中世の瀬戸内海の港町と船と船乗りを見ていきます。平安末期になると、神人・供御人(くごにん)制が形成されてくるようになります。海上交通の担い手である廻船人も、神人(じにん)、供祭人、供御人などの称号をもち、神・天皇の直属民として海上の自由な交通を保証され、瀬戸内海全体をエリアとして海・河での活動に従事するようになります。それは、人の力をこえる広大な大海原で、船を自由に操る廻船人の職能や交易活動そのものが、神の世界とかかわりある業とされていたからなのでしょう。今回は、平安末期から中世前期に登場する廻船(大船)についての史料を見ていくことにします。テキストは「網野善彦 瀬戸内海交通の担い手 網野善彦全集NO10 105P」です。
中世の廻船は、どのくらいの値段で取引されていたのでしょうか?
1164(長寛2)年、周防の清原清宗は、厳島社所司西光房の私領田畠・栗林六町を得た代価として、自分の持ち船である「長撃丈伍尺、腹七尺」を渡しています。つまり「6町(㌶)田畑・栗林」と「廻船」が交換されています。ここからは、廻船が非常に高価であったことが分かります。
周防・安芸の海を舞台に活動していた清原清宗は、一方では「京・田舎を往反(往復)」する廻船人で、この船を手に入れた厳島の西光房も同業者だったようです。廻船は、大きな利益を生むために、高く取引されていたことを押さえておきます。
周防・安芸の海を舞台に活動していた清原清宗は、一方では「京・田舎を往反(往復)」する廻船人で、この船を手に入れた厳島の西光房も同業者だったようです。廻船は、大きな利益を生むために、高く取引されていたことを押さえておきます。
法然が讃岐流刑の際に利用した廻船(法然上人絵伝 室津)
法然が讃岐流刑の際に乗船した大船は、田畑7㌶の価値があったことになります。この船を手配したのは、誰なのでしょうか。また、どこの港を船籍とする船なのでしょうか? そんな疑問も湧いてきます。それはさておいて、先に進みます。
廻船の事例として、1187(文治3)年2月11日の「物部氏女譲状」を見ておきましょう。
この譲状には、紀伊の久見和太(くみわた)の賀茂社供祭人の持舟「坂東丸」と呼ばれる船が出てきます。(「仁和寺聖教紙背文書」)。「久見和太」の御厨は東松江村の辺りにあった可能性が強く,現在の和歌山市松江付近にとされています。「坂東丸」は1192(建久3)年4月には、播磨貞国をはじめとする播磨氏五名、額田・美野・膳氏各一名からなる久見和太供祭人の持ち舟となっていて「東国と号す」とされています。この船はもともとは「私領船」でしたが、持主の源末利の死後、後家の美野氏、山崎寺主、摂津国草苅住人加賀介等の間で、所有権をめぐって争いとなります。大船(廻船)は貴重なために、所有権を巡る争いも多かったようです。同時に、その所有権が移り替わっていく「動産」でもあったようです。また、ここに登場する賀茂社供祭人たちも、漁携民であるとともに廻船人です。彼らは坂東・東国にまで航海し、遠方交易にたずさわっていたことが史料から分かります。
この譲状には、紀伊の久見和太(くみわた)の賀茂社供祭人の持舟「坂東丸」と呼ばれる船が出てきます。(「仁和寺聖教紙背文書」)。「久見和太」の御厨は東松江村の辺りにあった可能性が強く,現在の和歌山市松江付近にとされています。「坂東丸」は1192(建久3)年4月には、播磨貞国をはじめとする播磨氏五名、額田・美野・膳氏各一名からなる久見和太供祭人の持ち舟となっていて「東国と号す」とされています。この船はもともとは「私領船」でしたが、持主の源末利の死後、後家の美野氏、山崎寺主、摂津国草苅住人加賀介等の間で、所有権をめぐって争いとなります。大船(廻船)は貴重なために、所有権を巡る争いも多かったようです。同時に、その所有権が移り替わっていく「動産」でもあったようです。また、ここに登場する賀茂社供祭人たちも、漁携民であるとともに廻船人です。彼らは坂東・東国にまで航海し、遠方交易にたずさわっていたことが史料から分かります。
当時の廻船人の社会的な地位がうかがえる史料があります。
弘田神社(西宮市)
1250(建長2)年の、摂津国広田社の廻船人について、次のように記されています。この廻船人は、社司・供僧以下、百姓等とともに、「近年、博変を好む」として禁制の対象になっています。そして、1263(弘長3)年4月20日の神祗官下文からは、廻船人について次のようなことが分かります。
①廻船人のなかに令制の官職をもつ「有官の輩」がいたこと②有官の廻船人の罪については、供僧・八女(神社に奉仕し神楽などを奏する少女)と同じように特権が与えられていたこと③廻船人が遠国で犯した罪科については、訴人がなければ問題にしないこと、
ここからは神人が官位をもち、世俗の侍身分に準ずる地位にあったことが分かります。廻船人は神人や、あるいはそれ以上の特権を与えられて、広く遠国にまで船で出かけて活動していたようです。廻船人をただの船乗りと考えると、いけないようです。船乗り達は身分もあり、経済力もある階層だったのです。
平安時代の武庫郡
1292(正応5)年閏6月10日、摂津の武庫郡今津の廻船人である秦永久の記録を見ておきましょう。秦永久は東船江屋敷などの田地四段、所従七人とともに、小船二艘を含む船三艘を嫡子有若丸に譲っています。秦永久も武庫川河口近辺の津・船江に根拠をもつ廻船人であったようです。秦姓を名乗っているので、もともとは渡来系の海民のようです。武庫郡は祗園社の今宮神人や広田社神人を兼ねた津江御厨供御人とともに、諸国往来自由の特権を保証された武庫郡供御人の根拠地でした。秦氏がこれらの海民的な神人・供御人集団の一員であったことが分かります。
秦永久が嫡子有若丸に譲った小船二艘は漁携用で、残りの一般が廻船に用いられた「大船」だったようです。ここからは、廻船人は天皇家・神社などによって特権を与えられ、廻船で広く交易活動を行う一方で、平安末・鎌倉期には、漁機にも従事していたことがうかがえます。
以上からは、古代以来の海民たちが、賀茂・鴨社の保護を受けながら漁撈を営みながら大船(廻船)をもち、瀬戸内海を舞台に交易活動に進出していく姿が見えてきます。ここで思い出すのが、「法然上人絵図」の讃岐流刑の際に立ち寄った播磨・高砂の光景です。
法然上人絵図 高砂
①が法然で経机を前に、往生への道を説きます。僧侶や縁側には子供を背負った母親の姿も見えます。④は遠巻きに話を聞く人達です。話が終わると②③の老夫婦が深々と頭を下げて、次のように尋ねました。
「私たちは、この浦の海民で魚を漁ることを生業としてきました。たくさんの魚の命を殺して暮らしています。殺生する者は、地獄に落ちると聞かされました。なんとかお助けください」
法然は念仏往生を聞かせます。静かに聞いていた夫婦は、安堵の胸を下ろします。法然が説法を行う建物の前は、すぐに浜です。当時は、港湾施設はなく、浜に船が乗り上げていたことは以前にお話ししました。そして、⑤⑥は漁船でしょう。一方、右側の⑦は幅が広く大船(廻船)のように見えます。そうだとすれば、法然に相談している老いた漁師も、「漁携民であるとともに廻船人」で、若い頃には交易活動にも参加していたのかもしれません。
法然上人絵伝 神戸廻船廻船
そういう目で「法然上人絵伝」に登場してくる神戸湊を見てみると、ここにも漁船だけでなく廻船らしき船が描かれています。海民たちは、漁撈者であると同時に、廻船で交易活動も行っていたことがうかがえます。
古代の海民たちは、「製塩 + 漁撈 + 交易」を行っていました。
製塩活動が盛んだったエリアには、牛窓や赤穂、室津などのように中世になると交易港が姿を現すようになります。それは、古代の海民たちの末裔達の姿ではないかと私は考えています。そして、海民の中で大きな役割を果たしたのが、渡来系の秦氏ではないかと思うのです。
①秦氏による豊前への秦王国の形成②瀬戸内海沿岸での製塩活動や漁撈、交易活動③山城秦氏の氏神としての賀茂・鴨神社による秦氏系海民を神人として保護・使役④豊前秦氏の氏神・宇佐神宮の八幡社としての展開と、八幡社神人としての海民保護と使役
賀茂神社や八幡社は、もともとは秦氏系の氏神です。そこに、秦氏の海民たちが神人として特権を与えられ使役されたという説です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献