前回は、近世初頭に高野聖たちが四国辺路の札所に定住していく過程を見てみました。今回は、四国辺路にとらわれずに全国の村々に、どのように定着していったのか。また、その結果として何が生まれ、何が残されているのかを見ていくことにします。
テキストは 五来重 高野聖 です。
テキストは 五来重 高野聖 です。
高野聖の地方定着していく方法のひとつは、荒地の開墾開発です。
越中の中新川郡山加積村(現、上市町)の開谷と護摩堂の二集落は、高野聖による開村を伝える集落です。そして、開谷には踊念仏系の棒踊や太刀踊がのこっています。ここからは踊念仏と高野聖と関係がうかがえます。
越中是安村松林寺の、『文政七年書上帳』には、松林寺の先祖について次のように記されています。
祖先は「高野山雲水知円」という者で、文禄二年(1593)以前に越中砺波郡山田野に小庵をかまえて定住した。このとき神明宮も一緒にまつったが、文禄二年に修験道をまなんで、神明宮の別当になった。宝暦12年(1761)に山号寺号を免許されて、山田山松林寺と称した
ここからは高野聖が修験者に「転進」し、神社の別当社の社僧として定着したことがわかります。
これとおなじような例は越中高宮村法船寺にもあります。
沙円空潮が、六十余州をめぐって経廻したのち、この寺にはいり住職となったようです。そして、過去帳に「南無大師遍照金剛」と書かれています。注目したいのは、ここでも後に修験道をまなんで氏神の別当を勤めていることです。先の松林寺住職も法船寺住職も明治維新の神仏分離後は、神職に転じています。ここには、次のような流れが見えてきます。
沙円空潮が、六十余州をめぐって経廻したのち、この寺にはいり住職となったようです。そして、過去帳に「南無大師遍照金剛」と書かれています。注目したいのは、ここでも後に修験道をまなんで氏神の別当を勤めていることです。先の松林寺住職も法船寺住職も明治維新の神仏分離後は、神職に転じています。ここには、次のような流れが見えてきます。
①高野聖→ ②修験道者 →③地域の神社別当職の真言系僧侶 →④明治以後の神職
また、越中には高野聖のつたえたものとおもわれる踊念仏系の願念坊踊が分布しています。
越中願念坊踊
越中願念坊踊で有名なのは、石動(いするぎ)町(小矢部市)綾子のものです。
ここでは黒衣に小袈裟・白脚絆・白足袋・白鉢巻の僧形の踊り手や、浴衣の下に錦のまわしを締め込んだ踊り手が、万燈梨花傘を立てて踊ります。花笠は二段に傘を立て、音頭取りはその傘の柄をたたいて音頭をとるのは住吉踊とおなじです。楽器は拍子木と三味線です。こうした願念坊踊は婦負郡八尾町付近、上新川郡大沢野町大久保でも行われていたようで、このときには伊勢音頭が謡われたようです。
伊勢音頭をうたいながら願人坊踊をするところは、長野県下伊那郡天龍村坂部の冬祭です。これの芸能の始まりに、高野聖が関わったと研究者は考えているようです。
「天狗のごり生(しょう)」と呼ばれた願人坊主の大道芸。
「ごり生(御利生)」とは神仏への祈念などに応じて、ご利益を与えること。願人坊主は手製の鳥居を描いた箱を持ち歩き、鳥居から飛び出した狐の首を伸ばしたり縮めたりして銭を乞うた。
越中の中新川・婦負・東砺波・西砺波では、祭礼行列に「願念坊」という仮装道化が現れます。
「オドケ」とか「スリコン」、または「スッコン棒」と呼ばれる黒衣に袈裟の坊主頭で、捕粉木やオシャモジやソウケ(宗)をもって道化踊をします。これを「スッコン棒」とも「願人」とも云います。スッタカ坊主やスタスタ坊主は「まかしょ」ともいい、高野聖の異称のようです。また江戸時代には高野聖は「高野願人」ともよばれていました。ここからは、これらの仮装道化も高野聖や願人坊が伝えた念仏踊の道化だったことが分かります。そして、越中砺波地方には、高野聖の碑が各地にのこります。
八郎潟町の願人踊り
願人坊踊は願念坊踊とか道心坊踊ともよばれるもので、もともとは卑猥な踊りをして人をわらわせるものでした。
この「願人」とは鞍馬願人や淡島願人などもいて、有名社寺への代願人(「まかしょ」)たちのことです。願人は、代参人として喜捨をえていたので、高野聖だけをさすわけではありません。しかし近世にはいって、高野山へかえることのできなくなった高野聖の大部分が、願人の群に入っていたようです。その数は相当数にいたことが予想できます。
彼らは、生活の糧を何に求めたのでしょうか。研究者は次のように指摘します。
彼らは、生活の糧を何に求めたのでしょうか。研究者は次のように指摘します。
門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。念仏踊や雨乞踊りなど風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったという仮説が示されます。本当なのでしょうか。史料的な裏付けはあるのでしょうか。
住吉踊り
『浮世の有様』(『日本庶民生活史料集成』第11巻、三一書房、昭和45年)には、次のように記されています。
躍り(伊勢踊)の手は、願人坊主、手を付て願人躍りの如く、
三味線・太鼓・すりがね等にてはやし、傘をさし、
住吉躍りのごとし
意訳変換しておくと
伊勢踊の手の動きは、願人坊主(高野聖)が(振り付けて)た願人踊りとよく似ている。三味線・太鼓・摺鐘などではやし、傘をさすのは住吉踊りのようでもある。
ここからは、高野聖が関わった願人踊りが、伊勢踊りや住吉踊りの起源になっていることがうかがえます。高野聖たちは「願人」として、風流踊念仏から伊勢踊や住吉踊り、そして住吉踊りの変化した阿波踊までも関係していたことを研究者は指摘します。
住吉踊り
そのような役割を、どうして高野聖が果たすことができたのでしょうか。研究者は次のように指摘します。
高野聖が遊行のあいだに、雨乞や虫送り、あるいは非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることからおこったのであろう。
つまり、雨乞いや虫送りの年中行事や、ソラの集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、新たに作り上げる役割を果たしたのが高野聖であったのです。つまり、僧侶や神主などの宗教者よりも、彼らは庶民信仰に近い位置にいたことがおおきいと研究者は指摘します。
聖は、仏教が庶民化のために生み出された宗教者のひとつのスタイルでした。
それは仏教の姿をとりながら、仏教よりも庶民に奉仕する宗教活動を優先しました。そのため聖たちは必要とあれば、仏教を捨てても庶民救済をとったのです。これは、求道者とか護法者とかいわれる高僧たちが、庶民を捨てても仏教をとったのとは、まったく正反対だと研究者は指摘します。そのため聖を、仏教のモノサシでとらえようとすると異端的な存在として、賤視さたようです。そしてある意味では、善通寺の我拝師山で修行を行ている西行も勧進聖であったようです。
聖と庶民をむすぶのは庶民信仰です。
聖は、仏教が庶民化のために生み出された宗教者のひとつのスタイルでした。
それは仏教の姿をとりながら、仏教よりも庶民に奉仕する宗教活動を優先しました。そのため聖たちは必要とあれば、仏教を捨てても庶民救済をとったのです。これは、求道者とか護法者とかいわれる高僧たちが、庶民を捨てても仏教をとったのとは、まったく正反対だと研究者は指摘します。そのため聖を、仏教のモノサシでとらえようとすると異端的な存在として、賤視さたようです。そしてある意味では、善通寺の我拝師山で修行を行ている西行も勧進聖であったようです。
聖と庶民をむすぶのは庶民信仰です。
庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世の幸福と来世の安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが高野聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのも、高野聖でした。さらに以前にお話しした庚申信仰も、彼らが庚申講を組織していったようです。
滝宮念仏踊り
こういう視点で、讃岐の民俗芸能を改めて見返してみるといろいろと新しい事が見えてきます。例えば念仏踊りです。現在の由来では、菅原道真や法然との結びつきが説かれています。しかし、これを高野聖によってプロデュースされたものという仮説を立てれば、次のように見えてきます。
①近世において、善如(女)龍王信仰に基づいて真言寺院による雨乞祈祷の展開。それに対して、庶民側からの雨乞行事の実施要求を受けた高野聖(山伏)による雨乞念仏踊りの創始
②宮座中心の祭りに代わって、獅子と太鼓打を登場させ祭りを大衆化させたのも高野聖
③佐文の綾子踊りも風流踊りと弘法大師信仰を結びつけたののも、高野聖
今まで見てきたように、高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。
修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったことがうかがえます。
諏訪大明神念仏踊(まんのう町諏訪神社)
高野聖そのものが、神としてまつられた所もあるようです。
三河の北設楽郡東栄町中在家の「ひじり地蔵」は、ここへ子供を背負った高野聖がきて窟に住んでいたと云います。やがて重病で親子とも死んだので、これを「ひじり地蔵」としてまつるようになります。子供の夜晴きや咳や腫れ物に願をかけ、旗をあげるものがいまも絶えないといいます。
大林寺
おなじ三河の南設楽郡鳳来町四谷の大林寺の「お聖さま」も、廻国の高野聖が重病になってここにたどりつき、村人がこれを手厚く世話したと伝えられます。童達と仲良くした聖は亡くなる時に次のような話を残します。「・・私は死んでも魂はこの村に残って、この村の繁栄と皆さんの病気を治してあげます。病気になったら私の名を3べん呼んで下さい。治ったら私の好きな松笠を・・・・・・・・」
お聖様が亡くなってからも、お聖様の評判は一層高くなり、近郷の村々にまで伝わって行き、お願いに来る人や、お礼参りに来る人でにぎわい、お墓は松笠で埋まってしまう程でした。やがて心ある村人によって聖神(ひじりがみ)としてお祠が建てられ、さらに大林寺の横に聖堂(ひじりどう)が建てられ、参詣者があとを絶たない。
鳳来の伝説(鳳来町文化協会発行)より引用
聖の名を三度よんで松笠をあげてくれれば、いかなる難病も治してあげようと云い残して亡くなったようです。
聖堂(大林寺)
大林寺住職は、この聖のために聖堂を建ててまつり、また神主・夏□八兵衛は、これを「聖神」として祀ったと伝えられます。聖神宮
昔から高野聖と笠は、深い関係があるので、笠のかわりに松笠をあげて願をかけたようです。聖堂には松笠がいまでも供えられています。
神としてまつられた高野聖は、四国の土佐長岡郡本山町にいます。
この聖の子孫は本山町の門脇氏で、 一枚の文書が残っています。(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年) ここには「衛門四郎という山伏」が出てきます。この人物は、弘法大師とともに四国霊場をひらいた右衛門三郎との関係を語っていた高野聖だったようです。
門脇家に残る「聖神文書」は、これを次のように記しています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキをくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置きのをつにツキ ヘび石に ツカイノすがたを のこしとをのたにゑ きたりひじリト祭ハ 右ノ神ナリわきに けさころも うめをくわかれ 下関にありきち三トユウナリ門脇氏わかミヤハチマント祭ツルイニ ヽンメヲ引キ八ダイ流尾 清上二すべし
宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、奥大田へやって来て、 杖を置いて木能津に着いて、蛇石に誓い
鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。聖が祀ったのは 右ノ神である。その脇の袈裟や衣も埋めた分家は 下関にある。吉三という家である門脇氏の若宮八幡を祀り井戸(釣井)注連縄を引き、八大龍王を清浄に祀ることするること
この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」とまつったと記されています。
土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社とされてきました。本山町のものは、高野聖が自分の形見をのこして、聖神として祀ったことが分かります。
聖真子(ひじりまご)社のお札
この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑のあとが斜面いっぱいにのこっていたと云います。今ではすっかり萱藪におおわれています。しかし、耕地の一番上に、袈裟と衣を埋めたという聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)は残っているようです。
本山町付近では、始祖を若宮八幡または先祖八幡としてまつることが多いので、聖神と同格になります。
若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。
また自分の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。それも遊行者を神や仏を奉じて歩く宗教者、または神や仏の化身という信仰からきているのでしょう。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。
また自分の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。それも遊行者を神や仏を奉じて歩く宗教者、または神や仏の化身という信仰からきているのでしょう。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとだった研究者は考えているようです。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と研究者は考えています。そうだとすれば、大師堂が高野聖の活動跡とすることは無理なことではないようです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとだった研究者は考えているようです。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と研究者は考えています。そうだとすれば、大師堂が高野聖の活動跡とすることは無理なことではないようです。
以上をまとめておくと
①高野山が全国的霊場になったのは、高野聖の活躍の結果であった。
②高野聖は高野山の経済と文化の裏方として中世をささえてきたが、つねにいやしめられ迫害される存在でもあった。
③高野山は真言宗の総本山としてのみ知られているが、かつては念仏や浄土信仰の山でもあった
④日本総菩提所の霊場となった高野山と庶民をつないだのが高野聖であった。
⑤弘法大師信仰は、高野聖が庶民のなかに広めた
⑥官寺的性格の高野山は、「密教教学の山で真言宗徒の勉学と修行の場」であり、庶民にとっては垣根が高く、無縁の存在だった。
⑧一方、高野聖たちは、弘法大師を「真言宗の開祖」というよりも、「庶民の病気を癒やす、現世の救済者」と捉えた。
⑨その結果、聖たちによって高野山は極楽浄土往生をたしかにするところとして納骨供養の山として流布され、弘法大師信仰が広められたた。
⑨その結果、聖たちによって高野山は極楽浄土往生をたしかにするところとして納骨供養の山として流布され、弘法大師信仰が広められたた。
⑩近世の高野聖は、地域への定着を迫られ、村々の文化的宗教的行事のプロデューサーの役割を果たすようになる。
⑪それが念仏踊りの風流化、獅子舞の導入、庚申講の組織化などにつながった。
⑪それが念仏踊りの風流化、獅子舞の導入、庚申講の組織化などにつながった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献