瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:近世の瀬戸内海

塩飽勤番所
「1150石の領主」となった塩飽人名には、どんな里役(義務)があったのでしょうか?
 戦時においては船を持って参戟し、この軍隊や城米を目的地まで運ぶのが、御用船方を命じられた塩飽の役目でした。注意しておきたいのは「水軍」ではなく「輸送部隊」であったことです
 この外に長崎奉行の送迎があります
 長崎は江戸時代には、唯一外国に開いた貿易港です。その長崎奉行は長崎の市政や貿易を担当し、九州大名の監督や密貿易の取締りにあたる長官です。定員は二人で任期は一年、交替で長崎に赴任しました。塩飽は承応三(1654)年以来、交替する奉行を大坂から小倉まで送り、さらに任期を終えた奉行を待って、大坂まで送迎するのも御用船方の任務でした。これには50人前後の水主(かこ)が、2ヶ月近く動員されています。
 また、朝鮮通信使400人ほどの使節団が、将軍の代替わりごとに来日します。
江戸時代を通じて12回来ていますが、この使節団を大坂川口から淀まで、川船で輸送することが塩飽に命じられました。塩飽か実際に出動したのは、享保4年、延享5年、宝暦14年の三回です。享保のときには、大坂で5671の水主を雇い、延享には銀三八貫目余、宝暦には銀四〇貫目余が支出されています。その外、城普請の資材の運搬とか、幕府が派遣する上使の運送などの御用を務めています。
   北前船 塩飽廻船の栄光
  当時の「大量輸送」の主役は船です。研究者の計算によると、千石石の米を輸送するのに、
①1000石 ÷ 馬一頭の積載量四斗(俵二俵) 
          =12500頭の馬と同数の馬子
②1000石 ÷ 千石船 =1艘
という計算になります。千石船は、乗組員が十数人で動かせます。食事・宿泊費を考えると、輸送距離が長くなっても、船の方が断然経済的です。酒田港で船積みされた城米は、日本海、瀬戸内海を通って大坂へ、更に江戸へとつなぐ西廻り航路によって輸送されるようになります。この航路は、約1300キロの長距離です。しかし、太平洋側の東廻り航路より安全で、運賃も米百石について
①東廻りの22両2分
②21両
1両ほど安かったので、日本海側の物資は西廻り航路が選ばれるようになります。これらの船が金になる物資を積んで瀬戸内海を上っていくのです。一艘の北前船が寄港するだけで、その港は潤いました。
塩飽廻船の最盛期を過ぎていますが、正徳三年(1713)の記録によれば、
①当時の塩飽船数総数   476艘で、
②150石積~200石積 112艘
③200石積~300石積 360艘
で、毎年7万石の東北の城米を運んでいます。往路には塩、砂糖、織物など瀬戸内の産物を積み、帰路には、米以外に魚肥、塩干魚、昆布などを買い入れています。
 当時の塩飽の人口は10723人、そのうち船稼者3460人です。それでも船乗りが足らなかったようで、北岸の備中児島から多くの水主を雇っています。
3  塩飽人口と船数MG

     しかし、塩飽廻船の全盛期も元禄年間くらいまででした。
諸国廻船を使って、町人が塩飽廻船よりも安い運賃で城米の運送を請け負い始めたのです。享保五年に幕府は、北国・出羽・奥州の城米の東廻りによる江戸への廻米を江戸の廻船問屋筑前屋作右衛門に命じ、翌年には越前の城米も西廻りによる運送も彼に命じます。つまり城米の運送を町人に請け負わせることにします。これまでの城米の「雇直送方式から請負雇船方式」へ切り換えられたのです。城米運送の御用船として塩飽廻船の持っていた特権はなくなります。船賃競争に破れた塩飽の廻船数は、西回り航路の舞台から時代に「退場」していくことになります。
 牛島の廻船は享保六年は43嫂ありました。しかし、7年後には約半分の23嫂に激減しています。この背景には幕府の城米の輸送方針の変化があったようです。
 塩飽全体の廻船数は
正徳三年(1713) 121艘
享保六年(1721) 110艘
明和二年(1765)  25艘
寛政二年(1790)   7艘
と急激に減っています。これは塩飽の地域経済に大きな影響と変化をもたらします。
明和二年(1765)に勘定奉行に差し出した書状には
 島々の者浦稼ぎ渡世の儀、先年は廻船多くご座候に付、船稼ぎ第一につかまつり候えども、段々廻船減じ候に付、小魚猟つかまつり候者もご座候、元来、小島の儀に候えば、島内にて渡世つかまつり難く、男子は十二三歳より他国へまかり越し、廻船、小船の加子、または大工職つかまつり、近国へ年分渡世のためまかりいで候、老人妻子ども畑作渡世っかまっり候
 とあり、
①かつては、廻船が多く船稼ぎで生活していたこと
②ところが廻船業が衰退し、漁場を行う者や
③島には仕事がないので、島外に出て水夫や大工になること
など、かつての塩飽の栄光も影を失って、寛政期の困窮の時代を迎えることが分かります。
塩飽の人名制度について、もう一度見ておきましょう
 秀吉は塩飽領1250石を650人の船方に与えました。人名と呼ばれた人たちは、もともとは本島・牛島・与島・櫃石島・広島・手島・高見島の七つの島に住んでいましたが、後に沙弥島・瀬居島・佐柳島や石黒島を開拓移住したので、最終的には11の島で暮らしていました。
 人名が最も多いのは本島の305人で約半数が本島にいました。本島と広島は浦毎に配分し、その他の島では、島毎に配分しています。その保有状況は、地区によって違っていて、一人一株の所もあれば、地区全体で共有している所もあります。また、分家や譲渡によって、一株をいくつにも分割している例もあるようです。つまり人名株を持っている人は、650人よりも多いことになります。
 これについて、享保六年に支配役所へ差し出した書付に
 役水主六百五拾人の事 役水主の儀、先年より家きまりおり申す儀はご座無く候、役目勤めかね申す者は、段々差し替え申し候、この儀常々年寄、庄屋よく吟味つかまつる事にご座候、人数の儀は浦々高に割符つかまつり、何拾人と申す儀相きまりおり申し候
とあるように、非常時の動員に対して、650人分の水夫を準備しておくことが第1に求められたことのようです。
人名組織の年寄について
 4名の年寄は、泊浦と笠浦のそれぞれの名家が世襲したようです。彼らは朱印状を守り、大坂奉行所からの通達などの政務を行いました。非常時には年寄が庄屋を集めて協議し、決定し難い事項は大坂奉行所へ申し出て指示を受けました。
 年寄の下に浦毎に庄屋・組頭が置かれていたようで、次のような文書があります。
 島中の庄屋拾八人ご座候、組頭と申す儀は浦々にて百姓の内二三人宛 組頭と定め置き、庄屋に相添え御公用ならびに浦の用事相勤め申し候 但し、二三年宛順番につかまつり候、右組頭共相替わり候節は、庄屋方より年寄共方へ相断り申し候、庄屋共の儀は、先年より代々家相続相勤め居り申す者共多くご座候、是又、よんどころなき儀ご座候て、庄屋役指し上げ候者ご座候節は、年寄共吟味の上指図つかまつり候
意訳すると次のようになります
 庄屋は18人、組頭は浦毎に2,3人で庄屋を助け、協議しながら浦運営に当たっている。ただし、2,3年毎の輪番制で、交替する場合は庄屋より年寄りに相談がある。庄屋はほとんどが世襲しているが、やむを得ず庄屋役を召し上げる場合は、年寄りと協議の上で行っている。
さらに次のように記します。
① 年寄職は、本島で一番大きい笠島浦、泊浦のどちらかから出すのが慣例になっている
② このふたつの浦には組頭は置いていない。
③ 庄屋には役料をだしているが、組頭は無給である。
 天領としての支配は、大坂川口奉行、大坂町奉行が交互に行っていたようです。これらの支配所からは毎年、見聞使が視察に来て、諸島を巡見しています。
塩飽の人名組織の財政については?
塩飽の表高は1250石ですが朱印状により幕府には、一文も納める必要はありません。全て島内で裁量に任されていたようです。それらは積み立てられて、つぎのような項目に支出されました。
①長崎奉行役の賃金
②島中の者が御用のため大坂へ出張雑用、
③島内の会合の必要経費
この他に「小物成」収入として、山林からの山手銀、塩浜年貢、網の運上銀があります。この中で最大の収入となったのは、島外からの入漁者や島内の人名網元への運上銀でした。
3 塩飽運上金

この額が年を追って増加し、幕末頃には銀96貫と、総収入の7割を越えるようになったことは前回お話ししたとおりです。
 年と共に幕府からの総員命令で支出は増え、赤字財政が続き、人名からの臨時徴収によって補てんするようになります。廻船業が順調なときならある程度の負担は、本業のもうけで埋め合わせが出来ました。しかし、その本業が成り立たなくなった状態では、負担が増えることに絶えられなくなる人名たちも出てきます。こうして、人名の間で財政問題をめぐる保守派と改革派の対立が顕在化するようになります。
 改革派が直訴で要求したことは?
 巡見使がやって来ることを知った改革派の人名達は、笠島浦の小右衛門、惣兵衛を中心に、泊浦の来迎寺に集まり、この機会に島中の窮状を訴え、人名組合の公費削減や年寄の不正支出について巡見使に直訴することを申し合わせます。
 1789年4月19日、御料巡見使一行が、丸亀から笠島浦の宿舎に入ります。翌日から船で塩飽諸島を巡回し、25日には巡見を終えて、次の巡見の地直島へ向かって出港していきました。当日の船数は、御召船一般、御先乗船一般、漕船六般、御供船三般、御荷物船三般、台所船一般、合計15艘と記録されています。この時の巡見使は、天領である塩飽 → 直島 → 小豆島という巡検が予定されていたようです。巡見使の後を追った小右衛門、惣兵衛の二人は、小豆島の土庄で面会を求め、塩飽の庄屋、水主百姓惣代の連印による「乍恐奉願上口上」と題された願書を提出します。その内容は、
①島入用の支出を抑えること、
②年寄による島入用の流用を禁ずること、
③島財政を圧迫する年寄の大坂への出向を減らすこと
などで、年寄の不正流用追求や、人名の負担を軽減するために人名組織の改革を求める内容でした。この願書は、巡見使の取り上げるところとなり、塩飽の年寄をはじめ庄屋、年番が大坂へ呼び出されて取り調べを受けます。そして、3年後の寛政四年(1792)5月3日「御仕置御下知書」が出されます。下知書は、関係者に以下のような処分を下しました。
①塩飽の四人の年寄は「役儀取り上げ押し込み」
②大坂支配所の与力二人は「追放」、同心四人は「切米取り上げ」
③塩飽の庄屋達は「過料」。
これに対して直訴した二人は
「直訴は不埓であるが、個人の身勝手に行ったものではないからと「急度叱り置く」
と微罪に終わりました。
 当時は松平定信による寛政の改革が進行中です。「政治刷新」を標榜する当局は、不正役人の処分を厳格に行ったようです。また、訴えた二人に越訴の罪を問わなかったことは、年寄りたちの不正を認め、訴訟の正当性を認識したもので、改革派寄りの「判決」だったと研究者は考えているようです。
 「判決」の中で、四人の年寄役については、財政実状を把握せずに無駄な支出を増やし濫費を行った責任が問われています。つまり、訴願の発端は財政問題でしたが、その人名組織の運営ををめぐる年寄役の行動が問われる内容となっています。この直訴事件の「判決」を受けて、人名組織の改革案が話し合われ次のような新ルールが決まります。
①いままで年寄の自宅で政務をとっていたのを、新しく役場を建て、年寄はここで執務する。
②年寄役場の中に「室蔵」をつくって織田信長以来の朱印状を保管する
③年寄の四人制を二人制の年行司に改め、会計担当の庄屋を常勤させて年寄の相談に応じ、決裁し難いことは、惣島中の会合で決める。
④年寄の世襲制を廃止し、一代限りで退役する。
そして新しい年寄(2名)と会計担当に次の3名が入札(選挙)で次のように選ばれます。
牛島の丸尾喜平治              塩飽きっての船持
笠島浦 高島惣兵術            困窮直訴の代表者
泊浦  石川清兵衛            人名の最も多い泊浦の年番
新しい「年寄役場」は寛政十年(1798)6月4日に落成式を迎えます。これが現在の塩飽勤番所で、事件中に仮安置していた郷社八幡宮から、朱印状を移して年寄が勤務することになります。朱印状は御朱印庫と呼ばれる石の蔵に保管されるようになります。勤番所の建物は、新政を象徴するモニュメントでもあるようです。しかし、その後の人名組織の辿った道のりを見てみると、疑問に思えてもきます。
 当時の風潮の中では、旧年寄たちは、旧来の伝統に守られた権威と保守派の人脈の上に立っていました。しかし、入札(選挙)によって選ばれた新年寄には、権威もなければ組織だった人脈もないのです。
 以後、人名組織の中では庄屋や年番の発言力が増し、後ろ盾を持たない年寄を軽視した訴訟事件や、年番招集の会合が公然と行われるようになります。これを「民主的」と呼ぶことも出来るでしょうが、年寄に対抗する人名達の発言力が強くなり、対立含みで運営が行われていくことになります。地域の有力者による「密室政治から開かれた政治」への代償を支払うことを余儀なくされるのです。
 参考文献  木原教授(香川大学)塩飽廻船と勤番所
 (『受験講座・社会』第110号。福武書店、1985年)
                                                

        
  中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海から離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で、本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆でした。その上、「人名」という特権も手に入れます。
3  塩飽地図
 豊臣秀吉は、650人の軍役負担の代償として、2150石(塩飽諸島全体の石高)の領地権を保障する朱印状を出しました。この特権は人名権と呼ばれ、以後家康にも継承されます。こうして、塩飽諸島は大坂町奉行所に直轄する天領ですが、人名権をもつ島民によって自治が行われるようになります。
しかし、この特権の中に周辺の漁業権も含まれていたことはあまり知られていません。
3 塩飽境界図
塩飽(涌)は、塩(海流)が涌き、魚が豊富な備讃瀬戸に位置します。その広い海域の漁場占有権を、塩飽は同時に手に入れていたのです。この塩飽の独占的な漁場エリアが上の地図です。「山立て」の技法で、遠くの山など目印になるものをいくつも組み合わせる形で塩飽の漁場権は設定されています。そのため非常に複雑で、私は何度見ても理解できません。まあ、それは別に置いておいて、今回は塩飽人名の独占漁場をめぐる問題を見ていくことにします。
        塩飽の人名は、漁業はやらなかった。
 塩飽の周りは好漁場が広がる海でしたが、人名達は当初は漁業を行っていませんでした。それは人名達が海民として、航海技術を武器に廻船業で莫大な富を手にしていた経済的優位が背景にあります。
 彼らは、島中(とうちゅう)と称する自治組織を作って島の政務を行いました。「人名」たちは、株を持たない漁師らを「間人(もうと)」と呼んで差別しました。間人には御用船方となる権利がなく、それに伴う朱印高の配分や島の自治に関わる権利もありません。一方で、人名は水夫役の徴用を間人に肩代わりさせ、その費用の一部を負担させることもしています。
「人名たるものは魚を獲ったりはしない」
というヘンなプライドが漁業への進出を妨げていたようです。

元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
 塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
この口上には、塩飽の人名650人の内に、漁師の船は2艘しかない。残りは、商船や大工である。されば人名の漁業権は、600以上あまっているはずだと云っています。
 そして、人名の漁業権を保障する「釣御印札」を売って欲しい、あるいは賃貸して欲しいと持ちかけています。ここからは、18世紀になっても人名達の中で、漁業に従事している者は非常に少ないことが分かります。それを対岸の下津井の漁民達は羨望の眼差しでみているような感じです。「漁業権を使わないのなら売ってくれるか貸してくれ」ということのようです。
   それでは、豊かな海はどう利用されていたのでしょうか。
3  塩飽漁場地図
それは、下津井の漁民が申し出たように、周りの漁民から入漁料を取って使わせていたのです。
   廻船業の衰退と漁業運上
3 塩飽運上金

 これは「塩飽島中請払勘定帳」で、漁業運上金(入漁料収入)の人名組合の財政収入に占める割合を示したものです。享保年間には、わずか6%だったものが19世紀の天保年間になると約50%、そして幕末の慶応年間になると70%を越える比重になっています。
  漁業運上収入(入漁料収入)が、大きく増えた背景は何なのでしょうか。
 そこには、塩飽を取り巻く経済状況の変化があったようです。享保期の幕府による廻米政策の転換が引き金でした。これによって、塩飽に繁栄をもたらした廻船業は、急速に衰退します。これは、人名達に大きな打撃を与えます。
明和二(1765)年の次の史料に、当時の塩飽の苦境が記されています。
 島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、
意訳すると
①島々の人名達は、かつては廻船業で稼ぎも多かった
②最近は、廻船は少なくなり、漁業を生業とする者も出てきた
③小さな島なので仕事がなく男は12、3歳になると他国へ出て行く
このような状況が、人名たちがそれまで見向きもしなかった漁業への進出背景にあったようです。
    人名達は、どのようなかたちで漁業に参入したのでしょうか
塩飽の領海では、次の四種類の漁業が行われるようになります。
 ① 人名による大網(鯛・鰆)    、   `
 ② 人名を中心とした小漁業
 ③ 小坂浦(本島)の手繰漁業
 ④ 下津井四か浦など他領漁民の領海内操業
  まず①の人名の大網経営を見ておきましょう
3 塩飽 鯛網3

①は、高級魚の鯛・鰆網漁です。これは何隻もの船や何十人もの労働力が必要な漁法でした。そのため家族経営的な家船漁民が手が出せるものではありません。そこで、人名による入札請負制が行われたようで、有力な人名が落札します。しかし、実際に操業するのは、熟練したよその業者たちが請け負ったようです。人名が落札した物件を、下請け業者にやらせるシステムです。幕末の史料からは落札人として手島の人名・藤井家の名前が見えます。
  藤井家に伝えられる「大漁覚帳」からは、人名の網漁経営が分かります。
①漁の期日や番船の手配についてたびたび寄合が開かれた
②漁獲物をどのように分配したか
などが詳しく記されています。漁獲物の配分は次のように行われています。
①本方(請負人)は、役魚・本方分を合計した66%
②網方(直接操業者)は34%パーセント
③本方の40%(全体の26、4%)が番船(監視船)費用
番船は漁場での違法操業者の摘発や、漁獲量のチェックなどを任務としています。番船の監視で漁獲高が正確に把握され、魚一匹まで正確に記録して配分されています。番船は、下請け業者を監視する役割も果たしていたようです。
 こうして人名は落札すると自分の手は使わずに、下請けさせるという方法で「漁業に進出」する方法をとるようになります。人名としての特権を、充分に活用していると云えるのかもしれません。そして、入札金は人名組合に入漁料収入として納めます。許可する漁場と網を増やせば増やすほど人名組合の収入は増えます。
        幕末の塩飽漁業の問題は?
 当時最も高価に取引されたのは鯛・鰆でした。そのため人名達は、この鯛・鰆網の操業の邪魔にならない限りで、その他の入漁を許してきたようです。しかし、幕末になると鯛・鰆網の優先待遇を脅かす動きが出てきます。
① 塩飽人名の新規漁業の出現・発展と、漁業者の増加
② 小坂浦漁業の新しい動向と人名漁業との対立
③ 他領漁民との紛争、とくに下津井大畠村との相論
 廻船業の衰退は、人名達の中から大工や他廻船の乗組員に転職をさせる一方、漁業をほとんど行わなかった人名の浦々にも、一部半農半漁の漁場に従事する者が増えてきたことは、お話した通りです。
 嘉永二(1849)年の塩飽の浦別漁船数の総数は811艘ですが、これは百年前と比べると大幅に増加しています。新規参入の入名達が小漁業を始めたことがうかがえます。
  
3 塩飽 流瀬網
 問題は新規参入漁民の漁法でした。「打流瀬網漁」という網を使うのが当時の主流でした。
これは袋網の両方に袖網をつけ、風力や潮力を利用して引く底引網の一種のようです。安友5(1858)には塩飽島内で200以上の流し網を行う船があり、その中心は瀬居島と佐柳島でした。そして、この運上金も人名組合の大きな財源になってきます。
 そうなると「流瀬網」VS「鯛・鰆網」という漁場での新たな紛争が多発するようになります。
これは「小資本の人名」 VS 「大資本の人名」という構図でもあります。人名間でも両極分解が進み、両者の対立が目に見える形で現れ始めました
寛政七(1795)年には、高見島の鯛網漁場を侵犯したということで、佐柳・高見両浦漁民の間で紛争が起きます。これに対して島中年寄り達は、流瀬網は鯛網代場に入らぬようにとの裁定を下しています。
 
3 塩飽  鯛網2

  以上をまとめておきます。
①塩飽には土地以外にも好漁場の漁業権が認められいた。
②人名達はそこで漁業をすることはなく、他地域の漁民から入漁漁をとって資金としていた。
③幕府の廻船政策の変更で、塩飽の優位が崩れる塩飽廻船業は苦境に陥った
④そこで、漁場が見直され、新規に漁業に参入する人名が現れる
⑤資本を持つ人名は、鯛・鰆網漁の操業権を落札し、業者に下請けさせた。
⑥資本を持たない人名は、新漁法である流瀬網漁を行うようになった
⑦流瀬網と鯛・鰆網は操業場所や時期が重なり人名同士の対立も招くようになった。
   参考文献  浜近仁史 近世塩飽漁業の諸問題   丸亀市史
 

 

               

このページのトップヘ