「金毘羅名勝図会」(1819)に描かれた多度津港を紹介しました。すると、その後に出された「金毘羅参詣名所図会」で、多度津の名勝が紹介されている部分を見たいというリクエストがありましたので、資料としてアップしておきます。なお、金毘羅参詣名所図会の閲覧方法については、以下の方法があります。
① 香川県立図書館デジタルライブラリーで「金毘羅参詣名所図会」と検索すれば、すべてを閲覧できます。
②書物としては、歴史図書社 昭和55年発行 (古本屋価格5000円~)
多度津で金毘羅参詣名所図会に挿絵が載せられているのは、以下の4枚です。
多度津で金毘羅参詣名所図会に挿絵が載せられているのは、以下の4枚です。
①海岸寺本坊②白方屏風ヶ浦と海岸寺奥の院③多度津湊④道隆寺
それでは、①の海岸寺から、絵図と意訳変換文のみを紹介していきます。
海岸寺本坊
本 坊 奥ノ院の境内とは離れて別に伽藍がある方丈客殿 庫一長・大師堂などがある。
海岸寺奥の院奥 院 弘法大師の幼児尊像で、長二尺あまりの大師誕生の尊像で、大師35歳の時の自作という。脇 壇 左右に大師の父母の木像が安置されている。大師堂 本堂のそばにあって、正面が弘法大師の像、左右に薬師・観音を安置。これは天霧城主であった香川山城守の念持仏と云う。
雨乞寺蔵 早魃の時に雨乞いを祈念する。霊験あらたなりと云う。
産湯水 大師誕生の時に産湯として使った清水。眼病者が、この清水で洗えばすぐに治癒するという。子育観音 産水の傍にある。産盥 大師が誕生の時につかった盥だと云う。近頃、ここに納めて参観が禁止されている。五岳山善通寺は誕生院と号し、大師誕生の旧地だと云う。ところが海岸寺も誕生の古跡と主張する。どちらが本当なのか分からない。一説には大師の御父、佐伯善通は多度郡の郡司を領し、今の善通寺で生活していたが、郡港の白方にも別宅を持っていて、弘法大師はそこで生まれたという説もある。
海岸寺や仏母寺は、近世初頭から「弘法大師生誕の地・屏風ヶ浦」
を名のっていました。そらが幕末に善通寺から訴えられて、「弘法大師生誕の地」を名のることが禁止されたことは以前にお話ししました。海岸寺には、備前や安芸・石見からの修験者の先達に伴われた信者達が集団で参詣にきていたことは以前にお話ししました。どちらにしても、このふたつの寺は、もともとは修験者の寺だったようです。
を名のっていました。そらが幕末に善通寺から訴えられて、「弘法大師生誕の地」を名のることが禁止されたことは以前にお話ししました。海岸寺には、備前や安芸・石見からの修験者の先達に伴われた信者達が集団で参詣にきていたことは以前にお話ししました。どちらにしても、このふたつの寺は、もともとは修験者の寺だったようです。
屏風が浦の多度津街道沿いにある。多度津から十丁程で、乾方になる。本社 祭神応神天皇末社 本社の傍らに数多列す。神興合・鐘楼・随身門 額に弘法大師産の神社とある。
熊手八幡の別当寺が仏母寺でした。
多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。
桑田(そうでん)山明王院道降寺
(本堂裏の道隆塚)前の標石には「道隆親王の塚」とあるが、道隆は親王ではない。道隆寺は四十三代元明天皇の時代に、和気の道隆という人物が創建したと伝えられる。開祖道隆公(道隆寺)道隆は景行天皇十二世の末裔で、父は那珂郡木徳の戸主和気淳茂の次男である。かつて道隆の所有する北加茂の土地に、千株の桑を植えた。これが「讃岐国の桑園」と呼ばれるものである。この桑園の中に一丈五尺の大木あった。種々な怪奇現象が起こるので、この木を伐って薬師如来を彫刻させて、小堂を作りて安置した。道隆は、日夜これを拝んだ。そして、神護二丙午年秋七月十五日午之刻、年齢99歳で亡くなった。
その孫の朝祐が、延暦十二癸来年なって、霊魂のお告げを聞いて、弘法大師に会った際に先祖のことをかたり、例の桑の大木から作った仏を見せて、小像なので、もっと大きな仏像を造って欲しいと大師に請うた。大師は、その先祖供養の篤信に感じ入り、長二尺五寸の薬師如来を造り、今までの桑仏をその仏の胎中に納れ、永世不失の秘仏とした。こうして朝祐は深く仏教に帰依し、髪を剃って戒をうけ出家した。そして、家財・財宝を捨てて、住居をお堂として大師が造った木尊を安置して、大師を供養した。そして、境内四町四方を伽藍として堂塔を建立した。先祖道隆の名前を寺号とし道隆寺とした。弘仁末年朝祐人道、大師を請じて結縁灌頂が執行された。遠近の数多くの僧侶や民衆が道隆寺に集まり、市を為すほどであった。この時に寺を十余宇作って、群参した人々を入れた。
道隆寺薬師堂(戦前の絵はがき)その後、道隆寺は学問寺として仏法繁興の区となり、弘法大師の弟である真雅僧正や、後には聖宝尊師もこの寺の住職を務めた。ところが兵火に罹り、殿堂は悉く焼失し、現在では、昔の繁栄ぶりを想像することもできない。しかし、往古の繁栄ぶりと伝える遺具や什宝は、数多く残されている。それはあまりに多いので、ここでは省略する。
多度津の賀茂神社
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。祭神 鴨大明神を祭る。道隆寺寺記には次のように記されている。村上天皇天暦元丁未年春二月、那珂郡真野の池(満濃池)の堤が崩壊することが数度に及んだ。そこで、興憲に詔して、地鎮と鎮守明神の遷宮を執り行わさせた。これが道降寺第七世と云われる。義経寄附状 義経が屋島島合戦の際に、当社で祈願を受けた。翌年、戦勝祝いとして神納した寄附状である。大般若経 武蔵坊弁慶が寄進した伝わる。右当社の什宝とし、虫千の砌拝見せしむ。道隆寺伽藍の図の末尾に)備中の国より此の寺に来りて、大師の忌に四国遍路の旅人に、飯菜をととのえて施しける供養にあひてはるばると吉備の中山なかなかに 高きめぐみと仰ぐもろ人 未曽志留坊
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