護摩壇岩と高松藩と丸亀藩の詰所
①が護摩壇岩と呼ばれ、ここで空海が護摩を焚きながら工事の安全祈行ったとされます。その前には小屋が並んで奥から「丸」と「高」の文字が見えます。高松藩・丸亀藩の小屋で、それぞれの監督官の詰所であったようです。②は堰堤上の高台上に鎮座していた神野神社です。その社前には、池御料の小屋が建てられています。ここに工事責任者の榎井村庄屋の長谷川喜平次も毎日、詰めていたのでしょう。
それぞれの小屋の横には、刻限を知らせるための太鼓が吊されています。例えば、早朝にはこの太鼓が打たれ、周辺の村々の寺院などに寝泊まりする普請百姓が動き出したようです。
③普請現場の堰堤の上には、幕府の倉敷代官所の役人や藩側の代表者、庄屋と思しき人々が立ち並んで、工事の進捗状況を話し合っているようです。堰堤中央が掘り下げられて、底樋が見えています。その向こうには、池の中に一番底の揺(ユル)も見えています。
④の普請に関わる人足たちの役割は様々で、にぎやかな工事現場の様子が生き生きと伝わってきます。彼らは、讃岐中から無償動員されて、一週間ほど普請に参加することを強制されていました。讃岐中のいろいろな村々からやってきた混成部隊です。
この中で注目して欲しいのが⑤です。大勢の人がひっぱつっているのは、庵治から運ばれてきた石材です。それまで、底樋には松など木材が使われていました。それが今回から石材化されることになりました。それが現場に届き、設置されていく場面を描いた絵図です。ある意味、これを描かせたかったために作られた絵図なのかも知れません。
満濃池普請は、動員された百姓にとっては「大きな迷惑」で「いこか まんしょか 満濃池普請」と云われたことが以前にお話ししました。しかし、ある意味では讃岐の恒例行事でもあり、風物詩でもあったようです。⑥の川沿いには、家族連れらしい見物人たちの姿が何人もいます。
最後に見ておきたいのが⑦の「うて目」です。
古代の工事の際に、余水吐きとして岩盤を削って作られたといいます。その仕上がり具合が鉋をかけたほどなめらかだったので、この名前で呼ばれるようになったと古文書は記します。現在の余水捌けは東側にありますが、近代までは西側にあったこと。それが現在の神野寺の下辺りに当たることを押さえておきたいと思います。
こうして修築された満濃池が翌年の大地震を契機に、決壊してしまうことはすでにお話しした通りです。今回は、満濃池の堰堤の変遷に焦点を当てて見ていこうと思います。
その前に木樋から石樋へ転換について、もう一度簡単に説明しておきます
満濃池の樋管である揺(ゆる)は、かつては木製で提の底に埋められました。そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために
「行こうか、まんしょうか(どなんしょか)、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」
というような里謡が残っています。
このような樋管替えの負担を減らしたいと考えた榎井村庄屋の長谷川喜平次は、木製樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することにしました。工事は嘉永二(1849)年の前半と、嘉永6(1853)年の後半の二期に分けて行われます。この画期的な普請事業の完成に、喜平次は「図面通りに普請は終わりました。丈夫に出来ました」と誇らかに倉敷の代官所に報告しています。
この絵は、多色刷り木版画です。「文山」の落款と朱印がありますので、琴平に足跡を残した合葉文山によるものであることがわかります。絵図の上の空白部には和歌や漢詩が記されています。奈良松荘の歌に「嘉永六年(1853)といふとしの春」とあり、絵図中央下の底樋が石造となっていることから、底樋を木製から石造に改めた後半の伏替普請の様子が描かれたものと特定できるようです。
それでは、この当時の満濃池の普段の姿を、どうだったのでしょうか?
象頭山八景 満濃池遊鶴[弘化2年(1845)]
この絵は「象頭山八景」の中の一つとして弘化2年(1845)3月に描かれたものです。この年は、金毘羅大権現の一大モニュメントとして金光院金堂(現旭社)が姿を現し、入仏が行われた年でした。その記念に8枚1組の絵図として制作された木版画のようです。この前年に奥書院の襖絵を描いた京都の両家岸岱とその弟子岸孔、有芳と大阪の公圭らによって描かれています。
「満濃池遊鶴」には、満濃池に渡ってきた鶴の群れ描かれています。二百年前の讃岐の空には、鶴が舞っていたことが分かります。
左右の高台を結ぶように堰堤が築かれています。西側(向かって右側)の高台には、鳥居と社が描かれています。これが先ほど見た神野神社のようです。その右側には余水吐(うて目)から水が勢いよく流れ落ちる様子が描かれています。水をなみなみとたたえた満水の満濃池池の姿です。周囲には松が生え、水際には葦(?)が茂っています。そこに鶴たちが舞い降りて群れとなっています。そうすると東側(左)の高台が護摩壇岩になるようです。
この絵の中で私が気になるのは遠景です。池の中央に大きな島が描かれているように見えます。
この当時の堰堤の高さだと、池の中にはこんな島がまだ姿を見せていたのでしょうか。もうひとつは、阿讃山脈との関係です。今、堰堤に立ち南を望むと目に飛び込んでくるのは、大川山を盟主とする讃岐山脈です。そこには視線は向けられていないようです。和歌や漢詩を入れるスペースを作り出すために省かれたのでしょうか?
その他の絵図と比較してみましょう。
金毘羅参詣名所図会[弘化4年(1847)]です。
この図絵に挿絵として使われているのが上絵です。一番西側(右)に瀧のように流れ落ちる余水吐き(うてめ)があり、その左に鳥居と社があります。これが池の宮(神野神社)なのでしょう。そして東に堰堤がのびています。池の内側を見ると、鶴がいます。どこかで見たなあと思ったはずです。ここで使われている挿絵は、先ほど紹介した「象頭山八景 満濃池遊鶴」を流用したもののようです。コピーなのです。この場合に、使用料は支払われていたのでしょうか。著作権のない時代ですから笑って済ますほかなかったのかもしれません。
この絵図が出された前年の弘化2年(1846)というのは、金毘羅大権現にとっては特別な年でした。それは長年の普請を経て金堂(旭社)の落慶供養が行われた年だったからです。これを記念して、松尾寺金光院は、いろいろなイベントや文化活動を行っています。その中に上方の芸術家を招いて、ふすま絵を描かせたり、新たな名所図会出版の企画なども行っています。
ビッグイベントの翌年、暁鐘成と絵師・浦川公佐を招きます。
彼らは浪華の湊を出帆してから丸亀の湊に着き、金毘羅山に詣で、2ヶ月ほど逗留して、西は観音寺まで、東は屋島源平古戦場までの名所を綴りました。それが弘化4年(1848)に出される「金毘羅参詣名所図会」です。しかし、これでは比較ができません。もう一枚別の絵図を見てみましょう。
彼らは浪華の湊を出帆してから丸亀の湊に着き、金毘羅山に詣で、2ヶ月ほど逗留して、西は観音寺まで、東は屋島源平古戦場までの名所を綴りました。それが弘化4年(1848)に出される「金毘羅参詣名所図会」です。しかし、これでは比較ができません。もう一枚別の絵図を見てみましょう。
讃岐国名勝図会 萬濃池池宮 嘉永7年(1854)
手前の「護摩壇岩→堰堤→神野神社→余水吐け(うてめ)は、今まで通りの描き方です。パターン化してきたことがうかがえます。しかし、遠景は今までとは大きく異なります。大川山から山頭山までの讃岐山脈がしっかりと描き込まれています。でも、なにかおかしい・・
実際に見える遠景と比べて見ましょう。
パノラマ写真で見ると池尻にあたる五毛集落の向こうに、大川山は見えます。拡大すると、
低く連なる讃岐山脈の中でピラミダカルな山容が盟主の大川山です。
大川山が「讃岐国名勝図会 萬濃池池宮」の中に正しい位置に書かれるとすれば折り目あたりになります。堰堤からは三頭山は、見えません。しかし、「讃岐国名勝図会」では正面に一番大きく描かれています。そこには大川山があるべき位置です。
実際に見える遠景と比べて見ましょう。
パノラマ写真で見ると池尻にあたる五毛集落の向こうに、大川山は見えます。拡大すると、
低く連なる讃岐山脈の中でピラミダカルな山容が盟主の大川山です。
大川山が「讃岐国名勝図会 萬濃池池宮」の中に正しい位置に書かれるとすれば折り目あたりになります。堰堤からは三頭山は、見えません。しかし、「讃岐国名勝図会」では正面に一番大きく描かれています。そこには大川山があるべき位置です。
特徴的な笠取山
実際に、大川山の東(左)に見えるのは、笠取山です。しかし、この山はあまり見栄えがしない姿で描かれます。どうも「三頭山」を大きく描きたい動機(下心)があるようです。三頭山には、阿讃越の峠としては最も有名な三頭峠がありました。これを描かない手はありません。営業的な効果も考えながら描かれた気配がしてきます。池全体の形も分かります。ここには「鶴舞図」に描かれた池の中の島はありません。この絵の方が「写実的」で事実に近いと私は思っています。この点を押さえて次の絵図を見てみましょう。
相当にらめっこしましたが私は、何が書いてるか分かりませんでした。そして、降参。次の模写図を見ました。
源平合戦の最中に決壊して以来、約450年間にわたって放棄された満濃池の姿です。
①左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。
②金倉川を挟んで中央に2つの高台があります。左(東)側が④「護摩壇岩」で、右(西)が②池の宮(神野神社)のようです。
③丘の右側の小川は「うてめ」(余水吐)の跡で、川のように描かれています。ここに描かれているのは、「古代満濃池の堰堤跡」のようです。
⑤旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
護摩壇石や神野神社の高台は、今はどうなっているのでしょうか?
古代と近世に再興された満濃池の堰堤は、ほぼ同じ高さ(約22~24m)ったと研究者は考えているようです。大林建設も弘仁12年(821)の満濃池を推定する際には、西嶋八兵衛の築造図を参考にしています。それが下の平面図です。今まで堰堤を見てきたことを確認しておきましょう。
そのためそれまでの余水吐きは、東側に移され現在の地点になりました。さらに、戦後の第三次嵩上げ工事で堰堤の位置は大きく変更されます。
今までの堰堤は、護摩壇岩と池の宮(神野神社)の高台の前にアーチ状に作られていました。しかし、堰堤を高くするために、背後に築造
わずかに頭を見せる護摩壇岩
そして、水没してしまうことになった池の宮は現在の高台に移築されることになります。数m高かった護摩壇岩は水没は避けられましたが、わずかに頭を残すだけになりました。
田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
大林建設復元プロジェクト 空海の満濃池復元
大林建設復元プロジェクト 空海の満濃池復元
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊