瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:道慈

虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか?

麻生祇 燐 の オカルトコレクション: 虚空蔵求聞持法
空海が出家するきっかけとなった虚空蔵求聞持法の継承ラインが
「道慈→善儀→勤操→空海→勤操
であるという大和岩雄「秦氏の研究」を前回は見てきました。
虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか? 素人ながらその闇の中に分け入って「迷子」になってみようと思います。

まずは、虚空蔵求聞持法をインドから請来した善無畏三蔵

善無畏三蔵図 - 埼玉県飯能市 真言宗智山派 円泉寺
(インド名、シュバカラシンバ)について見てみましょう。
『宋高僧伝(巻二)』によれば、
三蔵はインドですでに虚空蔵求聞持法など密教の奥義を極めており、中インドに大旱のあったとき、請われて祈雨によって雨をふらせています。また、金を鍛えて貝葉のようにして大般若経を書写し、銀を型に入れて鎔して卒塔婆を仏身と同じ量に作り、寺で銅を鋳て塔を建てた、
とあります。
  「祈雨によって雨をふらせ」という雨乞い祈雨は、後の空海にもつながっていくものです。 「銀を型に入れて鎔して」からは、冶金・鍛冶術を身につけていたことが分かります。   

虚空蔵求聞持法には具体的に、次のような「技術」が書かれています。

「牛蘇一両を取りて執銅の器の中に盛り貯え、並に乳ある樹葉七枚及び枝一条を取りて壇の辺に軋どけ、華香等の物、常の数に加えて倍せよ。供養の法は前に同じ。供養し我ごて前の樹葉を取り、重ねて壇の中に布の上に置いた葉の上に於て酪器を安置せよ。手印を作りて陀羅尼三遍を誦して此の酪を護持せよ。また樹の枝を以て酪をまぜて其の手を停むる刎れ。目に日月を観ご兼ねてはまた酪を看よ。陀羅尼を誦して遍数を限ることなし。初めて蝕するより後に退して未だ円たざる已来に、其の酪に即ち三種の相現ずることあらん。一には気、二には煙、三にはに喰り。此の下中上の三品の相の中に、隨いて一種を得ば、法即ち成就す。この相を得已りぬれば便ち神薬と成る。
酪は蘇とも書き、牛または羊の乳を煮つめて作ったもので、牛酪は一斗の牛乳で一升できるといいます。この求聞持法の工程は、漆塗りの工程に似たところがあるようです。 

前回も記したように、虚空蔵求聞持法をはじめて列島に伝来したと伝えられる道慈は、

渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身で、大和郡山市額田部寺町にある額安寺は額田氏の氏寺です。この寺は道慈が自ら彫刻した虚空蔵仏を本尊とします。求聞持法の「神薬」製法には、額田氏のもつある技術と重なるものがあったといいます。それが道慈が虚空蔵求聞持法に興味をもった理由かもしれません。それは何でしょうか?

 虚空蔵求聞持法の伝授は、経文に書かれていることだけなら経文を読めばいいのですが、経文に秘められた奥義は、師からの口承による伝授でした。

 道慈の一族は、鍛冶・鋳物集団の「工巧」で、その職業的な原点が師のインド僧善無量から求聞持法を学んだ動機だったとも考えられます。
 とすれば、豊前「秦王国」の秦氏系辛島勝の本拠地に建てられた九州最古の寺が虚空蔵寺であることと、香春岳の銅や八幡信仰の鍛冶翁伝承は、無関係とはいえません。虚空蔵信仰は、鍛冶鋳造にかかわる人と結びつく要素が強かったようです。 

宇佐八幡の神宮寺であった虚空蔵寺の座主は、弥勒寺の座主になった法蓮です。

法蓮は、医術に長じていて虚空蔵求聞持法の「神薬」製法をマスターしていたようです。この「神薬」の効用を虚空蔵求聞持法は、
「若し此の薬を食すれば即ち聞持を獲て、一たび耳目に経るるに文義倶に解す。之を心に記して永く遺忘することなし。」
と記し、知恵増進は、記憶力の増進・強化で、更に
「諸余の福利は無量無辺なり」と、福徳を述べ「始めてより却退し円満するに至るまでの已来に、三相若し無くんば法成就せず。徹更に初めより猷め而も作すべし」
と記します。
三相(気・煙・火の三品の相)が成就しなかったら、はじめからやり直せというのです。そして、七遍すれば
「極重の罪障あれども、亦みな鎔滅して法定んで成就す」
と述べ、罪障消滅の功徳も記しています。知恵増進と福徳は「神薬」を飲んだ結果ですが、飲まなくても、この法を「七遍」もくりかえしおこなえば、罪障消滅はできるというのです。
  もちろん、この牛酪の呪法は、その前に陀羅尼を百万辺誦習するという難行が前提です。 
嵐山の法輪寺を開山した空海の弟子道昌が、虚空蔵求聞持法を百ヶ日修したのは、百万辺の誦習のためです。
しかしその後、虚空蔵像を刻んだのは、神薬を作る法の代りでもありました。 

虚空蔵信仰が自力による知恵増進・福徳・災害消除なのに対し、弥勒信仰は弥勒の上生・下生を待つ他力の信仰です。

これをミックスしたのが空海の密教とも言えます。
 空海の最初の著書である『三教指帰』は、仏教を代表する仮名乞児の口を借りて、
「滋悲の聖帝(釈迦)が滅するときに印璽を慈尊に授け、将来、弥勒菩薩が成道すべきことを衆生に知らせた。それゆえ私は、旅仕度をして、昼も夜も都史の宮(兜率天)への道をいそいでいる」
といわせ『性霊集(巻八)』も弥勒の功徳を述べています。
 また、空海が弟子たちに自分の死後のことをさとした『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には、
「私は、眼を閉じたのち、かならず兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前で待ち、五十六億余年ののちには、かならず慈尊とともに下生して、弥勒に奉仕し、私の旧跡をたずねよう」
とあります。
 平岡定海は、「平安時代における弥勒浄土思想の展開」で、
「秦王国の彦山が、弥勒の浄土の兜率天とみられていたように、空海も高野山を兜率天に往生する山と見立てていた。したがって、後に、高野山は、兜率天の内院に擬せられたり、空海は生身のまま高野山に入定し、弥勒の下生を待っている、という信仰も生まれた」
と記します。

「聖徳太子の太子信仰」が「弘法大師の大師信仰」とスライドしていくのは

その根っこに弥勒信仰があったからのようです。太子・大師・弥勒信仰に秦氏がかかわっていることからして、これらの信仰を流布した秦氏が、タイシとダイシの信仰を習合させたと推察します。
 宮田登は、
聖徳太子を祀るタイシ講は、大工・左官・屋根屋・鍛冶屋・桶屋・樵夫・柚などの職業集団で祀られていることは、よく知られる民俗である。しかし何故、彼らだけが太子を祀るのかというと十分に説明はできていない。大工が古く寺大工から派生したものだとすると、代表的寺院であった法隆寺などの関係からそれが説かれたことも想像されるがはっきりしない。
木樵たちの場合、山の神の子を太子として信仰していたことから太子が聖徳太子と成り得たとするがこれも確証はない。ただ聖徳太子の宗派性を問題とすると、真宗・天台宗がこれに大いに関係してくることは指摘できる」
と書きます。
 タイシ講の職業集団は、秦氏が深く関与している職業です。
法隆寺の聖徳太子の寵臣は、『日本書紀』によれば秦河勝で、真言・天台宗の開祖も秦氏の信仰と結びついていることからみても、キーワードは秦氏であり、秦王国なのかもしれません。
 特に、太子信仰は虚空蔵信仰と同じ職人の信仰です。もともとは虚空蔵菩薩は、もともとは鉱山関係者の信仰する仏だったようです。そして太子信仰も、鉱山関係の人々の間に多いようです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵
 これらの源流は、がっての秦王国にあったもので、秦王国の豊国奇巫・豊国法師の伝統を受け継いだものであり、秦王国の信仰が、空海に継承されたともいえます。

大和岩雄は「秦氏の研究」で
「この法を弥勒信仰と結びつけて勤操が説いたのを、十八歳の空海が聞いて、出家の決意をしたのだろう。」
と推察します。
 やはり危惧していたように虚空蔵求聞持法をめぐる迷路の中で、迷子になったようです。
しかし、秦氏 秦王国 職能集団 弥勒仏 虚空蔵求聞持法のつながりがかすかに見えてきたように思えます。

空海に虚空蔵求聞持法を伝えたのはだれか?

虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...
空海の若い時代については分からないことが多いのですが、「大学」をドロップアウトして沙門として山岳修行に入っていくのも一つの謎です。真魚(空海)は、「大学」で学ぶために長岡京に出て、そこで「一沙門=僧侶」に出会い虚空蔵求聞持法を学んだと云われます。空海が虚空蔵求聞持法を学んだ師である「一沙門」とは誰なのでしょうか?

これについては2つの考え方があるようです。

『続日本後紀』や『三教指帰』などには「一沙門」としか書かれていないので具体的な人名は分からないというのが「定説」のようです。

虚空蔵求聞持法
これに対して具体的な空海の師の名前を挙げる研究者もいます。

例えば平野邦雄氏は、次のように云います
「勤操を師としたという『御遺告』の説は『続日本後紀』や『三教指帰』などには、一沙門としかないので、信用できないという人もいるが、道慈-勤操-空海という師承関係はみとめてよいのではないかと思う」
空海の師とされる「道慈-勤操」とは、何者なのでしょうか?
大岩岩雄は大著「秦氏の研究」で、渡来系秦氏の果たした役割を体系的に明らかにして行く中で、空海と秦氏の関係にも光を当ていきます。空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかを見ていくことにしましょう。 

まず虚空蔵求聞持法が、いつだれによって伝来したかです。

それが道慈だとされます。彼は大宝二年(七〇二)に入唐し、養老二年(七一八)に帰国しています。入唐中にインドの僧善無量三蔵から虚空蔵求聞持法を伝授されます。道慈は渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身です。大和郡山市額田部寺町にある額田寺は、額田氏の氏寺で境内から飛鳥時代の古瓦が出土しています。この寺には道慈が自ら彫刻して本尊にしたとされる奈良時代の乾漆虚空蔵菩薩半珈像(重要文化財)あります。
日本最古の虚空蔵菩薩像のお寺『額安寺』@大和郡山市 (by 奈良に住ん ...
 
この寺に伝わる鎌倉時代の「大塔供養願文」にも、道慈が帰国後に虚空蔵菩薩を本尊にして、額田寺を額安寺に改めたとあります。寺宝の道慈律師画像には「額安寺住職一世」と書かれています。虚空蔵菩薩像を本尊にすることによって、額田寺は額田氏の氏寺から脱皮し、寺号も額安寺となります。 

 道慈については

『続日本紀』の天平十六年十月二日条に、彼が「大安寺を平城に遷し造る」と書き、『懐風藻』の道慈伝も「京師に出で大安寺を造る」とあるように、大安寺を平城京に移築した僧でもあり、山岳密教的傾向が強かった僧侶です。
 南都七大寺 大安寺 | そうだった、京都に行こう(京都写真集)

 山城の秦氏の山岳信仰の山に愛宕権現を祀って、秦氏の愛宕山信仰を発展させたのも大安寺の僧です。
虚空蔵菩薩信仰の成立については、次のような説もあります。


また、貞観二年(八六〇)に宇佐八幡神の分霊を、山城の石清水に遷座したのも、大安寺の山岳密教系の僧です。このように、道慈の虚空蔵求聞持法と道慈が平城京に建てた大安寺は、秦氏と深くかかわっていたようです。道慈は、天平十六年(七四四)に亡くなっています。

勤操は、天平勝宝六年(七五四)に生まれていますから、

この二人の間に直接の師弟関係はありません。二人の間を結ぶのは、道慈・勤操と同じ大安寺の僧、善議(七二九~八二一)です。善議は道慈と一緒に入唐しています。この善議から勤操は、虚空蔵求聞持法を学んでいるようです。
 先ほど紹介した奈良時代に作られた額安寺の虚空蔵像の『造像銘記』には
「この虚空蔵菩薩像は、道慈が本尊としていたもので、入唐求法のとき、善無畏三蔵から虚空蔵求聞持法が伝えられ、帰国後に求聞持法を善議に授け、それは、護命ー勤操ー弘法大師によって流通された」
と記してあり、善議と勤操の間に護命が入っていることを記しています。
 護命は天平勝宝二年(七五〇)生まれで、勤操より四歳年上で虚空蔵求聞持法を、吉野の比蘇寺で学んでいます。
 『今昔物語』巻十一の九の弘法大師の話には、
十八歳のとき大安寺の勤操僧正に会って、虚空蔵求聞持法を学び、延暦十二年に勤操僧正によって和泉国横尾山寺で受戒し、出家した
と書かれています。
南都大安寺 - 勤操忌 勤操忌厳修しました。 勤操大徳は大安寺初代別当 ...

これに対しては、先ほど述べたように『三教指帰』に「一沙門」とあるので、勤操から空海が虚空蔵求聞持法を学んだという文献を認めない人が多いようです。私が今までに読んだ文献も、この立場にたつ書物が多かったように思います。この立場の人たちは、空海の受戒が槇尾山寺で勤操によつておこなわれたという文献も認めません。空海の受戒や師については「ダーク」なままにしておこうとする雰囲気があるように私には思えます。
 仁王門 - 和泉市、槇尾山施福寺の写真 - トリップアドバイザー

空海は唐から帰国後一年か二年余、九州にいて高尾山寺に入るまで槇尾山寺にいました。

唐に渡る以前に空海がこの寺で受戒を受けたという伝承を頭に入れると、この事情はすんなりと理解できます。この辺りの「状況証拠」を積み上げて「勤操は空海の師」説を大和岩雄氏は補強していきます。そして次のように続けます。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」
「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」
 空海が帰国後、槙尾山寺-高尾山寺にいるのは、秦氏出身の勤操の存在が大きいと指摘します。 

空海から虚空蔵求聞持法を伝授されたのが讃岐の秦氏出身の道昌です。
法輪寺道昌遺業 大堰阯」の石碑(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 ...

彼は、天長五年(八二八)に神護寺(高尾山寺)で、空海によって両部濯頂を受け、その8年後には、太秦の広隆寺の別当となり、後には「広隆寺中興の祖」と呼ばれるようになります。広隆寺は山城秦氏の氏寺で、新羅から送られたといわれる国宝第一号の弥勒菩薩で有名です。また、道昌は秦氏が祀る松尾大社のある松尾山北麓の法輪寺の開
山祖師
でもあります。

道昌が葛井寺を修営し規模を拡張し、寺号を法輪寺に改めました。『源平盛衰記』著四十の伝承では、この寺は天平年中(七二九~七四九)に建立後、約百年後に道昌が、師空海の教示によりここで、百か日の虚空蔵法を行い、五月に生身の虚空蔵菩薩を体感し、一本木で虚空蔵菩薩を安置し、法号を法輪寺として、神護寺で空海自らこの像を供養したといいます。そして、一重宝塔を建て虚空蔵菩隣像を安置し、春秋2期、法会を設けて、虚空蔵十輪経を転読したとあります。
 道昌は参寵の前年に、空海から両部濯頂を受けていますが、この時に虚空蔵求聞持法を伝授され、百ヶ日の修行に入ったようです。大和の斑鳩の法輪寺には、かつて金堂に安置されていた飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像(国宝)があります。この寺は聖徳太子の追善のため建てられた寺で「虚空蔵菩薩像のある寺=法輪寺」から、葛井寺も法輪寺に改めたようです。

以上のように虚空蔵求聞持法の継承ラインは、道慈→善儀→勤操→空海→道昌と続きます。その特徴としては

①すべて大安寺の僧であること、
②そのトップである大安寺の道慈が密教的傾向が強く、その系譜が受け継がれていること
③同時に渡来系秦氏がおおきな役割を果たしていること
最後に虚空蔵菩薩信仰の成立については、渡来集団の秦氏の星座信仰(妙見信仰)が基礎になって成立したという次のような説もあります。
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

この方が私にはすんなりと受け止められます。

 どちらにしても若き空海がエリートコースである「大学」をドロップアウトしたのは、虚空蔵求聞持法との出会いでした。それを介した人物がいたはずです。それが誰だったのか。また、その人達の属する集団はどうであったのかを知る上で、この本は私にとっては非常に参考になりました。
虚空蔵求聞持法 - 破戒僧クライマーの山歩録
参考文献 大和岩雄「秦氏の研究」大和書房

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