瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:財田町戸川

道の駅、たからだの里さいた(香川県三豊市)
財田(たからだ)の里
三豊市財田町の戸川は、財田川上流の戸川ダム周辺が公園化され、隣接して道の駅や温泉が整備され「財田の里」として観光スポットになっています。新猪ノ鼻トンネルの開通後は国道32号線の交通量も増えて、訪れる人も多いようです。道の駅から国道を500mほど上っていくと、大久保諶之丞の生家跡が残されています。このあたりは背後の谷から豊富な水が湧きだし、用水路を流れています。この水量を利用して江戸時代末期には、いくつもの水車小屋があったようです。

財田町史644P 戸川の水車 

大久保諶之丞の家も、多度津藩御用の水車小屋の権利を得て、油絞りと賃づきをしていた記録が残っています。これが大久保家発展の基盤となったようです。そして、諶之丞は戸川を発展させていくために、周辺の街道整備を行うようになります。

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四国村 わらやの水車(復元)

明治13年の「讃岐国三野豊田両郡地誌略全」の「財田上ノ村」の項には次のように記します。
財田上ノ村 郡中の東南隅にして海岸を隔つる三里余、東北西ノ三面は山岳囲続し特に南方は高山断続して阿波国三好郡東山西山ノ両村に交り四境皆山にして地勢平坦ならず。阿波山(阿波讃岐国境にあり、俗に称して阿波山と云う)北麓に南谷。猪ノ鼻両地あり、往事は山なりしが明治三年旧多度津藩知事京極高典始て開墾し、爾来日に盛なり、其麓に渓道と呼て一線の通路あり、険際にして僅に樵猟の往来するのみ、明治十年村人大久保諶之丞の労にヨり方今は馬車を通し商旅の便をなすに至る
意訳変換しておくと
財田上ノ村は三野郡中の東南隅にあり、海岸線からは三里(12㎞)あまり隔たっている。東北西の三面は山に囲まれ、特に南方は讃岐山脈を隔てて阿波国三好郡東山西山ノ両村と村境を接する。四境すべて山で、平坦な土地はない。阿波讃岐国境の阿波山北麓に南谷・猪ノ鼻がある。かつては山中であったが明治三年旧多度津藩知事京極高典の時に開墾して、その麓に渓道と呼ぶ一線の踏み跡小道があるが、険しくて樵や猟師が往来に使うだけだった。それが明治十年に大久保諶之丞の労で、道が整備され、今は馬車が通るようになり、交易の便に役立っている。
ここには、諶之丞によって渓道の交通の便が改善されたことが特筆されています。さらに「財田上ノ村道路開築并二修繕」には、「猪ノ鼻にも明治十六年ヨり道路を開築中」と記されています。ここからは、この頃には、猪ノ鼻開鑿に着手しつつあったことうかがえます。後に、この猪ノ鼻を四国新道が通ることになります。逆の言い方をすると、以前から工事を進めていた猪ノ鼻ルートを、大久保諶之丞が四国新道計画に取り込んだとも云えます。
 さらに見方を変えると、戸川を中心に街道を再編成するという目論見があったようです。四国新道の整備も、それまでに箸蔵寺と山脇を結ぶ箸蔵街道(現四国の道)に代わって、猪ノ鼻と戸川を結ぶ流通ルートへの変更を意味しました。この結果、戸川は讃岐側の流通拠点として急速に発展していきます。特に、土讃線が財田駅まで開通したときには、土讃線の終着駅の宿場としての役割を担います。今回は明治の財田戸川の発展を見ていくことにします。テキストは「財田町史641P 四国新道と戸川の繁栄」です。

水車4

まず、戸川発展の起動力になった水車を見ていくことにします。
 大久保諶之丞の生家跡には今も水量豊かな用水路があります。谷川から導水した水を動力源にして、水車を廻し、土地の産物を加工し、峠を越えて阿波と交易するというモデルが幕末には生まれていたようです。ちなみに、戸川は行政的には「財田上の村」で、多度津藩に所属していました。これが大きな意味を持っていたのではないかと私は考えています。
 以前にお話したように、小藩の多度津藩は財源確保のために、商人たちを積極的に登用して藩政に関わらせるようになります。その象徴が多度津湛甫工事で、この湊は大きな経済効果を多度津藩にもたらします。その経済力を背景に多度津藩は小藩ながら軍備の近代化を図り、丸亀藩とは異なる独自の道を歩むことになります。その背景にあったのがそれまでの規制や統制にこだわらない積極的な経済政策です。例えば、髙松藩は阿波藩との間に「走人協定」を結び、両藩での国境交易を制限していたことは以前にお話ししました。これに丸亀藩も準じていたようです。ところが多度津藩は、これを無視した動きをするようになったのではないか思えてくるのです。

財田町史644P 財田戸川の水車 
財田町にあった水車一覧(財田町史650P)

土讃線沿いの渓道川沿いが戸川エリアになります。財田の水車について要約しておきます。
①最盛期には営業水車は26軒で、製粉・精米・搾油・胡粉製造等の動力源であった。
②その他に、地区共同利用の水車小屋や個人の水車小屋が各地域に26基
③水車を回す水は、財田川本流を利用が約17基、支流利用が35基
④村内には専門の水車大工がいて組み立てたり修理した

財田町史650P 財田戸川の水車 
渓道川沿いの水車一覧(財田町史647P)
ここでは、明治から昭和前期までは、財田川沿いには多くの水車が回っていたことを押さえておきます。水車が姿を消すのは、四国水力電気が阿波の祖谷に水力発電所を備え、動力源が電力に代わっていく頃です。戦前には、いくつか残っていたようですが、戦後になると姿を消し、今では、どこにあったのか、その痕跡も分からなくなってしまったようです。

財田町史650P 財田戸川の水車2 

明治24(1891)年に四国新道が開通すると、戸川を取り巻く環境は大きく変化します。
讃岐からは米、阿波からは木材や藍玉 (染料)などの物資の流通が急増します。戸川は、讃岐側の物資の集積地点として、人とモノと金が集まるようになります。そこには、精米・精製粉などの水車場、米の移出検査所、荷馬車業、商人宿、人力車・乗合馬車、郵便取扱所など人の往来や物資の流通を担う産業が興ります。また、大久保諶之丞の尽力で、養蚕も始まり、明治23(1890)年には、 金森練糸場が戸川(石野下?)に開業し、日清戦争後の明治28(1895)年には、南海製糸株式会社が財田上に設立されます。こうして戸川には四国新道沿いに宿場街が形成されていきます。
財田戸川 明治の地図
上図からは、次のような情報が読み取れます。
①四国新道は渓道川に沿うように戸川を貫通し、琴平と猪ノ鼻峠を結んでいた。
②渓道川沿いに10軒(①~⑩)の水車があった。
③米移出検査所や運送取扱所もあった
④現在の道の駅辺りには、人力車の駐車場があった
⑤新道沿いに、Aとさ屋、B高知屋、Cさくら屋、D朝日屋、Eもみじ屋、F大谷屋、Gのぼり屋の6軒の旅館があった。
財田町史644P 戸川の旅館 
財田町戸川にあった旅館高知屋(財田町史652P)

池田町史下巻に載せられている伊丹久平さん(明治23年5月1日生)の回想録を見ておきましょう。

大正元年に台湾で除隊し内地に帰り、それから馬と牛を相手に暮らしました。わしの親父は、讃岐から米買うて、池田へ運んでいました。わしも若いしになったころは、親父の手伝いをしたもんです。①明治22年までは猪ノ鼻街道(讃岐新道)が抜けとらなんだ。そのため馬を追うて船原へ上り、②二軒茶屋を越して荒戸という今の財田駅のあるあたりへ降りる。朝の三時ごろ、州津を出たら、朝が白みかける6時ごろ荒戸へ着き、③馬に三斗負わせて、自分は一斗担いでもんて来る。そして昼飯食うて池田へ売りに行くんじゃが、わらじも作らないかん、馬の靴も作らないかんし、二日に一回ですわ。その二日で25銭儲かる。四斗で買うたもんを四斗で売るんで、升を上手に計っても茶碗一杯出るか出んかで、駄賃が25銭ですわ。こんなことした人は、もう皆死んでしもうたわ。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①②からは、四国新道完成以前は、財田荒戸 → 二軒茶屋 → 箸蔵寺 → 州津経由で馬に背負われた米が讃岐から阿波に入っていた。
③からは、馬に三斗、自分で一斗、合計四斗で25銭の儲けになっていた。
ここからは財田荒戸には、阿波への米の集積店があったことがうかがえます。
①大正元年、馬車引きを始め、やがて馬を牛にかえて猪ノ鼻から荷を運ぶようになりました。
馬は足は速いがよくおぶける(驚く)んです。キン(睾丸)は抜いとるんですが、おぶけて走ったら馬が死ぬか人間が死ぬか、それでなくとも荷物は転落するし、危険が多いんですわ。それで牛車に替えたんじゃ。

大八車を引く牛
大八車を挽く牛
牛車いうても大正10年ごろまでは、二つ車の天秤という大八車の大きい奴ですわ。②大正10年ごろからは四つ車になって、荷物も三百貫ぐらい積めました。 讃岐の米を阿波へ運ぶんですが、ここの浜から米俵一俵一七貫を井川や池田まで運ぶんが三銭、川口までだと十銭です。池田へ行ったら、あすこ持って行け、ここ持って行けって、配達までするんです。それで三銭です。一五俵積んで、川口まで行って一日一円五〇銭ですな。
 猪ノ鼻から運んで一円八十銭くらいになる。ところが③猪ノ鼻へ行っても荷のないときもありました。くじ引きで当らな荷がないんです。それに大具の渡しの渡し賃が一車二五銭とられる。④阿波池田からの荷物は、専売所の煙草が多かった。
四輪車を引く牛
四つ車
ここからは、次のような事が読み取れます。
①四国新道完成後は、米の輸送ルートが二軒茶屋越えから猪ノ鼻越えに変化したこと
②輸送方法も馬の背から、牛車(四つ車)に代わって輸送力が大幅に向上したこと
③猪ノ鼻に、米の中継店があって財田からは讃岐の牛車、猪ノ鼻からは阿波の牛車が運んでいたこと
④阿波からの積荷は、池田で製造された煙草が多かったこと

猪ノ鼻峠3
切り通しになっていた猪ノ鼻越

こうしてみると、戸川は三好郡池田などへの米などの搬入拠点としても機能していたことが分かります。先ほど見た地図にあった「米移出検査所」も、阿波に移出される米の検査がここで行われていたのかもしれません。

池田町史下巻924Pには、次のような「馬喰(ばくろう)」の回想が載せられています。
借耕牛の世話料は、牛の貸し賃の約一割だった。借耕牛の市は、夏と秋の二回あるが、その一期の値段が戦後では、六千円から一万円くらいだった。問屋と交渉したり、向うの馬喰(ばくろ)と交渉したり、個人同志の貸借りの仲介もあった。
個人の世話をするのに、よう讃岐へ自転車持って行って、丸亀まで送ってもらって、自分は汽車で行って、向うの農家を回る。二晩泊って、西へずうっと回って観音寺まで来て得意先の注文を聞いてくる。そして日を決めて、財田の戸川で両方が会うことになる。戸川の道路のはしに、牛をずらっと並べて交渉するんじゃ。
ここには次のような事が記されています。
①池田のばくろうが丸亀から観音寺まで、讃岐の借り手を自転車で廻って注文聞いていること
②期日を決めて、財田戸川に借り手と貸し手が集まってセリを開いていたこと
③その仲介をばくろがおこない、多いときにはシーズンに120頭もあつかっていたこと。
ここからは、戸川は、阿波の三好郡から三豊方面へレンタルされる借耕牛の集結地でもあったことが分かります。
また、三豊方面で作られた木綿も人の背に背負われて阿波に運ばれています。逆に、池田の専売公社で作られた刻み煙草が讃岐戸川に運ばれ、さらに仁尾・三野・粟島などの湊から船で日本海方面に出荷するルートがあったことは以前にお話ししました。
讃岐から阿波へ 米・塩・木綿
阿波から讃岐へ 煙草・木材・借耕牛

四国新道完成後の財田戸川の発展について、「仲南町誌(998P)」は次のように記します。
四国縦貫の幹線道である四国新道にはしだいに人馬の通行が多くなり、ことに明治29年(1896)善通寺師団が設置されてからは日を追って交通量が増加してきた。土佐・阿波から入隊の兵士やその家族や金毘羅参りの人々は、明治38年に戸川まで乗合馬車が開通してからは馬車を利用するものが多かった。定員わずか8名の馬車でも当時は大量輸送機関であり、利用者も多く繁昌して個人営業者がつぎつぎと現われてきた。そして大正3年(1914)には5つの乗合馬車が営業していた。 

馬車道を行く馬車「写真集・長浜百年」(長浜市刊)より
           馬車道を行く馬車「写真集・長浜百年」(長浜市刊)より
日露戦争後の明治38(1905)年になると、琴平と財田の戸川の間にも馬車の運行が始まります。大久保諶之丞が開いた四国新道を樅ノ木峠を越えて、琴平から乗合馬車がやってくるようになったのです。この時の開業者は、高知県の筒井某とされますが、詳しくは分かりません。間もなく財田村の多田節治が営業権を受け継いでいます。始発所は琴平の鞘橋の北で、6台の馬車がそれぞれ一日一回半運行しました。朝6時半出発の始発便は一時間半で戸川に着いています。運賃は琴平・戸川間が15銭です。面白いのは雨天の日は18銭で、雨天時の運賃が高いことです。それが第一次大戦の始まる大正3(1914)年には、5つの会社が営業を行うようになります。その運賃は次のとおりです。
琴平・戸川間     40銭
琴平・樅ノ木峠間    10銭
琴平・野田原(地蔵前) 間 20銭
琴平・正宗間              30銭
ここからは、明治半ば以後には現在の国道32号沿いに「戸川→黒川→追上→樅の木峠→宮田→買田→琴平」に乗合馬車が何台も走るようになり、戸川はその終着地点となっていたことを押さえておきます。
しかし、乗合馬車の活躍は長くは続きませんでした。1923年になると、琴平が終着駅だった土讃線が財田まで伸びてきたからです。この時点では、財田駅が土讃線の終点で、人とモノはここで降ろされ、猪ノ鼻越を目指しました。そのため財田駅の駅員は50名近くいて、荷物の扱いにあたっています。この時期が猪ノ鼻越の人とモノの量が最盛期で、戸川が最も栄えた時期になるようです。
それが昭和4(1929)年に土讃線が阿波池田まで開通すると、人とモノ流れは劇的に変化します。回想記は、次のように記します。

昭和4年に土讃線 が池田までが開通すると、荷物がばたりと止まりました。その後はカン木って、薪を運んだんです。個人の家では女子衆が薪しましたけん、酒屋や醤油屋、うどん屋などへ薪運ぶんですわ。そのうちにトラックが入って来まして、仕事がだんだん無くなりました。四つ車では三百貫ぐらい、トラックやったら四〇〇貫積めるし、牛車で一日かかるところが一時間で運べますわ。それでも、ぽつぽつやっていましたが、昭和15年ごろやめて百姓することになりました。 

明治維新になって経済の自由が保障され、新しく作られた新道で人やモノの動きが活発に動き始めます。そのため阿讃山脈のふもとには阿波との交易拠点として、次のような宿場が姿を見せるようになります。
A 五郷(観音寺市大野原)  → 曼陀峠
B 戸川(三豊市財田)  → 猪ノ鼻峠
C 塩入(まんのう町)  → 東山峠
D 明神(まんのう町)  → 真鈴峠・二双越・三頭越
E 安原(高松市塩江)  → 相栗峠

昭和4(1928)年、讃岐鉄道が猪ノ鼻トンネを越えて徳島県池田まで延長されると、物資の輸送は劇的に変化します。猪ノ鼻越をする人とモノは激減し、宿場は廃れていきます。そして、電力に水車も駆逐されていきます。かつての山里の賑わいは、今は面影をとどめる建物さえありません。時代の大きな流れの中に飲み込まれ、消えていったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「財田町史641P 四国新道と戸川の繁栄」
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5借耕牛 写真峠jpg
        阿讃の峠を越える借耕牛
阿波の美馬,三好地方で「米牛」と呼ばれる借耕牛の習慣は,江戸中期から始まったとされています。
農耕用の牛は一年中、働き場所があるわけではありません。春秋の二李,(田植期と収穫期)のみが出番です。そこで、美馬・三好両郡の山分で水田に乏しいソラの農家が,自分の家の役牛を農耕用として讃岐の農家へ貸します。そのお礼に、おいしい「讃岐米」の俵を背に積んで帰ってきました。今回は借耕牛(米牛)について見ていくことにします。テキストは「借耕牛の研究」四国農事試験場報告6号381P~(1962年)」です。これは、PDFfileでダウンロード可能です。

借耕牛が成立するには次のような背景がありました。

借耕牛登場の背景
これに対して、阿波には山の上に広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。

借耕牛 美馬郡の腕山牧場
阿波のソラの集落には広い放牧場があった。 
また、美馬や三好地方の田植は5月ですが、西讃地方の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったようです。

 そこで、この間を橋渡しする仲介業者が現れるようになります。

借耕牛取引図3

貸方の阿波農家と,借り方の讃岐農家の間に入って牛の仲介する博労を美馬郡では俗称「といや」、さぬきでは「ばくろ」と呼んでいました。「といや」が中に立って牛を連れて行く場所と日時を決めます。
それが讃岐側の塩江の岩部、まんのう町の美合や塩入、財田の戸川でした。そこに借り手と貸し手と牛が集まってきます。ここで仲介人が借賃についての条件を相方に話し、納得の上で讃岐側の借主が牛をつれて帰りました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
  このような光景が、まんのう町の塩入や美合でも見られたのです。

山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年発行)には、塩江の岩部の当時の様子が次のように書かれています。 
 先のとがった管笠をかむって ワラ沓をはいて 上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから牛はやってきた
朝 登校の途中でこの牛の群れに出会うと わたしたちは小さい溝を飛び超えて 山手の方に身を避けた 牛の群れが立てた往還のものすごい土ぼこりを 山から吹きおろした青嵐が次々と香東川の清流の中へ消していった
借耕牛 12
 讃岐にやってきた阿波の牛

 岩部(塩江温泉周辺)の里は一ぺんに活気づいた 牛追いさん 受け取り人 世話人(口入れ人) 牛馬商が集まってきて 道も橋も牛と人で一ぱいになった うどん屋も 宿屋も 料理屋も押し合いへし合いで 昼のうちから三味線の音が聞こえ 唄声が流れた
 
借耕牛 美合
美合(まんのう町)に集結した牛たち
借耕牛のせり
競りにかけられる牛たち

 田植えが済んで牛が帰るころは もうかんかん照りの真夏であった 借耕牛は米牛とも呼ばれ 米を何俵ももらって帰ったものだ 塩ざかなを角に掛けた いわゆる「角みやげ」をもらった牛もいる 
 かわいそうに使いぬかれて やせ衰えた牛もいる 讃岐でお産をして可愛い子牛と一しょに帰る牛もいた  
 それらが帰ってしまうと 岩部の里は 一ぺんに静かになって 長い冬がやって来るのであった
どうして阿波からの借耕牛がやってくるようになったのか?

借耕牛 美合落合橋の欄干
美合(まんのう町)の落合橋の欄干
ここには次のような発展段階があるようです。
5借耕牛 発展段階
①江戸時代に、阿波の男達が農繁期に「カルコ」として出稼ぎにやってきていた。
②幕末期に讃岐の砂糖製造が軌道に乗ると、砂糖絞りのための牛の需要が増大した。これには小さな讃岐牛は不適で、大型で力のある阿波牛が適していた。
③「カルコ」たちが牛を連れてやってきて、砂糖絞り車で働き始めた。
 借耕牛以前に「人間の労働力移動(出稼ぎ) → 砂糖牛の移動」という段階があったようです。

明治になって借耕牛が増えたのは、どうしてでしょうか?

借耕牛 増加の背景

次のような背景を研究者は考えているようです。
1 阿波側の藍栽培の衰退
阿波の特産品と云えば藍でした。しかし、明治34年からの合成藍の輸入で急速に衰退します。その結果、藍輸送用の牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
 2 代わって明治になって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
葉煙草には、牛堆肥が最良の肥料です。牛肥を得るために、煙草農家は和牛飼育を始めます。こうして三好郡の役牛数は増加します。藍の衰退による「役牛大量失業」と葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。例えばまんのう町の美合には

煙草作りの牛肥確保のために、讃岐の牛を農閑期に預かっていた

という古老の話が残っています。明治15年頃の話ですが、阿波側は田植えを早く済ませると零細農家の男達もは讃岐へ出稼ぎに行っていたのは、先ほど紹介したとおりです。彼らは牛のいない農家です。そのため田植えが終わって帰る時に、讃岐の雇主の牛を預かって帰り、夏草で牛を飼い堆肥を作って、秋に牛を返すときに自分も働いて帰っていたというのです。牛の飼い賃としては、米・綿・砂糖・煮干しをもらったそうです。
 3 讃岐の農業事情 砂糖・綿花が香川から姿を消すのが明治末。
 藍が衰退したように外国からの輸入で、サトウキビや綿花の栽培も経営が行き詰まります。そこで、綿花や砂糖黍が作られていた土地が再び水田化され、米麦集約栽培の単調な農業経営へ変わって行きます。さらに、満濃池の増築など農業水利の整備で、畑の水田化も進み水田面積が急増します。こうして、牛耕需要は高まります。江戸時代から借耕牛を利用していた家の周辺でも「うちも来年からは、お願いしたい」という声が中継人に寄せられるようになります。

    4 阿波の畜力事情   牛馬の所有率が高い阿波の農家 

借耕牛 阿波の牛馬普及率

上表からは、江戸時代の文化年間(1789~)の阿波の和牛普及率は7~9割で高いことが分かります。特に、ソラの集落では各農家が早くから牛馬のいずれかを買っていました。その背景は、藍による資本蓄積が進んだ明和時期(1770年)に普及率が急増したことがうかがえます。藍バブルで儲けたお金を牛の購入という生産性の向上に着実に投資したようです。
     それに比べて西讃地方の牛普及率はどうでしょうか?

西讃府誌 牛馬普及率

西讃地方の牛馬普及率(西讃府誌

    普及率が高い三野郡でも5割に達していません。平均4割程度で、阿波に比べると牛馬の普及率が半分程度であったことが分かります。この「格差」が牛の移動をもたらした要因のひとつのようです。
  それでは、どのくらいの牛が峠を越えて讃岐に出稼ぎにやってきていたのでしょうか
 
5借耕牛 阿波貸し出し頭数

ここには最盛期の昭和10(1935)年と戦後昭和34(1959)年の三好郡と美馬郡の各村ごとの牛の飼育頭数と貸出牛数が記されています。ここからは次のような事が分かります。
①三好郡と美馬郡でそれぞれ1800頭前後で、合計約3500頭が借耕牛として阿讃の峠を越えていた。
②香川県の美合村や安原村からも借耕牛が出ていた
③三好郡で貸出率が高いのは、三縄・井内谷・箸蔵で7割を越えている
④美馬郡で貸出率が高いのは、端山や一宇でソラに近い村の方が高い傾向が見られる。
 「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになった明治になると、借耕牛は急激に増えたようです。そして、戦前直前の1940年頃には毎年約4000頭が阿讃の峠を越えて讃岐にやって来たようです。それは美馬三好両郡で飼育されていた牛の頭数の約半数になるようです。

最盛期の借耕牛の移動を図示化したものです

借耕牛の阿波供給地
借耕牛の移動図

  ここからは、阿波のどの地域からどの峠を越えて、讃岐のどの地域へ借耕牛が貸し出されたかが分かります。そして、次のような牛の移動ルートが見えてきます。
①美馬郡 → 相栗峠→岩部口(高松氏塩江町)
     → 三頭峠→美合(まんのう町)
     → 香川郡 高松平野
②三好郡  →東山峠 →塩入(まんのう町)→綾歌郡
                   →男山峠 →山脇(まんのう町) →仲多度郡
      →箸蔵街道 →財田(三豊市財田町)→三豊郡
 阿波西部の2つの郡から阿讃の峠道を越えた牛たちは、里の宿場に集結し、讃岐の借り手の家に引き取られていきます。

借耕牛 通過峠
(数字は、夏秋の合計)

戦前には約4000前後だったのが,高度経済成長期には約500頭まで激減します。それは耕耘機が現れたからです。いわゆる「農業の機械化」で、水田から牛の姿は消えていきます。

借耕牛のレンタル契約は?

借耕牛借用書2
昭和3(1928)年の借耕牛借用書右部分

借耕牛借用書3
借用契約書左部分
春は6月上旬から7月の半夏(はんげ)の頃まで1ケ月間
秋は11月上旬から12月上旬までの1ケ月間で,
給金として米俵二俵(8斗前後)を背に積んで帰りました。
5借耕牛 賃料の現金化移行写真峠jpg

しかし、上8を見ると分かるように大正時代になると、どの地域でも米から現金に変わっていったことが分かります。貨幣経済が本格的に浸透が、このあたりだったことがうかがえます。
春は1ケ月間,丈夫な牛で最高9,000円~最低4.000円
秋は1ケ月は,丈夫な牛で8,000円弱い牛で約4,000円
借耕牛 レンタル料推移

それでも、手ぶらで帰すのは様にならないので、帰りの牛の弁当として「よまし麦」を牛の荷肩に積むようになったようです。

借耕牛見送り 美合
阿波に帰る牛たちを見送る(まんのう町美合)
  こんな借耕牛の姿が見られたのも1960年頃まででした。農業の機械化が進み耕耘機が登場すると牛耕の時代は終わります。牛たちは田んぼから静かに姿を消しました。そして阿讃の峠を越える牛の姿もなくなったのです。
先ほど紹介した小野蒙古風の「句集 借耕牛」に載せられた句を紹介します  
  借耕牛 青峡下る草鞋ばき
  借耕牛 糶(せ)られつ緑陰に尿太し
  糶る牛 歩かせ値ぎめの指を握りあう
  幾青嶺超え来し牛か澄む瞳して
  牛貸して腰の弁当涼しみ喰う
借耕牛 落合橋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
2024年6月9日改訂版

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