瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:讃岐電気株式会社

景山甚右衛門と福沢桃介
景山甚右衛門と福沢桃介
 多度津に設立された讃岐電気株式会社は、社長増田穣三のもとで設備投資を回収するだけの利益が上がらず、経営権が「多度津の七福神」のリーダーである景山甚右衛門に経営権を譲ることになったのは以前にお話ししました。景山甚右衛門は、「電力王」と呼ばれた福沢諭吉の娘婿の福沢桃介を社長に迎えるという形で、経営陣容を整えて祖谷川に水力発電所を作って、これを高圧送電線によって讃岐まで送電するという「水力電気開発事業」を進めることになります。

三繩発電所説明版2
電力王福沢桃介の顕彰に重点が置かれた現在の三繩発電所の説明版
 当時は石炭の値上りで各電力会社共に経営が悪化していました。そのため祖谷川の豊富な水量に目を付けて水力発電への参入を開始します。1909(明治42)年8月30日、徳島県知事に水力利用認可申請を提出し、12月27日に認可を得てると、翌年3月には工事に着工します。このあたりは、多度津の商業資本家たちが景山甚右衛門を中心として多度津銀行を組織し「金融資本」への道を歩み始めていたことが、事業展開を円滑に進められた背景です。三縄発電所の建設は、投資額からしても会社にとっても「大きな挑戦」となるので、これを期に社名を「四国水力電気」と改称しています。

三繩発電所

 三繩発電所は77万円の経費で、2年後の1912(大正元)年10月23日に完成します。
同時に、当時最先端の高圧送電線網も姿を現し、11月10日より香川県に送電されるようになります。三繩発電所の設備は次の通りです。
①高さ13m、長さ7mの堰堤で、祖谷川をせき止め、約1700mの送水トンネル建設
②下流の大水槽に導き入れ、直径2m、長さ50m鉄管四列で水を落とし、
③相交流発電機を回転させ、出力2000キロワットを送電する(後、2400キロワット増設)
三繩発電所2
三繩発電所 (1)
                現在の三繩発電所の廃墟

 ここで産み出された電力は、三好郡内の三繩村・池田町・佐馬地村・辻町・昼間村・足代村・井内谷山村で、主に香川県に供給されていくことは以前にお話ししました。それが可能になる高圧送電線の技術をアメリカから技術輸入しています。これも福沢桃介の送り込んできた技術者集団によるものです。

四水送電線(1925年)
1926年 四国水力電気の送電線網

 続いて、1925年は三繩村大利字路の出合発電所に着工します。  916P
『徳島毎日新聞』(大正14年4月12二日付)は、着工前の状況を次のように記します。
 四國水力電気株式會社の第二發電所(出合発電所)工事 いよいよ起工
前略
落差四百五尺 發電力九千 水路延長祖谷川で四千三百間 松尾川千二百間 殆ど全部隧道工事にて電氣工費を合せば四百萬円の大工事にて三月二十二日準備に着手したる。請負人は福井市の飛島文吉氏にて四國水力電氣会社大利出張所には村井技師金久保土木擔任者外事務員三十名計りにて目下工夫其他人夫等五百名程が入り込み三縄發電所より西祖谷一宇までは電氣線布設の工事中。近日起工式挙行する筈で竣工は来年十月の予定。工夫は少なくとも一千五百名を使用すべく既に数ヶ所に五六間位宛の開坑をなしあり。附近一帯は此の大工事により大いに活気を呈して居る。
祖谷川出合発電所
出合発電所
ここからは出合発電所は、西祖谷山善徳にダムをつくり、この水を一宇の上の貯水タンクに導き入れ、このタンクから約8千mのトンネルを掘って出合の中腹の小タンクに落とし、そこから四本の鉄管で123mの落差を利用して、発電機を廻すものだったことが分かります。大規模な水力発電所で作り出される安価な電力が、四水の競争力となり、他の電力会社との競争に勝ち抜いていく原動力となります。この会社が後の四国電力へと発展していきます。四国電力の百年史を見ると、「祖谷川電力開発」には、多くのページを割いていて、この事業が会社のターニングポイントとなったことを物語らせています。
 しかし、この電力開発事業が地元との紛争を引き起こしていったことについては何も触れていません。
池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」という項目を設けて、三繩村と四国水力電気株式会社(旧讃岐電気株式会社)との間の紛争を記します。ここからは、その紛争を見ていくことにします。
1909(明治42年8月30日)、三繩発電所の着工前に讃岐電気株式会社は三繩村との間に次のような契約書を取り交わしています
①祖谷川上流の木材の流下は隧道内を流すか、入口で適切な方法を設けて木材などの川流しに支障のないようにする。
②三繩村には他村へ供給する定価より減額して供給する。
これ以外にも四水は、相当額の寄付金を口約束で支払うことを申し出ていたようです。こうして両者は円満のもとに工事は着工します。ところが三繩ダムが竣工直前の1912(大正元)年9月に堰堤上部に亀裂が生じ、近くの民家が被害を受け、四水から見舞金が支払われています。この補償額をめぐって両者の関係がギクシャクし始めます。さらに発電所が完成しても事前に結んだ契約書の内容が守られません。材木の川流しのために発電用のトンネル内を流すというのは、どう考えてもできるものではありません。出来上がった材木運搬用の施設も、形ばかりで使えるものではありませんでした。京都の琵琶湖疏水のようにはいかないのです。出来ないことを、四水は約束していたことになります。
 その上に次のような種々の問題が続出します。
①土地買収のトラブル
②開通した祖谷街道の荒廃
③風俗の悪化
地元住民にとっては発電所の建設は何のメリットもなく、犠牲を強いられることばかりでした。
これに対して四水は、三繩村に2200円を寄付を申し入れています。これも事前の口約束よりも、はるかに低額だったようで、村側は受理を保留し受け取りません。
 このような中で1913年9月に、三縄村長に就任した坂本政五郎は、強気の態度で会社と交渉します。これに対して四水は、のらりくらりと要領を得ない対応をとります。村民の怒りは更に高まり、1915(大正4)4年3月18日に村民大会が三縄小学校運動場で開かれます。村民は「四国水力電気株式会社発電所撤廃期成同盟会」を組織し、「発電、送電設備で三縄村にあるものを徹頭徹尾撤廃せしむ」ことを決議します。 その理由として挙げられているのが、次の10項目です。
 一、個人有土地ヲ強制的に安価ニ買収シタル事。
 一、堰堤ノ不完全。
 一、個人(所)有土地ニ損害ヲ与ヘ居ル事。
 一、地方民ニ各種ノ横暴手段ヲナシ居ル事。
 一、上流地ノ水害・山崩壊・保安林・殖産。
 一、魚道ノ件。
 一、地方民俗ヲ悪化シタルコト
 一、負担ノ重課ヲ忍と開盤シタル道路ヲ破壊シタル事。
 一、軌道ノ設備不完全ナル事。
 一、道路変更ノ不備。
(三繩「水力電気業書類」明治三九~大正八年)
 これを受けて村民大会で、次の三項を決議します。
一、四国水力電氣株式会社へ対シノ契約基キ三繩全部電灯ノ供給ヲ要求シ 若しセサル其筋ニ訴訟提起スルコト。
二、同会社ノ事業ニシテ将来物質ノ供給の素ヨリ建築物の貸与人民供給等一切拒絶スル。
三、本村内者ニシテ従来同会社ノ雇人タルモノハ此際解雇ヲ求亦土地建物等ヲ使用セシメアルモノハ解約セシムル(三繩「水力電気業書類」明治三九~大正八年)
意訳変換しておくと
一、四水に対して契約書に基づいて、三繩村全部への電灯点灯のための設備を要求する。もし、それが実現しない場合は裁判所に訴訟すること
二、四水の事業にたいしては、今後は物資・労働力を始め、建築物の貸与などを一切拒絶する
三、三繩村村民で四水に勤めている者に関しては解雇し、借用している土地建物は解約返還すること
これを受けて村長は、村民492名の連判をとり、会社あてに上記内容の「催告状」を内容証明書付で送付しています。これに対して四水は、8月になって次のような返答書が送られてきます。
①全村への電力供給については、県の工事施行認可がないので期日は明言できない。
②電気料割引率は需要の多少によるので、調査の上決定する
村民には誠意ある回答とは受け取れなかったようで、両者の関係はさらに悪化します。これに対して、12月になると徳島県と郡が仲介に入ります。その結果、同意した和解書の内容は次の通りです。

四国水力気株式会社は、6800円を十か年に分割で、毎年680円を三繩村に寄付する。

寄付額が2200円から三倍近くに上がっています。四水からの寄付金で、三繩村は妥協したようです。しかし、三縄村地域への電燈の点火などは未解決のままでした。根本的な解決ではなく、この和解に不満を抱く人達も多かったようです。

大正時代の送電線と鉄塔

 そのような中で第二期工事計画(出合発電所)が出てくると不穏な空気が出てきます。
1923(大正12年8月2日付の『徳島毎日新聞』は次のように報道しています。
四水に対する三縄の不平
四國水電に対する祖谷川筋第二工事損害賠償除外工事につき三好郡三縄村及西祖谷村関係地主に村会より県に対して屡々陳情せし事は既報の通りである。既に一ヶ年を経過するも何ら解決を見ざるは両村会議の不熱心の結果となし村民中は大いに不平をとなえ村当局へ解決を迫るものあり
中略
これに続いて、次のように記します。
①いまだに四水が地元に電灯点灯事業を行わないことに村民の怒りは高まっていること
②これに対して四水が誠意ある態度を見せない
③村民は大きな不満を抱き、今回の第二期工事に対して、会社の対応次第では大反対運動を起こすと息巻く者も多い。

電源開発にともなう地元の犠牲と、それに見合うメリットを補償しない四水の動きが報じられています。これは戦後の国による「地域総合開発」事業のダム建設へと引き継がれていく問題となります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」
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第八回 史談会 増田穣三と景山甚右衛門

今回のお話しは、讃岐の電力会社の創設過程と、それが四国水力発電会社として成長して行くまでの話になります。近代産業としての発電事業を根付かせる苦労を、増田穣三は背負います。それを水力発電の導入によって発展させていくのが多度津の景山甚右衛門です。ふたりの動きについてのお話しが聞けます。興味と時間のある方を歓迎します。
場所が吉野公民館に変更になっています。注意してください。
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琴平以南に電灯が点ったのは百年前 そこには増田穣三・一良の姿が・

  増田穣三の同期代議士 三土忠造と白川友一について

 日露戦争後の1907年(M40)は、増田穣三にとって大きな岐路に立たされた年であった。まず、前年1月に5年間務めた讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の社長職を辞している。(実質的には更迭?)
 続いて、3月には七箇村村長を退任。そして、翌年9月の第3回県会議員選挙に、現職議長でありながら出馬せず8年間にわたる県会議員時代にピリオドを打つ。村長・県会議員・社長という公職を全て辞してどこへ向かおうとするのか。譲三49歳である。

 その後、5年後の1912年(明治45・大正1年)5月)に行われた第11回衆議院議員選挙出馬までの足取りをたどる資料が見つからない。何をしていたのか分からないのだ。ミッシングリングである。今後の課題としたい。

 電力会社経営の失敗を背負って「傷心の日々」だったのか?
 いや、未生流華道の家元として中讃から、阿讃の山を越えて三好方面へ出稽古に出向き、浄瑠璃をうなる日々を送っていたのかもしれない。これで、政治家生命も絶たれて「引退」と思いきや、もう一度出番が訪れる。
1912年 三土忠造・白川友一と共に衆議院議員に初当選。
   当時の香川の選挙区は、高松・丸亀の両市を除く郡部は、大選挙区制であった。この時、政友会から初当選したのが三土忠造・白川友一・増田穣三の3人であった。
この内、三土忠造は、伊藤博文の眼鏡にかなって、
併合前の韓国政府の学政参与官となり、教科書の編纂、学校制度の制定等に手腕を発揮していた。その能力を買われて伊藤の勧めで総選挙出馬のために職を辞し帰国し政友会の候補として、郷里香川県から打って出た。
 三土を支援したのが多度津の景山甚右衛門である。景山は、これを機に衆議院議員を「卒業」し、地盤を三土に譲って全面的支援を行った。三土は「洋行帰りのニューフェイス」であり、「伊藤公の目にとまって朝鮮で働いてきたサラブレッド」というので評判が良く二位で当選している。この後、三土は当選を重ね政友会の重鎮に成長、重要な大臣ポストを歴任していくことになる。
 ちなみに、三位当選したのが増田穣三。丸亀市区から当選したのが白川友一であった。
まんのう町造田出身の衆議院議員 白川友一について
白川友一

 白川友一は1873年(M6)6月11日、まんのう町(旧琴南町)造田出身で父安達小平太、母カノの四男として生まれた。譲三よりも15再年下になる。友一が生まれたときに父小平太は讃岐における明治期最大の民衆蜂起である「西讃血税一揆」の指導者の嫌疑をかけられ入獄中で家計困難な状態にあった。そのため友一は「進学」を条件に養子に出て白川姓を名乗ることになる。立身出世のための勉学への道を諦めずに歩み通し、朝鮮での投資活動に成功し銀行家として地盤を固めていた。
 譲三と共に県会議員に初当選したのが明治32年(1899年)
二人は「同期生」として政友会に属し、堀家虎造代議士を支えていく。そして12年後の明治45年には、そろって衆議院議員に初当選する。譲三の「政治パートナー」して、歩むことになる白川友一について年表で見ておこう。
873年(M6)6月11日、(旧琴南町)造田で生まれる。
1885年12歳で小学校修了。
     成績優秀のため卒業後同校で1年間教鞭をとる。
1886年13歳の時、富豪で質屋を営む横山初太郎の養子となる。
     しかし、京都遊学の願いがかなえられず離縁。
1888年15歳で陸軍の予備校だった成城学校幼年科に入る。
     幼年科・青年科を修了。何回も士官学校の入学試験を
受けたが、身体検査で不合格となる。
1892年父母に連れ戻され、仲多度郡南村(丸亀市杵原町)の白川家の養 子となり、雪泳と結婚。
21歳で南村の収入役、
24歳で七九銀行の支店長となり、次いで高松讃岐銀行専務取締役となる。
1899年26歳で県会議員に選出され8年間活動する。
 日清戦争後の朝鮮半島を県会議員として視察し「有望な市場」であることを認識。朝鮮における運輸、土木、建設の設請負業などさまざまな事業経営に乗りだし、日露戦争後には、中国東北部(満州)にも拡大し、土木建設会社を経営し成功を得る。
丸亀ー下津井間の「金比羅参拝ルート」の賑わい保持を目的に下津井鉄道会社設立時に筆頭株主(500株)として、初代社長に就任
その後も、丸亀市、下津井港との連絡船設備の整備充実などを進めた。
1911年(M45)5月の第11回選挙で衆議院議員に、増田穣三とともに初当選
 当選の年に「軽便鉄道助成法助成法」が成立するが、この成立の中心的な役割を果たしたのが、「衆議院一年生」の白川友一である。「下電社長」という立場から全国の中小の鉄道会社の要求をまとめたもので、この法案成立の結果、全国に続々と生まれつつあった軽便鉄道に政府助成が下りるようになった。この他「軽便鉄道」のみならず運輸・交通を中心に彼が「業界団体の利益代表」として行った衆議院での質疑・要求内容が資料として国会図書館に残っており、政治家として数々の業績を見ることが出来る。
白川友一
下電下津井駅(跡)の白川友一像
  これに対して譲三の国会での痕跡は、ほとんど残っていない。
彼の国会での質問等について国会図書館に資料検索してもらったが出てこない。国会においても県会と同じくで「寡黙な議員」であったようだ。

大浦事件と白川友一

 しかし、ここから白川友一や増田穣三にとって、舞台が暗転する。
それは、第一次世界大戦が始まる1914年に起こる。昭和の「ロッキード事件」と同じように、独での収賄事件調査が飛び火して、シーメンス社による日本の政府高官への収賄事件が明るみになる。この収賄事件を背景に、野党政友会による内閣への攻勢が勢いづく。これに対して大浦兼武内務大臣は、衆議院選挙において大規模な選挙干渉で応じる。丸亀市の選挙区では、内閣に協力的であった白川友一の依頼を受けて、対立候補である加治寿衛吉候補に対し、圧力をかけ立候補を断念させる工作を行う。これが、選挙後に国会に告発される。
 さらに、前年の「2ケ師団増設」問題でも、大浦内相から当時は野党政友会に属していた白川友一や増田穣三を通じて、政友会内の議員に対して与党案に賛成するように工作。つまり、野党政友会の分断工作のために、内務大臣より買収資金が流れたことが判明する。その政友会の切り崩し舞台の中心となったのが白川友一であり、盟友の増田穣三も深く関わる。
 関係議員が逮捕拘束され、白川友一は翌年には議員を失職し、政治声明は断たれた。
明治37年香川新報発行
「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」の中の白川友一の紹介
「年壮にして気鋭覇気」で「技量、其の精神力は旺盛で、その根気強さは讃岐人においては稀に見る人物」と持ち上げ「営利と名声」の「二兎を追う」ゆえに心を悩まされるのではないか。あなたは「花より団子」で名誉は捨てて、営利追求に絞っては、いかがと揶揄されている。
 大浦事件を契機に政界から「追放」された彼は、この「助言」通り「一兎」を追う者へ姿を変えていく。

大浦事件後の白川友一 「一兎を追う」ものへ転身
 この後、彼は3度全国版の一面に登場する。
1921(大正10).3.20 東京日日新聞には
「セ軍の五百万円は日本金貨となる。朝鮮銀行が買い取って造幣局で鋳造」
という大見出しで、ロシア革命の際に反革命側のセミヨノフ将軍が持ち出した金塊横取事件に関わる黒幕として登場。
また1922.10.7(大正11)  大阪朝日新聞では
「武器問題 知らぬ存ぜぬ一点張 問題の白川友一氏語る」
「ゆゆしき失態を演じた武器売渡事件」

の見出しで、日本軍の保管武器が軍閥張作霖軍に売り払われた事件の黒幕として追求を受けている。
さらに、1930.12.1(昭和5)  大阪時事新報では、
「阪神地方を中心に未曾有の薬品大密輸」
「飛行便を利用して疾風迅雷の大活動
首魁乾某風を喰って高飛び 事件伏木にも波及」
との見出しで、大連市内を拠点に国禁ベンモル(モルヒネ)の密輸事件で、
「本事件の一方の旗頭と目されるのは、往年大浦事件に絡って議員買収の張本人となった香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)で峻烈なる検挙の手が延びたのを知ると同時に、到底逃れ能わざるを覚悟して、罪の裁きをうくべく已に自首して出た」と、
その経過が大きく紙面を割いて紹介されている。この記事の中の「香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)」は、白川友一である。
後の裁判では懲役1年6月が求刑されている。
  以上 3記事共に「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫より」

 大浦事件後に白川友一が「大陸浪人」として「雄飛・暗躍」していた姿が紙面から垣間見える。まさに「名声」を追うことを求めず、「花より団子」「営利一番」に切り替わった姿をみる思いがする。
 ただ、彼は1926年(大正15年)に、坂出と琴平を結ぶ「琴平急行電鉄」申請が出されると会社設立のための支援を積極的に行い、資金提供等の協力を惜しまなかったという。郷土香川の鉄道発展への志は、持ち続けていた。
さて、大浦事件の後の増田穣三は、どうしていたのであろうか。

参考資料
 青木栄一 「下津井鉄道の成立とその性格」
  「讃岐人物風景17」 四国新聞 昭和62年刊行
下津井電鉄「下電50年の歩み」 
      所収 「白川友一自叙伝記」「白川友一事業概略」
     「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」 明治37年
       「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫」

  香川県に、はじめて電灯を灯したのは高松電灯だった。

旧高松藩士 牛窪求馬(うしくぼ もとめ)・松本千太郎

創立者の牛窪求馬は、高松藩の家老職の生まれで、高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着た人と言われ「ハイカラだんな」と呼ばれた人。この求馬が高松にも電灯会社をつくろうと決心したのは、明治26年、数え年31歳の時だった。幕末生まれで増田穣三とは同じ世代に当たる。発起人となって同志をつのり、旧藩主の松平家から資金援助もあって、資本金5万円の高松電灯が発足したのは、2年後の明治28年4月。その後、配電区域を着実に拡大していく。

旧丸亀藩内でも、電灯会社設立をめざす動きが二つ動き出す。

るいままとしての365日:景山甚右衛門を知っていますか?(多度津町)

一つは、多度津の景山甚右衛門や坂出の鎌田家を中心とするもの
もう一つは中讃の農村部の助役や村会議員の動きである。
後者の中心人物の一人が増田穣三である。設立呼びかけ人には増田穣三の他、当時の七箇村長や春日の名望家の名前も見える。郡部の地主僧を中心に「電灯会社」設立準備へ向けての動きの中心に穣三はいたようだ。
 もうひとつは、坂出の鎌田家と多度津の景山家の連合体だった。そして、認可が下りたのは後者。鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神」として資本力も数段上の多度津坂出連合ではなかった。譲三が集めた「中讃名望家連合」であった。
 しかし、認可権は得たものの高松電灯のように、殿様の支援があった訳でなく資本も技術も経営術もない素人集団。それが外国から発電機を買い入れ発電所を作り、電線を引いて電気を供給するという仕事に取り組んでいくことになる。当然、難問続出で遅々として営業運転までに到らない。この「電力会社誕生物語」の難産の中に、増田穣三が社長として「火中の栗」を拾わざる得なくなっていくのである。
 実業家 増田穣三の姿は?
 若き日の増田穣三は、華道・浄瑠璃・三味線・書道など文化人としての側面を強く見せていた。村会が開かれた明治23年以後は、七箇村村会議員として村長・田岡泰を補佐してきた。さらに明治27年、矢野龜五郎の退任後には、代わって助役に就任し、政治への関わりをより強めていく。

増田穣三 讃岐人物評論

増田穣三 「讃岐人物評論」(明治37年)より
もうひとつの側面である「実業家」しての一面である。

それをうかがわせる資料が四国水力発電株式会社(四水しすい)の30年史である。これにより「実業家増田穣三」の姿を見ていきたい。
 「四水」の前身である「西讃電灯株式会社」の株式募集の発起人12名に、増田穣三の名前がある。さらに、穣三の後に村長となる近石伝四郎との名前もある。電力という新規事業に、農村部の若き資産家や指導者が関わっていく姿が垣間見える。

増田穣三と電灯会社
西讃電灯設立への歩み
 電灯会社設立の認可が下りると西讃電灯は金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認を求めた。資本金総額12万円  株金額50円 募集株数2400で、払込期限は、明治31年5月5日とされた。これを受けて明治31年9月に正式に会社が創立される。
 しかし、ここからが大変であった。会社は作ったが、素人集団。経験や技術、そして信用がない。工事は進まず開業の見込みもたたず「開店休業」状態が続く。設立時の社長・副社長は県外人で直接業務に関与せず、責任の取りようもない。このような状況に対して株主の不満は高まり、明治33年10月21日 臨時株主総会において、役員の総入れ替えを行い、同時に社名を「讃岐電気株式会社」と改称した。 何が営業開始の妨げとなっていたのだろうか。株主宛の報告書を少し長いが見てみよう。

明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  (四水30年史よりの意訳)

 我々が、前重役諸氏に代わって就任して以後、工事を進捗せしめ、発電機等が到着すれば直ちに据付ができるように準備を進めてきた。しかし、内部の整理に多くの日時費やし、事業の進捗が見られないのが現状である。
電柱が建てられない・・・・
 電柱は、明治32年4月より讃岐鉄道多度津停車場に到着しており、丸亀市や多度津町の市街地において電柱工事に着手し、引続き市外での建設を行い、次に琴平町や善通寺村にも伸張していくつもりである。市外工事は、田野に建設することになるが土地所有者から電柱建設の承諾は得ている。しかし、不動産登記法により地上設定の登記を行わなければならない。これには、該当書類の手続きや押印に時間がかかり大幅な遅れとなり、市外への電柱工事は進んでいない。このため予定通り、市街地内での建設と同時に土地登記を行い、その後に田野に建柱し架線工事を終え、各戸に電燈器具の取附引込を行う手順となる。予定からすれば、今秋には架線工事を完了させるはずだったのに未だ終わっていない。このため工員等を増員しても早期完成を図るべきだと冷評する人もいるが、それは皮相な見方で我社の方針を知らないからである。
また、本社建築についても直ちに着手しないことについて悪評がある。
これもまた我社の方針を知らない者の言である。建築物についてはわずか5,6000円で落成を見ることができる。しかし、機械室に至っては外國より機械据付の設計図及ボートゲージ等が到着しなければ地形杭打煉瓦積工事に着手することができない。従って機械室の建設着手を待たずに、付属建物に着手すれは手直しが必要になる可能性が大である。
発電機械の一部は、請負者が外国に発注しており、遠からず到着の見込みであるが、前重役時代の時のように機械は到着するが株金振込が遅々として進まず、機械の引き取りができない可能性も残る。
 そうなれば、請負者も融通の道がなく手附金の損失となる。機械は、他の会社に廻される不幸の再演を恐れる。そのため全額支払いとせず分割支払いにしていたが、内部整理のために日時は空しく過ぎ、第2回振込期日を3月末と定めたところ第79銀行の破綻となった。我社は別に関係する所ではなかったが経済界不振の状況のため銀行は警戒を強め貸出を躊躇し、第2回株金振込も完結できない状態となり、工期完成を延長せざる得なくなった。
 発電機械の図面がなければ、大きさが分からず家屋をつくれない
その間に、外国より発電機械の図面が到着すれば、直ちに機械室内杭打工事に着手し引き続き煉瓦積を行い、同家屋の起築に着手する。そして、諸機械到着を待って据付工事の準備を行い、一方においては市内の架線工事を行っていきたい。しかし、郊外の田野の架線が出来なければ、雨露に曝して痛みを早めることになりかねない。そのため世評の如何を顧みず架線工事を後にして、来月末日より電燈需要の申込を受付け、各戸の電燈器具取付工事を開始し、秋以後に住宅への架線引込工事に移りたいと考えている。
 以上、述べてきたように工事遅延の理由と、また、今後の運営方針についてご理解頂きたい。
そして、来年4月高松市で開かれる関西府県連合共進会期前には送電を開始したい。そうすれば電燈需要数の増加を見込める。機械発注の請負者に対しても、すでに外国の機械製造所と仮契約をしていることを挙げて、電報で至急調整を促し、来年2月完成、3月中には逓信大臣の免許を受け4月1日より開業を目指したい。
 株主諸君には、これらの事情を充分了解してりて当會社の被るべき風評を退け株金振込についても遅延することなく振り込み願いたい。また振込にあたって遅れる者があれば共済の策をとるなどの方策も採りたい。早く工事を落成させ、萬歳歓呼の間に試運転の好成績を告け、早く幾分の利益配当を得て、本会社の声價を挙くることに勉められんことを
 会社設立後、2年も経っているのに営業運転に入れない理由をまとめると

増田穣三 電灯会社営業開始の遅れ

  以上のような要因が重なり、営業開始が延び延びになり、会社に対しての「非常の悪評」「冷評」が噴出している状況がうかがえる。
 この株主総会で約束した「明治35年4月1日営業開始」も守れず、営業開始への見通しがつかないまま渋谷武雄社長は病気辞職。これが明治35年8月のことである。

代わって、取締役から社長に就任することになったのが穣三である。

増田穣三と讃岐電気
増田穣三と西讃電灯設立
 彼は、2年前から七箇村長、県会議員(参事)を務めていた。
この局面打開に彼の政治力を期待しての社長就任と言うことではなかったかと推察する。しかし、会社の置かれた状況から見て「据えられた社長」的存在だけに留まることは許されなかった。
 社長就任3年後の明治37年に出版された「明治37年出版 讃岐人物評論   讃岐紳士の半面」には、「讃岐電気社長・県参事会員 」の肩書きで増田穣三が紹介されている。
「入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必」
と「実業家としてのお手並み拝見」的な内容である。さてそれでは、増田穣三の実業家としての「手腕ぶり」を見てみよう。

明治35年8月の株主総会への増田穣三社長の報告書 

当会社事業は、株式不況の現状に加えて軽便電燈の出願があり、大きな影響を受け、営業開始が累々延期を重ね今日に至っている。もはやこれ以上の延期ができない所まで来ている。そのための対応として、工事の速成を計るために請負者才賀藤吉氏を通じて、技師工學士梶平治氏を渡米させる交渉に当たらせ本年9月中旬には諸機械の到着する予定となった。そして、10月の琴平大祭までに開業できる目論見である。開業期日が判然としないため電灯申込者が、現在の所は少いようであるが丸亀の兵営郵便局や昼間の電動力を使用する事業所等とは着々と交渉を進めつつある。
 また、一般需要者に対しても大々的に募集計画を周知しており、その結果坂出町などでは電線延長を申請する動きもあり、開業の暁には香川の地方電燈會社の中では、優に覇たるものになるとと信じている。乞ふ株主諸君開業期間の遅延を咎めさらんことを
 社長に就任した穣三は、技術者を渡米させると共に、善通寺師団等の大口需用者の確保を進め、琴平大祭の十月初旬には「開業せん目論見」であった。しかし、「障害百出」と設計変更に伴う認可申請のやり直しで、半年遅れの明治36年3月15日になって、初めて多度津の町に電灯を灯すことが出来た。送電営業開始は、それから4ヶ月後の7月30日であった。計画から8年、会社設立後5年の歳月を経ての難産ぶりであった。開業に向けて足踏み状態にあった電力事業を、営業運転にまで導いたという評価は出来るだろう。
 しかし、開業から1年目の株主総会。第1期の営業成績は次の通り

電灯会社の収支決算 開業年
讃岐電灯開業1年目の営業成績(1904年)
 収入が支出の三倍を超える大赤字である。これを受けて、増田穣三社長は次のように報告している。
明治37年7月 株主総会における増田穣三社長の報告
営業開始以来いまだ日が浅く、受電所の設備などが未だ完成に至っていないため、師団聯隊等の多数の需用に応ずることできていない。わずかに丸亀・多度津の区域内において零細の申込を受けながら480餘個の点灯数に達しているにすぎない。そして、今後は加入者が増加することが望めるが、現在の発電能力では、すぐに需要をまかないきれなくなることが予想される。設備の不完全が営業の不況を招いている。
 誠に遺憾であるが資本欠乏の状態でかろうじて開業にたどりついた現状では、漸進企画の途上にあり、やむを得ないと云はざる得ない。来年初夏の頃、工事全部の完成になれば我社の営業は近き将来において、一大盛況を呈すであろう。期して待つ可きなり
  営業開始から1年で、点灯受容者は480ヶ餘に伸び悩み、収入は支出の1/4程度。繰越赤字は80000円を超える状態である。
 しかし、現時点の苦境よりも未来を見つめよとし「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」と大幅な欠損にもかかわらず、決して悲観せず大いに望を将来に託すべしという言葉で締めている。
増田穣三の方針は「未来のためへの積極的投資」であった。
 例えば、日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が讃岐電気に発注されることになると、お国のためにと採算度外視で対応し短期間で完成させている。さらに、明治38年には琴平への送電開始され、電力供給不足になると150キロワット発電機を増設し、210キロワット体制に設備投資を積極的に行った。
増田穣三 電灯会社の経営をめぐる対立
讃岐電灯経営戦略上の対立
 しかし、日露戦後の景気悪化のため契約数が伸びず、新設備投資が経営を圧迫するようになると、増田穣三の経営に対する不安と不満が起きてくる。 設立以来の赤字総額は8万円を越えていたようだ。

「投資拡大路線」の継続か、欠損金を精算して新体制でのやり直しかをめぐる経営上の対立が激しくなっていった。

 この時期、政治家としての増田穣三は、明治38年11月の第7回通常県会で第13代県会議長に選任されていた。43歳だった。議長としての職責を全うするためか、この時2つの決断を行っている。

増田穣三の責任の取り方
1つは、1906年1月に讃岐電気社長を辞任。
2つ目は、3月には七箇村長を退任
3つ目は、1907年9月の県会議員選挙に出馬せず
こうして、約4年間の増田穣三の「讃岐電気社長」時代は終わる。
増田穣三が去った後の電力会社は?
今までの欠損を、資本金を切り崩すことによって精算する道を選ぶ。 
会社は明治40年5月、12万円の資本金の内の84000円を「減少」して、いままでの損失を補填。残りの36000円を資本金とした。この結果、出資者たちは収支額の約2/3を失うことになった。損害を受けた大口株主として、
「安藤氏に於て8萬六千圓餘、長谷川氏に於て二萬二千円餘、増田穣三氏に於て千圓餘の損失となるも本社の革新を図る主旨により茲に至りたるものなれば、会社か前者に對する功労の偉大なるを認む」
と、新社長景山甚右衛門は株主総会で謝罪している。
 電灯会社設立に向けて、中讃の資産家に投資を呼びかけるなど当初から中心メンバーとして関わってきた穣三が失ったものは投資額の1000円という金額を遙かに超えて大きかった。戦前の地方の名望家達は、ネットワークを形成しており色々な情報・話題が飛び交う。「資本減少」という荒治療は、この電力会社の設立を当初より進めてきた増田穣三への信用を大きく傷つける結果となった。穣三自身も責任を痛感していた。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないか。

多度津の景山甚右衛門を社長に迎えて会社は「資本減少」という「荒治療」と同時に、役員の更迭を行なって、景山甚右衛門を社長に、武田熊造を副社長に迎え、地元多度津の有力者による重役陣体制を作った。その上で、この年の8月の臨時総会で、114000円(2280株)の増資を行った。この増資の引受人は「前項新株式は全部景山甚右衛門、武田熊造、武田定次郎、合田房太郎、磯田岩5郎の5氏に於て引受くるものとす」とされた。結果から見れば後に「四国有数の優良企業」に成長するこの電力会社は、出資者も経営者も多度津関係者で固められることになる。

 この後の技術革新で水力発電で電気を生み出し、高圧送電技術の進歩を受けて遠距離送電が可能になる。新社長の景山甚右衛門は、いち早くこの技術を取り入れ社名も「四国水力電気株式会社」(四水)と改名し、後の四国電力に発展していく。増田穣三が、社長を務めたのはその前史にあたる。

  少年期に「和漢の学」を学び、華道や書道に楽しんだ少年が明治を迎えて、村の指導者として成長して村長職に就く。そこから県会議員や議長にまで成長していく。そして、道路や電気などの当時の最需要インフラ整備に関わっていくことになる。明治という時代は、若き人材を走らせながら育てていく時代なのだと改めて思う。
 さて、譲三は村長と県会議員から身を引き、電力事業からも遠ざかる。45歳である。


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