瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:道造り坊主智典

三頭越え 久保谷の大師堂

  前回は金比羅阿波街道の三頭越の峠道のまんのう町美合・久保谷の大師堂を訪ねて見ました。そこには、幕末に峠道が改修されるのに併せて、新しく金比羅堂が建立され、整備された街道沿いにミニ巡礼の石仏が丁石代わりに安置されるなど、快適で安全な阿讃峠越えの金毘羅街道が姿を現しつつありました。これをリードしたのが「道造り坊主=智典」でした。かれは半生を、金毘羅街道の整備に捧げています。こう書くと、菊池寛の「恩讐の彼方に」の主人公・了海が 耶馬渓の青の洞門をうがったように、

「破れた衣を身にまとい、唐鍬を振って黙々として一心不乱に道路を修繕する名も知らぬ僧」

といったイメージを抱きそうです。しかし、近年見つかった彼の手紙がそのイメージを打ち砕いたようです。
今回は、金毘羅街道整備に尽くした僧・智典を見ていきたいと思います。知典については「金刀比羅宮史料」第四十二巻に、次のような記事があります。安政2(1855)年6月に、金毘羅の民政を預かる普門院に、金山寺町の花屋房蔵が智典を金比羅の花畑作方に推挙した「推薦状」的な文書です。見ていくことにしましょう。
乍恐奉願上回上
奥務伊達郡桑打御料 御代官御支配虚 伊達崎村大内又右衛門悴 留八事、知典 五拾六オ
右者天保十亥年富國へ罷越 多度津光岸寺二而致剃髪依心願
弘化四より安政元迄九ヶ年之間丸亀より御当山へ参詣道直シ相勤居候内より入魂二御座候虚 最早漏願相成元来 御当山至而信仰二付何卒御花造り立差上度心願も有之候由 然ル所内町余嶋屋吉右衛門発起御世話申上候 裏ノ谷御花畑作人も無之幸右知典随分人柄も宜敷相見へ申候二付 吉右衛門へも申談候虎於同人同様御願申上度申居候 間何卒右御花畑作方被 仰付被為下候ハヽ於私共も難有仕合二奉存候附候而者 所送り並びに多度津摩厄院より之送り書請取差上置申候 自然彼是之義 御座候共私御引受申上卿御役介相掛申間敷候 間何分宜御取計之程奉願上候以上
安政2年卯六月          御納所 金山寺町
                     花屋房蔵
普門院様
意訳すると
恐れながら願い奉まつり申し上げます。
奥?伊達郡桑打御料の代官支配地の伊達崎村大内又右衛門の倅(せがれ)留八こと、知典56オについて、右者は天保十亥(1840)年に当国に罷り越し、多度津光岸寺で剃髪し出家しました。
弘化四(1847)より安政元(1854)年まで、丸亀から当山へ参詣道(丸亀街道)の修繕に入魂し相勤めましたので、最早に満願成就となりました。元来、金毘羅への信仰も厚く花造りについても心得があると聞きました。それならばと内町の余嶋屋吉右衛門が発起世話人となり、裏ノ谷御花畑作人がちょうど不在なので、知典は人柄もよいようなので、吉右衛門へも相談した所、賛同してくれましたので推薦することになりました。何卒、花畑作方に仰せ付けいただければ、私共も難有仕合せでございます。所送り並びに多度津摩厄(尼?)院からの送り書請取を提出いたします。智典のことについては、私共が保証人となりますので何分宜しく取計お願い申し上げます。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①智典は多度津の光岸寺で出家した。
②金比羅丸亀街道の勧進整備工事を進めた
③普門院が「裏ノ谷御花畑作人」の管理任命権を握っていた
④推薦状には、多度津の摩尼院の保証書が添えられていたこと

智典の出自については、「伊達郡桑打御料の代官支配地の伊達崎村大内又右衛門の倅留八」とあります。「伊達崎村(だんざきむら)は、福島県伊達郡に存在した村で、1955年1月1日に合併して桑折町となったため消滅したようです。最初に見たように、寛政12(1800)年の誕生ですので、40歳前後で東北の福島から讃岐にやって来たことが分かります。この年は、丸亀街道の修繕に尽力した東野が亡くなった年でもありました。
  多度津で仏門に入った後のことは分かりませんが、東野の思いを受け継ぐように丸亀街道の修繕に打ち込んでいったようです。また父親が「大内又右衛門」とあり、名字があります。出自が武士か名字の許された有力者の家柄であったことがうかがえます。何らかの事情があって、会津福島を出奔して、讃岐で仏門に入ったようです。
彼の動きを年表にしてみましょう。
寛政12(1800)年 会津伊達郡桑打御料の伊達崎村・大内又右衛門の倅として誕生。
天保10(1840)年 来讃し多度津光岸寺で剃髪し出家(40歳前後)
弘化3(1846)年  丸亀金比羅街道の修繕に入魂し、8年相勤め満願成就。
安政2(1855)年6月 金山寺町の町宿花屋房蔵が智典を花畠作人に推挙し採用。
 ちなみに丸亀街道については、これより先に大原東野が独自のやり方で改修を進めていました。東野の金毘羅街道整備にかける生きざまを、智典は身近で見聞きし、感化を受けたのかもしれません。智典が丸亀街道の改修に着手するのは、東野の死去後6年目の弘化4年(1846)からのことです。そういう意味では、智典は東町の道作り事業の後継者とも言えるようです。
 街道改修の業績が認められた智典は、金山寺町花屋房蔵から、花作り作人に召使われたいと、金光院に推挙されています。智典は56歳。この推挙によって、智典は金光院の支配下の人間となり、大麻の茶堂主となったようです。金毘羅神の御加護によって、安住の地を金比羅に得たとしておきましょう。

 前回見たように、元治元(1864)年から慶応3(1867)年まで、まんのう町美合の三頭越の金比羅阿波街道の改修工事までの約10年間がミッシングリングとなっていました。
 その後分かってきたのは、安政4年に仁尾村吉祥院と覚城院から,金比羅の万福院・尊勝院宛に卯之本峠開削のために智典を借用したい旨の願出が見つかりました。智典は、卯之本峠の仕事も引き受けて完成させたようです。  このように智典は、丸亀街道改修をやりとげ、道造りの専門家として名声を得るようになっていたようです。そのために周辺の仁尾からも声がかかるような存在となっていたことが分かります。これはひとりで黙々と鶴はしを振るイメージではありません。測量・線引きから人足手配、資金集めなどを行う土木専門家で棟梁的な存在だったようです。それをさらに補強するような手紙が近年に見つかりました。
智典の手紙から分かることは?
昭和61年11月に、琴南町誌発刊後に、関係資料の整理中に智典法師が、旧琴南町川東村の司役稲毛千賀助に宛てた一通の手紙が発見されました。明治3年の手紙を束ねた中にあったもので、その内容からも明治2年の手紙であることが明らかなものです。手紙は、縦16㎝、横77㎝の書翰紙に走り書きで書かれたものでした。
1智典の手紙1
1智典の手紙1-1

意訳変換しておくと
光陰は矢の如く最早秋冷が訪れる頃になりました。夏の候には雨天が続き、季節柄不相応の冷気でしたが、貴家様御一統も差し障りなく、益々御賢勝のことと伝へ聞いて、安心しております。さて、拙老も健吾でございますのでご安心ください。①春に阿波より帰ってきましたところ、自村内の村役人の小里正や顔役の人たちから、理詰の難題を云われ、このことで煩わされています。というのも自村内の道筋が整備されずにそのまま放置し、外の道ばかり修繕するのは不人情であると、村中の者から云われました。まさに理詰でもっとも至極の次第と、②早速に阿波に置いてある諸道具を取寄せ、自村中の道普請に五月中旬より取りかかっています。
 ところがこれが大望の修行となりました。③金毘羅から多度津までの150町の全区間の多度津街道の修繕を行うことになったのです。この懸合(折衝)等に、方々を走り廻っています。この春二月上旬に④御貴面方の御取次の請願について、御一新の国政となったので高席も憚らず、高府(高松)古新町の議事局へうかがって願出ました所、

1智典の手紙2

外部の者であるにも関わらず、丁寧に取り計らっていただきました。しかし、御大守(松平頼聰)公は、東京に出向いて留主(守)中で、請願は聞き届けられませんでした。太守が帰国すれば、また推参しお願いするつもりです。五月上旬旧府大殿様へも、高役衆の配慮で意向を伺っていただいたようです。これも又有難きご高配を蒙りました。ともかく御大守公が遠勤中(江戸在中)のことなので、強いて再願することは控えています。 高松に帰られた折に、また請願するつもりです。
 ⑤このような雑事に取り紛れ、暑中見舞のことも失礼してしまいました。先達ては御支配地の造田や美合で、外国(阿波)の無法狂乱の者どもが、不法に讃岐に入国し混乱したことが、こちらにまで伝わっています。(明治3年5月12日 脇町の稲毛家の家臣三百有余名が、猪尾村から越境して高松藩に訴えた事件で、 一部の稲田家家臣が琴南町域へ「亡命」してきたこと)
 その対応に苦労されたことでしょう。しかし、思いの外に騒ぎが拡大しなかったように聞いて、蔭ながら胸をなで下ろしています。その御見舞にもうかがうべき所を、この通りの身上故実で寸暇もない有様で、重々の失礼をお許しください。また大変失礼ですがそちらの明(妙)覚十殿並びに、⑥衆中御一統様へも、暑気見舞の無沙汰の段について集会の際歳にでも、愚老よりの失礼の段を御伝達いただければ幸いです。
1智典の手紙3
 
 尚々末筆で失敬ではありますが、貴家様御一統方へ、愚老よりの言づてを伝えていただければと思います。いずれ拙老も遠からざる内に、そちらにうかがい、⑦阿波の打越(打越峠は阿波昼間と男山を結ぶ峠道)辺りまで(工事に)参る予定があります。その際に、入懇者方へ書面を渡したいと思っていますので、委細はその節に書面でお届けします。積る話を楽しみにしております。 不具。
七月下旬   
東讃阿野部川東村           西讃多度郡大麻村 茶童主
本村 御司役                  当暦七十一オニ及
稲毛千賀助様                    愚老 智典

明治2年7月下旬に書かれた手紙から読み取れるポイントを押さえておきましょう
①②⑦から春まで阿波打越峠(昼間)で道路工事を指揮していたこと
③から金毘羅多度街道150町の全区間の修繕を担当することになったこと
④から高松の県庁へ誓願に行ったが知事(旧藩主)不在のために会えず事務局に請願書を提出したこと。
⑤以上のような多忙のため、報告や暑中見舞いが出来なく申し訳なく思っていること
⑥経過報告が出来ていないので、 御司役稲毛千賀助の方で一統(関係者)への説明をして欲しいこと
この手紙から受ける印象は、謝罪の手紙という感じです。これが書かれた背景を想像すると、稲毛千賀助からの報告遅延の督促便についての返事のように思えます。それに対して、いろいろな理由を挙げて弁解しているようにも聞こえます。しかし、その弁解理由の中に、智典の当時の行動がうかがえます。つまり、彼はいくつかの街道整備を同時並行で請け負っていたようです。それが次の2つの工事です。
A  讃岐の金毘羅多度津街道
B 阿波の打越峠(昼間・男山間?)
Bには「阿州阿州へ頂置諸道具取寄せ」とか「金毘羅より多度津までの150町の間、営み直す熟談云々」からは智典の活動範囲が、讃岐から阿讃山脈を越えて阿波の各所で道普請に従事したことが分かります。
  彼の実像は、大麻の茶堂を拠点とした道作り坊主集団の統領として、金光院役所、高松・多度津・丸亀・徳島の各藩との交渉や、郡の大庄屋や庄屋間の調整に奔走し、現場にあっては技術的な指導者として活躍したと研究者は考えているようです。

さらに踏み込んで推察すると、慶応三年(1867)に、三頭峠から落合までの道の開削に一応区切りをつけた智典は、難関区間を残して、その後は阿波の道路の開削に従事していたようです。そして、明治3年の2月上旬に阿波の工事現場からの帰路に川東村に立ち寄ります。その際に村民の指導者から、その後の三頭越道の工事捨置きの不人情をなじられ、5月中旬から再び工事を再開した経緯があるようです。
 この手紙は明治2年のものですが、この手紙の趣旨は以下の部分です。

「御集会の制、愚老より中訳の段然る可き様御伝達下され度く、尚々末筆二て失敬二は御座候得共、貴家様御一統方、愚老よりの過伝馨宜舗様二御申述下され・・」

三頭越の工事が未完のまま放置し、阿波や多度津など他の街道工事を行っている事への釈明文なのです。
「二月上旬兼々御貴面方御取次の御願一条に付云々」

と述べられている内容は文面から推論すると、三頭越の工事は、地域の人々だけで行うのには難事業であるので、郷普請並みの藩側の経済的な支援が得られるよう、智典が高松藩に掛け合ったことを示しているようです。更に、煙硝使用などについて藩の指導と、使用許可を藩に求めていたのかもしれません。
  ちなみに、手紙の宛先の稲毛千賀助は、天保年間(1830~)に火薬の製法を福山藩上某について学び、文久三年(1863)には、自ら製造した煙硝三十貫を、藩に献納しているほどの人物です。火薬の扱いには慣れた専門家でもあったようです。三門の断崖を火薬で爆破して砕いて道を付けるということも考えていたのかもしれません。そのためには県の許可が必要です
 明治三年の二月上旬、智典は高松古新町の議事堂に陳情し、更に、五月上旬には旧府の大殿様(頼胤)にも嘆願していますが、彼の希望は入れられなかったようです。
  当時の彼は「阿波の打越峠 + 多度津街道 + 三頭越」の3ケ所の大規模な工事現場を持っていたことになります。これは個人できることではありません。それだけのスタッフが必要になります。まさに土木工事の棟梁だった言えるのではないでしょうか。

智典は、手紙の中で「寸暇これ無く云々」と述べて、その多忙振りを訴えています。
しかし、このあたりにはいささか誇張があるのではないかと研究者は指摘します。特に文中の④「又々五月上旬旧府大殿様えも云々」の部分は、旧府とは昔の政庁のあった場所、高松城中を指すものですが、明治2年の4月23日以後、松平頼胤公は宮脇村の亀阜別館に移って生活して、政治とは遠ざかっていました。智典が、高松城で「有難き御高語を蒙る」ことは考えられないと云うのです。
 旧府の二字を智典の誤記と認めるか、それとも一つの誇張と認めるかは、判断が分かれるところです。しかし、これをもって彼を一個の宣伝家とみなすのは、彼の功績は余りにも大きく、彼の行為は余りにも純粋であると研究者は考えているようです。

中世の勧進と聖人と街道整備の関係は?
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。行基の勧進は、次のように記されています。

「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

しかし「勧進」は、彼の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとにには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていたようです。次第に大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業をうけおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・苦光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。
 経済的視点からすると、次のようにも云えます。

「勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得」

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。智典の金毘羅街道の整備にも、そのような気配が漂います。

金毘羅街道整備の意義は?
元禄年間(1688~)頃から次第に、その信仰圏を拡大した金毘羅神は、文化文政期(1804~)の全国的な経済発展に支えられて、流行神的な金毘羅神へと成長していきます。全国各地からの参詣客が金毘羅に集り、豪華な献納物が境内に溢れ、長い参道の要所を飾るようになります。金山寺町の紅燈のゆらめき、金丸座の芝居興行と、繁栄を極めた金毘羅にも課題はありました。街道の未整備と荒廃という問題です。
嘉永6年(1853)の春、吉田松陰が金毘羅大権現にやって来ます。彼は多度津に上陸して金毘羅大権現に参拝し、その日のうちに多度津から船で帰えっています。その日記帳の一節に次のように書き残しています。
「菜の花が咲きはこっていても往来の道は狭く、人々は一つ車(猫卓)を用いて荷物を運ばなければならなかった。」

多額の金銀を奉納し、灯籠を築き、絵馬を奉納する金毘羅信仰がありました。それとは別の場所で、道普請のために寒暑を厭わず鍬を振い続ける、道作り行人の群像があったようです。彼らもまた、金毘羅への厚い信仰心を持っていました。
その後の金毘羅阿波街道は?
その後、三頭越の道普請は、日露戦争直前の明治36年に、笠井喜二郎氏の発起によって、勝川・川東の有志46名が金品や土地を寄進し、道幅が広げられて柴車が通れるようになります。しかし、三角の滝の上の岩盤は、依然として人馬の通行を阻んだままでした。この岩盤が、善通寺工兵隊の爆演習によって取り除かれ、工兵隊の道路建設によって全線が開通したのは、明治42年の幕れになってからのようです。
智典について整理しておきます。

道造行人 智典

①天保10(1840)年 会津から来讃し、多度津光岸寺で剃髪出家(40歳前後)
②東町の後を受けて、丸亀金比羅街道の街道普請勧進者として活動

③安政2(1855)年6月 金刀比羅宮の花畠作人に採用。
④安政4(1857)年 仁尾村吉祥院と覚城院の依頼を受けて、卯之本峠の開削工事担当
⑤阿波打越峠(昼間)の道路工事
⑥金毘羅多度街道150町の全区間の修繕担当
⑦まんのう町三頭越の工事担当も途中中座で放棄し、地元から不平
⑧智典は、単なる道路改修の勧進僧侶ではなく、土木集団を率いる土木建築請負業の棟梁であった。
⑨幕末には金刀比周辺には、廻国僧侶が定住し活躍できる場があり、全国から多くの宗教者がやってきて、さまざまな活動を行い、文化交流を行った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  
大林英雄  道作り行人 智典法師について  ことひら平成2年45号
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4 阿波国絵図3     5

久保谷の大師堂                                            
まんのう町を南北に貫く国道438号は、三頭トンネルが出来るまでは行き止まりの国道でした。今は長いトンネルを抜けるとわずかの時間で美馬・郡里へつながるようになりました。しかし、かつては讃岐山脈の険しい峠道を越えて行く姿が戦前までは見られたようです。今回は、まんのう町と美馬町をつないだ三頭越の峠道のお堂を見ていくことにします。

三頭越え 久保谷の大師堂

三頭トンネルの入口の手前が久保谷です。
土器川の支流に架かる橋が三頭越の入口になります。久保谷川はかつては郡境で、川の南は鵜足郡勝浦、北は阿野郡川東でした。この久保谷橋を渡った所に、二間四方の大師堂があります。その祭壇中央に阿弥陀如来を、右側に寄せ木造りの大師座像を、左側には、舎利仏と呼ばれている仏像が祀られています。舎利仏像の厨子には次のように記されています。

「安政七(1860)年庚申二月吉日厨子一具 発起人 美馬郡猿坂長江善太」

安政の大獄のあった時期に、峠の向こうの阿波の美馬猿坂の住人によって寄進されたもののようです。祭壇の左偶には、数枚の祈祷札が立て掛けられてありますが、下の方から腐食が進んでいるようです。祈祷札の中に、3枚の祈祷札があります。
①「安政第五(1858)年 奉修不動明王護摩供養二日 二月占良日」、
②「慶応第二(1866)年 奉修不動明王護摩供養三日」
③明治四年と明治十四年の「金毘羅宮奉二夜三日祈祷 講中安全守護所」
①②は、ここで山伏たちが不動明王に護摩祈祷を行っていたことがうかがえます。③は、金毘羅大権現の大祭に、祈祷が行われていたことが分かります。①②③や舎利仏も幕末から明治にかけてのものなので、この時期に大師堂が創建されたようです。

DSC07393
久保谷の大師堂から三頭越に向かう道
 昔の大師堂は、今ある場所から50m久保谷へ入った所にあったようです。昔の大師堂の前には広場があって、毎年にぎやかに盆踊りが行われていたといいます。この旧大師堂は、昭和13(1938)年の洪水で流されてしまいました。そのため講中の人たちの手によって、新しい敷地を求めて建てられたのが現在の大師堂だそうです。
むかし栄えた久保谷の金毘羅堂
 そして、橋の手前に金毘羅堂はあったようです。その金比羅堂の正面には金毘羅さんを祀り、右に舎利仏像、左に善光寺石仏が安置され、踏込みの土間に沿って、広い縁があり、板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていました。土地の人はそれを「金の錐子」と呼んでいたそうです。

DSC07392大師堂より
大師堂からの久保谷の景色
 旧金比羅堂は、三頭峠から足下の悪い沢沿いの谷道を下って来た人や、これから峠道を登ろうとする人々にとって格好の休み場でした。接待された茶を飲みながら旅の話に花を咲かせ、阿讃の情報交換場となっていたようです。久保谷の土地が阿讃を往来する人々の旅宿となり、休憩所となり、情報交換の場となり、お互いに金毘羅信仰を温めあう聖地であったことを、物語ってもいます。琴平以南で最も活気のある金毘羅堂としてにぎわっていたようです。そしてまた、金毘羅信仰の一つの拠点として地域の色々な行事が行われていたのです。それが先ほど見た明治の金毘羅宮の祈祷札や、幕末の不動明王護摩供養札からもうかがえます。幕末から大正ごろまで、この地では金毘羅信仰が盛んで、関連イヴェントが行われていたことを教えてくれます。
 しかし、昭和に入ると鉄道網の整備が進むにつれて金毘羅詣客が、この街道を利用することが少なくなります。そして行事も次第に行われなくなったようです。金毘羅堂も老朽化がひどく、戦後の昭和21(1946)年頃には取り払われたようです。中にあった仏や御札は、再建された大師堂や境内に移されました。
  現在の太子堂境内には、いろいろな石仏や祈念碑が並んでいます
向って右の山際に、堂から順に、手洗鉢・舟型石仏三体と金毘羅祠が祀られています。

DSC07389久保谷金比羅堂

手洗鉢は正面に31㎝の○金が刻まれていて、もともとは金毘羅堂にあったものだそうです。石仏三体(地図図79)は、一番奥が、一光三尊形式で信濃善光寺と刻銘された慶応三年(1867)のもので、やはり旧金毘羅堂にあったものです。

DSC07390善光寺

この石仏については、次のように評価されています。

「光背に厚く彫り出された化仏も立体的で美しく、地方作とは思えない秀作」

   その右側に、西国三十三番観音霊場一番札所那智寺の石仏があります。
DSC073913つの石仏

この久保谷から、三頭越を越えて阿波の三頭神社まで、ミニ西国三十三観音霊場の石仏が丁石を兼ねて街道沿いに置かれていました。ただ制作年号が分かるのはこの像だけのようです。久保谷から数えて、三頭越の峠までを16丁で16番目になります。33丁目の三頭神社では峠すぎの17番から33番までの石仏が迎えてくれていたようです。
三頭越え 標識
四国の道として整備されている三頭越え
当時は、三頭越ルートの道が改修されていた頃になります。改修の成功を願い、道中の安全を祈って、阿波の人たちが寄進したものと研究者は考えているようです。
 
 境内の一番手前は、二十四輩の二十四番の石仏です。これも三十三観音の1番と一緒に、もともとは橋の向こう側の旧金毘羅堂付近にあったようです。
どうして、西国巡礼1番と関東巡礼24番の石仏が並んでいるのでしょうか?
①関東二十四輩の石仏達は、落合から久保谷までの路に、一丁毎に建てられていた
②西国三十三番観音霊場の石仏は、久保谷から阿波の三頭神社までに一丁毎に建てられていた
つまり、久保谷の旧金比羅堂が、関東二十四輩の最後の札所であり、西国の最初の札所でもあったようです。金比羅堂が関東霊場と西国霊場の「ジャンクション」だったのです。久保谷までは二十四輩に、久保谷からは西国三十三観音に、旅人は守られていたということでしょうか。

三頭越え 丁石

  ちなみに、いまは久保谷から三頭越までは四国の道として整備されていて、道標や案内板も設置されています。ゆっくり歩いても2時間足らずで峠にたどり着くことができます。

 久保谷までの二十四輩で残っているのは21体で、もとの位置にあると思われるのは20・22・23・そして久保谷の金毘羅堂跡の4つです。これを丁石と考えて、旧道に配列すると、川東の林付近がスタート地点で一番札所があったことになるようです。林からは、険しい谷あるいは山道を久保谷まで街道は進んできます。行方不明になったり、動いている石仏(丁石)は、旧道が消えてしまった部分に当たるようです。

三頭越 丁石配置
現在残っている丁石

  しかし、西国ミニ巡礼は分かりますが、なぜ関東二十四輩の石仏達が設置されたのでしょうか?
それは、この三頭越の峠道を整備した僧侶の出自と関わっているようです。

DSC07386道路修繕碑

石仏に並んで、ここには自然石の一面を削って碑文を刻んだ高さ約1,5mの石碑が2つあります。ひとつが三頭越の道路建設碑で、幅0,6m・厚さ0,4mで、碑文は片かな交りの漢丈調のものです。碑文からは読み取れませんが、琴南町史810Pには、次のような碑文が載せられています。
意訳すると、次の通りです
「当山、此ノ川ノ中央ヲ以テ阿野鵜足郡境トシ、勝浦・川東両村二接シ、往昔ヨリ谷間・三頭山ヲ越エテ通行スルノ往還、岩石間関タルノ小路ニシテ、旅人苦慮ス。牛馬鉄映(正シク行クコトガデキヌ)ノ実況ナレバ、局外ヨリ之ヲ観下スルニタヘズ。東西二奔走シ、精神フ凝ラシ、十方ノ喜捨フ以テ、国境ヨリ明神落合マデ六十町ヲ鉾削(人カデ切り開ク)セラレタリ。元治元年ヨり三星霜ヲ経テ、慶応三年仲秋営業ス
十方寄附 発起人 
大麻村茶堂    智典
勝浦村   角原 歌次
琴平町   浜野 和平
勝浦村政所 佐野十次郎
川東村   黒川 勇古
勝浦村   牛円藤之進
川東村   西岡 滝蔵
同      高尾 棟松
ここからは次のようなことが分かります
①久保谷の前を流れる土器川支流が阿野郡と鵜足郡の郡境で、勝浦・川東両村の村境でもあった。
②三頭越の往還道は、岩場の悪路で旅人が苦労していた
③そこで、国境から明神落合までの60町を切り開く工事を元治元(1864)年から3年がかりで進めて慶応三(1867)年の仲秋に完成させた。
この工事の中心人物が発起人の一番上に名前がある「大麻村茶堂   智典」と「勝浦村  角原歌次」だったようです。
DSC07385智典碑

この碑に並んで建つのが智典法師の供養塔です
この日は建設碑と同じ型の自然石の上部に、サ(聖観音)の種字を刻み、明治12卯(1879)年 旧6月19日、行年82才と刻まれています。中央に約30㎝の方形のレリーフがあり、杯を手にした人と、鶴はしを手にした人が、ともに休息する姿が見えます。これが智典のようです。苔むして表情はよく分かりませんが、その精気が全身に充ち充ちているようにも思えてきます。
 地元の人の間では、智典法師と、その最大の協力者角原歌次の二人の姿を刻んだものであると伝えられているようです。碑の下段には、世話人の氏名が次のように刻まれています。地域の集落を代表する人たちで、智典と行を共にした人々なのでしょう。
世話人 角原歌次
ヲキノ 黒川八郎平
ヨコバタ(横畑) 西岡久松
カワノオク(川奥) 杉原好尺郎
カワノオク(川奥) 高尾初衛
カワノオク(川奥) 西尾金助
ナカグマ(中熊) 佐野弘造
ナカグマ(中熊) 西岡小太郎
笠井喜二郎
ハヤシ(林) 岡坂七平
メウジン(明神) 三宅鳥造

ここからは、街道整備後の明治12年に「大麻村茶堂    智典」が82歳で亡くなったこと。それを悼んで建設費と供養碑が同時に久保谷の金比羅堂周辺に建てられたことがうかがえます。
  以上を総合すると、幕末から明治にかけての三頭越の街道は整備が進み、それに併せるように街道沿いにはミニ巡礼の石仏が丁石を兼ねて安置されていきます。同時に拠点となる久保谷には新たに金比羅堂が建立され、舎利仏や石仏などが安置されたようです。今までにない街道とお堂に、明治と共に変身していった様子がうかがえます。ここで押さえておきたいのは、この道路工事が完成するまでは、三頭越えは悪路で牛馬も通えなかったことです。それまでは、二双越えや真鈴越が、阿讃の主要ルートでした。それが幕末から明治初年にかけて、三頭越えが整備され、こちらが主要ルートになっていったことです。


DSC07383久保谷 智典
久保谷・大師堂の智典の記念碑
 このようなきっかけを作ったのが「道造り坊主」と呼ばれた智典だったようです。
  私は琴南町史を読んで、ここまでの情報で智典を、菊池寛作小説「恩讐の彼方に」の了海のよう人物と勝手にイメージしていました。 耶馬渓の青の洞円をうがった良海のように、この金比羅・三頭街道の難所を開くために
「破れた衣を身にまとい、唐鍬を振って黙々として一心不乱に道路を修繕する名も知らぬ僧」

といった「道造り坊主」像です。ところが、どうもそうではないことが、近年発見された史料から分かるようになりました。彼は、街道整備の請負人でその組織の棟梁であったらしいのです。その話は次回に・・・
2025/09/01 改訂版
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町史
          峠の道調査報告書 三頭峠 香川県教育委員会

                                  

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