瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:象頭山

   

CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

明治維新の御一新のスローガンとともに、こんぴらさんに嵐をもたらした「神仏分離」政策。その結果、
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、
象頭山は琴平山へと名前を変え、
その姿も仏教伽藍から神社へと
姿を変えていきました。こうして、仏号であった金毘羅大権現はお山から「追放」されます。しかし、このような「宗教改革」に対して反発を感じている人たちも数多くいたようです。その中から従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きもあったようです。今回は琴平山(旧象頭山)と峰続きの大麻山の麓の大麻村での「金毘羅大権現」復活計画の動きを見てみましょう。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
  現在の琴平町榎井には長法寺というお寺があります。
このお寺は、鎌倉時代に善通寺の復興に活躍した宥範僧正が隠棲のために建立されたと伝えられ、もともとは丸亀市亀水町とまんのう町の境にある上池の南西にあったようです。広い伽藍を持っていたとされ、『仲多度郡史』には南門から現在の高篠小学校に至る県道が門前町であり、付近からときどき古瓦などを掘り出すと記されています。
 しかし、1579年 天正合戦で土佐から侵入してきた長宗我部元親軍と長尾氏の戦いで灰燼に帰したとされます。現在も、上池の池底には石碑が建っていて、碑面には(俗世)アビラウソナソの梵字が刻まれているようです。その後、榎井の地に再建されて現在地にあるようなのです。しかし、その寺伝には
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」
という気になる記述があります。明治の時代に、12年間ほど隣村の大麻村に移動していたというのです。なぜでしょうか?
長法寺の金毘羅大権現復活の試み
 神仏分離に伴う狂信的な廃仏毀釈運動も熱が冷めてきた頃、象頭山の麓の榎井や大麻では、仏教徒を中心に金毘羅大権現の信仰を守り、かつての繁栄を回復しようとする動きが出てきます。そこには
「新たに生まれた金刀比羅宮は、本来の神である金毘羅大権現を追い出した後に、大国主命とし迎えた神社である。本来の金毘羅大権現を祀る仏式の宗教施設を自分たちの手で作りたい」
という願いがあったようです。
20157817542
 その中心となったのが長法寺の檀家の有力者達です。
彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考えます。そのためには、信仰対象となる金毘羅大権現像とそれを納める礼拝施設(お堂)が必要になります。こうして長法寺は、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。
  長法寺の檀家指導者達が、先ず取り組んだのが祈りの対象となる金毘羅大権現像を迎える事でした。当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても、各方面の許可が必用でした。そのため金毘羅大権現像の安置・勧進を求める長法寺と本山や県のやりとりをめぐる文書が残されています。それを見てみましょう。
   護法神勧請之義二付御願
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ
今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云 
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云 
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 
且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也
 愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印
   同県同国郡那珂郡琴平村  信徒総代塩谷太三郎印
   同郡榎井村檀徒総代    斎藤寅吉印
   同郡 同村檀徒総代    斎藤荒太郎印
 明治十八年一月十一日
 本宗管長 三条西乗禅殿
   明治十八年十月二十一日付で当時の長法寺住職の三宅光巌、信徒総代、増谷太三郎、檀徒総代、斎藤寅吉の連名で、本宗管長の三条西乗禅宛「護法神勧請之儀二付御願」と題する文書が提出されています。当時は香川県は愛媛県に併合されていたので「愛媛県讃岐国」となっています。さて内容は、
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。
そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
という内容です。このあつかいについては、本寺との間に長い協議があったようです。本寺からの正式の回答は6年後の明治24年に出されています。ふたつの条件付で、真言宗法務所名で「護法善神」としての礼拝を許されます。二つの条件について見ておきましょう。
     内  諭
長法寺住職 三宅 栄厳
護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事
           真言宗 法務所印
  明治廿四年一月廿六日
   第壱条
 金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ
神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事
  第貳条
本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
第一条では、金毘羅大権現は仏教の「護法神」ではあるが、以前は金毘羅大権現を公称する神社もあったので、そこと混同されるおそれがある。そうなると「護法神」の本旨にも背き、また「神仏分離」という政府の政策にも背くことになる。そのために法式や祈祷を行うときには、神前と異なることにくれぐれも留意しておこなうこと
第二条では
尊体(金毘羅大権現像)を迎えるに当たっての注意で、什宝帳への記載や郡庁や県丁への出願手続きに遺漏がないように求めています。
 この時期に、長法寺は本山の推薦で新住職を迎えています。
 明治二十三年十月一日付で、新たな住職として兵庫県武庫郡良元村、西南寺住職、権大僧都、筧光雅を迎えます。「兼務」ですので、長法寺には常駐することはなかったようですが、トップが変わることで体制づくりは進んだようです。そして、新住職の就任を祝うかのように本山から金毘羅大権現像が長法寺に寄付されます。
   寄 附 状 (写)
讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺
 金毘羅大権現   木像 壱躯
  右令寄附畢
 明治廿四年三月十日
       大本山仁和寺門跡
       大僧正 別處 栄厳
  こうして待ちに待った金毘羅大権現さまが寺にやってきたのです。しかし、当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても許可が必用でした。そこで檀徒惣代、安部長太郎と連名で麻野村長、渋谷丑太郎の副申を添え、香川県知事、谷森真男宛に兼務住職届と、同時に金毘羅大権現木像の什物帳編入願いが提出されます。  
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀 
別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義 
出願事実相違無之候
条右御聴許相成度此段副伸候也
    京都葛野郡花園村御室
     仁和寺門跡大僧正別處栄厳代
      権少僧正 鏝  瓊 憧
 明治廿四年五月十六日
香川県知事 谷森 真男 殿
これには仁和寺門跡、真言宗長者の副中と麻野村長渋谷丑太郎の次の添書が付けられていました。
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺 
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀 
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也
  明治廿四年五月十九日
      真言宗長者  大僧正 原  心猛印
 香川県知事 谷森 真男殿
   しかし、県はこれを認めませんでした。
 そこで、翌年に、住職筧光雅は不在なので代理人の吉祥寺(高篠村)住職三輪慈長と外檀信徒惣代六名の連署を付けて、再度、金毘羅大権現像の什物編入を願い出ます。
今度は副中書(別掲)に詳しく補足説明を付けています。しかし、これも県は却下します。
 そこで、長法寺は次の手立てとして「仏体寄附ヲ受ケタル届書進達之義二付具申書」を那珂多度郡長高島光太郎に提出して、この一件についての理解と、とりなしを請願します。
 郡長高島光太郎が、出願に当たっての今までの不備を指摘、指導を加えた文書が残っています。こうして、明治二十五年七月三十日付文書は、郡長の指導を受けて作成したもので、三度目の県知事宛の願書を提出します。様式などに問題が無かったので、県も受けいれざる得なかったのでしょう。この結果、九月二十日付で、金毘羅大権現木像外四躯の仏像が宝物古器物古文書目録への編入を許されました。
 しかし、金毘羅大権現勧請については許可が下りませんでした。そればかりか、今までは許されていた明細帳に載せられた本尊以外の仏像の勧請や信者の参拝についても、その都度の許可が必用とされるようになります。これは常識的には考えられません。お寺にある仏像を拝むのに、いちいちその都度許可を求める内容です。
県が頑なに金毘羅大権現の復活を拒む理由は何だったのでしょうか?
大国主命を祭神として祀る金刀比羅宮としてリニューアルされた金刀比羅宮にとっては、足元の大麻村に金毘羅大権現が復活する事は、面白い事ではなかったはずです。
そして、金刀比羅宮の禰宜を勤めていたのは、以前に紹介した松岡調です。彼は明治維新期の讃岐の神仏分離政策を担った神道家であり研究者でもありました。彼が当時の香川県の宗教政策に影響力を持っていたことは、延喜式神社の指定選考過程にも見られます。
  また、当時の神道の教学・指導の宗教行政の中心は金刀比羅宮の中にありました。境内にあり廃寺となった3つの脇坊の建物が利用されていたのです。これらの神道組織を指導するのも松岡調の仕事の一つでした。つまり、当時の彼は県の宗教行政に大きな影響力を行使できるポストにあったのです。
 度重なる長法寺の金毘羅大権現像をめぐる動きに、県が許可を下ろそうとしなかったのは、松岡調の意向に「忖度」してのことだったのかもしれません。

 しかし長法寺は諦めません。
明治二十八年二月十四日に「金毘羅大権現木像勧請之義二付御願」なる書面を県に提出します。しかし、これも新任の小畑知事と、その側近によって一蹴されます。
  そこで長法寺は戦略を転換します。県を相手にするのではなく、国を相手にしたのです。
明治二十九年五月十四日、長法寺は「本堂建築願」を内務大臣板垣退宛てに提出します。ここにはかねてからの目論見である鎮守堂(護法善神としての金毘羅大権現堂)を中心とした千六百坪に及ぶ境内に本堂、書院、庫裏等の配置伽藍建設案が示されており、仏教中心のこんぴら信仰の復活を目指そうとするものでした。

長法寺の新伽藍工事始まるが・・・・
 そして、この願いは明治政府によって認められるのです。長法寺は、香川県の敷いた障害を越えたかのように思えました。関係者の喜びは大きかったでしょう。
 ところが建立工事が始まると、勧進資金が思うように集まりません。そのため資金不足で新伽藍建設は思うように進まなかったようです。その上に、台風が襲いかかり、建設途中の建物は大きな被害を受けました。こうして新伽藍の工事は中断したままで、工事資金をめぐる勧進の進め方についても信徒間での意見が対立するようになります。長い対立の後に、明治39年になって建設断念派が推す住職が就任し、お寺を元の榎井村にもどして新築する次の申請が県に出されます
  長法寺移転二付境内建物明細書
   寺院移転ノ儀二付願
 香川県仲多度郡善通寺町大字大麻
   真言宗御室派 長 法 寺
右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候
条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也
    右寺法類
     龍松寺住職 長谷 最禅
     圓光寺住職 出羽 興道
こうして金毘羅大権現信仰復活の拠点として、建設が目指された長法寺の新伽藍計画は、あっけなく幕を閉じることになります。
いままでのことを、最後にまとめておきましょう
I 金毘羅さんは金毘羅大権現と呼ばれ「寺院」として信仰されてきた。ところが明治政府の神道国教化の有力拠点としての思惑から仏教的な金毘羅大権現は追放され、代わって大国主命を祭神とする金刀比羅宮に生まれ変わった。
2 これに対して、金毘羅大権現の復活をはかる動きが地元で起きたが、県の「妨害・阻止」もあり、スムーズには新伽藍の建設は進まなかった。
3 神仏分離から30年近くたって新伽藍の建設工事の許可が下りたが、時流は金刀比羅宮に流れ、金毘羅大権現の伽藍建設を支援する募金活動は広がらずに、資金不足で中断に追い込まれた。
4 そして、長法寺はもとの榎井の地に新伽藍を小規模で建立し、現在に至っている。

ここから分かることは金毘羅大権現から金刀比羅宮への素早い「変身」ぶりに反感を覚え、古い形のこんぴら信仰を残そうとする動きが地元にあったということは、記録に留めて置くべき事のように私は思います
 
参考史料 榎井の長法寺について ことひら 昭和63年所収

                     
金毘羅全図 宝暦5(1755)年
象頭山金比羅神社絵図

金比羅神が象頭山に現れたのを確認できるのはいつから?
それは宝物館に展示されている元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札が最も古いようです。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、
表「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」
裏「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者の中からは、次のような見解が出されています。
「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建されたように受け取れる。『本尊鎮座』とあるので、はじめて金比羅神が祀られたと考えられる」
 
 元亀四年(1573)には、現在の本社位置には松尾寺本堂がありました。その下の四段坂の階段の行者堂の下の登口に金比羅堂は創建されたと研究者は考えています。
1金毘羅大権現 創建期伽藍配置

正保年間(江戸時代初期)の金毘羅大権現の伽藍図 本宮の左隣の三十番社に注目

幕末の讃岐国名勝図会の四段坂で、元亀四年(1573)に金比羅堂建立位置を示す
しかし、創建時の金比羅堂には金毘羅神は祀られなかったと研究者は考えているようです。金比羅堂に安置されたのは金比羅神の本地物である薬師如来が祀られたというのです。松尾寺はもともとは、観音信仰の寺で本尊には十一面観音が祀られていました。正保年間の伽藍図を見ると、本殿の横に観音堂が見えます。
 金比羅神登場以前の松尾寺の守護神は何だったのでしょう

DSC01428三十番社
金刀比羅宮の三十番社
それは「三十番社」だったようです。地元では古くからの伝承として、次のような話が伝わります。
「三十番神は、もともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやってきてこの地を十年ばかり貸してくれといった。そこで三十番神が承知をすると、大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった。」
これは三十番神と金毘羅神との関係を物語っている面白い話です。
この種の話は、金毘羅だけでなく日本中に分布する説話のようです。ポイントは、この説話が神祇信仰において旧来の地主神と、後世に勧請された新参の客神との関係を示しているという点です。つまり、三十番神が、当地琴平の地主神であり、金毘羅神が客神であるということを伝えていると考えられます。これには、次のような別の話もあります。
「象頭山はもとは松尾寺であり、金毘羅はその守護神であった。しかし、金毘羅ばかりが大きくなって、松尾寺は陰に隠れてしまうようになった。松尾寺は、金毘羅に庇を貸して母屋を奪われたのだ」
この話は、前の説話と同じように受け取れます。しかし、松尾寺と金毘羅を、寺院と神社を全く別組織として捉えています。明らかに、明治以後の神仏分離の歴史観を下敷きにして書かれています。おそらく、前の説話をモデルにリメイクされて、明治期以降に巷に流されたものと研究者は考えています。

三十番神bot (@30banjin_bot) / X
             護国寺・三十番神
三十の神々が法華経を一日交替で守護する三十番神
なぜ三十番社があるのに、新しく金比羅堂を建立したのでしょうか
 院主の宥雅は、それまでの三十番神から新しく金毘羅神を松尾寺の守護神としました。そのために金毘羅堂を建立しました。その狙いは何だったのでしょうか?
  琴平山の麓に広がる中世の小松荘の民衆にとって、この山は「死霊のゆく山」でもありました。その拠点が阿弥陀浄土信仰の高野聖が拠点とした称名寺でした。そして現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地が広がります。こうして見ると、松尾寺は称名寺の流れをくむ墓寺的性格であったことがうかがえます。松尾寺は、小松荘内の住人の菩提供養を行うとともに、彼らの極楽浄土への祈願所でもあったのでしょう。ところがやがて戦国時代の混乱の世相が反映して、庶民は「現利益」を強く望むようになります。その祈願にも応えていく必要が高まります。そのために、仏法興隆の守護神としての性格の強い三十番神では、民衆の望む現世利益の神にしては応じきれません。
 また、丸亀平野には阿波の安楽寺などから浄土真宗興正派の布教団が阿波三好氏の保護を受けて、教線を伸ばし道場を各地に開いていました。宥雅は長尾氏の一族でしたが、領内でも一向門徒が急速に増えていきます。このような状況への危機感から、強力な霊力を持つ新たな守護神を登場させる必要を痛感するようになったと私は考えています。これが金毘羅神の将来と勧請ということになります。これは島田寺の良昌のアイデアかもしれませんが、それは別の機会にお話しするとして話を前に進めます。

讃州象頭山別当歴代之記
     讃州象頭山別当職歴代之記(初代宥範 二代宥遍 三代宥厳 四代宥盛)
                   宥雅の名前はない
  正史から消された宥雅と彼が残した史料から分かってきたことは?
 金毘羅堂建立の主催者である宥雅は、地元の有力武士団長尾氏の一族で、善通寺で修行を積んだ法脈を持つ真言密教系の僧侶です。それは宥範以来の「宥」の一文字を持っていることからも分かります。ところが宥雅は金刀比羅宮の正史からは抹殺されてきた人物です。正史には登場しないのです。何らかの意図で消されたようです。研究者は「宥雅抹殺」の背景を次のように考えます。

宥雅の後に金光院を継いだ金剛坊宥盛のころよりの同院の方針」

なぜ、宥雅は正史から消されたのでしょうか?
 正史以外の史料から宥雅を復活させてみましょう
宥雅は『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)文政十二年(1829)には、次のように記されています。
「宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去、故二御一代之 烈に不入云」
意訳変換しておくと
「宥珂(=宥雅)上人様について
 讃岐の西長尾城主・長尾大隅守高家の甥にあたる。僧籍を得た時期は未詳、
 高家の時に(土佐の長宗我部元親の侵入の際に、長尾家に加勢し敗れた。その後、当山の旧記や宝物を持って、泉州の堺へ政治亡命した。そのため宥雅は、歴代院主には含めないと伝わる入云」
ここには宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥であると記されています。ちなみに長尾氏は、長宗我部元親の讃岐侵入以前には丸亀平野南部の最有力武将です。その一族出身だというのです。そして、長宗我部元親の侵入に際して、天正七年(1579)に堺への逃走したことが記されます。しかし、これ以外は宥雅の来歴は、分からないことが多く、慶長年間(1596~1615)に金光院の住持職を宥盛と争っていることなどが知られているくらいでした。
なぜ、高松の高松の無量寿院に宥雅の「控訴史料」が残ったの? 
ところが、堺に亡命した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の住持職を、宥盛とめぐって争い訴訟を起こすのです。その際に、控訴史料として金光院院主としての自分の正当性を主張するために、いろいろな文書が書写されます。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのが発見されました。その結果、金毘羅神の創出に向けた宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
例えば「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅寺」の開祖にするための「手口」について見てみましょう。もともとの『宥範縁起』には、宥範については
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されています。宥範が松尾寺や金毘羅と関係があったことは出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾寺のある松尾山登って金比羅神に祈った」・・金毘羅寺を開き

と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」

と、「これは古い記録を書き写したもの」と書き留められています。
このように宥雅は、松尾寺別当金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心しています。
 もうひとつの工作は、松尾寺の本尊の観音さまです。

十一面観音1
十一面観音立像(金刀比羅宮宝物館)
宥雅は松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺か称名寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏となして、その垂迹を金毘羅神とします。しかも、金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記します。研究者は、このことについて、次のように指摘します。

「…松尾寺観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる象頭山につづく大麻山の滝寺(高福寺)の本尊を移したものであり、前立十一面観音は、これも、もとはその麓にあった小滝寺の本尊であった。」

「松尾寺観音堂本尊 = (瀧寺本尊 OR 称名寺本尊説)」については、また別の機会にお話しします。先を急ぎます。 

さらに伝来文書をねつ造します
「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」などの一連の寄進状五通(偽文書と見られるもの)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと箔をつけます。これらの文書には、まだ改元していない日付を使用しているどいくつかの稚拙な誤りが見られ、後世のねつ造と研究者は指摘します。
そして神魚と金毘羅神をリンクさせる 
宥雅の「発明」は『宥範縁起』に収録された「大魚退治伝説」に登場してくる「神魚」と金毘羅神を結びつけたことです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものであったようです。「大魚退治伝説」は、古代に神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族がえていた伝説です。

 羽床氏同氏は、「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)で次のように記します。

200017999_00178悪魚退治
神櫛王の悪魚退治伝説(讃岐国名勝図会)
①「宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」
②「松尾寺の僧侶は中讃を中心にして、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンビーラ信仰を始めた。」
③「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
このストーリーを考えたのは、宥雅ではないと考える研究者もいます。それは、最初に見た元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿棟札の裏側には「高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」と良昌の名前があることです。良昌は財田出身ので当時は、高野山の高僧であり、飯山の法勲寺の流れを汲む島田寺の住職も兼務していました。宥雅と良昌は親密な関係にあり、良昌の智恵で金毘羅神が産みだされ、宥雅が金比羅堂を建立したというのが「こんぴら町誌」の記すところです。

 いままでの流れを整理しておきます。
①金毘羅神は宮毘羅大将または金毘羅大将とも称され、その化身を『宥範縁起』の「神魚」とした。
②神魚とは、インド仏教の守護神クンビーラで、ガンジス川の鰐の神格化したもの。
③インドの神々が、中国で千手観音菩薩の春属守護神にまとめられ、日本に将来された。
④それらの守護神たちを二十八部衆に収斂させた。
 最後の課題として残ったのが、松尾寺に伝来する本尊の十一面観音菩薩です。
先ほども見たように、金毘羅神の本地仏は千手観音なのです。新たに迎え入れた本尊は十一面観音です。私から見れば「十一面であろうと千手であろうと、観音さまに変わりない。」と考えます。しかし、真言密教の学僧達からすれば大問題です。  真言密教僧の宥雅は「この古仏を本地仏とすることによって金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立される」と、考えていたのでしょう。

          十一面観音立像(重文) 木造平安時代(金刀比羅宮宝物館)

宝物館にある
重文指定の十一面観音立像について、
「本来、十一面観音であったものを頭部の化仏十体を除去した」
のではないかと研究者は指摘します。これは、十一面観音から「頭部の化仏十体を除去」することで千手観音に「変身」させ、金毘羅神と本地関係でリンクできるようにした「苦肉の工作」であったのではないかというのです。こうして、三十番社から金比羅神への「移行」作業は進みます。

それまで行われていた三十番社の祭礼をどうするか?
 最後に問題として残ったのは祭礼です。三十番神の祭礼については、それを担う信者がいますので簡単には変えられません。そこで、三十番社で行われていた祭式行事を、新しい守護神である金毘羅神の祭礼(現世利益の神)会式(えしき)として、そのまま、引き継いだのです。

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
                     観音堂行道巡図
      明治以前の大祭は、金毘羅大権現本殿ではなく観音堂の周りで行われていた

こうして金毘羅権現(社)は、松尾寺金光院を別当寺として、象頭山一山(松尾寺)の宗教的組織の改編を終えて再出発をすることになります。霊力の強烈な外来神であり、霊験あらたかな飛来してきた蕃神の登場でした。

金刀比羅神社の鎮座する象頭(ぞうず)山です

DSC04880

丸亀平野の東側から見ると、ほぼ南北に屛風を立てたような山塊が横たわります。この山は今では琴平側では象頭山(琴平山)、善通寺市側からは大麻山と呼ばれています。江戸時代に金毘羅大権現がデビューすると、祭神クンピーラの鎮座する山は象頭山なのでそう呼ばれるようになります。しかし、それ以前は別の名前で呼ばれていました。象頭山と呼ばれるようになったのは金毘羅神が登場する近世以後のようです。
 
DSC00284
真っ直ぐな道の向こうが善通寺の五岳山 その左が大麻山(丸亀宝幢寺池より)

それまでは、この山は大麻山(おおあさ)と呼ばれていました。
この山は忌部氏の氏神であり、式内社大麻神社の御神体で霊山として信仰を集めていたようです。

DSC04906
金毘羅大権現の鎮座した象頭山
この山の東山麓に鎮座する大麻神社の参道に立ってみます。
200017999_00083大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
すると、鳥居から拝殿に向け一直線に階段が伸び、その背後に大麻山がそびえます。この山は、祖先神が天上世界から降り立ったという「甘南備(かんなび)山」にふさわしい山容です。そして、この山の周辺は、阿波の大麻山を御神体とする忌部氏の一族が開発したという伝承も伝わります。

 大麻神社以外にも、多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)は、そこから仰ぎ見る大麻山を御神体としたのでしょう。御神体(大麻山)の気象の変化を見極めるのに両神社は、格好の位置にあり、拝殿としてふさわしいロケーションです。山自体を御神体として、その山麓から遥拝する信仰施設を持つ霊山は数多くあります。

DSC06470
多度津方面からの五岳山(右)と雲がかかる大麻山
 大麻山は瀬戸内海方面から見ると、善通寺の五岳山と屛風のようにならび円錐型の独立峰として美しい姿を見せます。その頂上付近には、積み石塚の前方後円墳である野田野院古墳が、この地域の古代における地域統合のモニュメントとして築かれています。

DSC01109
野田院古墳(善通寺)
その後は大麻山の北側の有岡の谷に茶臼山古墳から大墓山古墳に首長墓が続きます。彼らの子孫が古代豪族の佐伯氏で、空海を生み出したと考えられています。また、大麻山の東側山麓には阿波と共通する積石塚古墳が数多く分布していました。
 つまり現在の行政区分で言うと、大麻神社の北側の善通寺側は古墳や式内神社などの氏族勢力の存在を示す物が数多く見られます。しかし、大麻神社の南側(琴平町内)には、善通寺市側にあるような弥生時代や大規模な集落跡や古墳・古代寺院・式内社はありません。善通寺地区に比べると古代における開発は遅れたようです。

DSC04887
琴平町苗田象頭山
古代においてこの山は、大麻神社の御神体として大麻山と呼ばれていたと考えるのが妥当のようです。
現在はどうなっているかというと、国土地理院の地図ではこの山の北側のピークに大麻山、中央のピークに象頭山の名前を印刷しています。そして、山塊の中央に防火帯が見えるのですが、これが善通寺市と琴平町の行政区分になっているようです。

称名寺 「琴平町の山城」より
大麻山の称名寺周辺地図
 大麻山には、中世にはどんな宗教施設があったのでしょうか?
まず、道範の『南海流浪記』には称名院や滝寺(滝寺跡)などの寺院・道場が記されています。道範は、13世紀前半に、高野山金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材です。当時の高野山内部の対立から発生した焼き討ち事件の責任を負って讃岐に配流となります。
 彼は、赦免される建長元年(1249)までの八年間を讃岐国に滞留しますが、その間に書いた日記が残っています。これは、当時の讃岐を知る貴重な資料となっています。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、真言宗同門の善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んできます。それからは、かなり自由な生活ができたようです。
 
DSC09461
大麻神社参道階段
放免になる前年の宝治二年(1248)には、伊予国にまで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。この年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねます。この寺は満濃池の東側の讃岐山脈から張り出した尾根の上にある山岳寺院です。善通寺創建の時に柚(そま)山(建築用材を供給した山)と伝えられている善通寺にゆかりの深い寺院です。帰路に琴平山の称名院を訪ねたことが次のように記されています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。
彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった
院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきた
DSC08912
象頭山と五岳山
 道範は、念々房不在であったので、その足で滝寺に参詣します。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
 滝寺は、称名院から坂道を一六丁ほど上った琴平山の中腹にある「葵の滝」辺りにあったようです。本尊仏は「御作」とあるので弘法大師手作りの千手観音菩薩と記しています。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとされます。しかし、道範の記述は千手観音です。この後は、称名院の名は見えなくなります。寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての「しょうみょうじ」という地名だけが遺ったようです。江戸時代の『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
 阿弥陀如来が祀られているので浄土教の寺としての称名院の姿を伝えているようです。また、河内正栄氏の「金刀比羅宮神域の地名」には
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある

現在の町域を越えて古代の「大麻山」というエリアで考えると野田院跡や大麻神社などもあり、このような宗教施設を併せて、琴平山の宗教ゾーンが形作られていたようです。

DSC08913

 現在の金刀比羅神社神域の中世の宗教施設については? 
プラタモリでこの山が取り上げられていましたが、奥社や葵の滝には、岩肌を露呈した断崖が見えますし、金毘羅本殿の奥には岩窟があり、山中には風穴もあると言われます。
修験者の行場としてはもってこいのロケーションです。山伏が天狗となって、山中を駆け回り修行する拠点としての山伏寺も中世にはあったでしょう。
それが善通寺 → 滝寺 → 尾の背寺 → 中寺廃寺 という真言密教系の修験道のネットワークを形成していたことが考えられます。

DSC08916

もうひとつのこの山の性格は「死霊のゆく山」であったことです。
現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地があります。ここは、民俗学者が言うように、四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」でした。里の小松荘の住民にとっては、墓所の山でもあったのです。
 こうして先行する称名院や滝寺が姿を消し廃寺になっていく中で、琴平山の南部の現在琴平神社が鎮座する辺りに、松尾寺が姿を見せます。この寺の周辺で金毘羅神は生まれ出してくるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 中世の宗教と文化
関連記事

     讃岐の大麻山・五岳山は牧場だった?

イメージ 2

江戸時代初期、讃岐の生駒騒動により生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』に、こんな記事を見つけました。
「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、
大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」
多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。
大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があって、これに三野郡の麻山が加えるということでしょう。牧とは牛馬が放たれて牧場となっていたと言うことでしょうか?

イメージ 1

ただ、大麻山と麻山とは一つの山の裏表で、多度郡側が大麻山、三野郡側は麻山と呼ばれている山です。現在は、琴平山(象頭山)と大麻山の二つのピーク名がついていますが、もともとは一つの山です。象頭山は、後の時代になって金毘羅さん側でつけられた呼称です。古くは大麻山でした。

イメージ 9

生駒高俊が琴平門前町の興泉寺に寄進した林

 大麻山に近接する山に地福寺山があり、ここに生駒高俊から興泉寺へ寄進された林がありました。
興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

興泉寺は、真宗興正寺派の寺院で、中世の本庄城のあった所とも言われています。もともとは金毘羅新町にありましたが、元禄元年の大火で類焼後この地に移転してきました。鐘楼には元和6年(1620)生駒正俊建立の額があります。鐘楼が寄進された時期に、林も寄進されたのでしょう。
 ちなみに幕末に高杉晋作を匿った日柳燕石(くさやなぎえんせき)が一時期住まいとして使用していた呑象楼(どんぞうろう)は、この寺の住職の隠居部屋でした。 燕石の幼名が刻まれた井戸枠も残っています。

イメージ 3

興泉寺の林への牛馬立ち入り禁止

 興泉寺に寄進された林に対して、寛永十四年閏三月十日の五ヶ村・金光院請書という文書には、
興泉寺林に牛馬を入れない、下木も伐らない
と約束しています。五ヶ村というのは買田・四条・五条・榎井の五村であり、金光院は現在の金刀比羅宮です。この五村は、おそらく大麻山と琴平山を牧場として利用していた地域だと研究者は考えているようです。これ以後は、大麻山などに近い地福寺山の興泉寺林に牛馬を入れない旨の誓約を興泉寺に対して出しています。それ以前には、この山も牧場として利用されていたのでしょう。
 どうやら本当に、大麻山には牛馬が放たれていたようです。
三野郡・多度郡・仲郡にまたがる大麻山・麻山山塊とこの近辺の山々一帯は、良質な飼い葉や柴草を供給する山だったようです。

イメージ 4

牛馬を入れることが出来なくなった百姓達は、どうしたのでしょうか?
寛永18年(1642)10月8日の「仲之郡より柴草刈り申す山の事」と入会の地について各村の庄屋が確認した史料には、
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山
として扱われていた記述があります。
 また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務が課せられていました。仲郡、多度郡と三野郡との間の大麻山・麻山が入会地であったことを示す史料です。
 しかし、仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人には札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。佐文は麻山に隣接した地域であることから既得権が強い入会地となっていたのでしょう。これらからも大麻山と麻山およびその周辺の山々は、地味の豊かなためか牧や入会地などとして多面的に利用されていたことが分かります。
イメージ 5

しかし、このようなバランスは寛永十八年以後の郡切や村切が進むことによって、きしみを見せ始めます。
京極丸亀藩の時代になると、正徳五年(1715)の史料に、財田上ノ村昼丹波山へ仲郡佐文の百姓が入ったことで山論(山の利用をめぐる上での争い)が発生したことが記されています。これをきっかけに、神田山でも同様の事件が起こったと記されています。
さらに、約十年後の享保十年には、神田山に山番が置かれ入会地としての利用に制限が加えられるなど、山の境界をめぐってさらに取り締まりが強まっていったことが分かります。
イメージ 6

貞享五年(1688)に丸亀藩から出された達には、
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」
という条文があります。
林野(田畑でなく、山や野原となっている土地)などに生えている本竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよとのお達しです。さらに史料の後半部にある焼畑禁止条項を見れば、藩が田畑のみならず山林全体をも含めて支配・管理しようとしたことが分かります。これは丸亀藩が田畑のみならず山林全体を支配することを示したもので、藩側からの山林への統制が進められていったのです。
イメージ 7

そのひとつが山検地でした。

山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われました。先ほどの佐文・財田山・神田山などでも入会地の境界設定が進み入会地が縮小していったのです。山騒動の背後には、このように入会地の縮小でそれまでの既得権を失っていく農民達の怒りが背後にあったのです。
1 象頭山 浮世絵

このページのトップヘ