瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:賀茂神社

仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
7仁尾
仁尾町の沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進した島の一つです。 荘園が置かれると荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが一般的でした。こうして、大蔦島に京都の賀茂神社が勧請されます。そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。以後、仁尾浦の住人は、京都賀茂社の神人(じにん)として社役を担うようになり、特別の権威を持ち交易や通商、航海等に活躍することになります。このことについては、以前にお話ししましたので、今回は中世仁尾の景観復元を、例のごとく香川県立ミュージアムの冊子で見ていくことにしましょう。
7仁尾2
 仁尾を巨視的に見ておきましょう。
瀬戸内海に鬼の角のように突き出た庄内半島の西側の付け根にあるのが仁尾浦です。庄内半島の東側が粟島から塩飽諸島や直島諸島など「多島海」なのに対して、仁尾のある西側は、燧灘に伊吹島がぽつんと沖に浮かぶだけです。そのために冬は北西風が強く、強い波風が海岸に襲いかかってきます。しかし、仁尾浦は、庄内半島の湾岸最奥部にあることと、その前に浮かぶ大蔦島・小蔦島と磯菜島(天神山、昭和前半期には島であった)が天然の防波堤となり港を守ります。そのため「西風が吹いても入港できる西讃唯一の港」と云われる天然の良港でした。
 一方、託間の南の三野津湾は中世までは奥深く海が湾入していたことが分かります。海岸線は吉津付近にまで入り込んできていました。古代の吉宗で焼かれた瓦も、この湾に入ってきた船で藤原京に向けて運び出されていったのでしょう。古代の三野郡の津であった三野津は吉津と呼ばれるようになり、江戸時代初期まで港湾集落として機能していたことがうかがえます。
 吉津は、高瀬川流域の内陸部との繋がりが強かった港湾であったようです。それに対して、詫間は多量に生産される塩を瀬戸内海沿岸各地に積み出す拠点港だったようです。そういう意味で託間は、讃岐の外に向かって開かれた港です。
 中世の仁尾浦は、背後の三方をすべて山地に囲まれていて、西の海だけが開かれている地形になります。しかし、三野郡とは、詫間峠越えで詫間に通じ、南側の仁尾峠越えで吉津や高瀬などにつながっていました。また、詫間から加嶺峠越えで仁尾に入る道路は、西に突き出す八紘山に沿って浜に延びますが、その西麓付近に「境目」という地名が残っています。この加嶺峠越えの道路が詫間荘と草木荘との境界線と重なっていたと研究者は考えているようです。
 仁尾浦を鳥瞰すると、核となる施設は二つあるようです。
その一つは京都から大蔦島に勧請され、一四世紀に対岸の仁尾村に移転されたと伝えられる賀茂社であり、一五世紀にはその境内の一角に神宮寺もありました。
北部の古江が初期仁尾の拠点? 
下の地図で分かるように、今は仁尾の海岸部は埋め立てられていますが、明治三〇年代の海岸線は、50㍍ほど内側にありました。特に、北部の「古江」は深い入り江で、磯菜島(天神山)とその沖合にある大蔦島とによって風波を防ぐ天然の良港でした。上賀茂社の供祭人たちが、最初に活動の拠点としていたのは、大蔦島・小蔦島沿岸海域からこの「古江」一帯にかけての海域・諸浦であったと研究者は考えているようです。
7仁尾3

 仁尾の海岸線 実線が近世・点線が中世の海岸線
「古江」の南に拡がる仁尾浦の中心部分について見てみましょう
  覚城院はもともとは  草木八幡宮の別当寺?
もう一つは11世紀半ばの創建、で約二百年後の寛元年間の再建とされる覚城院です。この寺は、もともとは草木荘内にあった伝えられます。一時衰退した時代があり、応永三三年(1418)讃岐・大川郡で活動中の熊野系の僧増吽の勧進によって中興されて、今日に繋がる基礎が築かれたとされます。永享二年(1430)には、覚城院は23の末寺があり、その中に賀茂社神宮寺や塔頭と見られる宮之坊も含まれていました。仁尾の賀茂社の別当寺となったのは、増吽の勧進による再興の際のことだったと研究者は考えているようです。
 しかし、この時の覚城院は現在地にあったわけではないようです。永享二年当時、覚城院の僧宗任が「託間庄草木覚城院」と称し、さらに文明17年(1485)の細川元国が発した禁制には「江尻覚城院」と書かれています。つまり、この時期には、草木荘の江尻にあったようです。
江尻周辺を地図で見てみると、江尻川が大きく蛇行して海に注ぐ河口にも近く、その対岸には、草木八幡宮やその供僧の地蔵坊や千台寺もあり、かつて覚城院が草木八幡宮の別当寺であったという伝承に納得します。覚城院が現在地に再移転したのは、戦国末期から近世初頭のことのようです。
 それに伴って草木八幡宮の別当寺は、覚城院から吉祥院に交代したのでしょう。その他の中世以来の寺院を見てみると広厳院・新光坊・常徳院・金光寺・蓮花寺・多聞寺・如観寺・道明寺などがあり、このうち広厳院・新光坊を除くすべての寺院が八紘山西麓を南北に縦貫する街路の東側に並んでいます。この南北街路が「常徳寺敷地」の西の堺とし「大道」、「覚城院御堂敷」西の堺として見える「大道」にあたるようです。この道筋の起源は、15世紀初頭まで遡れることになります。この「大道」をもう少し追いかけて見ると、賀茂社の東側を通過したあと、北東に向きを変え、詫間峠越えの道路となって詫間へ通じていたと考えられます。その道筋の近くには、「こうでんじ原」[ぜんこうじ原]という地名が残り、覚城院末寺の金伝寺・善光寺があったようです。
  いままでの仁尾の街道レイアウトをまとめておきましょう
①基本街路は詫間峠越えで仁尾と詫間を結ぶ「大道」
②集落北部に神宮寺と賀茂社が鎮座し、南部には草木八幡宮の別当寺であった覚城院があった
③詫間荘と草木荘の境界とされた加嶺峠越えの道路が仁尾浦を南北に分ける。
④その道路沿いに道明寺があり、高瀬・吉津から仁尾峠越えで仁尾浦南部(もとは草木荘域)に入る道路の途上に草木八幡宮や吉祥院があった。
⑤さらに広厳院・新光坊が15世紀前半から現れ、その門前を起点に「大道」と平行する道路割が見られる
⑥この道路の西側に綿座衆の拠る「中須賀」があったことから、仁尾浦の町場集落は二本の南北街路と三本の東西街路を基本とする港湾都市に成長していた
15世紀半ばに、仁尾浦の神人たちが香西氏の非法を訴えた文書の中で、
「地下家数、今者現して五六百計候」
と主張しているのも、誇張ではなく、それなりに根拠のある数値だったようです。
中世仁尾の港湾は、どこにあったのでしょうか。
先ほどの地図を見ると中世の海岸線は、賀茂社門前まで海が迫り、その東側の広厳院・新光坊を起点とする南北街路の西側近くには砂浜が拡がっていたようです。そして、加嶺峠越えの道路が浜に突き当たる地点の北側に綿座衆のいた中須賀があります。ここからは、港湾機能を持つ浜の一つは、このあたりにあったと研究者は考えているようです。
 しかし、賀茂社の北側には「大浜」という地名もあります。
この付近は磯菜島の島影で、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところのようです。仁尾浦の核である賀茂社があること、その賀茂社との関係から「大浜」と呼ばれていたことなどから、仁尾浦の港湾の中心となっていたのはおそらくこの周辺と研究者は考えているようです。海岸部が埋め立てられた現在でも、この「大浜」の沖合に「仁尾港」やヨットハーバーが立地しているのは単なる偶然だけではなさそうです。
  もう一つ注目されるのは江尻川河口付近です。
江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、この河口は現在は「父母が浜」として人気スポットになっているように広い干潟が広がり港の機能は果たせません。中世においても港湾としては不向きだったようです。石清水の神人たちが上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったのは、おそらく彼らの活動舞台である「港の優劣」にもあったのかもしれません。
 参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開

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