瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:豊島石

15・16世紀には、瀬戸内海に多くの石造物を供給していた弥谷寺石工たちは、17世紀になると急速に衰退していきます。その背景には、軟らかい凝灰岩から硬い花崗岩への石材変化があったことを以前にお話ししました。もうひとつの原因は、ライバルとしての豊島の石工集団の成長があったようです。今回は、豊島石工たちがどのように成長し、弥谷寺石工達から市場を奪っていったのかを見ていくことにします。テキストは「松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」です。

豊島の加工場左
豊島の石工作業場(日本山海名産名物図会)
前回は「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の石切場と石造物について見ました。豊島石製品として「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」とありました。さまざまな石造物が制作されているのですが、燈籠や五輪塔については触れられていませんし、挿絵にも燈籠③が一基描かれているだけでした。この図会が出版された18世紀末になると、豊島でも五輪塔の生産は、終わっていたようです。
豊島石の五輪塔は近世(江戸時代)になると、形を大きく変化させ独特の形状になります。これを豊島型五輪塔と呼んでいます。豊島型五輪塔は香川県、岡山県の広域に流通するようになり、それまでの天霧石の石造物から市場を奪っていきます。

豊島型五輪塔2
豊島型五輪塔

豊島型五輪塔の特徴を、研究者は次のように指摘します
①備讃瀬戸を跨いで香川、岡山の両県に分布する
②中世五輪塔と比較すると、他よりも大型である
③宝医印塔の馬耳状突起に似た突起をもつ特異な火輪が特徴である
②風輪と空輪が別石で構成される
④少数ではあるが正面に方形状の孔を穿った地輪がある、
⑤地輪の下に台石をおく
⑥塔内部が彫られて空洞になっている

具体的な検討は省略し、形態変遷から明らかとなった点だけを挙げます。
豊島型五輪塔編年図
豊島型五輪塔編年図
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期
Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ
Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程
Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、
それではⅠ期の「豊島の五輪塔の最盛期」とは、いつ頃なのでしょうか。
豊島型五輪塔が、出現した時期をまずは押さえます。造立年代が推定される豊島産の石造物は24例で、高松以東が14例、高松から西が10例になるようです。各世紀毎に見ると次の通りです。
15世紀段階では、高松以東では豊島石が2例、豊島石以外が4例で、豊島石が多いとはいえない。この時代の石材の多くは「白粉石」と呼ばれる火山の凝灰岩で、スタイルも豊島型五輪塔独特の要素はまだ見られず、その萌芽らしきものだけです。
16世紀 3例中の2例が豊島石。形態は地蔵と板碑。
17世紀初頭 生駒家当主の墓は超大型五輪塔でつくられるが、石材は豊島石ではなく、天霧石が使われている。
一方、高松から西の地域の状況は次の通りです。
15世紀 豊島石石造物は見つかっていない。
16世紀 6例あるも、豊島石ではなく在地の凝灰岩。
17世紀初頭 在地の凝灰岩使用

次に豊島石の搬出開始時期について見ていくことにします。
香川県内において年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔
②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)
②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらは五輪塔に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は推測します。ここからは、豊島型五輪塔が作られるようになる約150年前から豊島石の搬出は、行われていたことが分かります。
つまり、豊島石工集団の活動は15世紀中頃までは遡れることになります。
五輪塔 火輪変化
火輪のそりの変化による年代判定
それでは、中世後半段階に豊島石石造物は、県内でどの程度拡がっていたのでしょうか。
高松市中山町の原荒神五輪塔群
高松市香西の善光寺五輪塔群
芝山五輪塔群
宇佐神社五輪塔群で数基
屋島寺や下田井町、木太町など
ここからはその流通エリアは高松市内に限られることがうかがえます。木田郡から東は火山石など凝灰石を用いた石造物が多く、豊島石はほとんどありません。また、高松市から西にも、豊島石はみられず、天霧石など凝灰岩がほとんどです。
 かつては、豊島石は天霧石によく似ていて、その違いは「豊島石は礫の大きさが均一で、黒く、白色の礫である長石が目立つ点」です。また、「日本山海名産名物図会」に「讃岐の石材はほとんどが豊島石」と記されたために、天霧石の存在が忘れられていた時期があります。そのため白峰寺の十三重塔(西塔)も、豊島石とされてきたことがありました。しかし、その後の調査で豊島石ではなく、天霧石であることが分かっています。今では、香川県西部に豊島石石造物はないと研究者は考えています。
  ここでは、次のことを押さえておきます。
  ①中世後半段階において豊島石は高松市を中心とした局地的な分布であり、それ以外の地域への供給はなかったこと。
  ②高松市内においても、弥谷・天霧山からの凝灰岩が多数派で、豊島石は少数派であったこと。
豊島石は高松地域のみで使用されていたようです。

白峯寺 讃岐石造物分布図
天霧系・火山系石造物の分布図(中世前期に豊島石は存在しない)

次に生駒3代当主と豊島型五輪塔との関わりを見ていくことにします。
 高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
法泉寺生駒氏廟
この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。
龍松山 法泉寺 : ひとりごと
        生駒一正と三代・生駒正俊の五輪塔
これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。
まず2代目一正の五輪塔から見ていきます。
彼はは1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。

讃岐 生駒家廟(法泉寺)-城郭放浪記
生駒家二代生駒一正(左)と三代・生駒正俊の五輪塔(右)
火輪は豊島型五輪塔の形態で、空輪、風輪もその特徴を示します。ところが空輪や水輪のスタイルは、豊島型五輪塔とはちがう要素です。同じ水輪スタイルとしては、仁尾町金光寺にある細川頼弘墓を研究者は挙げます。細川頼弘は1579年に亡くなっているので、一正の五輪塔の水輪の特徴は、16世紀の時代的な特徴とも考えられます。
 このように一正の五輪塔は、全体的には豊島型五輪塔と云ってもいい属性を持っています。ところが問題は、石材が豊島石ではないのです。この石材は、天霧山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新しく開かれた石切場から切り出されたものであることが分かっています。これをどう考えればいいのでしょうか?

次に隣の生駒正俊(1621年没) の五輪塔を見ておきましょう。
 火輪は、一正五輪塔と同じ豊島型五輪塔のスタイルです。空輪、風輪も豊島型五輪塔の属性をもちます。全体的に、一正の五輪塔よりも、より豊島型五輪塔の特徴を備えているようです。しかし、この正俊塔も石材は豊島石ではなく、碑殿町の天霧石が使われています。
このように宝泉寺生駒廟のふたつの五輪塔は、豊島型五輪塔Ⅰ期古段階に位置付けることができます。しかし、台石がないことと、石材が豊島石でないという問題点があります。
 生駒家当主の墓のスタイル変遷から見ると、次の系譜の先に豊島型五輪塔が姿を見せると研究者は考えているようです。

①志度寺の生駒親正墓→ ②法泉寺の生駒一正供養塔 → 
③法泉寺の生駒正俊供養塔

これら生駒家の五輪塔は、今見てきたように形は豊島型ですが、石材はすべて天霧山からの採石です。

研究者が注目するのは、四国霊場弥谷寺(三豊市三野町)にある2代生駒一正の五輪塔です。
生駒一正五輪塔 弥谷寺
生駒一正五輪塔(弥谷寺)
弥谷寺は、生駒一正によって菩提寺とされ再興された寺院です。そして天霧石の採石場が境内にありました。弥谷寺と、生駒家には深い関わりがあったのです。
弥谷山と天霧山の関係については、以前に次のようにまとめました。    
①弥谷寺は、西讃岐守護代だった香川氏の菩提寺で、その五輪塔創立のために採石場があり、石工集団がいた。
②弥谷寺境内には、凝灰岩の露頭や転石に刻まれた磨崖五輪塔が多数あること
③弥谷山産の天霧石五輪塔は、県内を越えて瀬戸内海全域に供給されたこと
④長宗我部元親の讃岐占領、その後の秀吉の四国平定で、香川氏が没落して弥谷寺も一時的に衰退したこと
⑤讃岐藩主となった生駒氏の菩提寺として、弥谷寺は復興したこと。そこに、超大型の五輪塔が藩主墓碑として造立されたこと。
⑥その際に弥谷寺採石場に替わって、天霧山東側の牛額寺奥の院に新たに採石場がつくられたこと
こうして天霧山周辺には、弥谷寺境内と、牛額寺奥の院というふたつの採石場ができます。
弥谷寺磨崖五輪塔と、牛額寺奥の院の磨崖五輪塔を比べると、次のような相違点が見られます。
①火輪の軒隅が突出している
②空輪が大型化している
③水輪が扁平化している
特に①②は近世的変化点で、違いの要因は時期差であると研究者は考えます。つまり、磨崖五輪塔は「弥谷山(弥谷寺) → 天霧山(牛角寺)」への変遷が推測できます。ここからも、牛額寺奥の院が新たに拓かれた採石場であることが裏付けられます。
 どうして、時期差が現れたのでしょうか           
 採石活動の拠点が、弥谷山から天霧山へ移ったと研究者は考えています。中世には採石は、弥谷山でも天霧山でも行われていたようです。しかし、最初に採石が行われるようになったのは、弥谷山でした。それは、磨崖五輪塔が弥谷寺本堂周辺に集中していることから推測できます。弥谷山には、天霧城主で西讃守護代とされる香川家の歴代墓が今も残っています。弥谷寺は香川氏の菩提寺でもありました。ここからは、香川氏など有力者に提供する五輪塔製作のために、周辺で採石が行われていたことが考えられます。それが次第に販路を広げていくことになります。一方、天霧山は天霧山がある山で、城郭的性格が強く採石場としては弥谷山よりも規模は小さかったと研究者は考えます。
 こうした中、16世紀後葉の阿波三好氏の来襲によって、香川氏は一時的に天霧城退場を余儀なくされています。この時に、菩提寺の弥谷寺も荒廃したようです。戦国末期の混乱と、保護者である香川氏をなくして弥谷寺は荒廃します。それを再興したのが生駒家二代目の一正で、「剣御山弥谷寺略縁起」には、次のように記されています。

『武将生駒氏、当国を鎮ずる時、当時の廃絶ぶりを見て悲願しに勝ず、四隣の山峰を界て、当寺の進退とし玉ひ、住侶別名再興の願を企てより以来、吾先師に至て中興暫成といへども、住古に及ぶ事能はず』(香川叢書第一)

意訳変換しておくと

『生駒氏が当国を支配することになった時、当寺の廃絶ぶりを見て復興を決意して、周囲の山峰の境を決めて、当寺の寺領を定めた。僧侶たちも再興の願の元に一致協力し、先師の時代に中興は、あらかた成った。しかし、かつての隆盛ぶりには及ばない』

  ここからは、生駒一正による再興が行われ、それまでの弥谷寺の景観が一新されたことがうかがえます。信仰の場として弥谷寺の伽藍再整備が進む中で、境内にあった採石場の天霧山東麓への移転が行われたと研究者は考えているようです。逆に言うとそれまでは、弥谷寺境内の中で採石や五輪塔への加工作業が行われていたことになります。 
 その石造物製品は、お参りにきた信者の求めに応じて、彼らの住む地域に「発送」されたかもしれません。また、弥谷寺には多くの高野聖たちや修験者が布教活動の拠点としていました。彼らによって、石造物建立が行われる場合には、弥谷山の採石場に注文が入ったことも考えられます。突っ込んだ言い方をすると、弥谷寺が採石場を管理していたということになります。石工たちも、その経営下にあったとしておきます。
それが近世になって生駒氏による再興の折に、信仰と生産活動の分離が行われ、採石場は天霧山東南麓の碑殿町に移されたという説になります。
七仏薬師堂 吉原 弥谷寺 金毘羅参詣名所図会
吉原大池から望む天霧山(金毘羅参詣名所図会)
これらの材質が天霧山南斜面の牛額寺の奥の院(善通寺市碑殿町)で採石されていることが分かっています。
碑殿町の石材は、地元で「十五丁石」と呼ばれていて、丸亀市本島宮本家墓や善通寺歴代住職墓に使用されていること、それに加えて、超大型五輪塔はすべてが碑殿産(十五丁石)が用いられていることが分かっています。ここからは、中世末に姿を現す超大型の五輪塔が墓観念や姿形からして、豊島型五輪塔と深く関係していると研究者は考えているようです。
 そして超大型五輪塔の出現背景には、藩主生駒家が深く関わっているとする裏付けは次の通りです。
生駒親正夫妻墓、生駒一正供養塔など、超大型五輪塔10基のうちの4基が生駒家のものです。超大型五輪塔ではありませんが高松市法泉寺の生駒廟に安置されている生駒家二代正俊の五輪塔は、スタイルは豊島型五輪塔です。
 ここには、生駒家の関わりがうかがえます。このような生駒家の五輪塔から影響を受けて、登場するのが豊島五輪塔だと研究者は考えています。それは豊島型五輪塔の祖型いうべき要素が、弥谷寺の五輪塔には見られるからです。例として挙げるのが、弥谷寺の磨崖五輪塔には地輪に方形状の孔が穿たれたものがあります。この孔からは、遺骨が確認されています。ここからは五輪塔が納骨施設として使用されていたことがうかがえます。弥谷寺の納骨孔が、豊島型五輪塔の地輪にもある方形状の孔に系譜的につながると研究者は考えています。

以上のように「超大型五輪塔 + 生駒家歴代当主墓」が最初に姿を現す弥谷寺や天霧山の石切場には、豊島型五輪塔の祖形を見ることができます。これらの要素は、中世豊島石の五輪塔にはありません。以上を図示化すると以下のようになります。

豊島型五輪塔系譜
豊島型五輪塔の系譜

豊島型五輪塔の成立背景を、まとめておきます。
①中世豊島石の五輪塔系譜の上に、生駒氏が弥谷寺で作らせた大型五輪塔のインパクがあった
②それを受けて豊島型五輪塔が高松地区で姿を現す
③その際に豊島の石工集団に対して、生駒藩が何らかの「介入・保護」があった
④県内の石切場の終焉と豊島型五輪塔の広域搬出は、時期が一致する。
③④については、「生駒氏という新しい領主による社会秩序形成を目的とした政治的側面」があったと研究者は指摘します。具体的には、生駒氏が政治的にも豊島の石工集団を保護下において、生産流通に特権を与えたということです。
豊島型五輪塔が出現するのは、案外遅くて17世紀初頭になるようです。そして、急速に天霧石の五輪塔を駆逐し、市場を占有していきます。こうして天霧山の石造物は忘れ去られ、近代にはそれが豊島産と誤解されるようになっていきます。

以上をまとめておくと
①14・5世紀には、弥谷寺石工達が瀬戸内海各地に石造物を提供するなど活発な生産活動を行っていた
②その背後には、西讃守護代としての香川氏の保護があった。
③16世紀末の長宗我部元親の侵攻と、秀吉の四国平定の戦乱の中で香川氏は滅亡し、弥谷寺も衰退する
④それを救ったのが生駒氏で、弥谷寺を菩提寺としてそこに超大型の五輪塔を造立する。
⑤生駒氏は天霧山東麓の牛額寺奥の院に新たに採石場を設けて、高松に天霧石を供給させる。
⑥その際に、加工を命じられたのが豊島石工で、天霧石を使った豊島型五輪塔が高松に登場する。⑦それまで高松地区にだけに石造物を提供するだけだった豊島石工集団は、生駒氏の保護育成を受けて、天霧石石造物を駆逐する形で、瀬戸内海への流通エリアを拡大していく。
⑧しかし、それも長くは続かずに花崗岩産の石造物へと好みが変化すると、豊島石工達は豊島石の特長を活かして、石カマドや、石筒、火鉢などの製品開発を行うようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松田朝由  豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年」
関連記事

     前回は瀬戸内海をめぐる石切場や石工集団について見ました。その中で最後に見た讃岐豊島石(土庄町)については、「日本山海名産名物図会」(寛政11年(1799)刊行)に2枚の挿絵入りで紹介されています。
豊島の石切場3
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」
一枚は左側が、洞内から石を切り出している姿が描かれています。右側は切り出された石に丸い穴を開けているように見えます。今回は、豊島石の記事を見ていきたいと思います。テキストは「国立国会図書館デジタルコレクション」の 豊島の細工場『日本山海名産図会』です。
まず、説明文を読んでみます。
  大坂より五十里、讃刕小豆島の邉にて、廻環三里の島山なり。「家の浦」・「かろうと村」・「こう村」の三村あり。「家の浦」は、家數三百軒斗り、「かろうと村」・「こう村」は、各百七、八十軒ばかり、中にも、「かろうと」より出づる物は、少し硬くして、鳥井・土居にこれを以つて造製す。さて、此の山は、他山にことかはりて、山の表より、打ち切り、堀り取るには、あらず。唯、山に穴して、金山の坑塲(敷口?))に似たり。洞口を開きて、奧深く堀り入り、敷口を縱橫に切り拔き、十町(約1㎞91m)、二十町の道をなす。採工、松明を照らしぬれば、穴中、眞黒にして 石共、土とも、分かちがたく、採工も、常の人色とは異なり。かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
 故に、皮を除けて、堀り入る事、しかり。中にも、「家の浦」には、敷穴、七つ有り。されども、一山を越えて歸る所なれば、器物の大抵を、山中に製して、擔ひ出だせり。水筒、水走、火爐(くはろ)、にて、格別、大いなる物は、なし。「がう村」は漁村なれども、石も「かろうと」の南より、堀り出だす。石工は山下に群居す。ただし、讃刕の山は、悉く、この石のみにて、弥谷・善通寺、「大師の岩窟」も、この石にて造れり。

豊島の石切場
豊島(小豆島土庄町の石切場)
意訳変換しておくと
大坂から五十里の讃岐小豆島の辺りにある周囲三里(12㎞)の島が豊島である。集落は家浦・唐櫃(かろうと)」・甲生(こう)村」の三村がある。その内、家の浦は、戸数三百軒ほどで、その他二村は、各180軒程である。

豊島観光 豊島石採掘場
          豊島石採掘場入口
唐櫃産の石材は、少し硬く鳥居や土居(建物土台)に使われる。豊島の石切場が他と違うのは、山の表面から切り出す露天掘りではなく、金山と同じように「敷口(坑道入口)」から、奧深くに堀り入ってり、十町(約1、1㎞)、二十町の坑道が伸びている。そのため採石のためには、松明を照らすので、洞内は眞黒で、石か土か見分けもつかず、石切工も真っ黒で、普通の人とは顔色が違う。
  「讃岐豊島石」と題された挿絵を見ながら確認していきます。
豊島の石切場左
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」(拡大図)

石切場は坑道の奥深くにあるとされています。坑道内部が真っ暗なので3ヶ所で。松明が燃やされて作業が行われています。
④の石工は、げんのを振り上げて石材に食い込んだのみに振り下ろし、石を割っています
⑤の男は、天井附近の切り出せそうな石材をチェックしているのでしょうか。それを⑥⑪の男が見ています。
⑦の男は、小さなげんのを持ち、⑧の男は棒のようなもので測っているのでしょうか、よく分かりません。
⑨⑩の男達は、のみを持ち切り出した正方形の大きな石に丸い穴を開けているようです。
右側も松明が灯されたそばで②③の男達が四角い石材に穴を開けています。
この絵を見て疑問に思うのは、
A どうして暗い坑道の中で石造物制作作業が行われているのか?
B ここで造られている石造物⑨⑩は、何なのか?

そして、次の説明文が、今の私にはよく読み取れません
かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
意訳変換しておくと
 こうして、坑道を堀り入って切り出すが、もともと豊島石は側面が硬い。それを「ねぶ川」(根府川石(安山岩)と称して出荷している。この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。

先ほど見た②③や⑨⑩の石工たちが、四角い石に穴を開けていることと関連がありそうですが、よく分かりません。分からないまま意訳変換を進めます。
 家浦には7つの石切場(敷穴)がある。しかし、途中に峠があるのでそれを越えて運び出さなければならない。そのため製品の大部分は、山中で制作して、それを擔(にな)って運び出している。水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)、火爐(くはろ:小型のかまど)などの生産が主で、大型のものはない。

もう一枚の「豊島細工所」と題された挿絵を見ながら説明文を「解読」していきます。

豊島の加工場2
        豊島細工所「日本山海名産名物図会」

①⑦は石切場から切石が背負われたり、担がれたりして細工所(作業所)まで下ろされています。説明文の「大抵を、山中に製して、擔(にな)ひ出だせり。」の通りです。

豊島の加工場左
豊島細工所(拡大図)「日本山海名産名物図会」
②は、運搬されてきた切石のストック分が積み上げられているようです。
③は燈籠ですが、描かれている数はひとつだけです。
④が、石切場でも粗加工されていたものの完成版のようです。この用途が分かりません。
⑤は④よりも大きくい四角形の石造物です。これが水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)でしょうか。
⑥は、開放型の水筒(水道管や土管)でしょうか。
⑨は臼のようにもおもえますが、石工が中に膝下まで入って削っています。臼だったら、こんなに深く彫る必要はありません。長さが短いですが、土管のように見えます。大名屋敷のような遊水式庭園では、「水筒」やジョイントの器具が使われているようです。

豊島加工場拡大図

⑩は、臼にしては小さいようです。これが説明文に出てくる「火爐(くはろ)=火鉢」かも知れません。
⑪は手水石のようにも見えます。
⑫の石工が造っているのが、先ほど見た④⑪の「火爐(くはろ)」の製造工程のようでが、よく分かりません。

後日に「国立国会図書館デジタルコレクション」の「日本山海名所図絵」を眺めていると、こんなものを見つけました。

豊島産カマド

縁台の上に載せられた小型のカマドに、釜が載せられています。手前には、貯まった灰に火箸が突き刺しています。薪ではなく火鉢のように炭を使っていたようです。大坂辺りでは、こんなカマドが使われていたことが分かります。
 さらに、グーグルで「豊島石 + 竈」で検索してみると出てきたのが次の写真です。
豊島産カマド2
豊島石のかまど(瀬戸内民俗資料館)
瀬戸内民俗資料館の展示物で「豊島石のかまど」という説明文がつけられています。どうやら「日本山海名所図絵」の「豊島細工所」に描かれているのは、このコンパクトかまどに間違いないようです。

 豊島産カマド3

豊島石の五輪塔とか燈籠は、この時期には花崗岩製のものに押されて市場を奪われています。それに代わって、生産し始めたのが円形に掘り抜きやすい特徴を活かして、水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり)、火爐(くはろ:小型のかまど)、火鉢などだったのではないでしょうか。
 さきほど分からないままにしておいた 「この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。」という意訳もそう考えると間違ってはなかったようです。
  もうひとつの豊島石の作品として面白いのがこれです。
豊島に行くとよく見かけるものですが、石でできたかまくらみたいに見えます。この中には、仏様やお地蔵さんがいらっしゃいます。地蔵さんの「円形祠」です。これが火鉢やカマドの先なのか、円形祠が先なのかは、よく分かりません。どちらにしても同じ、技術・手法です。軟らかくて加工しやすい豊島石だからこその作品です。

豊島産

こちらは、徳島城にある豊島石の「防火用水槽」です。
豊島産防火用水(徳島城)」

正面には立派な家紋らしきものがあります。特注品だったのでしょう。豊島石は、石と石の間が粗く、浸透しやすいく水に弱いとされていました。防火水槽には向かないはずですが、よく見ると内側は白くモルタルが塗られているようです。
最後の部分を意訳しておきます
甲生村は漁村であるが、唐櫃の南に石切場がある。ここでは石工たちは、石切場の山下に群居している。讃岐の山は石材はこの石だけで、弥谷や善通寺の「大師の岩窟」も、豊島産石材で造られている。

  ここで注目しておきたいのが、讃岐には豊島石以外に石材はないとしていることです。弥谷寺や善通寺の岩窟や石造物も豊島産であるというのです。弥谷寺周辺には中世以来、天霧石で五輪塔などの石造物が数多く生産され、15世紀には瀬戸内海一円で流通していたことは以前にお話ししました。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
         天霧石産の五輪塔分布図
18世紀末になると、かつての弥谷寺周辺で活動した石工達や、石切場のことは忘れ去られていたようです。また、この記事内容を根拠にして、中世から近世の石造物は豊島石で造られたものとされてきた時代があります。それが天霧石であったことが分かったのは、近年になってからです。その「誤謬」の情報源が、ここにあるようです。
豊島石の産地
豊島石の産地
以上をまとめておくと
①18世紀末に書かれた「日本山海名産図会」からは、当時の豊島石の石切場が坑内の中にあったこと
②石の内部を繰り出し、円形に加工する石造物(火鉢・石筒、かまど)などが生産されていたこと
③18世紀末には、讃岐では製造物生産地としては豊島が最も有名で、天霧石や火山石は忘れ去られた存在となっていたこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島の細工場『日本山海名産図会』「国立国会図書館デジタルコレクション」 

  弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
                天霧山石造物の分布図
讃岐の中世石造物の産地として、天霧石材を使用して多くの石造物を生産した弥谷寺の石工達のことを追いかけています。その発展と衰退過程は以前にお話しした通りです。そして、凝灰岩から花崗岩への転換についても見ました。今回は瀬戸内海の花崗岩石材を中心とした生産地めぐりをおこなってみたいと思います。テキストは「印南敏秀   石のある生活文化     瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」です。

石船石棺|高松市
石船石棺(高松市国分寺町「鷲山石」産)

 石材には、軟らかい凝灰岩・砂岩・石灰岩と硬い花崗岩があり、中世後期までは加工が容易な凝灰岩の利用が盛んでした。例えば凝灰岩は、古墳時代の竪穴石槨や、石棺に使用されています。高松市国分寺町「鷲山石」やさぬき市「火山石」、兵庫県の「竜山石」は、畿内の古墳に船で運ばれています。
 飛鳥時代になって寺院が建立さるようになると、基礎の礎石や地覆石に石を利用しました。飛鳥では石舞台古墳のような巨石による横穴式古墳がつくられ、陸路の巨石の運搬には木製の修羅(しゅら=そり)が使われています。
古墳時代のそり出土、石材を運搬か 木更津で国内2例目:朝日新聞デジタル

奈良時代は唐の影響で石塔や石仏などがつくら始めます。
しかし、凝灰岩は風化しやすいためにあまり残っていないようです。平安時代になると、凝灰岩の岩肌に磨崖仏が彫られるようになります。瀬戸内地方では大分県臼杵市、国東半島の岩屋、元町、熊野磨崖仏があります。
対峙すると見えてくる新境地?大分・国東半島の磨崖仏巡礼 | 大分県 | トラベルjp 旅行ガイド
国東半島の熊野磨崖仏

 鎌倉時代に東大寺造営のためにやってきた南宋の石工集団によって、石造技術が進歩して、花崗岩の加工が可能になります。そうすると、硬くて風化しにくく、岩肌が美しい花崗岩で石塔や石仏が作られるようになります。
南大門 由縁 歴史 東大寺 南大門:鎌倉時代(1185–1333)に東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建(1199)。入宋経験のある重源によってもたらされたこの建築様式は大仏様(天竺様)と呼ばれました。  | 奈良 京都 散策サイト
東大寺獅子像(南宋石工による作品)

安土桃山時代になると安土城のような大きな石垣が作られ、滋賀県の穴太衆など石積技術が格段に進歩します。
その集大成となるのが徳川家による大阪城再建です。この石材切り出しや加工のために多くの石工達が、小豆島や塩飽などの瀬戸の島々に集められます。こうして技術交流などが進み、築城のために発達した石積技術は、その後は瀬戸内地方では塩田や耕地干拓、港湾や波止、石橋、石風呂など、いろいろな面に「平和利用」されるようになります。
岡山城下を守った巨大遺構~百間川「一の荒手(いちのあらて)」の現地公開を行いました~ - 教育委員会 フォトギャラリー -  岡山県ホームページ(教育政策課)
岡山市百間川の「一の手あらい」
  例えば、讃岐で満濃池再築や治水・灌漑工事を行った西嶋八兵衛は、築城の名人と呼ばれた藤堂高虎に仕えていた若者でした。彼は、高虎の名で二条城や大坂城の天下普請にも参加して、土木・建設技術や工人組織法を身につけたいました。生駒藩の危機に際して、藤堂藩からレンタルされた西嶋八兵衛は、藤堂高虎の指示を受けて、ため池築城などを行っていきます。それは大阪城などの天下普請に参加して得た土木技術を身につけていたからこそ可能であったことは、以前にお話ししました。

瀬戸内海の石材産地を東から順に見ていくことにします。
大阪府では、和歌山県境の和泉山脈付近から採掘した軟質の和泉砂岩が有名でした。
和泉の石工
摂州の石工職人(『和泉名所図会』(1796年)
『和泉名所図会』(1796年)には、次のように記されています。

「和泉石ハ其性細密にして物を造るに自在也 鳥取荘箱作(泉南郡岬町)に石匠多し」

そしてその作業場が描かれ、松の木陰の小屋周辺で、和泉石を使って燈籠や狛犬・臼・墓石を作る石工たちがいきいきと描かれています。

国玉神社 (大阪府泉南郡岬町深日) - 神社巡遊録
        国玉神社の狛犬(岬町)
精緻な狛犬の細工は難しく、優れた石工が多かった大阪府泉南郡岬町の加工場だと研究者は考えています。岬町は海沿いで海上輸送に便利で、瀬戸内地方の近世の狛犬の多くは、砂岩製で岬町から運ばれたものが多いようです。和泉砂岩の石造物は内陸の京都や奈良にも淀川の水運を利用して運ばれました。その中には、庭園の沓脱石や橋石などもあります。
 石工達が自立して仕事場を形成するのは、江戸時代後期になってからのようです。
江戸時代中頃まで、石工は大工などの下働きをする地位に甘んじていました。例えば江戸幕府が開かれた頃は、城の石垣など土木工事が石工の主な仕事でした。そして江戸城・大阪城や京都の大規模寺社などの仕事が一段落すると石工達は失業するものが増えます。帰国する家族持ちは別として、多くは周辺で生きていく道を探るしかありません。そこで、周辺の石切場を探しては、石の仕事を始めることになります。そのような中で、町民階級が経済力を高めると、石造物需要が増えます。その需要に応じた商品を作り出していくことになります。その中の売れ筋が、墓石(墓標)でした。当時は、墓石や、石仏を彫ったり、道祖神などを彫るなどの仕事が爆発的に増えていたのです。
 中でも腕の立つ石工は、燈籠などの神社に奉納されるミヤモノ(宮物)を作るようになります。
世の中が豊かになるにつれて、寺社や裕福な町民などからの注文は増え、仕事には困らなくなります。こうして江戸時代後期になると、多くの石像物が作られるようになります。かつては誰でもが墓標を作れるものではありませんでした。その規制が緩やかになると富裕になった商人層が墓標を建てるようになります。武士の石造墓標文化が町民にも流行り始めたのです。
 可愛らしい石仏が庶民にも買うことの出来る値段で普及するようになります。これはモータリゼーションの普及と同じように、ある意味では「石造物の大衆化」が進んだとも云えます。こうしてステロタイプ化した石造物が大量生産物されるようになります。その一方で、錦絵の美人画に影響を受けたような優しい観音様の石仏が生まれてきます。そして、あか抜けた洒落た観音様が好まれるようにもなります。江戸や上方の近郊の村々には、素朴な石仏より、歌舞伎などの影響を受けたあか抜けした石仏が多い、江戸から離れるほど素朴になって行くと云われるのも、「石造物の大衆化」の流れの中での現象と研究者は考えているようです。
しかし、石工の労働は厳しく辛いものでした。
硬い石を鑿を叩き、その粉塵を吸い込み胸を患うものが多かったようです。そのため石工の子供も、長男は別の仕事に就かせ、2男・3男を継がせて家の存続を図ったと云われます。
少し脇道にそれたので、もとにもどって石場廻りをつづけます。

神戸市東灘区の御影(みかげ)から運びだされた花崗岩は、鎌倉時代から高級石材として知られていました。
御影石の採石場(『日本山海名産図会』
 御影石の採石場(『日本山海名産図会』より)
  武庫御影石は、『日本山海名産図会』には
「摂州武庫、菟原の二郡の山中より出せり」、

『摂州名所図会』には、次のように記されています。
「武庫の山中より多く石を切出し・・・牛車のちからをもって日々運ぶこと多し」
「京師、大坂及び畿内の石橋、伽藍の礎石、あるいは鳥居、燈籠、手水鉢・・・」

ここからは切り出された石材が牛車で、湊まで運ばれ、石橋や伽藍礎石、鳥居、燈籠、手水鉢として船で京都や大阪に石材として運び出されていたことが分かります。
六甲山の花崗岩がどうして、「御影石」と呼ばれるようになったのでしょうか?
それは、石の積出港が現在の神戸市東灘区の御影だったからのようです。今でも御影石町、石屋川など石にまつわる地名が残っています。

中国地方の花崗岩の石材地を見ておきましょう。
日本有数の銘石「北木石」の歴史を尋ねて(岡山県笠岡諸島北木島) | 地球の歩き方
笠岡市北木島
笠岡市北木島には、日本有数の大規模丁場があり、日本銀行本店本館にも使用
福山市赤坂 赤坂石の小規模な丁場が点在
呉市倉橋島 国会議事堂などの大型建築や軌道石に使用
柳井市   目が細かく、墓石や土木材に利用
周南市黒髪島の徳山石(花崗岩) 大坂城築城のために開かれた丁場

四国の丁場を見ておきましょう。

高松市庵治の庵治石は日本最高級の良質花崗岩とされています。讃岐では、小豆島や塩飽の島々にも花崗岩の丁場が多くみられます。これらの多くは、大坂城築城のときに大量の石が切り出されて、船で運ばれたこと、そのために各藩は、何百人もが生活する石切職人小屋を建てたことなどは以前にお話ししました。大阪城の築造が終わった後も、周辺の島々にそのまま定住した職人がいたようです。

豊島の石切場
豊島の石切場跡

小豆郡土庄町の豊島の豊島石(凝灰岩)については、

『日本山海名産図会』に、採石場の丁場と加工場の2景が紹介されています。
豊島の石切場2
豊島の豊島石『日本山海名産図会』

豊島石の丁場は、大嶽山腹から坑道を採石しながら内部に堀りすすみ、大きな空洞が描かれています。説明文には、豊島石は、水に弱いが火には強い特徴をいかして、煮炊きに使う電や七輪、松の根株を燃やして明かりに利用した火でばちなどをつくっていることが記されています。なお、豊島石は苔がつきやすいため、造園材として名園の後楽園や桂離官でも利用されています。
豊島の加工場
豊島石の加工場(日本山海名産図会)
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「印南敏秀   石のある生活文化     瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」
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6大興寺 明治の伽藍図

前回までは、大興寺の歴史や伽藍変遷について見てきました。今回は、報告書を見ながら実際に諸堂を廻ってみたいと思います。その前に「復習」しておくと
①太興寺は白鳳期の古代寺院からスタートしている
②中世期は、熊野権現の別当寺として修験者達の拠点でもあった
③戦国期に衰退し、江戸時代になって現在地に移転してきて伽藍整備が進んだ
④それを勧めたのは現在の房号となっている山伏寺の泉上坊である。
⑤よって、建造物は江戸時代後期のものがほとんどである。
⑥仏像も近世以後のものが多いが一部平安期に遡るものもある。
以上の予備知識を頭の中に入れて「見仏記」を始めましょう。

6大興寺2
まず駐車場から下りて迎えてくれるのは仁王門です。
 この仁王門には棟札が残されていて、寛政8年(1796)に再興されたことがわかります。報告書には、その特徴を次のように指摘します。
「建物の各様式は、江戸時代中夜期の特徴をよく現し、後期の装飾性の高い建物への移行を検討する指標になる建物]
「禅宗様を多分に取り入れた折衷様式が18世紀以降盛んに使われて定形化していく過程の位置基準」

 仁王門前には寛政元年(1789)の銘のある石造物に、
「再興 仁王尊像井門修覆為廻国中供養」とあり、仁王門の修覆記念碑と考えられます。
ここからはこの仁王門が、寛政元年に長崎廻国の大助が中心となり、仁王門の修覆に取り掛かり、8年後の寛政8年に完成したとものと考えることができます。全国を廻国する勧進者のネットワークの力で二百年以上前に建立されたもののようです。

6大興寺8
仁王門の阿吽の金剛力士像に、御挨拶します。報告書には次のように紹介されています
力感にあふれた写実的な造形は、鎌倉時代中ごろの制作とみられよう。
本像にみる塊量性の強さは、当代に流行した慶派風の引き締まった体躯の力士像とは異質であり、やや古風な趣きのあることが指摘されよう。寛政2年(1790)に彩色がなされ、門の修理がなされたことは木札2と門前の石碑から知られ、肥前長崎の安藤大助が本願主とする廻国行者たちの助力によるものであった。現状は彩色がほとんど剥落しているが、吽形の鼻孔内には朱彩が残る。
6大興寺9

つまり、この仁王さん達は、大興寺が現在地にやって来る前の古い伽藍にあった仏達ということになります。戦火の中で仁王門は焼かれても、僧侶達によって運び出され隠されていたのかもしれません。「古風な趣」の仁王さんと評されていますが、確かにボデービルダーのような筋肉隆々感はありません。そして、作られた鎌倉時代には朱で彩られていたようです。
6大興寺3
仁王門をくぐると正面に三段の石段が迎えてくれます。
報告書は、この石段についても「調査」しています。その石段にお付き合いします。仁王門から真っ直ぐに本堂に登って行く上図の黒く塗られた部分が凝灰岩が用いられている石段です。3つの石段の内、下段と上段が凝灰岩製の切石、中段が花岡岩の切石を使用していようです。下段の凝灰岩は、よく見ると風化が進み、ひび割れたりすり減ったりして、歴史を感じさせてくれます。
6太興寺切石

さて、ここから専門家の分析を聞いてみましょうです。
 この石段に使用されている凝灰岩には、
小豆島の西の豊島(てしま)で産出される「豊島石」
三豊と仲多度の境にまたがる天霧山で切り出された「天霧石」
の2種類が確認できる。
この2種類の石材の特徴は、
「豊島石」が「含有する黒っぽい安山岩が均質で、長石を含む」
「天霧石」が「含有する灰色っぽい安山岩が不均質で、長石が少なく、火山灰が多い」特徴を持つ。
 この特徴から、石段を詳細にみると、下段は左側に砂岩製の耳石を確認するが、ほとんどが「豊島石」であることが解る。また、上段は左右に「豊島石」の縁石及び耳石を確認するが、これ以外は「天霧石」であることが解る。
 県内の石塔などの石造物に使用する石材として、「豊島石」は15世紀後半から使用が確認でき、以降多用される。一方、「天霧石」は鎌倉中・後期からの使用が確認でき、17世紀に盛行することが確認されている。  大興寺の石段も当初は「豊島石」を使用していたが、のちに「天霧石」を使用したことが伺われる。
つまり、大興寺で諸堂が相次いで建立され、伽藍整備が進んだ17世紀後半に、ちょうど「豊島石」「天霧石」が石造物に多用されていると指摘します。この下段と上段の石段の整備は、本堂・大師堂の建立に伴い、境内の整備の一環として、構築されたものと研究者は考えています。
 大興寺境内では、この他にも、次のような所に凝灰岩の切石が使われています
仁王門の基壇前面の縁石
弘法大師堂の基壇右側の縁石
天台大師堂の基壇前面の縁石
庫裡門の基壇前後の縁石
の4ヶ所で、これらは全て「豊島石」の凝灰岩です。この4ヶ所以外は、花崗岩の切石を使用されています。
6大興寺16

報告書では、さらに話を進めて花崗岩の切石で境内を整備した時期がいつなのか探ります。
棟札からは寛保元年(1741)に本堂を再建、天保15年(1844)に屋根の修復を行ったことが分かります。江戸時代後半のこの時期に、風化した凝灰岩に替えて、花岡岩の切石で補修したと研究者は考えているようです。
 何気なく踏んで歩いている石段にまで、研究者は「調査研究」の視線を注いでいるようです。あらためて二百年ほど前に、瀬戸内海の島で切り出され、ここまで運ばれてきた石段の上を歩いているのだと、言い聞かせながら石段を登って行きます。
6大興寺18弘法大師堂.jezupg

石段の下の段を上って辺りを見回して欲しいのです。このあたりは平地になっています。
前回見てもらった僧寂本によって書かれた『四国徊礼霊場記』(元禄2年(1689)の太興寺です。この平地に、この時点では大興寺があったことが分かります。また、太子堂や天台堂がここに下りてきた時期もありました。今は何もなくなって参道のみとなっています。
6大興寺1.本堂jpg

階段を登り切ると正面に本堂が迎えてくれます。
○本堂は、以下のような建立・改修を経てきた事が残された史料から分かります。
慶長2年(1597)に仮堂を建立して以来、承応2年(1653)を経て、
寛文9年(1669)に本堂を建立し、
寛保元年(1741)に、薬師堂(本堂)が再建
天保15年(1844)に屋根の修復
  しかし、調査報告書は「寛保元年(1741)の、薬師堂(本堂)再建説」に「異議あり!」として、次のような見解を示します。
  本堂の細部の様式をみると、寛政8年(1789)に再建された仁王門の頭貫や大斗の木鼻と酷似しており、安直に寛保再建を肯定することはできない。天保棟札にあるように、屋根勾配の緩い箇所や、日当たりの悪い面の修理が行われたこと、同時に仁王門や鐘楼堂の瓦修理も行われたこと、さらに江戸後期の瓦の品質があまり良くないことを考慮すると天保15年の50~60年前に再建されたものと考えられる。
  つまり、仁王門の修理と同じ時期の寛政8年(1789)に再建説を唱え、再建時期を50年遅らせるべきだとしています。どちらにしても、約四百年前の仮堂建立から現在まで、本堂の位置はほとんど動いてないようです。
6大興寺1
 報告書は本堂の総合所見を次のように述べます    
 内部については、内陣・後陣境の組物等に改修の痕跡がある。(中略)
中央来迎壁上部の天女の彫刻が江戸末期のものと推測できることから、弘法大師堂が建設された慶応元年頃に大きな改造が行われたと考える。
 平面形式では、一正面柱間は中央間から外へ柱間を落とし、側面は正面一間通りを礼堂的な外陣、内竃部分二間は床を上げて、建具で仕切り、柱間を外陣よりやや広くしている。後陣は外部からは半丸柱で二間とするが、内部は一間扱いとなり、外観上は五間堂であるが、梁間の空間は四間と考えられることから、密教建築の流れといえなくもない。どういった意図でこの平面計画としたかは定かではないが、興味深いところである。
 当本堂は、県下でも数少ない五間堂の遺構で、内部空間の扱いも密教系仏堂の流れがあり、内陣廻に改造がみられるものの、細部の様式も含め近世後期の特徴ある建物の一つに数えることができる。
次の3ポイントを頭の中に入れておきます
①江戸末期の弘法大師堂建設の際に、大きな改造が行われている
②内部空間に密教的な流れが感じられる
③五間堂は県下でも数少ない近世後期本堂である
さていよいよ本尊様にお会いしたいのですが・・・
残念ながらこの寺の本尊は秘仏という事で、お会いする事は出来ないようです。
6大興寺本尊薬師如来
大興寺本尊薬師如来坐像
写真と報告書で本尊にお会いしに行く事にします。
 薬師如来坐像が本尊です。報告書の所見を読みます
 (前略)
 右肩部から先の腕部は別材を寄せ、腹前で膝前部の横一材を寄せ付ける。左手首は体亙に差し込み、薬壷を掌上に置く。現状の仕上げは体部金泥衣部漆箔かとみられるが、仔細に観察すると大衣部には赤みが感じられるので、朱彩色の名残りとすれば、当初は朱衣金体像であった可能性がある。
 本像の造形は肩張り緩やかに肥痩なく均整良くまとめられ、全体に彫りの抑揚は少なく穏やかなで優美な印象が強い。この作風は平安時代に流行した、いわゆる定朝様に範をとったものといえる。等身で像ながら割り首としない一木割矧造の技量や、また、頭体の一材共木観をも伝えるものとしても興味深い作例といえる。
 定朝様は、平安時代中後期において全国的に風廊するが、木像面部にみる瞼の柔かな盛り上がり方や眼嵩の特徴ある窪み、あるいは豊かに張る頬の様子や整えられた衣文などからすれば、その制作年代は定朝活躍の時期に近い11世紀中後半ころかと推測される。
 この寺にある仏像は、平安時代3点、鎌倉時代4点、室町時代1点、江戸時代29点で、金銅製の神仏習合時代の懸仏中尊1点以外は、すべて木彫と報告書は記します。
平安期の仏さんのひとつで「11世紀中頃の定朝様の観音坐像」です。
6大興寺薬師本尊2g
 なぜ、お薬師さんがこの寺の本尊なのでしょうか?
 それは、まずここには熊野権現が勧進され、熊野神社が鎮座したからです。
神仏習合の時代には、熊野権現の本地仏は薬師さまでした。そこで熊野権現を勧進した行者は、この地の有力者の保護を受けつつ、熊野神社を建立し、別当寺として太興寺を建て、社僧として別当職を勤めるようになったというのが私の想像です。この仏も仁王さまと同じく戦果を逃れて、太興寺がここに遷た以後は、この本堂に秘仏として座っていらっしゃるのでしょう。 
  観音坐像の脇士として、両脇に立っているのが毘沙門天と不動明王です
報告書を見てみましょう。
6太興寺HPTIMAGE
不動明王立像は両眼開目して、

牙上出し、巻毛、頂蓮をつける。右手を垂下して剣を執り、左手は屈劈して絹索を握る。着衣の彫りは浅く、忿怒相も控えめであり、制作は平安時代後期期とみられるものである。

6太興寺
毘沙門天立像は、
現状では後世の修理を受けて粗い彫り口を呈する状態にあるが、頭部天冠台に遺された、列弁の内側に花弁型の飾りをあしらう形式は、平安時後期の特徴的な意匠であり、本像の制作年代を示しているものとみられよう。
中尊の左右に不動明王と毘沙門天天像を配する形式は、比叡山横川の観音堂に起源するとされるが、薬師如来が朱、衣金体であることころと併せて尊像構成も天台の系譜をひくものかと推測される。
本尊の薬師さんを、修験者の守護神である不動さんと毘沙門さんがお守りするというのも、いかにも密教修験者の寺らしい取り合わせだと思います。
この他に本堂には、江戸期の十二神将やかつて焔魔堂に祀られていた閻魔十王と奪衣婆の十一体も同居していて、にぎやかな雰囲気です。
6大興寺7 地蔵堂前
 報告書が気にしているのは「正面外陣に安置される地蔵菩薩立像」のようです。
 ほぼ等身大の地蔵さまについて次のように記します
作風と構造から江戸時代中ごろ以降とみられる。外陣に安置されることは客仏である可能性が高く、旧所在が不明なのは大いに不審である。像高からしてあるいは中世に所在した旧大興寺の本尊であった可能性もあるのではなかろうか。
 
私は、近世の絵図に仁王門前に描かれている「地蔵堂」に祀られていたお地蔵さまではないかと思っています。近世には地蔵信仰が庶民に広がり、新たに地蔵を祀る地蔵堂が霊場にも姿を見えるようになります。
6大興寺13

境内を歩いて感じる事は、直線的で近世近代的な伽藍配置であることです。それは、この寺が近世後半になって新しい場所で新しい伽藍が作られていったのですから当然かも知れません。しかし、江戸時代後半に出来上がった本堂には、平安期の観音様と不動様・毘沙門様がいらっしゃいました。
  以上、本堂まで見てきましたが今回はここまで
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
6大興寺5弘法大師

参考文献 香川県「四国霊場第67番太興寺調査報告書」2014年
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