瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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高松城1212スキャナー版sim

 高松城下図屏風を眺めていると新しい発見が、どこかに見つかります。そんな楽しみ方を紹介してきましたが、今日は「数量的な視点」で見ていきたいと思います。
高松屏風図2
研究者によるとこの屏風に描かれた侍屋敷数は170軒程度、
人物は1033人だそうです。それを分類すると
①刀を差した人物が388名、
②裃を着けたものが60名程度
描かれた人物の4割近くが武士で、ほとんどが南から北の縦方向に動いています。向かっているのはお城です。つまり、登城風景が描かれているようです。
女性と分かるのは84名。
そのうち48名は、頭に荷物を載せたこんな姿で描かれています。
高松城下図屏風 いただきさん
大きな屋敷の前を三人の女が頭に荷物を載せて北に向かって歩いて行きます。外堀の常磐橋を越えて連れ立って歩いて行きます。
場所は現在の三越前付近です。
さて、ここで質問です。
頭に載せて運んでいたものは何でしょうか?
頭に荷物を載せて運ぶというのは、かつては瀬戸内海の島々では普通に見られた姿でした。
彼女らが頭に載せているのは「水桶」だそうです。井戸で汲んだ水を桶に入れて、こぼさないようにそろりそろりとお得意さんまで運んでいるのです。城下町の井戸は南にありました。そのため彼女らの移動方向は南から、海に近い侍町や町屋へと北に動いているようです。男が担ぎ棒で背負っているのも水のようです。
1水桶
松平頼重の業績のひとつが城下に上水道を敷いたということです。
 当時は江戸に習って、どこの城下町にも上水道がひかれるようになっていました。しかし、高松の特長は、地下水(井戸)を飲料水として城下に引いたことです。これは日本で最初だったようです。
井戸として利用されたのは次の3つです。
「大井戸」
瓦町の近くに大井戸で、規模を小さくして復元されて残っています。
「亀井戸」
亀井の井戸と呼ばれていました。これは五番丁の交差点を少し東へ行くと、小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっています。
「今井戸」
鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥にあります。「水神社」の小さな祠があります。ビルの谷間の小さな祠です。
この3つの井戸から城下に飲料水を引きました。これが正保元年(1644年)のことです。
 高松城下図屏風は謎の多い絵図で、作成年月は記入されていませんので、いつ書かれたのかも分かりません。しかし、水桶を頭に水を運ぶ姿が書かれていることから上水道が出来る前に描かれたと考えることはできそうです。つまり、高松城下図屏風が書かれたのは1644年より以前であったという仮説は出せそうです。
高松城下の人の動きは南北が主
水桶を頭に置いて女達が南から北へ移動しているように、牛や馬を連れて農村からやってくる農民たちも、ほとんどが縦方向(南から北)の街路に沿って描かれています。 高松城下町は南北縦方向の軸が重要であったようです。
これをどう考えればよいのでしょうか。
 城下町が作られる以前の、中世に野原と呼ばれた頃から続く、港町の性質を受け継いでいるのではないかと研究者は考えているようです。その他の瀬戸内海の海に開けた城下町も南北方向の動きが主軸のようです。港町と後背地の関係が基本になっているのでしょう。それは中世・古代と変わりない構図のようにも思えます。

    
高松城下図屏風 東部(地名入り)
               高松城下図屏風 東部(クリックすると拡大します)
『高松城下図屏風』を眺めていると、海に向かってお城がむきだしのように見えます。海だけではありません。外堀の水は、兵庫町や片原町の方まで入り込んでいます。外堀と東浜船入の境には橋が架かっていますが、両者はつながっています。東舟入(港)には多くの船が入港して、大混雑しています。港を拡大して見てみましょう。
高松城下図屏風 東浜船入
この部分からは東浜船入りの次のようなことが分かります。
①港の入口は、石積みで補強されている
②東側岸壁に船番所が設置され、背後は町屋が続く
③西側岸壁には松が植えられ緑地帯となっている。
④緑地帯の背後には町屋がある。
⑤港の一番奥は橋で、橋の向こうは外堀に続いている。
⑥外堀には船の姿は見えない。外堀進入禁止?
⑦港入口の西側(右)にも船揚場がある
気になるところを見ていきましょう。まず船番所をのぞいてみましょう。
高松城下図屏風 船番所
拡大するとここまで細かく描き込まれていることが分かります。
それだけに実物を見ているといろいろなことが見えてきたり、想像・妄想したりして楽しくなります。この船番所では、入港してきた船の管理が行われていたようです。格子越に番人の姿も見えます。気になるのは、ぞの向こうの軒下に立っている女性です。やって来る船を待ているのか、常連さんを誘いに来たのか、それとも遊女なのか、・・・妄想が広がってきます。船番所の背後には、材木屋、東かこ(水夫)町の町屋が広がります。
 この船番所の下の岸壁につながれている船①も怪しいのです。
高松城下図屏風 東浜船入の船

拡大するとこんな感じです。石積みされた岸壁です。そこに浮かぶ船には、苫がけされた屋根があります。弥次喜多が金毘羅参拝道中に、大阪から乗ってきた金比羅船とよく似ています。船の後尾には「白旗」。なんの目印なんでしょうか、私には分かりません。そして、男が中央から顔出して「どうもどうも・・」という感じ。さらに舳先には横たわる女性。「私はもう寝ますよ」という風情。この船をどう理解すれば良いのでしょうか?
どう見ても漁船ではありません。金比羅船のように近隣の港を結ぶ乗合船なのでしょうか。それとも遊女船なのか。これも妄想が広がります。
次に見ておきたいのが西岸壁背後の町屋です。
高松城下図屏風 船揚場
この岸壁には松が植えられグリーンベルトのように描かれています。注目しておきたいのは、背後に町屋があることです。ここは外堀の内側に当たります。そこに町屋があるのです。ここ以外に外堀の内側に商人居住エリアは、高松城にはありません。この場所は、東が船入港、北が船揚場で回船業や問屋にとっては、絶好の立地条件です。このエリアの商人達が特権的な保護を受けていた気配があります。
最後に屏風に描かれた船揚場が、現在はどんな場所なのか行って見ることにしましょう
この図屏風には地名や道名は記されていません。そのため現在のどこに当たるのかは、すぐには分かりません。特定方法には、いろいろな方法がありますが、その一つは、他の絵地図と比べてみることです。
高松城下図屏風 北浜への道1
『高松城下図屏風』と明治の地図を、次のポイントに絞って比べてみます
緑のAの外堀の北側(下の方)のトライアングル区画
オレンジBのトライアングル区画
高松城下図屏風 船揚場への道2
二つの地図を比べると
緑のトライアングルAは西本願寺別院出張所が、。
オレンジのトライアングルBは金刀比羅神社が 
それぞれ高松城下図屏風と明治地図の両方にあるので、双方の「三区画」は、同じ場所だということになります。
そうすると矢印→①②を辿って行けば、船揚場に到着できるということになります。高松城下図屏風で、辿ってみると
高松城下図屏風 船揚場への道3
①の南から通じる道は現在のフェリー通りになります。東側の町屋の店先にはいろいろな物が並べられています。コーナー①の店は魚屋さんのようです。このあたりは、明治には魚屋町と呼ばれていたようです。ちなみに道の西側は県立ミュージアムの手前になります。①で右に曲がって、次の突き当たりを左(北)に進むと②に出ます。
高松城下図屏風 船揚場への道4
矢印②の木戸らしきものを抜けると、そこは海で「物揚場(ものあげば)」で船が係留され、木材のようなものが積まれています。

ところが、これを明治の地図で見てみると、景色が変わっています。海が埋立てられて、ピンクの船揚場だった所には、建物が建っています。その東側の通りは「北浜材木町」と記され、海際には、魚市場と神社が見えます。江戸時代には「物揚場(ものあげば)」だったところは「本町二番地」となっています。現在の地図で見てみましょう。

高松城下図屏風 船揚場への道5
ピンク部分が江戸時代の物揚場で、それが後に埋立てられ「本町二番地」という地番がつけられたようです。そして、北側に建立されたのが「えびす神社」だったということになります。現在の「北浜町」という町名も、「本町2番地」が江戸時代まではウオーターフロントだったのが、本町の「北」の「浜」を埋め立てでできた「町」なので「北浜町」と呼ばれるようになったのでしょう。
 本町の住人によると
高潮の時には、潮は北浜町を越えて上がってきていたが、「本町二番地」の手前で止まっていた
と言い伝えられているようです。「本町二番地」は、物揚場でその前は海はだったのです。そして海から運ばれてきた材木がここに下ろされていた場所だったようです。
 それでは、ここが埋め立てられたのはいつ頃のことなのでしょうか
高松城下図屏風 船揚場への道6

 元文5(1720)の「高松城下図」の東浜舟入付近の拡大図です。ここからは
①本町の北側が埋め立てられ「北濱町」「下横町」
②東浜もあらたに「地築」ができている
 高松城下図屏風から80年近く経った時点では、北側の海は埋め立てられたようです。私は明治になって埋め立てられたと思っていたので、江戸時代にもウオーターフロント開発が行われていたことは驚きでした。江戸時代から高松城下町の海への膨張は続いていたようです。
参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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高松屏風図3
 高松城下図屏風には「鍛冶屋町」「紺屋町」「磨屋町」「大工町」と職種のついた町名がいくつもあります。これを見て、同じ職業の人たちを集められ住まわせる「定住政策」がとられたのだろうと思っていました。角川の地名辞典にも「それぞれの職種の「職人町」の名称に由来する」と説明されてます。
高松城下図屏風 鍛冶屋町・紺屋町
しかし、「町名=職人町起源説」に異論を唱える研究者もいます。
その理由として「高松城下図屏風」の紺屋町や鍛冶屋町を見ても、雰囲気が伝わってこないというのです。兵庫町から南へ3本目の筋に当たる「紺屋町町」を見てみましょう。ここは、以前見たように通りの南側が寺町になります。境内の周りが緑の垣根で囲まれているのが寺院群です。 一番西側(右)が法泉寺です。そして、その南に鍛冶屋町が東に伸びます。
 この二つの通りを眺めると、特徴の無い板葺屋根の家が続きます。どの家も奥に庭(家庭菜園)を持っているのが分かります。しかし、紺屋や鍛冶屋らしきの姿は見えません。家の中で作業しているので、描けなかっただけなのでしょうか。鍛冶屋なら煙突が見えてもいいはずですが・・
「紺屋町」にも、染物を干しているような姿はありません。他の町を見てみましょう。
 「古馬場」あたりには、染めた布を干している様子が見えます
高松城下図屏風 古馬場2
上の絵は高松城下図屏風の現在の古馬場あたりです。寺町の南に馬場があり、武士が「乗馬訓練」を行っています。その南には松平頼重時代になって作られた掘割が見えます。その堀の南側には、干し場があり、色々な色に染められた反物が干されているように見えます。
 ちなみにその向こうは侍町(現古馬場)ですが、家並みを見ると藩士が住んでいる家には見えません。この絵の侍町は、西側は白壁で瓦屋根の立派な屋敷が続きますが東側は、板葺きやかやぶき屋根の家並みです。東西に「格差」が見られます。
 ひとつの仮説として、もともと紺屋町にいた染め職人たちが幌割完成後に作業に必要な水路を求めてここに移動してきたという説は考えられそうです。後で検討してみましょう。今は次へ進みます。
外堀の東側の部分の瓦町の拡大図です。
高松城下図屏風 大工町2
外堀は埋め立てられ現在の瓦町商店街になっています。外堀の内側には松が植えられています。そして、外堀の外側には、ここにも反物が干されています。拡大してみると・・
高松屏風図2
私は最初は洗濯しているように思いました。しかし、今までの「状況証拠」からすると、これは反物を洗っていると考えるのが正しいようです。この付近には紺屋があったのでしょう。紺屋の「立地条件」に洗い場は必要不可欠です。洗い場として外堀や掘割が利用されていたようです。ただ、反物を洗うのは真水でなければならいないのではという疑問は残ります。だとすれば、外堀の塩分含有率は低かったのでしょうか?
さて、最初に返ります。先述したように、次のような仮説が考えられます。
仮説① 高松城ができた頃に、紺屋町・鍛冶屋町に住まわされた「紺屋」や「鍛冶屋」といった職人の集団は、松平頼重時代には「転居」した。そして、職種を示す町名だけが残った。

これに対して城下町が出来る以前の先住職業者の住居に由来するという説が出されています。この説を見ていきましょう。
高松城築城以前に「野原」という港町があったことは以前に紹介しました。少し復習しておきます。
野原・高松復元図カラー
15世紀半ばの『兵庫北関入船納帳』には、「野原」から兵庫北関に入ったに交易船がについて、例えば文安二年(1455)3月6日の日付で次のような記録があります。
  野原
   方本(潟元産の塩のこと)二百八十石  八百廿文
   三月十四日  藤三郎  孫太郎
これは、野原からの船が方本(高松市の潟元)の塩二百八十石を運び込み、船頭の藤三郎が北関に八百二十文を納めた記録です。ここからは「野原」から、畿内に向かって交易船が出航していたことと、野原に交易港があったことがわかります。
   近年の発掘調査で高松駅前付近からは、古代末から中世の護岸施設を伴う遺跡が発見され、野原が港町であったことが裏付けられています。また高松城西の丸の発掘調査からも井戸・溝・柱穴・土坑(大型の穴)等多数の遺構が確認されており、中世にはここに集落があったことが分かってきました。
高松城下図屏風 野原濱村无量壽院瓦
「野原濱村无量壽院」と銘のある瓦
特にその中でも注目すべきは「野原濱村无量壽院」(「无」は「無」の異体文字)と刻まれた瓦が出てきたことです。ここから、中世の高松駅付近の地名が「濱村」で、西の丸は「無量壽院」跡に建てられたことが分かります。もっと過激に書くと「生駒氏の高松城築城は中世の港町「野原濱村」を壊して築城」されていたと云うことになるようです。従来云われてきたように、何もない郷東川の河口に城が築かれたのではないようです。
高松野原復元図
永禄八年(1565)『さぬきの道者一円日記』(冠綴神社宮司友安盛敬氏所蔵)を見てみましょう。
この史料は、お伊勢さんからやってきた先達が残した史料です。野原とその周辺の人だちから伊勢神宮の初穂料として集めた米・銭の数量が記録されています。ある意味では集金台帳です。その中に、野原のなかくろ(中黒)という地名が出てきます。
 正藤助五郎殿 やと おひあふき 米二斗
檀家の名前と伊勢からの土産、そして集金した初穂料が記録されています。
 先ほど見た野原濱町(高松城西の丸)の集金記録もあります
高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
一  野原 はまの分 一円
 こんや(紺屋)太郎三郎殿 おひあふき(帯扇) 米二斗
     同   宗太郎殿   同  米二斗
       (中略)
 かちや(鍛冶屋)与三左衛門殿 同  米二斗
     同    五郎兵衛殿 同  代百文
伊勢神宮の先達が「集金」して回るのは、地元の有力者たちです。ここからは、野原のはま(濱)には、「紺屋」や「鍛冶屋」という人たちがいたことが分かります。
 この「こんや(紺屋)太郎三郎」と紺屋町を結びつけることが出来るのではないかと研究者は考えます。つまり「紺屋町」の地名は、染物の「職人集団」がいたからつけられたのではなく、中世から野原にいた有力商人の「こんや(紺屋)太郎三郎」が住んでいたところが「紺屋町」と呼ばれるようになったと考えるのです。
 そんな例は、よくあるようです。例えば東京の皇居の西の方にある「麹町」という地名は、そこで商売をしていた「麹屋」という商人の屋号に由来しています。そのあたりに麹屋ばかりがひしめいていたのではありません。
 「こんや(紺屋)太郎三郎」のかつての本業は染物業だったのかもしれません。しかし、多角経営で成長していくのが中世の有力者達です。彼は「野原濱村」の代表的地元有力商人で、交易業も営み船持ちだったのかもしれません。必ずしも「染物屋」だけではなかったと思います。
 以上から次のような結論が導き出せます。
①「紺屋町」は「染物屋」ばかりが建ち並ぶ染物業「専科」の職人町でなかった。
②色々な商工業者の集まる普通の町だった。
③その中に「こんや(紺屋)太郎三郎」という有力者ががいたので紺屋町と呼ばれるようになった。
「鍛冶屋町」も同じように考えられます。町の名前は、必ずしも専門職人の町を意味しないことは、他の城下町の研究からも分かってきています。

DSC02531
 しかし、城下町の東の方には、「いおのたな町(魚の棚町)」があります。ここは『高松城下図屏風』の中でも、「魚の棚」の名称どおり、ズラリと魚屋が並んでいます。ここは町名と描かれている内容が一致するようです。

参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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高松城下図屏風3
県立ミュージアムにある「高松城下図屏風」の精密コピーを眺めながら、今日も高松城下を探ってみます。 
寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。この「高松城下図屏風」が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは入部から14年後の明暦2年(1656)前後と研究者は考えているようです。
『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』と比べると、どんな変化が城下町の南には見られるのでしょうか。
高松城侍屋敷図. 生駒藩jpg
「屋敷割図」は、讃岐のため池灌漑に尽力した西嶋八兵衛の屋敷も書き込まれているので、1638年頃のものだとされています。作成目的はその表題の通り「生駒藩藩士の住宅地図」で、これを見ると、だれの屋敷がどこにあって、どのくらいの広さかすぐに分かります。この「住宅地図」で城下町南端の寺町を見てみましょう。
生駒家時代讃岐高松城屋敷割図 寺町

   南部を拡大して「中央通り」を、縦軸の座標軸として書き入れてみます。そして寺町周辺を探すと、外堀南西コーナーから県庁方面へ南に伸びる道(現在は消滅)の一番南に「けいざん寺」と書かれた広い区画が見えます。これが前回紹介した法泉寺です。当時の二代住職が恵山であったことから「けいざん寺」と呼ばれていました。
 注目したいのは、その南の三番丁にの区画に記された文字です。「寺・寺・寺・寺・寺・寺」と寺が6つ記され、現在の中央通りを超えて、お寺が並んで配置されていたことが分かります。
個別の寺院名は記されません。まあ家臣団の「住宅地図」ですから作成依頼者にとって、寺は関係なかったのかもしれません。
 ここから分かることは、生駒時代は三番丁の南に配された寺院群が南の防備ラインであり、ここで城下町は終わっていたということです。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。
  それから約20年近くを経て描かれた「高松城下図屏風」には、このあたりはどのように描かれているのでしょうか。
高松城下図屏風 寺町2
 高松の南部への発展は、どのように進んだのでしょうか?
高松城下図屏風を見ると、次のような事が分かります
①寺町の南に、新たに街並みが形成されている
②丸亀町の東側の「東寺町」の南には堀が出現している。
③その堀の南側にも白壁の屋敷群が立ち並んでいる。
ここから松平頼重がやった南方方面防衛構想は、
①防備ラインである寺町の南に新たに堀(水路)を通して
②堀の南に侍屋敷群を配置し
③西寺町の南に、広い境内を持つ大本寺(現四番丁小学校)や浄願寺(現市役所・中央公園)を配置。
④仏生山に法念寺造営
これらによって南方方面への防衛力を高めたと考えられます。
  高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、この時期のことについて次のように記します。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあります。ここからは、私は次のように推察しています。
①生駒藩時代は時代に逆行した知行制を温存したために、高松に屋敷を持つ者が少なかった。
②あるいは屋敷を持っていても、そこに住まずに知行地で生活する者が多く城下町の経済活動は停滞気味であった。
③結果として、城下町の拡張エネルギーは生まれなかった。
④また、知行制をめぐる政策対立が生駒騒動の要因のひとつと考えられる
⑤松平高松藩は検地を進め、家臣団のサラリー制を進めたので城下町に住む家臣は増え、町の膨張傾向が高まった。
そして南に向かって、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が整備されたようです。ちなみに三番「町」でなく、「丁」が使われているのは生駒氏のマチ割りの特色だそうです。生駒氏が関わった引田や丸亀も「丁」が使われているようです。ここから築城に独特の流儀を生駒氏は持っていたと考える研究者もいるようです。
 前回に触れた浄願寺が現在の市役所や中央公園を境内として整備されたのも、この時代のことになります。屏風図には寺町の南に大きな境内が見えます。

次に丸亀町の東の寺町(東寺町)を見てみましょう。
高松生駒氏屋敷割り 寺町2
この生駒時代の屋敷割図から見えてくることは
①瓦町から数えて南へ四本目の東西の通りの北側に寺が配置され寺町を形成。
②寺町の南側の通りは「馬場」と書かれています。
③その南の並びは「侍屋」とあります。
④しかし、馬場と侍町の間に堀割はありません。
この部分を『高松城下図屏風』と比較してみましょう。
高松城下図屏風 馬場
なんとここには本当に馬を走らせている武士の姿が描かれています。ここは「馬場」だったようです。勝法寺の南側にも数頭の馬が描かれています。その南側は堀割りで,堀割のさらに南は白壁の侍屋敷が東西に並んでいます。そして、馬場の南に堀が姿を見せています。この堀割は松平頼重時代になってから南方防衛ライン強化のために新たに作られたようです。
この馬場は、現在のどこにあったのでしょうか?
高松には「古馬場」という地名があります。古馬場といってすぐに連想するのは、私は「飲み屋街」の風景です。このあたりで武士達が乗馬訓練を行っていたのです。ならば馬場跡は、古馬場にどんな形で残っているのか探ってみましょう。
「北古馬場」と「南古馬場」の通りを見ていくことにします
高松古馬場 現在
 現在の「南古馬場」の通りは丸亀町をはさんで、その西側の道とは、まっすぐにはつながっていません。よく見ると、「丸亀町」のところで①のように「ズレ」ているのが地図から分かります。
高松古馬場 明治
明治四十二年の『高松市街全図』にもおなじようにな①の小さな「ズレ」は、見ることができます。そして①の町名は「古馬場町」と記されています。
高松城下図屏風 古馬場
丸亀町の「ズレ」に着目して『高松城下図屏風』を見ると、①の堀の南の東西の通りがやはり「ズレ」ています。ここから現在の南古馬場の通りが①の侍町南側の道であるようです。だとすれば、生駒時代は、ここが高松城下の最南端だったので、南古馬場は『高松城最南端通り」と呼ぶことも出来そうです。
同じような要領で北古馬場について探ってみましょう
②の堀に面した南側の道は、丸亀町のところで、突き当たりになっています。これは明治42年の『高松市街全図』の「北古馬場」と同じです。ここから②の道は、現在の「北古馬場」の通りだと分かります。
 現在の「北古馬場」の通りの北側の店の並びは「堀(水路)」、そして、水路を埋め立ててできたのが、今の「北古馬場」の飲食街の「北側」の店並びということでしょうか。
 馬を走らせていた馬場は、堀の北側でした。ということは現在の古馬場地区一帯というのは、「馬を走らせている場所」の南側の地帯で、「堀の南の侍町」になります。以上から「図屏風』の中の「馬を走らせている場所」は、現在のヨンデンプラザの東あたりと研究者は考えているようです。
さて、この馬場はいつ消えたのでしょうか?
享保年間の「高松城下図」には、勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。そして「高松城下図」では,馬場は浄願寺の西に移動しています。有力寺院の拡大によって、馬場は境内に取り込まれていったようです。
高松城絵図9
 元文5年の「高松地図」には、それまで掘割の南側にあった侍町がなくなっています。代わって古馬場町と名付けられ町人町となっています。これについて「小神野夜話』は、この理由を次のように記します。
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
ここからは以下のようなことが分かります。
①享保11(1726)年頃に,御家人が減ったので,勝法寺に南側にあった侍屋敷は番町へ移した。
②その跡は払い下げて町屋となり古馬場町と呼ばれるようになった。
ちまり古馬場は、もとは侍屋敷街だったのが、享保年間に払い下げられ町人町となったようです。かつて武士達が馬を走らせていた馬場は乗馬訓練していた空間は、四国有数の夜の繁華街になっています。

参考文献 井上正夫 「
古地図で歩く香川の歴史」所収



高松屏風図3
    
  今回は「高松城下図屏風」の中の寺町を見ていきたいと思います。
外堀南側から真っ直ぐに南に伸びる丸亀町通りからは東西に、いくつかの町筋が伸びています。西側には、兵庫町,古新町,磨屋(ときや)町,紺屋(こうや)町が見えます。一方東側には、かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。城下町は南に向かって伸びていたことが屏風図から分かります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』には、南の端に三番丁が描かれています。その頃の高松城下町は、法泉寺の南の筋あたりが城下町の南端でした。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には次のように記します。

御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

ここからは次のようなことが分かります。
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
と記されています。三番丁あたりまでだった街並みが、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が開けたようです。
高松城下図屏風 寺町
 外堀の西南コーナーの「斜めの道」を南に進みます。この道は丸亀町通りと並行して南に伸びる「3本目」の道なので仮に「3本目」道と呼んでおきます。この道を南に行くと、その先に緑の垣根に囲まれた区画が見えてきます。ここが三番丁の寺町エリアのようです。拡大してみ見ましょう。
高松寺町3
寺町の一番西が法泉寺で、そこから東にお寺が東に向けて建ち並びます。その南が東福寺です。四番丁小学校は大本寺の跡に建っています。さらにその南の市役所は浄願寺跡だったところになるようです。
寺町の寺院群を江戸末期の絵図で見てみましょう。
1高松 寺町2
おきな本堂と伽藍、広い境内を持った寺院群が並んでいます。
高松城下図屏風では西から宝泉寺・行徳院、地蔵寺、正覚寺・
その南に東福寺・大本寺などが建ち並び南方の防備ラインを形成します。
1高松寺町1
さらに東には、徳成寺・善昌寺・本典寺・妙朝寺の4寺が並びます。この寺の並びの南側が寺町、その東側は加治屋町と記されています。この絵図では、方角や位置が分かりません。そんな時は明治の地図と比べてみると、見えてくるときがあります。
  「明治28年高松市街明細全圖」で寺町を見てみましょう
高松市街明細全圖明治28年
地図をクリックすると拡大します
日清戦争が終わった年に作られた市街図からは、次のようなことが分かります
①高松城の外堀は、まだ健在
②丸亀通り北の常盤橋を渡った突き当たりが県庁だった。隣は今と同じ裁判所。
紺屋町と三番丁の間に寺町は形成されていた。
④明治になっても街並みや道路に大きな変化はない。
⑤寺町の一番西の法泉寺の境内が飛び抜けて広い。ここに山田郡の郡役所が置かれ、マッチ製造所も見える。
大本寺の元境内に4番丁小学校ができている。
⑦地図上の南西角に高等女学校(現在の高松高校)
⑧現在の中央公園は浄願寺の境内であった
⑧丸亀町通りの東側にも寺町があった。その南が古馬場町である。
それから約30年後の大正12年の高松市街図です。
高松市街地図 大正
①法泉寺前を通る赤い実線は路面電車の線路。停留所「法泉寺前」が設置された
②寺町の各寺院境内の北側が一律に狭くなっている。(原因不明)
③四番丁小学校の南の浄願寺に市役所ができた
④市役所の南の浄願寺境内に高等小学校が出来た。現在の中央公園
⑤市役所の東の北亀井町の「尚武会」は意味不明
寺町のお寺の中でも最も広い境内を持つのが宝泉寺でした。
高松宝泉寺 お釈迦

このお寺は、弘憲寺と共に生駒家の菩提寺で、宇多津から高松城築城時にここに移されます。二代目一正と三代目正俊の墓所となり、寺名も三代目正俊の戒名である法泉に改められます。しかし当時は、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んでいたようです。
高松宝泉寺鐘
生駒氏の菩提寺であることを物語るもののひとつに鐘があります
文禄の役(西暦1592年)に朝鮮に出陣した時、陣鐘として持参し、帰国後、この寺に寄進したと伝えられるものです。
 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』には、この鐘について次のように紹介されています。
この銅鐘は、総高87センチ、口径53センチ、厚さ5.5センチ、乳(ちち)は4段4列の小振りの銅鐘である。もと備前国金岡庄(岡山県岡山市西大寺)窪八幡にあったもので、次の銘が刻まれている。
「鎌倉時代の元徳(げんとく)2年(西暦1330年)の青陽すなわち正月に、神主藤井弘清と沙弥尼道証の子孫が願主となり、吉岡庄(金岡庄の北方)の庄園の管理人である政所が合力し、諸方十方の庶民が檀那(だんな)となって銅類物をそえ、大工(鋳物師)宗連(むねつら)以下がこれを鋳た」

 生駒氏は讃岐にやって来る前は、播磨赤穂領主で備前での戦いにも参加していました。その時の「戦利品」を陣鐘として使っていたのかもしれません。「天下泰平」の時代がやって来て、菩提寺に寄進したのでしょう。どちらにしてもこの寺は、生駒氏からさまざまな保護を受けていたようです。それは、明治には山田郡の郡役所も設置されるほどの広大な境内を持っていたことが地図からも分かります。
4343291-05宝泉寺
宝泉寺(大きな松で有名だった)
日露戦争後には香川県出身将兵の忠魂碑として釈迦像が建立され「法泉寺のおしゃかさん」として市民にも親しまれていました。
当時の地図には境内に「釈迦尊像」と記されています。また、第一次世界大戦中の1917年(大正6年)5月20日に開通した路面電車がこの寺の前を通り、停留所「法泉寺前」も設置されています。
 このお寺に大きな試練が訪れるのは第2次世界大戦末期です。1945年(昭和20年)7月4日未明の「高松空襲」で、ほとんどが焼失します。
高松宝泉寺釈迦像

南門は必死の消火活動で残ったようです。忠魂碑として建てられた大きな釈迦像も奇跡的に被弾せず無傷で残りました。海まで見える焼け野原となった高松市内で「法泉寺のおしゃかさん」は、どこからも見えて、その変わらぬ姿は市民の心のよりどころになったといいます。
高松宝泉寺 門
 戦後の都市整備計画の区画整理は、この寺に大きな犠牲が迫ります。広い境内は「県庁前通り」と「美術館通り」で四分割されました。そのため釈迦像や生駒廟と共に本堂は約70㍍東の現在地へ移転し、再建されました。現在の境内は、往時から比べると大幅に縮小しています。
 その他のお寺も従来の場所での再建を諦め、他所に移って行くもの、境内を縮小し再建費を工面するものなど、存続のためのための苦労があったようです。
 法泉寺の東側にあった道は、『高松城下図屏風』の中では、中央の丸亀町の通りから数えて西へ三本目の南北の通りです。そのまま北に進むとお城の外堀の西側の「斜め道」に出て、西浜船入(港)に通じていました。この通りは、今では宅地になって消えてしまいました。しかし、法泉寺より南側の部分、つまり東福寺と四番丁小学校の間だけは残りました。四番丁小学校の西側の道路は、四百年前のままの位置にあるようです。
 もうひとつ気になるお寺が 浄願寺(じょうがんじ)です。
高松浄願寺
中央公園の中にある浄願寺の記念碑
この寺も法泉寺と同じように生駒氏が宇多津から高松へ引き抜いてきたお寺です。高松を城下町にしていくためには、文化水準の高かった当時の宇多津からいくつかの寺院を移さなければ、城下町としての体裁が整わなかったようです。丸亀から町人を「連行」したのも「城下町育成」にとって必須の措置と当時の政策担当者は考えていたようです。
4343290-27浄願寺
浄願寺
 浄願寺はもともとは、室町時代中期に宇多津に創建された寺でしたが、生駒親正が高松城築城時に高松に移します。しかし、その後火災で全焼していまいます。それを救ったのが、高松藩初代藩主として水戸から入封した松平頼重です。頼重は、高松藩主の菩提寺として再興しますが、その際に五番丁に土地が与えられました。以後は隆盛を極め、広い境内に伽藍がひしめく状態だったようです。
 明治になると高等小学校が境内の南にできます。ここには菊池寛が通学していたようです。さらに日清戦争後の1899年(明治32年)には、高松市役所が北古馬場町(現・御坊町)の福善寺から境内の北側へ移ってきます。つまり、現在の高松市役所と中央公園が浄願寺の境内だったということになります。
 この寺にも高松空襲は襲いかかります。戦後は、番町二丁目に移動して再建されました。ちなみに、中央公園には、浄願寺跡地の石碑と浄願寺ゆかりの禿狸の像があります。
高松城下町イラスト

 寺町について見てきましたが「高松城下図屏風」には、寺町の南には堀が描かれています。これも寺町を城下町高松の南の防備ラインと考えていたことを補強するものです。いざというときには、藩士達には集合し、防備する寺院も割和えられていたのかもしれません。しかし、その堀も後には埋め立てられて「馬場」となったとも云われます。次回はその「古馬場」についてみていきます。
参考文献 井上正夫 むかしそのまま 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収




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『高松城下図屏風』
『高松城下図屏風』は高松藩初代藩主が作らせたと云われる屏風図です。江戸屋敷に置かれて、高松に馴染みのない江戸詰の藩士たちと政策協議する際の史料としても使われたと私は妄想しています。この屏風の精巧なコピーは県立ミュージアムにもありますが、まずその大きさに驚かされます。
高松屏風図2
次に、その精巧さです。道並み、街並みがしっかりと描きこまれ、屋敷の主である藩士名まで分かります。寺院の本堂の位置や塀の形まで描かれています。さらに目をこらすと道行く人たちや外堀で洗濯(?)している女(?)まで見えてきます。

この屏風図に描かれた高松の町が今はどうなっているのかを何回かに分けて探ってみたいと思います。その手始めに高松城下町の「座標軸」をつかんでおくためのトレーニング・クイズです。
設問1 屏風図上に、次のストリートを書き入れなさい。
①丸亀通り
②中央通り
③兵庫町通り
④瀬戸大橋通り
⑤フェリー通り
ちなみに、①以外の通りは江戸時代にはなく、後世に姿を見せた物ですから屏風図には書き込まれていません。そういう意味では難易度はかなり高いクイズです。
高松屏風図4

答えは屏風図を参考に、見ていきましょう。(クリックすると拡大します)
①の丸亀町通りは、外堀の架かっている常磐橋が起点になります。
1高松城 外堀と常盤橋

その橋を渡って真っ直ぐに南の方(屏風では上の方)に伸びているの赤く囲んだのが丸亀町です。この町は、その名の通り生駒氏が丸亀城を廃城にした際に、保護を与えて丸亀から連れてきて住まわせた商人が住んだ町と云われます。位置的には4百年前と変わっていないようです。
高松屏風図3
中央通りは、この位置になるようです。
  丸亀町通りから数えて南に延びる道の1本目と2本目の間を抜けていきます。兵庫町通りを真っ二つに分断して作られたことがよく分かります。中央通りは高松大空襲で焼け野原になった後、戦後の整備計画で、都市の基軸線として姿を現しました。
なぜ丸亀通りを中央通りにしなかったのでしょうか?
  それは高松城との関係があったからでしょう。もし丸亀通りを「中央通り」とすると、上の地図でも分かるとおり高松城の核心部を突き抜けていくルートになります。そうなれば高松城は大きなダメージを受けたでしょう。もう一つは、高松駅と港を起点した都市整備が考えられたためだと思います。中央通りは、内堀の西側を通って駅や港に通じるように設計されました。高松城にとって影響が一番少ない形でした。
1 高松城4pg
③の兵庫町通りには、以前お話ししたように外堀を埋めた後に作られたました。
外堀は現在の姿は次のようになっています。
南側は片原町商店街
北側が兵庫町商店街
1 高松城54pg
この地図の⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面に伸びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。

DSC03617
③の斜めに伸びる西側の外堀が気になります。
以前私は、外堀は「東西の船入(浜港)とつながっていた」と書きました。確かに、東側は直角に曲がって東浜船入を通じて海につながっています。西側は西北に向かって斜めに伸びています。しかし、よく見ると西側の外堀と西浜船入(港)とはつながっていないのが分かります。どうしてなのでしょうか。つながらせると潮の満ち引きの影響を受けて外堀に流れが生じ「運河」として、使いにくくなるからだと今は勝手に解釈しています。

高松城外堀西側
さて、外堀部分(斜め道)の「今」は、どうなっているのでしょうか
香川県警北署の西約百メートルにゼネラルのガソリンスタンドがあります。高松駅から県庁方面に向かう人たちは、この前の「県庁前通り」を南進していきます。グーグル地図で見ると、このガソリンスタンドを起点に、スタンドを挟むように両脇から「斜めの道」が2本南南東に伸びています。なんでこんなに隣接したところに2本の道が必要なの?と疑問に思う道です。
1 高松城 外堀と西浜

手前が西浜船入で向側は外堀跡の斜め道
 これが外堀跡の現在の姿なのです。
堀だった両側の一部が細い道となり、その中には住宅やビルが建ってしまったようです。ここが外堀の西の終点だったとすれば、ここから高松駅にかけては西浜船入りの港があり、多くの船が出入りしていた場所なのです。
DSC03618
そしてお城の西口でもあったのです。そこを今は瀬戸大橋通りが東西に走り抜けています。

1 高松城 外堀と西浜
西浜船入と外堀の最終地点

参考文献 井上正夫 高松の「ヘンな道」 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

   

 

高松城絵図11
幕末の天保年間の高松絵図です。「軍事機密」のためか高松城の中は空白です。東西南北の市街エリアを確認しておきましょう。
西に向かっては海沿いに扇町あたりまで街道が伸びています。
南は東西に走る石清水八幡神社の参道を越えて、家並みが続いているようです。石清水神社の北側には、この神社の社領が広がっていて市街地の形成を阻んでいるようにも見えます。
さて、江戸時代の高松が明治になってどう変わったのかを、次の3枚の絵図と比べながら見てみましょう。
Ⅰ 明治15(1882)年の『讃岐高松市街細見新図』
Ⅱ 明治28(1895)年の「高松市街明細全図」
Ⅲ 大正10(1921)年の『高松市街全図』
 

1高松市明治18年
江戸時代の地図が海川(北)が上に描かれているのに対して、明治のものは逆転して海側が下に描かれています。明治維新は、天地がひっくり返るほどの大変動だったのかもしれません。

天保の絵図18と比較すると、お城の東西の港もまだ健在でこの時点では埋め立てられてはいません。鉄道の線路も見えません。明治になっても、街並みに大きな変化はないようです。

明治のⅠ・Ⅱの絵図から読み取れることを挙げておくと
①中堀の西部は、現在の高松市西の丸町に続いていたこと
②外堀は西の丸町と錦町の境の道路から,片原町・兵庫町の北部を抜け,北浜港に続いていたこと。
③明治15年のⅠと藩政時代の絵図とあまり変化はない。
④明治28年のⅡ「高松市街明細全図』と現在を比較すると,城下町の東部,町屋があった片原町,百聞町,大工町,今新町,御坊町,古馬場町,通町,塩屋町,福田町,丸亀町、中新町、南新町、田町,兵庫町,古新町,磨屋町,紺屋町あたりは明治時代の大部分の道路が残っていて、江戸時代の地図を重ね合わせることができる
⑤侍屋敷があった番町2~5丁目付近は、変化が激しく現代と明治時代の道路は一致しない。

1高松市明治28年
 Ⅱの明治28(1895)年の『高松市街明細全図』は高松築港の工事が始まる直前の地図です。
①波止場が海に大きく伸びていますが、西浜舟入(堀川港),外堀,中堀の姿がまだ残っています。
②石清水八幡宮の奥(宮脇2丁目)には姥ゲ池という大きな池があったことが分かります。
③この池から流れ出す川は、石清水八幡宮の北に広がる社領を用水路としても機能していたことがうかがえます。この社領が現在の香川大学キャンパス等になったようです。
④大正の絵図Ⅲには、社領が宅地化した結果、この池が縮小されているのがうかがえます。そして、現在はこの池は姿を消しています。
1高松市大正
今から約百年前の大正10(1921)年のⅢの絵図になると大きく変化します。
①西側から丸亀からの鉄道と徳島線が南側を迂回して港周辺まで伸びています。
②路面電車が高松駅から栗林公園まで南北に延び、そこから長尾・志度方面に走っています。
③お城周辺を見ると西浜舟入(堀川港)は埋め立てられています。そこに高松駅が作られているようです。
④Ⅰには残っていた南側の外堀も埋め立てられたようです。
現在の街並みと比較すると、街路は曲がりくねっています。路面電車の線路も屈曲が何カ所もあります。この絵図に描かれた高松市街は、空襲によって焼け野原になり、その後に整備され生まれ変わったことが分かります。

1HPTIMAGE
Ⅱの明治28年の絵図と現在の地図を重ね合わせたものです。
①広角レンズで遠くからながめると、高松駅は西浜舟入を埋め立てた上に建てらたことがよく分かります。
②西部の石清水八幡宮社領が現在の香川大学のキャンバスになっていることがうかがえます。
1 高松城54pg
さて、今度はズームアップしてお城を見ていくことにします。
まず外堀はどこにあったのでしょうか?
外堀は南は片原町商店街・兵庫町商店街の北側の店舗が外堀の位置だったようです。⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。また、片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③の兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面へ延びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。ここからも外堀は東西の浜港とつながっていたことが分かります。 
1 高松城4pg

高松城絵図に現在の主要な道路を書き入れる上図になります。
①中央通りが西の丸の東側を南北に貫いています。この地図からは西の丸の北の海の中にホテルクレメントが建っていることになります。そして、先ほど見てきたように本丸西側の内堀が埋め立てられて、琴電の線路と駅舎があります。
②高松駅は外堀の東側の西浜舟入を埋め立てられた場所にあります。
③東西に走る瀬戸大橋通りは、中堀を埋め立てなかったために中堀の東側のフェリー通りの交差路で妙に屈曲することになりました。もし東からの道に併せれば南側の中堀も埋め立てられていたかもしれません。
④ 中堀の西側は埋め立てられ現在はパークホテルやエリヤワンホテルが建っています。内堀も西側は、琴電電車の建設の際に埋め立てられ、線路がひかれ駅舎が建てられています。この内側は内町と呼ばれ武家屋敷が並んでいたことになります。
1 高松城p51g

さて東の丸はどうなっているのでしょうか?
①東の丸の東側の中堀は、埋め立てられてフェリー通りになりました。
②東の丸の北側には、レグザムホールがあり、その南には県立ミュージアム、その南に城内中学校がかつてはありました

高松城の推定面積は約66万平方メートルで、現在の玉藻公園の約8倍、東京ドームに換算すると約14個分(グラウンド面積では約50個分)の広さになります。こうして見ると往時の高松城が、とても広かったことが分かります。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷  
香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ



 
HPTIMAGE
「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)

 寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。松平頼重は城や町の整備を行ったことが『小神野夜話』には記されています。「讃岐高松丸亀両図 高松城下図」(絵図4)の製作年代は不明ですが,絵図内容より松平頼重入部直後に作られたものと考えられているようです。そのため『生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)と比較してみても高松城内部にはあまり変化はありません。中堀に架けられた橋の北側の門東側は対面所ですが、西側の屋敷には変化があります。門の西側から近習者屋敷・局屋敷と記されていた屋敷が『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)では鷹匠・厩となっています。
高松城江戸時代初期
「高松城下図屏風」(絵図5)
「高松城下図屏風」(絵図5)が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは明暦2年(1656)前後のものと推定されているようです。この絵図は『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)よりも新しい絵図で、この時点で松平頼重によって次のような改築が行われたことが分かります。
①南にあった橋がなくなり、高松城西側に門と橋ができています。
②内堀と中堀の間の南部には局,厩,鷹匠の屋敷がありました。それが『高松城下図屏風』(絵図5)では、内堀と中堀の間の西部は北側に侍屋敷があり,その南側に馬が描かれ,厩と思われる建物があります。厩が,西側に移動したようです。おそらく,西側に橋がかかったためにの移動でだったのでしょう。
③「高松城下図屏風』(絵図5)では、海手門の外側は新たに埋め立てられ,瀬戸内海に向かってコの字型に張り出しができ,石垣が巡らされています。
④この張り出しの東側の「いほのたな町」の北側に、新しく波止場が作られています。
高松城絵図6
「讃岐国高松城図」(絵図6)
絵図6にも中堀の西側に橋が描かれています。
その橋の東側には蔵が見えます。海手門の外側には北海に向かって張り出しがあり,中堀の東側に波止場があり、西浜舟入と中堀の間に米蔵と注が記載されています。のちに,東の丸が築造され,米蔵は東の丸に移されますが、それ以前は西浜舟入と中堀の間にも米蔵があったことが分かります。
「讃岐国高松城図」(絵図6)では、中堀の南側の両角に櫓が新たに姿を見せています。築造年代は不明ですが、この櫓は「高松城全図」(絵図21)から烏櫓,太鼓櫓であることが分かります。。
寛文11年(1671)になって高松城の新郭である東の丸が築造されます。
東の丸の築造直後に製作された絵図はありません。東の丸が描かれた最も古い絵図は、享保年間(1716~1736年)の「高松城図」(絵図7)です。この絵図と「高松城下図屏風」(絵図5)を比べてみての変化点をまとめると次のようになります
①中堀の東側の侍屋敷であったところに東の丸が築造され、その東に隣接する魚の棚町の西半分に堀が掘られた
②海手門の北東側か埋め立てられ,北の丸が築造された。
③東の丸・北の丸には次のような櫓が築造された。
 東の丸の南東角は巽櫓,北の丸の北東角は鹿櫓,北西角は月見櫓や続櫓
④それまでは中堀の南側には太鼓御門があり,橋が架かっていて,城の南側から出入りをしていたが,東側に架け替えられている。東側に架け変えられた橋が旭御門。
DSC02528
高松城の改築について『小神野夜話』では次のように記しています
「二の丸先代は中の門に橋有て,太鼓矢倉中門の東へ少寄て有之,東の角は折にて有之,角に先代之屋形有之,御玄関西向に成,桜御門は北面に成,桜の馬場西南の角に家老之小屋四軒有之候所,東御門新に明き中の御門橋を引,中の矢倉,東の矢倉,東の角今の太鼓の櫓に引き,家老の小屋は武具蔵になり,屋形の跡は今腰掛建申候。西御門は北の角櫓の下に有之候所,只今の所へ引申候。」
「ニノ丸へ御屋形引,海手へ出候門,只今の中御門に相成,北新曲輪 今之水御門,月見櫓,鹿之櫓,黒門,多門,作事魚棚の入川,北浜等,新規に被仰付候
御入部三年目に御普請初り,先二の丸より斧初め、次に御玄関落間一番に建ち申候」

ここからは
①中堀の橋が東に架け替わり櫓が移動したこと
②内堀と中堀の問は武具蔵になり,西御門は現在の場所,つまり西側の外堀の中央付近に移ったこ
③屋形が二の丸に移動し,北の丸,北の丸の水御門・月見櫓・鹿櫓や,東の丸の作事丸・米蔵丸・北浜などが新たにできたこと
松平頼重が入部して3年目に城内の改築を開始し、工事は継続して行われていたようです。
  
DSC02527
                    
 今度は城下町の様子を見てみましょう。
「高松城下図屏風」(絵図5)は松平頼重時代の始め頃,江戸にいることの多い頼重や家臣団の政策協議の資料として明暦2(1656)年以前に製作されたとも言われています。この絵図の頃は城下の
西端は蓮華寺・王子権現付近(現在の高松市錦町2丁目),
東端は通町付近
であることがわかります。
『小神野夜話』には城下町の拡大について
   街並みも東は今橋切にて,松島之家は一軒も無之由,
西はかしの屋の前石橋迄にて,王子権現は野中に御座候。
段々家立まし,今之通相成申候
 この記述から,街並みは東は今橋で切れて,西は吉祥寺の南の王子権現(錦町2丁目)あたりまで広がっていたようで、「高松城下図屏風」(絵図5)の描写と一致します。
東部の東の端には大きな川が描かれています。この川は仙場川のようです。
後世になって仙場川の北端には新橋が架かりますが,絵図5には新橋はまだ描かれていません。新橋の南に架かる今橋は見えます。仙場川の西岸には石垣による護岸整備が行われていて、通町の東側から北東方向に比較的大きな川が石垣のほうに向かって流れています。仙場川の東側は、松島町ですが今橋よりも北側は海が続きます。しかし,海岸に堤防は描かれていません。自然海浜のようです。ちなみに寛文7(1667)年には松島の沖合から西潟元まで堤防曜防が築かれ,新田が開発されたことが『英公外記』に記されています。

(絵図5)のと享保年間の下図『高松城下図』(絵図7)には約半世紀の隔たりがあり,城下町の様子もかなり変わっているようです。 
高松城 絵図7PTIMAGE

享保年間の「絵図7」をみると東端に仙場川が描かれています。
仙場川は南から北に向かって,瀬戸内海に注ぎ井口屋町の東側には新橋が描かれています。新橋が架かっていることからも松島の沖合が干拓されたことがうかがえます。
   仙波側の西側、現在の高松市築地町付近も大きく様変わりしています。通町の東側を流れていた川は町割りに沿って通町に平行に南から北に流れ,新塩屋町の南側を直角に曲がり,西から東に流れて仙場川に注いでいます。また,この流路と仙場川との間に流れていた小川はなくなっています。このあたりは(絵図5)では田畑が広がり,農家がぽつぽつとある程度でしたが『高松城下図』(絵図7)では,新通町・新塩屋町が新たにできて町屋になっています。南の方には深妙寺が姿を現しています。河川改修の結果,東方にも城下が広がったようです。
 ここでも新橋が架かっているということは、松福町は享保年間にはすでに干拓されていてことになります。また,新橋の北側の東浜も北西側と東側が埋め立てられ,新たに材木町が見えます。

 お城の東の丸の東側を見てみましょう。          
 東は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割」絵図2では、城下は蓮花寺あたりまででした。それが享保年間の「絵図7」では、ほのたな町と記されていた町人町の北側が埋立てられ新たに北浜ができてきます。そして、北浜の北西角には波止場が見えます。
  西は「高松城下図屏風』(絵図5)では、蓮華寺付近まででした。
それが享保年間の「高松城下図」(絵図7)では、摺鉢谷川の東側まで城下が拡大しています。「絵図5」では高松城の外堀,船蔵の西側は侍屋敷でしたが,享保年間の「絵図7」では、その一部が町人町に変わり,西通町が形成されています。さらに,鉄砲町・高嶋町・木蔵町・西浜と摺鉢谷川の東まで町屋が連続しています。
 また,蓮華寺の西側には愛宕神社があり、その西に材木蔵があり,材木蔵の西側には港と波止場があります。この港は現在の扇町1丁目で、盲学校の北側付近になります。
  南西部にも侍町が拡大されています。
享保年間の「高松城下図」絵図7には,船蔵の南側から天神社の西側,九番丁まで侍屋敷が描かれていて,現在の香川大学の東端と高松市街の南部を走る観光通りまで市街地が広がったことが分かります。なお,船蔵の南西が浜ノ丁,その南側が北一番丁になります。

 これらの城下町の拡大については,「小神野夜話」には     
「御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部巳後大勢之御家中故,新に六番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷に被仰付,・・・」

とあるので松平頼重の入部頃に,六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場・築地・浜の丁が新たに侍町になったようです。『高松城下図』(絵図7)の描写のように、侍屋敷が拡大していることが分かります。
『高松城下図屏風』(絵図5)では西浜舟入の北西にも侍屋敷が広がっていました。それが「高松城下図』(絵図7)では、北の1区画の侍屋敷と2軒の寺がなくなっていて,船蔵になっています。この船蔵の西側,蓮華寺の北側には新たに波止場ができています。そして蓮華寺と船蔵の間は侍屋敷に変わっています。なお,この2軒の寺は真行寺と無量寿院で、真行寺は御船蔵造営のため延宝2年(1676)に西の浜に、無量寿院は浄願寺の近くにそれぞれ移転したようです。ここから,船蔵が作られたのは延宝4(1676)年以後のことになります。 
西浜舟入と中堀の間は「高松城下図屏風」(絵図5)ではずらりと侍屋敷が並んでいました。
西浜舟人の東岸の北端には波止場があり,波止場の東側にはL字状に石垣が巡らされています。その内側には大きな侍屋敷がありました。ところが享保年間の「高松城下図」(絵図7)ではこのL字部分は埋め立てられて,大久保飛弾の屋敷地が西浜舟入の東隣に南北に長く伸び,その北東隣に西御屋敷があります。そして,中堀の西の橋の西側付近は空地となっています。
 このことも「小神野夜話』には、次のように書かれています
「船蔵大久保主計屋敷に有之候処,今之御船引申候、今之御船蔵之場所には真行寺・無量寿院有之候処,無量寿院は先代今之処へ引候跡開地と相成り居候,真行寺は御舟蔵西之角に有之候処,今之所へ引,跡御舟蔵に相成,只今之通りに御座候。船倉之跡屋敷に被仰付,八左衛門奉行にて大屋鋪と成,大久保主計に被下候,大概右之趣,役所之留ならびに林孫左衛門物語取合実説記置申候」
とあり,元の船蔵は大久保主計(飛弾)の屋敷となり、今の船蔵の場所には真行寺・無量寿院があったことが記されています。
 西浜の海岸縁には『高松城下図屏風』(絵図5)では真行寺と無量寿院が描かれています。2軒の寺のすぐ東側に南から北に流れる流路がありますが,享保年間の「高松城下図」(絵図7)では船蔵の西側,これらの寺があった場所に付け替えられています。流路の変更は新しい船倉建設に伴うものなのでしょう。
城下町の南東部にあった「馬場」について,         
①「高松城下図屏風」(絵図5)には勝法寺の南側には数頭の馬が描かれていますから,馬場があったようです。その南側は堀割りで,堀割りのさらに南は侍屋敷が東西に並んでいます。
②享保年間の「高松城下図」(絵図7)になると,勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。
③「高松城下図」(絵図7)では,馬場は浄願寺の西に移動しています。

城下町の南への拡大を見てみましょう。
①「高松城下図屏風」(絵図5)では、町人町は高松城の外堀の常盤橋から南に続いています。その南限は高松市古馬場町付近で途切れていて,町人町がどこまで続いているのか不明でした。
②それが『高松城下図』(絵図7)には、現在の高松市藤塚町付近まで町屋が描かれています。丸亀町・南新町・下町・伊賀屋町・亀井町・田町・新町・ハタゴ町が見えます。

高松城絵図9
  享保年間以後の絵図で,最も古い絵図は元文5(1740)年に描かれた『元文5申年6月讃岐高松地図」(絵図9)があります。
享保年間の「高松城下図」(絵図7)と絵図9とでは四半世紀の隔たりがあります。
(絵図9)の東端には,仙場川が描かれていて,享保年間の絵図と同じように新橋が描かれています。その北には、八丁土堤と呼ばれた堤防が描かれています。この土堤は現在の福岡町付近の干拓のため築かれた堤防ですが、築造年代は分かりません。しかし、この絵図に描かれていることから享保年間(1716~1736年)以降で、元久元(1740)年以前には築造されたことが分かります。
高松城絵図9の2
「高松城下図」(絵図7)には外堀と中堀の間で,中堀の西門の外側は,西御屋敷と大久保飛騨の屋敷ですが,「元文5申年6月讃岐国高松地図」(絵図9)以降の絵図には,大久保飛騨屋敷の東隣は御用地または原となっています。『小神野夜話』には
「西御門外に家老屋敷二軒有之。引候て,壱軒之跡は今の下馬北かこひに成申候,一軒の跡は,十本松有之候場所に相成申候、外堀之際にも内馬場之通り並松有之候処,不残御伐らせ被遊候」
とあり,家老の屋敷が二軒あったが移動して,1軒の跡は馬の牧場,もう1軒の跡は10本の松が植えられたと記します。
高松城絵図9の3
 享保年間「高松城下図」(絵図7)と(絵図9)を比べると侍町の規模が縮小しています。
城下町の南東の福田町と南新町に挟まれた東西に並ぶ侍屋敷がなくなり,代わって古馬場町となっています。これについて「小神野夜話』は
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け,跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
とあり,享保11(1726)年頃に,御家人が減ったことにより,勝法寺に南側にあった侍屋敷が町屋になったようです。これが現在の古馬場町のようです。古馬場は、もとは侍屋敷街だったのです。
侍屋敷から町人町になったのは古馬場だけではないようです。
「元文5申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)をみると,浜の丁の蓮華寺の西に1軒の侍屋敷,蓮華寺の東の6軒の侍屋敷,船蔵の南の11軒の侍屋敷、城下の西端の南北に並ぶ侍屋敷の1列がなくなっています。このことについて『小神野夜話』は
「北海手東西之はと崎よりならびに蓮華寺之東,侍屋敷北手之土手を築,土手並木を植え候事,元禄十丑年七月大須賀小兵衛列座にて,主馬柘植安左衛門被仰渡,右安左衛門下知にて出来申候,並松も大木に成居申候処,享保五年之頃より北汐当強く相成,家中住かたく(難く)北六間引,土手松も汐に押し倒し土手も崩れ,石垣にて漸留り申候,右屋敷,同十二年正月に被仰付,六月迄に引申候」,
「浜之町土手は,我等若盛り迄は,土手下へ沖より汐満申事は夢々無之,西の波戸中程迄汐つかり申事覚へ不申候,東の船蔵の波戸は,三十年巳前迄は五十間の波戸,中程迄汐来り候,其後段々汐まして北の土手を打崩し候故,侍屋敷住居成不申,弐十七年以前に裏がわ六軒は引く申候。
材木蔵も八間南へ引,旁致候へは,次第に北のあて強く相成申候,‥」
とあり,元禄10(1697)に蓮華寺の東の侍屋敷の北に土手を築いたが,享保5(1720)年頃より,北から吹く潮が強くなり,享保12(1699)年に海岸縁の6軒の侍屋敷は移転し,材木蔵は八間ほど南に移動したことが記されています。このあたりは昔から冬の北西風が吹き付ける風の強いところだったようです。
高松城絵図10
        
寛政元(1789)年に描かれた鎌田共済会郷土博物館『寛政元年高松之図』(絵図10)と「元文元年申年6月讃岐国高松地図』(絵図9)を比較すると変化はあまりありません。
最後に、江戸時代末期の19世紀の絵図は3枚あります 。


(1804~1818年)に描かれた『文化年間讃州高松城下絵図』(絵図
高松城絵図11
これらの絵図には東浜の北に新湊町があります。新湊町は文化元(1804)年八代藩主松平頼儀の時代に,東浜の北に造成された町です。この町の北端に神社が記されています。これは東浜町から移された恵比寿神社のようです。
高松城絵図15
 このあたりを詳細に描いた絵図は鎌田共済会郷土博物館所蔵の「高松新井戸水元並水掛絵図」(絵図15)がります。これは文政4(1821)年に作られたもので,新井戸から配水する上水道を描いたものです。この絵図にも新湊町や恵比須神社が描かれています。江戸時代末期の『讃岐国名勝図会』にも新湊町の北側に蛙子社が詳しく描かれています。
高松城下町2

以上をまとめると、高松城及び高松城下町は以上のように移り変わってきたようです。
①高松城が築城後,最も変化するのは松平頼重の東の丸築造をはじめとした改築である。
②それまでの生駒藩時代には高松城の東西は浜が広がっていたが、浜を干拓したり,護岸工事を行なった。
③その結果,城下町が東西に拡大し、西は摺鉢谷川、,東は仙場川まで広がった。
④生駒藩時代の城下は高松城の外堀内にも侍屋敷があり、町屋を囲うようにコの字に侍屋敷が配置されいいった。
⑤城下の規模は東西8㎞、南北6㎞であった。
⑥松平高松藩になると城下も拡大し,松平頼重の時代には城下の南西部に侍屋敷が拡大して番丁まで広がった。
⑦しかし、享保年間には御家人が減少したため,城下の南東部の侍屋敷や馬場を縮小した
⑧代わって町屋となったため,外堀の南東は町屋ばかりになり,侍屋敷は南西部に配置された。
⑨南西部の侍屋敷の中でも西端の一部はなくなり,田畑となった,

絵図の紹介をしてきましたが急ぎ足になりすぎたのを少し反省しています。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷                              香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ

  
HPTIMAGE高松

 
高松城下を描いた絵図資料は25点、19種類あるそうです。これらの絵図には高松城及び高松城下が描かれています。これらを製作年代順に並べて見比べてみると、どんなことが分かってくるのでしょうか。まずは生駒藩時代の二枚の絵図を見ていくことにしましょう。
 高松城は生駒親正によって天正16(1588)年,香東郡野原庄の海浜に着工されました。
高松城の地理的要害性ついて『南海通記』は
「此ノ山ナイテハ此ノ所二城取り成シ難ク候、此ノ山アリテ西ヲ塞キ、寄口南一方成ル故二要害ヨシ,殊二山険阻ニシテ人馬ノ足立ナク,北ハ海ニ入テ海深ク,山ノ根汐ノサシ引有リテ,敵ノ止り居ル事成ラズ,東八遠干潟 川人有リテ敵ノ止ミガタシ,南一ロノ禦計也,身方干騎ノ強ミトハ此ノ山ノ事也」

とあり、北は海岸で,東は遠浅の海岸が広がり,西は山が迫っており,山の麓は浜が広がる要害の地に築かれたことを指摘します。
 最も古い絵図は寛永4(1627)年に記された『讃岐探索書』の絵図(絵図1)のようです。
これは題名からうかがえるように幕府隠密が書き残した報告書で、絵図のほかに高松城の他にも町の広さなどが記録されています。当時は生駒藩時代で外様大名でなので監視の目がそそがれていたようです。隠密は次のように高松城を絵図入りで報告しています。

1讃岐探索書HPTIMAGE
天守閣は三層で,三重の堀をもつ。内堀の中に天守のある本丸があり,堀を挟んで北側に二の丸,東に三の丸がある。天守の西側の西の本丸は多聞で囲まれ,南西・北西・北東の角に二重の矢倉がある。二の丸は矢倉で囲まれていて,北角には矢倉が2つある。二の丸と内堀を挟んで西側にある西の丸の北側は塀で、北の角には屋敷があり,南の角に矢倉が2つある。しかし、中堀の石垣は6~7間が崩れて放置されている。海側にも海手門と矢倉があり,その東側には塀が続いているが、土が剥げ落ちている。
 また海側には海手門があった。中堀の東南付近には対面所がみられるが,この北側には堀を挟ん
で三の丸との間に門がある。三の丸は東南角に二重の矢倉があり,矢倉に続いて30間の多聞が続く。海の方にも矢倉があり,塀が巡っているが塀は崩れかかっていた。
 
1生駒藩時代
お城周辺の拡大図
これは高松城のことを記した一番古い史料になりますが,築造開始より年数が経過して,土塀や石垣は相当傷んでいて、それを放置したままになっていたことがうかがえます。藩内のお家騒動が激化してそれどころでなかったのかもしれません。
「讃岐探索書』は、城下の周辺ついては次のように記します
城下は城の西側,南側,東側に広がっていて、東10町(約1km),北南6町(約650 m)程度の広さで,800~900軒の家が並んでいる。城下町の東西には潮が入る干潟が広がり,南側は深田であった。 
 ここからは高松城の西と東はすぐ海浜で、東西の町は小規模で、南に向かって城下町は発展していく気配を見せています。町屋数は900軒前後であったといいます。公儀隠密の描いた「絵図1」は略図で、高松城下の町の名や,その広がりなどについては詳しくは分かりません。しかし、東西に干潟が広がる海岸の先端にお城が築かれていたことは分かります。
1HPTIMAGE
これに対して『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)は詳細に描かれています。
この絵図を見て気付くことを挙げておくと
①城と港(軍港)が一体化した水城であること
②中堀と外堀の東側には町人街があること
③外堀の南に掛けられた橋に続いて丸亀町がまっすぐに南に続いていること
外堀の南と西にはは侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
町筋を見ていくと東西に5筋、南北に7筋の通りが配されています。注目しておきたいのは東側の外堀の内側には、町屋があることです。これらは特権的な保護を受けていた気配があります。町屋の総数は1364軒になるようです。公儀隠密の報告から10年あまりで1,5倍に増えていることになります。急速な町屋形成と人口の集中が起きていたことがうかがえます。
 東西南の町屋を見ておきましょう。
 東部は町屋が広がり,いほのたな町・ときや町・つるや町・本町・たたみみ町などの町名が見えます。外堀の東側は東浜舟入で,港ですが舟入の東側にも町屋が広がり、材木屋、東かこ(水夫)町があります。
 南側には丸亀町,兵庫かたはら町,古新町,ときや町,こうや(紺屋)町,かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。この数からも城下町は南に向かって伸びていった様子がうかがえます。
 城下の東には通町,塩焼町が、城下のはずれには「えさし町」が見えます。
絵図の西端は、現在の高松市錦町に所在する見性寺付近で、東端は塩焼町で,現在の高松市井口町付近にあたります。
 南端には三番丁の寺町が見えます。そこには西からけいざん(宝泉)寺・実相寺、脇士、浄願寺・禅正寺・法伝寺・通明寺・福泉寺・正覚寺・正法寺の寺院がならび南方の防備ラインを形成します。なお「けいざん寺」は宝泉寺のことで、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んだようです。
 この南にはかつては堀もあったようで、それが埋め立てられて「馬場」となったとも伝えられます。それを裏付けるように厩,かじや町が描かれ,南東部には馬場があり,その南には侍屋敷があります。この辺りは、現在の高松市番町2丁目で、高松工芸高校の北側あたりから御坊町にかけてになります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)には三番丁が描かれていますので、この時代に城下はこの辺りまで広がっていたようです。
しかし、高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

とあり,松平頼重の頃に六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場が新たに侍町になっことが記されています。つまり、それまでに五番丁まであったと記します。生駒藩時代に、どこまで城下が広がっていたのかは、今の史料でははっきり分からないようです。
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 この「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのでしょうか。研究者が注目したのは、中堀と外堀の間の西上角にあった西嶋八兵衛の屋敷が
描かれていることです。彼は藤堂家から派遣されて、讃岐のため池築造や治水灌漑に大活躍した讃岐にとっては「大恩人」です。西嶋八兵衛は寛永4(1637)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあって、その後に大本寺は建立されたと,大本寺の寺伝が記します。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 ここでもう一度「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2)をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作された研究者は考えています。まるで推理小説を読むような謎解きは、私にとっては面白いのですが、こんな作業を重ねながら高松城を描いた19種類の絵図を歴史順に並べらる作業は行われたようです。

 生駒騒動で生駒氏が改易された後,寛永19(1642)年,高松城に入部した松平頼重は寛文10(1670)年に高松城の天守閣の改築をし,翌年には新しく東の丸を築造しています。東の丸があるかどうかが絵図をみる際のポイントになるようです。東の丸があれば、松平藩になってからの絵図と言うことになります。
1高松城 屋島へ
それでは、この絵図はどうでしょうか?
「讃岐高松丸亀両城図 高松城図』(第6図 絵図3)も製作年代がありません。東の丸が描かれていないので寛文11(1671)年以前のものであることは間違いありません。この絵図は、高松城下町は略されていますが、周辺への街道が描かれています。周囲をみると屋島(八嶋)島の状態で陸と隔てられ、屋島と高松城は湾として描かれています。また,志度へ向かう道が2本描かれています。1本は東浜より湾を渡って屋島の南に抜け,牟礼・志度方面へ向かう道,もう1本は長尾街道と分岐し,海岸線を経由して屋島の南で前者の道と合流する道です。この道のすぐ北側は海で,湾状となって描かれていますが,この辺りは西嶋八兵衛によって寛永14(1637)年に干拓が行なわれた場所になります。ところがこの絵からは干拓の様子が見えません。ここからこの絵図は生駒藩時代のもので,西嶋八兵衛が干拓を行う寛永14(1637)年より前のものと研究者は推理します。
 
HPTIMAGE
第8図「讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)です。
 この絵図と先ほどの「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)を比べると、2つの相違点に気がつきます。一つは(絵図2)では東浜舟入の東側は「東かこ町」でした。この東の海岸をみると,塩焼浜と記され,浜が広がっている様子が描かれています。一方この絵図4では、東かこ町側の海岸は直線的に描かれていて、絵図の着色から石垣の堤防が築かれたことがうかがえます。
 2つめは、この「絵図4」では西浜舟入の侍屋敷の西側には町人が見られますが『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)では町人町は描かれていませんでした。ここから『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2』より新しいものと研究者は考えているようです。
 それでは『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は生駒藩時代,高松藩時代のどちらをを描いた絵図なのでしょうか?
 松平頼重が高松城に入城するのは寛永19(1642)年で,『生駒家高松城屋敷割図』(絵図2)の製作の3~4年後です。東浜の海岸の石垣工事や,西浜町人町の建設などの工事は大工事であり,これだけの工事を3~4年間で行なうのは難しいようです。『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は、松平頼重入封以後の高松藩時代のものと考えるほうが無難のようです。
 なお,明暦元(1655)年松平頼重が五番丁に浄願寺を復興します。浄願寺は寺域も広く「高松城下図」(絵図7)など後世の絵図にも大きく描かれています。しかし、この「絵図4」には浄願寺は描かれていません。これも明暦元(1655)年以前のものとされる理由のひとつです。
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  以前に生駒藩の高松城の建設は従来考えられていたような秀吉時代のことではなく、関ヶ原の戦い後になって本格化したと考えられるようになっていることをお話ししました。それは発掘調査から分かってきたお城の瓦編年図からも裏付けられます。
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 そして、新たにやってくる新領主・松平頼重のもとで高松城はリニューアルされ、城下は新たな発展の道を辿ることになるようです。

1高松城寛永16年

生駒時代の高松城のようすを、上の図1から説明すると
城の中央に天守閣があり、その西側に本丸、本丸の北側にニノ丸があり、ニノ丸の東側には三ノ丸があります。ここからは中濠と内濠に囲まれて西ノ丸と三ノ丸があるということが分かります。西ノ丸の下の方の一帯は、現在の「桜の馬場」になります。
 外濠は西の方には「西浜舟入」、東の方には[京浜舟入]と記されています。ここが前回にもお話しした船場になります。軍港としての役割もあったのではないかと私は考えています。
 この船場から南の方に下がって東西に走っているのが外濠です。この中濠と外濠に囲まれたところが、侍屋敷になります。その侍屋敷の南の中央辺りに、今の「三越」は位置しているようです。
 城への門は、中濠の南にかかっている橋が城への出入口で、大手門になります。外濠のあったところは、今では片原町から兵庫町、そして西の突き当たりが広場として残っています。
 城下町は、外濠から南の方に広がっていて、この地図にも当時の地名が書き込まれていますが、今の高松の商店街に残っている町名と殆ど同じです。例えば、片原町・兵庫町・丸亀町・塩屋町・新町・百聞町・通町・大工町・鍛冶屋町などです。当時のメーンストリートは、丸亀町から南新町へと南に進み、後に田町が発展して藤塚へと延びていくことになるようです。
1高松城 生駒時代屋敷割り図
生駒時代屋敷割図
                   
生駒騒動と生駒氏の改易
 秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏によって、讃岐の近世は始まります。生駒氏は引田 → 聖通寺山と拠点を移し、高松に本格的なお城が築かれ、その南に城下町が形成されていくことになります。生駒氏は約五〇年間にわたって領主として支配し、讃岐に落ち着きを取り戻す善政を行ったと評価されています。
 ところが寛永十四年七月に国家老生駒帯刀が、生駒藩江戸家老前野助左衛門らを幕府に訴えたことから、「生駒騒動」が始まります。そして、寛永十七年五月に、「生駒藩内の家中立ち退き」が幕府で問題になります。生駒藩の家来が、国家老派と江戸家老派の二つに分かれ、江戸家老派に与した藩士が、讃岐からも江戸藩邸からも集団脱走して、大坂に集結するという大事件が起こりました。なぜ、そのようなことになったのか、ということについてはよくわかっていないようです。当然、家臣たちが藩邸を脱走すれば、藩が潰れるということは分かっているはずなのに、なぜ家臣たちが立退いたのか?当然、職場放棄し「脱走」した彼らも後に処分されます、この事件の原因については、諸説あって今後の課題のようです。

Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
 この事件は、幕府の老中たちによって裁かれて、藩主の責任だということで、讃岐を取り上げられてしまいます。そして生駒高俊は、温暖な讃岐から秋田県の雪深い矢島へ移されてしまいます。矢島は、冬は2メートルも雪の積もる鳥海山の麓で、冬はスキーで賑わう小じんまりした町です。

1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重による高松藩の基礎作り
 生駒氏が去った後、寛永十九年二月に松平頼重が高松藩主となります。この時に、讃岐は西の丸亀藩五万石余と高松藩11万石の二つに分けられます。ほぼ土器川から東の方の高松藩の政治体制・領内支配体制を作り上げていくのが松平頼重です。
 ちなみに、この人は水戸黄門のお兄さんになります。本来ならこの人が、水戸藩主になるべき人でした。一説には、頼重が生まれたときには、父の水戸藩主徳川頼房は、お兄さんたちに子供がなかったということで、頼重を世継として幕府に届けるのをためらった。そして、頼重を家臣に育てさせたと伝えられます。
 その六年後に弟の光圀が生まれました。その時には、お兄さんたちにも子供が生まれていたということで、頼房は光圀を世継として幕府に届けたといいます。こんな不遇な回り合わせにあった頼重は、やがてそのことが幕府に知れ、将軍徳川家光の耳にも入り、寛永十五年に下館藩(しもだて栃木県)の五万石の大名となります。そして四年後に高松城に入ることになります。このように高松藩は水戸家の分家的な存在で、幕府に非常に近く家門(親藩)という立場にある藩だったようです。
 城下上水道と溜池
 頼重が高松藩に入ってからの業績は、最後につけた年表にあるように、先ず城下に上水道を敷きます。上水道としては、全国的にみてそう古いものではありません。ただ、地下水を飲料水として使用したのは、全国初ということで注目されています。井戸としては次の三つが使われました。
「大井戸」現在でも瓦町の近くに大井戸というのが、規模を小さくして復元されて残っています。物が投げ込まれたりしていますが高松市の史跡です。
「亀井戸」亀井の井戸と呼ばれていたものです。五番丁の交差点の少し東の小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっていますが、発掘調査をすればきっとその跡が出てくると思います。
「今井戸」ビルの谷間にほんとうに小さな祠が残っていて、鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥に、「水神社」の祠があります。この3つの井戸から、高松城下に飲料水としての井戸水を引いています。
 翌年の正保二年は、大旱魅で新らしく溜池を406を築いたといいます。しかし、一度に築いたものではなく、恐らく頼重の時代に築いたものが406で、この時にそれをまとめて記したものと研究者は考えているようです。どちらにしても生駒氏時代に西島八兵衛が溜池を築いたと同じように、頼重の時代に入っても溜池の築造が続いていたことがうかがわれます。
 高松城石垣の修築と検地
 正保三年には、高松城石垣の修築に着手しています。
この時期の高松城の様子を幕府が派遣した隠密が記録した「讃岐探索書」が残っています。
その中に、石垣が崩れているとか、土塀が壊れたりしていると書かれていて、当時の高松城は相当いたんでいたようです。生駒藩は、「生駒騒動」のごたごたで城の手入れも充分できていなかったのかもしれません。年表の寛文五年に、城下周辺から検地を始め、寛文十一年に終わるとあります。
 領主にとって検地は領地経営の根本に関わる重要事業です。
頼重も六年間かかって領内の検地をやり終えています。高松藩では、これ以後検地は行われていません。この検地によって、高松藩における年貢取り立てのための農民支配体制が、ほぼ出来上がったと考えることができます。
1高松城 松平頼重普請HPTIMAGE
いよいよ寛文十一年九月に高松城普請が始まります。
この工事の結果、できた高松城が図2です。
 普請前の生駒時代の違いについて、見ておきましょう
 一つは、生駒時代は東側の中濠は侍屋敷に沿っているだけでした。ところが普請後は、中濠が途中で東に分かれ下横町にぶつかってから北に進んでいます。この結果、中堀まで船が入ってこられる構造になっています。
 二つ目は、普請前は海に面した北の方は「捨石」と記されているように、石を捨てただけの簡単な石垣だったようです。ところが、普請後には、しっかりとした石垣もでき、爪か彫とか対手御門が新しくできています。
 三つ目として、普請前の城内への入り口である大手門が、普請後には橋がとりはらわれていて、右の方のが鼓櫓の横の濠の上に橋がかかっています。現在も、ここにある旭橋から城内に入ります。そして四つ目は北の方の一部に海を取り込んで北ノ丸を新しく造成し、さらに、東の方では侍屋敷と町屋を二つに分割して、新しく濠を設けて東ノ丸をつくり、もともとは城外であったところを城内に取り込んでいます。
 高松城普請は単なる城の修理ではなく、城の拡大であったということです。これ以後の高松城の姿は明治維新まで変わらなかったようです。
 
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この城下の屏風は、高松城だけでなく城下町の様子まで描かれています。そのため城の様子や城下町の様子がとてもよくわかります。人々がどんなものを運んでいるのか、どんなものを着ているのかなど、細かく描かれています。そういう意味で、この屏風は当時の人たちの風俗などが、よく分かる大変貴重な資料と評価が高いようです。

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その後の高松城はどうなったかのでしょうか
図2の東ノ丸の米蔵丸のところには、現在は県民ホール(レグザム)が建っています。それから米蔵丸の半分から下の作事丸にかけて、県立ミュージアムがあり、その南には城内中学校がありました。城の中にいろいろな建物が建つことは、高松城は国史跡であり、文化財保護の立場から考えると、問題だという意見もあるようです。
 また、本丸の石垣のすぐ横の内濠の部分が築港駅のホームになっています。さらに西ノ丸の一部が中央通りにかかり、生駒時代の大手門の跡の近くの西の中濠が埋め立てられて現在電車が走っています。東ノ丸の東側の濠は、フェリー通りになっています。
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 明治以後、高松は港町として発展してきましたが、この城の辺りが港町として発展していくさいにお城の敷地が切り取られていった歴史があります。21世紀になって、この国にも心の余裕ができたようで、文化的な面にも目を向けていこうという時代になってきました。昔のままの高松城を復元するのは無理でも、少しでも昔の姿に、戻そうとする動きが出てきています。
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 昔の高松城は、海に接して石垣のある海城で、瀬戸内海からは海辺に石垣の見えるすばらしい城だったと思います。今では、石垣の北を埋め立てて道路になって、石垣が海に洗われる姿を見ることはできません。しかし、行政は石垣と道路の間の建物を撤去して散歩道をつくり、石垣の北を少し掘って海水を入れて濠のようにして、昔の高松城の姿に少しでも近づけようとしているようです。岡山行きのフェリーが廃止になった跡の利用にも期待したいと思っています。
1 高松城 教科書.明治34年 - 新日本古地図学会
参考文献
  木原 高松城と松平頼重
(『高松市教育文化研究所研究紀要』四五号。1994年)
          「高松城と松平頼重」関係年表
天正12年(1582)6月 本能寺の変
天正12年(1584)6月頃長宗我部元親、讃岐十河城を攻略する
天正13年(1585)春 長宗我部元親、四国を平定する。
   4月 豊臣秀吉、長宗我部元親攻撃を決定する。
   7月 豊臣秀吉、四国攻撃軍と長宗我部軍との和議を命令
   8月 千石秀久、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正14年(1586)12月 豊臣秀吉、千石秀久より讃岐国を没収
天正15年(1587)8月生駒親正、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正16年(1588) 春 生駒親正、高松城築城に着手
慶長2年(1597)春 生駒親正、丸亀城を築く。        
     生駒藩、この頃から同7年頃にかけて領内検地実施
慶長5年(1600)9月  関ヶ原の戦い。
慶長6年(160U 5月 生駒一正、徳川家康から讃岐国を安堵
慶長19年(1614)10月 大坂の陣始まる。
寛永4年(1627)8月  幕府隠密、讃岐を探索する。
寛永8年(1631)2月  西島八兵衛、満濃池を築造する。
寛永14年(1637)7月  生駒帯刀、幕府老中土井利勝らへ訴状衛出・生駒騒動の始まり)
寛永17年(1640)7月 生駒高悛、「生駒騒動」で讃岐国没収 
            羽国矢島1万石に移封。 
寛永18年(1641)9月山崎家治、西讃岐5万石余を与えられ丸亀城に拠る 
寛永19年(1642)2月  松平頼重、東讃岐12万石を与えられ高松城に拠る
正保 元年(1644) 高松城下に上水道を敷設する。
正保2年(1645) 讃岐大干ばつ
正保3年(1646)6月  高松城石垣の修築に着手する。
明暦3年(1657)3月  丸亀藩山崎家断絶する。       
万治元年(1658)2月  京極高和が山崎家領を継ぐ  i
万治3年(1660)この年丸亀藩、幕府より丸亀城普請を許される       
寛文5年(1665)この年 高松藩、城下周辺より検地を始め11年に完了する。これを「亥ノ内検地」という
寛文9年(1669)5月 高松城天守閣の上棟式が行われる。
翌年8年 造営が成る。
寛文10年(1670)丸亀藩、延宝にかけて検地を行う。
寛文11年(1671)9月  高松城普請が始まる。この年家臣知行米を「四つ成」渡しとする。
延宝元年(1673)2月高松藩主松平頼重、病により隠退する。
延宝2年(1674)9月 米蔵丸・作事丸(東ノ丸)が完成する。
延宝4年(1676)3月 月見櫓の棟上げが行われる。北ノ丸完成か
延宝5年(1677)5月 艮櫓が完成する。
元禄8年(1695)4月  松平頼重、死去

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