瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐藤原氏

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牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説


参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

  香西氏については、戦国末期に惣領家が没落したために確かな系譜が分からなくなっています。
百年以上後に、一族の顕彰のために編纂されたのが『南海通記』です。
史籍集覧 南海治乱記・南海通記 全12冊揃(香西成資) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
南海通記
そこには香西氏は応仁の乱後には、在京した上香西と在国した下香西とに分かれたと記します。ところが、南海通記に出てくる香西氏歴代の名は、確かな古文書・古記録出てくる名前と、ほとんど一致しません。それは残された系図も同じです。
香西氏系図
香西氏系図(玉藻集1677年)

「南海通記」は百年後に書かれた軍記もので、根本史料とはできないものです。しかし、頼るべき史料がないので近代になって書かれた讃岐郷土史や、戦後の市町村史は「南海通記」を史料批判することなく、そのまま引用して「物語郷土史」としているものが多いようです。そのため南海通記の編纂意図の一つである「香西氏顕彰」が全面に押し出されます。その結果、戦国史では長宗我部侵攻に対する「讃岐国衆の郷土防衛戦」的な様相を呈してきます。そこでは侵攻者の長宗我部元親は、悪役として描かれることになります。

 そのような中で、高瀬町史などで秋山文書や毛利文書など根本史料との摺り合わせが進むと、『南海通記』の不正確さが明らかになってきました。阿波勢の天霧城攻撃や元吉城攻防戦も、「南海通記」の記述は誤りでありとされ、新たな視点から語られるようになってきました。そのような中で求められているのが、一次資料に基づく精密な香西氏の年譜です。そんな中で南海通記に依らない香西氏の年譜作成を行った論文に出会いましたので紹介しておきます。
 テキストは、「香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年」です。これは、1987年度に香川大学へ提出したある生徒の卒業論文「室町・戦国初期における讃岐国人香西氏について」の作成のために収集・整理した史料カードをもとに、指導教官であった田中健二がまとめたものです。この作業の中では、『南海通記』や「綾氏系図」等の後世の編纂物の記事は、排除されています。どんな作業が行われ、どんな結果になったのでしょうか。見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏系図   

古代豪族の綾氏が武士団化して、讃岐藤原氏に「変身」します。
これについては以前にお話ししましたので省略します。讃岐藤原氏は総領家の羽床氏の下に、大野氏・新居氏・綾部氏が別れ、その後に香西氏が登場すると南海通記は記します。それを系図化したものが上のものです。この系図と照らし合わせながら香西氏年譜の史料をみていきます。

史料で香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期に活動する香西彦三郎です。
1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。
讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg
綾氏系図 史料に出てくる人名と合わない

例えばウキには南海通記を下敷きにして、香西氏のことが次のように記されています。

① 平安時代末期、讃岐藤原氏二代目・藤原資高が地名をとって羽床氏を称し、三男・重高が羽床氏を継いだ。次男・有高は大野氏、四男・資光は新居氏を称した。資高の子の中でも資光は、 治承7年(1183年)の備中国水島の戦いで活躍し、寿永4年(1185年)の屋島の戦いでは、源義経の陣に加わって戦功を挙げ、源頼朝から感状を受けて阿野郡(綾郡)を安堵された。

鎌倉時代の承久3年(1221年)の承久の乱においては、幕府方に与した新居資村が、その功によって香川郡12郷・阿野郡4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓に佐料館、その山上に詰めの城・勝賀城を築いた。そして姓を「香西氏」に改めて左近将監に補任された。一方、後鳥羽上皇方についた羽床氏・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の傘下に入った。

しかし、南北朝以前の史料の中には「香西」という武士団は出てこないことを押さえておきます。また承久の乱で活躍した新居資村が香西氏に改名したことも史料からは裏付けることはできません。

香西氏系図3
           讃州藤家香西氏略系譜
次に史料的に登場するのは、丹波の守護代として活動する香西入道(常建)です。彼の史料は以下の通りです。

4 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

5 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。
 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
6 同年12月8日
 管領細川満元、法楽和歌会を催し、百首及び三十首和歌を讃岐国頓澄寺(白峰寺)へ納める。百首和歌中に香西常建・同元資の詠歌あり。(「白峯寺文書」『大日本史料』第七編之二十、434P)

7 応永23年(1416)8月23日
  丹波守護代香西入道常建、同国大山荘領家方の後小松上皇御所造営段銭を免除し、催促を止めることを三上三郎左衛門尉に命ずる。 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之二十五、30P)
8 応永27年(1420)4月19日
丹波守護細川満元、同国六人部・弓削・豊富・瓦屋南北各荘の守護役免除を守護代香西豊前入道常建に命ずる。(「天竜寺重書目録」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

9 応永29年(1422)6月8日
 細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」  (「康富記」『増補史料大成』本、1巻176P)
意訳変換しておくと
 聞き及ぶ。細河右京大夫内者 香西今日死去すと云々。丹波国守護代なり。六十一と云々。

以上が香西常建の史料です。
資料9で死去した香西氏とは資料7から香西入道と呼ばれていた常建であったことが分かります。資料5で即位段銭の催促停止するよう命じられている香西豊前入道も常建のようです。常建は、資料6では、細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に列席し、白峯寺所蔵の松山百首和歌に二首が載せられています。このとき、常建とともに一首を詠んでいる元資が、のちに丹波守護代として名の見える香西豊前守元資になるようです。両者は、親子が兄弟など近親者であったと研究者は考えています。
 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。しかし、その中には香西氏はいません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
讃岐生え抜きの武士であった香西氏が、どうして畿内で活動するようになったのでしょうか。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
そのきっかけとなったのが、香西常建が細川頼之に仕えるようになったからのようです。細川頼之は、観応の擾乱で西国において南朝方の掃討に活躍しました。その際に京都の政争で失脚して南朝方に降り、阿波へと逃れた従兄・清氏を討伐します。この結果、細川家の嫡流は清氏から頼之へと移りました。そして細川家は頼之の後は、本宗家と阿波守護家に分かれます。
家系図で解説!細川晴元は細川藤孝や三好長慶とどんな関係? - 日本の白歴史

①本宗家 
頼元が継いだ本宗家は「右京大夫」を継承して「京兆家」  京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヶ国守護を合わせて継承

②庶流家 
詮春が継いだ阿波守護家は代々「讃岐守」の官途を継承して「讃州家」は和泉、淡路、阿波、備中の各国を継承

阿波守護家が「讃州家」とよばれるのがややこしいところです。

細川家の繁栄の礎を築いたのが細川頼之です。
香西常建は頼之の死後も後継者の頼元に仕えます。細川氏が1392(明徳3)年に「明徳の乱」の戦功によって山名氏の領国だった丹波の守護職を獲得すると、1414(応永21)年には小笠原成明の跡を継いで丹波守護代に補任されました。
香西氏 丹波守護代
丹後の守護と守護代一覧表(1414年に香西常建が見える)
1422年6月8日条には「細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」とあり、常建は61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家の元で一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたのです。
 ここで注意しておきたいのは、細川氏は管領職のために在京しています。そのため細川家の各国の守護代達も、同じように在京し、周辺に集住していたということです。香西氏が実際に丹後に屋形を構えて、一族が出向いていたのではないようです。
次に登場してくるのが常建の近親者と考えられる香西豊前守元資です。
10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 
以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、守護代の役目を果たしている常建の姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、守護代であったことが確認できます。
そして資料14の丹波守罷免記事です。
細川満元のあと丹波守護となっていた子の持之は、醍醐寺三宝院の満済を介して、将軍足利義教に丹波守護代交代の件を願い出ています。『満済准后日記』当日条を見ておきましょう。

右京大夫(持之)来臨す。丹波守護代、内藤備前人道たるべきか。時宜に任すべき由申し入るなり。(中略)右京大夫申す、丹波守護代事申し入るる処、この守護代香西政道以っての外正体なき間、切諫すべき由仰せられおわんぬ。かくのごとき厳密沙汰もっとも御本意と云々。しかりといえども内藤治定篇いまだ仰せ出だされざるなり。

意訳変換しておくと
右京大夫(細川持之)が将軍義教を訪ねてやってきた。その協議内容は丹波守護代を、香西氏から内藤備前人道に交代させるとのことだった。(中略)それに対して将軍義教は香西氏は「もってのほかの人物で、失政を責め、処罰するよう命ずるべきとの考えを伝えた。このため守護代の交代については承認しなかった。
しかし、翌年5月には、香西政道に代わって内藤備前入道が丹波国雀部庄と桑田神戸田について遵行状を出しています。ここからは、守護代が香西氏から内藤氏への交代したことが分かります。香西氏罷免の原因は、永享元年の丹波国一揆を招いた原因が元資にあったと責任を取らされたと研究者は考えています。ここでは、香西元資は失政のために丹波守護代を罷免されたことを押さえておきます。

南海通記は「香西備後守元資」を「細川家ノ四天王」として紹介します。
しかし、その父の常建については何も触れません。元資が丹波守護代であったことも記されていません。その理由について、「常建が傍系の出身であったか、あるいは『南海通記』を記した香西成資が先祖に当たる元資の不名誉に触れたくなかったのではないか」とする説もあります。
 南海通記に、最初に出てくるのは香西氏は香西元資からです。そして丹波守護代であった彼を、「備後守」と誤記します。ここからも南海通記は基本的情報が不正確なことが多いようです。通記の著者には、香西元資以前のことを知る資料は、手元にはなかったことがうかがえます。
この時期には、讃岐でも別の香西氏が活動していたことが次のような資料からうかがえます。
15 1431年9月6日
香西豊前入道常慶、清水坂神護寺より寺領讃岐国坂田郷の年貢未進を訴えられる。この日、幕府は神護寺の主張を認め、「其の上、彼の常慶においては御折檻の間、旁以て御沙汰の限りにあらず」として、常慶の代官職を罷免し寺家の直務とする判決を下す。 
16 嘉吉元年(1441)10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父死去する。(「仁尾賀茂神社文書」県史116P

17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門所見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)


資料16からは「香西豊前の父」が死去したことが分かります。この人物が資料15に登場する常慶だと研究者は判断します。香西氏のうち、讃岐系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。この系統の香西氏は、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。時期からみてこの香西豊前入道は、仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。
 また資料16からは、当時の仁尾浦代官は香西豊前常慶であったこと、そして父も浦代官として、仁尾の支配を任されていたことが分かります。以前にお話ししたように、細川氏の備讃瀬戸制海権確保のために、塩飽と仁尾の水軍や廻船の指揮権を香西氏が握っていたことが裏付けられます。17は、それに対して仁尾浦の神人達の自立の動きであり、その背後には西讃守護代の香川氏が介入がうかがえます。
   以上からは、15世紀に香西氏には次の二つの流れがあったことを押さえておきます。
①丹波守護代として活動していた豊前守(元資)
②讃岐在住で、仁尾の浦代官など細川氏の瀬戸内海戦略を支える香西氏
以上をまとめておくと
①香西氏が史料に登場するのは南北朝時代に入ってからで、守護細川顕氏に従った香西彦三郎が、建武4 年(1337)に財田凶徒の蜂起鎮圧を命じられているのが初見であること
②観応の擾乱期には、四国での忠節を足利義詮から賞されていること
③その後、香川郡坂田郷の代官を務め、阿野郡陶保・南条山西分の代官職を請け負っていること。
④さらに香西浦を管理するとともに、細川氏の御料所仁尾浦の代官を務めるなど、細川氏の瀬戸内海航路の制海権支配の一翼を担っていたこ
⑤15世紀前半には、細川京兆家分国の1つである丹波国の守護代を務めていたこと
しかし、南海通記には香西氏の祖先が登場するのは、⑤以後で、それ以前のことについては江戸時代には分からなくなっていたことがうかがえます。

今回はここまでにします。以下は次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年
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中世の多度郡の郡司を綾氏の一族が務めていた史料があります。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

弘安三年(1280)、善通寺の本寺随心院の政所が善通寺一円保の寺僧や農民たちに発した下知状です。

随心院下知状(1280)
書き下し文は
随心院政所下す、讃岐國善通寺一円寺僧沙汰人百姓等
右営一円公文職は、大師御氏人郡司貞方の末葉重代相博し来る者也。而るに先公文覺願後難を顧りみず名田畠等或は質券に入れ流し或は永く清却せしむと云々。此条甚だ其調無し。所の沙汰人百姓等の所職名田畠等は、本所御進止重役の跡也。而るに私領と稀し自由に任せて売却せしなるの条、買人売る人共以て罪科為る可き也。然りと雖も覺願死去の上は今罪科に処せらる可きに非ず。彼所職重代相倅の本券等、寺僧真恵親類為るの間、先租の跡を失うを歎き、事の由を申し入れ買留め畢んぬ。之に依って本所役と云い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば、彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。活却質券の名田畠等に於ては皆悉く本職に返付す可し。但し買主一向空手の事不便烏る可し、営名主の沙汰と為して本錢の半分買主に沙汰し渡す可き也。今自り以後沙汰人百姓等の名田畠等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科篤る可き也。寺家
沙汰人百姓等宜しく承知して違失す可からずの状、仰せに依って下知件の如し。
弘安三年十月廿一日       上座大法師(花押)
別営耀律師(花押)        上座大法師
法 眼
意訳変換しておくと
一円保の公文職は、弘法大師の氏人である郡司綾貞方の子孫が代々相伝してきたものである。ところが先代の公文覚願は勝手に名田畠を質に入れたり売却したりした。これは不届きなことである。所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。
 しかし、覚願はすでに死亡しているので、今となっては彼を処罰することはできない。それに公文職相伝の本券=基本証書は、寺僧の真恵が公文の親類として先祖伝来の所職が人手に渡るのを歎いて買いもどした。そして公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。覚願が売却したり質入れしたりした名田畠は、公文職に付随するものとして返却しなければならない。しかし、買手が丸損というのも気の毒だから、当名主(現在の名主)として代銭の半分を買主に渡すようにせよ。今後沙汰人、百姓等の名田畠を勝手に売買することは固く禁止する

ここからは次のようなことが分かります。
①善通寺一円保の公文職は、代々に渡って多度郡司の綾貞方の子孫が務めてきたこと
②綾氏一族の公文職覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので彼を罷免したこと
③そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻したので、代わって公文に任じた
冒頭に出てくる「大師の氏人郡司貞方の末裔」とは 、平安末期に多度郡司であった綾貞方という人物です。
綾氏は讃岐の古代以来の豪族で、綾郡を中心にしてその周辺の鵜足・多度・三野郡などへの勢力を伸ばし、中世には「讃岐藤原氏」を名乗り武士団化していた一族です。彼らが13世紀には、佐伯氏に代わって多度郡の郡司を務めていたことが分かります。彼らは多度郡に進出し、開発領主として成長し、郷司や郡司職をえることで勢力を伸ばしていきます。
 さらに、この史料には「公文職の一族である寺僧眞恵」とあります。
ここからは寺僧真恵も綾氏の一族で、公文職を相伝する有力な立場の人物だったことが分かります。真恵は、ただの寺僧ではなく、先の公文が失った田畠をすべて買い戻すほどの財力の持主であり、一円保の役人の首である公文に任命されています。つまり真恵は、寺僧であるとともに、綾氏という有力武士団の一族に属し、地頭仲泰と対峙できる力を持っていた人物だったことを押さえておきます。

 綾氏は、讃岐の古代からの有力豪族です。
綾氏は平安末期に阿野郡郡司綾貞宜(さだのり)の娘が国主藤原家成(いえなり)の子章隆(あきたか)を生みます。その子孫は讃岐藤原氏と称して、香西・羽床・福家・新居氏などに分かれて中讃に勢力を広げ、讃岐最大の武士団に発展していました。また、源平合戦では、平家を寝返っていち早く源頼朝について御家人となり、讃岐国衙の在庁役人の中心として活躍するようになることは以前にお話ししました。一族は、綾郡や鵜足郡だけでなく、那珂・多度・三野郡へも勢力を伸ばしてきます。その中で史料に出てきた綾貞方は、多度郡司でもあり、善通寺一円保の公文職も得ていたことになります。この綾貞方について、今回は見ていくことにします。テキストは 「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領 411P」です。

先ほどの史料冒頭「一円公文職者大師御氏人郡司貞方之末葉重代相博来者也」とある部分を、もう少し詳しく見ていくことにします。
「公文」とは文書の取扱いや年貢の徴収などにあたる荘園の役人です。善通寺の公文には、郡司綾貞方の子孫が代々この一円保の公文職に任ぜられていることが分かります。そして、その貞方が初代公文のようです。しかし、この時期には、一円領はまだ寺領として確定せず、基本的には国衙支配下にあったはずです。だとすると貞方を一円領の公文に任じたのは国衙ということになります。貞方は、荘園の公文と同じように、国衙の特別行政地域となった一円寺領の官物・在家役の徴収をまかされ、さらに地域内の農民の農業経営の管理なども行った人物と研究者は考えています。
「郡司貞方」とあるので、多度郡司でもあり「一円保公文」職は、「兼業」であったことが推測できます。
もし、貞方が一円地の徴税権やは管理権を国衙から与えられていたとすれば、彼の次のねらいはどんな所にあったのでしょうか。つまり、一円保を国衙や本寺随心院から奪い、自分のものにするための戦略ということになります。直接それを示している史料はないので、彼のおかれていた状況から想像してみましょう。
綾貞方は古代讃岐豪族綾氏の一族で、多度郡の郡司でもありました。
この時代の他の多くの新興豪族と同じ様に、彼も律令制の解体変化の中で、有力領主への「成長・変身」をめざしていたはずです。
 まず一円領内の彼の置かれていた立場を見ておきましょう。
①在家役を負担しているので、彼の田畠は他の農民と同じく国衙から官物・雑役を徴収されていた
②公田請作のほかに、先祖伝来の財力と周辺農民への支配力を利用して未開地を開発して所領に加えていた
②多度郡郡司として、行政上の権力や特権的所領も持っていた
しかし、これらの権限や特権を持っていたとしても国衙からの支配からは自立できません。新興有力者と国衙の関係は、次のような矛盾した関係にあったのです。
①一方では国衛から与えられた権限に依拠しながら領主として発展
②一方では国衙の支配下にある限り、その安定強化は困難であること

①については貞方が、徴税権と管理権を通じて領域農民を掌握できる権限を与えらたことは、彼の領主権の確立のためにの絶好の手がかりになったはずです。しかし、この権限は永続的なものではなく不安定なものでした。例えば、国司交代で新たな国司の機嫌を損なうようなことをすれば、すぐに解任される恐れもあります。
では権力の不安定さを克服するには、どうすればいいのでしょうか。
それは善通寺と協力して一円寺領地を国衙支配から切り離し、その協力の代償として寺から改めて一円公文に任命してもらうことです。その時に、それまでの権限よりも、もっと有利な権限を認めさせたいところでしょう。
 このように綾貞方とその子孫たちは、徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいたようです。 別の視点から見ると、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったとも云えそうです。だから公文職について覚願は、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。


善通寺の寺領
善通寺一円保と周辺郷名

公文職の綾氏の領主化にピリオドを打つ人物が真恵です。
真恵が公文職に就いてから12年後の正応五年(1292)3月に、善通寺から六波羅探題へ地頭の押領に関する訴状が出されています。
訴訟相手は、良田荘の地頭「太郎左衛門尉仲泰良田郷司」です。彼は良田郷の郷司でもあったようです。仲泰が後嵯峨法皇御菩提料や仏への供物などに当てるための多額の年貢を納めずに、「土居田(どいでん)と号して公田を押領す」とあります。仲泰は「土居田=直属の所領」と称して一般の農民の田地を奪っていたようです。善通寺は、その不法を訴えますが、六波羅の奉行の阿曽播磨房幸憲と地頭仲泰と結託していて、寺領侵害を長年にわたって止めることはできませんでした。
このような寺領紛争に、のり出しだのが綾氏出身の真恵でした。
 先ほど見たように真恵は、弘安三年(1280)十月に善通寺一円保の公文職についた人物です。当時の彼は善通寺大勧進になっていました。大勧進というのは堂塔の造営や修理、寺領の管理など寺院の重事にその処理の任に当たる臨時職です。大勧進の職についた真恵は、その職権を持って地頭の仲泰と交渉を進め、永仁六年(1298)に、良田郷を下地中分することにします。
  下地中分(しもちちゅうぶん)というのは、荘園の土地を荘園領主と地頭とで折半し、それぞれの領有権を認めて互いに干渉しないことにする方法です。荘園領主としては領地の半分を失うことになりますが、そのまま地頭の侵害が進めば荘園は実質的に地頭の支配下に入ってしまうかもしれません。それを防いで半分だけでも確保したいという荘園領主側の意向から行われた処置でした。
 善通寺が地頭仲泰の荘園侵害を防ぎきれず、下地中分をせざるを得なかったのは、結局善通寺が荘園に対して地頭に対抗できるだけの支配力を持たなかったからだといえます。したがって寺の支配力の強化が計られなければ、下地中分後の寺領もまた在地武士の侵害を受ける可能性があります。一円保公文として荘園管理の経験があり、また彼自身在地領主でもあった真恵は、そのことを痛感したのでしょう。
そこで真恵が計画した中分後の寺領支配の方法は次のようなものでした。大勧進真恵寄進状(A・B通)に、次のように記されています。

大勧進真恵寄進状A.
大勧進真恵寄進状A

意訳変換しておくと
(地頭との相論で要した訴訟費用)一千貫文は、すべて真恵の私費でまかなったこととにする。その費用の代として、一町別五〇貫文、一千貫文分二〇町の田を真恵の所有とする。そのうえで改めてその田地を金堂・法華堂などに寄進する。その寄進の仕方は、金堂・法華堂の供僧18人に一町ずつの田を配分寄進し、町別に一人の百姓(名主)を付ける。残りの2町については、両堂と御影堂の預僧ら3人に5段ずつ、合わせて1町5段、残る5段は雑役を勤める下級僧侶の承仕に配分する。別に2町を大勧進給免として寄進する

大勧進真恵寄進状B
大勧進真恵寄進状B

真恵寄進状とありますが、その実態は「大勧進ならびに三堂供僧18人口、水魚の如く一味同心せしめ、仏法繁栄を専らにすべし」とあるように、田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする「善通寺挙国(寺)一致体制」作りにほかなりません。真恵が訴訟費用の立替分として自分のものとし、次いで善通寺に寄進した土地は、中分で得たほとんどすべてです。このようなもってまわった手続きを行ったのは、新しい支配体制が、それまでの寺僧の既得権や名主百姓の所有権を解消して再編成するものであったことを著しています。普通の移行措置では、今まで通りで善通寺は良くならないという危機意識が背景にあったかもしれません。真恵の考えた「寺僧による集団経営体制」ともいえるこの体制は、当時としてはなかなかユニークなものです。

「B」の冒頭の「眞惠用途」とは 、大勧進としての真恵の用途(=修理料)を指すと研究者は考えています。内容を整理すると、
① 大勧進の真恵が良田郷の寺領について、地頭との間で下地中分を行ったこと
②その際に領家分となった田畠2町を供僧等に割り当てたこと
③それに加えて、寺僧中二人の學頭とも断絶したときには 、大勧進沙汰として修理料とすること
④Aとは別に良田郷内の2 町の田畠を大勧進給免として配分すること
⑤大勧進職には自他の門弟の差別をせずに器量のあるものを選ぶこと
⑥適任者がいないときには 「二十四口衆」の沙汰として修理料とすること

   以上のように、真恵は綾氏出身の僧侶で、寺院経営に深く関わり、地頭と渡り合って下地中分なども行える人物だったことが分かります。現在の我々の「僧侶」というイメージを遙かに超えた存在です。地元に有力基盤をもつ真恵のような僧が、当時の善通寺には必要だったようです。そういう目で見ると、この後に善通寺大勧進として活躍し、善通寺中興の祖と云われる道範も、櫛梨の有力者岩崎氏出身です。また、松尾寺を建立し、金比羅堂を建てた宥雅も西長尾城主の弟と云われます。地方有力寺院経営のためには、大きな力を持つ一族の支えが必要とされたことがうかがえます。
大勧進職の役割についても、見ておきましょう。
 Bの冒頭には「大勸進所者、堂舎建立修理造營云行學二道興行云偏大勸進所可爲祕計」とあります。ここからは伽藍修造だけでなく、寺院経営までが大勧進職の職掌だったことがうかがえます。Aでみたように、下地中分や、供僧への田畠を割り当てることも行っていることが、それを裏付けます。

 B によって設定された大勧進給免田畠2町は、観応3年(1352)6月25日の誕生院宥範譲状で 「同郷(良田郷)大勸進田貳町」と出てきて、宥源に譲られています。善通寺の知行権を伴う大勧進職の成立は、真恵譲状の永仁6年から始まると研究者は考えています。

 しかし、真恵がめざした「大勧進+寺僧集団」による良田荘支配は、本寺随心院の干渉によって挫折します。
真恵のプランは、随心院からみれば本寺の権威を無視した末寺の勝手な行動です。そのまま見逃すわけにはいきません。末寺善通寺と本寺随心院との良田荘をめぐる争いは徳治2年(1306)まで約10年間続きます。
TOP - 真言宗 大本山・隨心院

随心院は、摂関家の子弟が門跡として入る有力寺院です。
善通寺の内にも真恵の専権的なやり方に不満を持った僧がいたのでしょう。争いは次第に善通寺側に不利になっていきます。結局、真恵の行った下地中分は取り消され、良田荘は一円保と同じように随心院を上級領主とする荘園になったようです。真恵による寺領経営プランは、本所随心院の圧力により挫かれたことになります。そして、真恵は失脚したようです。

以上をまとめておくと
①古代讃岐の有力豪族であった綾氏は、鵜足郡や阿野(綾)郡を拠点にして、その勢力を拡大した。
②西讃地方でも、中世になると那珂郡・多度郡・三野郡などで綾氏一族の末裔たちの動きが見えるようになる。
③13世紀末の史料からは、綾定方が多度郡の郡司で、善通寺一円保の公文職を務めていたことが分かる、
③綾貞方の子孫は、その後も善通寺一円保公文職を務めていたが、覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので罷免された。
④そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻し、公文に就任した
⑤それから18年後に真恵は、善通寺大勧進となって良田荘の地頭と渡り合って下地中分を成立させている。
⑥そして田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする体制造りをめざした
⑦しかし、これは本寺随心院の支持を得られることなく、真恵は挫折失脚した。

ここからは、中世には綾氏の武士団化した一族が多度郡に進出し、多度郡司となり、善通寺一円保の公文職を得て勢力を拡大していたことがうかがえます。そして、その中には僧侶として善通寺大勧進職につきて、寺院経営の指導者になるものもいたようです。善通寺など地方有力寺院は、中世には、このような世俗的な勢力の一族を取り込み、寺院の経済基盤や存続を図ろうとしていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山之内 誠  讃岐国善通寺における大勧進の性格について 日本建築学会計画系論文集 第524号.,305−310,1999年
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源頼朝は、源義経・源行家の追捕のために、配下の御家人を全国にわたって守護・地頭に任ずることを、後白河法皇へ願い出てて許可されます。これによって次の二点が実現します。
①頼朝と御家人との私的な主従関係が、公的なものとして認められたこと
②東国だけでなく全国的に鎌倉幕府の勢力が及ぶようになったこと
守護は、有力御家人を国ごとに任じ、国内の御家人への大番役(京都の警固)の催促、謀叛人・殺害人の逮捕などの軍事・警察権を握っていました。地頭は、公領・荘園ごとに置かれ、年貢の徴収・上地の管理などに携わっていました。言うなれば「警察署長 + 税務署長」のようなものです。
義時を討て」後鳥羽上皇の勝算と誤算 承久の乱から武士の世に:朝日新聞デジタル

鎌倉幕府の成立によって「二重政権」のようになって、朝廷の政治的地位は低下します。
その勢力回復を、あの手この手で試みるのが後鳥羽上皇です。それは、源頼朝の死後に頻発する有力御家人の謀叛によって生じた隙をつくものでした。承久元年(1219)正月に三代将軍源実朝は、頼家の子公暁に暗殺されます。このとき幕府では、北条義時が執権となって幕府の実権を握り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとします。上皇はこれを許さず、このため頼朝の遠縁にあたる藤原道家の子頼経を四代将軍に迎えて、幕府の体制を固めます。この事態に対し後鳥羽上皇は、承久3年5月に京都守護伊賀光季を討って、北条義時追討の院宣を発します。幕府は直ちに北条泰時・時房に挙兵上京を命じ、翌月には幕府軍は、京都で御鳥羽上皇の軍勢を鎮圧します。この結果、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上率は土佐へと配流されます。
承久の乱2

この承久の乱に際し、讃岐で鳥羽上皇を支援する側に回ったのが讃岐藤原氏(綾氏)一族です。
讃岐藤原氏の統領、羽床重資の子羽床兵衛藤大夫重基は後鳥羽院側に味方したため、その所領は没収されています。(「綾氏系図」)。また綾氏の嫡流である綾顕国も羽床重員とともに院側に味方したとされます(『全讃史』)。讃岐では讃州藤家の嫡流である羽床重基と、綾氏の嫡流たる綾顕国が、後鳥羽上皇方についたようです。
一方、幕府側についたことが明らかなのは、藤家一族の香西左近将監資村です。
資村は、その忠節により香川郡の守護職に補せられたと云います。(『南海通記』)。しかし、これは守護に代って任国に派遣される守護代の下の守護又代になったにすぎないと『新修香川県史』は指摘します。
イラストで学ぶ楽しい日本史
承久の乱の前と後
一方、承久の乱で院方についた武士として、東讃地域の武士は出てきません。これをどう考えればいいのでしょうか? 
その背景は、源平合戦当時に東讃に勢力をもっていた植田氏一族が、平氏の傘下にあったこがあるようです。植田氏の基盤とした東讃地域は平家方についたために、鎌倉幕府から「戦犯」扱いされ、強い統制下にあったことが考えられます。それが「反鎌倉」の動きを封じ込まれることになったというのです。

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南海通記と南海治乱記
 この点について『南海通記』は、承久の乱後に橘公業が関東の目代として三木郡に居住することになり、東讃四郡の守護になったと記します。しかし、東讃四郡だけの守護はあり得ないし、橘公業が三木郡に住んだという史料はありません。公業は嘉禎二年(1326)2月まで伊予国宇和郡を本拠地としていることが『吾妻鏡』には記されています。南海通記は、後世に書かれた軍記もので「物語」です。史料として無批判に頼ることはできないことが「秋山家文書」などからも明らかにされています。
讃岐 鎌倉時代の地頭一覧表

讃岐の鎌倉時代の地頭一覧表
讃岐の地頭の補任地として、現在17か所が明らかになっています。
  承久の乱後、勝利した鎌倉幕府は後鳥羽上皇に与した貴族(公家)や京都周辺の大寺社の力をそぐために、その荘園に新たに地頭を置きます。これを新補地頭(しんぽじとう)と呼びます。上の表を見ると分かるように、1250年代以前に置かれたことが史料で確認できる地頭職6つのうちで、承久の乱後に地頭が補任されたのは次の4ヶ所です。
法勲寺領・櫛梨保・金蔵寺領・善通寺領

地域的に見ると丸亀平野に集まっています。金蔵寺領は、間違って地頭が置かれたようですが、残りの三か所では、その地域に勢力を持つものが院方に味方したために没収されて、その所領に新たに地頭が任命されたことが考えられます。ここからは綾氏一族の綾顕日、羽床重基だけでなく丸亀平野の武士たちの多くが院方に味方していたことがうかがえます。彼らは、羽床重基に率いられた藤家一族だったことが推測できます。これが承久の乱後の地頭補任が、丸亀平野に限られていることと深く関係しているようです。

讃岐藤原氏系図1
讃岐藤原(綾)氏の系図

それならば、院側についた綾氏一族は、乱後に国府の在庁官人群から一掃されたたのでしょうか?
建長8年(1256)の史料には、讃岐の在庁官人として、新居藤大夫資光の孫の新居刑部次郎資員と重晨の従兄弟の羽床藤大夫藤四郎長知の名があります。院方に味方したと思われる羽床氏や新居氏の一族が、従来に在庁官人の地位にとどまっていることが分かります。
その理由として研究者は次のように考えています。

「院方に味方したということで、藤家一族を讃岐の国衛から排除すると、讃岐の支配を円滑に行えないために、在地で大きな勢力をもっていた藤家一族に依存せざるを得なかった

藤家一族は、承久の乱も讃岐の国衛で重要な地位に就いていたようです。
羽床城 - お城散歩
羽床城跡
以上をまとめておくと
①源平合戦の際に、讃岐綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏は平家を裏切って、いち早く源氏方の御家人となり、鎌倉幕府の信頼を得て、その後の讃岐国衙の在庁役人として重要な役割を果たすようになった
②承久の乱では、讃岐藤原氏の主流派は後鳥羽上皇に味方し、乱後に所領の多くを失った。
③乱後に新補地頭がやって来た荘園は丸亀平野に多いので、讃岐藤原氏主流派の配下にあったのが丸亀平野周辺の武士団であし、彼らが「戦犯」としてと所領没収されたこと
④東讃は、源平合戦の際に平家方に味方し、その後に鎌倉幕府の「戦後処理」が厳しかったために後鳥羽上皇側に味方する武士団は現れなかったこと
⑤しかし、乱後も後鳥羽上皇を支援した新居氏や羽床氏の子孫は在庁役人としてとどまっていること、
ここからは、承久の乱を契機に羽床氏などの讃岐藤原氏の主流派が国衙から一掃され、それに代わって讃岐藤原氏の惣領家が香西氏に移行したとは云えないようです。 ここでも「南海通記」の見直しが求められています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図 (系図前に載せられているのが神櫛王の悪魚退治)

古代の綾氏の系譜をひくとされる讃岐藤原氏は讃岐の武士の中で最大の勢力を持っていたとされます。それは讃岐藤原氏が、いち早く源頼朝の御家人となったことに要因があることを前回は見てきました。今回は、源氏の御家人となった人々のリストを「綾氏系図」を見比べながら、見ていきたいと思います。

源平の戦いが始まる前の讃岐の情勢を見ておきましょう。
讃岐国司一覧表12世紀
院政期の讃岐国守一覧(坂出市史)
上の表で確認したいことは、次の点です

讃岐藤原氏の蜂起

①保延四(1138)年頃、藤原家成が讃岐国を知行した後は、清盛がクーデターを起こす1179年まで30年近くにわたって、家成とその一族が讃岐国の国務を執っていたこと
②「国主 藤原家成一族 → 目代 橘公盛・公清父子 →  在庁官人 綾氏一族」という支配体制が、この30年間に形成されたこと。
③清盛は政権を握ると、讃岐守に平氏一門の維時を任命し、院分国讃岐国は没収された。
④平氏の支配下に置かれた知行国では、在庁官人や有力な武士が家人に組織され、国衙の機能を通じて国内の武士たちを支配下においた。
⑤それは藤原氏の国守時代とは違い「平家にあらずんば、人に非ず」を体験する場となった。『平家物語』には、平氏から離反した讃岐武士について「昨日今日まで我らが馬の草切ったる奴原」と見下されていたことがうかがえる。
⑥特に、平氏が屋島に本拠を構えたのちは、讃岐の武士たちは平氏の直接支配下に置かれ、不満と反発を募らせた。
⑦このような中で、かつての讃岐目代の橘氏が源頼朝を頼って、東国に下った。これを聞いて、かつての上司である橘氏と行動を共にしようとする在庁官人が現れる。それが綾氏一族を中心とする讃岐武士達である。

橘公業が名簿にリストアップして、頼朝に送った武士名簿を見てみましょう。まず「藤」の姓を持つA~Fの6人を見ていきます。「藤」とは「藤原氏」のことで、古代綾氏が武士化して以後に使うようになる名勝です。また、かれらの多くが名乗りに用いている大夫とは、五位の官人の呼称です。
A  藤大夫    資光   (新居)
 B 同子息新大夫 資重   
 C 同子息新大夫 能資
D 藤次郎大夫   重次(重資) 
 E 同舎弟六郎  長資
F 藤新大夫    光高   

なぜ綾氏は、藤原氏と名乗るようになったのでしょうか?
「藤=藤原」氏で、古代の綾氏の系譜を引くとされます。讃岐綾氏は、平安時代の文書に「惣大国造綾」と見え、国造の系譜を引く在庁官人として、勢力をのばしてきたことは以前にお話ししました。彼らが中世に武士化していきます。
「綾氏系図」は、この綾氏の女性と、先ほど見た讃岐国司・藤原家成との間に生まれた章隆(藤太夫)を初代とする讃岐在住の藤原氏の系譜を記します。

羽床氏系図

讃岐藤原氏の初代となる章隆が、国司の家成と綾氏の女性との間に生まれた子だとします。
これは「貴種」との落とし胤を祖先とするよくある話です。当時の国司は遙任で、実際には赴任しません。藤原家成が讃岐にやって来た記録も残っていません。研究者達が無視する「作り話」です。
 しかし、先ほども述べたように、在庁官人として仕える綾氏と、家成・俊盛二代の知行国主の間には、30年間に培われた主従関係があったことは事実です。「綾氏系図」に登場する章隆は、古代綾氏が、中世の讃岐藤原氏に生まれ変わるターニングポイントなのです。そして彼は国司藤原家成の「落とし胤」とされます。しかし、章隆の実在性は史料からは確認されないことは押さえておきます。

讃岐藤原氏系図1

讃岐藤原氏の始祖は藤原章隆で、その子資高が2代目とされます。
DSC05414羽床城
羽床城縄張り図
資高は名乗りが「羽床庄司」とあるので羽床を拠点にしていたようです。
羽床城の主の祖先になるのでしょう。そして、系図が正しいとすれば、つぎのようなことがうかがえます。
①羽床が当時の藤原氏の本拠地であったこと
②実質的な讃岐藤原氏の祖先は、資高であったこと

資高には5人の子が記されます。その4番目が「新居藤太夫資光」です。この系図からは、高の子たちの代に「大野・新居・香西」などの分家が行われたことになります。 
頼朝に送られた名簿リストの筆頭にあるのは資高の子「A藤大夫資光」です。名乗りからみて綾南条郡新居郷を本拠としていた人物でしょう。彼が、この讃岐グループのリーダーであったようです。
名簿リストにはA藤大夫資光の息子として「B同子息新大夫①資重」「C同子息新大夫 能資」と記されます。しかし「綾氏系図」を見ると、資光の子は資幸だけです。
 資光の子孫としては康元元年(1256)の讃岐国杵田荘四至膀示(ぼうじ)注文に見える讃岐国の使を勤めている「散位藤原朝臣資員」がいます。この人物が「綾氏系図」に資光の孫として掲げられている資員と研究者は考えているようです。新居の資光の子孫は在庁官人として、国府で活躍していることが分かります。
 名簿リストにでは資光の子として載せられている、B資重・C能資は、どこへいったのでしょうか? 分からないまま次に進みます。名簿リストの4人目から見ていきます。
D藤次郎大夫  重次(重資) 
  E同舎弟六郎  長資
F藤新大夫     光高   
 「綾氏系図」には、D重次の名はありません。
その弟とされる「E長資」については、光高の父方の従兄弟に羽床六郎と称した長資がいて名前が一致します。その兄重資の名乗りは「藤次郎大夫」で、先の重次と名乗りが同じです。讃岐藤原氏の通字は「資」ですから、名簿リストの「重次」の「次」は「資」の誤りで「重資」と研究者は考えているようです。そうするとA資光から見ると兄重高の息子「重資」で、甥にあたります。
 藤氏の最後に記された「F藤新大夫光高」は、系譜にも記されていて、父の名乗りは「大野新太夫」とあります。

讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg

杵田荘四至膀示注文には、資員とともに国使を勤めた者に「散位藤原朝臣長知」がいます。
これが「綾氏系図」に「羽床六郎 長資」の子として出てくる長知のことでしょう。この家は綾南条郡の羽床郷を苗字の地としています。のち、建治二(1276)年10月19日の讃岐国宣に出てくる「羽床郷司」が、この一族にあたるようです。
最後の「F藤新大夫光高」は? 
「綾氏系図」に資光の兄で大野新大夫と称した有高の子に「新大夫光高」がいます。この人物だろうと坂出市史は考えています。大野郷は香東郡と三野郡にありますが、讃岐藤原(綾)氏の勢力範囲からすると、香東郡の大野郷が苗字の地なのでしょう。

大野郷
香東郡大野郷
源平合戦の時の綾氏の行動が「綾氏系譜」には、どのように反映されているのかを見ておきましょう。
「綾氏系譜」は、讃岐藤原氏の初代章隆は、母が綾貞宣の女子で、父が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子なので藤原姓を継いだと記します。実在が確かめられるのは、章隆の孫やひ孫の世代で、彼らは源氏方にいち早く馳せ参じることで、御家人の立場を得ることになります。これは、綾氏にとって非常に有利に働くことになります。それを体感した後世の子孫達は、源氏側についた祖先への感謝と、自分たちの功績を誇る意味でも、先祖を英雄化する系譜を作りだしたことが考えられます。その際に、結びつけられたのがかつての国守である藤原家成ということになります。

 綾姓から藤原姓への転換の背景をまとめておくと
①反平氏の立場にあった藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった
②古代の在庁官人から中世の武士団への脱皮
③讃岐武士団の中で源平合戦で、いち早く源氏方につき御家人となった祖先の顕彰と一族統合シンボル化
この系譜に綾氏の氏寺とされる法勲寺(飯山町)の流れをひく島田寺の僧侶達によってもうひとつの物語が付け加えられていきます。それが神櫛王の悪魚伝説です。古代綾氏は、讃岐国造となった神櫛王の子孫であり、源平合戦ではいち早く源頼朝の陣に馳せ参じた武士達という話がプラスされていきます。讃岐藤原氏の伝説がこうして一人歩きしていきます。
野三郎大夫高包の名乗りに見える「野」とは、小野・三野など「野」の字が付く姓の略称のようです。
『源平盛衰記』巻人の讃岐院事には、讃岐国へ配流された崇徳上皇は、まず「在庁一の庁官野大夫高遠」の堂へ入ったと記します。『保元物語』では、この堂を「二の在庁散位高遠」の松山の御堂とします。両者は同じもので、在庁官人の高遠の持仏堂のようです。なお、一とか、二の数字は、経験年数による順位を示すもので、在庁間の序列のようです。
在庁の「野大夫高遠」については、『古今讃岐名勝図絵』(国立国会図書館)の「蒲生君平来る」の項に掲げる寛政十二(1800)年、白峯寺に詣でた蒲生君平の「白峯縁起跛」に次のようにあります。
白峯寺に宿す、その住僧明公と一夜談話す、いささか憂いを写すなり、公実言として曰く、崇徳の南狩なり、伝うるに松山、野大夫高遠の所に三年を遂げおわす、高遠の世、すなわち林田氏なり、その家今に至り絶えず、事なお口碑を存ず、
意訳変換しておくと
白峯寺に宿泊し、住僧の明公と一夜話した。その時に住僧の話したことを書き留めておくと、崇徳上皇は松山の野大夫高遠の所で三年ほど生活した。高遠の家は林田氏で、その家は今も存続していて、そのことが伝えられている

ここでは、白峯寺の僧は野大夫高遠の子孫は林田氏であって今も続いていると君平に伝えています。
高遠については、「玉藻集」(『香川叢書』第二)にも次のように記されています。
「阿野の矢大夫高任 阿野郡林田の田令と云う。後白河院御宇と云々」

「讃岐国名勝図会』(国立公文書館DA)の鳴村正蓮寺の項には
「当寺は永正年中、沙門常清草創なり、常清は林田村在庁野大夫高遠が末葉なりという」

とあり、正蓮寺を創建した常清が高遠の子孫で、本領が林田村にあったことが記されます。
雲井御所
雲井御所の石碑と林田家
近世の林田氏については『古今讃岐名勝図絵』の雲井御所とその碑、林田の綾家の項にも見え、本姓は綾氏で、高遠の子孫とされています。生駒時代は林田村の小地頭で、松平頼重の人国の時には、林田太郎右衛門綾高豊が同村の大政所になったと伝えられます。
これらの伝承から、高遠の本姓は阿野(綾)氏のようです。名簿リストの「野二郎大夫高包」は、右の「野大夫高遠」と名乗りの一部と通字が共通しているから高速の一族、阿野(綾)氏の一人で林田郷を本拠としていた在庁官人と坂出市史は考えているようです。

橘大夫盛資 について
応徳元(1084)年12月5日の讃岐国留守所下文(東寺百合文書)などに讃岐在庁の橘氏の名があります。寛元元(1243)年2月、高野山の道範が讃岐国に流された際、守護代長尾氏から、一旦「鵜足津の橘藤衛門高能」という御家人のもとに預けられています(『南海流浪記』)。ここからは守護所が置かれていた宇多津周辺に橘氏がいたこと、高能が在庁官人系の御家人であったことがうかがえます。ここでも、京都に上ったグループの子孫は、御家人として守護所などの管理運営に携わり、地方支配機構を支える立場になっていたことが分かります。
三野首領盛資・三野九郎有忠・ 三野首領太郎・三野次郎一族と藤原純友の乱
「三野首領」とあるので、三野郡の郡司(大領)の流れをもつ者のようです。『南海通記』は、「信州綾姓記」の中で「讃州嶋田寺過去帳」を引用して、純友の乱と三野氏との関わりについて次のように記します。
純友の乱の際、伊予国諸郡の郡司とともに三野郡大領である綾高隼が純友軍に加わった。後に反逆の罪を糾正させられた際に罪を陳謝したため、死刑を許され信濃国小県に流された。
 さらに「通考」には、流された高隼の後には、当国の大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領となり、三野氏の祖となった。

  ここには純友の乱に参加した三野郡大領の綾高隼が更迭され、大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領(郡司)に就任したと記されます。そうだとすれば、三野氏も綾氏の一族だということになります。『南海通記』は後世の編纂書であり、戦記物でもあり誤りが多いことが指摘されています。そのままは信じられませんが、三野郡司になったのが綾大夫高親の末裔であったとすると、本家の綾氏と共に行動を共にして京都に上るのは納得がいく話です。三野氏も武装した在庁官人や郡司から成長した武士団であったようです。

仲(那珂)行事貞房について                
永久四(1116)年に讃岐国で、国衛が興福寺の仕丁(雑役夫)に乱暴を加えるという事件が起こります。興福寺の訴えで、国司・藤原顕能は停任され、目代以下国衛の官人など五人が禁獄されます。この官人の中に「検非違所散位貞頼・行事貞久」の名があります。
 この検非違所は国街の事務を分掌する「所」の1つで警察に当たるもので、行事は職務の担当者のことです。「仲行事貞房」の名乗りに見える「行事」は検非違所の行事のことで、かつ「貞」字を実名に用いていることから、貞房は、貞頼・貞久と同族と考えられます。
讃岐国で「貞」を通字とする一族は、多度郡の郡司綾氏です。
たとえば、久安元(1145)年12月日の善通・曼茶羅寺領注進状案には郡司として綾貞方の名があります。この文書の寺領は多度郡にあるので、貞方は多度郡の郡司になります。名簿リストの貞房については「仲行事」と称しているので、那珂(仲)郡の綾氏と考えられます。
 時代は下って、応永十二(1405)年10月29日の室町将軍家御判御教書写に細川頼之知行の欠所(没収地)のひとつに「讃岐国小松庄・同金武名」とあり「中(那珂)首領跡」と注記されています。ここが現在のどこに当たるのかは分かりませんが、小松の荘は現在の琴平一帯で、那珂郡に属します。「中(那珂)首領跡」とは武士化した那珂郡の首領郡司の館跡のことのようです。那珂郡でも多度郡と同じように、綾氏が首領郡司の地位に有り。国衙では検非違所を務めていたと坂出市史は記します。
大麻藤太家人  大麻藤太という武士の家人(家臣)です。
淡路福良の戦いでは、讃岐蜂起軍の130人が討ち死にしています。主人が討死した後も、行動を共にした家人でしょうか。大麻山の麓に式内社の大麻神社(善通寺市大麻町)があり、古代は忌部氏の拠点とされる所です。中世に、この周辺を本拠とする武士がいたようです。
以上、元暦元(1184)年に、讃岐から上京して源氏方に参加し、御家人と認められた武士たちを見てきました。名簿にリストアップされた讃岐武士達は、記録には残りませんが源範頼の軍に加わり、西海道の戦線に赴いたようです。源氏方に味方する讃岐の武士たちは、その後も増え、屋島合戦で源氏方戦ったようです。
讃岐国でも武士団が組織され、武家の棟梁のもと、より大きな武士団に組織されていくようになります。
その典型が綾氏を祖とするという讃岐藤原氏です。
讃岐の在庁官人については平安時代までは
讃岐国造の子孫と称する東讃の凡氏
空海を輩出した多度郡の豪族佐伯氏
など古代豪族の系譜を引くものが多いようです。阿野郡を本拠とする綾氏もその中のひとつでした。しかし、鎌倉以後は在庁官人としての綾氏の存在は突出した存在になっていきます。源平合戦まえの1056年に綾氏は、勘済使に任じられています。この職は、田地の調査あるいは官物の収納に関わる職です。「綾氏系図」(『続群書類従』)には、綾氏の先祖は押領使であったと記します。これは国内の兵を動員して凶徒を鎮圧する職で軍事警察機構の長です。綾氏が押領使となったのは、10世紀前半の藤原純友の乱の時と研究者は考えているようです。
春日神社神主の日記『春日神社祐賢記』永久四(1116)年五月十二日の記事には、讃岐国検非違使所の役人貞頼・貞久があります。彼らは綾氏の一族とみなされています。このように綾氏は、軍事・警察を担当する押領使・検非違使の地位を世襲的に継承していたようです。これは重要な意味を持ちます。武装蜂起を鎮圧する戦士としての地位をもとにして、綾氏は讃岐第一の武士団に発展していったことが考えられます。

先ほど見てきたように「綾氏系図」には、阿野郡の大領綾貞宣は、鳥羽法皇の近臣藤原家成が讃岐守となった時に、これに娘を入れ、生まれた子章隆は藤原氏を名乗って讃岐藤原氏の祖になったと記します。章隆の子資高は羽床郷を本拠として羽床氏を称し、さらにその子息たちは、
①香川郡大野郷を本拠とする大野氏
②阿野郡新居郷の新居氏
③香西郡の香西氏
などの諸家に分かれていきます。こうして讃岐藤原氏は、鎌倉時代以後は中・西讃に勢力を振るう武士団に成長していきます。
彼らは一族の結束を保つために、同族意識を高める祭礼などを行うようになります。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治
その一環として、後世に綾氏系譜が作られ、その巻頭を飾るのが島田寺の僧侶達が創作した神櫛王の悪魚退治伝説です。これらは、各氏寺や氏神の祭礼で社僧達が語り伝え、民衆にも広がっていきます。
 自らが神櫛王の子孫で、源平合戦の折には京都にいち早く源氏の御家人となったことは、武士の誉れでもあったでしょう。「寄らば大樹の陰」で、周辺の中小武士もこの伝説を受入て、讃岐藤原氏の一族であると称するものが出てきます。これは讃岐藤原氏の勢力の拡大にもなりますので、この動きを容認します。こうして「藤」を名乗る武士があそこ、ここに増えて系図に加えられていきます。
 ちなみに先ほど紹介した南海通記が綾氏の一族と紹介していた三野氏には、神櫛王伝説は伝わっていないようです。讃岐藤原氏の流れを引く一族は、「あすこも、ここも讃岐藤氏」とする傾向があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編 2020年
 

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

 

   以前紹介した、朝鮮の日本回礼使として来日した宋希環が記した『老松堂日本行録』には、瀬戸内海を航行した時の様子が詳しく書かれていました。応永二七(1420)年のことで、足利将軍への拝謁を終えて、帰国する瀬戸内海で海賊に何回も出会ったことが記されています。その中に備前沖で、船に乗り込んできて酒を飲んでいった護送船団の司令官のことが書かれています。名前は「謄資職」と名乗っています。
「謄資職」という人物は何者なのでしょうか?
 謄は、藤原の「藤」姓を中国風に表記したもので、「資職」は香西氏が代々使う「資」の字があります。ここから資職は、香西氏の一族と推定できると研究者は考えているようです。この記事では、酒を飲ませたと記されていますが、実態は警固料を支払ったことを示すようです。備讃瀬戸を通過する船から香西氏が警固料をとっていたことがうかがえます。
 これから200年前のことです。鎌倉幕府成立直後は、西国に基盤を持たない源氏政権を見透かすかのように平家の残党と思われる海賊が活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、海賊を召し捕るように命じています。寛元四年(1246)3月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺の「海賊討伐」の最初の史料のようです。海賊討伐に名前を残している「藤左衛門尉」も姓は「藤」氏です。想像力を膨らませると、警護船のリーダーの「謄資職」は、「藤左衛門尉」の子孫かもしれないと思えてきたりします。そうだとすると香西氏は、鎌倉期から備讃瀬戸で海上軍事力をもった海の武士であったことになります。
  香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家です。そして備讃海峡の塩飽諸島から直島にも勢力を伸ばした領主です。対外的に名乗るときには「藤」氏を用いていたようです。南北朝期以降は守護細川氏に仕え、近畿圏で活躍し、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
  初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移したことは以前に、お話しした通りです。
 細川氏の瀬戸内海制海権実現のために、海上防衛体制を任務にしていた気配があります。

香西氏が備讃瀬戸の東域を管理していたとするなら西域を担当していたのが仁尾浦の仁尾浦の神人たちだったようです。
香西氏と考えられる「謄資職」が朝鮮からの使節団の警備を行った同じ年に、守護細川満元が次のような文書を仁尾の神人に出しています。
 兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、
甲乙人帯当浦神人等、於致狼籍輩者、可處罪科之状如件
 応永廿七(1420)年十月十七日 
                  (花押)
 仁尾浦供祭人中
意訳すると
 求めに応じて兵船を提供するなど平素からの忠節は、非常に神妙である。仁尾浦の神人が狼藉の輩を取り締まり罰する権利があるのはこれまで通りである

文書の出された年月を見ると、先ほどの文書と同じ応永27年になっています。ここからは仁尾浦の神人たちも朝鮮の日本回礼使の際に、守護細川氏の兵船として御用を努めていたことがうかがえます。
 神人たちは仁尾浦の賀茂神社に奉仕する集団でした。
賀茂社は原斎木朝臣吉高が、山城国賀茂大神の分霊を仁尾大津多島(蔦島)に勧進したのが始まりとされます。その後、堀河上皇が諸国に御厨を置きますが、そのひとつが蔦島周辺だったようです。こうして仁尾浦の住人は、賀茂社の神人として特権的な立場を利用して海上交易活動にも進出していきます。明徳二年に、細川頼元が別当神宮寺を建立して以後は、祭礼に毎年のように細川氏から使者が遣わされるようになります。守護細川満元は、仁尾浦御祭人中に対する京都の賀茂社の課役を停止し、代わって細川氏に対する海上諸役を勤めるように命じます。こうして仁尾浦は京都賀茂社の支配から、細川氏の支配下へ組み込まれていったようです。
 このように仁尾浦は、
①賀茂社神人らの海上交易・通商活動の拠点であり、
②守護細川氏の守護御料所として瀬戸内海海上防備の軍事上の要衝でもあり
③直接支配のために香西氏が浦代官として派遣された。
仁尾浦が背後に七宝山が迫る耕地の狭い地形でありながら「地下家数五六百軒」を擁する町屋を形成していたのは、海上交易による経済力の大きさがあったからのようです。

 仁尾浦の警固衆は海賊衆から発展したのではなく、賀茂神社の御厨(みくり)として設置された社領の神人たちから形成されました。そのために守護直属の海軍力として、すんなりと変更できたのかもしれません。ここからは
①管領細川氏(備中・讃岐守護)による備讃瀬戸の海上交易権の掌握
②その実働部隊としての讃岐・香西氏
③香西氏配下の海上警備部隊としての仁尾・塩飽・直島
という海上警備・輸送部隊が見えてきます。このような警備網が整っていないと、安心安全に瀬戸内海の交易活動は行えません。また、京都の富の多くは瀬戸内海を通じて西国からもたらされていたのです。そして、非常時には細川氏は瀬戸内海海上輸送ルートで讃岐の武士団を招集していました。そのためにも、瀬戸内海交易ルートの防衛は、重要な意味を持っていたと研究者は考えているようです。
 小豆島の海賊衆 
小豆島の史料の中にも海賊(海の武士団)の姿が見えるようです。
 永享六年(1434)に、小豆島周辺に海賊が横行しているために、幕府は備後国守護山名氏に遣明船警固を命じています。この海賊衆は小豆島を拠点とした一団であったと考えられます。
 これより以前の南北朝期に、備前国児島郡の佐々木信胤は、小豆島へ渡り、島の海賊衆を支配下におき、南朝勢力として活動します。信胤は南朝方の紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、備讃瀬戸の制海権を握ろうとしたようです。その拠点が小豆島だったと考えられます。

しかし、直接的に小豆島の海賊衆の存在を示す史料はないようです。
 室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下にあり東讃守護代の安富氏によって管轄されていました。『小豆島御用加子旧記』には、細川氏のもとで小豆島は加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
  室町後期の小豆島池田町の明王寺釈迦堂の文字瓦に、次のようなことが記されています。
 大永八年(1528)戊子卯月二思立候節、細川殿様御家 大永六年より合戦始テ戊子四月に廿三日まて不調候、
児島中関立中堺に在津候て御留守此事にて無人夫、
本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀仏も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年廿七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ

意訳すると
 この文書は「大永七年(1527)に、細川晴元が軍勢を率いて堺へと渡り細川高国と戦った。その際に晴元は、児島と小豆島の海賊(海の武士集団)から兵船を徴発した。小豆島海賊衆は晴元に従い、一年余堺に出陣し、島を留守にしたために人夫も手当てできなかった。
  ここには「児島中関立中 堺に在津候て」と「関立」がでてきます。「関立」とは、当時の海賊の呼称であったことは以前お話ししました。小豆島にも大永年間には、海賊衆(水軍)が存在していたようです。また、その海賊衆は細川晴元の命令で動いているようです。
  天文18年には晴元と三好長慶が摂津で戦いますが、東讃守護代の安富氏は晴元に従わずに戦いには参加していません。そのためか晴元は敗れています。この時には小豆島は安富氏に領有されていたようです。小豆島の海賊(海の武士団)の命令系統は、次のように考えられます
  ①管領・細川氏→ ②東讃守護代安富氏→ ③小豆島の海賊衆

 その後の島の海賊衆の動きが見える史料はありません。
ただ『南海通記』は、島田氏が小豆島の海賊衆の棟梁として存在し、寒川氏によって率いられていたと記します。細川氏の御用下で、塩飽と同じように能島村上氏の支配下に当たっています。しかし、その状況を示す史料はなく、詳しいことは分からないようです。

以上見てきたことをまとめると
①管領細川氏は西国支配のために瀬戸内海海上ルートの防衛体制に心を砕いている
②備中と讃岐を自分持ちの国として、その間の備讃瀬戸の制海権確保に努めた。
③その際に、香西氏や仁尾浦・小豆島の海上力を利用している
④讃岐と近畿との海上輸送が確保できていたために、讃岐武士団の近畿への動員もスムーズに進み、細川家の政治運営に大きく寄与した。
⑤細川家衰退後には備讃瀬戸には、能島村上氏の力が及ぶようになり、塩飽や小豆島はその支配下に置かれることになる。
⑥また弱小の海上軍事勢力(海賊衆)は、存在意味をなくし衰退し、丘上がりをするものも現れた。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂   讃岐海賊衆の存在  瀬戸内海地域史研究8号2000年



  讃岐綾氏は、阿野郡一帯で活躍した古代讃岐の氏族です。
 讃岐綾氏は、7世紀半ばに阿野郡(評)の長官である評督に任じられて以後、郡司級豪族として発展の道を歩んだようすが『日本書紀』や六国史、その他の古代文献資料の中に、かなりの記録が残っています。そして、武士団へと「変身」していくのです。史料に現れる讃岐綾氏の記述を通して、その実態や性格について考えて見ましょう。
 
城山地図

綾氏が残した巨石墳と寺院建立は?
 讃岐国府があった坂出市の府中町には、新宮古墳・綾織塚・醍醐1~9号墳などの巨石墳があります。これらの古墳は、ほとんど出土遺物が伝わらないために、遺物の内容から被葬者の身分や性格について知ることはできませんが、築造年代は、六世紀末には新宮古墳、綾織塚や醍醐一~九号墳なども、六世紀後半から七世紀前半にかけての時期とされています。
L324384000527039醍醐古墳
 この府中町一帯の巨石墳は、綾氏の一族によって、築造されたと考えられているようです。
横穴式巨石墳に続いて、府中町一帯には、鴨廃寺・醍醐寺などの古代寺院が確認されています。
鴨廃寺・醍醐寺跡からは、外縁にX文のめぐらされた八葉複弁蓮華文軒丸瓦が出土しています。また、これと同文の瓦が、綾南町陶田村神社東灰原付近でからも出土していますが、陶一帯には、古代寺院跡が見つかっていません。陶一帯が、六世紀後半から、平安時代末期までの須恵器の一大生産地として成長していくことを考えると、鴨廃寺や醍醐寺の建立に際して、陶に瓦窯が作られ綾川の水運で運ばれてきたことが考えられます。鴨廃寺や醍醐寺の瓦は、陶で焼かれた可能性があるようです。なお、鴨廃寺・醍醐寺の建立は、その瓦文様から、白鳳時代の後半には開始されていたようです。


10316_I3_sakatahaiji坂田廃寺
  坂田廃寺跡と綾氏 
 さて、高松市の石清尾山古墳群が造られた南麓は坂田郷と呼ばれていました。その西の浄願寺山の東麓には、坂田廃寺があり付近からは金銅誕生釈迦仏立像や、瓦を焼いた窯跡も発見されています。同時に、鴨廃寺・醍醐寺と同文の瓦も出ています。この坂田廃寺の近辺も、綾氏の拠点のひとつであったことが、十世紀末の文献資料や「日本霊異記」などによって分かります。この周辺に綾氏の一族が居住するようになるのは、坂田廃寺が建立された白鳳時代の後半か、それ以前のことのようです。
「高松市 坂田廃寺

  坂田廃寺周辺から出土した金銅誕生釈迦仏立像
 高松市鬼無町佐藤山にも、巨石墳が分布します。
この佐藤山巨石墳の被葬者が、綾氏の一族であったと考えられるなら、坂出市府中町一帯に居住した綾氏の一支族が、六世紀後半から七世紀前半には、このあたり一帯に進出していたことになります。
 そして、坂出市(令制の阿野郡)の綾氏と、高松市(令制の香川郡)の綾氏の間には、『日本霊異記』の説話にみられるような一族の間での婚姻関係が古墳時代の後期からあったのではないかとも考えられます。
 このように、綾氏は六世紀後牛の時期には、阿野郡と香川郡の一帯に住み、巨石墳文化を営み、古墳文化が衰退に向かう頃には、寺院建立を行なったと研究者は考えるようです。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 綾氏の地方役人への進出
 律令制の導入で評制が布かれると、綾氏は阿野郡の評造(評督)に任じられたようです。
  『日本書紀』天武天皇十三年(六八五)十一月一日の条によると、讃岐綾氏が、畿内の有力豪族である大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣などの五十一氏とともに、朝臣の姓を賜わったことがみえます。恐らく、綾氏が朝臣の姓を賜わった背景には、阿野郡の評造としての実績があったのでしょう。奈良時代の後半頃になると、綾氏は一族を阿野郡の隣郡の香川郡の大領として、出仕させる程の有力豪族に成長して行きます。
 『東寺文書』の中の、「山田郡弘福寺校出文書」によると、
  (端裏書)
 「讃岐国牒一巻」 (寺衡力)
 山田郡司牒 川原寺衛?
   寺
  合田中検出田一町四段??
 牒去天平宝字五年巡察??
 出之田混合如件、???
 伯姓今依国今月廿二日符?停止??、
 為寺田畢、掲注事牒 至准状、?牒
        天平?外少初位?秦
          主政従八位下佐伯
 大領外正八位上綾公人足??上秦公大成
 少領従八位上凡?   
        寺印也
 正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下
  とあって、綾氏の一族の綾公人足が、山田郡の大領の地位にあったことが分かります。
 この綾公人足は、阿野郡にいた綾氏の一族でしょうか、それとも香川郡にいた綾氏の一族だったのでしょうか?
 どうも阿野郡に居住した綾氏の一族であったようです。というのは、綾公人足が山田郡の大領になった背景には、次のような『続日本紀』大宝三年三月丁丑の日に出された、法令の影響があると考えられるからです
 下制日、依令、国博士於部内及傍国・
 取用、然温故知新、希有其人 若傍国無人採用 則申省、然後省選擬、更請處分、
 又有才堪郡司 若当郡有三等已上親者、聴任比郡、
とあって、三等以上の親族に限って、隣郡の郡司となることができたのです。この「三等已上親」というのは、現在の民法の「三親等以内の親族」と同じで、近親者という意味に使われているようです。
 香川郡に綾氏の一族がいたことは、『日本霊異記」中巻、第16の説話に、次のように記されています。
聖武天皇の時代の讃岐の国、香川郡坂田の里に、富裕な分限者がいて、夫婦とも綾姓として登場します。また、東寺の『東宝記』収載の天暦十一年元(957)二月二十六日の太政官符に、「香川郡笠居郷戸主綾公久法」とあります。
 このように、阿野郡から東の香川郡への綾氏の進出は、巨石墳が築造された六世紀後半にさかのぼって考えることができます。ここからは、かなり古い時期に移住が行なわれたことが分かります。

 奈良朝末期に綾氏は次のような訴えを中央政府に起こしています。
『続日本紀』延暦十年(七九一)九月二十日の条
讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。
己等祖、庚午年之後、至二于已亥年 始蒙賜朝臣姓 
是以、和銅七年以往、三比之籍、並記朝臣 
而養老五年、造籍之日、遠枝庚午年籍削除朝臣 
百姓之憂、無過此甚 請櫨三比籍及旧位記 蒙賜朝臣之姓 許之
意訳すると、朝臣の姓を名乗る許可を次のように訴えているのです。
①阿野郡の綾氏一族の当主綾公菅麻呂が次のように願い出ます。
②綾氏は文武帝三年の己亥の年に、初めて朝臣の姓を賜わった。
③ところが養老五年の造籍が庚午年籍を参考にしたために、朝臣の姓が削除されてしまった。
④これをもとにもどして欲しい
訴えたことがわかる。
 この綾氏の訴えは。中央政府に受け入れられて、綾氏は朝臣の姓に復することができます。

綾氏の中央官人化と在庁官人制
  『続日本後記』嘉祥二年(八四九)二月二十三日の条によると、
 讃岐国阿野郡人 内膳??、掌膳外従五位下綾公姑継 
主計少属従八位上綾公武主等。改本居 貫附左京六條三坊
とあり、綾氏の一族である綾公姑継が宮内省の内膳司の下級役人として、綾公武主が民部省の主計寮の下級役人になっていて、本貫を讃岐から左京六條三坊に移すことを許可されているのが分かります。これは、綾氏の一族の中に中央官人化するものが現れていることを示します。
 また、平安時代後期の永承年間には、綾氏の一族が「国雑掌」として、記録の中に顔を出すようになります。『平安遺文』によると、
〇讃岐国雑掌綾成安解 申進上東大寺御封事
  合准米貳伯拾陸鮮
   塩柑一石五斗、正物柑石、代六十斟
   嫁七百八十廷「未請」   代百五十六鮮
 右年々御封内、進上如件、以解、
  永承元年七月廿七日 雑掌綾成安
        (『平安遺文』六三三)
O讃岐国雑掌綾成安解 申進済東大寺御封米事
  合貳値斟
 右、富年御封米内、且進済如件、以解、
 永承貳年七月貳拾貳日 雑掌綾成安
        (『平安遺文』六四三)
永承年間には綾氏が国雑掌として、名をみせています。この国雑掌とは各地にあって運送業に従ったものだとされます。国雑掌という運送業専従者が登場する背景には、律令政治機構がくずれ、地方有力豪族が年貢や正税などの運送を請け負わないと、都までの物流が機能しなくなったことをを示しています。
 この傾向は在庁官人制の出現によって、いっそう加速されます。
在庁官人制は延喜年間の律令制再建政策の一環として設定されたもので、国司の任国支配における新しい現地官僚として設定されたものです。「平安遺文」によると、その位署の部分に、
 府老佐伯
 橡  凡
 府老綾宿
 目代散位惟宗宿々
   散位安宿
    (『平安遺文』四六三三。讃岐国
    留守所下文案)
 大国造在判
 大橡佐伯
 散位藤原宿禰
 府老綾朝臣
 目代越中橡小野在判
 平安遺文」一〇三五、讃岐国 曼荼羅寺僧善芳解案)
ここには、在庁官人として、佐伯氏や綾氏の名があります。佐伯氏は、空海を生んだ善通寺の佐伯氏でしょうか。
在庁官人制は、地方豪族の地位の向上をもたらします。
国司は任命されても京に留まり、自分の身代わりともいうべき「目代」を派遣します。逡任国司の制度の下で、在庁官人として国賓の留守所に出仕するようになった地方豪族の権限は、郡司時代よりも強化されます。
在庁官人の初見史料とされる延喜十年「初任国司庁宣」には
 新司官一 加賀国在庁官人雑任等
  仰下三箇条事
 一、可早進上神宝勘文事   (本文省略)
 一 可催行農業
   右国之興復、在勧農、農業之要務、在修池溝 宜下知諸郡 早令催勧矣、
 一 下向事
   右大略某月比也、於一定者、追可仰下之 以前条事、所宣如件、宜承知依件行之、以宣。
   延喜十年 月 日
    (『朝野群載』廿二諸国雑事上)
ここからは、神事と勧農に関する事柄が、在庁官人によって行なわれるようになったことが分かります。古代政治にとって最重要事項は神事であり、律令制下には国司の任務でした。その農業政策を綾氏などの地方役人が行うようになったのです。これは、地方役人の在庁官人の権力拡大をもたらすことにつながります。
 綾氏の地方豪族としてのさらなる成長
 鴨廃寺や醍醐寺・坂田廃寺の建立の際に、綾氏が瓦窯を綾南町陶に求めたことは、最初に記しました。この陶地区では、これら白鳳時代の瓦を焼いた窯より、古くから須恵器を焼いた打越窯跡がありました。時間的序列で見ると、打越窯跡の操業が六世紀後半で、綾織塚・新宮古墳・醍醐一~九号墳の築造が六世紀後半から七世紀前半にかけてということになります。ここからは六世紀後半には綾氏によって、陶ではすでに私的な須恵器生産が先行して行われていたことを意味します。
 しかし、地方豪族である綾氏が当時の最先端技術である須恵器生産の技術や運用を、独自に持っていたとは考えられません。これは、国府の管理下に、国司の指揮のもとに行なわれるようになったと研究者は指摘します。しかし、在庁官人制は綾氏にチャンスを与えます。
                 須恵器を焼いた窯復元図
綾氏が須恵器生産に関与する機会をもたらしたのです。
そこには讃岐国府が阿野郡におかれ、綾氏が阿野郡の郡司(在庁官人)だったという地理的条件があります。平安時代後期の頃になると、在庁官人である綾氏が、陶地区での須恵器生産を管理し、須恵器や瓦製品を都まで運んでいくようになるのです。
また、綾氏の一族が国雑掌として、平安時代後期の頃に中央と讃岐を結ぶ年貢や正税の運搬の仕事に従事していたことは述べました。これは綾氏に「役得」をもたらします。中央からの情報・技術・文化をいち早く入手し讃岐にもたらすポストにいたのです。このように、讃岐綾氏の一族は讃岐地方における須恵器生産に関与し、讃岐地方の経済活動に大きく係わっていたと考えられます。また、綾氏は製塩産業も経営していたようです。
綾氏の「殖産興業」策
『延喜式』によると、讃岐の阿野郡からは調として「煎塩(いりしお」を貢上することが、定められています。『万葉集』巻一の五には

 「讃岐の国かをの郡に幸せる時・軍王の山を見て作れる歌」の中に、「聡の浦のあま処女らが焼く塩の念ひぞもゆる」

と製塩が行なわれた様子を歌った歌があります。
『日本霊異記』中巻第十六の説話には香川郡坂田の里の「富人」として綾君がみえます。
この綾君は多くの「使人」を用いて「営農」しているばかりでなく、一部の家口の中には「有業釣人」と漁業をもってなりわいとしているものもみえます。ここからは海浜に近い地域に住む綾君が、海産に強い関心を示し、塩釜を用いた製塩が行なわれたのでないかと研究者は推論します。
 平城宮木簡第三三〇号に、
 讃岐阿野郡日下部犬万呂三口  四年調塩
とあることや、綾氏が居住した坂出一帯にいくつかの古墳時代の製塩遺跡が発見されていることによって、裏付けられます
 また、綾君の家口の中に、漁業をもってなりわいとしているものがいたことは、『延喜式』に中男作物として、乾鮒・鯛楚割・大鰯・鮨・鯖・海藻などの貢上が定められていたことからもうかがえます。
それは、船を操る「海民」の存在をしめし、それが海上交易への進出への道を開きます。また、「営農」の中には、墾田永代私有令以後に開発された多くの荘園の耕作活動が含まれていたことでしょう。
 以上から考えると、綾氏の経済基盤は農業を始めとして、製塩・漁業などの各方面にわたっていたようです。そして、平安後期になると国雑掌という運送業にも従い、在庁官人という立場をうまく利用し勢力を拡大します。さらに平安後期には陶地区における須恵器や瓦の生産活動を把握する立場にまで成長していきます。そこからは、多くの収益を得ていたでしょう。
 こうして綾氏は、一族の中で郡司職を世襲する特権や在庁官人となる権利に恵まれていたために、本家筋にあたる綾氏を中心に、繁栄を重ねていたと考えられます。
 綾氏のような氏族経営による「殖産興業」的な活動は、他の郡司級豪族にも共通したものだったようです。それは三豊の丸部氏が藤原京への瓦提供のために宗吉に中央権力の支援を受けながら当時では日本最大級の瓦生産工場を建てるのと、似た構造かも知れません。
 綾氏の武士化はどのように進んだのか?
 鎌倉時代になると、綾氏の子孫は、羽床・香西・大野・福家・豊田・柞田・柴野・新居・植松・三野・阿野・詫間などの諸氏に分かれて行きます。彼らは中讃を中心に在地武士として活躍することになります。
 綾氏は平安時代後期になると、中央の藤原氏と関係を深めていきます。そして、讃岐藤原氏と称すようになります。『綾氏系図』には、綾大領貞宣は娘を中納言家成の讃岐妻として婚姻関係を結び、その子の章隆を産んだとします。綾氏は自らを、その後裔と称すようになります。
 中納言家成は烏羽上皇の近臣で、その院政を支えた受領のうちの一人です。しかし、これも先ほど述べたように遥任国司で、上皇のそばから離れた記録はなく、実際には讃岐に赴任していないようです。家成が遥任国司であったことを考えると、綾氏の娘との出会いの機会はありません。
 恐らく、綾氏が藤原氏を称するようになったのは、中央の藤原氏の権勢という「虎の皮」を被ることで、自分の在地支配をスムーズにしようとしたねらいがあってのことと研究者は考えています。
 綾氏が武士化していく上で、阿野郡の郡司職を世襲してきたことは、大きな力になったようです。
平安後期になると地方の治安は乱れ、瀬戸内地方では海賊が横行するようになります。
『三代実録』貞観四年(八六二)五月二十日の条には
近ごろ海賊が往々にして群をなして往還の人々を殺害したり、公私の雑物を掠奪するようになり、備前国から都におくる官米八十鮮を載せた船が海賊におそわれ、官米は侵奪され、百姓十人が殺害されるような事件が起こったので、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐などの国から、人夫を徴発して海賊の討伐をさせた記事があります。
これ以後、中央政府は海賊迫捕の命令を何度も出しています。
 また、『三代実録』元慶七年(八八三)十月十七日の条には、
備前の国司公庫稲二万束を割いて出挙し、その利益を兵士124人の糧にあて、要害の地にこの兵士をおいて、船や兵器をととのえ海賊を防がせようとしたことがみえます。

このように当時の瀬戸内海は、海賊の横行が大きな社会問題となっていたのです。海賊の横行に対して讃岐の国には、検非違使がおかれていました。
純友の乱の鎮圧と綾氏の武士化
関東で平将門の乱に相応じるように、藤原純友の乱がおきます。侵入した純友軍によって讃岐国府は占領され、焼き払われます。この乱の後に、追捕使や押領使が常設されることになります。国検非違使や追捕使、押領使に任じられたのは「武勇之輩」です。彼らは、地方の治安維持者でした。これに任用されたのが、郡司などの一族でした。綾氏の一族も、この国検非違使や追捕使、押領使として任命されたと考えられます。これが綾氏などの郡司級豪族が武士化していく契機になります。
 すでに、古くは桓武天皇の時代から郡司の子弟が健児としておかれ、地方の治安維持にあたっていました。健児にとって、国検非違使や追捕使、押領使などの職は魅力のある地位だったはずです。特に、讃岐地方は承平の乱の影響を直接受け、讃岐国府は純友の賊によって焼かれました。国府のある阿野郡の郡司である綾氏の一族が、純友の乱に対処するための軍事力として組織されたことは十分考えられます。このように、純友の乱は綾氏が武士化するための、一つの契機となったと研究者は考えているようです。
 以上の流れをまとめると次のような「仮説」になります。

讃岐綾氏の活動

①讃岐綾氏は六世紀後半から七世紀前半にかけて、坂出市の城山山麓に巨石墳を多数造営し、七世紀後半頃になると鴨廃寺や醍醐寺などの寺院建立を行なった。
②阿野郡の綾氏によって鴨廃寺や醍醐寺が営まれたと同じ頃に、香川郡の綾氏によって坂田廃寺がつくられた。
③律令時代になり、評制が布かれると、綾氏は阿野郡の評造(評督)に任じられた。そして譜第郡司として、綾郡の郡司職を世襲した。
④在庁官人制が施行されると、綾氏は在庁官人として国府留守所で活躍した。
⑤讃岐綾氏の一族は、荘園を拡大する一方で製塩や漁業にも手を伸ばし、「殖産興業」を活発に行う氏族として勢力を伸ばした。
⑥鎌倉時代になると讃岐武士団の中核の一つとなった。
⑦綾氏の子孫は、羽床・香西・大野・福家・西隆寺・豊田・祚田・新居などの在地武士として活曜するようになった。

このようにして綾氏は古代から中世へ、地方在住の郡司から武士へと姿を変えながら勢力を拡大していったのです。

参考文献 

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