金倉寺調査報告書を読んでいると、近世の「金倉寺縁起」に円珍の祖先が悪魚退治伝説の讃留霊王の子孫として記されていることを知りました。讃留霊王伝説が丸亀平野にどのように拡がって行くのかについて興味があります。そこで今回は、「讃岐国鶏足山金倉寺縁起」を見ていくことにします。
金倉寺の縁起でもっとも知られているのは「讃岐国鶏足山金倉寺縁起(上中下3巻)です。
これは『香川叢書』第一(1939年)に収録されているので、今回はこれをテキストとします。まず「金倉寺縁起」の成立契機について押さえておきます。下巻本文に「享保十九(1734)年の今」とあります。また末尾の奥書に、次のように記されています。
「現住権大僧都了春、博く旧典を取り、且その訣漏を補い、精選するところなり」
ここからは享保19年(1734)に、金倉寺五世の了春によって作られたことが分かります。それを寛保2年(1742)に本山三井寺の長吏祐常が上中下3巻を浄書したものが現在のもので、各巻の内容は次の通りです。
上巻は日本武尊・讃留礼王から智証大師舎兄原田長者和気善瓢までの代々の綾氏(酒部氏、和気氏)の事績と金倉寺前身寺院のこと
中巻は智証大師の前半生のことで、誕生から入唐を経て帰国後の天安2年(858)に道善寺(金倉寺前身)を拡大改営するところまで
下巻は前半が貞観元年(859)からの智証大師の後半生の伝で、後半には智証大師入寂後、康済律師によって大師祖像が祀られ、延長6年(928)に勅に依り金倉寺と名を改めて以後、建武・天文の兵乱による退転・真言宗への改宗を経たこと。寛永19年(1642)に松平頼重により再興され、慶安4年(1651)に天台宗に改宗され聖護院門跡末寺になるまで
今回見ていくのは、上巻の始祖神櫛王から和気氏にいたる部分です。
これに先立つ金倉寺の縁起は、次のようなものしかありません。
元禄2年(1689)寂本 『四国偏礼霊場記』元禄13年(1700)「覚」「金倉寺由来及び什宝書上げ」
これらは内容は簡略で不充分なものと研究者は評します。つまり、この縁起が18世紀前半に書かれるまでは、金倉寺の寺史、寺伝はほとんど整えられていなかったことになります。「了春が広く旧典を収集し、その訣漏を補って、精選」したのが「金倉寺縁起」になるようです。享保19年以前に、了春は「讃岐国那珂郡鶏足山金倉寺来由」を髙松藩に提出しています。髙松藩に求められて提出したこの「由来レポート」が契機となって「鶏足山金倉寺縁起縁」につながっていったと研究者は推測します。「予習」は、このくらいにして実際に読んでいくことにします。


讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO1
意訳変換しておくと
前略讚岐國那珂郡の鶏足山金倉寺は、護法善神の出現する名跡であり、智証大師生誕の霊場でもある。その源を察するに、十二代景行天皇の第二皇子である小碓命(ヤマトタケル)は、魁偉で、身長一丈(=10尺=3mあまり)で、有智に長けて、力は鼎を持ち上げるほどであった。若い頃に父の天皇の命で、何度も東西の逆徒を討ち、内海を平定した。そこで日本武尊と呼ばれた。武尊には十四人の男子と一女がいた。長男が稲依別王、次男が足仲彦箪(仲哀天皇)、
上記の記述を紀記で確認しておきます。紀記には、神櫛王は景行天皇の子で、日本武尊(倭建命:ヤマトタケル)の弟と記されます。髙松市牟礼町には宮内庁が管理する神櫛王の陵墓があります。「神櫛王の悪魚退治」として世間では知られています。ところが、金倉寺縁起に出てくるのは神櫛王ではないのです。ヤマトタケルの4男武卵王(たけかいこう)が悪魚を退治したと記します。
紀記に登場するのは神櫛王のみです。しかも、神櫛王が悪魚退治を行ったことにはどこにも触れていません。悪魚退治伝説が登場するのは中世になってからであることを、ここでは押さえておきます。
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO2
意訳変換しておくと
三男が稚武王、四男が武卵王(たけかいこう)で、これが綾氏に始祖になる讚留霊王のことである。讃留霊王は、人に穏やかに接しながらも謀りごとに長けていた上に勇敢でもあった。成務天皇の時に西海に大魚が現れ大いに暴れ、民は苦しんだ。そこで天皇は武卵王に、これを討つように命じた。武卵王は熊襲の士を率いて力の限りを尽くして戦い、ついに大魚を讚州の海中で倒した。天皇はこの功績を讃え、武卵王を讚州の地に留めた。そのため自からを讃岐の国名にちなんで讚留霊公と称するようになった。また霊公の胸には「阿野(綾)」という二文字があったので阿野という姓を賜った。そして阿野の地で居住した。霊公には三男一女の子がいた。神功皇后40年9月15日に、125歳で亡くなった。聖武天皇帝年中に、高僧の行基が、霊公旧跡に法動寺を建立した。さらに延暦13年、法動寺を鵜足郡井上郷に移して、弘法大師が薬師如来と十二神将、四大天王像を自ら造って安置した。又五佛像・三屠賓塔も安置した。
この伝説が現れるのは中世になってからです。古代の讃岐綾氏の武士団化した讃岐藤原氏(羽床・香西氏)などが自分たちの系図の巻頭に登場させたのが悪魚退治伝説であることは以前にお話ししました。
綾氏系図(明治の模造品)
悪魚退治伝説のシナリオを簡略化し、ポイント化すると次のようになります。

悪魚退治伝説のシナリオを簡略化し、ポイント化すると次のようになります。
面白おかしく語られたのは、②のアクション場面です。しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が「讃岐国造の始祖」で、綾(阿野)氏と称したという所です。羽床氏や香西氏にとって祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったことを押さえておきます。そのために、近世になると「讃留霊王の舘は、ここにあった」と、尾ひれのついた話が付け加えられていくことになります。
もうひとつ押さえておかなければならないことがあります。悪魚退治伝説の主人公が髙松と丸亀では異なることです。これはどうしてでしょうか?

髙松方面では神櫛王が主人公で、宮内庁の管轄する陵墓が牟礼にあることは以前にお話ししました。それに対して、丸亀方面では武卵王(諱を讃留霊王)とします。
こちらは飯山町の法勲寺にある岡が陵墓とされ神社が建立されています。宥範縁起を通じて広まった髙松地域は神櫛王を、綾氏系図は「霊公」としていることによるのかもしれません。もうひとつは、髙松藩が牟礼の墓地を神櫛王陵墓に選定し、明治になってこれを宮内庁も追認します。そうすると、それまで神櫛王の陵墓だと主張していた所は名のれなくなり、讃留霊王陵墓を名のる所も出てきたようです。脇道に逸れましたので、元に戻ります。
その後、讃留霊王の供養のために行基が福江(坂出)に法勲寺を建立します。それを後に、弘法大師が井上郷(飯山町)に移して、法勲寺は大伽藍へと成長していきます。この由来を書いたのが、羽床氏や香西氏の氏寺とされた法勲寺の僧侶でした。
意訳変換しておくと
(法勲寺造営の際には)讃岐國内の僧侶達は鐵筆で五部大乗典を陶瓦に彫り、霊公の墳墓を覆った。九月十五日には法華八講を唱え、霊公に捧げる。この功徳によって長らく凶事は起こらず平穏であった。このような平安を人々は法勲寺のお陰であるとした。桓武帝はこれを聞いて、勅して法勲寺を官寺として、官戸五百戸を寄進した。綾姓第二世は、綾鵜足と云う。周辺の開拓・開墾に努めたので、天皇は国造の称号を与えた。応神天皇の時には、拠点をここに移して、その地を鵜足郡と人々は呼ぶようになった。綾姓第三世は綾隈玉で、巨富を有するようになり、仁徳天皇8年に三井上郷に移った。綾姓第四世は綾真玉で、允恭天王26年に108歳で亡くなった。綾姓第五世、綾益甲である。允恭天皇27年7月7日の夜夢で、益甲が艮維涌泉で、その水底をのぞき見ると輝く玉が見えた。すると「この玉、取るべし」という声が聞こえてきた。目が覚めた後で、すぐにこの泉を探すと、その珠玉が見つかった。その大きさは五寸ほどで、星影を映し、螢のように瞬いた。そこで宝殿に安置し厚く敬った。それからは、霊験が次々と現れ、凶事は何事も起こらなかった。これを妙見尊と呼ぶようになった。
悪魚退治伝説は法勲寺縁起でもあるので、法勲寺のことにも多くが割かれています。法勲寺は古代末には退転し、その流れを汲む近隣の島田寺に吸収されたようです。以後、古代綾氏の子孫の業績が語られています。なお注目しておきたいのは「妙見尊(神)」が何度も現れていることです。この縁起を書いた了春が修験道の「妙見」信仰を持っていたことがうかがえます。近世半ばの金倉寺では、妙見信仰が強かったようです。
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO4
意訳変換しておくと
雄略天皇の時には 甕の麦酒を天皇に献上し、天皇から賞賛され、酒部黒麻呂長者という称号をいただいた。それは献上した酒が黒色だったからである。第5世は仁賢天皇九年八月十日に、105歳で亡くなった。綾姓第六世は、酒部鵜隈。綾姓第七世、那珂畝首領酒部成善。宣化天皇三年正月朔日夜に、妙見尊が成善小女に託して曰く、我宮を那珂郡の吉野郷に移せば吉兆ありと。そこで吉野郷に移住したところ開墾が大いに進み、天皇は那珂畝首領の称号を下賜された。達天皇九年正月十五日に、103歳で亡くなった。綾姓第八世は酒部善満長者という。
丸亀平野南部の文書を見ていると「酒部黒麻呂」と、その子孫がよく出てきます。どんな由縁があるのかと思っていると、讃留霊王の子孫として近世になって作り出された家系のようです。ここからは近世になると、讃留霊王の系譜が讃岐藤原氏だけでなくさまざまに付加されて、綾郡から鵜足郡、そして那珂郡へと伸びていくことが記されています。
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO5
意訳変換しておくと
綾姓第九世は郡家戸主の酒部善里である。舒明天皇9年正月18日、妙見尊が再び信託を下し、原田東郷に移るべしと。これより以後は人々は、この地を郡家郷と呼ぶようになった。ここは郡主の居館のあったところである。ここで善里は沙門に仏教の教えの深きことを聞き、信仰するようになった。そこで小さな仏像を彫って常に髪の中入れるようにした。そして往生の志を持つようになったという。白鳳三年正月十一日に、奄爾は99歳で亡くなった。綾姓第十世は木徳戸主 和氣善茂と云う。
慈仁に深く、常に貧困者には施しをした。二男一女があり、白鳳14年正月朔日、妙見尊が、その娘に信託して曰わく、急いで原田西郷に移るべし。そこで原田西郷にすぐに移り住み、この地の経営に励み、日ならずして開墾の成果を収めた。そこで、原田西郷に寺院を建立し、自ら薬師如来立像を彫って安置した。その堂前後左右に杷木十二株を植えて瑠璃世界七賓行樹を表現した。朱雀元年五月には、疫病が流行し、死者が数多く出た。善茂はこれを憐れんで薬師如来仏に祈った。すると、堂前の枇杷の実が熟し、たちまち金鈴となった。善茂がこれを病者に食べさせると、一人として死者は出なかった。そこでこの枇杷の実を天皇に貢納した。
ここで綾氏(酒部氏)が土器川を東に越えて、那珂郡の原田東郷(郡家)に進出したと記します。そして、舒明天皇の時代に仏教を信仰する祖先がいたとします。そして、またも妙見神のお告げで原田西に移り住み、そこに初めての寺院を建立します。これが初めて和気姓を名乗る善茂です。
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO6
意訳変換しておくと
讃岐国鶏足山金倉寺縁起 上巻NO6
意訳変換しておくと
郷からその効能が伝えられると、天皇はかつてないほど悦び宣命を下して云うには、木の実は甘美で、人の氣力を高める効能がある。褒美に主領の地位を与えよと。こうして和氣善茂は木に縁があると、人々は木徳公と呼ぶようになった。そして、この地は木徳郷と称された。この年八月、木徳公の創建した寺院は金林寺と称され、荘田十二頃が寄進され官寺となった。 こうして宣命で讚岐國木徳金林寺は、和氣善茂が創建した寺院で、医王善逝應化の梵刹となった。天平十三年十二月十日、善茂は病もなく東方に向かって逝った。異香が室に満ち連日に渡って香った。綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。
天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、仏の三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成が云うには中冬の初めに私は去る。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じて端坐して逝った。112歳であった。
以上をまとめておきます。
①和気氏の系図は「讃留霊王 → 綾氏 → 酒部氏 → 和気氏」と変遷する。
②和気氏のルーツは悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏から別れた系譜とする
③綾氏・黒部氏・和気氏の間に、妙見神の信託で居住地を何カ所も換えた記されること
④その間に、阿野郡から鵜足郡を開発開墾し、那珂郡に進出し金倉寺周辺に定着した。
⑤そして、木徳に初めて氏寺である金林寺を建立した。
⑥続いて、和気道善が原田中郷に、自在王堂を建立した。
ここからは金倉寺縁起の作者が和気氏の系図を、綾氏に接ぎ木したことが分かります。その結果、和気氏は綾氏の分派だが共通の祖先である讃留霊王の子孫であるとの認識が広まるようになったようです。丸亀平野南部では、和気氏の子孫を名乗る有力者が多かったようで、自らを讃留霊王の子孫とする系図が現れるようになります。いうなれば讃留霊王信仰が近世後半から明治にかけて拡がるのです。そして、なんでもかんでも和気氏や酒部氏を通じて、讃留霊王に結びつけられている風潮が強くなるのです。まんのう町の矢原家関係の文書を見ていても、それを感じます。その背景のひとつが、18世紀前半に成立した金倉寺縁起にあるようです。
なお、「和気氏=讃留霊王の子孫」説は、現在では否定されています。
その根拠となるのは近江の圓城寺に残されていた「円珍系譜」です。今はこれは国宝となっていますが、そこには次のようなことが記されています。

①和気氏はもともとは因支首氏と名乗っていた。その拠点は現在の善通寺市稲木(因支首)であった。
②しかし、因支首氏は奈良時代に和気氏への改姓申請を朝廷に提出し認められている。
③その理由は、因支首氏はもともとは伊予にいたときには和気氏を名乗っていたからとある。
ここからは和気氏が伊予からやってきた氏族であったことが分かります。綾氏とはつながらないのです。また円珍周辺の系図を見ると次の通りです。円珍系譜で、因支首氏で一番古くまで辿れるのは「身」です。


これを見ると分かるとおり、円珍が残した「円珍系図」と、了春の「金倉寺縁起」の人名は合致しません。ここからは了春は、「円珍系図」を見ずに、この間の人名を「創作」していることがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「讃岐国鶏足山金倉寺縁起 『香川叢書』第一(1939年)
関連記事②和気氏のルーツは悪魚退治伝説の讃留霊王にあり、綾氏から別れた系譜とする
③綾氏・黒部氏・和気氏の間に、妙見神の信託で居住地を何カ所も換えた記されること
④その間に、阿野郡から鵜足郡を開発開墾し、那珂郡に進出し金倉寺周辺に定着した。
⑤そして、木徳に初めて氏寺である金林寺を建立した。
⑥続いて、和気道善が原田中郷に、自在王堂を建立した。
ここからは金倉寺縁起の作者が和気氏の系図を、綾氏に接ぎ木したことが分かります。その結果、和気氏は綾氏の分派だが共通の祖先である讃留霊王の子孫であるとの認識が広まるようになったようです。丸亀平野南部では、和気氏の子孫を名乗る有力者が多かったようで、自らを讃留霊王の子孫とする系図が現れるようになります。いうなれば讃留霊王信仰が近世後半から明治にかけて拡がるのです。そして、なんでもかんでも和気氏や酒部氏を通じて、讃留霊王に結びつけられている風潮が強くなるのです。まんのう町の矢原家関係の文書を見ていても、それを感じます。その背景のひとつが、18世紀前半に成立した金倉寺縁起にあるようです。
なお、「和気氏=讃留霊王の子孫」説は、現在では否定されています。
その根拠となるのは近江の圓城寺に残されていた「円珍系譜」です。今はこれは国宝となっていますが、そこには次のようなことが記されています。

①和気氏はもともとは因支首氏と名乗っていた。その拠点は現在の善通寺市稲木(因支首)であった。
②しかし、因支首氏は奈良時代に和気氏への改姓申請を朝廷に提出し認められている。
③その理由は、因支首氏はもともとは伊予にいたときには和気氏を名乗っていたからとある。
ここからは和気氏が伊予からやってきた氏族であったことが分かります。綾氏とはつながらないのです。また円珍周辺の系図を見ると次の通りです。円珍系譜で、因支首氏で一番古くまで辿れるのは「身」です。

円珍系譜

これを見ると分かるとおり、円珍が残した「円珍系図」と、了春の「金倉寺縁起」の人名は合致しません。ここからは了春は、「円珍系図」を見ずに、この間の人名を「創作」していることがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「讃岐国鶏足山金倉寺縁起 『香川叢書』第一(1939年)