瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:近世讃岐の寺院

前回は、途中から金毘羅さんの方へ話が進んでしまって、仏生山のことが尻切れトンボになってしまいました。仏生山門前町の発展に素麺屋さんが大きく寄与していることに前回は触れました。これは、私には面白い話なので、今回はもう少し追いかけて見ます。
    仏生山の素麺業者の願いをうけて享保13年に、法然寺が郡奉行へ出した次のような要望書があります。
門前町人共五拾九年前素麺の座下し置かれ候、近年別而困窮に及び候得共、是れを以て渡世の基二仕り、只今迄取続き罷り在り、偏えに以て開祖君御源空(法然)の程愚寺に於ても在り難く存じ奉り候、然ルニ近年出作村下百相村二而素麺致す二付き、町人共難儀の筋(中略)
申し出候、右隣村の義、近年乍ら致し来たり杯と名付け捨て置き候而、畢竟、龍雲院様(松平頼重)成し置かされ候御義相衰え候段、千万気の毒二存じ奉り候、其の上町人共末々門前居住も仕り難き由の申し立て、尤も以て黙正し難き趣二候段、則ち町人共願書(下略)
意訳すると
①仏生山門前では、59年前に素麺座をつくり共存を図ってきたが近年困窮化している。
②素麺業は藩祖松平頼重のお陰で発展してきたもので、その素麺業が衰えてしまっては困る
③原因は出作村や下百相村での新たな素麺業者の競合
④仏生山素麺業の継承、発展のための保護をお願いしたい
 郡奉行の方では、法然寺や門前素麺業者の意向をくんで、近隣業者の水車のひとつを運転停止にするという措置で、紛争を収めています。この史料からは、いろいろなことがうかがえます。
①まずは、素麺業者の数の増加ぶりです。
59年以前から素麺座があったと云います。しかし、それは寛文十年に当たり、松平頼重によって法然寺が建立された年です。建立当初から素麺座があったとは考えられません。まあ、城下から四・五人の素麺屋を仏生山に移住させて座をつくらせたと考えておきましょう。それが、約60年後には、50人に増加しています。10倍強の増大ぶりで、頼重の「仏生山特区振興策」のたまものかもしれません。同時に座を作り、ギルド的な規制で新規参入者を入れないという動きも見えます。50軒という数字は、幕末まで変わらないことがそれをうかがわせます。
② 次に注目すべき点は、「近年出作村下百相村七川素麺致す」と書かれている所です。
出作村も下百相村も仏生山門前に隣接する村です。とくに下百相村からは平池の水掛りをうけています。隣接する村が仏生山門前の素麺業の活況を見て、新規に参加してきたのです。この動きに対して素麺座の方は、ギルド的閉鎖性から法然寺の力を借りて抑圧する方向に動いていたことが分かります。
 約120年後の天保十三年(1842)に、今度は平池水掛り村々の百姓と素麺業者との間で紛争が起きます。
その決着の際に、浅野村の水車持主三人(素麺業者)が出した詫び状の一札をみて見ましょう。
       一札の事
 平池用水ヲ以て私共渡世致し候義、本掛り衆中丿故障等者之れ無き義与相心得、種々身勝手二趣不束の義致し候所、用水御指支えの趣、卯七月願書の通り、夫々御願い出二付き、水車御指し留め御封印御附け置き成され候上、御役人中様御入り込み、達々御吟味仰せ付けられ、平池用水の義者御収納(水田)第一の義二付き、御普請等仰せ付けられ候義二而、水車の用水与申す義者毛頭之れ無き段、尚、達々仰せ聞かされ二付而者、前件の趣二言の御申し訳相立ち申さず、不調法至極恐れ入り奉り後悔致し罷り在り候、然ル所、本掛り衆中丿水車取り除ケ候様御願い出二付、甚心配仕り候趣、達々御願い申し上げ候所、此の度、岡村庄屋丸岡富三郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿、右始末、本掛り衆中江御掛合下され候所、取除ケ御願いの義者、御扱い人衆中様江御任せ下され候由、在肛難き仕合せ二存じ奉り候、左の条以来相守り申すべく候(下略)

これをみると、「御取調べの節御指し留めに相成」りとして、これ以前の文化年間にも紛争が起きていたようです。その時は、水車がひとつだけ運転停止になったと記します。
意訳すると、
「私どもは平池の水を使って渡世(稼業)いたしてきました。そのことが本掛りの方々に大層迷惑をかけていたとも知らずに水車を動かしていたわけですが、用水に支障がおこっているため水車の封印を願うという天保十四年七月の本掛りの方々の願書で、役人衆が見分に来ました。その際の吟味で平池用水は年貢収納第一のためのものであって水車の用水ではないことが十分にわかり、これまでのことについては誠に申しわけなく後悔いたしております。
 ですが、本掛り衆の願い出ている水車撤去については困ったことと心配しておりましたところ、岡村庄屋丸岡富一二郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿が掛け合い、取り除いていただきました事について、まことにありがたき幸せと感じ入り、以後は取り決めを遵守していく所存であります。

素麺業者の「違法行為」を認めた上での詫び状的な内容です。
「平池水掛り衆が水車の取り除ヶを訴える程の一種々身勝手』とあり、百姓の中には水車の撤去を主張する者もいたようです。そこまで百姓を怒らせた背景には、素麺業者の中に
①水車の大きさを次第に大きくしていったり、
②新しい井手を勝手に作って水を流したり、
③水車を新しく建てる際に道を勝手に潰したり、
④ひどいものは、用水を水車小屋の中へ引き込む形にして水車を廻したりする者がいた
からのようです。
   素麺の需要増大と用水問題の発生
 これを逆に考えれば、水車稼働能力を高め小麦粉の増産を求められていたことになります。そこまでして、生産しなければ需要に追いつかないという実情があったのでしょう。その傾向は、文化年間ごろあたりから始まったようです。
 先ほど見た享保十三年の紛争の際には、水車の一つが運転を停止するといった形で妥協したわけですが、その後は素麺業者にとって有利な状況が続いていたようです。その背景には、前回に見たように、松平頼重が門前を繁栄させるために素麺業者を呼びよせたという「始祖物語」と、法然寺の素麺業者保護という背景があったからでしょう。そして素麺需要の増大に対し、素麺業者らは「種々身勝手」なやり方で、その生産量を増やしていきます。

4344098-05仏生山
仏生山
 どうして文化年間ごろから素麺需要が伸びたのでしょうか?
まず、考えられるのは法然寺への参拝者の増加です。文政五年の開帳では、「御触」の中に次のように記されています。
「此の度、仏生山開帳二付き、参詣人多く之れ在るべく候、就中、他国ぶも参詣人之れ在り、貴賤群衆致すべく候」
「先年御開帳の節なども右場所二而一向参詣ノ衆中休足も仕らず模寄々々二至り恰」
と、開帳のたびに以前にまして、参詣人が増えていったことがうかがえます。また、開帳時以外のふだん時でも、参詣者が多くなっていたことが次のように記されています。
 金比羅石燈篭建立願願い上げ奉る口上
 私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、之れに依り申し合わせ、少々の講結び取り御座候而、何卒道印石燈篭建立仕り度存じ奉り候、則ち、場所・絵図相添え指し出し候間、願いの通り相済み候様、宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、已上
 文化七午年十月 香川郡東大野村百姓 半五郎
                   政七
    政所 文左衛門殿
これは仏生山から一つ村を隔てた大野村の百姓半五郎と金七が連名で提出した道印「石燈篭建立願い」です。その建立理由には、
家近くに仏生山から金毘羅への街道があるが、遠方の旅人がよく迷い込んで難渋している様子をよく見る。そこで、講をつくり、その基金で道標・石燈篭を建てて旅人が迷わないようにしたい
というものです。
 仏生山から金毘羅へむかう参詣者・旅人が増えていることを示す史料です。ちなみに、この石燈篭は今でも建っているそうです。
 金毘羅や法然寺などの寺社への参詣の増加という風潮
18世紀後半頃から湯治、伊勢参り、西国巡礼、四国八十八力所巡拝など、庶民が旅行に出るという風潮が広がります。法然寺も「聖地巡礼」のひとつになっていたようです。それは「法然上人遺跡二十五箇所巡拝」と関係します。この巡拝は、18世紀半ばの宝暦年間にはじまります。法然の五百五十回忌が宝暦11年(1762)にあたることから、それを記念する事業として始められたようです。「遺跡二十五箇所巡拝」の25という数字は、『仏教大辞典』によると
「源空(法然)示寂の忌日たる正月二十五日、或は念仏来迎の聖衆たる二十五菩薩などの数に因みたるものなるべし」
とあります。この25霊場は、
一番 作州誕生院 
二番 讃州仏生山法然寺 
三番 播州高砂十輪寺
と続いて、以下摂州→摂津国→大坂→紀州→大和→京都と各浄土宗の寺を巡拝し、第二十五番に大谷知恩院で完了するというルートです。法然寺は、この二番目の霊場に当たるようです。
 宝暦ごろからはじまった法然霊場巡りは、19世紀の文化年間ごろに、最も賑わいを見せるようになります。この頃は、四国八十八ヵ所の霊場巡拝や金毘羅参りも盛んになる時代です。これらの聖地を行楽を兼ねて巡拝することが、全国的に盛んになったのでしょう。そのような中で、法然寺門前も急速に繁栄していき、素麺業も発展します。その結果が
①素麺材料の小麦の増産
②水車の稼働率の向上と大型化
③用水の確保 
④平池の農業用水の権利侵犯と争論発生
という流れとなって現れたようです。
仏生山の繁栄は、周囲の出作村や百相村に波及していきます。
天保五年(1834)百相村の内の桜の馬場・出作村の下モ町(両町とも仏生山門前の続き)との氏子惣代が提出した口上書です。
  願い上げ奉る口上
私共氏神膝大明神定例九月十三日御祭日二而御座候、右祭礼の節者神勇のための檀尻二而花笠踊、仏生山町続き百相村の内桜ノ馬場、出作村の内下モ町二而都合二つつゝ古年仕成二御座候処、(中略)
右下モ町・桜ノ馬場与申す場所者 仏生山町同様二而店々商イ等の義茂御免遊ばされ、尚又桜ノ馬場二於て人形廻シ万歳芸等古年者御願済み二而土地賑いのため春秋仕来たり居り申し候、(中略)
且右場所町並二居り申し候者共商イ等仕り、当時相応の渡世も出来、一統御国恩の程在り難く存じ奉り候、尚又町内障り無く相暮らシ居り申し候義、全く氏神の御与刄奉り候聞、祭礼の節、神勇のため檀尻踊の義御免遊ばされた・・
「仏生山町続き」に注意しながら意訳してみましょう
①神膝大明神定例祭には、仏生山町続きの百相村の内桜ノ馬場出作村の内下モ町も参加してきた。
②このふたつの町は仏生山と同じように商いの特権を与えられてきた
③そのため「賑わい創出」のために人形回しや演芸なども春秋に行っている
④ふたつの村は仏生山と共に商いを行い、発展してきた
と「仏生山との一体性」を強調します。
この口上書には「付札」があり、それには本文に続いて次のように記します。
仏生山同様与申す義者、恐れ乍ら龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立の節、百相村の内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町の場所汪居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜ノ馬場同様二仰せ付けられ候哉の御模様二而兎角土地祭茂仕り候様二与御趣意二而、本文申し上げ候通り、桜ノ馬場二人形廻シ井万歳芸等土地賑いの為め、御免遊ばされ、庄屋御取り上げ下され候、土地の由申し伝え候間、何卒格別ヲ以て加文、願いの通り相済み候様宜しく願い上げ奉り候
この内容は、
①下モ町と桜ノ馬場は法然寺建立の際に頼重が寄進した新開地に含まれている
②仏生山門前同様に年貢諸役が免除された土地である
③だから人形廻し・万歳芸なども土地賑いのために許されていたのである
という主張展開になっています。そのままこれが事実であるとは云えないようですが、仏生山の影響を受けて享保十三年に「出作村下百相村」で素麺を始めたというのは、この付近なのかも知れません。寛文年間以降、仏生山の門前が次第に拡大し、祭礼を通して周辺の町並との一体化の風潮が進んでいったようです。

以上をまとめると
①松平頼重は仏生山の門前町作りについてもプランを持っていた。
②門前町形成のパイオニアとなったのは素麺業者である。
③彼らは松平頼重の保護を受け、急速にその数を増やし座を形成し特権擁護を図った
④急速な素麺業の発展の背後には、庶民の参拝熱の高揚があった
⑤周辺にも素麺業を始める者が現れ、門前町の拡大が始まる
⑥その際に周辺の商人も特権確保のために昔から仏生山の一員であったと主張するようになる
⑦こうして、周辺地域の仏生山化が進む
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
讃岐の門前町は、藩の保護の下で発展していった例が多いようです。特に、高松藩初代藩主松平頼重の貢献は大きかったことが仏生山からも分かります。
参考文献     
丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

 
1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重は、下館藩主を経て高松にやって来てきます。その際に、新たな国作りの構想を既に持っていたような気配がします。高松城の天守閣の造営、石清尾神社や法然寺の建立などは、基本構想として彼の頭の中には早い時期にあったのではないでしょうか。それは
「讃岐全体を安泰に統治していくためにはどんな仕掛けが必要なのか」
という政策課題に沿ったものだったのでしょう。例えば、
①天守閣造営は領民に対しての藩主としての権威を示す統治モニュメント
②石清尾神社や法然寺の建立は鎮護国家を目的にした神道・仏教の宗教モニュメント
とも見えます。また、金毘羅へも多大の寄進を行ったり、諸々の保護を与えたりしているのも政治的な意味が漂います。
高松 仏生山1
高松松平藩の菩提寺 仏生山法然寺
 松平家は法然寺・金毘羅・白鳥神社に厚い保護を加えます。
そのため、この三つは寺社として讃岐で屈指の門前町に発展します。門前町というのは、お寺や神社に奉仕する人々のためのモノや人が集まり、お参りする人々へいろいろな物やサービスを提供するために職人・商人などが集まってできあがった町です。金毘羅さんを見れば分かるように、その施設が広がり・参詣人が増えることで、町の規模は大きくなっていきます。これらの宗教政策と同時進行で、高松城下の整備も進められていきます。

仏生山13
法然寺は、松平頼重によって出来上がったお寺です。
頼重は、法然寺を松平家の菩提寺とし造営に取りかかり、寛文八年に着工し2年後に完成させています。この寺は頼重の宗教政策の大きな柱となるべくつくられたと研究者は考えているようです。
たとえば、この寺の寺格を上げるためにいろいろ工作しています。
その一つが「一本寺」という格です。
どこの寺にもつかず、法然寺そのものが本山であるということです。そのために、まんのう町の子松庄にあった生福寺というお寺を探し出します。この寺は、その昔、法然上人が京都で流罪になり、まず塩飽に流されて、そこでしばらく過ごした後、子松の庄に流されて住んだという寺です。ここで法然上人は教えを広めていたわけです。浄土宗の中では、ひとつの「聖地」です。
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年に法難を受けて土佐国(現在の高知県)へ配流されることになった。
②途中の讃岐の国で九条家の保護を受けて塩飽庄から小松庄でしばらく滞在する。
③小松庄に寺が建てられ念仏三昧の道場となった。
④その後戦乱によって衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤寛永年中に松平頼重が東讃岐に入部して高松藩が成立する。
⑥頼重は法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した
ということになるようです。移転前は生福寺と呼ばれていましたが移転後の跡地には後に寺が建てられ現在に至っています。
頼重公は、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移すプランを実行に移します。

仏生山11
 どうして浄土宗の寺が選ばれたのでしょうか?
それは徳川宗家の菩提寺増上寺が、浄土宗だからでしょう。本家の水戸家も浄土宗です。ですから高松松平家も浄土宗のお寺を菩提寺にしなければいけないのです。 その意味で、頼重公は浄土宗・法然の跡にこだわったようです。
 同時に、高松藩の菩提寺である以上、讃岐にそれまであった寺よりもはるかに寺格は高くなければならなかったのです。菩提寺をそれまでにない寺格の寺にすることで、松平家を頂点とする寺のヒエラルヒーが形作られることになります。これも封建社会においては重要な宗教政策だったのでしょう。
  「讃州城誌」には
国中之れ在る仏作ノ仏像御集め遊ばされ候間、寺御指し置き遊ばされ候」
とあり、讃岐中の優れた仏像を集めて法然寺に置くことも、頼重は行ったとあります。頼重の法然寺に対する思い入れの深さがうかがえます。
 享和二年(1802)の「寺格帳」には、浄土宗寺院のランク表が載せられています。
NO1 芝増上寺
NO2 京都の知恩院、京都黒谷の金戒光明寺、浄華院
NO3 仏生山法然寺
となっていて、全国でNO3というランクです。
仏生山4

もう一つ法然寺の格の高さをあらわすのに「常紫衣」があります。
お坊さんの着る衣は格で決められているそうですが、紫の衣が着られるのは一番格が高いようです。法然寺の僧はいつも紫衣を着てよいとされていました。さらに寺格を高めるものとして、「朱印状」が与えられています。そして将軍へのお目見えが許されていました。
 頼重は法然寺を、このいうな「格」でランクアップを図り、全国NO4のランクにまで高めていたようです。このように、法然寺は頼重の宗教政策の一環として建立され、育成されたのです。
 ちなみに、法然寺建立より前の1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令が幕府より出されます。その令が出されて二ヵ月後に造営に取りかかっています。

仏生山12
造営に当たって、頼重はじめ家臣達が造営地をめぐってもめています。
「御霊屋御建ナサレ候ニツキ 仏生山や船岡ヤ両所者可然卜御評議有之 仏生山お究只今ノ通御普請仰せ付け」
とあり、仏生山の地に建てるか、船岡山の所へ建てるかでもめたようです。結局、仏生山という名前から仏生山に決まったことになっています。本当でしょうか?別の理由があったんではないでしょうか。

4344098-05仏生山
仏生山 
考えられるのは交通の要地、地理的戦略価値です。
江戸時代には仏生山の近くに阿波へ抜ける、阿波本道があったのではないかといわれています。そうだとすると、船岡山より仏生山の方が交通の上からは重要な位置にあったといえます。寛政年間の「御用留」(別所家文書)の中には、讃岐に来た阿波の商人が仏生山の宿屋に泊まっている事例がかなりあります。文政年間に仏生山には宿屋が5軒にあったので、そこに泊まったのでしょう。このことも仏生山の交通上の重要な位置を示す一つといえるかもわかりません。
仏生山法然寺十王堂

   頼重公のころ、讃岐と阿波では「走り人」という現象が時々おこっていたようです。
「走り人」というのは、困窮し逃散や流人した農民をさしたようです。高松藩二代目頼常の時に、阿波との間で取り交わした「走り人」についての処置マニュアルが残っています。阿讃の間に緊張感のようなものがあったようです。そういった人々を監視するには、やはり街道沿いの交通の便がよい仏生山の方がいいという判断があったのではないでしょうか。阿波を意識した要地なのです。

仏生山法然寺2
法然寺から高松城の常磐橋まで御成街道が作られます。
法然寺は北側から見ると、お墓が並んでいて、お寺そのものです。しかし、阿波からやって来る人から見える南側は、石垣が積まれお城のように見えます。つまり阿波から見ればお城になり、防御の役割を担います。一方、高松城は水城ですので、海からの防御を果たします。海からの防御高松城の新たに出来上がった天守閣と阿波からの防御法然寺、そしてこの間を御成街道が結ぶという一本の戦略ラインが引かれたことになります。ほとんど同じ時期に完成した天守閣と法然寺の間には、頼重の中では強い政治的関連があったように思います。
「讃州城誌」には、「仏生山法然寺 御代々ノ御寿城、英公御築き遊ばされ候」とあり、頼重は、法然寺を高松藩の南方方面の出城と考えていたよいう説は、私には説得力があります。
仏生山10
 
 頼重は仏生山門前町の育成のために何をしたか? 
頼重は、法然寺に次のような寄進を行います。
①朱印地        300石
②法然寺師弟家来賄料  250石
③鎮守膝宮入目     200石
などで合計750石を寄進しています。さらに、「法然寺條目」の中にみられるように
「当山霊宝等諸人拝見所望之れ有らば之れを拝せしむべし、其の香花代は住持受納すべき事」
として他の収入、散銭などによる収入も認めています。こうして寺野家財政的な基礎を作った上で、門前町の整備を進めます。
 「法然寺條目」の中には次のように記されています。
「門前町屋敷は地子等之れを免許す、諸事方丈より支配の町年寄両人に申し付け、町の儀万事私曲無き様相計らうべき事」
とあるように、門前の住人は税を免除し、すべての事が不正がないよう取り計えと、門前への住居奨励を行っています。
 しかし、門前町への人々の移住は進まなかったようです。
頼重の時から約200年近く経った天保十四年(1843)に仏生山町の素麺業者が連名で提出した口上書の中に次のような記述があります。
 恐れ乍ら私共家業の義素麺仕り(中略)
右素麺職の義 御当山御建立の最初御門前町並家造り仰せ付けられ候得共、其の頃は今の町並の地 野原二而御座候ヲ新た二右の土地高下ヲ切りならし候迄二而今此の所ハ船着き候与申す二も之れ無く渡世仕るべき便り一向御座無く候二付き、当所江参る人一切之れ無く(下略)
  意訳すると
①法然寺造営が始まったころは今の町並はなくて野原であった
②土地の高低を切りくずして平らにした野原で、しかも船を着けるところもないため(荷物の運搬にも不自由で)商売をする方便もない
③法然寺へ参拝する人は、全くないといった状況だった。
 それを頼重がいろいろと考えて、次のような手を打ったと記します
御上様(頼重)二も御苦労二思召され 幸イ素麺所二遊ばされ度御目論見二而御山の鎮守ヲも三輪三嶋春日三社ヲ御勧請遊ばされ候与申すも是れ何れも素麺所の御門前繁昌の事ヲも思召され候由」
  然ル所当所素麺屋御座無く候二付き、御城下二罷り有り候素麺屋四五人引越し仰せ付けられ、右の者共ヲ頭取二成され、諸人江相勧メ難渋の者江ハ元手ヲも御貸し下され、其の上右素麺屋の義 御領分中御指し当り二相成り素麺ヲ家業二仕り候義 仏生山限り候旨仰せ付けられ候間、御城下ヲ始め近郷の諸人御門前二住居相望み候者共多く相成り、尚又、素麺粉の義 浅野村平池尻三冊水車御願い申し上げ候処、速々御免仰せ付けられ下され素麺粉右の車二而挽き立てさせ候二付き、至而弁利二相成り候間、益諸人思い付き宜しく、夫丿連年打ち続き土地繁昌仕り候(下略)
意訳すると。
①そこで頼重公が素麺業者を4,5軒寄せ集めた。
③さらに素麺所の神様、三輪三嶋春日の三社を勧請した
④さらには、資金不足の者には貸付援助もおこなった
素麺粉は浅野村の牛池尻で水車を利用する許可が下りて技術革新がすすんだ
⑥これを契機に
、素麺産業は繁盛するようになった
⑥その結果、次第に仏生山に住むことを望む者が増えた。
と、自分たち素麺業者が仏生山発展の原動力であったと主張しています。ここからは、仏生山の地域発展のために頼重が素麺産業の移住定着事業を行い、素麺にゆかりの深い三輪神社を勧進するなどの「地域振興策」や優遇策がとられたことがうかがえます。
 このような門前町への「移住奨励策」は金毘羅にも見られます。讃岐藩主となった仙石秀久は、門前に商人を集めるために税金をただにしたりして、町を賑わわせる政策をとっています。

この他にも、道路工事に関しても、頼重は次のような指示を出しています。
「町幅六間与仰せ付けられ候も、左右ノ弐間宛の目板ヲ出し、中弐間往来ヲ明け置き、人馬通し申すべきため」
ということで、門前町の大通りを作り時に、道幅六間の内左右から弐間ずつ目板を出して、残りの二間を人馬が通る往来としておくようにといった指示もなされています。これが、仏生山のその後の発展に大きく寄与することになります。
 法然寺を支える組織は?
 この寺の組織は、住職の方丈、その下に天台・真言・浄土宗などの各宗派から召し抱えた道心(ここまでが僧侶)が十二人いて、さらに用人・小姓・医師などで構成されております。これが「寺役人」です。しかし、寺だけでは経営が成り立たたないので、周りに商人などを置いて、経営が成り立つような仕組みを作っていくことになります。それが門前町が発達していく原動力になります。
 
仏生山6

 素麺業の成立は、17世紀後半の寛文・延宝年間のころのようです。その後、享保十二年(1728)ころに、今度は素麺業者が訴えられます。素麺業というのは、うどんと同じでかなりの水を必要します。そのため近くの平池から引いた水を使っていたようです。周囲の村々も、法然寺が朱印地ということや寺のもつ高い格式などからあまり抗議はしなかったようです。しかし、日照りの時にも遠慮せずに水を使うことに、周辺の百姓も我慢できなくなったようで、両者の問に争論が起こります。その争論に際して、素麺業者側から出されこの訴状が残っています。その中で素麺業者は
「我々は法然寺とともに発展した由緒正しいものであるから、水は勝手に使ってよい」
と主張しています。この時には、素麺業者の数は50軒と記されています。 半世紀ほどの間に、10倍に増えたことになります。この数は、幕末くらいまでほとんど変わっていません。門前町に賑わいをもたらす「重要産業」に育っていたようです。
高松 仏生山2
仏生山の「にぎわい創出事業」ひとつとして、松平頼重は涅槃会と彼岸会の時に芝居興業を許したようです。
その上演のために「芝居土地」と呼ばれる「除地(空地)」が設定されています この土地は、
①上町に南北四十八間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
②中町に南北百十六間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
との二か所あったようです。どちらもかなり大きなものです。しかし、この敷地全体に芝居小屋が建っていたのではないようです。幕末の弘化二年(1845)の「御用留」(片岡家文書)の中に芝居小屋の平面図があります。そこには「十八間に二十間」と書かれていますから、小屋掛けした舞台のみの面積で、客席は野外という感じだったようです。金毘羅の金丸座が出来る以前の公演方法と同じやり方のようです。
  芝居以外にも見世物興行も行われていたようです。
文政四年(1807)の見世物興行興業の様子については法然寺の「御開帳記録」(『香川県史 近世史料』収載)にも載せられています。そこには、
西横町で薬売り人形廻し、物まね、軽業で、小屋の大きさは五間と六間から十間で七十二間
と記されています。
 芝居小屋が常設的に作られて賑わいを増すのは文化・文政期以後のことのようです。ただ、幕末ころからは、秋祭りなどで檀尻芝居の興業が盛んに行われるようになります。これは、太平洋戦争前まで続いていました。

仏生山8
 仏生山法然寺門前に商店は何軒くらいあったのでしょうか?
 片岡家文書の中から拾い出した史料には、文政十年ころの時点で、
①法然寺に関係した役人の家が28軒
②素麺業者が五〇軒以上、
③薬屋が一軒
④米屋11軒
⑤木綿屋4軒
⑥太物関係四軒
⑦宿屋五軒
⑧筆・墨屋一軒
⑨酒屋一軒
⑩油屋一軒
で合計106軒になるようです。100軒を越える商店が軒を並べる門前町だったのが分かります。そこに何人暮らすんでいたのかは猪熊家文書「御寺領人別改指出帳」の寛政三年(1792)のものには、法然寺領の人口が合計で434人と記されています。
 法然寺門前は、町ですので単婚家族が多いく一家族の平均がだいたい4人と考えると、
人口434人÷世帯人数4人=約百世帯
という数値になります。これは、先ほどの史料に現れた店数にほぼ一致します。ここから200年前の19世紀前後のころの法然寺門前は、人口が400人以上で家屋は百軒程度のまちであったと研究者は考えているようです。
 松平頼重が法然寺を建立したときには、高松に続く新道が作られ、その周囲は野原や田んぼが続いていた所が、四・五軒の素麺業者を誘致することから始まって、百数十年後には百軒を越える町へと発展していたことになります。これは。自然発生的に起きたことではなく、政策として作り出した成果と云えます。

仏生山14
拡大・延長する門前町仏生山
 19世紀前半の天保三年の別所文書には
「檀笠三万花笠吊リ 仏生山町続き百相村之内桜之馬場出作村之内下モ及ブ」
と書かれています。ここからは仏生山の町続きである百相村の桜之馬場と出作村二つ仁生山の門前と同じように、花笠を吊るようになっていると記されます。つまり仏生山と一体化して同じ様な行事を行うようになっているのです。門前町が街道沿いに「点」から「線」と伸びていく様子が分かります。
さらに「附札」の所には、次のように記されています。
龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立之節、百相村之内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町之場所に居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜之馬場同様二仰せ付けられ哉之御模様二而」
意訳すると
①松平頼重が仏生山を建立したときに、百相村の新開地を仏生山に寄付した
②仏生山に居宅を構える者には年貢諸役の免除を行った
③以前はそうではなかったが、いつのまにか仏生山の町続きとして、百相村と出作村が仏生山同様に免除扱いをうけるようになった
 ここには「仏生山=年貢諸役免除」と「免税特区」にされたために、時代と共に周辺地域もそのエリアに入り特権を手に入れていく過程がうかがえます。つまり「周辺エリアの仏生山化」が税制においても起きていたようです。
このプロセスを法然寺の開帳という視点から見てみましょう。
別所家文書「文政六年御用留」の中には、次のようにありますす。
「此の度仏生山御開帳二付き、参詣人多く之れ有るべく候、就中他国よりも参詣人之れ有り、貴賤群集致すべく…」
ここからは他国からの参拝者を含めて、非常に大勢の人が集まってきている事がわかります。研究者は、文政六年(1826)という年に注目します。この年は例年より大きな催し物が前年から年を跨いで進められたようです。そのため金毘羅の方まで案内の立札(高札)が立てられ、大規模に行われたようです。
 高松城下の京浜で町年寄を勤めた鳥屋の「触帳」(難波家文書)の中には
「二万人から三万人の人々が開帳参詣に来るので、火の用心や盗賊などの用心をするように」
といった触れがあったと記されています。
 19世紀前半には、金毘羅大権現や善通寺などでも定期的に「ご開帳」が行われるようになり、何万人もの人々が参拝に訪れるようになります。つまり、寺社は大イヴェントの場になり、そのプロモターの役割も果たすようになるのです。そして、この開帳で集まった寄進の金品が寺社運営の重要財源となっていくのです。そのため、門前町にはイヴェント時だけに使われる空間や建物が準備されるようになります。その代表が小屋掛けの芝居小屋です。これが「イヴェントの恒常化」と共に、金毘羅に金丸座が登場するように、常設小屋へと発展していきます。「讃岐名所図絵」に描かれている仏生山は、そんな賑わいを見せるようになった幕末の姿のようです。
人々は何を求めてご開帳にやってきたのでしょうか
それは「信仰」のためでしょう。しかし、それだけとは、私には思えないのです。確かに法然寺の宝物の公開を許可する条目もあるので、参詣の人々が宝物を拝観し、その霊験にあやかることで病気平癒などを願ったことは間違いありません。
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しかし、元禄時代の「金毘羅祭礼図屏風」の高松街道から参詣に来た人々の流れを見ていると、別のものも見えてきます。
①まず新町の鳥居をくぐり、
②さらにその先の金倉川に架かる鞘橋のたもとで沫浴をして精進潔斎

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③前夜は酒も飲まずに潔斎
④翌朝宿を出発して、仁王門のところからは裸足になって本殿まで登り参拝

そして参拝後は「精進落とし」なのです。宿で大宴会です。花街へ繰り出す人たちもいます。
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内町の背後の金山寺町には歌舞伎や人形浄瑠璃・見世物小屋が小屋を広げています。まさにエンターテイメントのオンパレードです。日頃は、体験できないことが見聞きできるアミューズメント施設でいっぱいです。神聖で禁欲的な参拝だけなら庶民がこれほど金比羅詣でを熱望したとは思えません。参拝後の精進落としを楽しみにやってきた人たちも多かったと私は思います。その意味で、 近世の門前というものは「癒し」の場であったと研究者は考えているようです。
 寺社の神域そのものが浄化の作用の場であり、その中で門前町は宿泊はもちろん、精進潔斎し、さらに「精進落とし」をするという機能を持っていたのです。もっとオーバーな言い方が許されるなら門前町全体で、輪廻転生、再生という循環機能を果たすシステムが出来上がっていたのかもしれません。
 ある意味、現代人が
「四国霊場巡りの後は、道後温泉に入って・・・」
と願うのと同じような行動パターンが形作られていたような気がします。
 こうして「信仰+精進落とし」という願望をかなえることが門前町や寺社に求められるようになります。その充実度を高め参拝客を呼び込むための「産地間競争」が繰り広げられるようになります。その要求に最もうまく応え続けたのが金毘羅さんであったと私は考えています。
参考文献     丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

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