瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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以前に空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかについて、探ったことがあります。それは、若き日の空海の師は誰であったのかにもつながる問題になります。この問題に積極的に答えようとしているが大岩岩雄の「秦氏の研究」でした。その続編を、図書館で見つけましたので、これをテキストに空海と秦氏の関係を再度追ってみたいと思います。
秦氏と空海の間には、どんな関係があったのでしょうか。
本城清一氏は「密教山相」で、次のように述べています。(要約)
①空海は宝亀五年(774年)讃岐で出生し、母の阿刀氏(阿刀は安都、安刀とも書く)は新羅から渡来の安刀奈末(あとなま)の流れをくむ氏族で、学者や僧侶、書紀などを数多く輩出した。
②空海は、母の兄の阿刀大足より少青年期に論書考経詩文を学んだ
③空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
④泰氏の政治、経済、開発殖産、宗教等の実力基盤は、治水灌漑等の土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
⑤その中には多くの鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
⑥空海の生涯の宗教指導理念は一般民衆の精神的な救済とともに、物質的充足感の両面の具現にあった。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏への依存意識も空海の中にはあった。
⑦空海は、秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑧空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内に存在し、(中略)空海の平安京での真吾密教の根本道場である東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神である)。これも秦氏を意識している。
⑨空海は讃岐満濃池等も改修しているが、これも秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑩空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。秦氏族の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)があり、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑪平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が八名もある。
⑫讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した氏寺である。
⑬金倉寺には泰氏一族が建立した神羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係は深い。

秦氏と空海

ここからは、空海の生きた時代に讃岐においては、高松市一宮を中心に秦氏の勢力分布が広がっていたこと。それは、秦氏ネットワークで全国各地ににつながっていたことが分かります。讃岐の秦氏の背後には、全国の秦氏の存在があったことを、まずは確認しておきます。

秦氏の氏神とされる田村神社について以前にも紹介しましたが、もう一度別の視点で見ておきましょう。
渡辺寛氏は『式内社調査報告。第二十三巻』所収の「田村神社」で、歴代の神職について次のように記します。

近世~明治維新まで『田村氏』が社家として神主職にあったことは諸史料にみえる。……田村氏は、古代以来当地、讃岐国香川郡に勢力を持った『秦氏』の流れであると意識していたことは、近世期の史料で認めることができる。当地の秦氏は、平安時代において、『秦公直宗』とその弟の『直本』が、讃岐国から左京六条に本居を改め(『日本三代実録」元曜元年〈八七七〉十二月廿五日条)、さらにその六年後、直宗・直本をはじめ同族十九人に『惟宗朝臣』を賜った(同、元慶七年十二月廿五日条)。
 彼らは明法博士として当代を代表する明法道の権威であったことは史上著名であり他言を要しない。……当社の社家がこれら惟宗氏のもとの本貫地の同族であるらしいことはまことに興味深い。当社が、讃岐一宮となるのも、かかる由緒によるものであろうか」

この時代の秦氏関係の事項を年表から抜き出してみると
877 12・25 香川郡人公直宗・直本兄弟の本貫を左京へ移す
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
883 12・25 左京人公直宗・直本兄弟ら,秦公・秦忌寸一族19人,惟宗朝臣の姓を与えられる
 泰直本から姓を変えた惟宗(これむね)直本は、後に主計頭・明法博士となり、『令集解』三十巻を著します。当時の地方豪族は、官位を挙げて中央に本願を移し、中央貴族化していくのが夢でした。それは空海の佐伯直氏や、円珍の稲城氏の目指した道でもあったことは以前にお話ししました。その中で、讃岐秦氏はその出世頭の筆頭にあったようです。
古代讃岐の豪族3 讃岐秦氏と田村神社について : 瀬戸の島から
讃岐国香川郡に居住の秦の民と治水工事             
『三代実録』貞観八年(866)十月二十五日条には、讃岐国香川郡の百姓の妻、秦浄子が国司の判決に服せず太政官に上訴し、国司の判決が覆されたとあります。その8年後に同じ香川郡の秦公直宗・直本は讃岐から上京し、7年後に「惟宗」の姓を賜り、後に一人は明法博士になっています。秦浄子が国司の判決を不服とし、朝廷に訴えて勝ったのは、秦直宗・直本らの助力があったと研究者は考えているようです。
 この後に元慶6(886年)に讃岐国司としてやってきた藤原保則は讃岐のことを次のように記しています。
  「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」
  「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」
 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多く、かえってやりづらい。こちらがやり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多いというのですが、その中心には讃岐秦氏の存在がうかがえます。
 このような讃岐の秦氏のひとつの象徴が、都で活躍した秦氏出身の明法博士だったとしておきましょう。

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渡辺氏は、田村神社について次のようにも述べます。

 当社の鎮座地は、もともと香東川の川淵で、近辺には豊富な湧き水を得る出水が多い。当社の社殿は、その淵の上に建てられている。(中略)
 このことは、当社の由緒を考える上できわめて重要である。現在、田村神社の建物配置は、本殿の奥にさらに『奥殿』と称せられる殿舎が続き、御神座はこの奥殿内部の一段低いところにある。そしてその床下に深淵があり、厚い板をもってこれを蔽っている。奥殿内部は盛夏といえども冷気が満ちており、宮司といえども、決してその淵の内部を窺い見ることはしないという
(池田武夫宮司談)」

この神社は、創祀のときから秦氏や泰の民が祭祀してきたようです。
『続日本紀』神護景雲三年(769)十月十日条に、讃岐国香川郡の秦勝倉下ら五十二人が「秦原公」を賜ったとあります。現在の宮司田村家に伝わる系譜は、この秦勝倉下を始祖として、その子孫の晴道が田村姓を名乗ったと記すようです。秦勝倉下を祖とするのは公式文書にその名前があるからで、それ以前から秦の民は出水の周辺の新田開発を行ってきたのでしょう。その水源が田村神社となったと研究者は考えているようです。
2 讃岐秦氏1

「日本歴史地名大系38」の『香川県の地名』は、「香川郡」と秦氏を次のように記します
奈良時代の当郡について注目されることは、漢人と並ぶ有力な渡来系氏族である秦人の存在であろう。平城宮跡や長岡京跡から出土した木簡に、『中満里秦広島』『原里秦公□身』『尺田秦山道』などの名がみえ、また前掲知識優婆塞貢進文にも幡羅里の戸主『秦人部長円』の名がみえる。しかも「続日本紀』神護景雲三年(七六九)一〇月一〇日条によれば、香川郡人の秦勝倉下など五二人が秦原公の姓を賜っている。この氏族集団の中心地は泰勝倉下らが秦原公の姓を賜つていることかるみて、秦里が原里になったと考えられる。
 「三代実録』貞観一七年(875)11月9日条にみえる弘法大師十大弟子の一人と称される当郡出身の道昌(俗姓秦氏)や、元慶元年(877)12月25日条にみえる、香川郡人で左京に移貫された左少史秦公直宗・弾正少忠直本兄弟などは、これら秦人の子孫であろう」
ここからは次のような事が分かります。
①香川郡は渡来系秦人によって開かれた所で「秦里 → 原里」に転じている
②秦氏出身の僧侶が弘法大師十大弟子の一人となっている。
③香川郡から左京に本願を移動した秦の民たちもいた。
2 讃岐秦氏3
「和名抄」の讃岐国三木郡(現在の三木郡)にも、香川郡の秦人の本拠地と同じ、「幡羅(はら)郷」があり、木田部牟礼町原がその遺称地です。近くに池辺(いけのへ)郷があります。『香川県の地名』は「平城宮跡出土木簡に「池辺秦□口」とあり、郷内に渡来系氏族の秦氏が居住していたことを推測させる」と記します。
 以上の記述からも香川郡の幡羅郷と同じ秦の民の本拠地であつたことは、「幡(はた)」表記が「秦(はた)」を意味することからすれば納得がいきます。
白羽神社 | kagawa1000seeのブログ
牟礼町の白羽八幡神社

そして気がつくのは、この地域には「八幡神社」が多いことです。

八幡神社は、豊前宇佐八幡神社がルーツで、秦氏・秦の民の氏寺です。牟礼町には幡羅八幡神社・白羽八幡神社があり、隣町の庵治町には桜八幡神社があります。平安時代に白羽八幡神社周辺が、石清水八幡宮領になつたからのようですが、八幡宮領になつたのは八幡宮が秦の民の氏寺だったからだと研究者は考えているようです。現在は白羽神社と呼ばれていますが、この神社の若宮は松尾神社です。松尾神社は、山城国の太秦周辺の秦の民の氏寺です。松尾神社が若宮として祀られているのは、白羽神社が秦の民の祀る神社であったことを示していると研究者は考えているようです。ちなみに地元では若宮松尾大明神と呼ばれているようです。

讃岐秦氏出身の空海の弟子道昌(どうしょう)  
空海の高弟で讃岐出身の道昌は、秦氏出自らしい伝承を伝えています。「国史大辞典10」には、次のように記されています。
道昌 七九八~八七五
平安時代前期の僧侶。讃岐国香河郡の人。俗姓は秦氏。延暦十七年(七九八)生まれる。元興寺の明澄に師事して三輪を学ぶ。弘仁七年(八一六)年分試に及第、得度。同九年東大寺戒壇院にて受戒。諸宗を兼学し、天長五年(八三八)空海に従って灌頂を受け、嵯峨葛井寺で求聞持法を修した。天長七年以降、宮中での仏名会の導師をつとめ、貞観元年(八五九)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、貞観元年(859)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、興福寺維摩会の講師、大極殿御斉会、薬師寺最勝会などの講師にもなつている。貞観六年に権律師、同十六年に少僧都。生涯に「法華経」を講じること570座、承和年中(834~48)には、大井河の堰を修復し、行基の再来と称された。貞観17年2月9日、隆城寺別院にて遷化。
年七十八。

 ここで注目したいのは「大井河の堰を修復し、行基の再来と称された」という部分です。「讃岐香川郡志』も、次のように記します。

葛野の大堰は秦氏に関係があるが(秦氏本系帳)道昌が秦氏出身である所から、此の治水の指揮に与ったのであろう」

さらに『秦氏本系帳』は、詳しくこの治水工事は泰氏の功績であると記します。
葛野大井 No6
葛野の大堰

大井河は大堰川とも書かれ、京都の保津川の下流、北岸の嵯峨。南岸の松尾の間を流れる川です。嵐山の麓の渡月橋の付近と云った方が分かりやすいようです。今はこの川は桂川と呼ばれていますが、かつては、桂あたりから下流を桂川と呼んだようです。
なぜ、ここに大きな堰を作ったのかというと、葛野川の水を洛西の方に流す用水路を作って、田畑を開拓したのです。古代の堰は貯水ダムとして働きました。堰で水をせき止めて貯水し、流れとは別の水路を設けることによって水量を調節し、たびたび起こった洪水を防ぐとともに農業用水を確保することができたようです。これにより嵯峨野や桂川右岸が開拓されることになります。

大井神社 - 京都市/京都府 | Omairi(おまいり)
大井神社(嵯峨天龍寺北造路町)
この近くに大井神社があり、別名堰(い)神社ともいわれています。
 秦氏らが大堰をつくって、この地域を開拓した時に、治水の神として祀ったとされます。秦氏の指導で行われた治水工事の技術は、洪水防御と水田灌漑に利用されたのでしょう。それを指導した道昌は「行基の再来」と云われていますので、単なる僧侶ではなかったようです。彼は泰氏出身で治水土木工事の指導監督のできる僧であったことがうかがえます。ここからも秦氏の先進技術保持集団の一端が見えてきます。
讃岐に泰氏・秦の民が数多く居住していたのはどうしてでしょうか。
それは、讃岐の地が雨不足で農業用の水が不足する土地で、そのための水確保め治水工事や、河川の水利用のため、他国以上に治水の土木工事が必要だったからと研究者は考えているようです。そのため秦の民がもつ土木技術が求められ、結果として多くの秦の民が讃岐に多く見られるとしておきましょう。
 道昌の師の空海は、讃岐の秦氏や師の秦氏出身の勤操らの影響で土木工事の指導が出来たのかもしれません。
満濃池 古代築造想定復元図2

 空海は満濃池改築に関わっていることが『今昔物語集』(巻第二十一)、『日本紀略』、『弘法大師行状記』などには記されます。『日本紀略』(弘仁十二年〈八三一〉五月二十七日条)には、官許を得た空海は金倉川を堰止めて大池を作るため、池の堤防を扇形に築いて水圧を減じ、岩盤を掘下げて打樋を設けるよう指示したと記します。この工事には讃岐の秦氏・秦の民の土木技術・労働力があったと研究者は考えているようです。

技能集団としての秦氏

山尾十久は「古代豪族秦氏の足跡」の中で、次のように述べます。
・各地の秦氏に共通する特徴として、卓越した土木技術による大規模な治水灌漑施設の工事、それによる水田の開拓がある。
・『葛野大堰』・『大辟(おおさけ)』(大溝)と呼ばれる嵯峨野・梅津・太秦地域の大開拓をおこなった。この大工事はその後何回も修理されており、承和三年(836)頃の秦氏の道昌の事蹟もその一環である
最澄と空海 弥勒信仰を中心にして | 硯水亭歳時記 Ⅱ

 空海が身につけていた土木技術や組織力について、空海伝説は「唐で学んだ」とします。しかしそれは、讃岐の秦氏から技術指導を受けたと考える方が現実味があるような気がします。さらに空海の母は阿刀氏です。空海の外戚・阿刀氏は、新羅からの渡来氏族だとされますが秦氏も新羅出身とされます。それは、伽耶が新羅に合併されたからです。阿刀氏も秦氏も同じ伽耶系渡来人で、近い関係にあったと研究者は考えているようです。

  以上をまとめておきます。
①現在の高松市一宮周辺は、渡来系の秦の民によって開かれ、その水源に田村神社は創始された。②讃岐秦氏は土木技術だけでなく、僧侶や法律家などにもすぐれた人物を輩出した。
③空海の十代弟子にあたる道昌も讃岐秦氏の出身で、山城の大井河の堰を修復にも関与した
④空海の満濃池修復などの土木事業は、秦氏との交流の中から学んだものではないか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究
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空海の若い時代については分からないことが多いのですが、「大学」をドロップアウトして沙門として山岳修行に入っていくのも一つの謎です。真魚(空海)は、「大学」で学ぶために長岡京に出て、そこで「一沙門=僧侶」に出会い虚空蔵求聞持法を学んだと云われます。空海が虚空蔵求聞持法を学んだ師である「一沙門」とは誰なのでしょうか?

これについては2つの考え方があるようです。

『続日本後紀』や『三教指帰』などには「一沙門」としか書かれていないので具体的な人名は分からないというのが「定説」のようです。

虚空蔵求聞持法
これに対して具体的な空海の師の名前を挙げる研究者もいます。

例えば平野邦雄氏は、次のように云います
「勤操を師としたという『御遺告』の説は『続日本後紀』や『三教指帰』などには、一沙門としかないので、信用できないという人もいるが、道慈-勤操-空海という師承関係はみとめてよいのではないかと思う」
空海の師とされる「道慈-勤操」とは、何者なのでしょうか?
大岩岩雄は大著「秦氏の研究」で、渡来系秦氏の果たした役割を体系的に明らかにして行く中で、空海と秦氏の関係にも光を当ていきます。空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかを見ていくことにしましょう。 

まず虚空蔵求聞持法が、いつだれによって伝来したかです。

それが道慈だとされます。彼は大宝二年(七〇二)に入唐し、養老二年(七一八)に帰国しています。入唐中にインドの僧善無量三蔵から虚空蔵求聞持法を伝授されます。道慈は渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身です。大和郡山市額田部寺町にある額田寺は、額田氏の氏寺で境内から飛鳥時代の古瓦が出土しています。この寺には道慈が自ら彫刻して本尊にしたとされる奈良時代の乾漆虚空蔵菩薩半珈像(重要文化財)あります。
日本最古の虚空蔵菩薩像のお寺『額安寺』@大和郡山市 (by 奈良に住ん ...
 
この寺に伝わる鎌倉時代の「大塔供養願文」にも、道慈が帰国後に虚空蔵菩薩を本尊にして、額田寺を額安寺に改めたとあります。寺宝の道慈律師画像には「額安寺住職一世」と書かれています。虚空蔵菩薩像を本尊にすることによって、額田寺は額田氏の氏寺から脱皮し、寺号も額安寺となります。 

 道慈については

『続日本紀』の天平十六年十月二日条に、彼が「大安寺を平城に遷し造る」と書き、『懐風藻』の道慈伝も「京師に出で大安寺を造る」とあるように、大安寺を平城京に移築した僧でもあり、山岳密教的傾向が強かった僧侶です。
 南都七大寺 大安寺 | そうだった、京都に行こう(京都写真集)

 山城の秦氏の山岳信仰の山に愛宕権現を祀って、秦氏の愛宕山信仰を発展させたのも大安寺の僧です。
虚空蔵菩薩信仰の成立については、次のような説もあります。


また、貞観二年(八六〇)に宇佐八幡神の分霊を、山城の石清水に遷座したのも、大安寺の山岳密教系の僧です。このように、道慈の虚空蔵求聞持法と道慈が平城京に建てた大安寺は、秦氏と深くかかわっていたようです。道慈は、天平十六年(七四四)に亡くなっています。

勤操は、天平勝宝六年(七五四)に生まれていますから、

この二人の間に直接の師弟関係はありません。二人の間を結ぶのは、道慈・勤操と同じ大安寺の僧、善議(七二九~八二一)です。善議は道慈と一緒に入唐しています。この善議から勤操は、虚空蔵求聞持法を学んでいるようです。
 先ほど紹介した奈良時代に作られた額安寺の虚空蔵像の『造像銘記』には
「この虚空蔵菩薩像は、道慈が本尊としていたもので、入唐求法のとき、善無畏三蔵から虚空蔵求聞持法が伝えられ、帰国後に求聞持法を善議に授け、それは、護命ー勤操ー弘法大師によって流通された」
と記してあり、善議と勤操の間に護命が入っていることを記しています。
 護命は天平勝宝二年(七五〇)生まれで、勤操より四歳年上で虚空蔵求聞持法を、吉野の比蘇寺で学んでいます。
 『今昔物語』巻十一の九の弘法大師の話には、
十八歳のとき大安寺の勤操僧正に会って、虚空蔵求聞持法を学び、延暦十二年に勤操僧正によって和泉国横尾山寺で受戒し、出家した
と書かれています。
南都大安寺 - 勤操忌 勤操忌厳修しました。 勤操大徳は大安寺初代別当 ...

これに対しては、先ほど述べたように『三教指帰』に「一沙門」とあるので、勤操から空海が虚空蔵求聞持法を学んだという文献を認めない人が多いようです。私が今までに読んだ文献も、この立場にたつ書物が多かったように思います。この立場の人たちは、空海の受戒が槇尾山寺で勤操によつておこなわれたという文献も認めません。空海の受戒や師については「ダーク」なままにしておこうとする雰囲気があるように私には思えます。
 仁王門 - 和泉市、槇尾山施福寺の写真 - トリップアドバイザー

空海は唐から帰国後一年か二年余、九州にいて高尾山寺に入るまで槇尾山寺にいました。

唐に渡る以前に空海がこの寺で受戒を受けたという伝承を頭に入れると、この事情はすんなりと理解できます。この辺りの「状況証拠」を積み上げて「勤操は空海の師」説を大和岩雄氏は補強していきます。そして次のように続けます。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」
「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」
 空海が帰国後、槙尾山寺-高尾山寺にいるのは、秦氏出身の勤操の存在が大きいと指摘します。 

空海から虚空蔵求聞持法を伝授されたのが讃岐の秦氏出身の道昌です。
法輪寺道昌遺業 大堰阯」の石碑(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 ...

彼は、天長五年(八二八)に神護寺(高尾山寺)で、空海によって両部濯頂を受け、その8年後には、太秦の広隆寺の別当となり、後には「広隆寺中興の祖」と呼ばれるようになります。広隆寺は山城秦氏の氏寺で、新羅から送られたといわれる国宝第一号の弥勒菩薩で有名です。また、道昌は秦氏が祀る松尾大社のある松尾山北麓の法輪寺の開
山祖師
でもあります。

道昌が葛井寺を修営し規模を拡張し、寺号を法輪寺に改めました。『源平盛衰記』著四十の伝承では、この寺は天平年中(七二九~七四九)に建立後、約百年後に道昌が、師空海の教示によりここで、百か日の虚空蔵法を行い、五月に生身の虚空蔵菩薩を体感し、一本木で虚空蔵菩薩を安置し、法号を法輪寺として、神護寺で空海自らこの像を供養したといいます。そして、一重宝塔を建て虚空蔵菩隣像を安置し、春秋2期、法会を設けて、虚空蔵十輪経を転読したとあります。
 道昌は参寵の前年に、空海から両部濯頂を受けていますが、この時に虚空蔵求聞持法を伝授され、百ヶ日の修行に入ったようです。大和の斑鳩の法輪寺には、かつて金堂に安置されていた飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像(国宝)があります。この寺は聖徳太子の追善のため建てられた寺で「虚空蔵菩薩像のある寺=法輪寺」から、葛井寺も法輪寺に改めたようです。

以上のように虚空蔵求聞持法の継承ラインは、道慈→善儀→勤操→空海→道昌と続きます。その特徴としては

①すべて大安寺の僧であること、
②そのトップである大安寺の道慈が密教的傾向が強く、その系譜が受け継がれていること
③同時に渡来系秦氏がおおきな役割を果たしていること
最後に虚空蔵菩薩信仰の成立については、渡来集団の秦氏の星座信仰(妙見信仰)が基礎になって成立したという次のような説もあります。
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

この方が私にはすんなりと受け止められます。

 どちらにしても若き空海がエリートコースである「大学」をドロップアウトしたのは、虚空蔵求聞持法との出会いでした。それを介した人物がいたはずです。それが誰だったのか。また、その人達の属する集団はどうであったのかを知る上で、この本は私にとっては非常に参考になりました。
虚空蔵求聞持法 - 破戒僧クライマーの山歩録
参考文献 大和岩雄「秦氏の研究」大和書房

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