高松城 周辺地理図
讃岐国髙松・丸亀両城図 讃州髙松
この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。簡単な線で描かれていて、景観はかなりデフォルメされていますが、高松城成立当初の周辺地形を知る上では貴重です。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」(以下「通記」)は、江戸初期の高松城周辺の地形について、次のように記します。
 寛永ノ比今八十年ノ古迄ハ其要害ノ体モ残テ我見之也。先(A)江東ノハナ穴薬師卜云々観音ノロ迄満潮サシ込、山ノ側二上リテ往来ス。干潮ノ時ハ潮地ヲ渡ル也。西浜楯ノ木ノ辺ヨリ潮渡于ンテ満潮ノ時ハ山ノ根一円二広海卜成也。四月三日右馬頭臨時祭ノ時、(B)石清尾塔ノ下橋迄潮指込タルヲ我之ヲ見ル也。(C)東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟い坂田中河原迄潮先来ル也。
 
意訳しておくと
 寛永の今に比べて、八十年前まではその要害の地形も残っていたのを私も見た。(A)「江東ノハナ(鼻)」の穴薬師のある観音口まで潮が満ちてきたときには海が差し込んできた。その時には、山側に上って往来したものだ。そして、干潮時には波打際を歩いた。西浜楯ノ木の辺りから潮は入り込み、満潮時には山の麓付近まで一円の海となった。四月三日の右馬頭観音の祭の時には、(B)石清尾塔の下橋まで潮が満ちてきたのを私は見たことがある。
(C)東浜は野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。
 享保期(「通記」の成立時期)よりも80年年ほど前の寛永時代には、海岸線が内陸に入り込んだ様子が記されています。(A)江東ノハナ穴薬師」は、「讃州高松図」の①「カウトノハナ(郷東ノ鼻)、城ヨリ一里」にあたるようです。
それでは(A)は、現在のどこにあたるのでしょうか?
   「穴薬師」については、『讃岐国名勝図会』の「松岩寺」の説明に次のような記述があります。
「岩窟に薬師を安置す、穴薬師といふ。往古は海岸なりしとぞ」

ここからは松岸寺に「穴薬師」があり、付近が海に面していたことが分かります。地形描写が「通記」の記述と一致するので、「穴薬師」は、松岩寺(高松氏西宝町)の位置にあったようです。
高松市松岩寺
 
松岩寺の位置を「グーグル」で確認すると、石清尾山麓の北端にあたります。かつては海に突き出す岬の先端だったことが分かります。

 「江東ノハナ(鼻)」の穴薬師のある観音口まで潮が満ちてきたときには海が差し込んできた。その時には、山側に上って往来したものだ。そして、干潮時には波打際を歩いた

 とありますから満潮時には、ここまで潮がやってきて、人々はここを往来するときには、山手の上の道を選んだようです。海への突出地形を示す「ハナ=鼻」の表現にふさわしい場所です。「穴薬師」があった「江東ノハナ」=「カウトノハナ」は、松岸寺付近の地点としておきましょう。
野原・高松・屋島復元地形図
中世の髙松湾と野原
 絵図には①「江東ノハナ」からさらに②「いわしお山=石清尾山」の麓まで海が入り込んでいる景観が描かれています。これも「通記」(B)の石清尾八幡宮付近まで潮が満ちたのをかつて目撃したこと云っていることと符合します。17世紀には、西宝町から昭和町を経て岩清尾神社付近までは入江が入り込み、干潟だったようです。そして、中世は現在のサンポート周辺が河口の一部でした。

「昭和町」の歴史を振り返って起きます。
①近世当初は昭和町は、河口に湿原だった
②松平氏の時代になり岩清尾八幡により開拓され寺領となる
③開拓地の水資源として姥ゲ池が築造される
④明治の上知令で岩清尾八幡の社領は国家に没収される
⑤以後、学校施設が配置され、住宅化がすすんだ。
高松市東部グーグル

 次にお城の東側を見てみましょう
  「通記」の(C)「野方口迄潮サシ込」と、図中右部分に見られる④「ノカタ(野方)ロ」の付近が海岸となっている様子が一致します。
「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の
「高松ヨリハ嶋ヘー里半、塩浜一里」の説明文と合います。
「南海通記」の
「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」

と思われる道が、図では「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように、「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。真言宗のエリート僧の四国巡礼記録です。一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が記されています。

 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。④の野方口とは
干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。

高松天正年間復元図1

  高松絵図で城の部分を拡大してみましょう
高松絵図 15の拡大

この絵図には外堀、中堀、内堀の三重構造、西ノ丸を含むL字形の曲輪、三ノ丸・ニノ丸・本丸と渦郭状に連続しする構造が描かれています。ここからこの絵図が描かれた慶長後期の時点までには、高松城の基本的な構造は出来上がっていたことが分かります。

 絵図の⑨と⑭には、東西それぞれ「舟入」の書き込みがあります。
高松城の特徴のひとつは、堀を港としていることです。それが絵図からも確認できます。
 しかし、西側の舟入の位置については、後の絵図の一致しますが、東側については「舟入」の書き込みが外堀ではなく、中堀の所にあります。また、この段階では舟人の入口部分には、施設の設置などが見られないようです。
 城の海側の北面部分には、矢倉(櫓)が二つ描かれ、三ノ丸北部には門が設けられています。門は海側にあり、海に直接出るような構造に描かれています。城の外郭に接続してもおらず、具体的な機能は不明です。
高松城北側の海岸利用図
 城下の様子を見てみましょう
高松城 周辺地理図

外堀と中堀間に⑩「侍町」があり、東側に⑧「町屋東浜」⑩「町屋西之丸浜」と記されています。その他に城から南東の位置に③「町屋」と記されている場所が見えます。これは、中世の野原段階で形成された町かもしれません。
「町屋京浜」は、生駒時代後期には「東かこ(加古)町」となる地域、「町屋西之丸浜」は武家地となる地域です。つまり、この絵図に示されたものと後の城下町プランには、かなり違いがあることが分かります。この絵図では城下は、外堀を境界線として、
外堀内=城郭内に「侍町」=武家地、
外堀外=城郭外に「町屋」=町人
という明確な区分けがあったことが分かります。そうすると、東側の中堀にある「舟人」は誤まって記されたのではなく、この位置に舟入があった可能性があるようです。

外堀の南側を見てみましょう。
ここには丸亀町を中心に町人地が続くエリアの筈ですが、何も描かれていません。南東のやや離れた場所に「町屋」があるだけです。
 丸亀町の名の由来については、「綾北問尋抄」に次のように記されています。
「同(慶長)十五年(生駒)一正卒し給ふ。時に五十六歳。令嗣左近太夫正俊世を継ぎ、高松の城に居住す。此時丸亀の市店を高松の郭に移し、丸亀町といふ。」

ここからは、慶長15年(1610)、生駒正俊(三代目)が丸亀城下の商人をここへ「強制移住」させて街並みを整備したことが分かります。この絵の外堀南側には「町屋」がないのは、その「強制移住前」の前の状態が描かれているのかもしれません。
 生駒時代の当初の町屋形成は、東西の舟入の外側のエリアで優先的に町場形成が行われていたようです。そのあとに丸亀城からの商人を、外堀南側の街道沿いに配して丸亀町が形成されたとしておきましょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 御厨 義道     高松城における海辺利用の変遷について