瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:豊楽寺

 詫間 波打八幡
   波打八幡神社(詫間町)
詫間荘の波打八幡神社の放生会には、詫間・吉津・比地・中村に加えて仁尾浦も諸役を分担して開催されています。また、三崎半島からまんのう町長尾に移った長尾氏も、移封後も奉納金を納めています。ここからは、中世の波打八幡宮は三野郡を越える広域的な信仰を集める存在だったことがうかがえます。
仁尾 覚城院
覚城院(仁尾町) 賀茂神社の別当寺
 仁尾の覚城院の大般若経書写事業には、吉津村の僧量禅や大詫間須田善福寺の長勢らが参加しています。ここからも三野湾の海浜集落や内陸の集落も仁尾の日常的な生活文化圏内にあったことがうかがえます。そうすると仁尾神人(供祭人)や、その末裔である商職人たちの活動も、そこまで及んでいたと推測できます。それが近世になると「買い物するなら仁尾にいけ」という言葉につながって行くようです。仁尾の商業活動圏は、七宝山の東側の三野湾周辺やその奧にまで及んでいたとしておきましょう。

 しかし、研究者はそれだけにとどまらないというのです。仁尾商人の活動は、讃岐山脈や四国山脈を越えて、伊予や土佐まで及んでいたというのです。「ほんまかいな?」と疑念も湧いてくるのですが、「仁尾商人=土佐進出説」を、今回は見ていくことにします。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。
仁尾浦商人の名前が、高知県大豊町の豊楽寺御堂奉加帳にあります。

豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。

   豊永 大田山豊楽寺 御堂修造奉加帳
        元親(花押)
  有瀬右京進  有瀬孫十郎  嶺 将監
  仁尾 
  塩田又市郎  嶺 一覚   西 雅楽助
  奇光惣兵衛尉 谷右衛門尉  平孫四郎
      (後略)
この史料は天正2年(1574)11月のもので、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳です。

仁尾 土佐の豊楽寺との関係
豊楽寺薬師堂(大豊町)
豊楽寺には、国宝となっている中世の薬師堂があります。本尊が薬師如来であることからも、この寺が熊野行者の拠点で、この地域の信仰を広く集める神仏混淆の宗教センターだったことがうかがえます。
 奉加帳の中ある「仁尾 塩田又市郎」は、仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったと研究者は考えています。

仁尾 土佐町
土佐町森周辺
6年後の天正八(1580)年の史料を見てみましょう。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。

 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎

大檀那の森右近尉や本願の宥秀とともに、現場で作業を主導した大工は「讃州仁尾浦善五郎」とあります。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか? 
 技術者として優れた技量を持っていただけではなく、四国山地を越えて仁尾とこのエリアには日常的な交流があったことがうかがえます。長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、雲辺寺のさらに南方で、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは先ほど見た熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでもあります。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。

1580年前後の動きを年表で見ておきましょう。
1579年 長宗我部元親が天霧城主香川信景と同盟。
1580年 長宗我部元親,西長尾山に新城を築き,国吉甚左衛を入れる。以後、讃岐平定を着々と進める 
1582年 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる
    長宗我部元親,ほぼ四国を平定する
 こうしてみると、この時期は長宗我部元親が讃岐平定を着々と進めていた時期になります。その下で、土佐からの移住者が三豊に集団入植していた時期でもあることは以前にお話ししました。土佐と讃岐の行き来は、従来に増して活発化してたことが推測できます。

 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
それを知ることのできる史料はありません。しかし、近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世の詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。

 金比羅詣で客が飛躍的に増える19世紀の初頭は、瀬戸内海の港町が発展する時期でもあります。
そのころの仁尾で商いをしていた商家と取扱商品を挙げて見ます。
①中須賀の松賀屋(塩田忠左衛門) 醤油・茶、
②道場前の今津屋(山地治郎右衛門) 塩・茶、
③花屋(山地七右衛門) 總糸・茶、
④宿入の吉屋(吉田五兵衛) 茶、
⑤御本陣浜屋(塩田調助) 茶、
⑥境目の松本屋(吉田藤右衛門) 醤油・茶、
⑦東松屋(塩田信蔵) 油・茶、
⑧西松屋(塩田伝左衛門) 茶、
⑨浜銭屋(塩田善左衛門) 両替・茶、
⑩中の丁の菊屋(辻庄兵衛) 茶、
⑪新道の杉本屋(吉田村治) 醤油・茶、
⑫浜屋(塩田又右衛門) 茶、
⑬樋の口の杉本屋(吉田太郎右衛門) 油・茶、
ここからは、単品だけを扱っているのでなく複数商品を扱っている店が多いことが分かります。もう少し詳しく見ると、茶と醸造業を組み合わせた店が多いようです。この中で、塩田・吉田・辻氏の商家は、町庄屋(名主)をつとめる最有力商人です。彼らが扱う茶は、現在の高瀬茶のように近隣のものではありません。茶は、土佐の山間部から仕入れた土佐茶だったというのです。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」
土佐の碁石茶
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。

大豊の碁石茶|高知まるごとネット
土佐の碁石茶

つまり、「仁尾茶」の仕入れ先が土佐だったのです。
 仁尾商人たちは茶の買い出しのために伊予新宮越えて、現在の大豊・土佐・本山町などに入っていたようです。彼らは、土佐の山間部に自分のテリトリーを形成し、なじみの地元商人を通じて茶を買付を行っていた姿が浮かび上がってきます。
 そんな中で地域の信仰を集める豊楽寺本堂の修復が長宗我部元親の手で行われると聞きます。信者の中には、日頃からの商売相手もたくさんいるようです。「それでは私も一口参加させて下さい」という話になったと推測できます。商売相手が信仰する寺社の奉加帳などに名前を連ねたり、石造物を寄進するのはよくあることでした。
 また、熊野行者などの修験者たちにの拠点となっている寺社は、熊野詣で集団に宿泊地でもあり、周辺の情報提供地や、時には警察機能的な役割も果たしていたようです。これは、仁尾からやってきた商人にとっても頼りになる存在だったのではないでしょうか。もっと想像を膨らませば、熊野信仰の寺社を拠点に仁尾商人は商売を行っていたのかもしれません。
仁尾商人の土佐進出が、いつ頃から始まっていたのは分かりません。
しかし、塩は古代から運び込まれていたようです。それが茶との交換という営業スタイルになったのは、戦国期にまで遡ることができると研究者は考えています。以上を整理しておきます
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷に頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域の山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。
⑤このような仁尾商人の活動を背景に、土佐郡森村の阿弥陀堂建立のために番匠「大工讃州仁尾浦善五郎」が、仁尾から呼ばれてやってきて腕を振るった。
ここからは、戦国時代には仁尾と土佐郷は「塩と茶の道」で結ばれていたことがうかがえます。そのルートは、近世には「北側越え」と呼ばれて、土佐藩の参勤交替ルートにもなります。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
①奥の院・仙龍寺(四国中央市)と、その本寺・三角寺
②旧新宮村の熊野神社
③豊楽寺
④豊永の定福寺
①については、16世紀初頭から戦国時代にかけて、三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が先達となって、東伊予の「檀那」たちを率れて熊野に参詣していたようで、熊野信仰の拠点でした。

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熊野神社(旧新宮村)

②は、大同二年(807)勧請と伝えられるこの地域の熊野信仰の拠点でした。三角寺など東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの②の熊野神社を拠点に上流に遡り、仙龍寺(四国中央市)へと伝わり、それが里下りして本寺・三角寺周辺に「めんどり先達」集団を形成したと考える研究者もいます。ここからは、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
つまり、北川越の新宮やその向こうの土佐郡は、宗教的には熊野行者のテリトリーであったことがうかがえます。
   仁尾覚城院の大般若経書写事業には、阿波国姫江荘雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。以前に、与田寺氏の増吽について触れたときに、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるもので、ある意味ではそれを主催した寺院の信仰圏をしめすモノサシにもなることをお話ししました。そういう意味からすると、覚城院は雲辺寺まで僧侶間にはネットワークがつながっていたことが分かります。さらに想像を膨らませるなら覚城院は、豊楽寺ともつながっていたことが考えられます。
熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
    市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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 院政期に法皇や中央貴族たちの間で爆発的な流行を見せた熊野巡礼は、鎌倉時代になると各地の武士の間でも行われるようになります。さらに南北朝以後になると、北は陸奥から南は薩摩・大隅にいたるまでの多くの武士、都市民、農民、漁民たちが熊野に向かうようになります。貴族たちのきらびやかな参詣の例があまり知られていないためか、院政期の熊野詣に比べると影が薄いようです。しかし、いろいろな階層の人々の間に熊野巡礼が広まり、「蟻の熊野詣」といわれるような状況が現れるようになるのは、むしろ中世後半だったのです。そんな熊野詣で姿が一遍絵図には、何カ所にも描かれています。

一遍絵図 太宰府帰参3
一遍絵図 市女笠・白壺装束姿の熊野詣での旅姿

巡礼者たちは自分たちの力だけで熊野に向かったのではありません。
そこには熊野の修験者たちがつくりあげた巡礼の旅の安全を保障するシステムがありました。厳しい山岳修行による霊力獲得の信仰と、海の向こうの観音浄上で永遠に生きようという補陀落信仰の結びついたのが熊野信仰です。この信仰は、紀伊半島の山岳が本州最南端の海に落ち込む熊野という地に誕生しました。そこには修験者、時衆、聖など呪術的で、いくぶんいかがわしさも漂わせたいろいろな宗教者たちが集まり、そして各地に散って行きました。
 彼らは先達と呼ばれ、それぞれの地域において、人々に熊野の霊験あらたかなることを説いて信者とします。さらに獲得した信者を熊野参詣に勧誘するという活動を展開するようになります。先達は、信者との間に生涯にわたる師檀契約を結び、それは子孫にまで受け継がれていきました。
熊野信仰の諸相 中世から近世における熊野本願所と修験道 | 小内 潤治 |本 | 通販 | Amazon

熊野には、三山と総称される本官、新宮、那智山の三つの聖地がありました。
それぞれの聖地には御師と呼ばれる人々がいます。彼らは参詣者を自分の坊に宿泊させ、滞在中の食事の世話や、聖地での道案内などを行います。
中世の熊野御師としては、本宮の高坊や音無坊、那智の廊之坊などがよく知られています。
各地の先達は、それぞれに特定の御師と契約を結んで、三山にやってくると、馴染みの御師に参詣者の世話を任せます。先達とは、今日風にいえばツアー・コンダクターの役割を果たしていました。本山周辺の旅館と専属契約を結んだツアコンたちの案内によって、全国からやって来る熊野参詣者の旅が可能だったとも云えます。

熊野御師 尊称院

 先達と檀那の関係がツアコンと違うのは、両者には師弟関係以上のものがあったことです。
信者は何ヶ月にもわたる旅路の中で、先達の毎日の姿を見て畏敬の念を抱くようになります。信者たちが先達を怖れていたことをうかがえる文書も残っています。しかも契約制ではありません。一度結ばれた関係は死ぬまで続きます。破棄できないのです。死んでも子孫に世襲されていきます。
 信者たちの精神世界において先達の占める割合は大きかったのです。熊野参拝に同行した先達を信頼した檀那は、パトロンとして庵や院を建立し、先達を院主として向かえるようにもなります。こうして熊野行者が熊野神を勧進し、彼らが院主として住み着く山伏寺(山岳寺院)が四国の聖地や行場に姿を見せるようになります。それが四国霊場に発展していく、という筋書きのようです。 この場合、行場だった奥の院には不動明王が、里下りした里寺には薬師如来が本尊として祀られるというパターンが多いようです。
 豊楽寺薬師堂 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
豊楽寺の薬師堂 
熊野詣での巡礼者は、どんな施設に宿泊したのでしょうか。
 土佐の熊野参拝ルートの一つとして考えられているのが、現在の国道32号線のルートです。このルートには豊永の豊楽寺や新宮の熊野神社に代表されるように、熊野系寺社が点在します。これは、初期の熊野行者の土佐への進出ルートであったことを物語るようです。熊野詣でには、このルート沿いある寺社が宿泊所として利用されたようです。熊野神社や山岳寺院は、熊野詣での宿泊所でもあり、修験者の交流所や情報交換所の機能も持っていたことになります。吉野川沿い撫養まで出て、そこから熊野に渡ったことが考えれます。
豊楽寺釈迦如来坐像(彫刻) | 大豊ナビ
豊楽寺の薬師如来
 この他にも修験者や禅僧のように諸国を遍歴する宗教者を宿泊させる施設として「接待所」とよばれる建物があったようです。また、四国八十八ヵ所巡礼路沿いに「旦過」という地名が多く残されています。旦過とは、もともとは禅寺で遍歴修行中の雲水を宿泊させる施設でした。それが聖地巡礼者や行商人のための簡易宿泊所も指すようになったようです。

滝沢王子
滝沢王子 

熊野参詣の場合には、参詣路のあちこちに「王子」と呼ばれる祠がいまでも残っています。
南部王子(和歌山県日高郡南部町)の故地近くには、今は丹川地蔵堂と呼ばれる小さな堂が建っています。熊野参詣路にも巡礼者のための「旦過」があったことがうかがえます。先達に率いられて熊野を目指す信者たちも、こうしたお堂を利用していたようです。
終わりかけの梅の花(熊野古道紀伊路 切目駅~紀伊田辺駅) / よもぎもちさんの熊野古道紀伊路その3の活動日記 | YAMAP / ヤマップ
丹川(旦過)地蔵堂
接待所も旦過もお堂のような粗末な建物で、旅行者の世話をする人もいなかったはずです。これが四国遍路の遍路小屋に受け継がれて行くのかもしれません。どちらにしても風呂に入って、布団に寐て、ご馳走を食べてと云う寺社詣でとは、ほど遠い設備や環境でした。熊野詣では修行であり、苦行の性格が強かったとしておきましょう。

一方では、中世後期には常時営業している旅館も登場してきます。
それは伊勢参詣路に多く見られます。鎌倉時代になると神仏混淆が進む中で、伊勢神宮自らが「伊勢の神は熊野権現と同体である」との主張するようになります。民衆に広がった極楽往生願望を伊勢が吸収する説が広められます。その結果、鎌倉中後期以後、難路のつづく熊野参詣より簡単にお参りの出来る伊勢は、急速に参詣者を拡大していくようになります。
 室町中期の禅僧太極の日記には、備州の村民たちが共同で米穀を拠出し、それを運用した利潤で伊勢参詣の旅費に充てようとしていたところ、運用を委ねられていた者が私的に流用してしまったという記録が残っています(『碧山日録』寛正三年八月九日条)。
 ここからは、岡山の農村社会でも伊勢参詣の講が結ばれていたことが分かります。
室町時代には、足利義満、義持ら将軍が盛んに伊勢参詣を行います。
将軍等が伊勢参りを行うと、京都の貴族、武士、僧侶の間で拡がり伊勢講がつくられるようになります。熊野詣でに、取って代わる流行です。伊勢外宮の門前の山田(伊勢市)には、御師たちの経営する宿坊が軒を連ねるようになります。
日本人の原風景Ⅱお伊勢参りと熊野詣 - 株式会社かまくら春秋社

どうして伊勢参りに人気が出たのでしょうか
  熊野参詣には難路を歩くという苦行的要素があり、参詣者にもそれを期待するようなところがありました。先達も宗教的威厳に満ちた「怖い人」で、修行的でした。それに対して、伊勢参宮は観光的な要素が強かったようです。また後発組の伊勢参詣路には、整った宿泊施設が用意されるようになります。お堂や寺社の接待所に泊まるのとは違った楽な旅ができたようです

室町期の伊勢参詣を記した太極の参詣記録を見てみましょう。『碧山日録』
長禄三年(1459)春、太極は伊勢参詣に出かけます。太極は京都・東福寺の僧ですが、五山の禅林の中では、それほど高位の僧ではないようです。伊勢行きに同行したのは、若い四人の弟子たちです。
京都から琵琶湖岸の松本津(滋賀県大津市)に出、
舟で対岸の矢橋(同草津市)に渡ったのち陸路で草津に到着、旅館で昼食をとります。ここで瀬田橋周りのルートを騎馬で追いかけてきた一族の武士たちと合流しています。その日の宿泊は近江の水口(同甲賀郡水口町)です。
翌日は雨の中、鈴鹿山を越えて坂下(鈴鹿郡関町)に出ますが、疲労のために急遽、窪田(同津市)の茶店で宿泊しています。
翌日は雨も止み、茶店で馬を借りて、遅れを取り戻すかのように、一気に山田まで行きます。伊勢神宮では、外宮、内官に参拝をすませると、山田での宿泊はわずか一泊で帰途につきます。
復路の初日は安濃津(津市)、二日めは水回の旅館に宿泊しますが、太極は足をすっかり痛めてしまい、水口で馬を借りて草津に到着しています。舟で松本津に渡ると再び馬を借りて、京都に帰着しています。

 ここからは参詣路上に宿泊場所や食事を提供したり、馬を貸し出したりする旅館があったことが分かります。もちろん馬子つきです。
江戸時代のお伊勢参りの浮世絵に出てくる光景が、いち早く生まれていたことがうかがえます。
江戸の旅ばなし4 交通手段① 馬 | 粋なカエサル

江戸時代のお伊勢参り 馬子の曳く馬に3人乗り

太極の旅より37年前、応永29年(1422)に中原康富ら下級貴族たちの仲間が伊勢に参詣しています。『康富記』
初日は昼食が坂下、宿泊は窪田。
2日めは昼食が飛両(三重県一志し郡三雲町肥留)、
宿泊は山田。
帰路の初日は窪田で昼食、坂下で宿泊。
3日めは水口で昼食、草津で宿泊。
太極の旅程と比べると休憩地、宿泊地ともによく似ています。その他の伊勢参詣の記録をみても、旅程は同じです。ここからは、室町半ばには伊勢参詣には、定まった旅程のパターンが成立していて、参詣客をあてこんだ宿場が形成されていたと研究者は指摘します。

伊勢詣で 御師宿の客引き
伊勢御師の宿の出迎え(江戸時代)
室町時代には、宿の予約システムもあったようです。
永享二年(1430)2月、前管領畠山満家の家臣が奈良を訪れ、定宿である転害大路(奈良市)の旅館藤丸に宿を取ろうとしたところ、

「きょうは伊勢参詣の旅人が泊まるという先約がある」

という理由で断られてしまいます。(『建内記』永享二年二月二十三日条)。結局伊勢参詣の客は来ず、宿泊を断られた畠山の家臣たちは怒って藤丸になぐり込み、大路の住人を巻き込んだ刃傷事件になります。ここで研究者が注目するのは、伊勢参詣の旅人が何日も前から、藤丸に宿泊の希望を告げていたということです。室町時代の中ごろ、旅館に宿泊予約をしておくというシステムがすでに成立していたことがうかがえます。
 どんな人々が旅館を経営していたのでしょうか。
鎌倉時代の史料に、宿の長者と呼ばれる者がでてきます。網野善彦氏は宿の長者を次のように記します
「宿の在家を支配し、宿に住む遊女、愧儡子などの非農業民を統轄していた者」

長者自身が旅館の経営者でもあったようです。
『吾妻鏡』建久元年(1190)十月の源頼朝上洛記事には、
頼朝の父義朝は、東国と京都を行き来するたびに美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)の女長者大炊の家に宿泊していた。それが縁で大炊は義朝の愛人となっていたことが記されています。
また文和二年(1353)、南朝軍に京都を攻略され、美濃国垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)まで落ちのびた足利義詮も長者の家を宿泊所としています。ここからは宿の長者の家が旅行者の宿として利用されていたことが分かります。

    そういう目で金刀比羅宮を見ると、近世に成立した門前町に宿を開いたのは、金比羅信仰を広めた天狗信仰の山伏(修験者)=先達たちが多かったようです。彼らは各地で獲得した信者を、自分の宿の常客としたのかもしれません。金比羅にも熊野・伊勢信仰につながるシステムが継承されていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  
土佐神社4
土佐神社
高知の神社で他県から勧請されたものを数えると、熊野系が128社と圧倒的に多いようです。その他では金峯(吉野)36社、石鎚が12社と続きます。熊野神社が数多く見られるは、土佐特有の現象です。
  それでは熊野行者達が、どのようにして土佐に熊野権現を広めていったのでしょうか。その前に「仮説」を示しておきます。
空海以前の辺路修行者による行場・霊山の開発
プロの修験者の辺路修行社の巡礼・廻国
熊野修験者による熊野詣で
有力豪族の熊野行者保護と熊野権現の勧進
江戸時代の土佐藩の本山派修験道保護と当山派の衰退
土佐神社1
土佐神社(高知市)

 まず土佐郡一宮の土佐神社を見てみましょう。
 ここは旧国幣中社の名社で、土佐最初の国造小立足尼の祖先一言主神を祀っています。
土佐神社祭神
土佐神社の祭神は、一言主神

 社伝では、雄略天皇が大和の葛城山で狩をした時に、一言主神が神異を顕わした(大王家と同格の振る舞いを行った?)ために、この地に移し祀った(流刑?)と伝えます。土佐郡には葛木男神社、葛木眸神社の両式内社がありますが、どちらも葛城山の伝承と結びつけられています。土佐に移住した加茂氏や葛城氏の一族布氏が、祖神を祀ったものと研究者は考えているようです。

土佐神社2

 ここからは、熊野・吉野(大峰)と並ぶ本山派修験の中心的な修行道場である葛城の神々が早い時点から土佐に祭られていたことが分かります。これは、土佐での熊野行者たちの伝播を、助けることになったでしょう。
 古代から聖や修行者が集まった土佐の寺院を挙げて見ると、次のようになります。
①空海が修行窟とされる室戸岬の最御崎寺(東寺)
②最御崎寺の本寺とされる金剛頂寺(西寺)、
③熊野の若一王子宮の神宮寺である長岡郡本宮町寺家の長福寺
④中国の五台山になぞらえられた高知市の五台山竹林寺
⑤修行僧善有によって開かれた安芸郡の妙楽寺
⑥補陀洛渡海信仰とむすびついた足摺岬の金剛福寺
 これらを見てみると室戸岬・足摺岬、その中間に位置する吾川郡秋山村の種間寺など補陀洛渡海の伝承と結びついた寺院が岬や海辺近くにあることに気付きます。室戸岬から足摺岬に到る海岸線は「辺路修行」の道で、後には「四国遍路道」となっていくと研究者は考えています。これに対して、奥地ある寺院や霊山を見ておきましょう。
⑦安芸郡和田に比定される妙楽寺、
⑧香美郡の高板山や石立山、
⑨長岡郡の白髪山、
⑩土佐郡の土佐山の長泉寺
⑪石鎚山系につらなる瓶ヶ森、
⑫高岡郡の横倉山や虚空蔵山、
⑬幡多郡の白皇山や篠山
これらの山々は、現在でも信仰されている霊山です。このように古代土佐の山岳信仰には、次の2種類があると研究者は指摘します。
A 海岸に面した岬や小丘
B 内陸の諸山

1香我美史 若一王子
 
 熊野信仰は、だれがどんなルートでもたらされたのでしょうか。
まず、最初に土佐に勧進された4つの熊野権現を見てみましょう。
①高岡郡越知村の横倉山、
②長岡郡寺内の吾橋庄、
③香美郡の大忍庄、
④幡多郡の伊与木近辺
橫倉宮2
橫倉山
このうち最も早いのは横倉山への勧請で、保安三年(1122)です。
 この熊野権現は横倉山南の本社で、今は北の本社には、吉野の金峰山の蔵王権現が勧請されています。つまり、横倉山は最初に真言系修験者がやってきて、吉野金峰山の蔵王権現を祀り、その後に熊野修験者がやってきて熊野権現を祀ったということになるようです。横倉山については、複雑なので、また別の機会に触れたいと思います。先を急ぎます。

豊楽寺 大豊町寺内
長岡郡寺内(大豊町) 豊楽寺は熊野信仰の拠点

 吉野川の大歩危の上流に位置する長岡郡寺内にあった吾橋庄は、のちに熊野権現領となります。
 この庄の長徳寺に伝わる平安末期の安元二年(1176)十二月三日付の文書には、次のように記されています。

「土佐国庁、北条吾橋山、奉免長徳寺 并王子殿四至内……」

ここからは、12世紀の吾橋庄に熊野王子社が勧請されていたことがわかります。そして、このエリアの熊野信仰拡大の拠点となっていくのが、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺です。

豊楽寺 大豊町寺内2
豊楽寺の薬師堂

 土佐における熊野権現社領の代表的なものは大忍荘ですが、そこに勧進された熊野権現神です。

若一王子宮1 香南市
若一王子宮(香南市)

 村上永源上人が紀州熊野から御厨子を背負ってきて、この地に勧請したと伝えられるのが若一王子宮です。弘安九年(1286)には、禅源が、さらに文保三年(1319)には、その子増源がこの社の別当を務めています。永源上人に供奉して、この地に来た山伏の子孫と称する家が六軒あり、紀州の熊野と同様に鳥喰いの神事を伝えていたそうです。

香南市 若一王子宮1
若一王子宮(香南市)

 同じ頃、南国市の田村庄にも、熊野先達入交源六兵衛沙弥浄円によって若一山東光寺が建立されています。このように土佐への熊野権現の伝播にあたっては、背景に次のようなうかがえます。
①荘園などを媒介とした熊野との社会経済的関係
②熊野聖・山伏・熊野比丘尼などの勧進活動
③それにもとづく師檀関係の成立

次に13世紀から16世紀にかけて、勧進された熊野権現です
①文治二年(1186)平家の家臣大野源太左衛門紀州熊野より新宮を勧請(熊野神社。安芸郡馬路村)
②元亨元年(1321)安田三河守元高、紀州熊野から熊野権現を勧請(熊野神社、安芸郡中山村大字別所宇鍛冶屋敷)
③建武年間(1334~)藤原朝臣長山信濃守信安、神託により熊野より勧請(熊野神社、高岡郡東津野村)
④文亀二年(1502)源重隆、新宮三所権現を再興.
 これよりさき延徳四年(1492)に豊後入道次男が同社別当職となっている(新宮神社、長岡郡十市町)
⑤永正年間(1504)領主隠岐守元国勧請(若一王子宮、吾川郡芳原村)
⑥永正十六年(1519)別当珍光阿闇梨再興、願主は泰氏茂親(本宮神社、土佐郡旭町)
⑦大永五年(1525)大峰先達長泉坊、長徳寺を再興
⑧弘治三年(1557)藤原資重、嫡子弥陀保子丸、二男重家入道沙弥良範か建立(熊野神社、幡多郡山中村)
⑨永禄二年(1559)真福寺権大僧都昌誉法印再建.当初は十二人の山伏が熊野から勧請したという(十二所権現、高岡郡北原村)
⑩永禄四年(1561)長曾我部元親勧請(若一王子、香美郡王子村)
⑪天正年間(1573)蚊居太子楠女勧請(熊野神社、長岡郡新改村)
⑫天正三年(1575)長曾我部元親勧請(熊野神社、長岡郡大篠村)
①②③④⑤⑧⑩⑫は土豪または武将やその関係者による勧請、
⑥⑦⑨は山伏、⑪は熊野比丘尼の勧請と考えられるものです。
吾橋庄のある長岡、大忍庄を持つ香美、横倉山を含む高岡などに熊野権現が増えています。これらの場所が熊野行者の活動拠点であったと推察できます。

 土佐は遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。
行基や弘法の巡錫伝説、『今昔物語』にあげられている醍醐寺の観幸、信濃の猟師であったが発心して出家した工藤大主、さらには重源、一遍、一向なども土佐を訪れています。また、俗聖などが土佐を訪れて、生をおえることも多かったようです。このため、やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものが見られます。
  熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしたことがうかがえます。
熊野信仰が広まるにつれて、土佐から熊野に参詣に行く人もでてきたようです。
応永25年(1418)幡多郡の瑳詑山住職が熊野参詣の先達職に任じられています。
永享 9年(1437)香曾我部氏の一族西山氏が、熊野参詣の費用を作るために地頭職を売ったことを示す文書が残っています。
文明十年(1478)十月 熊野那智の御師実報院に伝わる「米良氏諸国檀那帳」には、同院が玉井から土佐・八木氏を檀那として十三貫文で譲り受けたことが記されています。
慶長四年(1599) 熊野那智の潮崎氏は、それまで所持していた土佐国の長曾我部、香曾我部、一条、浅野一門、中村姓、ふく井姓、蓮池姓、きら氏の檀那株を新宮御師方に売却しています。
  このように中世末期には、那智や新宮の御師と土佐や他地域の先達、土佐の土豪を中心とする檀那の三者の関係が成立していたことをしめす文書があります。
  土佐からも先達である熊野行者に導かれて、熊野詣でを行う土豪達がいたのです。先達と檀那の関係は、現在のツアー旅行のツアコンとお客の関係ではありません。先達を師とする「師弟関係」のようなものでした。熊野への長い旅を通じて、強い人間的な信頼関係を先達と檀那は結ぶ事になります。檀那達を熊野へ導いた修験者の社会的な地位は高かったのです。その御礼として、熊野権現を自宅周辺に勧進し、氏神とすることもあったようです。
 近世土佐の修験道は本山派が優位になっていきます。
 研究者によると土佐には、江戸時代の初めには、250人、幕末には150人位の修験者がいたようです。例えば幡多郡では、本山派は中村の龍光院を中心に、聖護院院家の播州の伽耶院に属し、当山派は寺山の南光院に支配されていました。そして龍光院は40人、南光院は20人の修験者をその支配下においていたようです
 しかし、幕末の文久四年(1864)に江戸幕府に出された「霞書大略」には、土佐は伽耶院の「霞」(テリトリー)で、当山派の修験者はいないと報告されています。ここには、真言系当山派の土佐における凋落が進んだことがうかがえます。この背景には、土佐山内藩の本山派保護策と当山派への冷遇策があったようです。そのため、幕末には当山派は土佐藩から一掃されていきます。
 本山派聖護院所蔵の「院家院室末寺修験頭分書上帳」には、近世末期の本山派修験の拠点寺院が各国ごとに記されていますが、土佐に関しては次の通りです。
 直末院   佐川        安楽院    
 準年行事  土佐郡江之口村   明星院    
 準年行事  香美郡香宗土居村  龍蔵院    
 準年行事  安芸郡和倉村    改宝院
    準年行事  幡多郡中村     龍光院  
    準年行事  安芸郡伊尾喜村   寿福院  
    準年行事  吾川郡長浜村    常楽院  
これらが聖護院側から見た土佐の本山派修験の支配層だったようです。

 

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