瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:踊り念仏

全国の民俗芸能には、鳴り物に太鼓や鉦が使われます。
例えば「一遍上人絵詞伝」には、「ひさげ」を叩きながら、踊り念仏を行ったことが次のように記されています。

すずろに心すみて念仏の信心もおこり、踊躍歓喜の涙いともろおちければ、同行共に声をととのへて念仏し、ひさげをたたきてをどりたまひけるを、(略)

  意訳変換しておくと
次第に心も澄んで念仏への信心も高まり、踊躍歓喜して踊っていると涙がつたい落ちて、同行する者たちは声を調えて念仏して、ひさげを叩いて踊った、(略)

  ここには「ひさげを叩いて踊った」とあります。

提・提子(ひさげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
ひさげ
ひさげとは、鉉(つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 です。湯や酒を入れて、持ち歩いたり温めたりする銅や真鍮製の容器でした。最初は、太鼓や鉦でなく「ひさげ」が打ち鳴らされていたようです。


信濃小田切 踊り念仏 
信濃小田切の踊り念仏
踊り念仏が踊られたころの絵図を見てみましょう。一遍が打ち鳴らしているのは、大きな鉢のように見えます。踊りの輪の中にいる時衆たちが持っているのも鉦ではありません。「ひさげ」を叩いていたことを押さえておきます。また、雰囲気も厳かな宗教的踊りとという感じはしません。踊り念仏が庶民の娯楽性を帯びたものだったことがうかがえます。

『一遍聖絵』には、次のように記します。
聖の体みむとて参たりけるが、おどりて念仏申さるゝ事けしからずと申ければ聖はねばはねよをどらばをどれはるこまののりのみちをばしる人ぞしる

  意訳変換しておくと
聖(一遍)がやってきたことを聞いて、多くの人々がやってきた。その中に踊りながら念仏を唱えることを、けしからないと非難する人もいた。それに対して聖は、跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれと、駒の道理を知る人は知る

「跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれ」とあるので、飛び跳ねる馬のように軽快に乱舞していたことが分かります。この時に、「ひさげ」は叩いて音を出す楽器として使われたようです。同時に、「ひさげ」は、壷のように霊魂の容器であるホトキ(缶)としても用いられています。つまり、宗教的な器具であり、楽器でもあったようです。
「ひさげ」のように空也手段が叩いていたのが瓢箪(ひょうたん)のようです。
『融通念仏縁起絵巻』の清涼寺融通大念仏の項には、瓢箪を叩きながら念仏を唱えて踊る姿が描かれています。ここからは、瓢箪も「宗教的意味合いをもつ楽器」と考えられていたことがうかがえます。
空也堂踊り念仏

京都の空也堂で11月に行われる歓喜躍踊念は、「鉢叩き念仏」とも呼ばれます。ここでは空也僧たちが導師の回りを太鼓と鉦鼓に合わせて、瓢箪を叩きながら歓喜躍踊念仏を踊ります。鉦鼓や焼香太鼓・金瓢などを叩いて、これに合わせて「ナームーアーミーダーブーツ(南無阿弥陀仏)」と念仏を詠唱しながら、前後後退を繰り返しながら左回りに行道します。次第に鉦や太鼓のリズムが激しくなり、空也僧も速いテンポの念仏に合わせながら体を大きく左右上下に振ります。この体形は、天明七年(1787)成立の『拾遺都名所図会』に描かれた挿絵とほぼ同じです。この絵には、
①空也堂の内陣須弥壇前方部で鉦を打ちながら読経を続ける一人の僧侶
②僧衣を着けた半僧半俗の九名の空也僧たち
が描かれ、僧侶を中心に取り巻くようにU字型の体形をなし、手に狐と撞本を持って、詠唱念仏に合わせて瓢箪を打ちつつ行道している様子が描かれています。

空也堂系の六斎念仏請中では、金狐銀釧を採物とするものが多く、瓢箪を叩くものは少数のようです。
採物(とりもの)とは、神事や神楽で巫女や神楽などが手に持つ道具で、「榊・葛・弓・杓(ひさご)・幣(みてぐら)・杖・弓・剣・鉾」の計9種類とされています。折口信夫は手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の意味があったという説を出しています。
 例えば以前に見た播磨の百国踊りの新発意役の採物(とりもの)は
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。
七夕|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典|ジャパナレッジ
ひょうたんが吊された七夕竹
ちなみに、踊り念仏の本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、その後の流れの中で新発意役の衣装も、派手な色合いに風流化し、僧形の姿で踊る所はあまりないようです。そういう意味では、被り物や採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えていると云えそうです。

2月14日|でれろん暮らし|その89「比左を打つとは?」 by 奥田亮 | 花形文化通信
 「七十一番職人歌合」の鉢叩の項には、次のように記します。
「むじょう声 人にきけとて瓢箪のしばしばめぐる 月の夜ねぶつ」
「うらめしや誰が鹿角杖ぞ昨日まで こうやこうや といひてとはぬは(略)はちたたきの祖師は空也といへり」

以上をまとめておくと
①踊り念仏では、手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の道具として採物(とりもの)が用いられた。
②空也系の流れを汲む時衆の踊り念仏で、用いられた採物が「瓢箪」であった。
③瓢箪は、「鉢叩き」として楽器であると同時に、霊魂の容器として宗教的な意味合いを持っていた。
④禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇を採物とした。
⑤踊り念仏から風流踊りへと変化する中で、鳴り物より採物の方が重視されるようになった。
⑦採物は風流化の中で、大型化したり、華やかになったりして独特の「進化」をとげた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

 P1250078
   佐文綾子踊り
「綾子踊り」の里の住人として、次のような疑問を持っています。
①雨乞い踊りとされているのに、詠われる歌は恋歌ばかりで雨に関する内容が少ないのはどうしてか。
②綾子踊りが風流踊りに分類されるのはどうしてか。
③滝宮神社に奉納されていた那珂郡南の七箇村念仏踊りの構成員だった佐文が、どうして綾子踊りを踊り始めたのか。
④七箇村念仏踊りと綾子踊りは、衣装などはよく似ているがどんな関係にあるのか。
⑤綾子踊りと、高瀬二宮神社のエシマ踊りとは、どんな関係にあるのか
⑥佐文で綾子踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったのはいつからなのか。

 いまは各地で雨乞い踊りとされる風流踊りは、もともとは雨乞成就のお礼として奉納された風流踊りでした。
滝宮念仏踊りも坂本組の由緒には「菅原道真の雨乞い成就のお礼として踊った」と書かれています。近世後半になるまでは、雨乞いが行えるのは修行を経た験の高い僧侶や山伏にかぎるとされ、百姓が雨乞いをしても効き目があるとは思われていませんでした。そのため各藩は、白峰寺や善通寺に雨乞いを公的に命じています。村々の庄屋は、山伏たちに雨乞いを依頼しています。村人自身が雨乞い踊りを踊ることは中世や近世前半にははかったようです。
 そんな中で、綾子踊りの縁起は、雨乞い手法を空海から伝えられたとして、雨乞いのために踊ることを口上で明確に述べます。これをどう考えればいいのかが、私の悩みのひとつです。
 もうひとつは、綾子踊りの歌詞や踊り、鳴り物、衣装、幟などが、どのようにして佐文に伝えられたのか、別の言い方をすると、誰がこれを伝えたのかという問題です。風流踊りの研究者達は、諸国廻遊の山伏(勧進聖・高野聖)たちが介在したとします。それが具体的に見えてくる例を、今回は追って見ようと思います。テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。
百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

研究者が取り上げるのは、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊です。
駒宇佐八幡神社では、毎年11月23日の新穀感謝祭の日に、上谷と下谷の氏子が一年交代で百石踊りを奉納します。これはもともとは雨乞祈願の願成就のお礼踊りで、「願解き踊り」とも呼ばれていました。それが時代が下るにつれて、雨乞祈願の踊りとされます。

駒宇佐八幡神社|兵庫県神社庁 神社検索
百石踊り
百石踊りの踊り役構成は、次の通りです
①新発意役二名
②太鼓踊り子役一三~二〇名
③幡踊り子約二〇名
④鉄砲方二名、
⑤青鬼役一名
⑥赤鬼役一名
⑦山伏役二名
⑧笠幕持ち一名
⑨幟持ち役一名
駒宇佐八幡神社 百石踊り : ゲ ジ デ ジ 通 信

①の新発意(しんほつい)というのは「新たに仏門に入った者」のこことで、場所によっては「いつか寺を継いでいくこども」を「新発意」(しんぽち)ともよぶそうです。

研究者が注目するのは、この新発意役です。
その衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰でからげます。法衣のうえから白欅をして、背中で蝶結びにします。笠の縁を赤いシデで飾り、月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。踊りが始まる直前に新発意役は口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊ります。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
僧姿の新発意役

この役は口上を述べ、諸々の踊り役を先導します。このように百石踊りでは、僧侶の扮装をした新発意役が踊りの口上を述べたり踊りを先導したりするので、「新発意型」の民俗芸能のグループにも入れることができます。
 百石踊りは、さまざまな衣装の踊り役や、あるいはきらびやかに飾った「幡」や「笠幕」を所持する役などで構成されているので、「風流踊り」の一種とされます。特に笠幕持ち役は、下谷・上谷とも駒宇佐八幡神社境内にある岩倉(巨石)の前で、「笠幕」と呼ぶ神の依り代を踊りの間ずっと捧げ持ちます。笠幕とは、釣鐘状の造り物の上に金襴の打ち掛けを重ねて、きらびやかに飾った形です。側踊りの締太鼓を手に持つ「太鼓踊り子役」が、新発意役を取り囲むようにして踊るスタイルなので、百石踊りは「太鼓踊り」にも分類できます。
 戦前までは家格によって踊り役が決まっていて、新発意役を演じることができれば、たいへん名誉なこととされたようです。以上から百石踊りは、古態を伝える典型的な新発意踊りで「新発意型風流太鼓踊り」の特徴を伝える民俗芸能と研究者は考えています。

百石踊り - marble Roadster2
百石踊りの新発意役

百石踊りの新発意役をもう少し詳しく見ていくことにします。
新発意役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したこと以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
研究者は注目するのは、次の新発意役の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
を好んで使用したとされます。彼らは大念仏を催して人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。
民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。
 新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べることを押さえておきます。しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなったようです。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で、僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

百石踊りは「百穀踊り」とも記されています。
それは、大掛かりな踊りのため一回の踊りを奉納すると、百石の米が必要っだことに由来するようです。百石踊りの発生由来は「神社調書」のなかに、次のように記されています。
後柏原天皇文亀三年 天台僧元信国中遍歴の途、当社社坊天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在せしところ、其夏大いに旱し民百姓雨を神仏に祈りて験なし時に、元信僧都之を慨き沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して祈る事、七日七夜に及ぶ。 二日目の子の刻頃元信眠を催し、士の刻頃其場に倒れたり、其時夢現の問多くの小男小女元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女は之に合わせて五色の幣を附けたる長き杖を突き、片手に日の丸の扇子を携え歌を奏しつゝ雨を乞ひしに、八幡大神は社殿の扉を開き出御の上、此有様を見そなはせしに、東南の風吹き起こて黒雲を生じ、中より大幣小幣列をなして下り来たると、夢みて醒むれば夜将に明けんとし、其身辺に大小の蛇葡萄せり、而も其蛇は大中小と順を正し、傍の老杉の本に登ると見るや、微雨点々顔面に懸るを覚へたり。(中略)
 巳の刻より降雨益々多く未申の刻より暴雨盆を覆すが如きこと三ヶ日に及び、諸民蘇生の思を起し喜び一方ならず、村民元信を徳とし、八幡宮へ願解祭を奉仕するに当り、 元信夢むところの小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃い七日七夜境内に踊りて、雨喜の報塞祭を奉仕せり、之より年旱して祈雨の験有れば此踊を奉仕し、其種類も次の通なり。
  意訳変換しておくと
後柏原天皇文亀三(1503)年に、天台僧元信は諸国遍歴の際に、当社社坊(別当寺)天台宗弥上山常楽寺へ立寄り滞在していた。その夏は、大変な旱魃で、民百姓は雨を神仏に祈願したが効果はなかった。そこで、元信僧都は、これを憐れんで沐浴斎戒して八幡宮の森に忌籠り断食して、七日七夜祈った。 二日目の子の刻頃、元信は睡魔に襲われ、その場に倒れ眠り込んでしまった。その時に夢の中に、多くの小男小女が元信の周囲を取巻き、小男は手に鼓を打鳴し、小女はこれ合わせて五色の幣をつけた長い杖を突いて、片手に日の丸の扇子を携えて、歌を詠いつつ、雨乞い踊りを踊った。 この時に八幡大神は、社殿の扉を開きこのようすを見守った。すると、東南の風が吹き起こて黒雲が現れ、その中から大幣小幣が列をなして降ってきた。夢から覚めると、まさに夜が明けようとしている。その身辺に大小の蛇が多数現れ、大中小と順番に並んで、傍の老杉の木に登っていく。すると雨点が顔面に点々と降ってきた。(中略)
 巳の刻からは、雨は益々多くなり、未申の刻からは暴雨で盆を覆す雨が三ヶ日間降り続いた。これを見て諸民の喜びは一方ならず、元信の雨乞い成就を感謝して、八幡宮へ願解祭を奉仕するようになった。その際に、元信の夢中に表れた小男小女の踊を仕組み、元信を頭として老若男女打ち揃って七日七夜境内に踊りて、雨乞い成就の感謝と喜びを報塞祭として奉仕した。こうして旱魃の際には、雨乞成就の験があればこの踊りを奉仕するようになった。その種類は次の通りである。

要約すると次のようになります。
①元信と名乗った天台系の遊行聖が駒宇佐八幡宮の社坊(神宮寺・別当寺)に立ち寄り滞在中に、雨乞祈祷を行ったこと
②その踊り構成は、男女の子供たちが元信を取り巻き、男子は鼓を持って打ち鳴らし、女子は五色の御幣が付いた長い杖を突き、片手に日の丸の扇を持って歌を歌いながら踊るというものだったこと
③おびただしい蛇が現れ、列を成して老杉に登って行ったこと。
④蛇が老杉の先端に到着すると微雨が降り始め、そのうち豪雨になったこと。「蛇=善女龍王伝」説を汲んでいること
⑤氏子は、元信の夢告を信じ、夢のなかの雨乞踊りを再現し願解き(雨乞成就感謝)踊りとして踊った。
 以上のように、この踊りは雨乞祈願成就の感謝として踊られてきました。それがいつの頃からか、駒宇佐八幡神社の祭礼にも踊られるようになります。百石踊りは雨乞呪術のおどりであったことをここでは押さえておきます。百石踊りが雨乞祈願の目的で踊られるようになるのは、宝永七年(1710)のことで、以後旱魃の時に15回ほど踊られたことが宇佐八幡神社の記録に残されています。
ここからは駒宇佐八幡神社は、雨乞に霊験あらたかな神社として、地域の信仰を集めてきたことが分かります。そして18世紀前期からは、頻繁に雨乞代参をうけたり、雨乞祈祷を行っています。それを裏付けるのが次のような資料です。
①天和2年(1682)の「駒宇佐八幡宮縁起」の奥書に「「一時早魃之年勅祈雨千当宮須雙甘雨済泣於天下」とあること
②「駒宇佐八幡神社調書」にも城主九鬼氏による雨乞祈願が享保九年、明和二年、明和七年、明和八年などに、頻繁に行われたこと
雨乞いの百石踊り/三田市ホームページ
百石踊り
それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?
「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。
 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?
由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されていました。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役の僧姿として残存し、現在に至っているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、近世中期以降において遊行聖たちの播磨地方の拠点となり、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺として、近畿地方一円に名を馳せていたことがうかがえます。このような理由で駒宇佐八幡神社のほかにも古来、武運長久の神とされ武士に信仰された八幡神が、雨乞に霊験ある神とも信じられるようになり、その結果、八幡神社に雨乞踊りが奉納されるようになったと研究者は考えています。
  以上播州の駒八幡神社と別当寺の関係、それをとりまく勧進僧(修験者・山伏)の動きを見てきました。
これを讃岐の滝宮念仏踊りに当てはめて、私は次のように考えています。
①滝宮念仏踊りが奉納されていたのは、牛頭大権現(現滝宮神社)であった。
②その別当寺は、龍燈寺で播磨の書写山などとのつながりが深い山伏寺であった。
③龍燈寺の勧進聖達は、牛頭大権現のお札を周辺の村々に配布して牛頭信仰を広めるとともに、同時に一遍時衆の踊り念仏を伝えた。
④こうして、周辺の村々から牛頭大権現(現滝宮神社)への踊り込みが行われるようになった。
⑤戦国時代から近世初頭には、牛頭大権現や別当寺(龍燈寺)も一時的に衰退し、踊り念仏も取りやめになっていた。
⑥それを「雨乞いのため」という大義名分をつけて復興したのが、高松藩藩祖の松平頼重である。
⑦こうして、もともとの龍燈寺の勧進僧(山伏)がテリトリーとしていた村々からの念仏踊りが復活した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」
関連記事

一遍の踊り念仏が民衆に受け入れられた理由のひとつに「祖霊供養のために踊られる念仏踊り」という側面があったからだと研究者は考えているようです。
Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

それを今回は、一遍上人絵伝に出てくる近江の関寺で見ていくことにします。
テキストは、「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。

大津関寺1
琵琶湖から大津の浜へ(一遍上人絵伝)

DSC03339琵琶湖大津の浜

①最初に出てくるのが①琵琶湖で、小舟が大津の浜に着岸しようとしています。船には市女笠の二人連れに女が乗ってきました。

DSC03341

②その手前には、長い嘴の鵜が描かれているので②鵜飼船のようです。
③その横には製材された材木が積んであります。これも船で運ばれてきて、京都に送られていくのかも知れません。

DSC03340大津

浜から関寺の間の両側の家並みが大津の街並みになるようです。ほとんどが板葺き屋根です。その中でとりつきの家は入母屋で、周りに生け垣がめぐらしてあり、有力者の家のようです。大津が琵琶湖の物産集積港として繁栄して様子が見えてきます。その港の管理センターの役割を果たしていたのが関寺のようです。

DSC03345琵琶湖大津 関寺門前179P

④関寺の築地塀沿いには、乞食達が描かれています。前身に白い包帯を巻いたハンセン病患者もいます。大きな寺院は、喰いあぶれた弱者の最後の避難場所でもあったようです。その前を俵を積んだ荷車が牛や馬に引かれて行き交っています。
大津関寺の卒塔婆
関寺の卒塔婆
門の向こう側にあるのが番小屋です。番小屋の中には白幕が張られて、中には二人の僧がいます。ここで研究者が注目するのが、裸足の男が差し出している白いもの(米?)です。参拝客からの喜捨でしょうか。境内ではなく、、門外で収めています。そして、この小屋の手前の壁に、▲頭の4本の棒が立て掛けられています。

DSC03352関寺の卒塔婆
大津の関寺番小屋に立て掛けられた卒塔婆(一遍上人絵伝)
よく見ると大小の卒塔婆のようです。研究者はこれを「木製柱頭五輪(高卒都婆)」と判断します。そうだとすると、この関寺では先祖供養のために「塔婆供養」が行われていたことになります。その供養のための喜捨受付が、この小屋だったようです。ここでは、卒塔婆の存在を押さえておきます。
 多くの参拝社たちが境内に入っていきます。中では何が行われているのでしょうか。巻物を開いていくと見えてくるのは・・・
大津関寺の踊り屋
関寺境内の池の中島建てられた踊り屋(一遍上人絵伝)

門を入ると、四角い池(神池)があります。その真ん中に中島が設けられて、踊り屋が作られています。ここで一遍たちが踊り念仏を踊っています。それを周囲の岸から多くの人々が見ています。大津関寺の踊り屋2
関寺の踊り屋

    池の正面は本堂です。そこには圓城寺からやってきた白い僧服の衆徒達が肩をいからせて見守ります。その中に、稚児らしき姿もあります。寺の山法師立ちが見守っています。奇妙なのは本堂の建物です。よく見ると床板もないし、壁もありません。仮屋根はありますが柱組だけなのです。どうやら関寺は造作中だったようです。そのため勧進が行われていたようです。それが、先ほど見た門前の受付小屋だったのかもしれません。

大津関寺の踊り屋3
大津の関寺全景

詞書は、次のように記します。
圓城寺の衆徒の許可が下りて、関寺での踊り念仏が許可された。最初は7日間の行法予定だったのに、(踊り念仏目当ての)多くの人々の参拝があり、27日間に延長されて「興行」された。

つまり、関寺改修の勧進興行として、踊り念仏が27日間にわたって興行されたのです。それを、民衆や圓城寺の衆徒も見物しているようです。ここからは、
①関寺では本堂改築資金集めのために勧進が行われていたこと
②踊り念仏は「勧進興行」として資金集めのために長期間踊られたこと
そうだとすると時衆僧は、勧進僧としての性格も持っていたことになります。以上を整理すると
①山門を入る右側に卒塔婆が四本立てられていたこと。
②縁側で二人の僧が俗人から骨壷を入れた灯籠型の飾り箱を受けとっていること。
③死者供養が行われる伽藍中央に仮屋が建てられ、念仏踊りが踊られていること。
この3点を結びつけると、納骨を受け付けた後で、供養塔婆を立てられ、念仏踊りが、死者供養のために踊られていたと研究者は判断します。
大坂上野の踊り屋
淀・上野の踊り屋

今度は石清水八幡詣の際に、淀の上野で踊り念仏をしている場面を見ておきましょう。
DSC03479
上野の踊り屋(一遍上人絵伝)
   踊屋の構造は切妻板屋の簡単な作りです。高床を張った舞台では、 一遍をはじめ、時衆僧たちが鉦を打ちながら、無我の踊りに興しています。そのまわりには、念仏踊りを見るために多くの人々がさまざまないでたちで集まっています。踊り屋の周辺には、例によって乞食小屋が、いくつもかけられています。

淀・上野の卒塔婆
上野の卒塔婆(一遍上人絵伝)
右下から田園の中をくねりながら続く街道には、いろいろな人達が行き交っています。柳の老樹の下には茶店もあります。小板敷きの上には、椀や皿が並べられています。研究者が注目するのは、この茶屋から街道沿いに並んでいる何本かの棒です。これは先ほど大津の関寺で見た高卒塔婆(木製柱頭五輪塔婆)のようです。数えると9本あります。 一遍は、ここでも人々から死者供養の申し出を受け付け、死霊鎮塊のための踊り念仏を催したと研究者は考えています。
これを裏付けるのが『一遍上人絵伝』の第十二の次の記述です。

廿一日の日中のゝちの庭のをどり念仏の時、弥阿弥陀仏聖戒参りたれば、時衆皆垢離掻きて、浴衣着てくるべき由申せば、「さらばよくをどらせよ」と仰らる。念仏果てて皆参りて後、結縁。」

ここで一遍は自分の臨終に際して、時衆聖たちに、庭で踊り念仏を行うことを許可しています。踊り念仏は、死者を極楽浄上に導く呪法とも信じられたことがうかがえます。一遍の時衆の中で姿を見せた死者供養のための踊り念仏は、その後にどのように受け継がれ、姿をどう変えていくのでしょうか?

戦国時代になると人々は、来世の往生菩提を願って生存中に供養塔を立てたり、石灯籠や石鳥居を寄進するようになります。
また六斎念仏の講員となって念仏を唱えることもしています。それは生前に「逆修」の功徳を得ようとしたからです。奈良県や大阪府では、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初頭の年号をもつ石造物は、「逆修」供養の目的で建てられたものが多いことからもこのことは裏付けられます。
善通寺市デジタルミュージアム 善通寺伽藍 法然上人逆修塔 - 善通寺市ホームページ
法然上人逆修塔(善通寺東院)
 千利休が天正十七年(1589)に記した寄進状にも、「(略)一、利休宗易 逆修 一、宗恩 逆修(略)利休宗恩右灯籠二、シュ名在之」とあります。ここからも16世紀後期には、逆修信仰が盛んであったことがうかがえます。
 ちなみに、六斎念仏にも歌う念仏と踊る念仏があります。
逆修供養の石造物の碑文に見える「居念仏」が歌う念仏で、「立念仏」が踊る念仏です。居念仏と立念仏が出現した時期は、ちょうど逆修供養が流行した時期と重なります。そして、次のような「分業」が行われていたと研究者は推測します。
①居念仏は老人や長老が当たり、座ったままで念仏を詠唱し
②立念仏衆は若者が担当分業
その後、立念仏の方で風流・芸能化が進みます。その方向性は、
①念仏に合わせて素朴に踊る大念仏から
②種々の被り物や負い物、採り物を身に付けて踊る風流念仏・風流大念仏へと「発展」していったと研究者は考えています。
DSC03480

「歌う念仏」から「踊る念仏」への変遷には、どんな背景があったのでしょうか。
①戦死者の霊を供養したり自分の死後を弔うために、死霊を鎮める呪術である六斎念仏が好んで修され、
②それが次第に集団の乱舞に変わっていった
逆修供養の目的で踊られる六斎念仏は、自らの死後の供養を目的として自らが念仏を唱えながら踊るものです。『一遍聖絵』に描写された踊り念仏の踊り手自身は、自己陶酔して、反開を踏みながら旋回しています。一方で時には、念仏を唱えるだけで踊らず、他者に自分の死後の供養のためになんらかの代償を渡して、踊り念仏を修してもらうこともあったかもしれません。そうだとすれば、踊り念仏は「生まれ清まり」「擬死再生儀礼」のひとつの形だったともいえます。
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  以上をまとめておくと
①一遍によって布教手段として踊られたのが踊り念仏
②それが時衆聖たちが逆修・死者供養の両面から民衆を教化するようになる。
③その結果、元寇という対外危機の恐怖や不安から人々を救う手段として、聖たちは踊り念仏は頻繁に開催するようになった。
④それを見物した人々の間に踊り念仏が流行するようになり、芸能化・風流化した踊り念仏が全国で踊られるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

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Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

念仏は呪術であり、芸能でもありました。そして念仏には「歌う念仏」と「踊る念仏」がありました。踊る念仏は死者供養で、鎮魂呪術としての機能があったようです。それを一遍の踊り念仏で見ていくことにします。テキストは「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。
『一遍聖絵』は、始めて踊り念仏が踊られたときのことを次のように記します。
(信州)小田切の里或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。(略)心工の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ。

ここには弘安二年(1179)に、信州小田切の里で、始めて踊り念仏が踊られたと記されています。そのシーンを見てみましょう。


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信州小田切の武士の舘(始めて踊り念仏が踊られたシーン)

①武士の屋形の縁先で、勧進を受けた一遍が鉢を叩いて囃子をとり、
②庭で法衣を着けた時衆(11人)と武士(2人)が、 真ん中の2人を中心にして輪になって、踊り念仏を行っている
③回りの人達が鉢や鉦を叩いたりして、囃をとる者
④囃子に合わせて手拍子を打つ者が、激しく足踏みをしながら円形に進んでいる。
⑤踊り念仏の輪を囲むように俗人の男女が 一心に手を合わせている
場面に描かれた人々は、みんな目をを大きく開けていて、念仏を詠唱しながら跳躍乱舞しているように見えます。

同じシーンを『一遍上人絵伝』で見ておきましょう。

小田切 一遍上人絵伝

踊りの輪の真ん中で合掌している一遍(顔が赤い)と、その周囲を両手を合わせて激しく跳躍する時衆の徒が対照的に描き分けられています。ここは武士の舘の庭先です。そこには、まだ「踊り屋(ステージ)」は登場していません。
 武士など権力者の家の庭で、時衆聖が勧進を目的として踊ったものは「庭念仏」「庭躍」「入庭」「庭ほめ」などと呼ばれていました。それが時代とともに風流化が進み、風流太鼓踊りの「入庭」とか「入羽」「いりは」、あるいは「出庭」「出羽」「でにわ」などの踊り曲に変化していくようです。確かに、私の里の綾子踊りにも「入廷」という言葉が今でも使われています。

一遍は、阿弥陀仏への信仰を説き、念仏の功徳を強調しました。
彼は念仏を広めるために北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続け、別名「遊行上人」とも呼ばれます。一遍の宗教的なねらいを研究者は次のように考えています。
①熊野信仰と阿弥陀信仰の融合
②元寇という危機的状況打開のために阿弥陀如来(本地仏)をとおして八幡信仰と熊野信仰をも融合し、民衆を教化
一遍や時衆聖たちが、各地の八幡社へ参詣し、詠唱念仏を唱えたり踊り念仏を修しているのは、元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的だったというのです。

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「京都四条京極釈迦堂」
『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』で念仏踊りが踊られている場面が描かれているのは次の通りです
②「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」
③「大津の関寺」
④「京都四条京極釈迦堂」
⑤「二条非田院」
⑥「丹後国久美の道場」
⑦「淀の上野」
⑧「淡路一之宮社頭」

②の「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」を見ておきましょう。
鎌倉片瀬の浜の地蔵堂

ここでは、土の上ではなく道場に設置された踊り屋(ステージ)のなかで踊られています。胸に鉦鼓を吊して足で強く板を蹴り、左回りに旋回する時衆聖たちの姿が描かれています。

踊り念仏は、何のために踊られたのでしょうか?
①時衆聖たちが修行目的から、 一心不乱に踊り念仏を修している
②他人に頼まれた種々の祈願のために、彼らが踊り念仏を行っている
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二条非田院( 一遍聖絵)

多くの見物人が周りに描かれています。踊り念仏は自身の悟りを得るために跳躍乱舞する宗教的行道から、人に見せるという目的が加わって、宗教的芸能の要素を強くおびていったと研究者は考えています。どちらにしても踊り念仏は、時宗聖の勧進活動の一手段だったことが分かります。時衆が急速に信者を獲得した理由のひとつは「踊る念仏僧」というダンスパフォーマンスにあったようです。

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淡路二宮
  「踊り屋」には宗教的な意味もあった
 最初に見た信州小田切で、踊り念仏が踊られ始めた時には、「踊り屋(ステージ)」は描かれていませんでした。ところが②の鎌倉片瀬の浜では、「踊り屋」が登場するようになります。その理由については『一遍聖絵』は、何も触れません。現在の野外コンサートでも同じですが、大勢の人々を集めて踊り念仏を催す場合は、全ての人の目に踊る姿を見せることが求められます。そこでステージ(踊り屋)を組んで高い位置で踊るようになったと研究者は推測します。
 ただ踊り屋はステージというだけの存在ではなかったようです。屋根と柱で仕切られた空間である踊り屋は、死者供養を行う聖地、あるいは祭場と信じられていた節があるというのです。
信州佐久郡の大井太郎の屋敷
大井太郎の屋敷から引き上げる一遍一向 (一遍聖絵巻5)

この場面を詞書は、次のように記します(意訳)
弘安二年(1278)冬、信濃国佐久部に大井太郎という武士がいた。偶然にも一遍に会って、発心して極楽往生を願っていた。この人の姉は、仏法にまったく関心がなかった。が、ある夜に夢をみた。家のまわりを小仏たちが行通している。中に背の高い僧の姿がある。そこまでで夢から覚めた。さっそく陰陽師を呼んで、吉か凶かと占わせた。むろん、吉と出た。そこで、一遍を招いて、三日三晩の踊り念仏の供養を行なった。集まった人々は五、六百人にも及んだという。
 踊りが終わった後、家の板敷きは抜け落ちてしまった。しかし、主人はこれは 一遍の形見だとして、修理もしないで、そのままにして大切に保存した、という。
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    集団の先頭で頭巾を被り、数珠をまさぐりながら帰って行くのが一遍です。その後には、激しい踊りパフォーマンスの興奮と満足感でで、さめやらない集団が続きます。ある意味では夢遊病者のようで、「新しい学校のリーダー」のコンサート会場から出てくるファンたちと同じかも知れません。

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  踊り念仏が奉納された家では、紺色の狩衣の主人の大井太郎が手をあげて見送っています。縁台を見ると、簀の子板が踏み外されています。それほど激しい踊りが行われたことがうかがえます。これも宗教的な意味があると研究者は次のように指摘します。P1240548
踏み外された簀の子板

床や大地を足で激しく強く踏み鳴らすことを「だだ(反閑)を踏む」というようです。
これによって、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送することが西大寺の裸祭などの原型だったことは以前にお話ししました。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのも悪魔祓いです。東大寺のお水取の場合は「ダッタソ」と発音するそうです。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。これが西大寺の裸踊りの起源です。一遍の念仏踊りとつながるところがありそうです。
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⑦「淀の上野」

 板張りの床の上で激しく跳躍すれば「ドンドンドンドン」と大太鼓を乱打するような音がします。この音が悪霊や死霊を鎮める呪力をもつと信じられたようです。

以上をまとめておきます
①踊り念仏が始まった頃は、踊り屋(ステージ)はなく、四股を踏むように大地を激しく踏み込んだ踊りが行われたいた
②それは、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送するパフォーマンスであった。
③それが屋内の板の間で激しくおどると大きく反響し、新たな陶酔感を与えるものとなった。
④踊り念仏に集まる人達が増えると共に、ステージとして踊り屋が設けられるようになる。
⑤踊りはステージでもあり、音響施設でもあり、宗教的な意味合いももつものでもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

  滝宮念仏踊りのひとつに坂本村念仏踊り(丸亀市飯山町)があります。
旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた坂本念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。
喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に7日7夜断食して祈願したところ7月25日から27日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

ここには菅原道真が雨乞いを祈願して、雨が降ったので百姓たちは、悦び踊ったとあります。注意して欲しいのは、雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。江戸時代の前半には、踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。もうひとつ文書を見ておきましょう。
滝宮念仏踊り3 坂本組

嘉永六(1852)年の七箇村念仏踊り(現まんのう町・琴平町)に関する史料です
 この年の七箇村念仏踊は、真野村庄屋の三原谷蔵が総触頭として、先例通りに7月7日に真野不動堂で寄合を行い、17日に満濃池の池の宮で笠揃踊を行い、その後に各村の神社で踊興行を行って、25日に滝宮に躍り込む予定で進められていました。ところが17日に池の宮で笠揃踊を行った時、西領(丸亀藩)側の村々から次のような申し入れがでます。
  先達而から照続候二付、村々用水差支甚ダ困り入申候二付、25日滝宮相踊リ、其内降雨も有之候バ同所二而御相談申度候間、先25日迄外宮々延引致候事」。

意訳変換しておくと
 春先から日照りが続き、村々の用水に差し障りがでて、水の確保に追われ困っている。ついては、25日の滝宮相踊までには、雨も降るかも知れないが雨がないときには、各村の神社での踊興行を延期したい

 簡単に言うと、旱魃で大変なので念仏踊りは雨が降るまで延期したいという申し入れです。最初に、これを呼んだときには私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「雨が降るまで、念仏踊りは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、宮々の踊興行を延期したのです。ここからは関係者の間には、雨乞いのための念仏踊であるという意識はなかったことが分かります。
  それでは念仏踊りは何のために踊られていたのでしょうか?
  念仏踊りに用いられる団扇を見てみましょう。団扇が風流化した踊念仏で主役として使用されます。滝宮神社の「念仏踊」にも下知が役大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。ここでは「願成就」となっています。「雨乞成就」ということなのでしょうか?
近畿の雨乞い踊りを見てみましょう。

石上神社

以前にお話した奈良の布留郷の郷民たちの雨乞いを、見ておきましょう。
 日照りが続くと布留郷の郷民代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供え、雨を祈願します。これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここではオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいました。名前からして念仏踊りの系譜を引くものあることがうかがえます。
ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。雨乞成就のためのものですから、このヲドリは江戸時代を通じて何回も踊られています。
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なむて踊りの絵馬

文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。

この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。

1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

もうひとつ和泉国日根野荘の郷民による雨乞を見ておきましょう。
公家の九条政基は、戦乱を避けて自分の所領である和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)に「亡命」します。ここには修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。そこで見た雨乞いの様子が、彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条に、次のように記されています。
①滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②効果のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で祈祷する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
ここでも雨乞いに、民衆が踊る念仏踊りは出てきません。
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日根野庄の滝宮(現火走神社)
出てくるのは、雨が降った後のお礼です。
 降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。ここでも「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。
 本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。 ここでもうひとつ注目しておきたいことは、この踊りが村人たちの手で踊られていることです。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

その背景を、研究者は次のように指摘します。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために、高野の念仏聖たちが民衆の間に流布させた「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために創り出されたものではありません。念仏聖たちが村人たちに伝えたものです。それが先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られるようになっていました。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
 注意しなければならないのは「雨乞い」のための踊りではなかったことです。
考えて見れば、国家的な雨乞いは、空海のような真言の高僧が善女龍王に祈祷して雨を降らせるものです。民間の民雨いも、それなりの呪術力をもった山伏が行っていたのです。そこへただの村人が盆踊りで踊られている風流踊りや念仏踊りを、雨乞いのために踊っても民衆たちは効能があるとは思わなかったでしょう。念仏踊りは、雨乞い成就のお礼のために踊られたのです。

   ここには、滝宮念仏踊りとの共通点をいくつか拾い出せます。
①「村切り」前の郷エリアの郷社に奉納されている。
②布留郷全体の村々から踊りのチームが出されている
③雨乞い踊りではなく雨乞いの「満願成就のお礼」として踊るものだった。
滝宮念仏踊り2
 滝宮念仏踊り

このような視点でもう一度、滝宮念仏踊り見てみましょう
滝宮念仏踊りは雨乞い踊りである先入観を捨てると、何が見えてくるのでしょうか。考えられるのは次のような仮説です。
①中世の讃岐では高野の念仏聖や時宗聖たちによって、念仏信仰が広められ念仏踊りが広く踊られるようになっていた。これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかった。
②高野念仏聖などのプロデュースで郷村の祭礼や盆踊りで、念仏踊りが踊られるようになる。
③それが日照りの際の「満願成就のお礼」として、郷社に奉納されるようになる。
④菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社にも、各郷の念仏踊りが奉納されるようになる。
⑤戦国時代の混乱の中で、滝宮神社への躍り込みは中断する。
⑥これを復興したのが髙松藩初代藩主の松平頼重で、彼は近畿で踊られていた「南無手」踊りを知っていた上で、雨乞いのためという「大義名分」を前面に押し出し復興させた。
⑦こうして、中世の各郷村単位で編成された組が江戸時代を通じて、3年毎に滝宮神社に念仏踊りを奉納するようになる。
⑧滝宮の躍り込みの前には、各郷村の下部の村単位の神社にも奉納興行が行われ、そこには多くの見物人が押しかけた。
⑨踊り手などの構成員は、世襲制で宮座制に基づく運営が行われていた。
⑩奉納される神社にも、特権的な桟敷席が設けられ売買の対象となっていた。
一遍】ダンシング宗教レボリューション!一遍研究者の「踊り念仏」白熱教室:~国宝「一遍聖絵」をじっくり絵解き!時宗の名宝展がグッと面白くなる~#ky19b160  | 京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」
一遍の踊り念仏

 つまり、滝宮念仏踊りのルーツは中世の踊り念仏にあるという説になります。
中世には高野の聖たちのほとんどが念仏聖化します。弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺への布教活動を行っていたことは以前に見たとおりです。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いちしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡小松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

念仏踊りのルーツは高野の念仏聖や時宗の躍動念仏だと研究者は考えているようです。
  また、⑧⑨⑩からは、念仏踊りがもともとは中世のムラの民俗芸能として、祭礼と結びついていたことを教えてくれます。讃岐の念仏踊りが、雨乞いと結びつけられるようになるのは、近世になってからだと私は考えています。
EDM-6 Buddhist bounceと踊り念仏 - みんなアホだね

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

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