瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:近藤氏

中世の瀬戸内海の海運活動では、為替決済が行われていたことは以前にお話ししました。
古代には、地方の人々は指定された特産物を中央の支配者に直納していました。しかし、中世になるとモノではなく銅銭(カネ)で納入するようになります。地方の人々が産物を販売して得た銅銭を支配者に送付し、支配者の方は入手した銅銭で必要な物を中央で購入するようになったのです。これは、社会的分業と交換が進展していたことを意味します。
 それなら「銅銭建て納入」ということで、瀬戸内海を大量の現金を積んだ船が行き交ったのかというとそうではないようです。これは輸送リスクが大きすぎます。そこで登場するのが「為替」です。商人が地方で銅銭と交換するかたちで放出した為替文書を荘園が購入し、それを領主に送付し、領主が中央で換金するという仕組みが生まれます。それが実際にどのように運用されていたかを今回は見ていくことにします。
『厳島神社蔵反古裏経紙背文書』は、本山寺の本堂が建立された1300年頃の文書で、京都方面と歌島(今の尾道市向島)との間でやりとりされた手紙が中心です。

反古裏文書(紙の裏に書かれた書面)
紙は貴重品だったので、片方だけ使って捨てたりせずに、先に書いた文書を反故(ほご。ひっくり返して無効化)として、裏面に新たな文書を書いて利用していました。反故にされるような内容なればこそ、日常的な生活のリアルな情報が記録されているともいえます。宮島の反故文書には、多くの為替記事があるようです。それを見ておきましょう。中世の為替は、次の2種類に分けられます。

①「原初的替銭のしくみ」
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)
替米

為替取引とは、遠隔地間の貸し借りを決済するのに、現金の輸送ではなく、手形や小切手によって決済する方法のことです。日本で最初の為替取引は、「替米(かえまい)」と言われています。「替米」は、遠隔地に米を送るのに、現物の代わりに送る手形のことです。中世になると為替取引が発展し、鎌倉時代には将軍に仕えた御家人が鎌倉や京都で米や銭を受け取る仕組みとして為替取引が行なわれるようになります。
為替

 この場合、為替をやりとりする者同士には信頼関係があることが前提になります。この信頼関係をもとに、文書が次の人へと手渡されていき、その上で最終的な払出人と文書の持参人の間にも信頼関係がある場合に、払い出しが行われます。しかし、このシステムでは、払出人が為替を持ってきた人を知らない場合には、支払いは行われません。
そこで②「割符」というシステムが登場します。
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

このしくみでは、最終的な払出場面のおいて信頼関係がない(払出人が持参者と面識がない場合)でも払い出しができます。なぜならば、振出人が割符を振り出す際に、「もう1つの紙切れ」との間で割印を施しておき、その「もう1つの紙切れ」の方を振出人自身(あるいはその関係者)が直接払出人に持ち込めば、払出人は割符と片方文書との割印が合致すものを見て、面識のない持参人が持参した割符が本物であることを確信できるからです。この「もう1つの紙切れ」のことを、片方(カタカタ)と呼んだようです。

SWIFT動向(ISO20022)について | 2021/10/27 | MKI (三井情報株式会社)
割符屋の役割と割符発行

この2つの為替システムの併用版が、「明仏かゑせ(為替)に状」(『鎌倉遺文』24368号文書)に次のように登場しています。

ひこ(備後)の国いつミ(泉)の庄よりぬい殿かミとのヽ御うちへまいる御か□せ(為替)にの事
合拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、
さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

意訳変換しておくと
備後国泉の庄のぬい殿からヽ御うちへまいる御か□せにの事
拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

 ここからは現在の広島県庄原市にあった備後泉庄から京都の領主に送金するために、為替つまり替銭が利用されたことが分かります。最後に登場する「明仏」は、備後国の金融業者で京都の荘園領主とは面識はなかったかもしれません。あるいは、面識があったので、荘園領主から現地での年貞の取立をまかされていたのかもしれません。それについては、これだけでは分かりません。
 この文書の背景には、次のようなやりとりがされています。
①荘園の使者(oR領主)は、備後国で明仏に10貫文(銅銭1万枚)を支払う。
②これに対して明仏は、京都綾小路の宿での払い出しを、淀の魚市次郎兵衛尉に委託する文書である「替状」を使者に渡す。
③その後、使者は淀まで行って魚市次郎を訪ね、京都の錦小路での払い出しを受ける。
④そこで使者は、備後での人金分10貫文を京都で入手する。
ちなみに、当時の米1石の値段が大体1貫文だったようです。10貫文は、米10石に相当します。当時の米10石は、平安時代末期の基準で考えれば、今の米6石(米900 kg)で、現在の米価格を10 kg=4000円で計算すると、10貫文は現在の36万円相当になるようです。
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   ただし、今は米の価値が昔に比べて下がってしまいました。当時の米10石は、もう少し当時は値打ちがあったと研究者は考えています。
 もう一度史料を見てみましょう。この時に3貫文分の割符が同時に送られています。これはどうして分けて発行しているのでしょうか。その3貫文分は魚市次郎が割符屋に持ち込んで、片方文書との間で施された割印が、割符の割印と合致すれば、換金が可能です。割符の方はそれでいいのでしょうが、問題は残り10貫文の方です。これは知らない人間には払い出せないというしくみのはずです。魚市次郎は安心して払い出すことができるのでしょうか。それとも、明仏の書いた文書(替状)を持参してきた使者と面識があったのでしょうか。

この問題について、研究者は次のように考えていきます。
①もし面識があるならば、使者の実名が記されていれば十分で、文書の中に備後国云々まで書く必要はない。
②「御うたかい候ましく」とあるのは、逆に疑わしかった証拠。使者が本当に荘園の使者なのかどうか分からなかった。
つまり、魚市次郎と使者には面識がないことになります。にもかかわらず、明仏が払出の依頼をできたのはなぜでしょうか。

この謎を解く手がかりは、替状と割符とが一緒に送られている事実にあると研究者は指摘します。
つまりこの替状は、単独で持ち込まれたのでは本物かどうか分かりません。しかし、魚市次郎のところに同時に持ち込まれた割符が割符屋で木物と判断されて払い出されれば、魚市次郎は割符屋を通じて、割符主が明仏と取り引きをしたかどうかが確認可能になります。たとえその確認ができなくても、魚市次郎は、筆跡からみても自分の知り合いの明仏のものと思えるその文書は、やはり本物だろうという判断がしやすくなります。
 このように明仏は、魚市次郎に見知らぬ使者に対する払い出しを依頼する際に、額面10貫文の割符を調達できない場合でも、当面入手可能な3貫文の割符を入手して替状に添えて送れば、魚市次郎は払い出してくれるはずだと考えたのです。ようするに、この割符は、持参人と払出人との間の信頼関係がないばあいには機能しない「原初的替銭」に対して、その「弱点」を補完するために利用されているということになります。

こうしてみると、1300年代初めには、為替はさらに進化していたことが分かります。
瀬戸内の物流を担う商人たちが活動するなかで、それを支える金融業者が各港に現れ、円滑な資金移動を支える金融ネットワークが形成されていたことになります。為替が瀬戸内海を結ぶ遠隔地交易の発展を促していたとも云えます。
 為替文書が、交易商人によって生み出されます。最初は「疑わしい紙切れ」だったかもしれません。それを瀬戸内の物流活動が「有価文書」に成長させ、さらには紙幣へと発展せしめることになると研究者は考えています。
 1500年以降に割符はいったん消滅するようです。為替の発展と紙幣の登場は直線的ではないようです。しかし、中世の為替システムは、大きな視点で見ると日本金融のスタートとも云えるようです。

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大野祇園神社(三豊市山本町)

最後に讃岐三豊市山本町にあった大野荘で使われていた為替システムを見ておきましょう。

大野庄は、京都祇園宮の社領でした。そのため京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)が産土神と勧進され、毎年本宮の京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。『八坂神社記録』(増補続史料大成)(応安五年(1372)十月廿九日条)には、次のように記します。
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

意訳変換しておくと
讃岐の西大野から伊予房が上洛してきた。今年の年貢は二十貫だという。この内の一貫は讃岐での必要経費、又一貫は上洛にかかる経費で差し引くという。伊予房とともに近藤氏の代官が同道して、割符は運んできた。しかし、今日は近藤氏の役人は所用で来れないので、明日諸事務を行うつもりだと伊予房から報告を受けた。

 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。一行目に「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。
  伊予房という人物が出てきます。この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来て、京都に帰ってきたようです。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、年貢から差し引かれるようです。
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大野祇園神社(須賀神社と八幡神社の2つの社殿が並んでいる)

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」とある近藤という人物が西大野荘の代官です。

近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符(割符:さいふ)」で年貢を持参して一緒に、上洛してきたようです。
ここまでを整理すると、
①荘園領主の八坂神社の 伊予房が、年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符(割符)」で、京都に持参した。
  ここからは、麻の近藤氏が「割符」で八坂神社に年貢を納めていたことが分かります。この割符は、観音寺などの問屋が発行しことが考えられます。その「割符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやったようです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符(割符)」には、次のようなことが書かれていたと研究者は考えています。
①金額 銭20貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
 ちなみに大野荘の代官を務めた近藤氏は、その後押領を繰り返すようになり、荘園領主の八坂神社との関係は途切れていったようです。

参考文献 井上正夫 中世の瀬戸内の為替と物流の発展 瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
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  秋山家文書は、大永7(1527)年から永禄3(1560)年までの約30年間は空白期間で、秋山氏の状況はほとんど分かりません。しかし、この期間に起きたことを推察すると、次のようになります。
①新たに秋山家の統領となった分家の源太郎死後は、一族は求心力を失い、内部抗争に明け暮れたこと
②調停に入った管領細川に「喧嘩両成敗」で領地没収処分を受け、秋山一族の力は弱まったこと。
③そのような中で、秋山氏は天霧城主香川氏への従属を強めていくこと
 秋山氏の「香川氏への従属化=家臣化」を残された秋山文書で見ていくことにします。 テキストは前回に続いて「高瀬町史」と「高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①」です。

  21香川之景感状(折紙)(23・5㎝×45、2㎝)   麻口合戦

1 秋山兵庫助 麻口合戦

 このような形式の文書を包紙と呼ぶそうです。本紙を上から包むもので、さまざまな工夫がされてます。包紙に本紙を入れたあと、上下を持って捻ること(捻封)で、開封されていない状態を示す証拠とされたり、「折封」や「切封」などの方法がありました。包紙に記された「之景感状」とは、当初記されたものではなく、受領者側の方で整理のため後に書き込まれたもののようです。宛人の(香川)「之景」に尊称等が付けられていないので、同時代のものではなく時代を下って書き加えられたものと研究者は考えているようです。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2
  読み下し文に変換します。
今度阿州衆乱入に付いて、
去る十月十一日麻口合戦に於いて
自身手を砕かれ
山路甚五郎討ち捕られる、誠に比類無き働き
神妙に候、傷って、三野郡高瀬
郷の内、御知行分反銭並びに
同郡熊岡・上高野御
料所分内参拾石新恩として
合力申し候、向後に於いて全て
御知行有るべく候、此の外の公物の儀は、
有り様納所有るべく候、在所の
事に於いては、代官として進退有るべく候、
いよいよ忠節御入魂肝要に候、
恐々謹言
(香川)
十一月十五日   之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
 内容を見ていくことにします
まず見ておくのは、いつ、だれが、だれに宛てた文書なのかを見ておきます。年号がありません。発給者は「之景」とあります。当時の天霧城主で香川氏統領の香川之景のようです。受信者は、「秋山兵庫助殿  御陣所」とあります。
1秋山氏の系図4


秋山氏の系図で見てみると、「兵庫助」は昨日紹介した秋山家分家のA 源太郎元泰の嫡男になるようです。父親源太郎の活躍で分家ながらも秋山氏の統領家にのし上がってきたことは、昨日お話しした通りです。父が1511年の櫛梨山の戦いの活躍で、秋山家における位置を不動にしたように、その息子兵庫助良泰も戦功をあげたようです。
 感状とは、合戦の司令官が、委任を受けた権限の範囲で発給するものです。この場合は、秋山兵庫助の司令官(所属長)は香川之景になっています。ここからは秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたことが分かります。
 内容を見ていきましょう
文頭の「今度阿州衆乱入」とは、阿波三好氏の軍勢が讃岐に攻め込んできたことを示しているようです。あるいは、阿波勢の先陣としての東讃の武士団かもしれません。

 「麻口」は、高瀬町の麻のことでしょう。ここには近藤氏の「麻城」がありました。
大西覚用の西讃侵攻の「相棒」となったのが二宮・麻の近藤氏です。

大水上神社 近藤氏系図
麻の近藤氏系図
近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えています。この背景には、永世の錯乱によって、阿波細川家と讃岐細川氏が対立し、阿波勢力が讃岐に侵攻してきたことが背景にあります。その讃岐侵攻の先兵が三好氏でした。三好氏の讃岐侵攻は東讃地方では、十河氏を中心に進められたことは以前にお話ししました。それに対して、西讃については三好氏の侵攻制圧過程が史料からは、なかなかたどれません。そのため、南海通記ばかりを見ていると、西讃は天霧城の香川氏の配下にあったと思えてきます。しかし、長尾氏や奈良氏・羽床氏・滝宮氏なども三好氏に従属していたこと、また香川氏は1573年に天霧城を退城後は、備中で毛利軍の「傭兵部隊」として10年近く活動していたことが分かっています。そして、讃岐国衆の安富氏や中讃の滝宮氏などは、三好氏の重臣と婚姻関係を結び、三好氏の遠征に従軍するようになっていたことは以前にお話ししました。そのような流れの中で、三豊の近藤氏を捉える必要があります。
  三好氏の近藤氏の取り込み策の一つが「近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えた」という婚姻政策でしょう。
そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。国雅の代になると、三好氏との連携強化が進みます。三好氏から見ると西讃制圧が進み、讃岐の国人衆を配下に入れで動員できる体制が整ったといえます。こうして近藤氏は、阿波三好氏に従軍しして動くようになります。これに対して、反三好を旗印とする天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。

 この史料からは長宗我部元親の土佐軍の侵攻の20年ほど前に、阿波の三好軍(実態は三好側の讃岐武士団?)が麻口まで攻め寄せてきたことが分かります。その際に、 秋山兵庫助が山路氏を討ち取る戦功をあげ、それに対して、天霧城の香川之景から出された感状ということになります。「御陣中」とありますので、作戦行動中の兵庫助の陣中に、之景からの使者が持ってきて、その場で渡したものと考えられます。この後に正式な論功行賞が行われるのが普通です。

 後半は「反銭」や「新恩」の論功行賞が記されています。
この戦いで勝利を得たのは、どちらなのかは分かりませんが、両軍の雌雄を決するような大規模の戦いでなかったようです。これは、2年後の天霧城籠城合戦の前哨戦のようです。
 それでは、この麻口の戦いがあったのはいつのことなのでしょうか。
『香川県史』8「古代・中世史料編」では、永禄元(1558)年としています。それは『南海通記』に、この年に阿波の三好実休の攻撃を受けた香川氏が天霧城に籠城したことが記されているからです。これは讃岐中世史においては、大きな事件で、これ以後は香川氏は三好氏に従属し、讃岐全域が三好氏の支配下に置かれたとされてきました。『南海通記』の記述を信じた研究者たちは、この文書を永禄元(1558)年の香川氏の籠城戦を裏付ける史料と考えてきたのです。
 しかし、永禄元年に天霧城籠城戦が行われたとする記述は、『南海通記』にしかありません。しかも同書は、年代にしばしば誤りが見られます。秋山文書の分析からは、この文書の年代は、他の史料の検討や之景の花押の変遷などから、永禄三年のものと研究者は考えているようになってきました。
 また、三好側の総大将の実休が、この時には近畿方面で転戦中で四国にはいなかったことも分かってきました。三好軍の讃岐侵入と香川氏の籠城戦は、永禄元(1558)年ではなかったようです。

論功行賞の内容を見ておきましょう
「三野郡高瀬郷の内、御知行分反銭」の「反銭」とは、はじめは臨時の税でしたが、この時代には恒常的に徴収されていたようで、その徴収権です。「熊岡上高野御料所分内参拾石」の三〇石は、収入高を表し、その内の香川氏の取り分を示しています。この収入高は検地を施行するなど、厳密に決められたものではないようです。
「代官として進退あるべく候」とありますので、熊岡や上高野には、秋山氏の一族が代官として分かれ住んだ可能性があります。先ほども確認しましたが、この文書には日付のみで年号がありません。そんな場合は、両者の間の私的な意味合いが濃いとされます。ここからも天霧城主の香川之景と秋山兵庫助が懇意の間柄であったことがうかがえます。
 ここからは秋山氏が細川氏に代わって、香川氏の臣下として従軍していたことが分かります。逆に、香川氏は国人武士たちを家臣化し、戦国大名への道を歩み始めていたこともうかがえます。
 従来は讃岐に戦国大名は生まれなかったとされてきましたが、香川県史では、香川氏を戦国大名と考えるようになっています。

   次に、永禄4年(1561)の香川之景「知行宛行状」を見てみましょう。   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

書き下し文に変換しておきましょう
今度弓箭に付いて、別して
御辛労の儀候間、三野郡
高瀬郷水田分内原。
樋日、三野掃部助知行
分並びに同分守利名内、
真鍋三郎五郎買徳の田地、
彼の両所本知として、様体
承り候条、合力せしめ候、全く
領知有るべく候、恐々謹言
永禄四
正月十三日
(香川)
之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所

これも先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、これは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高まるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。
  先ほどの麻口の戦いと併せての軍功に対しての次のような論功行賞が行われています。
①高瀬郷大見(現三野町大見)・高瀬郷内知行分反銭と
②熊岡・上高野御料所分の内の三〇石が新恩
③高瀬郷水田分のうち原・樋口にある三野掃部助の知行分
④水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎の買徳地
以上が新恩として兵庫助に与えられています。
 水田名は大永7(1527)年に、幸久丸(兵庫助の幼名?)が阿波の細川氏の書記官・飯尾元運から安堵された土地でした。それが30年の間に、三野掃部助の手に渡っていたことが分かります。つまり、失った所領を兵庫助は、自らの軍功で取り返したということになります。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦う姿が見えてきます。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、視野をもっと広くすると讃岐中世史の定説への疑いも生まれてきます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。
しかし、それは秋山文書を見る限り疑わしくなります。なぜなら見てきたように、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、三好氏に従属したわけではないようです。
 この文書で秋山兵庫助に与えられているのは、かつての三野郡高瀬郷の秋山水田(秋山家本家)が持っていた土地のうちの原・樋口にある三野掃部助の知行分と、同じく水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎買得の田地のニカ所です。
 宛行の理由は「今度弓箭に付いて、別して御辛労の儀」とあるとおり、合戦の恩賞として与えられています。合戦の相手は前年の麻口の戦いに続いて、阿波の三好勢のようです。香川氏の所領の周辺に、三好勢力が現れ小競り合いが続いていたことがうかがえます。三好軍が丸亀平野に侵入し、善通寺に本陣を構え、天霧城を取り囲んだというのは、これ以後のことになるようです。
それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。
永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
『香川県史』では、この文書について次のように記します。
「籠城戦が『南海通記』の記述の訂正を求めるものなのか、またその後西讃岐において別の合戦があったのか讃岐戦国史に新たな問題を提起した」

 この永禄6年の天霧龍城こそ『南海通記』に記述された実休の讃岐侵攻だと、研究者は考えているようです。
 この当時、香川氏の対戦相手は、前年に三好実体が死去していることから、三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢になります。善通寺に陣取った三好軍に対して、香川氏が天霧城に籠城するようです。従来の説よりも5年後に、天霧城籠城戦は下げられることになりそうです。
 永禄8(1565)年には、秋山家は兵庫助から藤五郎へと代替わりをしています。
天霧寵城戦で、兵庫助か戦死して藤五郎に家督が継承されたことも考えられます。その後、天正5(1577)年まで秋山文書には空白の期間がります。この間の秋山氏・香川氏の動向は分かりません。最近の研究からは、この時期の香川氏は毛利氏を頼って安芸に亡命中だったと研究者は考えています。香川氏の去った後に、三好氏の重臣・篠原氏の発給文書が西讃でふえることがそれを裏付けます。香川氏が毛利氏の支援を受けて天霧城に帰還するのは、元吉合戦のあった年になります。この時期の瀬戸内海の諸勢力は、織田政権と石山本願寺・毛利氏との抗争を軸に、どちらの勢力につくのかの決断を求められた時代でした。
以上をまとめておくと次のようになります
秋山氏は鎌倉末期には足利尊氏、南北期には細川氏と勝ち馬に乗ることによって勢力を拡大してきました。しかし、16世紀初頭の細川氏の内部抗争に巻き込まれ、秋山一族も一族間で相争うことになり、勢力を削られていきます。そして、16世紀後半になると戦国大名に成長脱皮していく天霧城主・香川氏に仕えるようになっていきます。そして、失った旧領復活と生き残りをかけて、必死の活動を戦場で見せる姿が秋山文書には残されていました。
 同時に秋山文書からは、阿波三好氏の西讃進攻や支配が従来よりも遅い時期であること、さらに香川氏を完全に服従したとは云えず、西讃地方までも支配下に治めたとは云えないことが分かってきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
高瀬町史
高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①

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