瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:赤門寺

  
  
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安楽寺山門(赤門)美馬市
 徳島県の美馬市郡里は、吉野川北岸の河岸段丘の上に早くから開けた所です。
古墳時代には、吉野川の綠岩を積み重ねた横穴石室を持つ国指定の「段の塚山」古墳。そして、その系譜を引く首長によって造営されたと思われる郡里廃寺跡(国指定)の遺跡をたどることが出来ます。
 その段丘の先端に地元人たちから「赤門寺」と親しみを込めて呼ばれているお寺があります。安楽寺です。この寺は元々は天台宗寺院としてとして開かれました。宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠が、境内の西北隅に残されています。

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安楽寺の赤門
真宗に改宗されるのは、東国から落ちのびてきた元武士たちの手によります。
その経緯は、1247年(宝治元年)に、上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、対立していた幕府の執権北条時頼と争い敗れます。彦太郎は討ち手を逃れて、上総の真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家します。そして、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波にやってきてます。その後、安楽寺を任された際に、真宗寺院に転宗したようです。長清の子長房から梵鐘と寺領100貫文が寄進されます。15世紀になると、蓮如上人の本願寺の傘下に入り、美馬を中心に信徒を拡大し、吉野川の上流へ教線を拡大させます。

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安楽寺の親鸞像
安楽寺火災後に、讃岐に「亡命」し宝光寺を建てた背景は?

ところが、永正12年(1515)に寺の危機が訪れます。寺の歴史には次のように記されています。
永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」
 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか?
伝来の場所を離れたのは、そうせざるえない事情があったからではないでしょうか。ただの火災でなく、周辺武士団による焼き討ち追放ではなかったのでしょうか。
2013年11月 : 四国観光スポットblog
三豊市財田 宝光寺(安楽寺の亡命先だった)

後の安堵状の内容からすると、諸権利を巡ってこの地を管轄する武士団との間に対立があった事がうかがえます。あるいは、高越山や箸蔵寺を拠点とする真言系の修験道集団等からの真宗への宗教的・経済的な迫害があったのかもしれません。それに対して、安楽寺の取った方策が「逃散」的な「一時退避」行動ではなかったと私は考えています。
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安楽寺本堂と親鸞・蓮如像
 その際に、寺だけが「移動」したのではないでしょう。
一向門徒の性格からして、多くの信徒も寺と共に「逃散」したはずです。寺をあげての大規模な逃散。この時代は、平和な江戸時代と異なり、土地は余剰気味で労働力が不足した時代です。安楽寺の取った逃散という実力行使は、領主にとっては大きな打撃となったはずです。


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安楽寺山門と松
なぜ、讃岐山脈の向こうの山里に避難したのか。

私は、そこにすでに有力信徒がいたからと考えています。
背景には、阿波から讃岐への「人口流出」があります。讃岐側のソラの集落は、阿波からの人たちによって開かれました。そして時代と共に、山沿いや、その裾野への開墾・開発事業を進め「阿波コロニー」を形成していきます。
 そこへ、故郷阿波から真宗宣教師団が亡命して来て、新たな寺院を開いたのです。箸蔵街道の讃岐側の入口になる財田側の登口に位置する荒戸に「亡命避難センター」としての「宝光寺」が建立されます。その設立の経過からこの寺は、阿讃両国に信徒を抱える寺となります。

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安楽寺本堂の屋根瓦
本寺興正寺の斡旋で美馬への帰郷成功

 同時に、安楽寺は本寺の興正寺を通じて阿波領主である三好氏への斡旋・調定を依頼する政治工作を行います。その結果、5年後の永正十七年(1520)に、三好千熊丸(元長または 長慶)の召還状が出され、郡里に帰住することができました。それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」と題された文書です。
興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、諸公事等之儀、指世中候、若違乱申方候ハゝ、則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言‐、
永正十七年十二月十八日                                  三好千熊九
郡里安楽寺
意訳変換しておくと
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに成敗を加える
郡里への帰還の許可と、諸役を免除すると記されています。
三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。安楽寺は領主三好氏から課役を免ぜられていたことになります。三好氏の庇護下で地元の武士団の圧迫から寺領等を守ろうとしています。

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安楽寺の屋根
この免許状は、興正寺の口添えがあって発給されたものです。

 ここでもうひとつの注目しておきたいのは文頭の「興正寺殿からの口添えがあった」という部分です。永正十七年の興正寺の住持は蓮秀上人ですので「興正寺殿」は蓮秀のことでしょう。免許状の発給のルートとしては
財田亡命中の安楽寺から興正寺の蓮秀に口添えの依頼 → 
蓮秀上人による三好千熊丸に安楽寺のことの取りなし → 
その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
という筋立てが考えられます。ここから、安楽寺の存亡に係わる危機に対して、安楽寺は本寺である興正寺を頼り、本寺の興正寺は末寺の安楽寺を保護していることが分かります。
 それとともに、三好氏が蓮秀の申し入れを聞きいれていることから、興正寺の社会的な地位と政治力をうかがい知ることも出来ます。同時に、安楽寺も地域社会に力をもつ存在だからこそ、三好氏も免許状を与えているのでしょう。力のない小さな道場なら、領主は免許状など与えません。
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安楽寺
「讃岐亡命」から5年後に、興正寺の斡旋で寺領安堵という条件を勝ち取っています。「三好千熊丸諸役免許状」は、安楽寺にとっては勝利宣言書でもありました。だからこそ、この文書を安楽寺は大切に保存してきたのです。 

郡里復帰後の安楽寺の使命は?  讃岐への真宗伝道

 郡里の地へ復帰し、寺の復興を進める一方、安楽寺の進むべき方向が見えてきます。それは、讃岐への真宗布教という使命です。5年間の讃岐への「逃散」と帰還という危機をくぐり抜け、信者や僧侶の団結心や宗教的情熱は高まったはずです。
 そして「亡命政権」中に讃岐財田の異郷の地で暮らし、寺の指導者達は多くのことを学んだはずです。「亡命中」の宝光寺で、教宣拡大活動をを行う一方、その地の情報や人脈も得ました。それを糧に讃岐への布教活動が本格化します。
  浄土真宗の中讃地域での寺院数が十四世紀からはじまり、十六世紀に入って急増するのは、そんな背景があるからだと私は考えています。
「徳島県 三頭越」の画像検索結果
三頭越
安楽寺から讃岐への布教ルートは、どうだったのでしょうか。
ひとつは、現在、三頭トンネルが抜けている三頭越から旧琴南へ。
2つ目は、二本杉越(樫の休み場越え)を越えて旧仲南の塩入へ、
3つめが箸蔵から二軒茶屋を越えて財田へのルートが考えられます。
 このルート沿いの讃岐側の山沿いには、勝浦の長善寺や財田の宝光寺など、真宗興正寺派の有力寺院がいまもあります。これらの寺院を前線基地にして、さらに土器川や金倉川、財田側の下流に向かって教線を伸ばして行ったようです。
DSC00879現在の長楽寺
長善寺(まんのう町勝浦)かつては安楽寺の末寺だった 

 こうして、戦国時代の末期から江戸時代にかけて安楽寺の末寺は、まんのう町から丸亀平野へとひろがります。江戸時代中期には安楽寺の支配に属する寺は、阿波21、讃岐50、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し、四国最大の末寺を持つ真宗寺院へと発展していくのです。
四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布
安楽寺末寺の分布図(寛永3(1626)年)

上の分布図から分かることは
①阿波は吉野川流域沿いに集中しており、東部海岸地域や南部の山岳地帯には末寺はない。
②土佐の末寺は、浦戸湾沿岸に集中している。
③讃岐の末寺が最も多く、髙松・丸亀・三豊平野に集中している。
④伊予は、讃岐に接する東予地域に2寺あるだけである。
少し推察しておくと
①については、経済的な中心地域である吉野川流域が、新参者としてやってきた真宗にとっては、最も門徒を獲得しやすかったエリアであったことが考えられます。吉野川よりも南部は、高越山を拠点とする忌部修験道(真言宗)が根強く、浸透が拒まれた可能性があります。
 阿波東部の海岸線の港も、中世は熊野からやって来た修験系真言勢力が根強かった地域です。また、このエリアには堺を拠点に本願寺の末寺が開かれていきます。安楽寺にとっては、阿波では吉野川流域しかテリトリーにできなかったようです。
②の浦戸湾一帯に道場を開いたのは、太平洋ルートで教線ラインを上してきた本願寺でした。それが伸び悩んだのを、安楽寺が末寺に繰り入れたようです。
③④については、以前にお話ししましたので省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐に多い真宗。
その中でも興正寺派の割合が多いのが大きな特徴と言われています。
わが家も興正寺派。集落の常会ではいまだに正信偈のお勤めをする習慣が残ります。そんな讃岐への真宗布教の拠点のとなったのが阿波の安楽寺。かねてより気になっていたお寺を原付ツーリングで訪ねてみました。
美馬市 観光情報|寺町
   安楽寺
吉野川北岸の河岸段丘上に、寺町と呼ばれる大きな寺院が集まる所があります。三頭山をバックに少し高くなった段丘上に立つのが安楽寺。かつては、洪水の時にはこのあたりまで浸水したこともあったようです。吉野川を遡る川船が、寺の前まで寄せられたような雰囲気がします。 新緑の中 赤い門が出迎えてくれました。
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安楽寺の赤門

四国各地から真宗を治めるために集った学僧の修行の寺でもあったようです。
この門から「赤門寺」と呼ばれていたようです。
桜咲く美馬町寺町の安楽寺 - にし阿波暮らし「四国徳島散策記」

境内は手入れが行き届いた整然とした空間で気持ちよくお参りができました。
本堂前の像は誰?
安楽寺本堂 文化遺産オンライン

親鸞です。私のイメージしている親鸞にぴったりときました。こんな姿で、旅支度した僧侶が布教のために阿讃の峠を越えていったのかな。
ベンチに座りながら教線拡大のために、使命を賭けた僧たちの足取りを考えていました。
徳島県美馬市美馬町の観光!? | 速報 嘆きのオウム安楽寺

阿波にある安楽寺の末寺はすべて古野川の流域にあります。阿讃の山向こうはかつての琴南・仲南・財田町の讃岐の山里にあたります。この山越のルートを伝道師たちは越えて行きました。国境を越えるといえば大変なように思えますが、かつては頻繁な行き来があったようです。このためか中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は、山に近い所に多いようです。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像します。しかし、この時代の真宗寺院は、むしろ「道場」と呼ばれていました。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
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そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。



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