgもの量が使われ約5年の歳月を費やしてようやく塗装作業を完遂させています。
  
東京都鍍金工業組合のHPには、大仏鍍金工程が次のように記されています。
①延暦僧録に「銅2万3,718斤11両(当時の1斥は180匁で675g),自勝宝2年正月まで7歳正月, 奉鋳加所用地」とあるように,鋳かけ補修に5年近くの歳月と約16tの銅を使用
②次に鋳凌い工程で,鋳放しの表面を平滑にするため,ヤスリやタガネを用いて凹凸, とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し,彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し, さらにト石でみがき上げる。
③鋳放しの表面をト石でみがき上げてから,表面に塗金が行なわれた。
大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるので,鋳かけ,鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれたことが分かります。。
  用いた材料について延暦僧録には、次のように記されています。
「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖, 右具奉塗御体如件」

 これは金 4,187両を水銀に溶かし, アマルガムとしたもの2万5,334両を仏体に塗ったことが分かります。これは金と水銀を1:5の比率混合になります。このアマルガムを塗って加熱します。この塗金(滅金)作業に5年の歳月を要しています。これは水銀中毒をともなう危険な作業でした。
大仏鋳造は749年に完成し,752年, 孝謙天皇に大仏開眼供養会が行なわれています。大仏の金メッキは,この開眼供養の後に行われています。それは大仏が大仏殿の中に安置された状態になります。
 金メッキが行なわれはじめてから,塗金の仕事をする人々に原因不明の病気がはやりだします。

大仏造営 金アマルガム3

2500kgもの水銀をわざわざ火であぶって蒸発させ、空気中に放出しまくっているのです。ましてや金の塗装作業を開始したのは、すでに大仏殿が完成して、大仏はその内部に安置された後のことになります。気化した水銀は屋内に充満し、水銀ミストサウナのような作業現場となっていたことが想像できます。
 気化した水銀の危険性を知っている私たちからすれば、奈良の大仏に施した「金アマルガム法」による塗装作業は、水銀中毒の発生が起きうる危険な作業現場だったことになります。こうした作業を5年も続けていたので、大仏造立に関わった人々が次々と水銀中毒の病に倒れて命を落としていきます。さらに、大気中や地中を通じての飲料水の水銀汚染により平城京全域にまでその被害が拡大していった可能性もあります。
  当時の人たちは水銀中毒については何も知りません。
反対に古代中国では、水銀は不老不死の効力があると信じられていました。秦の始皇帝は水銀を含んだ薬を常用していたと伝えられます。また始皇帝陵の石室の周辺には水銀の川が造られているとも伝えられます。「水銀=不老不死の妙薬」説は、朝鮮半島を通じて日本にも伝わり、秦氏はその信者であったとも云われます。

加藤謙吉は次のように述べています。
「アマルガム鍍金法が一般化するのは、主として仏像制作に鍍金が必要とされていたことによる。したがって仏工は鍍金法に習熟していることが不可欠となる」
「彼らの仏工としての技術が朱砂・水銀の利用に端を発していると推察できょう」
佐藤任氏は、次のように述べています。
「奈良の大仏鋳造で、金と水銀のアマルガムをつくって像に塗り、熱して水銀をとばし、黄金色の像を造る冶金技法は、それ自体また一種の錬金術であったといえる」

「錬金術」を「錬丹術」というのは、丹生(水銀)を用いる術だからです。このアマルガム錬金技術を伝来していたのが秦の民です。錬丹術は不老不死の丹薬を作り、用いる術で、常世信仰にもとづく秘法でした。秦氏系の赤染氏が常世氏に名を変えたのは、大仏鋳造の塗金にかかわって、黄金に輝く大仏に常世を見たからだとされます。この鍍金に必要な丹生・水銀の採取にかかわったのも秦の民です。

大仏造営 辰砂
辰砂
市毛勲氏は「新版 朱の考古学』で、次のように記します。
「金・水銀は仏像鍍金には不可欠な金属で、水銀鉱である辰砂の発見は古代山師にとっても重要な任務であったと思われる。国家事業としての盧舎那大仏造立であったから、辰砂探索の必要性は平城京貴族にも広く知られていた」

と書き、『万葉集』の次の歌を示します。
大神朝臣奥守の報へ噴ふ歌一首
仏造る 真朱足らずは 水たまる
    池川の朝臣が 鼻の上を掘れ (三八四一)
穂積朝臣の和(こた)ふる歌一首
何所にそ 真朱掘る岳 薦畳 平群の朝臣が、
           畳の上を穿れ  (三八四三)
この二つの歌からは、大仏造立のための真朱(辰砂)の採掘が行われていたことがうかがえます。 
辰砂の鉱床は赤いので、山師(修験者)はこの露頭を探して採掘します。平群朝臣は赤鼻、池田の朝臣は水鼻汁、つまり辰砂の露頭と水銀の浸出を意味するようです。平城京貴族が万葉集歌に辰砂を詠み込んだ背景には、当時の慮舎那大仏鍍金と言う国家プロジェクトが話題になっていたからでしょう。
丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

  辰砂(朱砂・真朱)は、硫化水銀鉱のことで、中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されてきました。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになります。辰砂を 約600 °C に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じます。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製することが知られていました。
        硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄

 魏志倭人伝の邪馬台国には「其山 丹有」と記されています。
古墳内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていて呪術的な用途があったようです。辰砂(朱砂)の産地については、中央構造線沿いに産地が限られていて、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていたようです。それ以外には、四国にも辰砂(朱砂・真朱)の生産地があったようです。

大仏造営 辰砂分布図jpg

伊予の辰砂採掘に秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。

伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の人・従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣されたこと
②大山安倍小殿小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  ここには愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓秦氏を名乗ってきたが、父方の姓へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。いろいろなことが見えてきて面白いのですが、ここでは辰砂に焦点を絞ります。

渡来集団秦氏の特徴


 伊予国は文武二年(698)9月に朱砂を中央政府に献上していることが『続日本紀』には記されています。
また愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)の父野川鉱山(日吉鉱山・双葉鉱山)では1952年まで水銀・朱砂の採掘・製錬を行われていました。伊予には、この他に朱砂(水銀鉱)が発見されたという記録がないので、旧日吉村の水銀鉱が『続日本紀』に、登場する鉱山なのではないかとされています。
 伊予国の新居(にいい)郡は、大同四年(809)に嵯峨天皇の諱の『神野』を避けて郡名を神野から新居に改めたものです。
辰砂(朱砂)坑を意味する名称に『仁井』(ニイ)があります。『和名抄』の古写本である東急本や伊勢本は、新居郡所管の郷の一つに『丹上郷』を記しています。これらの郡名・郷名は、朱砂採掘に関わりがあったことがうかがえます。

技能集団としての秦氏

松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。
伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

  以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘を行っていたことにしておきましょう。

 先ほどの疑問点だった「阿倍小殿小鎌」の子孫が、父方の姓を名乗らず、母方の「秦」を名乗り、百年以上たって、ようやく父方の姓を名乗るようになったのか、について研究者は次のように推測します。
①伊予国の「朱砂」採掘は、以前から秦の民が行っていた。
②そのため「伊豫国に遺して、朱砂を採らしむ」と命じられた安倍小殿小鎌は、在地の「秦首が女を要る」必要があった。
③伊予の朱砂の採取も秦の民が行っていたので、秦の民の統率氏族の小鎌の子は、「安倍小殿」を名乗るよりも「秦」を名乗った方が都合がよかった。
④在地で有利な「秦」を百年あまり名乗っていたが、「安倍」という名門に結びついた方が「朝臣」を名のれるのでれ有利と考えるようになった
⑤そこで、一族が秦氏から安部氏への改姓願いを申請した
この記事からうかがえるのは、7世紀半ばの大化年間に中央から辰砂の採掘責任者が派遣されていることです。つまり、その時点で中央政権が「朱砂」の採掘を管理していたことになります。そして、その実質的な採掘権を秦氏が握っていたと云うことです。

 愛媛県喜多郡(大洲市)の金山出石寺の出石山周辺は、金・銀、銅・硫化鉄・水銀が出土し、三菱鉱業が採掘していました。出石山近くには、今も水銀鉱の跡があることは以前にお話ししました。

列島の水銀鉱床郡〕(丹生神社・丹生地名の分布と水銀鉱床郡より)  日本列島の中央構造体に沿って伸びております。しかし、この地図は、非常に国産みの地図と似ております。 | 日本列島, 日本, 国
 肱川流域・大洲・八幡浜には丹生神社・穴師神社が点在します。
これらは辰砂採取の神として祀られたもので、大洲市の山付平地には古代砂採取址と思われる洞穴と、朱砂の神〈穴御前)を祀る小祠があったと伝えられます。伊予の各地で秦氏が辰砂(朱砂)を採取し、水銀を作り出していたことがうかがえます。

土佐の丹生と秦の民は?
土佐には奈良時代の吾川郡に秦勝がいます。また、長岡郡には仁平元年(1151)豊楽寺の薬師堂造立に喜捨した結縁者のなかに秦氏の名がみえます。さらに幡多郡の郡名や白鳳・奈良時代の寺院址(秦泉寺廃寺)の土佐郡泰泉寺の地名も秦氏に関連するもののようで、秦氏集団の痕跡がうかがえます。これらの分布地域と重なる形で、
吾川郡池川町土居
長岡郡大豊町穴内
土佐郡土佐山村土佐山
などでは、近代に入って水銀鉱山が経営されていました。
 ニウの名を持つ中村市入田(にうた:旧幡多郡共同村)の地で採取された土壌からは、0、0006%という水銀含有値が報告されています。土佐にはこの他にも、安芸郡に「丹生郷」の郷名があり、各地に仁尾・仁井田・入野・後入・丹治川(立川)など辰砂採掘とかかわる地名が残ります。その多くは、微量分析の結果、入田と同じく高い水銀含有量を持つことが報告されています。
秦神社 - Shrine

土佐の長宗我部氏は秦河勝の子孫と称します。
高知市鷹匠町の秦神社は、祭神は長宗我部元親です。長宗我部氏の云われ、山城国稲荷神社の禰宜であった秦伊呂具の子孫が信濃国更級郡小谷郷(長野県更埴市)に移り、稲荷山に治田神社(「ハタ」が「ハルタ」になった)を祀っていました。平安時代の終り頃に、秦氏が住む上佐国長岡郡宗部郷(南国市)へ移住し、地名をとって長宗我部氏を称し、領主にまで成り上っていきます。この由緒からは、信濃から未知の土佐へ、秦氏ネツトワークを頼って移住してきたということになります。元親の父が養育された幡多郡は「波多国」といわれ、「旧事本紀』の「国造本紀」は、
波多同造。瑞籠朝の御世に天韓襲命を神の教示に依て、国造に定め賜ふ」
とあります。祖を「天韓襲命」と「韓」を用いていることからも、「波多国」は泰氏の国であることが分かります。
秦泉寺廃寺出土の軒瓦(高知県教育委員会) / 天地人堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 高知市中秦泉寺に秦泉寺廃寺跡があります。
旧上佐郡下の唯一の奈良時代の寺で、『高知県の地名』は、「この寺は古代土佐にいた泰氏建立の寺」という説があると記します。地名の北秦泉寺には古墳時代後期の秦泉寺古墳群があり、須恵器が出土しています。秦泉寺廃寺跡の地は、字を「鍛冶屋ガ内」といわれている扇状地です。
土佐同安芸郡丹生郷については、『土佐幽考』は次のように記されています。
「今号入河内是也。入者丹生也。在丹生河内之章也。比河蓋丹生郷河也」

『日本地理志料』は
「按図有・大井・吉井・島・赤土・伊尾木ノ諸邑。其縁海称丹生浦、即其地也」

この地は現在の安芸市東部、伊尾木川流域になります。松円壽男はこの丹生郷で採取した試料から0,0003%の水銀が、検出されたことを報告しています。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏と丹生の関係については
讃岐では大内・三木・山田・香川・多度・鵜足などに秦氏・秦人・秦人部・秦部など秦系氏族が濃密な分布します。大内部には「和名抄」に「入野(にゅうの)」の郷名があります。東急本や伊勢本は「にふのや」の訓を施しています。『平家物語』は「丹生屋」と記します。同郷の比定地とされる香川県大川郡大内町町田の丘陵で採取した土壌からは、0,0003%という水銀含有値が析出されています。
 入野郷には寛弘元年(1004)の戸籍の一部が残存し、秦(無姓)二十数名と大(太)秦(無姓)三名の人名を記します。この戸籍が必ずしも当時の住人の実態を伝えているか疑わしい点もあるようですが、入野郷が秦氏の集住地であったことはうかがえます。
2 讃岐秦氏2
   以上、秦氏につながる地名から辰砂採掘との関連を研究者は列記します。「地名史料」は不確かなものが多くそのまま信用できるモノではありません。しかし、先端技術を持つ秦氏がどうして、四国の奥地にまでその痕跡を残しているかを考える際に、辰砂などの鉱物資源の採掘のために秦氏集団がやってきて採掘のための集落を形成していたというストーリーは説得力があるように思えます。その前史として、鉱脈や露頭捜しに修験者たちが山に入り、その発見が報告されると集団がやってきて採掘が始まる。そして守護神が勧進される。同時に、有力な鉱山産地には国家からの官吏も派遣され、鉱山経営や生産物の管理も行われていたことはうかがえます。
 ちなみにある考古学者は三豊母神山も有力な辰砂生産地で、その生産に携わっていた戸長たちの墓が母神山古墳群であるという説を書いていたのを思い出しました。秦氏の活動パターンは広域で多種多様であったとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


 一宮寺周辺の「都市圏活断層図」
上の地図は一宮寺周辺の「都市圏活断層図」です。
地図上の東部(右側)に網掛けがされていますが、この部分が安定した扇状地上にあることを示します。一方、西側(左)は香東川の沖積低地になります。一宮神社(田村神社)や一宮寺は、この扇状地の端に立地していることが分かります。
一宮寺 香東川流路

一宮寺の西側約1 kmには香東川が北流しています。
香東川は近世初めまで一宮寺の南側の香川町付近で東西に分岐し、高松市北西部の紫雲山の東西で北流し現在の高松港付近から瀬戸内海に流れ出していました。近世初頭に高松藩主生駒家の客臣(藤堂高虎が派遣)の西島八兵衛により、東側の流路を堰き止め、西側に一本化したとされます。それ以後は香東川はほぼ現在の流路となったようです。
野原・高松・屋島復元地形図

 そのため流路が替わってもかつての川床にあたる一宮町、鹿角町、田村町などには多くの伏流水が地下を流れています。一宮寺の北東部にも「花ノ井」という出水があります。これらの出水を利用して、近世以降には、稲作を中心とする水田農耕が盛んな地域であったようです。
⛩田村神社|香川県高松市 - 八百万の神

  一宮寺のすぐ西には、扇状地と沖積低地との境があることを押さえておきましょう。
一宮寺 周辺遺跡図
地図はクリックで拡大します
 一宮寺周辺の歴史的環境を見ておきましょう
約1,7km南東の⑦百相(もまい)坂遺跡からは、弥生時代後期前葉の遺物が少量出土した溝状遺構が確認されていますが集落は確認されていません。約3km北方の③上天神遺跡や太田下・須川遺跡では自然河川や灌漑用の水路などが確認されています。特に上天神遺跡では朱を保管したと考えられる土器が、大田下・須川遺跡では壺形土器の頸部に鹿の線刻が施されたものが出土しているので、このあたりに大規模な集落があったことがうかがえます。
 古墳時代には、一宮寺よりも東側や南東側に、古墳や集落があったようです。れは西側が先ほど見たように香東川の氾濫原であったためでしょう。
 ⑨百相坂遺跡の南側の独立丘陵の山頂部には、全長51mの前方後円墳である⑩船岡山古墳があります。この古墳から出土したとされる到抜式石棺が地元の浅野小学校にあり、埴輪片も採集されています。また、船岡山古墳の丘陵から旧国道193号線を挟んで南東には、⑪船岡古墳があり、横穴式石室の一部とされる石組みが残っています。このように、古墳時代には地域の有力者の存在がうかがえます。
 古墳時代の集落としては、一宮寺の北東約1,5kmの⑤大田原高須遺跡で古墳時代後期の竪穴式住居や自然河川、灌漑用の水路と考えられる溝状遺構などが見つかっていて、大規模な集落があったことがうかがえます。これら古墳の主達の基盤とした集落と考えられます。また、④大田下・須川遺跡からも5世紀の須恵器を伴う竪穴住居跡などが見つかっていて、古墳時代に継続して集落があったことがうかがえます。
これらから一宮寺の東側の大規模な扇状地は、古くから開発の進んだ地帯だったと研究者は考えているようです。一宮寺が東側が扇状地、西側が沖積低地にあたり、いわば地質の変換点にあたる所に立地していることが改めて納得できます。
この地域を開いた首長墓と見なされる古墳群を築いたのは讃岐秦氏だと研究者は考えているようです。
秦氏の本拠地は「原里」で百相郷も含みます。中間郷も秦氏の重要な拠点で、『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の支配エリアであったようです。
 その秦氏の歴代の盟主墳墓が双方中円墳の船岡山古墳で、石枕付石棺が出土しています。また直径20mほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。これらから秦氏の墳墓は 
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳(6~7世紀)

へと推移したと考えられます。
田村神社 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
 
原郷には、秦氏によってまつられた田村神社(一宮)が鎮座します。
祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神です。その女神が「花の井」の出水で、祀られ豊穣の祈りが捧げられてきたのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力の高まりによって律令体制下では讃岐一宮に「格上げ」されていったと研究者は考えているようです。
ちなみに一宮寺は最初から田村神社の別当寺ではなかったようです。
 秦氏の氏寺として作られた古代の氏寺でもないようです。秦氏の氏寺は、別の所に建立されていたからです。百相坂遺跡の北側には舟山神社があります。この社殿南西部には、礎石と云われる大きな石が残っています。これが ⑧百相廃寺跡と云われ、奈良時代の複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦なども出土しています。この寺が秦氏の氏寺のようです。
船山神社 - 香川県高松市 - 八百万のかみのやしろ巡り
舟山神社境内にある百相廃寺の鐘楼跡碑と説明版

この百相廃寺が中世の神仏混淆の結果、一宮である田村神社と結び付いて神宮寺となります。先ほども云った通り、ここは今は船山神社ですが、地元では神宮寺の名で親しまれており、バス停の名前はいまも神宮寺のままです。田村神社の神宮寺(別当寺)は、もともとは百相廃寺であったことを確認しておきます。
船山神社 (香川県高松市仏生山町甲 神社 / 神社・寺) - グルコミ
舟山神社

 一宮寺縁起について
一宮寺は、真言宗御室派に属し、山号は神皇山、院号は大宝院。聖観世音菩薩を本尊とします。創建については、安政三年(1857)の『大宝院記録』(古文書・古記録 番外)や『四国霊場一宮寺大宝院興隆会設立趣意書』『順礼大師縁起』などがありますが、すべて近代以降のものです。その内容を概観しておきます。
①創建は奈良時代初期の大宝年間で、院号も年号を取って「大宝院」としたこと
②和銅年間に諸国一宮の整備に伴い、伽藍の修築などが行われたこと、
③弘法大師が滞在中にみずから聖観音を彫ったことから法相宗から真言宗へ改宗したこと
④戦国時代の天正年間に兵火により堂塔ことごとく焼失したこと
⑤その後中興の祖である宥勢大徳により、伽藍等が再建された
と伝えます。しかし、①②については古代瓦の出土もありませんし、一次資料も、遺物もありません。近世以前のことは分かりません。

 近世史料に見える一宮寺
 近世になり四国辺路から四国遍路へとリニューアルするに従って、中世のプロの修験者による辺路修行から、素人による札所巡礼に姿を変えるにつれて参拝者増え始めます。そして四国遍路に関する紀行文や概説書が出版されるようになり、一宮寺に関する記述が見られるようになります。
それらの大衆向けの巡礼パンフレットに一宮寺がどのように紹介されているのかを見ながら、伽藍レイアウトも見ていきましょう。
まず『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう
一ノ宮 社壇モ鳥居モ南向、本地正観音也。
夫ヨリ北エ二里斗往テ高松二至。ここハ松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石ノ城下也。此京兆(松平頼重)ハ水戸中納言頼房卿ノ長子也、家康公の為ニハ孫也。黄門舎兄ノ亜相ヨリ早誕生在リシ故、此京兆ヲ幼少ヨリ洛西ノ天龍寺ニ預ケ置テ世二披露シ玉ハズ、?ルヲ家光公聞及玉テ召出テ当国ヲ拝領也。
 京兆ハ成ノ年ニテ当年ハ三十一歳成ガ、中々利根発明ニテ政道二無レ私、万民ヲ撫育シテ下賤ノ苦楽ヲ能知り玉フト也。当国白峯寺以下ノ札所二旧記二倍シテ皆新地ヲ寄附セラル。当時ハ在府也。家老ハ彦坂織部ノ正、其外谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人老中評定衆也
 祈願所ハ天台宗喜楽院卜云、水戸ヨリ国道ニテ入国也。城下二寺ヲ立テ置ル也
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。
  意訳しておくと
一宮寺は社壇も鳥居も南向きで、本地は正観音である。
ここから北へ2里行くと高松に至る。ここは松平右京太夫殿(松平頼重)十二万石の城下である。この殿様は水戸中納言頼房卿の長男で、家康公の孫にあたり、水戸黄門の兄である。黄門さまよりも早く誕生されたので、幼少の時に京都の天龍寺に預けて世間には披露しなかった。これを家光公が伝え聞いて讃岐高松領を与えた。京兆(松平頼重)は当年31歳になるが、中々利発で政道にも私心なく、万民を慰撫し、下賤の苦楽をよく知っているという。
 当国の白峯寺などの札所に、旧来の倍に当たるような寺領を寄進している。当時は江戸に参勤交替中で不在であった。家老は彦坂織部ノ正、その他、谷平右衛門・石井仁右衛門・増間半右衛門。大森八左工門。大窪主計。松平半左衛門、以上六人が老中評定衆である。祈願所は天台宗喜楽院という。水戸から入国して、城下に寺を建立した。
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
澄禅の「四国辺路日記」の時代には、一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺になっていました。綾氏の衰退と共に氏寺の百相寺も廃絶したのに、代わったのでしょう。
 境内の記述は「社壇も鳥居も南向き」と田村神社に関する記述があり、神仏混淆の姿を自然に受け止めています。そして「本地正観音也」と一宮寺の本尊に触れるだけです。ここからは、本堂の姿は見えてきません。社殿に安置されていたのかとも思えてもきます。
 この時期は以前にもお話ししたように、阿波の霊場は本堂もなく仮堂に仏様の破片が積まれ、修験者や虚無僧が堂守として居住していた札所がいくつもあったことを澄禅は見てきています。彼は当事のエリート学識層で観察視点や表記はぶれません。一貫した記述です。そこからすると、この時代に本堂はなかったのではないかという「仮説」も出てくるように思います。
 同時に、当事の高松藩の情勢分析なども的確にされています。高松から屋島への潮の満ち引きによって変わる街道紹介も的確です。澄禅の知識人としての洞察力や表現力がうかがえます。

澄禅から約30年後にやってきた真念の『四国遍路道指南』(貞享四年:1687)には次のように記されます
七十三番一之宮 平地、堂はひがしむき。かゞハ郡一宮村。
本尊正観音立三尺五寸、大師御作。
詠歌 さぬき一の宮の御まへにあふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
是より屋島寺迄三里。但仏生山へかくるときハ、一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下へ行バ、一宮より屋島寺まで四里有也。
○かのつの村○大田村、八幡、標石有。○ふせいしむら、八まん宮.○まつなわ村、行て大池有、堤を行。○北村、三十番神宮有、過て小川有。○ゑびす村○春日村○かた本村。これより屋島寺十八町、坂、地蔵堂有。
意訳すると
七十三番一之宮寺は平地に、堂は東向きに建つ。香川郡一宮村にあり、本尊は正観音立で三尺五寸の弘法大師御作である。
詠歌 さぬき一の宮の御まへに あふぎて神のこゝろをたれかしらゆふ
ここから屋島寺までは三里。仏生山へ立ち寄るときには一宮より屋島寺まで三里半、又高松城下を経由すれば、一宮より屋島寺まで四里になる。
○かのつ(鹿角)の村○大田村、八幡、の標石がある。○ふせいしむら(伏石村)、八まん(八幡)宮.○まつなわ(松縄)村、を行くと大池があり、その堤を通って行く。○北村には三十番神宮があり、そこを過ぎると小川がある。○ゑびす村○春日村○かた本(潟元)村に至ると、これより屋島寺は18町で、坂に地蔵堂がある。
 ここには「堂はひがしむき」とのみあり、東向きの本堂があったことが記されています。澄禅巡礼後に、このお堂が造られたのではないでしょうか。
 「大宝院記録」(安政三年:1857)には、延宝7年(1679)に高松松平家により、田村神社の第一別当寺を解職され、寺領を新たに寄進されたことが記されています。これは松平氏による「神仏分離」がおこなわれたことを意味します。他国の一ノ宮が、明治の神仏分離で別当寺が切り離されたのに対して、近世初頭に「神仏分離」が行われていたとも云えます。その際に、高松藩初代藩主の松平頼重は寺領を与えると同時に、一宮神社の隣接した現在地にお堂を建立したとも考えられます。
松平頼重の宗教政策をいくつか挙げると
①金毘羅大権現の保護育成と朱印領地化、そして全国展開支援
②菩提樹としての仏生山法然堂の建立と保護
③高松城下町の鎮守岩瀬尾八幡の保護
④真宗興正寺派との姻戚関係と連携保護
⑤根来寺・長尾寺などの天台宗改修と保護
これらには政策的・戦略的な狙いをもった宗教手段が執られていたことがうかがえます。一宮と一宮寺の分離にも、何かしらの思惑や政策的なねらいがあったはずだと穿った見方をしたくなります。
寂本の「四国遍礼霊場記」(元禄二年:1689)を見てみましょう
蓮華山一宮寺大宝院
当寺の啓迪年祀久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号す、即猿田彦の命なり。
或は人王第七孝霊天皇の御子とも云、貞観九年御位をすゝめらる。宮は寺の前別に屋敷を構へたり。松樹しげく、木立物ふりにたり。左に花の井といふ名水あり。寺の本尊聖観音立像長三尺五寸.。寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。
意訳しておくと
当寺の歴史は久遠にして紡彿たり。一宮は田村大明神と号し、猿田彦命を祀っている。
あるいは人王第七孝霊天皇の御子とも云い、貞観九年御位している。宮は寺の前に別に屋敷を構へている。松の樹が繁り、木立が覆って鎮守の森となっている。左に花の井といふ名水(出水)がある。寺の本尊は聖観音立像長三尺五寸。境内には別に稲荷社があり、前に鐘楼もある。
一宮寺 寂本の挿絵見取図
  寂本の挿絵見取図を見てみましょう。
「寺の前別に屋敷を構えたり。」とあるとおり、田村神社(田村大明神)の境内とは別に一宮寺の境内が整えられてきています。また、「寺内別に稲荷社あり。前に鐘楼あり。」とあるとおり、境内には本堂(大宝院)の他に稲荷社があり、鐘楼が描かれています。
もう少し詳しく見てみましょう
①一宮寺には田村大明神(田村神社)との間に道があり、門は2ヶ所に設置され、南側の門の方がやや広いようです。これが現在の仁王門のようです。
②大宝院と書かれた建造物が東向きなので、これが本堂のようです。
③その北側と南側にも建造物がありますが、これについては、なにも記述はありません。
④境内南東部に稲荷と注記のある祠があるので、これが稲荷社と分かります。
⑤その前面灯籠に挟まれた建物がありますので、これが鐘楼のようです。
⑥境内の塀は竹垣のようで、土塀のようなものはありません。それに比べて、田村神社の周りの塀は立派なように見えます。高松藩の田村神社と一宮寺への「格差政策」のようにも思えてきます。
⑦田村大明神北西隅の外側の一官寺との間の道沿いに小堂があり、花ノ井と書かれています。これが花ノ井出水のようです。
 ここからは田村神社と一宮寺の全体的なレイアウトは、現在と変わらないことが分かります。しかし、一宮寺境内に今ある御陵などの石造物や地蔵堂や菩薩堂は、描かれていません。この時期には、まだなかったとしておきましょう。
3『四国遍礼名所図会』(寛政十二年:1800)
八拾参番一之宮 蓮花山大宝院
香川郡一宮村 屋島へ三リ、仏生山へまわりて五リ
詠歌 さぬき一の宮のみまへにあふぎて神の心をたれかしらゆふ
本社田村大明神、祭神猿田彦命、宝蔵、本堂本尊聖観音立像 御長三尺五寸、大師の御作、大師堂 方丈の脇にあり。
一の宮町、此所にて一宿.
二十三日 雨天出立 仏生山町、一ノ宮より是迄十八丁。惣門、十二堂、蓮池、仏生山
法然寺、釈迦堂 本尊の涅槃 大師像仏也 常念仏也 上にあり 諸堂多し。是より八島迄三里余、片本村、此所二て一宿。
二十四日 雨天出立 潟本村、此所より八島迄十八町。庵麓にあり 平杖泉  坂半ばにあり、大雨に濁ず 水に不増不減なし くわずの梨子 泉の次にあり 深き古事あり、畳石 薄き石たたみの如し、故号す、念仏石 大師御彫刻の六文字梵語あり 仁王門南面山と額有り、南谷の筆なり。

「四国遍礼名所図会」(寛政十二年:1800)の挿図を見ていきましょう。一宮寺 四国遍礼名所図会1800

一之宮(田村神社)との間の道に建屋に連続するように門が描かれ、道沿いは土塀で、その他は柵でうなもので囲まれています。
①仁王門から入ると、正面奥に東向きの本堂と思われる堂があります。
②その南側(左)には鳥居と小さな祠があり、稲荷社のようです。
③境内の北側には比較的大きな建物が3並んであります。最も本堂に近い位置にある小堂は、本文に「大師堂方丈の脇にあり」とある大師堂のようです。その他の建物は、本文に記載がありません。④は鐘が吊されているようなので、位置的にも鐘楼のようです
その他は、書院や庫裏など一宮寺の経営を所管する施設としておきましょう。

田村神社については、松並木の参道が南へ伸び、鳥居も南側の街道沿いにあります。鳥居の近くには狛犬も立派な灯籠も見えます。このころには現在と同じように、南側を通る街道からの参道が整備されていたことが分かります。


一宮寺には安政三年(1857)に高松藩へ提出した「真言宗香川郡一ノ宮村大宝院記録」という文献が伝わっています。
 当時の境内にあった建造物や所蔵什物の一覧で、二部以上作成し、一部は役所へ提出し、残りは控えとして保管されていたようです。今は原本は行方不明で、昭和時代にコピーされたものが一部残っているようです。そこには安政三年段階の建造物として、次のようなものが挙げられています。
本門(仁王門)、本堂、阿弥陀堂、祖師堂(大師堂)、稲荷明神
稲荷社、地蔵堂、薬師堂、鐘楼堂、茶堂、書院、庫裏、大蔵、納屋、路次門、建家
 このうち地蔵堂と薬師堂はなくなり、その本尊であった地蔵菩薩と薬師如来は、本堂におさめられています。茶堂、大蔵、納屋、路次門、建家は今はありません。石造物として孝霊天皇石塔と宝医印塔という記載がありますから四国遍礼名所図会が描かれた寛政12年から安政3年までの間に、これらの石造物が移設されたようです。

 棟札等から見える一宮寺の空間構成
一宮寺には本堂の修繕と客殿の建立の棟札2点が残されています。す。これによると、本堂は明治34年(1901)7月に修繕されているので、それ以前の建立だったことが分かります。修繕にあたっては、檀家衆が講を組織して援助しています。また、客殿は文久三年(1863)2月16日の幕末に建立されたことが棟札に記載されています。しかし、安政三年(1857)の大宝院記録には客殿についての記載がないので、この時に新規に建立されたもののようです。建立にあたっては、寒川郡鶴羽村(現在のさぬき市津田町鶴羽)の大工が施工していることが分かります。

ここまでをまとめて研究者は、次のように指摘しています
①一宮寺の縁起では、法相宗の寺院として大宝年間に創建され、田村神社の別当寺として伽藍が整備されたのを、弘法大師がやってきて本尊が安置された際に真言宗に改宗されたとします。これは、他の札所と同じように、江戸時代の大師伝説や大師信仰の高まりが背景にある
②一宮寺は田村神社(讃岐国一宮)の別当寺として機能していた。近世初頭までは他の一ノ宮と同じく、一ノ宮が札所であった
③しかし、一宮寺所蔵の「大宝院記録」では、延宝七年(1679)に高松松平家により別当寺を解職された。田村大明神(一宮神社)の管理からは切り離され、札所寺院として機能するようになった。
④このことは、他の一ノ宮の状況とは異なるもので、四国遍路の中では特異な例です。結果的に、明治の神仏分離の影響を最小限に抑えることができた「一宮寺」と言える。
⑤明治維新後は、他の札所と同様に経営状態が厳しい時代もあり、 曼茶羅寺や善通寺の影響を多く受けた。
一宮寺 建造物変遷表
 現代の一宮寺
現在、一宮寺は、上の表の通り境内には仁王門、手水、鐘楼、本堂、大師堂、納経所などの施設のほかに、平成18年(2006)に新たに建立された護摩堂が本堂の北側にあります。本堂の南側には稲荷堂という小さな祠がありますが、これは近世の絵図に描かれていた稲荷社です。境内の南側には小規模の庭園があり、中島を巡るように池が設置されている。中島には凝灰岩製の中世の石塔がありますが、いつごろからこの場所にあったのかについては分からないようです。
一宮寺 現況境内図

現在の一宮寺の諸堂の建立年を見ておきましょう。
仁王門は明治9年ごろ
大師堂は大正年間
大師堂の裏側の相の間及び礼堂は昭和30年
境内南西にある菩薩堂は昭和3年
多くは、近代以降に整備されたものです。境内に南端のコンクリート製の建造物は三密会館と呼ばれ、各種会合や講座等を行う会場として利用されていますが、元々は宿坊として建てられたものののようです。
一宮寺と遍路
記録によれば、境内の建造物の一つとして
「藁葺一建家壱軒(桁行五間/梁行弐間壱尺)
但し四国順拝之遍路共江近村ろ接待仕候節、貸渡候、尚又遍路共寺内等二而、俄二相煩申候節、先不取敢相休せ、急難ヲ相救申候場所二引除申候」

とあり、遍路のための接待施設があったようです。
ほかにも、鐘楼そばの墓地には「一心法印」という墓石があります。裏側には「石州遍路」と刻まれているので、石州から遍路に来た僧侶の墓であることがわかります。
 今まで、私はこの寺を明治の神仏分離で、一宮神社から分離されたものと思い込んでいました、そうではないことが分かりました。感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場第八十三番札所 一宮寺調査報告書

秦氏について『岩波日本史辞典』には、次のように記します。

古代の渡来系氏族。姓は初め造(みやつこ)、683(天武12)連(むらじ)、685年忌寸(いみき)。秦始皇帝の後裔を称し、応神天皇の時に祖・弓月君(ゆづきのきみ)が120県の人夫を率いて渡来したというが、実際は新羅・加耶万面からの渡来人集団。山城国葛野・紀伊郡(京都市西部)を本拠に開拓・農耕、養蚕・機織を軸に栄え、周辺地域にも勢力を延ばした。また鋳造・木工の技術によっても王権へ奉仕した。広隆寺・松尾神社などを創建し、長岡・平安京の造営ではその経済基盤を支えたとみられる。秦氏の集団は大規模であるとともに多数の氏に分化したが、氏の名に秦を含み、同族としての意識が強い。太秦(うずまさ)氏が族長の地位にあった。

ここからは次のようなことが分かります。
秦氏の渡来と活動

渡来集団 秦氏とは?

 秦氏とその民 : 渡来氏族の実像 / 加藤謙吉 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

加藤謙吉『秦氏とその民』は、秦氏の技術者集団の側面を次のように記します。

①秦氏とは、五世紀後半から断続的・波状的に渡来してきた集団を母体にして
②日本人の在地集団も組み入れながら成立した擬制的集団
③出自や来歴がちがうので、民族的な求心力はそれほど高くはなく各集団は自立的な性格が強かった。
④政治的な面よりも、経済的な面から大和政権の底辺を支えた氏族であった。
⑤秦氏の最大の特徴は、さまざまな最新技術を持った集団であったこと



そして、秦氏の技術力・生産力を、加藤謙吉は次の四点に整理します。
技術集団としての秦氏

第1に、瀬戸内海沿岸に製塩技術をもたらしたのは秦氏であること。
西日本の製塩の中心である備讃瀬戸にも多数の秦氏集団がいたこと。播磨の赤穂一帯は、近世では塩田が盛んでしたが、その起源は奈良時代に秦氏が塩田開発していること。『平安遺文』の「播磨国府案」「東大寺牒案」「赤穂郡坂越神戸南郷解」には、次のように記します。

赤穂市の坂越に墾生山と呼ばれる塩山があって、天平勝宝5(753)年から7年まで、播磨守の大伴宿繭(すくね)がこの地を開発し、秦大炬(おおかがり)を目代にして「塩堤」を築造させたが失敗し、大矩は退去した。

第2に銅生産技術です。
秦氏の出身地は朝鮮半島東南部の産鉄地帯とされます。渡来してきた秦氏集団がまず勢力を伸ばしたのが、九州の鉱山地帯である筑豊界隈でした。そして九州から瀬戸内に沿いつつ、各地の鉱山開発を進めていきます。そして全国の鉱山に足跡を残します。採掘から精錬、さらには流通に至るまで、秦氏と鉱山資源は深く結ばれていました。東大寺の大仏開眼の銅は、秦氏によって集められたことは以前にお話ししました。

第3点が朱砂と水銀採集技術です。
朱砂という赤色顔料による色の呪力があり、弥生時代から古墳時代には、遺体の埋葬に使われていました。赤は魔力を持つ色とされ、その赤を操る種族ということで、マジカルな力を持つと思われていたようです。そのため金にも劣らないほど、この時代では貴重資源でした。
もうひとつは、仏像建造などにアマルガム鍍金法が導入されることによって、水銀の価値が高まったことです。奈良の大仏がそうであったように、水銀がなければ仏像を鍍金できなかったのです。そういういみで水銀は最重要資源でした。水銀採石地と丹生神社が重なっているおは、そのような水銀の重要性と関係あると研究者は考えています。
 第四点が土木・建築技術です。
京都・太秦は秦氏最大の根拠地ですが、そこを流れる桂川に堰堤をつくり、治水・潅漑を行っています。それ以外にも、茨木の茨田場などの土木工事や、長岡京や平安京など、首都の造営にあたっては秦氏が深く関わっていたと研究者は考えています。この4点だけでなく、農耕や養蚕など、秦氏の技術力はまだまだたくさんあります。

それでは讃岐にいた秦氏について見ていくことにします。まず讃岐秦氏の拠点はどこなのでしょうか?

2 讃岐秦氏1

讃岐における秦氏の分布を表にすると、東から大内郡・三木郡・山田郡・香河郡・多度郡と、讃岐十一郡のうちの半分にあたる五郡にわたっています。その中でも、集中しているのが香河郡です。ここから香河(川)郡が秦氏の拠点のようです。
 香河郡の秦氏の本拠を考える上で、大きな意味をもつのが「原」という地名だと云われます。
  『続日本紀』神護景雲三年(七六九)十月十日の条によると  
讃岐国香川郡人秦勝倉下等五十二人賜二姓秦
とあって、秦勝倉下ほか五十二人が、秦原公の姓を賜ったことがわかります。更に『平城宮発掘の木簡』にも、「原里」に秦公恋身という人物の名が記されたいます。 

では、幡羅(原)里とは、一体どこなのでしょうか。

平安時代の『和名抄』には香河郡の郷は、笠居・飯田・坂田・箆原・中間・成相・大田・多肥・百相・河辺・大野・井原の十二郷で、幡羅(原)郷はありません。
「原里」は、郷の再編成で新たに誕生した里と考えられています。そして、現在田村神社の東に「東原」という地名が残っていますが、この「東原」が、幡羅(原)郷のようです。

この原郷には、秦氏によってまつられた田村神社が鎮座します。

その祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神として、女神がもつ再生産の機能に期待してまつられるようになったのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力によって讃岐一宮になっていったようです。

2 讃岐秦氏2
 秦氏にとって、一番重要な本拠地は「原里」で後には、百相郷も含みます。加えて中間郷も秦氏の重要な本拠でした。『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。
 このように、百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の本居であったようです。
 古墳時代のこの辺りには、双方中円墳の船岡山古墳があり、石枕付石棺が出土しています。また直径二十メートルほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。
これらから秦氏の墳墓は 
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳
(6~7世紀)へと推移したと考えられます。
奈良時代には神宮寺の前身となる寺院が、秦氏の氏寺として建立されます。
優婆塞として名の見える秦人部辛麻呂は、氏寺の僧侶であったと考えられます。後になってその寺院は神仏習合の結果、一宮である田村神社と結び付いて、神宮寺となります。ここは現在では船山神社になっています。しかし、地元では神宮寺の名で親しまれており、傍らのバス停の名前はいまも神宮寺のままです。ここが百相廃寺跡で、複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦などが出土しています。秦氏の仏教活動は、奈良時代の優婆塞秦人部辛麻呂から、平安時代の道昌・観賢・仁政へと、引き継がれたようです。
2 讃岐秦氏4



秦氏には次のような氏族構成が、形成されていたと推察できます。 

讃岐秦氏

香河郡内の秦氏は強い同族意識で結ばれ、大内・三木・山田・多度など他郡に分布する秦氏に対して、秦原公は何らかの形でゆるやかな支配力を持っていた。
② 秦氏の性格としては、その本拠が内陸部にあったところから、農耕民としての性格が強かった。
③ 香河郡の秦氏は香東川の水を引いて稲作を行ない、田の畦や空閑地に桑や麻を植え、絹や麻の布を織った。
④ 秦氏の本拠の近くには、讃岐特産の敷物である円座の生産を行なった村があり、少し離れて檀彫の生産を行なった村があり、この円座と檀紙は平安時代に讃岐の特産品とされ、都で暮らす人々にも重宝がられた
⑤ 円座・檀紙の生産については郡司である秦氏が、関与していたと思える。  

『続日本後紀』承和九年六月二十二日(乙酉)条によると。
 讃岐国香河郡人戸主従六位上秦人部永楸。戸主秦人部春世等十人。賜二姓酒部
とあって、秦氏の一族の中には酒部に改姓される者がいて、酒造りを行なった人々がいたようです。 
2 讃岐秦氏3

 一方、香川郡の海浜部は、渡来系の綾(東漢)氏に占められていたようです。 

『日本霊異記』によると、聖武天皇の頃、讃岐の香川郡坂田の里に、大層な物持ちがいて、その姓は綾君であった記されます。また、東寺の果宝が観応三年(一三五二)に編述した『東宝記』収載の天暦十一年(九五七)二月二十六日の太政官府に、香河郡笠居郷戸主綾公久法の名が見えます。海に近い香河郡笠居郷や坂田郷は、綾氏の一族が押さえる地域だったようです。
 綾氏は海の近くにすむ海岸の民であり、秦氏は同じ帰化系氏族のよしみで、海からとれる塩・魚貝類・海草などを、手に入れていたのではないでしょうか。秦氏・綾氏の本拠の近くには、大田郷・多肥郷があり、大田の語源が王の田を意味する王田であって、かってそこに屯倉がおかれ、多肥の語源が屯倉の耕作者の田部であったとすると、秦氏・綾氏には屯倉の管理者として活躍した時期があったとみられる。秦氏・綾氏は大和王権と結ぶことで、東讃の国造凡氏と西讃の国造佐伯氏の勢力が枯抗する地域で、勢力をえることに成功した氏族であったようです。

参考資料  羽床正明 讃岐秦氏について 

    

                                                                   

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