西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。
前回は、この史料から京都の祇園社(八坂神社)の社領となっていた大野荘(三豊史山本町)の代官が年貢を手形で決済したことを見ました。今回は大野荘の管理にあたっていた武士をを追いかけてみます。
「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」
室町時代に応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」とあって、室町期には二宮、麻のふたつの近藤氏がいたことが分かります。
①二宮近藤氏は、大水上神社領を中心とする二宮荘を根拠地②麻近藤氏は、麻を拠点に勝間、西大野に所領を持っていた
この史料に出てくるのは②の麻近藤氏のようです。
近藤氏がどのように「押領」したのかを年表で見ておきましょう。
讃岐守護の細川氏の下で、北朝方として活動していたようです。
14世紀半ばの祇園社領大野郷では、新宮三位房による濫妨(乱暴)が行われており、これに手を焼いた祇園社は幕府に訴え出ています。この訴えに対する幕府の対応は、新宮三位房を排除し、代わって麻の近藤国頼に代官職を任せるというものでした。これが近藤氏の大野郷進出のきっかけとなったようです。1354 文和3 8・4
幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田における新宮三位房の濫妨停止を,守護細川繁氏に命じる1355 文和4 7・1
守護細川繁氏,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の下地を祗園社執行顕詮に打渡すよう,守護代秋月兵衛入道に命じる同年7・4近藤国頼,祗園社領西大野郷の年貢半分を請負う1361 康安1 7・24
細川清氏,細川頼之と阿野郡白峯山麓で戦い,敗死する.10・- 細川頼之,讃岐守護となる1363 貞治2 8・24
足利義詮,祗園社領三野郡西大野郷における近藤国頼の押領停止を,守護細川頼之に命じる
近藤氏の麻城へ「たけのこ道」を行く
しかし、その8年後の貞治二(1363)年には、近藤国頼は祇園社に訴えられ「押領停止」を、命じられています。これを命じているのが新しく讃岐守護になった細川頼之です。この時期から近藤氏による「押領」は始まっていたようです。そして、その後も八坂神社と国頼の争いは続きます。1368 応安1 6・17 守護細川頼之,祗園社領西大野郷の下地を領家雑掌に打渡すよう,守護代細川頼有に命じる.9・20 守護代細川頼有,重ねて祗園社領西大野郷における近藤国頼代官の違乱を止め,下地を領家雑掌に打渡すよう,守護使田村弥三郎入道・大庭六郎左衛門入道に命じる1369 応安2 9・12 守護細川頼之,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行うよう口入する.12月13日,祗園社領西大野郷所務職を近藤国頼に宛行う
応安元(1368)年、細川頼之は調停に乗り出します。領家職の下地を渡付するように近藤国頼に守護使を通じて命じます。その一方で翌年に頼之は、国頼の言い分にも耳を傾け、近藤国頼の代官職継続をはかります。国頼は年貢の三分の一を代官得分とするという条件で代官職請負契約を結んでいます。


この文書の端裏には「矢野左衛門口入大八色云し」とあり、矢野遠村の仲介で近藤氏と八坂神社の和解がおこなわれたことがうかがえます。守護の細川頼之が近藤国頼の権益確保を図ったのは、当時の讃岐をめぐる軍事情勢が背景にあった研究者は考えているようです。
当時の政治情勢を年表で見ておきましょう。
1371 応安4 三野郡西大野郷,大旱魃となる1372 応安5 伊予勢(河野軍)侵入し,讃岐勢は三野郡西大野郷付近に布陣1377 永和3 細川頼之,宇多津江(郷)照寺を再興1379 康暦1 3・22 細川頼之,一族を率い,讃岐に下る諸将,足利義満に細川頼之討伐を請い,義満は頼之の管領を罷免1388 嘉慶2 この年 幕府,祗園社領三野郡西大野郷・阿野郡萱原神田の役夫工米の段銭を免除1389 康応1 3・7 守護細川頼之,厳島参詣途上の足利義満を宇多津の守護所に迎える1392 明徳3 3・2 守護細川頼之没し,養子頼元あとを嗣ぐ
伊予河野氏が西讃に侵入してきた
細川頼之が調停に乗り出した応安元(1368)年は、後村上天皇が亡くなり南朝が吉野に拠点を移し、南北間の抗争が再燃する時期です。細川頼之にとって、予想される伊予との抗争に備えて、西讃の武将達との関係強化に努める必要がありました。
伊予の河野氏は、一時的には九州に逃れていましたが、この年に伊予に戻り、南朝方として反撃を開始します。そして応安五(1372)年には、讃岐に侵攻し、大野郷に布陣するのです。先ほど見た祇園社への年貢が手形で納められたのは、この年のことなのです。近藤氏にとっては、まさに寺領が他国者によって踏み荒らされる状況でした。
一方讃岐守護の細川頼之は、管領として河内・伊勢等での南朝軍との転戦で、地元讃岐に援軍を派遣できません。讃岐の武将達は苦しい戦いを強いられます。にもかかわらず近藤氏ら西讃の武将達は、侵入してきた伊予軍を大野荘近辺で迎え撃って、そこからの進軍を許しませんでした。ある意味で細川頼之の「恩=土地」に対し、近藤国頼が「忠=軍事力」で「奉公」し、「一所懸命」を実践する時だったのかもしれません。
その後、讃岐細川方は攻勢に転じて、逆に伊予領内に侵入していきます。
①応安八(1375)年に伊予三島社に細川頼之の願文が納められていること②永和三(1377)年に伊予府中の能寂寺に細川頼之が禁制が出していること
などから讃岐勢力が、伊予の府中あたりまでを勢力圏にしていたことが分かります。

以上をまとめておくと、

西条周辺までが細川氏の支配領域に含まれている
以上をまとめておくと、
①当時の讃岐は、伊予河野氏と抗争中で、そのためにも近藤氏のような西讃の国人を掌握しておく必要があった。②その一貫として、細川頼之は大野荘をめぐって対立していた近藤国頼と八坂神社の間を取り持ち、調停した
伊予との「臨戦状態」の中でも、大野荘は京都の八坂神社に対し、年貢、灯油、仕丁を負担したことが『八坂神社記録』の応安四年と五年の両年の記録に記されています。灯油は現物で祇園社に納めています。これは西大野郷内の名(地区)ごとに徴収されたものです。また、祇園社に労役として奉仕する仕丁も近藤氏は出していますが、それがしばしば逃亡しており、その都度、祇園社は近藤氏に通報しています。近藤氏は、祇園社と対立をはらみながらも、祇園社への宗教的な奉仕は果たしていたようです。
室町期の近藤国房
近藤氏の菩提寺である財田の伊舎那院からは
「大平三河守国房法名道覚 応永元年七月二十四日」
と没年を書いた竹筒が出土しています。これは麻近藤氏の国頼の次の世代の当主・国房のことだと研究者は考えているようです。
また、讃岐国内の段銭徴収の際に、金蔵寺領名主、沙汰人に対し、段銭徴収方式を条々書にしている文書があります。段銭は一段当たり三〇文が徴収されており、寺社領、御料所、同所々人給分も除外しないなどの事柄が記されています。この中には近藤国房が守護細川氏の使者としてこの旨を申し入れたことが記されています。細川氏の讃岐家臣団の中で、近藤氏がある程度の立場にあったことが分かります。
国房の居城については『西讃府志』には、知行寺山城(現山本町大野・神田)の城主として大平伊賀守国房の名前が記されています。この城を根拠地として西大野郷を支配していたのかもしれません。
ところが明徳四(1394)年に、国房は西大野郷を押領した罪に問われて、所領を没収されてしまい、その翌年に死去します。今まで見てきたように近藤氏の大野郷への「押領」は、昔から続いてきたことなのに、なぜこの時には「所領没収」という厳しい処分が出たのでしょうか。今の私には分かりません。
国房の次の当主・国有は、西大野の上村を領有したといいます。
「大野村両社記」には、大野は上下に分かれ、下村は祇園社の負担に応じなかったと記します。上村については、麻近藤氏を通じ年貢が納入されたようです。文安三(1446)年には、麻近藤氏にあてて、10貫文の受け取りが祇園社から出されています。年貢額が70年前の応安年間の半額になっています。荘園領主側の立場の弱体化がここにもうかがえます。しかし、半額にはなっていますが麻近藤氏が年貢を、祇園社に送り続けていることがうかがえます。以前見た長尾の荘では、14世紀に入ると醍醐寺三宝院には未払い状態が続いていたことを思い出すと対照的です。それだけ、国房の時の西大野押領による領地没収処分がの効き目が継続していたのかもしれません。別の視点からすると祇園社の方が幕府への影響力が強かったのかもしれません。あるいは、大野郷に勧進された祇園社への信仰が高まり、それが本社への「納税」を自主的に行う機運を作り出すようになったのかもしれません。単なる想像で裏付けの史料はありません。
国有の時代は、所領を没収され経済的にも苦しい状況に近藤氏は追い込まれていたようです。
国有の時代は、所領を没収され経済的にも苦しい状況に近藤氏は追い込まれていたようです。
この時代にこんな讃岐侍の話が広がりました。
「麻殿」という讃岐の武士が京都で駐屯していた。「麻殿」は貧しいことで知られ、「スキナ」を「ソフツ(疎物)」としていた。人々の嘲笑をかっていることを知った麻氏は
「ワヒ人ハ春コソ秋ヨ中々二世の「スキナノアルニマカセテ」
という和歌を詠んだ。これに感じ入った守護細川満元は、旧領を返還した。田舎者と馬鹿にされていたが、和歌のたしなみの深い人物であった。
というのです。
ここからは次のような事がうかがえます
①近藤氏のような讃岐武士団が細川氏に従軍し、京都にも駐屯していた。②京での長期間の駐屯で、教養や遊興・趣昧など教養を身につける田舎侍も現れた。③「旧領返還」されたのは、大野の代官職のことか?④ 細川満元の時代とあるので、麻近藤氏の国有が最有力。
それを裏付けるように、
①享徳三(1454)年に、足利義政から近藤越中守(麻近藤氏)に対して、西大野郷代官職と勝間荘領家職の安堵②文明五(1473)年には、祇園社から十年契約で、二〇貫文の年貢を請負
とが記録されています。これが、かつて没収された「旧領の返還」だったのかもしれません。
その後の近藤氏は・
応仁の乱で活躍した武士の家紋を集めた「見聞諸家紋」に麻近藤氏のものが見えます。また、細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、伊予の河野氏を攻撃します。この戦いに麻近藤国清も参加していましたが、戦陣中に伊予寒川村で病死しています。
近藤国敏は阿波三好氏と連携強化
その次の国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。これが近藤氏衰退のターニングポイントになります。近藤氏が阿波三好氏と結んだのに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
その次の国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。これが近藤氏衰退のターニングポイントになります。近藤氏が阿波三好氏と結んだのに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波の三好氏=麻近藤氏
この結果、敗れた三好側についた近藤も所領を没収されます。それが香川氏配下の武将たちに与えられたようです。近藤氏の勢力は、この時期に大きく減退したと考えられます。
近藤氏の没落
そして、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まり、讃岐の戦国時代は最終段階を迎えます。麻城は、侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城したと伝えられます。近藤家の城主国久は、麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地は横死ヶ谷と呼ばれています。
高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領に麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬といった近藤氏の所領が記されていることが指摘されています。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったようです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が入植してきたようです。その後の近藤氏の様子は分かりません。しかし、近世の神田村に神主の近藤氏、同村庄屋として近藤又左衛門の名が見えます。近藤氏の末裔の姿なのかもしれません。
以上を、私の想像力交えてまとめておくと次のようになります
①麻地区を拠点としていた近藤氏は、14世紀半ばに京都祇園神社の大野荘の代官職を得ることによって大野地区へ進出した
②讃岐守護の細川頼之は近藤氏など西讃地方の国人侍と連携を深め、伊予勢力の侵攻を防ごうとした。
③そのため伊予勢力の圧迫がある間は、細川氏は近藤氏などを保護した。
④大野荘から京都の祇園神社に年貢が手形で運ばれたのもこのような伊予との抗争期のことである。
⑤この時期から荘園領主の祇園社と代官の近藤氏の間では、いろいろないざこざがあった。しかし、伊予との緊張状態が続く中では、細川頼之は祇園社からの訴えを聞き流していた。ある意味、近藤氏にとってはやりたい放題の状況が生まれていたのではないか。
⑥平和時になって、これまで通りの「押領」を続けていたが「所領没収」の厳罰を受ける。
⑦この処罰の効果は大きく、以後近藤氏は15世紀後半ころまで、年貢を祇園社に納め続けている。
⑧大野郷と祇園社は近世に入っても良好な関係が続く背景には、近藤氏の対応があったのではないか。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。以上を、私の想像力交えてまとめておくと次のようになります
①麻地区を拠点としていた近藤氏は、14世紀半ばに京都祇園神社の大野荘の代官職を得ることによって大野地区へ進出した
②讃岐守護の細川頼之は近藤氏など西讃地方の国人侍と連携を深め、伊予勢力の侵攻を防ごうとした。
③そのため伊予勢力の圧迫がある間は、細川氏は近藤氏などを保護した。
④大野荘から京都の祇園神社に年貢が手形で運ばれたのもこのような伊予との抗争期のことである。
⑤この時期から荘園領主の祇園社と代官の近藤氏の間では、いろいろないざこざがあった。しかし、伊予との緊張状態が続く中では、細川頼之は祇園社からの訴えを聞き流していた。ある意味、近藤氏にとってはやりたい放題の状況が生まれていたのではないか。
⑥平和時になって、これまで通りの「押領」を続けていたが「所領没収」の厳罰を受ける。
⑦この処罰の効果は大きく、以後近藤氏は15世紀後半ころまで、年貢を祇園社に納め続けている。
⑧大野郷と祇園社は近世に入っても良好な関係が続く背景には、近藤氏の対応があったのではないか。
参考文献 高瀬町史