瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:贈大僧正空海和上伝記

空海については、実像像と神格化・伝説化された弘法大師像のふたつの像があるようです。研究者は「弘法大師の神格化・伝説化は、大師の末徒によって「大師伝」が書かれた頃、つまり9世紀末からはじまっていた」と指摘します。それを具体的に見ていくことにします。
平安中期(10世紀末)までに成立していた「大師伝」は、次の5つです。
A「続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条 貞観11年(869)年成立
B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝) 寛平7年(895)成立
C『遺告二十五ヶ条』(御遺告) 10世紀中頃成立
D「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝) 10世紀中頃成立
E「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保5年(968)成立
今回はAとBを比較して、大師伝に奇跡譚や伝説化された事績が、どのように追加されていったのかを見ていくことにします。テキストは、武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P」所収です。
まず、Aの『続日本後紀』から見ていきます。
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続日本後記
これは朝廷が作った正史で、根本史料です。この巻第四、承和2年(835)3月庚午(二十五)の条に、大師の略歴が記されています。正史にの略伝を「卒伝」と呼びますが、この「空海卒伝」を、研究者は13項目に分けて次のように要約します。
①法師は、讃岐国多度那の人。俗姓は佐伯直
②15歳にして、おじの阿刀大足について文書を読み習い、
③18歳にして、大学に入った。
④時に一人の沙門から求聞持法を習い、
阿波の大瀧嶽・土佐の室戸崎において、求聞持法を修し、霊験を得た(山谷瞥に応じ、明星
末影す)
⑥これより、彗星、日々新たにおこり、信宿のあいだに「三教指帰」を書いた、
⑦書法においては最もその妙を体得なされ、草聖と称せられた。
⑧31歳で得度し、
⑨延磨23年(804)に入唐留学し、青龍寺恵果和尚から真言を学んだ。帰国後、はじめてわが国に秘密の門を啓き、大日の化を弘めた。
⑩天長元年(824)、少憎都に補せられ、
⑪天長7年(830)、大僧都となった。
⑫みずからの志により、紀伊国金剛峯寺に隠居した。
⑬化去の時、63歳であった。
ここには空海の生涯が事実だけが簡潔に記されています。神秘化・伝説化された事績は、ほとんど見られません。強いて云うなら⑤の「求聞持法によって霊験をえた結果、日々慧解(理解力)がすすみ、2日ほどで『三教指帰』を書き上げた。」という点くらいでしょうか。これも、編者のひとりである春澄普縄の空海に対する思い入れが強かったことによるとしておきます。ちなみに⑪の天長七年に大僧都に昇補したことと、⑬の亡くなったのが63歳であったとするのは、最近の定説とは異なるようです。
 ここで押さえておきたいのは、死後直後に書かれた正史には、空海についての事績は、非常にコンパクトで、神秘化・伝説化されたモノは少ないということです。

次に『贈大僧正空海和上伝記』(寛平御伝)を見ていくことにします。
これは、真言宗内で書かれた一番古い大師伝です。奥書から寛平七年(八九五)三月十日、貞観寺座主の聖宝が撰述したとされてきました。研究者は、これも全文を29に分けて次のように要約します。

①讃岐=多度郡の人で、姓は佐伯氏、後に京の地に移貫した。
②宝亀5年(774)に誕生した。殊に異相があった。
③延暦7年(788)15歳。伊予親王の文学であったおじの阿刀氏について学問をはじめた。
④延暦10年(791)18歳、大学に入り経籍を歴学した。
⑤心中に避世の志あり、沙門について求聞持法を学んだ。ついに学問を出でて山林を経行した。
⑥阿波の大瀧嶽・土佐の室戸崎にて修行に励み、法験の成就をえることができた
⑦播磨国において、旅中、路辺の家に寄宿した。老翁が出できて、飯を鉄鉢に盛って空海に供養し、つぎのように語った。「私は、もと行基書薩の弟手の僧のいまだ出家せざりし時の妻なり。彼の僧、存りし日にこの鉄鉢をもつて、私に授けて曰く、「後代に聖あり。汝が宅に来宿せん。須らくこの鉢を捧げて汝が芳志を陳ぶべし」と。今、来客に謁して、殊に感ずるところがあったので、是をもって供養した」と。

⑧伊豆国桂谷山寺に往き、「大般若経』の「魔事品」を虚空に書写した。六書八体、点画を見た。始めて筆を揮うに、憶様成懸瞼監視(古来、理解不能とされてきた)。そのほか、奇異の事は多くあり、そのすべてをあげ、述べることはできない。
⑨その明年、剃髪出家して沙弥形となった。25歳。
⑩延磨23年(804)4月8日、東大寺戒壇院において具足戒を受けた。31歳
⑪延暦23年6月、命を留学にふくんで、大使藤原葛野麻呂と第一船にのり、咸陽に発赴した。
⑫8月、福州に着岸。10月13日、書を福州の観察使に呈した。
⑬12月下旬、長安城にいたり、宣陽坊の官宅におちついた。
⑭延暦24年2月11日、大師等、帰国の途につく。空海、勅により西明寺永忠僧都の故院に移り住む。
⑮城中を歴て名徳を訪ね、たまたま青龍寺東塔院の恵果和尚に遭いたてまつる。空海、西明寺の志明・談勝法師等五六人と同じく往きて和上にまみえる。
⑯6月上旬、学法潅頂壇に人り胎蔵法を受法する‐
⑰7月上旬、更に金剛界の法を受法する。
⑱8月上旬、伝法阿閣梨位の滞頂を受法する。兼ねて真言の教文・両部曼荼羅・道具・種々の法物等を請う。
⑲12月15日、恵呆和尚入滅する。
⑳大同元年(806)10月22日、招来法文の状を判官高階達成に付して上表する。
㉑弘仁11年(820)11月20日、天皇より、大法師位を授けられる。47歳。
㉒天長年中、旱魃あり。天皇、勅して神泉苑にて雨乞を祈らせるに雨降りたり。その功を賀して少僧都に任ぜられる。
㉓いくばくならずして大僧都に転任する。
㉔和上、奏聞して東寺に真言宗を建て秘密蔵を興す。
㉕承和2年(835)病にかかり、金剛峯寺に隠居する。
㉖承和3年(836)3月21日、卒去する。63歳
㉗仁寿年中(851~54年)、僧正貞済の上奏により、大僧正を贈られる。
㉘和上、智行挺出にして、しばしば異標あり。後葉の末資、委しく開くことあたわず。仍って、しばらく、一端を録して、謹んでもって上聞する。謹言
㉙寛平7(895)年3月10日 貞観寺座主
  (『伝令集』第1  37P~38P
この『寛平御伝』は、空海が卒去してからちょうど60年目に書かれた大師伝です。真言教団で書かれたものとしては最古のものになります。空海卒伝と比べて見て、一目で感じるのは、項目が倍増し、ボリュームも大幅に増えていることです。それだけ新しい事項が付け加えられたことになります。
ここで研究者が注目するのは、以下の3点です。
①に誕生年次を「宝亀五(774)年」と明記すること
㉖に卒去を「承和三年三月二十一日」とすること
㉘に「謹んでもって上聞す」とあって、宇多天皇に提出されたものであることが分かること。    

この大師伝には、伝説的な記述が次のように三ヶ所でてきます。
⑦の播磨の国で、行基菩薩の弟子の出家する前の妻から鉄鉢にご飯をもって差し出される話
⑧の伊豆の桂谷山寺において、虚空に『大般若経』の「魔事品」を書写する話
㉒の天長年中に、京都の神泉苑において、雨乞いの法を修された話
⑧と㉒の話は、簡略な記述で、これが原初的な形です。これが後世になると拡大され、絵伝にも収められるようになります。どちらにしても、この3つのテーマは、「弘法大師行状絵巻」には必ず図絵されてて、伝説化されていきます。

もうひとつ研究者が注目するのは、空海の神秘化・伝説化要素が、最初と最後に配置されることです。
最初は②の「宝亀五年(774)、誕生す。殊に異相あり」です。最後は㉘の「和上、智行挺出にして、しばしば異標あり」です。この「殊に異相あり」「智恵・言動が傑出していて、しばしば異標あり」の「異相・異標」は、すでにこの当時から、誕生とその後の事積に関して、いくつかの神秘的・伝説的なことが語られていたことがうかがえます。
 ここからは空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことが分かります。次回は、遺告二十五ヶ条では、その動きがどのように加速化されるようになったかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P」所収

     第46回星霜軒月釜 『空海の茶会』 – 茶室 星霜軒
空海は、讃岐の善通寺で生まれた、そして故郷の満濃池を改修したと小さいときから信じてきましたが、それに異を唱える説が出てきているようです。空海は母の阿刀氏の里・河内で生まれ育ったというものです。にわかには信じられないので、ひとつずつ資料を見ていくことにします。
空海の伝記史料には、空海の出自は、どのように記しているのでしょうか。
「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館」をテキストに見ておきましょう。

 平安時代に成立した空海伝は8つあるようです。その中の空海の出自に関する部分に絞って見ていきます。
一番古い空海の伝記は、「空海卒伝」のようです。
これは、藤原良房・春澄善縄らが編纂した正史の一つである『続日本後紀』巻四、承和二年(825)三月庚午(二十五日)条に収められています。『続日本後紀』は、貞観十一年(969)八月に完成しています。空海は835年に亡くなっていますので、死後130年近くを経ってからのものです。「空海卒伝」は、わずか247字の簡略なもので、空海の出自に関しては、
法師は讃岐国多度の部の人なり。俗姓は佐伯直
と記すだけです。この卒伝から分かることは次の2点のみです。
①空海は讃岐国多度の郡の出身であること、
②俗姓は佐伯直であったこと、
しかし、これだけでは空海が讃岐で生まれたかどうかは分からないと研究者は考えているようです。
当時は、地方豪族の中には中央官人として都で活躍する人たちもいましたが、その本籍地は出身地にそのまま残されているということが多かったのです。地方豪族にとっての夢は、中央官僚になって本貫を都に移すことでした。そのためには、実績を重ねや献金を積んで本貫を都に移すための様々な努力をしていたことが史料からはうかがえます。空海の佐伯家や和気氏の智証大師も同様です。
 そのため「讃岐国多度の部の人なり」は戸籍上の表記であって、出生地とは限らないと考えるようです。
空海伝説

2番目は、貞観寺座主の『贈大僧正空海和上伝記』です。
奥書から寛平七年(895)の成立とされ、次のように記されます。
初めは讃岐国多度の部の人なり。姓は佐伯氏。後に京地の俗に移貫す。宝亀五年甲寅に誕生す。殊に異相有り。
ここには新しい情報が2つあります。
①本貫、つまり本籍地が讃岐から京に移されたこと
②宝亀五年(774)の誕生が明記されたこと。
空海の死後に佐伯氏の本貫が京に移されたようですが、ここにも生誕地は示されません。
3番目は、『空海僧都伝』です。
巻首に「真済」とあり、巻末に「承和二年十月二日」と記されていて、10世紀半ばの成立のようです。本文を見てみると、
和上、故の大僧都、諄は空海、灌頂の号を遍照金剛と日う。俗姓は佐伯直、讃岐国多度の部の人なり。その源は天尊より出ず。次の祖は、昔日本武尊に従って毛人を征して功あり。因って土地を給う。便ち之に家す。国史・譜牒、明著なり。相続いて県令となる。
とある。ここには次のような新たな3つの情報が出てきます。
①大師の先祖は天孫(尊)であること。
②次の祖が日本武尊の蝦夷征討に加わり、その勲功によって讃岐に土地を給い、住むことになったこと。
③代々県令(郡司)を出していたこと。
 ここで初めて蝦夷遠征の軍功で、讃岐に土地を得たこと、代々軍事の家柄であったということが記されます。後代の「佐伯家=国造・郡司」説となる情報です。しかし、生誕地はありません。
巻物 [ 複製 ] 重文弘法大師二十五箇条遺告 醍醐寺所蔵の御遺告 1巻 ...

4番目は、『遺告二十五ヶ条』です。

これは『御遺告』と呼ばれ、空海の遺言状として、別格扱いされてきた文書です。しかし、今日では空海の時代のものではなく、十世紀半ばに書かれたものというのが定説のようです。本文には次のようにあります。
此の時に吾が父は佐伯氏、讃岐国多度の郡の人なり。昔敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。
とあり、『空海僧都伝』と同じく、蝦夷征討の功労によって讃岐に土地を賜わったことが記されています。そして、初めて母方の阿刀氏が登場します。しかし、ここにも生誕地はありません。
弘法大師空海の「御遺告」(最終回) | 新MUのブログ

5番目は、清寿の『弘法大師伝』(
長保四年(1002)です。
古典籍総合データベース

ここで生誕地が初めて次のように記されます。
生土は讃岐の多度の郡、俗姓は佐伯氏、後に京戸に移貫す。去じ宝亀五年甲寅に誕生す。殊に異相有り。
とあり、『寛平御伝』とほぼ同じ内容が書かれています。注目すべきは、「生土は讃岐の多度の郡」とあって、控えめに空海が讃岐国多度郡で誕生されたことを窺わせる記述がでてきます。
6番目は、東寺長者を務めた経範の『弘法大師御行状集記』(寛治三年(1089)です。
1弘法大師御行状集記
「俗姓の条第二」の項に、次のように記されています。
有る書に曰く。父は佐伯氏、昔敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。

「昔敵毛を征して班土を被れり」は、『御遺告』の文章と記述内容が一緒なので、「有る書」とは『御遺告』のことを指しているようです。『御遺告』を見ながらこの書物が書かれたことになります。
7番目は、高野山遍照光院・兼意の『弘法大師御伝』(永久年間(1113~18)です。
本文には次のように記されています。
父は佐伯直氏〈源は天尊より出ず〉、讃岐国多度の郡屏風ヶ浦の人なり。父は昔、敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。
ここには「屏風ヶ浦」という地名が初めて登場します。また、注目したいのは「父は昔、敵毛を征して班土を被れり」と、蝦夷征討に参加して土地を賜わったのは空海の父であった、と今までとは違う解釈が出てきます。
最後が、醍醐寺金剛王院の聖賢の『高野大師御広伝』広伝』元永元年(1118)です
この文書は、今までのものとくらべると記述が詳しく長くなっています。そして空海の父の名前、父から四代さかのぼった伊能までの名前をあげます。全文を紹介します。
讃岐国多度の郡屏風ヶ浦の人なり。俗姓は佐伯直、天尊より出ず。〈案ずるに、姓氏録に云わく。景行天皇の子、稲背入彦命の孫、阿良都別命の男豊島、孝徳天皇の時、初めて佐伯直の姓を賜る〉。少き時の御名は真魚。其の父を田公と曰う。
 田公の父は男足、男足の父は標波都、棟波都の父は外従八位上大人、大人の父は伊能なり。伊能の父祖は所見なし。其の先は、昔倭武命に随って毛人を征し、功勲世を蓋う。土地を讃岐国に賜う。因って之に家す。(三代実録を案ずるに、大納言伴善男の表に云わく。佐伯直の別祖は高産霊尊の後なり。裔孫大伴健日辿公、修武命に随って東国を平定す、と云々〉.子孫相次いで県令となる。
この内容を箇条書きにすると、
①空海は讃岐国多度郡屏風ヶ浦の人で、俗姓を佐伯直といったこと。
②その祖先は天尊から出ていること。
③幼少のときの御名を真魚といったこと。
④父の名は田公、田公の父は男足、男足の父は根波都、標波都の父は大人、大人の父は伊能であるが、伊能の父祖は不明であること。
⑤祖先のひとりが倭武命の蝦夷征討に従軍して勲功をたて、その賞に讃岐国の土地を賜い、ここに住むようになったこと。
⑥その子孫は相次いで県令、すなわち郡司を務めたこと。
 ここには今までになかった情報が数多く示されます。それを挙げると
①空海の幼名 真魚
②空海の父  田公
③父から四代さかのばる先祖の名
75番善通寺~空海一族の氏寺 四国88箇所車遍路(68) - 四国88 ...

貴人の伝記類は、最初に書かれたものは最小限の記述だけでコンパクトな物が多く、後になるに従って、いろいろなものが付け加えられて長くなっていく傾向があります。そして、後に付け加えられたものはそれぞれの思惑や時代の空気を反映して、不正確になりがちです。

  以上、平安時代の空海伝の空海家系について見てきました。
これらの記事に対して、研究者は次のような4点を指摘します。
①後世の空海伝は2番目の『寛平御伝』、3番目の『空海僧都伝』、4番目の『御遺告』が基本となっていること。
②特異なもの・注目すべきものとして、3番目の『空海僧都伝』と⑧番目の『御広伝』の二つがあること。
③3番目の『空海僧都伝』は後世の伝記にあるすべての情報源となっていること。
④番目の『御広伝』、記事の分量も多く、幼名と父の名を記し、父・田公から男足―標波都―大人―伊能と、四代さかのばらせる記事を載せること。
以上から⑧の「御広伝』の6項目は、平安期の空海伝の到達点と云えるようです。
もういちど空海誕生について見てみましょう。
この中で空海の「讃岐生誕説」の根拠となりそうなのは、⑤の『弘法大師伝』と⑥の『行状集記』の2つだけのようです。残りの6つには、空海が讃岐国で誕生されたとは明記されていません。「讃岐国多度の人なり」だけでは、
本籍地は多度郡かもしれないが、出生地が多度郡とは云えない
という指摘には応えることが出来ません。「空海=讃岐多度郡生誕説」は、平安時代の資料からは確実とは云えないようです。

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