瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐綾氏

讃岐綾氏のことを以前に次のようにお話ししました。

讃岐綾氏の活動
 
今回は奈良時代の同時代史料から讃岐綾氏について、何が見えてくるのかを追ってみようと思います。
  テキストは「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」です。

讃岐綾氏が文献に登場するのは「続日本紀」の延暦10(791)年9月20日条で、次のように記されています。
「讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。己等祖。庚午年之後O至于己亥年。始蒙賜朝臣姓。是以。和銅七年以往。三此之籍。並記朝臣。而養老宍五年。造籍之曰、遠校庚午年籍。削除朝臣。百姓之憂。無過此甚。請捺三此籍及菌位記。蒙賜朝臣、之姓。許之。」

意訳変換しておくと
讃岐国阿野郡の豪族であった綾公菅麻呂らが朝臣の姓を賜わりたいと次のように願いでた。自分たちの祖先は、庚午年籍が作られた天智9(670)年の時には朝臣の姓を持っておらず、文武3(703)年になってはじめて朝臣の姓を賜った。ところが養老五(721)年の戸籍改製の際、庚午年籍に拠って、朝臣が削られたため、一族は嘆き悲しんでいる。そこで再び朝臣の姓を願い出た。この申請を受けて許可した。
この申請が認められ他のは、平城京から長岡京に遷都して8年目にあたる791年のことで、空海が大学をドロップアウトして山林修行中だった時期になります。ここに登場するの阿野郡の豪族・綾公菅麻呂については、これ以外のことは分かりません。ただ、彼の位階は「正六位上」であることは分かります。これを研究者は、讃岐にやってきていた国司と比較します。
①延暦9年7月24日に讃岐守に任じられた宗形王は従五位上
②延暦8(789)年2月4日に讃岐守に任ぜられた百済王教徳が従五位下
 ちなみに、「続日本紀」には奈良時代の讃岐について12例の任命記事があります。そこで任命されているのは、従三位から従五位下までの貴族です。ここからは讃岐守は、従五位までの役職だったことがうかがえます。ちなみに、讃岐の任命記事は13例あり、従五位下の役職だったようです。 綾公菅麻呂は「正六位上」でしたから、守や介に続くNO3の位階を持っていたことになります。

官位12階

  次に、地元の有力者と比較してみましょう。奈良時代の讃岐の郡司で、同時代史料にでてくるものは6人です。
「東寺百合文書」の山田郡司牒の天平宝字7(763)年10月29日付の讃岐国山田郡にあった川原寺の寺田検出には、讃岐の当時の郡長の名前と官位が次のように記されています。
①「復擬主政大初位上 秦公大成」
②「大領外正八位上 綾公人足」
③「少領従八位上 凡□」
④「主政従八位下 佐伯」
⑤「□□上 秦公大成」
⑥「□□外少初位□秦」、「□□下秦公□□」
復元しておくと
③の「少領従八位凡□」は「少領従八位上 凡直」
⑤の「□□上秦公大成」は「復擬主政大初位上 秦公大成」
⑥の「二外少初位口秦」は「主帳外少初位下 秦」と復元されています。
ここには秦氏や綾氏(阿野郡)・佐伯(多度郡)・凡直などの馴染みの名前が出てきます。彼らの官位を見ると、「外正八位の上か下」であったことが分かります。こうして見ると、菅麻呂の位階は「正六位上」ですから讃岐では異例の高さです。
  空海を生み出した多度郡司の佐伯直氏と比べて見ましょう。

1 空海系図52jpg

空海の戸長であった道長が「正六位下」です。空海の兄弟や甥たちよりも高い官位を綾公菅麻呂は持っていたことが分かります。つまり、讃岐の豪族の中ではNO1位階保持者だったことになります。全国的に見ても、奈良時代の郡司の官位は、正六位上が最高であったようです。以上から綾公菅麻呂は、讃岐守には及ばないものの、讃岐介と同格か、それに次ぐ位階をもち、他の郡司よりもはるかに高く、讃岐では最有力な人物であったとことを押さえておきます。
 「続日本紀」には菅麻呂の官職名が記されていないので、どこで・どんな役職に就いていたかは分かりません。
上京して京で生活していたことも考えられます。もし讃岐にいたとしても、『続日本紀』の記載からすると、延暦10(791)年9月には、国府の主要官職や郡司の職にはついていなかったと研究者は考えています。
ちなみに、讃岐で最も高い位階を得ているのは、三野郡出身の丸部(わにべ)明麻呂で従四位上です。
平安時代の初め頃の「続日本後紀」嘉祥2(849)年10月丁亥朔条には、彼が18歳の時に都に入り、功績を認められて三野郡の大領に任じられたとあります。丸部氏は、以前にお話したように壬申の乱で功績を挙げ、その後は三野の宗吉に最先端の瓦工場を誘致して、藤原京に瓦を提供したとされる一族とされます。その功績も合って、中央で官人として従四位上を手に入れたのかもしれません。
 綾氏についても、中央で活躍する人物が次のように見えます。
A 宝亀3(772)年10月8日付「造峡所造峡注文」の東大寺写経所造紋所の内竪大初位上綾君船守
B 嘉祥2(849)年2月23日には内膳掌膳外記位下綾公姑継、主計少属従八位上綾公武主等が本居を改めて左京六条三坊に貫附記事。
ここから、綾氏の中には讃岐を離れ、中央で活躍する者もいたことが分かります。空海の弟や甥たちも中央で活躍し、改姓を機会に本貫地も平安京に移したことは以前にお話ししました。

 これ以外に讃岐の豪族が戸籍を中央にもつ例を挙げておきます。
①承和3(836)年に寒川郡の讃岐公永直が右京三条二坊に、
②山田郡の讃岐公全雄らが右京三条二坊に、
③多度郡の佐伯直真継・長人が左京六条二坊に
④嘉祥3(850)年に佐伯直正雄が左京職
⑤貞観3(861)年に佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂らが左京職
⑥貞観4(862)年に刈田郡の刈田首安雄・氏雄・今雄が左京職に
⑦貞観5(863)年に、多度郡の刑部造真鯨らが左京職
⑧貞観15(873)年に三木郡の桜井田部連貞・貞世が右京六条一坊
⑨三野郡の桜井田部連豊貞が右京六条一坊に
⑩元慶元(877)年に香川公直宗・直本が左京六条に
⑪寒川郡の矢田部造利大が山城国愛宕郡
⑫仁和元(885)年には几直春宗等男女9人が左京三条口坊に本貫移動
 このように9世紀になると、綾氏や佐伯直など讃岐の豪族の中には、改姓申請とともに戸籍を中央に移す者が現れるようになります。その背景には、遙任国司制によって郡司の役職に「中間搾取のうまみ」がなくなったことがあります。この時代の地方貴族は生き残りのために、改姓して本願を京に移し、中央の貴族の一端に加わろうとします。この流れの中で多くの古代豪族が衰退し、姿を消して行きます。
  綾氏や佐伯直氏などの讃岐の豪族が本貫を中央へ移すのは、平安時代になってからです。
綾公菅麻呂については「続日本紀」に「讃岐国阿野郡人」と記されているので、このときには本籍はまだ讃岐にあったようです。当時の綾氏は阿野郡を拠点としていたとしておきます。綾公菅麻呂の改姓申請からは、綾氏は遅くとも7世紀後半頃には有力な豪族であったという誇りが読み取れます。   
 このことを裏付けるのが「日本書紀」天武天皇13(乙酉、685)年11月戊申朔条の「(前略)車持君・綾君・下道君(中略)、凡五十二氏、賜姓日朝臣」の記事です。これは天武朝の八色の姓の制定に際し、綾君など52氏に朝臣の姓を与えたものです。「日本書紀」には綾君の住居地等を記していませんが、綾君を名のる古代豪族は讃岐以外にはいないので讃岐国阿野郡の綾氏と研究者は考えています。
 この時に朝臣の姓を賜った52氏の中で、畿内やその周辺(近江・紀伊・伊賀)を除く地方に出自をもつ豪族は、綾君を含めて、上毛野君(上野)・下毛野君(下野)・胸形君(筑前)・下道臣(備中)・笠臣(備中)のわずか6氏です。そして、いずれもが有力な地方豪族なので、綾君が本拠地で大きな勢力を持つと共に、中央でも重視された存在だったことがうかがえます。「日本書紀」と「続日本紀」の内容は、よく似た内容が記されているので、7世紀後半から8世紀にかけて讃岐国阿野郡で、綾氏が大きな力をもっていたことが裏付けられます。
 綾氏は阿野郡だけでなく、山田郡や香川郡にも一族がいたようです。これについては、また別の機会に見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


源頼朝は、源義経・源行家の追捕のために、配下の御家人を全国にわたって守護・地頭に任ずることを、後白河法皇へ願い出てて許可されます。これによって次の二点が実現します。
①頼朝と御家人との私的な主従関係が、公的なものとして認められたこと
②東国だけでなく全国的に鎌倉幕府の勢力が及ぶようになったこと
守護は、有力御家人を国ごとに任じ、国内の御家人への大番役(京都の警固)の催促、謀叛人・殺害人の逮捕などの軍事・警察権を握っていました。地頭は、公領・荘園ごとに置かれ、年貢の徴収・上地の管理などに携わっていました。言うなれば「警察署長 + 税務署長」のようなものです。
義時を討て」後鳥羽上皇の勝算と誤算 承久の乱から武士の世に:朝日新聞デジタル

鎌倉幕府の成立によって「二重政権」のようになって、朝廷の政治的地位は低下します。
その勢力回復を、あの手この手で試みるのが後鳥羽上皇です。それは、源頼朝の死後に頻発する有力御家人の謀叛によって生じた隙をつくものでした。承久元年(1219)正月に三代将軍源実朝は、頼家の子公暁に暗殺されます。このとき幕府では、北条義時が執権となって幕府の実権を握り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとします。上皇はこれを許さず、このため頼朝の遠縁にあたる藤原道家の子頼経を四代将軍に迎えて、幕府の体制を固めます。この事態に対し後鳥羽上皇は、承久3年5月に京都守護伊賀光季を討って、北条義時追討の院宣を発します。幕府は直ちに北条泰時・時房に挙兵上京を命じ、翌月には幕府軍は、京都で御鳥羽上皇の軍勢を鎮圧します。この結果、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上率は土佐へと配流されます。
承久の乱2

この承久の乱に際し、讃岐で鳥羽上皇を支援する側に回ったのが讃岐藤原氏(綾氏)一族です。
讃岐藤原氏の統領、羽床重資の子羽床兵衛藤大夫重基は後鳥羽院側に味方したため、その所領は没収されています。(「綾氏系図」)。また綾氏の嫡流である綾顕国も羽床重員とともに院側に味方したとされます(『全讃史』)。讃岐では讃州藤家の嫡流である羽床重基と、綾氏の嫡流たる綾顕国が、後鳥羽上皇方についたようです。
一方、幕府側についたことが明らかなのは、藤家一族の香西左近将監資村です。
資村は、その忠節により香川郡の守護職に補せられたと云います。(『南海通記』)。しかし、これは守護に代って任国に派遣される守護代の下の守護又代になったにすぎないと『新修香川県史』は指摘します。
イラストで学ぶ楽しい日本史
承久の乱の前と後
一方、承久の乱で院方についた武士として、東讃地域の武士は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 
その背景は、源平合戦当時に東讃に勢力をもっていた植田氏一族が、平氏の傘下にあったこがあるようです。植田氏の基盤とした東讃地域は平家方についたために、鎌倉幕府から「戦犯」扱いされ、強い統制下にあったことが考えられます。それが「反鎌倉」の動きを封じ込まれることになったというのです。

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南海通記と南海治乱記
 この点について『南海通記』は、承久の乱後に橘公業が関東の目代として三木郡に居住することになり、東讃四郡の守護になったと記します。しかし、東讃四郡だけの守護はあり得ないし、橘公業が三木郡に住んだという史料はありません。公業は嘉禎二年(1326)2月まで伊予国宇和郡を本拠地としていることが『吾妻鏡』には記されています。南海通記は、後世に書かれた軍記もので「物語」です。史料として無批判に頼ることはできないことが「秋山家文書」などからも明らかにされています。
讃岐 鎌倉時代の地頭一覧表

讃岐の鎌倉時代の地頭一覧表
讃岐の地頭の補任地として、現在17か所が明らかになっています。
  承久の乱後、勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇に与した貴族(公家)や京都周辺の大寺社の力をそぐために、その荘園に新たに地頭を置きます。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼びます。上の表を見ると分かるように、1250年代以前に置かれたことが史料で確認できる地頭職6つのうちで、承久の乱後に地頭が補任されたのは次の4ヶ所です。
法勲寺領・櫛梨保・金蔵寺領・善通寺領

地域的に見ると丸亀平野に集まっています。金蔵寺領は、間違って地頭が置かれたようですが、残りの三か所では、その地域に勢力を持つものが院方に味方したために没収されて、その所領に新たに地頭が任命されたことが考えられます。ここからは綾氏一族の綾顕日、羽床重基だけでなく丸亀平野の武士たちの多くが院方に味方していたことがうかがえます。彼らは、羽床重基に率いられた藤家一族だったことが推測できます。これが承久の乱後の地頭補任が、丸亀平野に限られていることと深く関係しているようです。

讃岐藤原氏系図1
讃岐藤原(綾)氏の系図

それならば、院側についた綾氏一族は、乱後に国府の在庁官人群から一掃されたたのでしょうか?
建長8年(1256)の史料には、讃岐の在庁官人として、新居藤大夫資光の孫の新居刑部次郎資員と重晨の従兄弟の羽床藤大夫藤四郎長知の名があります。院方に味方したと思われる羽床氏や新居氏の一族が、従来に在庁官人の地位にとどまっていることが分かります。
その理由として研究者は次のように考えています。

「院方に味方したということで、藤家一族を讃岐の国衛から排除すると、讃岐の支配を円滑に行えないために、在地で大きな勢力をもっていた藤家一族に依存せざるを得なかった

藤家一族は、承久の乱も讃岐の国衛で重要な地位に就いていたようです。
羽床城 - お城散歩
羽床城跡
以上をまとめておくと
①源平合戦の際に、讃岐綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏は平家を裏切って、いち早く源氏方の御家人となり、鎌倉幕府の信頼を得て、その後の讃岐国衙の在庁役人として重要な役割を果たすようになった
②承久の乱では、讃岐藤原氏の主流派は後鳥羽上皇に味方し、乱後に所領の多くを失った。
③乱後に新補地頭がやって来た荘園は丸亀平野に多いので、讃岐藤原氏主流派の配下にあったのが丸亀平野周辺の武士団であし、彼らが「戦犯」としてと所領没収されたこと
④東讃は、源平合戦の際に平家方に味方し、その後に鎌倉幕府の「戦後処理」が厳しかったために後鳥羽上皇側に味方する武士団は現れなかったこと
⑤しかし、乱後も後鳥羽上皇を支援した新居氏や羽床氏の子孫は在庁役人としてとどまっていること、
ここからは、承久の乱を契機に羽床氏などの讃岐藤原氏の主流派が国衙から一掃され、それに代わって讃岐藤原氏の惣領家が香西氏に移行したとは云えないようです。 ここでも「南海通記」の見直しが求められています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  5讃岐国府と国分寺と条里制

綾川が府中でドッグレッグして北に流れを変えた右岸(東側)が鴨になります。この辺りには、山部には古墳時代末期の横穴式古墳が群集し、その後には鴨廃寺も建立されていて、古代綾氏の拠点とされています。そして、綾川の対岸に讃岐国府が姿を見せます。「国府誘致」の原動力になった勢力の基盤があったところとも考えられます。

坂出 条里制と古墳
賀茂古墳群と鴨廃寺の位置関係 綾氏の存在がうかがえる

 全国には、古代以来の鴨部を引き継ぐ地名がありますが、古代の讃岐にも、鴨部(坂出市)と鴨部(さぬき市)の2カ所の鴨部がありました。空海の叔父阿刀大足が、この地に京都の賀茂神社(上下二社を総称して賀茂社)を勧請したので、鴨部郷から鴨郷に変更されたと伝えられます。また、鴨を狩猟し、献上する部民が配置された鴨部の呼称が始まりとされます。しかし、それらを裏付ける史料はないようです。
  鴨村の位置を確認して、ズームアップしていきます。
坂出 鴨
江戸時代の阿野北絵図
黄色ラインは街道、赤は村境になります。 注目しておきたいのは、鴨村の東にある烏帽子山です。
坂出 賀茂烏帽子山
現在の烏帽子山 山頂付近が削りとられてしまった姿
この山は、今は採石作業で削り取られて見る影もありませんが、かつてはその名の通り烏帽子の形をした甘南備山で地域の信仰対象だったことがうかがえます。明治の地形図の麓の地名は「神の山」です。ちなみに、頂上からは弥生時代の高地性集落跡も見つかっているようです。この山が鴨村の「シンボルタワー」の役割を果たしていたことは容易に想像がつきます。その麓にあるのが鴨村です。
5讃岐国府と国分寺と条里制

府中から真っ直ぐに北に伸びていく道が「大道」と呼ばれた、国府とその外港の林田湊を結ぶ連絡道だったと研究者は考えているようです。大道の西が氏部村です。近代には「鴨村+氏部村」=加茂村となります。綾川の西側は、西庄村になります。
坂出 鴨

この地図には、城山の北麓に「賀茂村御林」「氏部村御林」とあります。ここがふたつの村の「御林」だったことが分かります。農民たちは、この御林から若芽や小枝を刈り取って来て、それを背負って帰って田んぼにすき込んでいたのでしょう。


近世の鴨村と氏部村には、それぞれ鴨(賀茂)神社が鎮座していました。
鴨部郷の鴨神社1
  両神社の位置を、明治の地図で確認しておきます。
綾川に面してあるのが上鴨神社で、川の向こうにはJR予讃線の賀茂駅があります。今は採石で美しい姿を失ってしまった烏帽子山の西北麓に鎮座するのが下鴨神社です。ここでふたつの神社の鎮座する地名を下の地図で押さえておきます。
①上鴨神社(西鴨)が鎮座するのが氏部の「本鴨
②下鴨神社(東鴨)が鎮座するのが「鴨の庄

これを幕末の讃岐国名勝図会に載せられた絵図で見てみましょう。
絵図は国会図書館のアーカイブからダウンロードしたもので、クリックすれば拡大します。詳細部までみることができます。
鴨部郷の鴨神社

手前から見ていきましょう。
①右から左へ綾川が流れています。
②綾川に沿って高松ー丸亀街道が伸びていて、綾川を渡る木橋が見えます
③丸亀街道にそって鎮座するのが上鴨社(西鴨社)で、鴨前院という別院があり神仏混淆です
④さらに北に行くと氏部村の集落があるようです。
⑤田んぼには、雀おどしらしきものが張られているので、季節は取り入れ前の秋なのでしょうか
⑥背後には、五色台が横たわり、その前に奇景の烏帽子山が見えます。
⑦烏帽子山の前に、下鴨神社が見えます。
⑧その左に正蓮寺が大きく描かれています。

 西鴨(上賀茂)神社は、今も「あおいさん」とよばれ信仰を集めています。

坂出 上鴨神社

かつては三所大明神と呼ばれ、社内に神宮寺の一つ鴨箭(おうせん)院や地蔵堂などの堂塔がある神仏混淆の神社で、社僧が奉仕していました。
 西鴨神社(上賀茂・葵さん)には県内最古の棟札が保存されています。
年号は己□(卯)と見えるので、長禄二(1459)年のものと研究者は考えているようです。県下の棟札で、年紀の入ったものとしては、一番古いものです。西鴨神社周辺には京都の上賀茂神社の荘官で、「南海通記」などに登場する入江民部(代々民部を名乗った)がいました。この人江氏であった景輝という人物が願主となり、白峯寺の大僧都俊玄を西鴨神社社殿落慶の法要に際し導師に招いて供養したときのものが、この棟札になるようです。ここからは、西鴨神社が京都の上賀茂神社の寺領となっていたことが分かります。

坂出 下鴨神社

 東鴨(下賀茂)神社は鴨居大明神や、葛城大明神とも称していました。どちらも延喜式内社とする議論もありますが、京都の上賀茂、下賀茂は、併せて一社です。西鴨、東鴨もそう考えるのが自然のようです。
福江 西庄


鴨ノ庄(下鴨神社領)賀茂御祖神社は、下鴨神社領で現在も鴨庄の地名が残ります。そして、下社である東鴨神社があります。上鴨神社があるのは本鴨で、ここも京都の下鴨神社領といわれています。ところが、なぜか上社の西鴨神社が鎮座します。下鴨領に上社が鎮座するのは変です。『名勝』には、上社は氏部・鴨二郷の総鎮守であるとされます。また、本鴨は、賀茂庄の本条で、中心地を意味します。そうすると、この地は本来は、上社の荘園に含まれていた可能性が高くなります。綾川の流路沿いにあり、氏部郷と接続する場所です。そのためかつては氏部郷に属していた可能性もあるのでしょう。西鴨社の位置が変わっていないとすれば、氏部ではなく上賀茂領であったということになると坂出市史は指摘します。
牛ノ子山と牛子天神 
 ここは、国府と松山津との間を往返する「大道」道筋の途中になります。讃岐国守を勤めた菅原道真もこの付近にあった客館に足繁く通った(『菅家文草』)ことがうかがえます。伝承では、この小山で道真は牛に乗って戯れたと云います。また、道真が国司として最も重要な臨時祭事である雨乞いを城山山上において祭文を奉じて行ったところ、たちまちに恵みの雨が降ったとされます。それを讃えてこの地の民衆が乱舞したといわれ、これが雨乞踊りの発祥であるとも伝えらます。その後、これに讃岐配流になった法然上人が振り付けをして、北条念仏踊となったと伝えられます。ここには、中世に都から始まって地方に伝播した風流踊りの讃岐への定着プロセスがうかがえます。
 こうした雨乞い念仏踊組が讃岐各所に形成されて、江戸時代になると早魃の時には郡内の各組からも牛頭天王(滝宮神)社へ奉納するようになります。ここからは、いまはほどんど姿を消してしまった牛頭天王信仰のネットワークが見えてきます。

讃岐国名勝図会に描かれた上下鴨神社の周辺をみてきました。この地が烏帽子山を甘南備山(霊山・聖山)として、古来から信仰対象となっていたことを痛感します。古墳時代の人々は、この山の奥に古墳群を築き、仏教が流行するとそれを取り入れ鴨廃寺を建立する。そして、国府をここに「誘致」したのも、ここを拠点とする勢力だったのかもしれません。その後、京都の秦氏の氏神である下上賀茂神社に寄進され、中世には賀茂神社の寺領となったようです。秦氏との関係を通じて、成長して行ったのが古代綾氏です。綾氏は在庁官人として国府の指導権を握り、勢力を拡大していきます。その基盤は、国府と近いこの鴨(加茂)の地にあったのではないかと、私は考えています。
しかし、烏帽子山の今の姿は残念です。
坂出 賀茂烏帽子山
頂上部がなくなった現在の烏帽子山の姿

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

 
悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図 (系図前に載せられているのが神櫛王の悪魚退治)

古代の綾氏の系譜をひくとされる讃岐藤原氏は讃岐の武士の中で最大の勢力を持っていたとされます。それは讃岐藤原氏が、いち早く源頼朝の御家人となったことに要因があることを前回は見てきました。今回は、源氏の御家人となった人々のリストを「綾氏系図」を見比べながら、見ていきたいと思います。

源平の戦いが始まる前の讃岐の情勢を見ておきましょう。
讃岐国司一覧表12世紀
院政期の讃岐国守一覧(坂出市史)
上の表で確認したいことは、次の点です

讃岐藤原氏の蜂起

①保延四(1138)年頃、藤原家成が讃岐国を知行した後は、清盛がクーデターを起こす1179年まで30年近くにわたって、家成とその一族が讃岐国の国務を執っていたこと
②「国主 藤原家成一族 → 目代 橘公盛・公清父子 →  在庁官人 綾氏一族」という支配体制が、この30年間に形成されたこと。
③清盛は政権を握ると、讃岐守に平氏一門の維時を任命し、院分国讃岐国は没収された。
④平氏の支配下に置かれた知行国では、在庁官人や有力な武士が家人に組織され、国衙の機能を通じて国内の武士たちを支配下においた。
⑤それは藤原氏の国守時代とは違い「平家にあらずんば、人に非ず」を体験する場となった。『平家物語』には、平氏から離反した讃岐武士について「昨日今日まで我らが馬の草切ったる奴原」と見下されていたことがうかがえる。
⑥特に、平氏が屋島に本拠を構えたのちは、讃岐の武士たちは平氏の直接支配下に置かれ、不満と反発を募らせた。
⑦このような中で、かつての讃岐目代の橘氏が源頼朝を頼って、東国に下った。これを聞いて、かつての上司である橘氏と行動を共にしようとする在庁官人が現れる。それが綾氏一族を中心とする讃岐武士達である。

橘公業が名簿にリストアップして、頼朝に送った武士名簿を見てみましょう。まず「藤」の姓を持つA~Fの6人を見ていきます。「藤」とは「藤原氏」のことで、古代綾氏が武士化して以後に使うようになる名勝です。また、かれらの多くが名乗りに用いている大夫とは、五位の官人の呼称です。
A  藤大夫    資光   (新居)
 B 同子息新大夫 資重   
 C 同子息新大夫 能資
D 藤次郎大夫   重次(重資) 
 E 同舎弟六郎  長資
F 藤新大夫    光高   

なぜ綾氏は、藤原氏と名乗るようになったのでしょうか?
「藤=藤原」氏で、古代の綾氏の系譜を引くとされます。讃岐綾氏は、平安時代の文書に「惣大国造綾」と見え、国造の系譜を引く在庁官人として、勢力をのばしてきたことは以前にお話ししました。彼らが中世に武士化していきます。
「綾氏系図」は、この綾氏の女性と、先ほど見た讃岐国司・藤原家成との間に生まれた章隆(藤太夫)を初代とする讃岐在住の藤原氏の系譜を記します。

羽床氏系図

讃岐藤原氏の初代となる章隆が、国司の家成と綾氏の女性との間に生まれた子だとします。
これは「貴種」との落とし胤を祖先とするよくある話です。当時の国司は遙任で、実際には赴任しません。藤原家成が讃岐にやって来た記録も残っていません。研究者達が無視する「作り話」です。
 しかし、先ほども述べたように、在庁官人として仕える綾氏と、家成・俊盛二代の知行国主の間には、30年間に培われた主従関係があったことは事実です。「綾氏系図」に登場する章隆は、古代綾氏が、中世の讃岐藤原氏に生まれ変わるターニングポイントなのです。そして彼は国司藤原家成の「落とし胤」とされます。しかし、章隆の実在性は史料からは確認されないことは押さえておきます。

讃岐藤原氏系図1

讃岐藤原氏の始祖は藤原章隆で、その子資高が2代目とされます。
DSC05414羽床城
羽床城縄張り図
資高は名乗りが「羽床庄司」とあるので羽床を拠点にしていたようです。
羽床城の主の祖先になるのでしょう。そして、系図が正しいとすれば、つぎのようなことがうかがえます。
①羽床が当時の藤原氏の本拠地であったこと
②実質的な讃岐藤原氏の祖先は、資高であったこと

資高には5人の子が記されます。その4番目が「新居藤太夫資光」です。この系図からは、高の子たちの代に「大野・新居・香西」などの分家が行われたことになります。 
頼朝に送られた名簿リストの筆頭にあるのは資高の子「A藤大夫資光」です。名乗りからみて綾南条郡新居郷を本拠としていた人物でしょう。彼が、この讃岐グループのリーダーであったようです。
名簿リストにはA藤大夫資光の息子として「B同子息新大夫①資重」「C同子息新大夫 能資」と記されます。しかし「綾氏系図」を見ると、資光の子は資幸だけです。
 資光の子孫としては康元元年(1256)の讃岐国杵田荘四至膀示(ぼうじ)注文に見える讃岐国の使を勤めている「散位藤原朝臣資員」がいます。この人物が「綾氏系図」に資光の孫として掲げられている資員と研究者は考えているようです。新居の資光の子孫は在庁官人として、国府で活躍していることが分かります。
 名簿リストにでは資光の子として載せられている、B資重・C能資は、どこへいったのでしょうか? 分からないまま次に進みます。名簿リストの4人目から見ていきます。
D藤次郎大夫  重次(重資) 
  E同舎弟六郎  長資
F藤新大夫     光高   
 「綾氏系図」には、D重次の名はありません。
その弟とされる「E長資」については、光高の父方の従兄弟に羽床六郎と称した長資がいて名前が一致します。その兄重資の名乗りは「藤次郎大夫」で、先の重次と名乗りが同じです。讃岐藤原氏の通字は「資」ですから、名簿リストの「重次」の「次」は「資」の誤りで「重資」と研究者は考えているようです。そうするとA資光から見ると兄重高の息子「重資」で、甥にあたります。
 藤氏の最後に記された「F藤新大夫光高」は、系譜にも記されていて、父の名乗りは「大野新太夫」とあります。

讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg

杵田荘四至膀示注文には、資員とともに国使を勤めた者に「散位藤原朝臣長知」がいます。
これが「綾氏系図」に「羽床六郎 長資」の子として出てくる長知のことでしょう。この家は綾南条郡の羽床郷を苗字の地としています。のち、建治二(1276)年10月19日の讃岐国宣に出てくる「羽床郷司」が、この一族にあたるようです。
最後の「F藤新大夫光高」は? 
「綾氏系図」に資光の兄で大野新大夫と称した有高の子に「新大夫光高」がいます。この人物だろうと坂出市史は考えています。大野郷は香東郡と三野郡にありますが、讃岐藤原(綾)氏の勢力範囲からすると、香東郡の大野郷が苗字の地なのでしょう。

大野郷
香東郡大野郷
源平合戦の時の綾氏の行動が「綾氏系譜」には、どのように反映されているのかを見ておきましょう。
「綾氏系譜」は、讃岐藤原氏の初代章隆は、母が綾貞宣の女子で、父が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子なので藤原姓を継いだと記します。実在が確かめられるのは、章隆の孫やひ孫の世代で、彼らは源氏方にいち早く馳せ参じることで、御家人の立場を得ることになります。これは、綾氏にとって非常に有利に働くことになります。それを体感した後世の子孫達は、源氏側についた祖先への感謝と、自分たちの功績を誇る意味でも、先祖を英雄化する系譜を作りだしたことが考えられます。その際に、結びつけられたのがかつての国守である藤原家成ということになります。

 綾姓から藤原姓への転換の背景をまとめておくと
①反平氏の立場にあった藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった
②古代の在庁官人から中世の武士団への脱皮
③讃岐武士団の中で源平合戦で、いち早く源氏方につき御家人となった祖先の顕彰と一族統合シンボル化
この系譜に綾氏の氏寺とされる法勲寺(飯山町)の流れをひく島田寺の僧侶達によってもうひとつの物語が付け加えられていきます。それが神櫛王の悪魚伝説です。古代綾氏は、讃岐国造となった神櫛王の子孫であり、源平合戦ではいち早く源頼朝の陣に馳せ参じた武士達という話がプラスされていきます。讃岐藤原氏の伝説がこうして一人歩きしていきます。
野三郎大夫高包の名乗りに見える「野」とは、小野・三野など「野」の字が付く姓の略称のようです。
『源平盛衰記』巻人の讃岐院事には、讃岐国へ配流された崇徳上皇は、まず「在庁一の庁官野大夫高遠」の堂へ入ったと記します。『保元物語』では、この堂を「二の在庁散位高遠」の松山の御堂とします。両者は同じもので、在庁官人の高遠の持仏堂のようです。なお、一とか、二の数字は、経験年数による順位を示すもので、在庁間の序列のようです。
在庁の「野大夫高遠」については、『古今讃岐名勝図絵』(国立国会図書館)の「蒲生君平来る」の項に掲げる寛政十二(1800)年、白峯寺に詣でた蒲生君平の「白峯縁起跛」に次のようにあります。
白峯寺に宿す、その住僧明公と一夜談話す、いささか憂いを写すなり、公実言として曰く、崇徳の南狩なり、伝うるに松山、野大夫高遠の所に三年を遂げおわす、高遠の世、すなわち林田氏なり、その家今に至り絶えず、事なお口碑を存ず、
意訳変換しておくと
白峯寺に宿泊し、住僧の明公と一夜話した。その時に住僧の話したことを書き留めておくと、崇徳上皇は松山の野大夫高遠の所で三年ほど生活した。高遠の家は林田氏で、その家は今も存続していて、そのことが伝えられている

ここでは、白峯寺の僧は野大夫高遠の子孫は林田氏であって今も続いていると君平に伝えています。
高遠については、「玉藻集」(『香川叢書』第二)にも次のように記されています。
「阿野の矢大夫高任 阿野郡林田の田令と云う。後白河院御宇と云々」

「讃岐国名勝図会』(国立公文書館DA)の鳴村正蓮寺の項には
「当寺は永正年中、沙門常清草創なり、常清は林田村在庁野大夫高遠が末葉なりという」

とあり、正蓮寺を創建した常清が高遠の子孫で、本領が林田村にあったことが記されます。
雲井御所
雲井御所の石碑と林田家
近世の林田氏については『古今讃岐名勝図絵』の雲井御所とその碑、林田の綾家の項にも見え、本姓は綾氏で、高遠の子孫とされています。生駒時代は林田村の小地頭で、松平頼重の人国の時には、林田太郎右衛門綾高豊が同村の大政所になったと伝えられます。
これらの伝承から、高遠の本姓は阿野(綾)氏のようです。名簿リストの「野二郎大夫高包」は、右の「野大夫高遠」と名乗りの一部と通字が共通しているから高速の一族、阿野(綾)氏の一人で林田郷を本拠としていた在庁官人と坂出市史は考えているようです。

橘大夫盛資 について
応徳元(1084)年12月5日の讃岐国留守所下文(東寺百合文書)などに讃岐在庁の橘氏の名があります。寛元元(1243)年2月、高野山の道範が讃岐国に流された際、守護代長尾氏から、一旦「鵜足津の橘藤衛門高能」という御家人のもとに預けられています(『南海流浪記』)。ここからは守護所が置かれていた宇多津周辺に橘氏がいたこと、高能が在庁官人系の御家人であったことがうかがえます。ここでも、京都に上ったグループの子孫は、御家人として守護所などの管理運営に携わり、地方支配機構を支える立場になっていたことが分かります。
三野首領盛資・三野九郎有忠・ 三野首領太郎・三野次郎一族と藤原純友の乱
「三野首領」とあるので、三野郡の郡司(大領)の流れをもつ者のようです。『南海通記』は、「信州綾姓記」の中で「讃州嶋田寺過去帳」を引用して、純友の乱と三野氏との関わりについて次のように記します。
純友の乱の際、伊予国諸郡の郡司とともに三野郡大領である綾高隼が純友軍に加わった。後に反逆の罪を糾正させられた際に罪を陳謝したため、死刑を許され信濃国小県に流された。
 さらに「通考」には、流された高隼の後には、当国の大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領となり、三野氏の祖となった。

  ここには純友の乱に参加した三野郡大領の綾高隼が更迭され、大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領(郡司)に就任したと記されます。そうだとすれば、三野氏も綾氏の一族だということになります。『南海通記』は後世の編纂書であり、戦記物でもあり誤りが多いことが指摘されています。そのままは信じられませんが、三野郡司になったのが綾大夫高親の末裔であったとすると、本家の綾氏と共に行動を共にして京都に上るのは納得がいく話です。三野氏も武装した在庁官人や郡司から成長した武士団であったようです。

仲(那珂)行事貞房について                
永久四(1116)年に讃岐国で、国衛が興福寺の仕丁(雑役夫)に乱暴を加えるという事件が起こります。興福寺の訴えで、国司・藤原顕能は停任され、目代以下国衛の官人など五人が禁獄されます。この官人の中に「検非違所散位貞頼・行事貞久」の名があります。
 この検非違所は国街の事務を分掌する「所」の1つで警察に当たるもので、行事は職務の担当者のことです。「仲行事貞房」の名乗りに見える「行事」は検非違所の行事のことで、かつ「貞」字を実名に用いていることから、貞房は、貞頼・貞久と同族と考えられます。
讃岐国で「貞」を通字とする一族は、多度郡の郡司綾氏です。
たとえば、久安元(1145)年12月日の善通・曼茶羅寺領注進状案には郡司として綾貞方の名があります。この文書の寺領は多度郡にあるので、貞方は多度郡の郡司になります。名簿リストの貞房については「仲行事」と称しているので、那珂(仲)郡の綾氏と考えられます。
 時代は下って、応永十二(1405)年10月29日の室町将軍家御判御教書写に細川頼之知行の欠所(没収地)のひとつに「讃岐国小松庄・同金武名」とあり「中(那珂)首領跡」と注記されています。ここが現在のどこに当たるのかは分かりませんが、小松の荘は現在の琴平一帯で、那珂郡に属します。「中(那珂)首領跡」とは武士化した那珂郡の首領郡司の館跡のことのようです。那珂郡でも多度郡と同じように、綾氏が首領郡司の地位に有り。国衙では検非違所を務めていたと坂出市史は記します。
大麻藤太家人  大麻藤太という武士の家人(家臣)です。
淡路福良の戦いでは、讃岐蜂起軍の130人が討ち死にしています。主人が討死した後も、行動を共にした家人でしょうか。大麻山の麓に式内社の大麻神社(善通寺市大麻町)があり、古代は忌部氏の拠点とされる所です。中世に、この周辺を本拠とする武士がいたようです。
以上、元暦元(1184)年に、讃岐から上京して源氏方に参加し、御家人と認められた武士たちを見てきました。名簿にリストアップされた讃岐武士達は、記録には残りませんが源範頼の軍に加わり、西海道の戦線に赴いたようです。源氏方に味方する讃岐の武士たちは、その後も増え、屋島合戦で源氏方戦ったようです。
讃岐国でも武士団が組織され、武家の棟梁のもと、より大きな武士団に組織されていくようになります。
その典型が綾氏を祖とするという讃岐藤原氏です。
讃岐の在庁官人については平安時代までは
讃岐国造の子孫と称する東讃の凡氏
空海を輩出した多度郡の豪族佐伯氏
など古代豪族の系譜を引くものが多いようです。阿野郡を本拠とする綾氏もその中のひとつでした。しかし、鎌倉以後は在庁官人としての綾氏の存在は突出した存在になっていきます。源平合戦まえの1056年に綾氏は、勘済使に任じられています。この職は、田地の調査あるいは官物の収納に関わる職です。「綾氏系図」(『続群書類従』)には、綾氏の先祖は押領使であったと記します。これは国内の兵を動員して凶徒を鎮圧する職で軍事警察機構の長です。綾氏が押領使となったのは、10世紀前半の藤原純友の乱の時と研究者は考えているようです。
春日神社神主の日記『春日神社祐賢記』永久四(1116)年五月十二日の記事には、讃岐国検非違使所の役人貞頼・貞久があります。彼らは綾氏の一族とみなされています。このように綾氏は、軍事・警察を担当する押領使・検非違使の地位を世襲的に継承していたようです。これは重要な意味を持ちます。武装蜂起を鎮圧する戦士としての地位をもとにして、綾氏は讃岐第一の武士団に発展していったことが考えられます。

先ほど見てきたように「綾氏系図」には、阿野郡の大領綾貞宣は、鳥羽法皇の近臣藤原家成が讃岐守となった時に、これに娘を入れ、生まれた子章隆は藤原氏を名乗って讃岐藤原氏の祖になったと記します。章隆の子資高は羽床郷を本拠として羽床氏を称し、さらにその子息たちは、
①香川郡大野郷を本拠とする大野氏
②阿野郡新居郷の新居氏
③香西郡の香西氏
などの諸家に分かれていきます。こうして讃岐藤原氏は、鎌倉時代以後は中・西讃に勢力を振るう武士団に成長していきます。
彼らは一族の結束を保つために、同族意識を高める祭礼などを行うようになります。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治
その一環として、後世に綾氏系譜が作られ、その巻頭を飾るのが島田寺の僧侶達が創作した神櫛王の悪魚退治伝説です。これらは、各氏寺や氏神の祭礼で社僧達が語り伝え、民衆にも広がっていきます。
 自らが神櫛王の子孫で、源平合戦の折には京都にいち早く源氏の御家人となったことは、武士の誉れでもあったでしょう。「寄らば大樹の陰」で、周辺の中小武士もこの伝説を受入て、讃岐藤原氏の一族であると称するものが出てきます。これは讃岐藤原氏の勢力の拡大にもなりますので、この動きを容認します。こうして「藤」を名乗る武士があそこ、ここに増えて系図に加えられていきます。
 ちなみに先ほど紹介した南海通記が綾氏の一族と紹介していた三野氏には、神櫛王伝説は伝わっていないようです。讃岐藤原氏の流れを引く一族は、「あすこも、ここも讃岐藤氏」とする傾向があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編 2020年
 

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

 

讃留霊玉の悪魚退治伝説が、どのように生まれてきたのか 

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古代寺院法勲寺跡の礎石を眺めるために讃岐富士の見える道を原付バイクを走らせていると・・
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讃留霊王(さるれお)神社が現れました。
ここに祀られている讃留霊王について、少し考えてみました。

讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 

讃留霊王とは、もともとは景行天皇の御子神櫛(かんぐし)王でした。
①彼が瀬戸内海で人々を困らせていた悪魚(海賊)を退治し、海の平和を取り戻します。
②しかし、その後も京に帰らず、宇多津に本拠を構えました。
③彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
④諱を讃留霊公というのは、京師に帰らず、讃岐に留まったからです。
⑤彼が讃岐の国造の始祖です。
さて、この話を作った人は何を一番伝えたかったのでしょうか。
それは、③と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。
讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
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この説話は、いつごろできたかのでしょうか?

話の中に瓦経という経塚の要素が見られることから平安末期と推定できます。その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
先祖を同じくする伝説のヒーローの下に、集い結束を深めるというのはいつの時代にも行われます。その頃に、この説話の骨格はできあがったのではないでしょうか。

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この説話が初めて書物となったのは、いつ頃でしょう

 天正一五年(一五八七)讃岐に入った生駒親正は、法勲寺(高田寺 現飯山町)の良純に帰依し、讃岐武士の始祖としての讃留霊王を再評価し顕彰します。そのための伝説のリメイクと書物化が行われます。それを担ったのが
法勲寺 → 嶋田寺 →  弘憲寺
の学僧ラインではないでしょうか。
法勲寺は親正の子一正の代になって飯山から高松西浜に移され、今の弘憲寺になります。その弘憲寺には、近世に描かれた立派な武士の姿をした讃留霊王の肖像画が伝えられています。讃留霊王を祀っていたことがうかがえます。
 こうして、生駒藩の新参の武土層にも悪魚退治の話と綾氏=讃留霊王の子孫という話は広がっていきます。

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江戸時代になると多少余裕が出てきますから、庶民の中にも悪魚退治の話を写して読む人が現れます。そのためかいくつかの讃留霊王説話の写本が残っています。戦前に編纂された『香川叢書』には、それらの説話集の何種類かが「讃留霊公胤記」として収められています。 現時点で成立年が判明しているものを年代順に並べてみると次のようにります。
1 承応元年 1652 年 友安盛貞 『讃岐大日記』
2 享保三年 1718 年 香西成資 『南海通記』 「讃留霊記」
3 享保二十年 1735 年 書写 嶋田寺本 「讃留霊公胤記」
4 明和五年 1768 年 菊池黄山 『三大物語』
5 文政十一年 1828 年 中山城山 『全讃史』綾君世紀 「霊王記」
6 安政五年 1858 年 丸亀藩京極家 『西讃府史』 
最も古いものでも、江戸時代を遡ることはないことがわかります。
つまり讃留霊王伝説のリメイク本は、近世以後に現れたと言うことがここからも分かります。

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讃留霊王説話に熱い思いを持ち続けた人たちが香西氏です。
香西氏は戦国の戦いの中で、生駒氏が来る前に滅びてしまっています。しかし、庶民としては生き続けていました。香西氏というのは讃岐藤原氏、すなわち綾氏の直系を自負する人たちなんです。香西氏の子孫、香西成資が享保四年(一七一九)に白峯寺に奉納した『南海通記』には「綾讃留王記」が入っています。同じ讃岐藤原氏の血を引く新居直矩が寛政四年(一七九三)に香西の藤尾八幡に奉納した『香四記』にも「讃州藤家香西氏略系譜」が入っていて、讃留霊王のことが出てきます。

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讃岐のローカルヒーローを全国的認知度に高めたのは誰?

 讃留霊王説話はあくまで讃岐独自の物語で全国的には殆ど知られていませんでした。この説話がもともとは地方武士である綾氏の先祖を飾るローカルな話であったことからして、当然なことです。
   しかし、全国的に認知される機会がやってきます
   本居宣長が「古事記伝」で、この讃岐独特の説話を次のように引用したのです。
「讃岐国鵜足郡に讃留霊王と云う祠あり。そは彼の国に古き書ありて記せるは、景行天皇廿二年、南海に悪き魚の大なるが住みて往来の船をなやましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て討ち平らげ給ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に讃留霊王と申し奉る。これ綾氏・和気氏等の祖なりと云うことを記したり。或いは此を景行天皇の御子神櫛玉なりとも、又は大碓命なりとも云ひ伝へたり。讃岐の国主の始めは倭建命の御子武卵王の由、古記に見えたれば武卵王にてもあらむか。今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、彼の国の事どもを記せる物に云えり」
 
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 何を見て書いたのかはわからないのですが、本居宣長は讃岐で書かれた悪魚退治の本を入手して、これを書いたのでしょう。宣長が「古事記伝」で引用したことで、讃留霊王説話は全国の知識人に知られることになります。そして、明治にかけてその認知度をアップさせていきます。
   宣長の記述から次のような事が分かります
(1)讃岐に讃留霊王という祠があること。
(2 『讃留霊記』という古書があること。 
(3)倭建命の御子が讃岐に来て悪しき魚を退治し、讃留霊王と呼ばれたこと。
(4)讃留霊王は神櫛王・大碓命・武卵王の諸説があること。
(5 「讃留霊」は後の当て字で 「さるれい」の 意味は不明であること。
こうして戦前の皇国史観においては、讃留霊王は郷土の英雄として故郷学習などにも登場し、知らない人がいませんでした。そういう讃留霊王信仰の高まりの中で、元々は、八坂神社の中にあった祠が讃留霊王の古墳とされる上に建立されたのでしょう。

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