瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:踊り念仏の風流化

全国の民俗芸能には、鳴り物に太鼓や鉦が使われます。
例えば「一遍上人絵詞伝」には、「ひさげ」を叩きながら、踊り念仏を行ったことが次のように記されています。

すずろに心すみて念仏の信心もおこり、踊躍歓喜の涙いともろおちければ、同行共に声をととのへて念仏し、ひさげをたたきてをどりたまひけるを、(略)

  意訳変換しておくと
次第に心も澄んで念仏への信心も高まり、踊躍歓喜して踊っていると涙がつたい落ちて、同行する者たちは声を調えて念仏して、ひさげを叩いて踊った、(略)

  ここには「ひさげを叩いて踊った」とあります。

提・提子(ひさげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
ひさげ
ひさげとは、鉉(つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 です。湯や酒を入れて、持ち歩いたり温めたりする銅や真鍮製の容器でした。最初は、太鼓や鉦でなく「ひさげ」が打ち鳴らされていたようです。


信濃小田切 踊り念仏 
信濃小田切の踊り念仏
踊り念仏が踊られたころの絵図を見てみましょう。一遍が打ち鳴らしているのは、大きな鉢のように見えます。踊りの輪の中にいる時衆たちが持っているのも鉦ではありません。「ひさげ」を叩いていたことを押さえておきます。また、雰囲気も厳かな宗教的踊りとという感じはしません。踊り念仏が庶民の娯楽性を帯びたものだったことがうかがえます。

『一遍聖絵』には、次のように記します。
聖の体みむとて参たりけるが、おどりて念仏申さるゝ事けしからずと申ければ聖はねばはねよをどらばをどれはるこまののりのみちをばしる人ぞしる

  意訳変換しておくと
聖(一遍)がやってきたことを聞いて、多くの人々がやってきた。その中に踊りながら念仏を唱えることを、けしからないと非難する人もいた。それに対して聖は、跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれと、駒の道理を知る人は知る

「跳ねれば跳ねよ 踊ればおどれ」とあるので、飛び跳ねる馬のように軽快に乱舞していたことが分かります。この時に、「ひさげ」は叩いて音を出す楽器として使われたようです。同時に、「ひさげ」は、壷のように霊魂の容器であるホトキ(缶)としても用いられています。つまり、宗教的な器具であり、楽器でもあったようです。
「ひさげ」のように空也手段が叩いていたのが瓢箪(ひょうたん)のようです。
『融通念仏縁起絵巻』の清涼寺融通大念仏の項には、瓢箪を叩きながら念仏を唱えて踊る姿が描かれています。ここからは、瓢箪も「宗教的意味合いをもつ楽器」と考えられていたことがうかがえます。
空也堂踊り念仏

京都の空也堂で11月に行われる歓喜躍踊念は、「鉢叩き念仏」とも呼ばれます。ここでは空也僧たちが導師の回りを太鼓と鉦鼓に合わせて、瓢箪を叩きながら歓喜躍踊念仏を踊ります。鉦鼓や焼香太鼓・金瓢などを叩いて、これに合わせて「ナームーアーミーダーブーツ(南無阿弥陀仏)」と念仏を詠唱しながら、前後後退を繰り返しながら左回りに行道します。次第に鉦や太鼓のリズムが激しくなり、空也僧も速いテンポの念仏に合わせながら体を大きく左右上下に振ります。この体形は、天明七年(1787)成立の『拾遺都名所図会』に描かれた挿絵とほぼ同じです。この絵には、
①空也堂の内陣須弥壇前方部で鉦を打ちながら読経を続ける一人の僧侶
②僧衣を着けた半僧半俗の九名の空也僧たち
が描かれ、僧侶を中心に取り巻くようにU字型の体形をなし、手に狐と撞本を持って、詠唱念仏に合わせて瓢箪を打ちつつ行道している様子が描かれています。

空也堂系の六斎念仏請中では、金狐銀釧を採物とするものが多く、瓢箪を叩くものは少数のようです。
採物(とりもの)とは、神事や神楽で巫女や神楽などが手に持つ道具で、「榊・葛・弓・杓(ひさご)・幣(みてぐら)・杖・弓・剣・鉾」の計9種類とされています。折口信夫は手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の意味があったという説を出しています。
 例えば以前に見た播磨の百国踊りの新発意役の採物(とりもの)は
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。
七夕|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典|ジャパナレッジ
ひょうたんが吊された七夕竹
ちなみに、踊り念仏の本願の象徴として、
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す瓢箪や七夕竹・団扇などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、その後の流れの中で新発意役の衣装も、派手な色合いに風流化し、僧形の姿で踊る所はあまりないようです。そういう意味では、被り物や採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えていると云えそうです。

2月14日|でれろん暮らし|その89「比左を打つとは?」 by 奥田亮 | 花形文化通信
 「七十一番職人歌合」の鉢叩の項には、次のように記します。
「むじょう声 人にきけとて瓢箪のしばしばめぐる 月の夜ねぶつ」
「うらめしや誰が鹿角杖ぞ昨日まで こうやこうや といひてとはぬは(略)はちたたきの祖師は空也といへり」

以上をまとめておくと
①踊り念仏では、手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の道具として採物(とりもの)が用いられた。
②空也系の流れを汲む時衆の踊り念仏で、用いられた採物が「瓢箪」であった。
③瓢箪は、「鉢叩き」として楽器であると同時に、霊魂の容器として宗教的な意味合いを持っていた。
④禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇を採物とした。
⑤踊り念仏から風流踊りへと変化する中で、鳴り物より採物の方が重視されるようになった。
⑦採物は風流化の中で、大型化したり、華やかになったりして独特の「進化」をとげた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

一遍の踊り念仏が民衆に受け入れられた理由のひとつに「祖霊供養のために踊られる念仏踊り」という側面があったからだと研究者は考えているようです。
Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

それを今回は、一遍上人絵伝に出てくる近江の関寺で見ていくことにします。
テキストは、「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。

大津関寺1
琵琶湖から大津の浜へ(一遍上人絵伝)

DSC03339琵琶湖大津の浜

①最初に出てくるのが①琵琶湖で、小舟が大津の浜に着岸しようとしています。船には市女笠の二人連れに女が乗ってきました。

DSC03341

②その手前には、長い嘴の鵜が描かれているので②鵜飼船のようです。
③その横には製材された材木が積んであります。これも船で運ばれてきて、京都に送られていくのかも知れません。

DSC03340大津

浜から関寺の間の両側の家並みが大津の街並みになるようです。ほとんどが板葺き屋根です。その中でとりつきの家は入母屋で、周りに生け垣がめぐらしてあり、有力者の家のようです。大津が琵琶湖の物産集積港として繁栄して様子が見えてきます。その港の管理センターの役割を果たしていたのが関寺のようです。

DSC03345琵琶湖大津 関寺門前179P

④関寺の築地塀沿いには、乞食達が描かれています。前身に白い包帯を巻いたハンセン病患者もいます。大きな寺院は、喰いあぶれた弱者の最後の避難場所でもあったようです。その前を俵を積んだ荷車が牛や馬に引かれて行き交っています。
大津関寺の卒塔婆
関寺の卒塔婆
門の向こう側にあるのが番小屋です。番小屋の中には白幕が張られて、中には二人の僧がいます。ここで研究者が注目するのが、裸足の男が差し出している白いもの(米?)です。参拝客からの喜捨でしょうか。境内ではなく、、門外で収めています。そして、この小屋の手前の壁に、▲頭の4本の棒が立て掛けられています。

DSC03352関寺の卒塔婆
大津の関寺番小屋に立て掛けられた卒塔婆(一遍上人絵伝)
よく見ると大小の卒塔婆のようです。研究者はこれを「木製柱頭五輪(高卒都婆)」と判断します。そうだとすると、この関寺では先祖供養のために「塔婆供養」が行われていたことになります。その供養のための喜捨受付が、この小屋だったようです。ここでは、卒塔婆の存在を押さえておきます。
 多くの参拝社たちが境内に入っていきます。中では何が行われているのでしょうか。巻物を開いていくと見えてくるのは・・・
大津関寺の踊り屋
関寺境内の池の中島建てられた踊り屋(一遍上人絵伝)

門を入ると、四角い池(神池)があります。その真ん中に中島が設けられて、踊り屋が作られています。ここで一遍たちが踊り念仏を踊っています。それを周囲の岸から多くの人々が見ています。大津関寺の踊り屋2
関寺の踊り屋

    池の正面は本堂です。そこには圓城寺からやってきた白い僧服の衆徒達が肩をいからせて見守ります。その中に、稚児らしき姿もあります。寺の山法師立ちが見守っています。奇妙なのは本堂の建物です。よく見ると床板もないし、壁もありません。仮屋根はありますが柱組だけなのです。どうやら関寺は造作中だったようです。そのため勧進が行われていたようです。それが、先ほど見た門前の受付小屋だったのかもしれません。

大津関寺の踊り屋3
大津の関寺全景

詞書は、次のように記します。
圓城寺の衆徒の許可が下りて、関寺での踊り念仏が許可された。最初は7日間の行法予定だったのに、(踊り念仏目当ての)多くの人々の参拝があり、27日間に延長されて「興行」された。

つまり、関寺改修の勧進興行として、踊り念仏が27日間にわたって興行されたのです。それを、民衆や圓城寺の衆徒も見物しているようです。ここからは、
①関寺では本堂改築資金集めのために勧進が行われていたこと
②踊り念仏は「勧進興行」として資金集めのために長期間踊られたこと
そうだとすると時衆僧は、勧進僧としての性格も持っていたことになります。以上を整理すると
①山門を入る右側に卒塔婆が四本立てられていたこと。
②縁側で二人の僧が俗人から骨壷を入れた灯籠型の飾り箱を受けとっていること。
③死者供養が行われる伽藍中央に仮屋が建てられ、念仏踊りが踊られていること。
この3点を結びつけると、納骨を受け付けた後で、供養塔婆を立てられ、念仏踊りが、死者供養のために踊られていたと研究者は判断します。
大坂上野の踊り屋
淀・上野の踊り屋

今度は石清水八幡詣の際に、淀の上野で踊り念仏をしている場面を見ておきましょう。
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上野の踊り屋(一遍上人絵伝)
   踊屋の構造は切妻板屋の簡単な作りです。高床を張った舞台では、 一遍をはじめ、時衆僧たちが鉦を打ちながら、無我の踊りに興しています。そのまわりには、念仏踊りを見るために多くの人々がさまざまないでたちで集まっています。踊り屋の周辺には、例によって乞食小屋が、いくつもかけられています。

淀・上野の卒塔婆
上野の卒塔婆(一遍上人絵伝)
右下から田園の中をくねりながら続く街道には、いろいろな人達が行き交っています。柳の老樹の下には茶店もあります。小板敷きの上には、椀や皿が並べられています。研究者が注目するのは、この茶屋から街道沿いに並んでいる何本かの棒です。これは先ほど大津の関寺で見た高卒塔婆(木製柱頭五輪塔婆)のようです。数えると9本あります。 一遍は、ここでも人々から死者供養の申し出を受け付け、死霊鎮塊のための踊り念仏を催したと研究者は考えています。
これを裏付けるのが『一遍上人絵伝』の第十二の次の記述です。

廿一日の日中のゝちの庭のをどり念仏の時、弥阿弥陀仏聖戒参りたれば、時衆皆垢離掻きて、浴衣着てくるべき由申せば、「さらばよくをどらせよ」と仰らる。念仏果てて皆参りて後、結縁。」

ここで一遍は自分の臨終に際して、時衆聖たちに、庭で踊り念仏を行うことを許可しています。踊り念仏は、死者を極楽浄上に導く呪法とも信じられたことがうかがえます。一遍の時衆の中で姿を見せた死者供養のための踊り念仏は、その後にどのように受け継がれ、姿をどう変えていくのでしょうか?

戦国時代になると人々は、来世の往生菩提を願って生存中に供養塔を立てたり、石灯籠や石鳥居を寄進するようになります。
また六斎念仏の講員となって念仏を唱えることもしています。それは生前に「逆修」の功徳を得ようとしたからです。奈良県や大阪府では、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初頭の年号をもつ石造物は、「逆修」供養の目的で建てられたものが多いことからもこのことは裏付けられます。
善通寺市デジタルミュージアム 善通寺伽藍 法然上人逆修塔 - 善通寺市ホームページ
法然上人逆修塔(善通寺東院)
 千利休が天正十七年(1589)に記した寄進状にも、「(略)一、利休宗易 逆修 一、宗恩 逆修(略)利休宗恩右灯籠二、シュ名在之」とあります。ここからも16世紀後期には、逆修信仰が盛んであったことがうかがえます。
 ちなみに、六斎念仏にも歌う念仏と踊る念仏があります。
逆修供養の石造物の碑文に見える「居念仏」が歌う念仏で、「立念仏」が踊る念仏です。居念仏と立念仏が出現した時期は、ちょうど逆修供養が流行した時期と重なります。そして、次のような「分業」が行われていたと研究者は推測します。
①居念仏は老人や長老が当たり、座ったままで念仏を詠唱し
②立念仏衆は若者が担当分業
その後、立念仏の方で風流・芸能化が進みます。その方向性は、
①念仏に合わせて素朴に踊る大念仏から
②種々の被り物や負い物、採り物を身に付けて踊る風流念仏・風流大念仏へと「発展」していったと研究者は考えています。
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「歌う念仏」から「踊る念仏」への変遷には、どんな背景があったのでしょうか。
①戦死者の霊を供養したり自分の死後を弔うために、死霊を鎮める呪術である六斎念仏が好んで修され、
②それが次第に集団の乱舞に変わっていった
逆修供養の目的で踊られる六斎念仏は、自らの死後の供養を目的として自らが念仏を唱えながら踊るものです。『一遍聖絵』に描写された踊り念仏の踊り手自身は、自己陶酔して、反開を踏みながら旋回しています。一方で時には、念仏を唱えるだけで踊らず、他者に自分の死後の供養のためになんらかの代償を渡して、踊り念仏を修してもらうこともあったかもしれません。そうだとすれば、踊り念仏は「生まれ清まり」「擬死再生儀礼」のひとつの形だったともいえます。
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  以上をまとめておくと
①一遍によって布教手段として踊られたのが踊り念仏
②それが時衆聖たちが逆修・死者供養の両面から民衆を教化するようになる。
③その結果、元寇という対外危機の恐怖や不安から人々を救う手段として、聖たちは踊り念仏は頻繁に開催するようになった。
④それを見物した人々の間に踊り念仏が流行するようになり、芸能化・風流化した踊り念仏が全国で踊られるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」

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Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

念仏は呪術であり、芸能でもありました。そして念仏には「歌う念仏」と「踊る念仏」がありました。踊る念仏は死者供養で、鎮魂呪術としての機能があったようです。それを一遍の踊り念仏で見ていくことにします。テキストは「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。
『一遍聖絵』は、始めて踊り念仏が踊られたときのことを次のように記します。
(信州)小田切の里或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。(略)心工の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ。

ここには弘安二年(1179)に、信州小田切の里で、始めて踊り念仏が踊られたと記されています。そのシーンを見てみましょう。


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信州小田切の武士の舘(始めて踊り念仏が踊られたシーン)

①武士の屋形の縁先で、勧進を受けた一遍が鉢を叩いて囃子をとり、
②庭で法衣を着けた時衆(11人)と武士(2人)が、 真ん中の2人を中心にして輪になって、踊り念仏を行っている
③回りの人達が鉢や鉦を叩いたりして、囃をとる者
④囃子に合わせて手拍子を打つ者が、激しく足踏みをしながら円形に進んでいる。
⑤踊り念仏の輪を囲むように俗人の男女が 一心に手を合わせている
場面に描かれた人々は、みんな目をを大きく開けていて、念仏を詠唱しながら跳躍乱舞しているように見えます。

同じシーンを『一遍上人絵伝』で見ておきましょう。

小田切 一遍上人絵伝

踊りの輪の真ん中で合掌している一遍(顔が赤い)と、その周囲を両手を合わせて激しく跳躍する時衆の徒が対照的に描き分けられています。ここは武士の舘の庭先です。そこには、まだ「踊り屋(ステージ)」は登場していません。
 武士など権力者の家の庭で、時衆聖が勧進を目的として踊ったものは「庭念仏」「庭躍」「入庭」「庭ほめ」などと呼ばれていました。それが時代とともに風流化が進み、風流太鼓踊りの「入庭」とか「入羽」「いりは」、あるいは「出庭」「出羽」「でにわ」などの踊り曲に変化していくようです。確かに、私の里の綾子踊りにも「入廷」という言葉が今でも使われています。

一遍は、阿弥陀仏への信仰を説き、念仏の功徳を強調しました。
彼は念仏を広めるために北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続け、別名「遊行上人」とも呼ばれます。一遍の宗教的なねらいを研究者は次のように考えています。
①熊野信仰と阿弥陀信仰の融合
②元寇という危機的状況打開のために阿弥陀如来(本地仏)をとおして八幡信仰と熊野信仰をも融合し、民衆を教化
一遍や時衆聖たちが、各地の八幡社へ参詣し、詠唱念仏を唱えたり踊り念仏を修しているのは、元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的だったというのです。

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「京都四条京極釈迦堂」
『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』で念仏踊りが踊られている場面が描かれているのは次の通りです
②「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」
③「大津の関寺」
④「京都四条京極釈迦堂」
⑤「二条非田院」
⑥「丹後国久美の道場」
⑦「淀の上野」
⑧「淡路一之宮社頭」

②の「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」を見ておきましょう。
鎌倉片瀬の浜の地蔵堂

ここでは、土の上ではなく道場に設置された踊り屋(ステージ)のなかで踊られています。胸に鉦鼓を吊して足で強く板を蹴り、左回りに旋回する時衆聖たちの姿が描かれています。

踊り念仏は、何のために踊られたのでしょうか?
①時衆聖たちが修行目的から、 一心不乱に踊り念仏を修している
②他人に頼まれた種々の祈願のために、彼らが踊り念仏を行っている
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二条非田院( 一遍聖絵)

多くの見物人が周りに描かれています。踊り念仏は自身の悟りを得るために跳躍乱舞する宗教的行道から、人に見せるという目的が加わって、宗教的芸能の要素を強くおびていったと研究者は考えています。どちらにしても踊り念仏は、時宗聖の勧進活動の一手段だったことが分かります。時衆が急速に信者を獲得した理由のひとつは「踊る念仏僧」というダンスパフォーマンスにあったようです。

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淡路二宮
  「踊り屋」には宗教的な意味もあった
 最初に見た信州小田切で、踊り念仏が踊られ始めた時には、「踊り屋(ステージ)」は描かれていませんでした。ところが②の鎌倉片瀬の浜では、「踊り屋」が登場するようになります。その理由については『一遍聖絵』は、何も触れません。現在の野外コンサートでも同じですが、大勢の人々を集めて踊り念仏を催す場合は、全ての人の目に踊る姿を見せることが求められます。そこでステージ(踊り屋)を組んで高い位置で踊るようになったと研究者は推測します。
 ただ踊り屋はステージというだけの存在ではなかったようです。屋根と柱で仕切られた空間である踊り屋は、死者供養を行う聖地、あるいは祭場と信じられていた節があるというのです。
信州佐久郡の大井太郎の屋敷
大井太郎の屋敷から引き上げる一遍一向 (一遍聖絵巻5)

この場面を詞書は、次のように記します(意訳)
弘安二年(1278)冬、信濃国佐久部に大井太郎という武士がいた。偶然にも一遍に会って、発心して極楽往生を願っていた。この人の姉は、仏法にまったく関心がなかった。が、ある夜に夢をみた。家のまわりを小仏たちが行通している。中に背の高い僧の姿がある。そこまでで夢から覚めた。さっそく陰陽師を呼んで、吉か凶かと占わせた。むろん、吉と出た。そこで、一遍を招いて、三日三晩の踊り念仏の供養を行なった。集まった人々は五、六百人にも及んだという。
 踊りが終わった後、家の板敷きは抜け落ちてしまった。しかし、主人はこれは 一遍の形見だとして、修理もしないで、そのままにして大切に保存した、という。
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    集団の先頭で頭巾を被り、数珠をまさぐりながら帰って行くのが一遍です。その後には、激しい踊りパフォーマンスの興奮と満足感でで、さめやらない集団が続きます。ある意味では夢遊病者のようで、「新しい学校のリーダー」のコンサート会場から出てくるファンたちと同じかも知れません。

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  踊り念仏が奉納された家では、紺色の狩衣の主人の大井太郎が手をあげて見送っています。縁台を見ると、簀の子板が踏み外されています。それほど激しい踊りが行われたことがうかがえます。これも宗教的な意味があると研究者は次のように指摘します。P1240548
踏み外された簀の子板

床や大地を足で激しく強く踏み鳴らすことを「だだ(反閑)を踏む」というようです。
これによって、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送することが西大寺の裸祭などの原型だったことは以前にお話ししました。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのも悪魔祓いです。東大寺のお水取の場合は「ダッタソ」と発音するそうです。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。これが西大寺の裸踊りの起源です。一遍の念仏踊りとつながるところがありそうです。
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⑦「淀の上野」

 板張りの床の上で激しく跳躍すれば「ドンドンドンドン」と大太鼓を乱打するような音がします。この音が悪霊や死霊を鎮める呪力をもつと信じられたようです。

以上をまとめておきます
①踊り念仏が始まった頃は、踊り屋(ステージ)はなく、四股を踏むように大地を激しく踏み込んだ踊りが行われたいた
②それは、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送するパフォーマンスであった。
③それが屋内の板の間で激しくおどると大きく反響し、新たな陶酔感を与えるものとなった。
④踊り念仏に集まる人達が増えると共に、ステージとして踊り屋が設けられるようになる。
⑤踊りはステージでもあり、音響施設でもあり、宗教的な意味合いももつものでもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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