瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:道隆寺

 
「金毘羅名勝図会」(1819)に描かれた多度津港を紹介しました。すると、その後に出された「金毘羅参詣名所図会」で、多度津の名勝が紹介されている部分を見たいというリクエストがありましたので、資料としてアップしておきます。なお、金毘羅参詣名所図会の閲覧方法については、以下の方法があります。
① 香川県立図書館デジタルライブラリーで「金毘羅参詣名所図会」と検索すれば、すべてを閲覧できます。
②書物としては、歴史図書社 昭和55年発行  (古本屋価格5000円~)
多度津で金毘羅参詣名所図会に挿絵が載せられているのは、以下の4枚です。
①海岸寺本坊
②白方屏風ヶ浦と海岸寺奥の院
③多度津湊
④道隆寺
それでは、①の海岸寺から、絵図と意訳変換文のみを紹介していきます。 
多度津 海岸寺
海岸寺(金毘羅参詣名所図会)

海岸寺2 金毘羅参詣名所図会
海岸寺本坊
本  坊 奥ノ院の境内とは離れて別に伽藍がある
方丈客殿 庫一長・大師堂などがある。
   海岸寺奥の院 金毘羅参詣名所図会
海岸寺奥の院
海岸寺奥の院
奥 院 弘法大師の幼児尊像で、長二尺あまりの大師誕生の尊像で、大師35歳の時の自作という。
脇 壇 左右に大師の父母の木像が安置されている。
大師堂 本堂のそばにあって、正面が弘法大師の像、左右に薬師・観音を安置。これは天霧城主であった香川山城守の念持仏と云う。
浴巾掛松 大師堂の前にある松で、大師が幼稚の時に浴巾を掛けたまう松と云う。今は枯れて、雨覆いを作りって若木を植えてある。

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雨乞寺蔵 早魃の時に雨乞いを祈念する。霊験あらたなりと云う。
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産湯水(海岸寺奥の院)
産湯水  大師誕生の時に産湯として使った清水。眼病者が、この清水で洗えばすぐに治癒するという。
子育観音 産水の傍にある。
産盥 大師が誕生の時につかった盥だと云う。近頃、ここに納めて参観が禁止されている。五岳山善通寺は誕生院と号し、大師誕生の旧地だと云う。ところが海岸寺も誕生の古跡と主張する。どちらが本当なのか分からない。一説には大師の御父、佐伯善通は多度郡の郡司を領し、今の善通寺で生活していたが、郡港の白方にも別宅を持っていて、弘法大師はそこで生まれたという説もある。
海岸寺や仏母寺は、近世初頭から「弘法大師生誕の地・屏風ヶ浦」
を名のっていました。そらが幕末に善通寺から訴えられて、「弘法大師生誕の地」を名のることが禁止されたことは以前にお話ししました。海岸寺には、備前や安芸・石見からの修験者の先達に伴われた信者達が集団で参詣にきていたことは以前にお話ししました。どちらにしても、このふたつの寺は、もともとは修験者の寺だったようです。

DSC03862
熊手八幡宮
屏風が浦の多度津街道沿いにある。多度津から十丁程で、乾方になる。
本社  祭神応神天皇
末社  本社の傍らに数多列す。
神興合・鐘楼・随身門  額に弘法大師産の神社とある。
熊手八幡の別当寺が仏母寺でした。

多度津湛甫 33
多度津湊 
   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。
道隆寺 金毘羅参詣名所図会
       桑田(そうでん)山明王院道降寺                      

(本堂裏の道隆塚)前の標石には「道隆親王の塚」とあるが、道隆は親王ではない。道隆寺は四十三代元明天皇の時代に、和気の道隆という人物が創建したと伝えられる。

道隆寺 道隆廟
開祖道隆公(道隆寺)
道隆は景行天皇十二世の末裔で、父は那珂郡木徳の戸主和気淳茂の次男である。かつて道隆の所有する北加茂の土地に、千株の桑を植えた。これが「讃岐国の桑園」と呼ばれるものである。この桑園の中に一丈五尺の大木あった。種々な怪奇現象が起こるので、この木を伐って薬師如来を彫刻させて、小堂を作りて安置した。道隆は、日夜これを拝んだ。そして、神護二丙午年秋七月十五日午之刻、年齢99歳で亡くなった。
 その孫の朝祐が、延暦十二癸来年なって、霊魂のお告げを聞いて、弘法大師に会った際に先祖のことをかたり、例の桑の大木から作った仏を見せて、小像なので、もっと大きな仏像を造って欲しいと大師に請うた。大師は、その先祖供養の篤信に感じ入り、長二尺五寸の薬師如来を造り、今までの桑仏をその仏の胎中に納れ、永世不失の秘仏とした。
 こうして朝祐は深く仏教に帰依し、髪を剃って戒をうけ出家した。そして、家財・財宝を捨てて、住居をお堂として大師が造った木尊を安置して、大師を供養した。そして、境内四町四方を伽藍として堂塔を建立した。先祖道隆の名前を寺号とし道隆寺とした。弘仁末年朝祐人道、大師を請じて結縁灌頂が執行された。遠近の数多くの僧侶や民衆が道隆寺に集まり、市を為すほどであった。この時に寺を十余宇作って、群参した人々を入れた。

道隆寺薬師堂
道隆寺薬師堂(戦前の絵はがき)
 その後、道隆寺は学問寺として仏法繁興の区となり、弘法大師の弟である真雅僧正や、後には聖宝尊師もこの寺の住職を務めた。ところが兵火に罹り、殿堂は悉く焼失し、現在では、昔の繁栄ぶりを想像することもできない。しかし、往古の繁栄ぶりと伝える遺具や什宝は、数多く残されている。それはあまりに多いので、ここでは省略する。

DSC05233多度津賀茂神社
多度津の賀茂神社


祭神  鴨大明神を祭る。
道隆寺寺記には次のように記されている。村上天皇天暦元丁未年春二月、那珂郡真野の池(満濃池)の堤が崩壊することが数度に及んだ。そこで、興憲に詔して、地鎮と鎮守明神の遷宮を執り行わさせた。これが道降寺第七世と云われる。
義経寄附状  義経が屋島島合戦の際に、当社で祈願を受けた。翌年、戦勝祝いとして神納した寄附状である。
大般若経  武蔵坊弁慶が寄進した伝わる。右当社の什宝とし、虫千の砌拝見せしむ。
道隆寺伽藍の図の末尾に)
備中の国より此の寺に来りて、大師の忌に四国遍路の旅人に、飯菜をととのえて施しける供養にあひてはるばると吉備の中山なかなかに 高きめぐみと仰ぐもろ人            未曽志留坊
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 京都大学蔵の来田文書(天文14年1545)には、丸亀平野の熊野行者の残した次のような「道者職売券」があります。

「右の①御道者、②代々知行候と雖も、急用有るに依りて米弐百石、③堺伊勢屋四郎衛門に永代替え渡し申す処、実正明白也」

意訳変換しておくと
「右の御道者(熊野行者)は、②代々にわたって以下の知行(かすみ)を所有してきたが、急用に物入りとなったので米二百石で、堺伊勢屋四郎衛門に永代に渡って売り渡すことになった。実正明白也」

①「右の御道者」とは、熊野三山に所属する山伏で熊野道者(行者)のことです。

熊野牛王(クマノゴオウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
熊野牛王(護王ごおう)
熊野道者は熊野信仰護符の熊野牛王(護王ごおう)を配って全国を廻国していました。熊野行者の行動範囲や信者組織は「なわばり化」して、財産となり売買の対象にもなっていたことは以前にお話ししました。それは「知行」とか「かすみ」と呼ばれるようになります。熊野行者たちも、時代が下ると熊野を離れ有力者を中心に元締めのような組織が形成されるようになります。この史料で登場するのが③「堺の伊勢屋四郎衛門」です。
この売買証文は②「代々知行候と雖も、急用有るに依りて米式百石」とあるので、自分の「かすみ」を「米2百石」で「永代替え渡し(売買)したことが分かります。
それでは、売り買いの対象となった「かすみ」はどこなのでしょうか?この文書のはじめに、次のような地名が出てきます。
一、岡田里一円
一、しもとい(?)の一円
一、吉野里一円から、 池の内(満濃池跡の村)
……大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺、三井之上、碑殿と続いて
一 山しなのしよう里(山階、庄)一円。 
一、見井(三井)の里一円。……此の外、里数の附け落ち候へども我等知行の分は永々御知行有るべく候」
出てくる「かすみ(なわばり」を示しておくと、
①鵜足郡の岡田(丸亀市綾歌町)
②那珂郡の吉野・池の内(まんのう町)
③多度郡の大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺(善通寺)
④三井の上、碑殿・山階、庄、三井一円(多度津町)
  残念ながら 「しもとい(?)」は私には分かりません。教えて頂けるとありがたいです。(コメント欄で、次のようにおしえていただきました。

しもとい ですが、鵜足郡土居村ではないでしょうか。市井では「しもどい」とも言われていたと西讃府志にあるそうです(コトバンク出展)

ここからは、阿野郡土居町→ 鵜足郡岡田 → まんのう→善通寺→多度津と、この熊野行者が丸亀平野一円の信者の家を一軒一軒門付けしていたことがうかがえます。ここで気になるのが、以前にお話しした牛頭権現のお札を配っていた滝宮牛頭天王(滝宮神社)へ念仏踊りを奉納していたエリア(坂本周辺・綾北條・綾南條・那珂郡七箇と重ならないことです。熊野行者と滝宮牛頭天王の社僧たちは、テリトリーを「棲み分け」ていたのかもしれません。

 このように遊行者は、熊野道者だけではありませんでした。
A 高野山の護摩の灰を持った高野聖(弥谷寺拠点)
B 念仏札を渡す時衆(宇多津の郷照寺拠点)
C 伊勢神官の御師
D 牛頭天王のお札を配る社僧(滝宮神社(滝宮の牛頭天王拠点)拠点
E 金昆羅道者  (近世以降の金毘羅大権現)
などへと、さまざまに姿を変えながら讃岐の里に現れます。
 振り返れば古代の仏教は、鎮護国家仏教で国家や貴族を対象としたもので、庶民は対象外でした。古代の国分寺や有力者の氏寺は、庶民の現世利益や祖先供養には見向きもしませんでした。官寺や大寺の手から見棄てられた庶民達に救いの手を差し伸べたのは、廻国の遊行者だったことは以前にお話ししました。つまり、中世の庶民は、廻国遊行者によって始めて仏教と出会ったことになります。

この証文が出された天文14年(1545)という時代は、戦国時代のまっただ中です。戦乱の中で熊野詣が困難になって、熊野行者達の経済基盤が崩されていたとされます。熊野行者の丸亀平野での活動が停滞していく中で、次なる遊行者が登場してきます。彼らの活動を、多度津で見ていくことにします。テキストは「多度津町史914P 村の寺」です。
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多度津葛原の浄蓮寺の由緒を、多度津町史は次のように記します。

葛原下所に一人の行者がどこからかやってきた。村外れの高園と言う少し高みに小さな家を建て、村の死人の世話をし墓守りをして、いつしか村人となった。鉢破れという地名はこれと関係があるかもしれない。その人は一代で終わった。人々はそのような者を待ち望むようになっていた。後、村の有力者の身寄りの者と称するものが、その家に寄食して、お念仏の教えを広め始めた。そしてみんなの合力を得て庵を建てた。それが葛原の浄蓮寺の起源で、その人は播州の赤松円心の子孫の田中可貞である。

ここからは次のようなことが分かります。
①行者が葛原下所に定着し、死人供養と墓守を行うようになった
②その後、有力者の家に寄宿した行人が念仏信仰を広めた
③村人が合力して建てた庵が浄蓮寺の起源である。
④葛原には念仏阿弥陀信仰の信者がいたこと。これが賀茂神社の念仏踊りにつながること。
  お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達であったようです。これが、庶民が聖を受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺・弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。ここからは、念仏聖たちの痕跡がいろいろな形で見えてきます。多度津の聖達の拠点であった道隆寺を見ておきます。 
多度津 堀江 明治22年
堀江周辺 明治22年

道隆寺のあった堀江の中世の地形復元を見ておきましょう。
「讃陽綱目」は、次のように記します。

地蔵鼻堀江村浜にあり。ここ山もなく岳もなく只平砂磯なるに海中に出張る事夥し。東は乃生(のお)岬、西は箱の岬を見通す。弘法大師作地蔵尊を安置す。芳々以って名高しと。されば砂磯の突出甚だ長かりしならんも自然の風波に浚はれて遂に其の跡を失ふに至り、地蔵尊は避して八幡神社境内南東隅にあり。牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現存し参詣者多し。

意訳変換しておくと
地蔵鼻の堀江村に浜がある。ここには山もなく岳もなく、砂浜が平磯となって海に突きだしている。ここからは、東の乃生(のお)岬、西の箱の岬(庄内半島)が見通せる。そして、弘法大師自作の地蔵尊が安置されていて、信仰を集めている。しかし、風波に洗われて、地蔵尊が埋まってしまうこともあった。そこで、地蔵尊を近くの(弘浜)八幡神社境内の南東隅に移した。これは、牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現在でも参詣者が多い。。

堀江港復元図2
          道隆寺と堀江湊の中世復元図
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江は海に突き出した浜(砂州)の上にあった。
②砂州の戦端に、弘法大師自作の地蔵尊が立っていた
③近くには弘浜八幡神社があった。

①の砂洲は桜川河口から東に伸びていたもので、川を流れてきた土砂が、潮流の関係で堆積してできたものと研究者は考えています。どちらにしても地形復元すると、道隆寺のすぐ北側までは海が入り込んできていたことが分かります。ここでは古代の堀江の海岸は、桜川河口から東に伸びる砂丘のような岬と、そこから一文字堤防のように東に伸びる砂州の間に、切れ目があり、背後に潟湖をあったようです。
また、高野山の高僧が讃岐流刑中に著した「南海流浪記」宝治2年(1248)の記に、善通寺の「瞬目大師御影」の模写のために京都から派遣された仏師の到着を次のように記します。

「仏師四月五日出京、九日堀江津に下着す」

仏師は4月5日に京都を出発して、海路で讃岐に向かい9日に、堀江港に到着しています。ここから13世紀半ばの多度郡の港は、堀江だったことがうかがえます。古代の多度郡の湊は、弘田川河口の白方湾でした。それが堆積作用で使用できなくなった中世になると多度郡の湊として機能するようになるのが堀江です。その堀江湊の管理センターが道隆寺です。
以前に中世の道隆寺について次のようにお話ししました。
①中世の堀江湊は、地頭の堀江氏(本西氏)が管理していた。
②13世紀末に衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した
③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた
④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。
⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。
⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」の交易ネットワークの一拠点として繁栄した。
⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。
⑧西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。
⑨道隆寺には、廻国行者や聖達がの拠点として、塩飽から庄内半島にかけての寺社を末寺化した。
こうして道隆寺を拠点とする高野山の念仏聖達は周辺の村々への「布教活動」を行うようになります。
 堀江の墓地について、多度津町史は次のように記します。

堀江と観音院
堀江の弘浜八幡宮と観音院の間にある墓地(観音堂)
堀江集落の中央に観音堂があり、えんま像が祀られてる。(中略)
在郷風土記 多度津
堀江の観音堂
堀江の古くからの家は、観音堂に祖先の古い墓を持っている。墓地の裏は(かつては)すぐ海である。表側では少し離れて西に弘浜八幡宮があるが、海側から見るとすぐ近くである。墓地に観音さんを祭って堂を建て、それが寺になったのが観音院で、今は少し離れて東に大きな寺となっている。観音院の本尊は観音の本仏である阿弥陀仏である。寺号の伊福寺のイフクという言葉も、土地から霊魂が出入りするという信仰に基づくものと思われる。(弘浜八幡)宮と墓と寺(観音院)と一直線に結んで町通(まつとう)筋という、広い道があり、堀江集落の中心をなしている。両墓制から生まれた寺は心のよりどころとして、仏を祀るところともなる。この種の寺は民衆の寺である。 
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江集落の墓地が海際の砂州に作られ、そこに観音堂が建てられたこと
②それが後には、現在の観音院に発展していったこと
③神仏混淆時代には、神社も鎮霊施設として墓地周辺にあったこと
ここでは先祖供養の墓地に、観音堂が建てられ、それがお寺に成長していくプロセスを押さえておきます。

堀江の墓域と観音院の関係と同じような形が見えるのが、多度津の摩尼院や多聞院です。多度津町史は次のように指摘します(要約)。
①桜川の川口近くの両側は須賀(洲家)という昔の洲で、中世の死体の捨て場であった。
②念仏信仰の普及と共に、そこが「埋め墓」や「拝み墓」が続くエリアになった。
③桜川の北側(現JR多度津工場)あたりにには、光巌寺という小庵があり、そこへの参り道に架かるのが「極楽橋」。
④極楽橋の南の袂に観音堂、その観音堂から発展したのが摩尼院や多門院。
明治の多度津地図
多度津陣屋は、墓地の上に築かれた
 ちなみに摩尼院の本尊は、地蔵の石仏のようです。石仏が本尊と云うこと自体が、先祖供養の民間信仰から生まれた「庶民の寺」から発展したお寺だと多度津町史は指摘します。
  ここでは、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であることを押さえておきます。
摩尼院
摩尼院(多度津)
 最後に、道隆寺を拠点とした念仏聖達の活動をまとめておきます。
⑩高野山系の念仏聖達は、道隆寺を拠点に周辺の村々に阿弥陀信仰を拡げ信者を獲得するようになった。
⑪念仏聖の中には、村々の埋葬や祖先供養を行いながら庵を開き定着するものも表れた。
⑫その活動拠点が、多度津の観音院・摩尼院・多門院、そして葛原の浄蓮寺である。
⑬念仏聖は、高野山では時宗化しており、讃岐でも踊り念仏を通じて阿弥陀信仰を拡げるという手法を用いた。
⑭そのため多度津周辺では、踊り念仏が盆踊りなどで踊られるようになった。
⑮それが伝わっているのが賀茂神社の念仏踊りである。

多度津で南鴨念仏踊り/子どもたちが恵みの雨祈る | BUSINESS LIVE
加茂念仏踊り

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者
  の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。

(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町史914P 村の寺」
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前回は現存する讃岐の熊野系神社が、いつ頃に勧進されたかを追いかけました。確かな史料がないので社伝に頼らざるをえないのですが、社伝で創立年代が古いのは次の3社でした。
①高松市大田の熊野神社   元久~承元(1204~1298年)ころ
②善通寺筆岡の本熊野神社 元暦年間(1184)
③三木町小簑の熊野神社 文治年間(1185~1190)阿波の大龍寺から勧請
これらすべてを信じるわけにはいきませんが、12世紀末~13世紀に最初の熊野神社が讃岐に勧進されたとしておきました。こうして鎌倉時代には武士階級、とりわけ地頭クラスの武士が、それまでの貴族階級に代わり熊野参詣が盛んになります。そして彼等が信者になると、熊野神社が地方へ勧請されるようになります。讃岐の熊野系神社のなかにも、このようにして創建された神社があるのかもしれません。
今回は各熊野系神社に残る遺品から、その社の勧進時期を見ていくことにします。テキストは、 「武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版」です。

與田神社
東かがわ市の与田神社
①東かがわ市の与田神社に熊野本地を表した懸仏があります。
これが讃岐の熊野信仰遺物としてはもっとも古いとされます。与田神社は、明治の神仏分離以前には「若王子、若一王子大権現社、王子権現社」と呼ばれていました。その社名通り、熊野12社の若王子を祀った神社になります。ここに次のような面径15~25㎝の8面の懸仏が所蔵されています
①千手観音    平安時代末期
②阿弥陀如来 平安時代末期
③十一面観音 鎌倉時代
④四千手観音    鎌倉時代
⑤如意輪観音   室町時代
⑥薬師如来     室町時代
⑦薬師如来     室町時代
⑧阿弥陀如来    室町時代
これらの懸仏は神仏分離までは若王子(若一王子大権現社)に祀られていました、明治元年の御神体改めの時に社殿から取り除かれ、 一時期は隣接する別当寺の若王寺に保管されていたようです。その後、明治15年頃に権現社が建立され、そこに祀られるようになります。それからは忘れられた存在でしたが、1982年の夏に再確認され、世に知られるようになったという経緯があります。

熊野十二社権現御正体|奈良国立博物館
     重要文化財 熊野十二社権現御正体 奈良国立博物館

 ここで熊野十二所および鎮守・摂社などの本地仏を、復習しておきます。
A 本宮(証誠殿)    阿弥陀如来
B 新宮(早玉)      薬師如来
C 那智(結宮)      千手観音
D 若宮          十一面観音
E 禅師宮        地蔵菩薩
F 聖官          龍樹菩薩
G 児宮        如意輪観音
H 子守宮        聖観音
I 二万官        普賢菩薩
J 十万官        文殊菩薩
K 勧進十五所      釈迦如来
L 飛行夜叉        不動明王
M 米持金剛        毘沙門天
これを見ると与田神社の懸仏は、十二所の全てが揃っているわけではないようです。しかし、この神社がかつては若王子(若一王子大権現社)と呼ばれていたことや、千手観音・阿弥陀如来・如意輪観音などは揃っているので、もともとは十二体が揃っていて熊野の本地仏を表したものと研究者は推測します。
次に、研究者はこれらの懸仏の制作年代を次のように3期に分類します。
A もっとも古いのは①千手観音と⑧阿弥陀如来
  この2つ縁のついた円形の鋼板に銅で作られた尊形を貼りつけたもの。その薄い尊像の造形や穏やかな表現などから、平安時代末期から鎌倉時代初期
B ⑤如意輪観音・③十一面観青は木製の円形に二重の圏線を付けた鋼板を張っている。そこに鋳造した尊像を取りつけたもので「技術的退化」が見られるので鎌倉時代後期ころ
C薬師如来・千手観音・阿弥陀如来も木製の円形に鋳造した尊像を取りつけたもの。先の懸仏に比べて、ややその制作技術に稚拙さが感じられ、制作年代は室町時代までくだる。残りの如来形も室町時代と考えて大過ない。
以上を受けて、次のように推察します。
①本宮(阿弥陀如来)・那智(千手観青)・新官(薬師如来)の三所権現がまず平安末期に制作された。
②その中の新宮の薬師如米は、いつの頃にか失われた。
③その後に残りの九所が追造された。
懸仏の場合は多くの例からみて、他所に移動することは少ないと考えられるので、与田神社の懸仏も当初からここに祀られていたと研究者は推測します。
水主神社
与田神社

 この神社の由緒が記された『若王子大権現縁起』のなかに、観応二年(1251)の「寄進与田郷若王子祝師免田等事」などの記事があるので、南北朝時代にはこの神社は存在していたことが裏付けられます。そして、これらの懸仏の製作年代から若王子(若一王子大権現社)の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期のことで、南北朝時代から室町時代には、この地で繁栄期を迎えていたことがうかがえます。
 ちなみに、この地は近世には「弘法大師の再来」と言われた増吽の生誕地のすぐそばです。増吽は、この熊野神社を見ながら育ったことになります。
熊野曼荼羅図
重文 熊野曼荼羅図 根津美術館

つぎに多度津・道隆寺の熊野本地仏曼荼羅図(絹本著色 縦122㎝×横53㎝)が古いようです。
図中央の壇上に十二所の本地仏と神蔵の愛染明王、阿須賀の大威徳、満山護法の弥勒仏を描かれます。本宮・新宮・那智・若宮の四体を最前列とするのは珍しいようです。上下には大峰の諸神と熊野の王子が描かれ、最上部には北十七星が輝いています。制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀前半期とされ、香川県下最占の熊野曼茶羅になります。
なお道隆寺の摂社の本地仏は、次の通りです、
礼殿執金剛神    文殊普薩
満山護法神    弥勒普薩
神蔵権現      愛染明王
阿須賀権現    大威徳明王
滝宮飛滝権現    千手観音
道隆寺 中世地形復元図
中世の多度津海岸線復元図 道隆寺の目の前には潟湖が拡がっていた
この寺は、中世の多度津の港町である堀江の内海に位置していた寺で、堀江の港湾センターとしての役割を果たしていたことは以前にお話ししました。さらに教線ラインを瀬戸内海に向けて伸ばし、西は庄内半島の先まで、北は塩飽本島の寺や神社を門末に置いていた寺院です。早くから堺・紀伊などとの交流がありました。それを可能にしたのが備讃瀬戸の北側にある倉敷児島の「」新熊野」と称した五流修験です。五流修験は熊野修験者の瀬戸内海におけるサテライトとしての役割を果たし、熊野水軍のお先棒・情報箱として機能します。そして、その情報をもとに熊野水軍は利益を求めて、瀬戸内海を頻繁に航海したのです。当時の道隆寺 ー 児島五流 ー 熊野は、熊野水軍によって結ばれていたのです。そのため瀬戸内海沿いの諸国からの熊野詣では船便を利用したという報告もでています。

次は高松市六万寺の熊野本地仏曼茶羅です。
この曼荼羅も痛みがひどくて、全体像を窺うのは難しい所もあるようです。画風からみて南北朝時代から室町時代前期と研究者は考えています。その図様があまり例のないもので、図中央に薬師・阿弥陀・千手観音の熊野三所が描かれています。その下に地蔵菩薩・龍樹菩薩・釈迦如来・不動明王・毘沙門天など、十一尊が描かれていて、全部で一四尊になりますです。現存する作例の中には、三所権現(三尊)・五所王子(五尊)・四所明神(五尊)の合計十三尊が普通です。この図は一尊多いことになります。
図の上半分に、山岳中に新宮摂社神蔵の本地愛染明王、阿須賀権現本地の大威徳明王・役の行者・那智の滝が描かれます。下半分には熊野の諸王子が描かれたものです。研究者が注目するのは、図の下部右端に弘法大師が描かれていることです。熊野受茶羅のなかに弘法大師が描き込まれるのは、室町時代制作の愛媛・明石寺本、滋賀・西明寺本などだけです。これは「熊野信仰 + 弘法大師信仰」が次第に生まれつつあったことを示すものです。これが更に展開していったのが四国霊場の姿とも云えます。四国霊場形成史という視点からも注目すべきものと研究者は評します。
水戸の鰐口(2) - ぶらっと 水戸
鰐口

次は熊野系神社に奉納されていた鰐口です。    
A 林庄若一王子の鰐口には、次のような銘文があります。
「讃州山田郡林庄若一王子鰐口  右施上紀重長 応永元甲戊十一月 敬白」

ここからは次のようなことが分かります。
①山田郡林荘(高松市林町)の若一王子(拝師神社)に奉納された鰐口であること
②時期は応永元年(1394)で、紀重長の制作であること。
また、「讃岐国名勝図会」には拝師神社が「皇子権現」と記され、その創建を永享2(1430)年、造営者を岡因幡守重とします。14世紀末から15世紀初頭の時期に武士層によって建立された熊野系神社のようです。

次に古見野権現の鰐口には、次のように記されています。
「奉施人讃州氷上郷古見野権現御宝前鰐口也 応永二十七庚子十一月吉日 大工友守願主道法敬白」

これは現在の三木町小蓑の熊野神社で、応永27年(1420)の制作です。『香川県神社誌』には、文治年間に阿波国大瀧寺より奉迎されたと記されています。願主の道法とは、世俗武士の入道名のような響きがします。

松縄権現若一王子の鰐口には、次のように記されています。

「讃州香東郡大田郷松直権現若一王子鰐口也 敬白 永享九年十一月十八日大願主宗蓮女」

現在の高松市松縄町の熊野神社で永享九年(1427)に制作されたものです。なお、この鰐口は今は岡山県備前市の妙圏寺の所蔵となっているようです。
以上、讃岐の熊野信仰に関係する遺品を見てきました。そのまとめを記しておきます
①もっとも古い与田神社の懸仏により、讃岐の熊野信仰を平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡らせることができること。
②道隆寺本や六万寺の熊野曼荼羅図がもともとから讃岐にあったとすれば、鎌倉時代末期から室町時代にかけても熊野信仰はますます盛んであったこと
③各地の熊野神社に残る鰐口は、中世の熊野信仰の繁栄ぶりを示す。
の一端を窺うことができるのです。
これは先日見た讃岐関係の檀那売券が盛んに売り買いされていた時期と重なります。以上から、増吽が登場する以前から讃岐には熊野信仰が、いろ濃く浸透していたと研究者は判断します。特に最も古い尉懸仏を所有する与田神社(若一王子権現社)は、与田山にあります。ここは増咋が生まれ育った地域に近い所です。「幼いときから増咋の宗教的原体験のなかに熊野権現の存在があった」と研究者は推測します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武田和昭 讃岐の熊野信仰 増吽僧正81P 善通寺創建1200年記念出版
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三豊の古代郷
讃岐国三野郡詫間郷(庄内半島とその付根部分)
三野郡には詫間郷がありました。それが1250(建長2)年頃には、九条家領として立荘され詫間荘となります。その荘域は、荘鎮守の浪打八幡宮の祭祀圏から推測して、近世の吉津村、中村、比地村、仁尾村と詫間村の五ヶ村だったとされます。
詫間郷3
詫間郷の各地域
 詫間荘の惣荘鎮守社は、詫間村八幡山の浪打八幡宮です。この神社は、「名主座」と呼ばれる宮座で祭礼がおこわなれていたようです。今回は浪打八幡宮の宮座について見ていくことにします。テキストは「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。
浪打八幡神社/三豊市

まず、浪打八幡宮の放生会も御頭所(頭屋)を見ていくことにします。
  【史料A】  浪打御放生会御頭所
  ①比地村
一番 安行   二番 黒正   三番 守弘  四番 清追   五番 小三郎  六番 助房
七番 吉光   八番 糸丸   九番 貞門  十番 包松
  中村分
一番 宗国   二番 真守   三番 友成  四番 重光   五番 吉真   六番 安弘
七番 成松   八番 末守   九番 国正      (中略)
(中略)
  吉津詫間仁尾分十二年廻
一番 則永   助宗   守永
二番 経正   西光   則方
三番 真光   宗久   金武
四番 則久   時延   宗吉
五番 為弘   吉松   武経
六番 依国   行真   宗藤
七番 則包   近光   土用
八番 是時   国光   定宗
九番 光永   正光   友行
十番 秋弘   真光   久則
十一番 正光   為時   吉久
十二番 延正   末次   宗成
浪打御放生会御頭所Ξ
史料Aは、浪打八幡宮の放生会の頭人の年周りの割当表です。
「秋弘」などは、人の名前で「名」になるようです。そして、浪打八幡宮の放生会の当番については、次のようなことが分かります。
①比地村10名で10番まであるので10年ごとに巡ってくること。
②中村は9名で9番までなので9年ごと
③吉津村・詫間村・仁尾村分は三名1組で12番まであり、12年ごとにめぐってくる。
そして比地1名 + 中村1名 + 吉津・詫間・仁尾3名=5名で担当したようです。このように、各村の名によって「御頭(頭屋)」が決められているので、浪打八幡宮の宮座は名主座だと研究者は判断します。
史料Aは写で、中略部分に「正元ハ永正六(1509)マテ五十一年二成也」とあります。ここからは原文書の年紀は1509(永正6)年のものと分かります。16世紀初頭の浪打八幡宮では名主座という宮座によって祭礼が行われていたようです。 辞書で「名主座」を調べると次のように記されています。

「名主座は宮座の一形態で、 14世紀初頭ごろに成立した名主頭役身分の者たちが結集した村落内身分集団」

よく分からないので、あまり深入りしないで、先に進みます。
それでは、浪打八幡宮の名主座は、いつごろ成立したのでしょうか。
【 
浪打八幡 駕輿丁次第之事

史料B(端裏書)「八幡宮 御放生会驚輿丁并義量等神判 写」
史料Bは、浪打八幡宮放生会の駕輿丁と太鼓夫の勤仕を定めたものです。ここからは次のようなことが分かります。
①  駕輿丁は、4人の名で担当し  左右の場所まで指定される。
② 仁尾は太鼓夫を担当している
この勤仕も「名」によって行われています。
①「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件
②明徳二(1291)年 八月九日定之」
史料Bの②からは、1291(明徳二)年の年期があるので、元寇後の13世紀末には、浪打八幡宮の名主座は成立していたことが分かります。①については、次の史料と一緒に見ることにします。浪打八幡宮が詫間荘惣荘鎮守社であることが確認できる史料をみておきましょう。
史料Cは、1367(貞治六)年2月の浪打八幡宮年中行事番帳の写です。
浪打八幡 八幡宮年中行事番帳之次第
【史料C】定 八幡宮年中行事番帳之次第

ここに記されているのは、詫間荘内の詫間・吉津・比地にあった寺院や坊舎などです。それが4つの寺を一組として、ローテションで浪打八幡宮の年中行事に奉仕していたことが分かります。ここに出てくる寺院や坊が、史料Bの
「右、社務供僧中検校雇頭神人有会合定之、以此補之面可勤仕者也、若背此旨者、可虚罪科也、働所定如件」
の「供僧中」だと研究者は考えています。この供僧中は本来12口でした。それが史料Cの14世紀になると新加入の供僧が増えて、その数はその倍以上にふくれあがっています。浪打八幡宮供僧中は、詫間荘全域ではありませんが、詫間・吉津・比地と荘内の各地域に分散しています。ここからは、浪打八幡官が惣荘鎮守社であるとともに、詫間荘全荘の宗教的センターの役割も担っていたことが分かります。

讃岐の武将 生駒氏の家老を勤め、生駒騒動の原因を作り出した三野氏 : 瀬戸の島から
正保国絵図に見る詫間郷周辺

史料Bでは、「社務供僧中検校雇頭神人有会合定之」とあります。
そして検校と惣官が署判しています。社務は神職で、署判している惣官がこれにあたるようです。検校は供僧の代表的存在、雇頭神人は名頭役を勤仕する名主のことでしょう。ここからは、浪打八幡宮名主座の運営は、社務・検校・供僧・名主の合議で行われていたことがうかがえます。そのなかでも史料Bに署判している社務(惣官)と検校が指導的な役割を担っていたようです。僧侶が神を祀る祭礼に奉仕するのは、今の私たちには違和感があるかもしれません。しかし、神仏混淆のすすんだ中世は、神も僧侶によって祀られていたのです。同時に、三野平野西部の詫間荘には、これだけのお寺や坊があって、多くの僧侶がいたことを押さえておきます。そして、その数は中世の間に、次のように大幅に増えています。
1391(明徳二)年の史料Bには、詫間・吉津・比地・仁尾の19の名。
1509(永正六)年の史料Cの頭文には、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の36名が見えます。
  別の見方をすると、浪越八幡社は36のお寺や坊が関わる地域の宗教センターであったことになります。そして、大般若経を整備したりする場合には、これだけの僧侶が写経や寄進に関わることになったはずです。
 それではこれだけの寺院に支えられた浪打八幡社は、どこの寺院の傘下にあったのでしょうか?
 それは多度津の道隆寺だったようです。中世の道隆寺明王院の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

道隆寺温故記
 
これを見ると西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。それは、その下で奉仕する僧侶達も影響下にいれていたことになります。
その中に
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」

 庄内半島や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。詫間荘の浪打八幡宮の祭礼に参加する僧侶達は、道隆寺の下に組織化されていたことになります。道隆寺は讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。道隆寺の果たしていた役割については、以前にお話ししました。それを要約しておくと
①地域の学問寺として僧侶育成の場でもあり、写経センター的な役割を果たしていた。
②堀江港の管理センターの役割を持ち、塩飽など海に開かれた布教活動を行っていた
③讃岐西守護代香川氏の菩提寺として、香川氏を経済的・文化的に支援した
 このように香川氏の下で活発な活動を行う道隆寺の傘下にあったのが浪打八幡宮と、それに奉仕する詫間荘の36の寺院・坊の僧侶達と云うことになります。道隆寺は、海を越えた児島の五流修験(新熊野)との関係があった痕跡がします。熊野修験 → 児島五流 → 道隆寺 → 浪越八幡という流れが見えてくるのですが、これを史料で裏付けることはできません。しかし、このような関係の中で、道隆寺傘下の寺社は活発な瀬戸内海交易活動を展開していたと私は考えています。そして、それを保護したのが天霧城の主である香川氏と云うことになります。

以上を整理しておくと
①三野郡詫間郷は、13世紀半ばに立荘され九条家の荘園となった
②その郷社として建立されたのが浪打八幡社である。
③浪打八幡社の祭礼には、詫間荘の 詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名や寺院がローテンションを組んで奉仕していた。
④浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていた。
⑤浪越八幡宮は、その上部組織としては多度津の道隆寺の傘下にあった。
⑥道隆寺は海に開かれた寺院として、堀江港を管理する港湾管理センターの役割を果たしていた。
⑦道隆寺傘下の寺社は、道隆寺のネットワークに参加することでそれぞれの地域で瀬戸内海交易を展開した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」
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道隆寺
四国霊場第77番札所の桑田山明王院道隆寺は、中世には海に開けた寺院で、数多くの寺社を影響下に入れていました。道隆寺明王院が遷宮や供養に導師として参加している記録を一覧表にしたものが次の表です。
道隆寺の末寺

  神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も一緒になっていますが例えば次のような寺社が見えます
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382) 白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482) 粟島八幡宮導師務める。
ここからは西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社や寺院を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。近世になって書かれた『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」

ここからは、中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、三野郡や瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
道隆寺明王院が導師を勤めた寺院として、弥谷寺の名前も見えます。
正安元年(1299)の6月17日、道隆寺明王院主が
「爾谷寺(弥谷寺)観音堂入佛導師」
応永15年(1408)6月17日にも、再び
「爾谷寺観音堂入佛導師」とあります。
ここからは13世紀末から15世紀初頭に掛けて、弥谷寺は道隆寺と関係が深く、もしかしたら本寺としていたことがうかがえます。
 この時期は以前にお話しした「弥谷寺石造物の6時代区分」で見ると、第1期で阿弥陀三尊像に代表される磨崖仏が姿を現し、境内に磨崖五輪塔が活発に作られ続けた時期にあたります。同時に、寺院組織も整い、学と行が活発化したことを、弥谷寺に伝わる膨大な聖教類から研究者は推測します。ここでは、中世の弥谷寺が多度津の道隆寺と深い関係にあったことを押さえておきます。     
DSC05809
道隆寺本堂
当時の弥谷寺西方の三豊地域の修験者の動きを見ておきましょう。
四国霊場68・69番札所の七宝山神恵院観音寺に、徳治2年(1307)に第41世蓮祐が書家を雇って書写させた『讃州七宝山縁起』があります。
七宝山縁起 行道ルート
         『讃州七宝山縁起』
意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手)で大師勧進。
第三宿は経ノ滝
第四宿は興隆寺で号は中蓮
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山である。
七宝山縁起 行道ルート3


ここには、観音寺をスタートとして三十三日をかけて七宝山を行場として修行する「中辺路ルート」があり、「峯中の宿」があったことが分かります。
 興隆寺は、第70番札所七宝山持宝院本山寺の江戸中期の『縁起』には、本山寺の奥之院とされています。興隆寺には、25段の岩窟があり、種字が刻まれた石が敷かれていたと記されますが、近世期には二段しかなくなり、本堂や仁王門も礎石が残るだけになっていたようです。現在でも多くの五輪塔が山中に眠るように並んでいるのは、以前に紹介したとおりです。
経の瀧は、現在は「不動之瀧」と呼ばれ、毎日三回「威怒尊王」が現れると伝えられる瀧です。ここも行場としては相応しいところです。
 第六宿の神宮寺は、『道隆寺温故記』にも登場します。
さきほどの道隆寺の院主が導師を勤めた一覧表の中に、文保2年(1318)8月に「三野郡生里之神宮寺大明神」の「遷宮導師」を務めていることが記されています。これが荘内半島の生里浦で、生里に神宮寺があったと研究者は考えています。
 荘内半島の積浦には、かつて山麓に「船積寺」と称する中世寺院があったようです。
天保11年(1840)に庄屋の陶山氏が藩に提出した書上帳の中に、船積寺の寺院ネットワーク5寺が次のように記されています。
岡本村 不動瀧、
比地村 岩屋寺
下高野村 興隆寺
生里浦 神正院
積浦 船積寺
 中世の神宮寺が近世の神正院の前身であったとすると、観音寺の中世縁起の中に書かれた「峯中宿」とほぼ一致することになります。船積寺には役行者伝承が色濃く残されていて、修験者との関係が深かったようです。
 以上にのように中世には、これらの行場や寺院は「七宝山中辺路」ルートで結ばれていて、修験者や念仏聖などの行人集団の行き来があったと研究者は考えています。彼らが歩んだ道は、また修行の道でもあったのです。
 近藤喜博氏は、四国遍路と西国巡礼との最も大きな違いは、遍路には「修行の道」という意味合いが強く込められている云います。それは、辺地(へち)を巡る行道の旅でした。中世行人集団の行道修行が四国遍路の「道ならし」の役割を果たしたと云えるのかも知れません。
 ところが、「七宝山辺路ルート」の行場や寺院で札所となったのは、観音寺と本山寺の2カ寺だけです。

弥谷寺と道隆寺の関係を、もう一度見ておきましょう。
 道隆寺は、信仰面でも弥谷寺に大きな影響を与えてきたようです。道隆寺は以前にお話したように、中世には多度津の堀江湊の管理センターの役割を担っていたようで、紀伊の根来寺との関係が深かったようです。海に開かれた瀬戸内の寺院として、塩飽諸島や庄内半島をの寺社を配下に組織していたことも先ほど見てきた通りです。
弥谷寺 深沙大将椅像
弥谷寺の蛇王権現

 弥谷寺には従来は蔵王権現とされてきた「蛇王権現」があります。弥谷寺以外に「蛇王権現」があるのは、讃岐では聖宝理源大師の生誕の地といわれる沙弥島の小さな神輿堂だけのようです。このふたつの「蛇王権現」を結ぶ役割を道隆寺が果たした可能性を研究者は指摘します。
道隆寺と弥谷寺をつなく民俗として現在に残っているのが「七ヶ所参り」だと研究者は指摘します。
七ヶ所参りを、近世後期の写し霊場とか、八十八ヵ所の短縮版とみる考えもあります。しかし、今見てきたように、中世の丸亀平野の宗教状況を考えると、曼荼羅・善通寺をはじめ、智証大師円珍の生誕の地である天台寺門宗の金倉寺、道隆寺や弥谷寺が、無関係にばらばらに存在したとは思えません。『道隆寺温故記』には、中世における寺社間の活発な協同や協力が記されています。
 修行面か見ると、『七宝山縁起』の七宿の「七宝山中辺路ルート」のような七カ寺の行道ルートがあっても自然のように思えてきます。
七ヶ所詣り
七ヶ所詣りのお寺
中讃には近世になっても「七ヶ寺参り」の風習が残っていました。
それは戦後まで続いていたようです。丸亀や多度津からのルートは、春の彼岸に、まず道隆寺に参拝します。そして金倉川沿いに金倉寺(76)を経て、善通寺(75)で一服して、甲山寺(74)、出釈迦寺(73)・曼荼羅寺(72)を経て、午後頑張って弥谷寺(71)へ登り、接待を受けるというものだったようです。そして帰りは、天霧山を越えて海岸寺(番外)に下っていきます。このれ今からみると、「逆うち」です。しかし、「七ケ所参り」のメインは善通寺ではなく、あくまで「弥谷さんにお参りする」ことがメインテーマで、弥谷寺が「結願」であったようです。そうだとすれば、この順路がもともとの参拝順だったことになります。
 三豊の七宝山の七宿は、ほとんどが廃絶してしまいました。しかし、中讃の七ヶ所参りは八十八ヵ所遍路と重なることで今まで存続してきたのかもしれません。ある意味、四国遍路以前の「四国辺路」ルートの痕跡が残っているといえます。この民俗の根底には、弥谷寺を阿弥陀浄土信仰の聖地として、ここに信者たちを誘引し続けた中世の念仏聖や高野聖たちの残した活動痕跡かもしれません。
DSC06056
道隆寺本堂
     以上をまとめておくと
①弥谷寺は中世には、念仏聖などによって阿弥陀浄土信仰の聖地として信者が誘引され、多くの磨崖五輪塔が彫られた。
②中世の弥谷寺は孤立した存在ではなく、多度津の道隆寺の影響下にあった。
③中世の道隆寺は、海岸寺から庄内半島、塩飽の島々の寺社を配下に入れて海に開けた寺院として繁栄していた。
④道隆寺は塩飽を通じて、備中児島の五流修験の影響を受けていていた。
⑤そのため道隆寺の影響下にあった海岸寺や弥谷寺には、五流修験者に誘引された信者たちを海を越えて参拝にくることもあった。
⑥五流修験=道隆寺の影響下にあった海岸寺や弥谷寺は、戦国末には弘法大師=海岸寺生誕説を流布するなど、善通寺や高野山とは別派的な動きを見せたときもあった。
⑦江戸時代になって、弥谷寺は善通寺から院主を向かえるようになって、善通寺と本末関係を結ぶようになり、道隆寺との関係は薄くなっていった。
⑧弥谷寺は中世以来の「イヤダニマイリ」の聖地であり、周辺寺院と「中辺路ルート」で結ばれていた。
⑨近世になって、行を伴う修行者の「四国辺路」から、お参りだけの「四国遍路」に移り替わって行く際に、「七宝山中辺路」ルートは消えたが、中讃の「弥谷寺七ヶ寺」ルートは遍路道として存続した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
白川琢磨   弥谷寺の信仰と民俗 弥谷寺調査報告書 香川県教育委員会 2015年
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道隆寺本堂
道隆寺本堂
  四国霊場の道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江の管理センター的な機能を持ち、備讃瀬戸に向けて開けた寺院でした。この寺には多くの中世文書が残されていますが、その中に「道隆寺御影堂作事人日算用帳」という帳簿があります。これは、天文21年(1552)に御影堂再建にかかった経費を記録した帳簿です。この中には「番匠・かわら大工・人夫手伝い・番匠おかひき(大鋸引)・鍛冶」などの職人が登場してきます。今回は職人たちに焦点を当てて、御影堂再建を見ていくことにします。

番匠
職人絵図 番匠(大工)

御影堂再建にかかった経費は15貰421文です。そのうちの工賃が次の通りです。
番匠101人に  5貫50文
かわら大工23人 1貫150文 
番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
これ以外に飯米として、それぞれに1升2合が支払われ、酒が振る舞われています。また人夫手伝いとして767人に一人当たり4合、かわら取り付け人夫に3合、しほたへの人夫に六合の飯米が支払われています。ここからは建築経費の内、職人への手間賃が約4割を占めていたことが分かります。それ以外にも飯米・酒代の支出が必要だったようです。
  まず驚かされるのが職人の数の多さです。「番匠(大工)101人、瓦大工23人」とあります。最初は延人数なのかと思いましたが、そうではないようです。これだけの職人が関わっていたのです。これらの大工職人を、どのようにして集め、組織していったのでしょうか? 今の私には分からないことだらけです。
5.瓦屋根の細部の名称-鬼瓦とか(屋根の雑学知識)
 
瓦大工については、馴染みが薄いので補足しておきます
それまでの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいました。これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりしてしまいます。そこで中世の瓦職人が考えだしたのが、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。瓦大工が瓦を焼いていたかどうかは分かりませんが、瓦を葺く専門の大工であったようです。もちろん当時は、瓦葺きの屋根は寺院などの限られた建物に限られていましたから、瓦の需要はそれほど多くはなかったはずです。相当の広範囲のエリアを活動地域としていたことが考えられます。

帳簿には、次のようにも記されています。
「三貫三百文 大麻かハらの代」    大麻からの瓦代金
「八百八十文 しはくのかハらの代」     塩飽からの瓦代金
ここからは御影堂の瓦は、善通寺の大麻と塩飽で4:1の割合で焼かれた瓦が使われたことが分かります。塩飽からは海を越えて船で運ばれ、大麻からは川船で運ばれたのでしょう。同時に大麻や塩飽には、瓦を製造職人がいたことがうかがえます。大麻は大麻山の麓に開けたエリアで、古墳時代には積石塚古墳の集中地であり、忌部氏の氏寺とされる大麻神社が鎮座します。近くに善通寺があり、古くから善通寺で使用する瓦の製造を行う職人集団が存在していたことは、以前にお話ししました。

塩飽本島絵図
塩飽本島周辺(下が北)

塩飽は、九亀市の塩飽本島のことです。本島にも瓦職人集団がいたことがうかがえます。
 塩飽は近世になると、船大工や宮大工で活躍する職人を多数輩出します。高見島などは、幕末の戸籍調査によると戸数の1/3が大工でした。かつては、船大工として活躍していた人たちが、元禄期以後の「塩飽造船不況」で、宮大工に「転職」したとも云われました。しかし、それ以前から塩飽には「宮大工」の流れを汲む職人たちがいたような気配がします。どちらにしても、中世末の塩飽本島には、「建築総合組合」的な集団があり、備讃瀬戸沿岸からの寺社のさまざまな建築物発注に応える体制が出来あがっていたのではないでしょうか。これが近世における塩飽の宮大工の広域的な活動基盤になっていると私は考えています。
  下表は中世の道隆寺明王院の院主が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表です。

道隆寺 本末関係
道隆寺明王院が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表
導師として出席とすると云うことは、道隆寺がこれらの寺社の本寺にあったということになります。
6塩飽地図

そのエリアは塩飽本島から白方、詫間、荘内半島、粟島・高見島など備讃瀬戸にある寺社と本末関係にあり、末寺の信者集団も傘下に組み入れていたことにあります。大きな寺院が専属の建築者集団を持っていたように、中世の地方有力寺院も本末グループ全体で「建築職人集団」を持っていた可能性もあると私は考えています。
 そうだとすると、道隆寺グループの末寺の改修工事等は、道隆寺と契約関係にある建築集団が行っていたことになります。道隆寺は、讃岐守護代の香川氏の保護を受け発展していました。それに連れて道隆寺に属する職人集団も成長して行くことになります。こうして16世紀には、道隆寺を中心とする職人集団が香川氏のお膝的の多度津や、塩飽衆の拠点である本島には形成されていたという仮説は出せそうです。
200017999_00161道隆寺
道隆寺 江戸時代後半
道隆寺の御影堂建立から約30年後のことです。
土佐の長宗我部元親が讃岐平定の祈願と成就御礼のために、金毘羅(松尾寺)に三十番社と仁王堂を寄進しています。
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。
天正十二年(1584)6月  元親による讃岐平定成就
天正十二年(1584)10月  元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
当時の金毘羅(松尾寺)は、長宗我部元親が土佐から招聘した南光院(宥厳)が、院主を任されていました。「元親管轄下の松尾寺体制」で、元親の手によって、松尾寺の伽藍整備が進められます。そして、讃岐平定が完了した年に、成就御礼の意味が込めて寄進されたのが仁王堂(門)です。二天門棟札が讃岐国名勝図会には、次のように載せられています。

二天門棟札 長宗我部元親
金毘羅大権現二天門棟札(讃岐国名勝図会)
右側が表、左側が裏になります。まず表(右)側を、書き写したものを見ていきましょう。
真ん中に
「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
左右に
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
とあって、その間には元親の息子達の名前が並びます。天霧城の香川氏を継いだ次男の香川「五郎次郎」の名前も見えます。ここで注目したいのは、その下の大工の名です。
「大工 仲原朝臣金家」
「小工 藤原朝臣金国」
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。
左側(裏)には、「別当権大僧都宥厳(南光院)」の下に、6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、「土佐占領下」の土佐修験道のメンバーだと私は考えています。
 その下には、職人たちの名前が次のように記されています。
「鍛治大工  多度津 小松伝左衛門」
「瓦大工  宇多津 三郎左衛門」
「杣番匠□□    圓蔵坊」
多度津や宇多津の鍛治大工や瓦大工が呼ばれていたことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係にある香川氏の拠点です。松尾寺の伽藍整備には、香川氏配下の職人が数多く参加しているようです。これらの職人は、香川氏の保護を受けていた職人たちとも考えられます。この時期の松尾寺の伽藍整備が、実質的には香川氏によって進められたことがうかがえます。
その左には、次のように記されています。
「象頭山には瓦にする土はないのに、本尊が安置されている寺内から(瓦作りに相応しい)粘土があらわれた。この奇特に万人は驚いた。これも宥厳上人の加護である。」
 ここからは新たに発見された粘土を用いて、周辺に作られた瓦窯で瓦が焼かれたことがうかがえます。先ほど見た道隆寺の御影堂の瓦は、大麻や塩飽から運ばれ来ていました。それが松尾寺の場合には、「瓦大工 宇多津三郎左衛門」が請負って、松尾寺山内の土を使って焼かれたとあります。

 中世末には地方の有力寺院の建立には、多くの職人が組織され働いていたことが分かります。その組織がどのようにして組織され、運営されていたかについてを語る史料は、讃岐にはないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号
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1 秋山氏の本貫地
秋山氏の本貫 甲斐国巨摩郡青島(南アルプス市)

秋山氏は甲斐国巨摩郡を本貫地とする甲斐源氏の出身で、阿願入道光季が孫二郎泰忠とともに弘安(1278~88)年中に来讃したことは以前にお話ししました。鎌倉幕府は、元寇後に西国防衛のために東国の御家人を西国へシフトする政策をとります。秋山氏も「西遷御家人」の一人として、讃岐にやって来た東国の武士団であったようです。秋山氏が、後世に名前を残した要因は次の点にあると私は考えています。
①日蓮宗の本門寺を下高瀬に西日本で最初に建立したこと。
②本門寺を中心に「皆法華」体制を作り上げたこと
③秋山家文書を残したこと
1秋山氏の系図
秋山家系図(江戸時代のもの 下段右端に光季(阿願入道)

秋山氏は三野郡高瀬郷を本拠としますが、高瀬に定着する前には、丸亀市の田村町辺りを拠点にして、他にも讃岐国内に数か所の所領を持っていたようです。讃岐移住初代の光季(阿願入道)に、ついては、江戸時代に作られた系図には、次のように記されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山家系図拡大(秋山家文書)
系図の阿願入道の部分を意訳変換しておくと
讃岐秋山家の元祖は阿願入道である
号は秋山孫兵衛(光季)。甲州青島の住人。正和4年に讃岐に来住。嫡子が病弱だったために孫の孫の泰忠を養子として所領を相続させた。
 阿願入道は、甲斐国時代から熱心な法華宗徒で、孫の泰忠もその影響を受けて幼い頃から法華宗に帰依します。阿願入道は、那珂郡杵原を拠点にして、日仙を招いて田村番人堂(杵原本門寺)を建立します。これが西日本初の法華宗の伝播となるようです。しかし、杵原本門寺が焼亡したため、正中二年(1325)に高瀬郷に移し、法華堂として再建されます。これが現在の本門寺のスタートになります。
秋山氏系図の泰忠の註には、次のように記されています。
   泰忠
「号は秋山孫次郎。正中2(1325)年 法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
ここからは、下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。同時に、祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠が実質的な讃岐秋山氏の祖になるようです。彼は歴戦の勇士で長寿だったことが残された史料から分かります。
三野・那珂・多度郡天保国絵図
天保国絵図 金倉郷から高瀬郷へ

 秋山泰忠は、どうして金倉郷から高瀬郷へ拠点を移したのでしょうか?
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここには高瀬を「最少」、丸亀平野の下金倉郷を「広博之地」として、金倉郷の優位性を記しています。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため開発が進まずに、古代から放置されたままになっていた地域です。それなのにどうして、秋山氏は金倉郷から下高瀬に移したのでしょうか。
三野町大見地名1
太い実線が中世の海岸線
秋山氏の所領はどの範囲だったのでしょうか?
秋山氏が残した一番古い文書は、次の泰忠の父である源誓が泰忠に地頭職を譲る際に作成した「相続遺言状」で、ひらがなで次のように記されています。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)
   本文              漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、    讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、 (伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし 孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候 (良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの   (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、 (兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、  (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために (知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (戒めの条)、此の如し) 
                    (秋山)源誓(花押)
  元徳三(1331)年十二月五日        
左が書き起こし文 右に漢字変換文
父源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。「讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る」とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎泰忠に、譲られたことが分かります。
 ここで気づくのは先ほど見た系図と、この文書には矛盾があります。江戸時代に作られた系図は祖父・阿願入道から孫の泰忠に直接相続されていました。「父・源誓」は出てきませんでした。しかし、遺産相続文書には、「父・源誓」から譲られたことが記されています。
ここからは、後世の秋山家が「父・源誓」の存在を「抹殺」していたことがうかがえます。話を元に返します。

讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図の三野郡高瀬郷周辺 赤い実線が伊予街道

 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていました。現在の旧伊予街道が考えられています。その北側の高瀬郷(下高瀬)を、泰忠が相続したことになります。現在、国道を境として上高瀬・下高瀬の地名があります。下高瀬は現在の三豊市三野町に属し、本門寺も下高瀬にあります。この文書に出てくる「下半分」は、三野町域、本門寺周辺地域で「下高瀬」と研究者は考えています。そうだとすると、この相続状で高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことになります。歴史的に意味のある文書です。
 この相続文書が1331年、系図には法華堂建立が1325年とありました。父の生前から下高瀬を、次男である泰忠が相続することが決まっていて、それを改めて文書としたのがこの文書なのかもしれません。文書後半には、兄弟間での対立があったことがうかがえます。
 長男が金倉郷を相続したことも考えられます。
 
三野湾中世復元図
    三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
 
  秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時の塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

意訳変換しておくと
「讃岐国高瀬郷と新浜の地頭職の事について、当所は親父泰忠が文和二年三月五日に、新浜、東村は源通に、西村は日源、中村は顕泰に地頭職を譲る。

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる
新はま東村(新浜東村)は、①東浜、
西村は現在の②西浜、
中村は現在の③中樋
あたりを指します。下の地図のように現在の本門寺の西側に、塩田が並んでいたようです。

中世三野湾 下高瀬復元地図

他の文書にも次のような地名が譲渡の対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここから秋山氏は、三野湾に塩田を持っていたことが分かります。

兵庫北関入船納帳(1445年)には、多度津船が「タクマ(塩)」を活発に輸送していたことが記されています。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾周辺船籍と積荷

上の表で2月9日に兵庫北関に入港した多度津船の積荷は米10斗と「タクマ330石」です。「タクマ」とは、タクマ周辺で生産された塩のことです。三野湾や詫間で作られた塩は、多度津港を母港とする荷主(船頭)の紀三郎によって定期的に畿内に運ばれていたことが分かります。船頭の喜三郎は、以前にお話しした白方の海賊衆山地氏の配下の「海の民」だったかもしれません。
 また問丸の道祐は、瀬戸内海の25の港で問丸業務を行っている大物の海商です。その交易ネットワークの中に多度津や詫間・三野は組み込まれていたことになります。
 讃岐東方守護代の香川氏と、三野の秋山氏は塩の生産と販売という関係で結ばれ、同じ利害関係を持っていたことになります。これが秋山氏の香川氏への被官化につながるのかもしれません。香川氏が多度津港の瀬戸内海交易で富を蓄積したように、塩は秋山氏の軍事活動を支える基盤となっていた可能性があります。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
  甲州から讃岐にやって来た秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移したのは、塩生産の利益を確実に手に入れるためだった。そのために塩田のあった高瀬郷に移ってきたと私は考えています。

  古代中世の三野湾は大きく湾入していて、次のようなことが分かっています。
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。そして中世には、港を中心にお寺や寺院が姿を現します。その三野湾や粟島・高見島などの寺社を末寺として、管轄していたのが多度津の道隆寺でした。下の表は、道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など参加した記録を一覧にしたものです。

イメージ 2
中世道隆寺の末寺への関与
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部まで末寺があって、広い信仰エリアを展開していたことが分かります。たとえば三野郡関係を抜き出すと
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、詫間・三野庄内半島から粟島・高見島の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
そこには備讃瀬戸対岸の児島五流の修験者たちもかかわってきます。
「熊野信仰 + 修験道信仰 + 高野聖の念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」という道隆寺ネットワークの中に、三野湾周辺の寺社も含まれていたことになります。

三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

旧三野湾周辺のお寺やお堂には、次のような中世の仏像がいくつも残っています。
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
  伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているようです。そのような三野湾の中に、秋山氏は新たな拠点を置いたことになります。
秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移した背景について、まとめておきます。
①西遷御家人として讃岐にやって来た秋山氏は、当初は金倉郷を拠点にした。
②秋山氏は、日蓮宗の熱心な信者で、日仙を招いて氏寺を建立した
③この寺が田村番人堂(杵原本門寺)で、西日本で最初の日蓮宗寺院となる。
④しかし、讃岐秋山家の実質的な創始者は、拠点を金倉郷から三野郡の高瀬郷に移し、氏寺も新たに、法華堂を建立した。
⑤その背景には、三野湾の塩田からの利益があった。秋山氏は塩田の拡張整備に務め、自らの重要な経済基盤にした。
⑥塩田からの利益は南北朝動乱時の遠征費などとして使われ、その活躍で足利尊氏などから恩賞を得て、領地支配をより強固なものとすることができた。
⑦兵庫北関入船納帳(1445年)には、詫間(三野)産の塩が香川氏の配下にあった多度津船で畿内に運ばれていることが記されている。
⑧塩の生産と流通を通じて、讃岐東方守護代の香川氏と秋山氏は利害関係で結ばれるようになっていた。
⑨旧三野湾は、製塩用の薪を瀬戸の島から運んでくる船や、塩の輸送船などが出入りしていた。
⑩海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことが弥谷寺など旧三野湾周辺のお寺やお堂に、中世の仏像がいくつも残っていることにつながる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


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兵庫北関入船納帳

『兵庫北関入船納帳』(入船納帳)は、戦後になって「発見」された史料です。
3兵庫北関入船納帳

この史料には文安2(1445)年に、通行税を納めるために兵庫北関に入船してきた船の船籍や梶取名(船長)、問丸(持ち主)、積荷などが記されています。ここからは、当時の瀬戸内海の海運流通の実態がうかがえます。この史料の発見によって、中世の瀬戸内海海運や港などをめぐる研究は大幅に進んだようです。以前に、「入船納帳」に出てくる讃岐の港町については紹介しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

今回は、讃岐船の「国料船」「過書船」について、讃岐守護代であった安富氏や香川氏が、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。テキストは  橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」です。
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                     兵庫沖の中世廻船(一遍上人絵図) 

 讃岐守護の細川氏は、足利氏の親族として幕府の中で重要な役割を果たし、京に在住していました。
そのために生活必需品を讃岐から海上輸送する船には、関税がかけられなかったようです。讃岐守護代の安富・香川などはは、「国料船」と呼ばれる関税フリーの輸送船の航行権を持っていました。ここからは、次のように考える研究者もいます。

「国料船を通じて見られる管理権が、単に国料船だけでなく、港津全体の管理権であったと考えられる」

つまり、安富・香川・十河氏の3氏は、「国料船」だけでなく、その船の母港の管理権も握っていたというのです。「兵庫北関入船納帳」に出てくる国料船は、備後守護山名氏と、細川氏の家臣である讃岐の香川・十河・安富の三氏だけに許された特殊な船だったようです。

「入船納帳」に出てくる国料船の記事を一覧表したの下図です。
兵庫北関入船納帳 国料船一覧

ここでは、讃岐3氏の国料船の船籍地に注目して見ていきます。3氏の拠点港は、次の港であったことが分かります。
①香川氏は多々津(多度津)
②十河氏は庵治・方本
③安富氏は方本・宇多津
このなかで研究者が注目するのは③の安富氏の国料船についての次の記述です。
三月六日
①方本     安富殿   国料   成葉   孫太郎
四月十四日
  元ハ方本成葉船頭
②宇多津    安富殿   国料   弾正 法徳

①の国料船は、3月6日に兵庫北関に入港してきた時には、船籍は方元(屋島の潟元)で、船頭は成葉、問丸が孫太郎、と記されています。ところが4月14日に入港してきた時には、②のように、船籍が宇多津、船頭が弾正、問丸が法徳に変更されています。そして註には「元ハ方本成葉船頭」(元は潟元の成葉が船長だった)と注記されています。そのまま理解すると①と②の船は、同一船で、もともとは「方本港の船頭成葉」の船であったということになります。とすると1ヶ月の間に、船籍が方本(成葉)から宇多津(弾正)へ移ったことになります。
もうひとつ研究者が、注目する記事を見ておきましょう。
四月九日
 本ハ宇多津弾正殿
③多々津(多度津)  賀河(香川)殿  国料   勢三郎   道祐

③の記事は多度津の香川氏の国料船の記述で、註には「本ハ宇多津弾正殿」の船と記されています。それまで宇多津船籍として運航されていた船が、多度津港に移動してきたことが分かります。

3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐の船籍一覧表

 これらの国料船の船籍移動を、どう理解すればいいのでしょうか?
これについて研究者は、次のように記します。
「香川氏の国料船はもとの船籍地が宇多津で船頭が弾正であったが、安富氏の船籍地移動と相前後して移動している。また十河氏の方本の国料船は安富氏のそれが宇多津に移って後の五月十九日を初見とする。それゆえ移動は安富氏だけの問題ではなく、香川・十河の両氏の船籍地にも及んだ全面的な変動であった。安富氏が宇多津へ移ると同時に香川氏は宇多津の管理を止めて多々津(多度津)に集中し、 一方十河氏は近傍の庵治のほか安富氏の移ったあとの方本の管理権をも得て、画港を管理するようになった。これは管領細川氏の京上物を輸送するための船であろう。
   細川勝元は管領就任を機として有力被官三氏の主要港津管理権を調整し再編成して、分国讃岐における権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を図ったと考えられる」
以上を整理しておくと、港の管理権が次のように移動したようです。
①東讃守護代の安富氏は、西讃守護代の香川氏に代わって宇多津の管理権得た。その代償に、潟元の管理権は十河氏のものとなった。
②香川氏は、宇多津から多度津に移動し、多度津の管理権を得た。
③十河氏は、それまでの庵治の他に方元(潟元)の管理権は、安富氏から引き継いだ。
④細川勝元の管領就任にともなって、讃岐国元で港の管理体制についての変動があった。
  港名           旧来の管理者     新管理者
方元(潟元)港  安富氏 →   十河氏
宇多津港           香川氏 →   安富氏
多度津港     ?       香川氏  
注意しておきたいのは、これは港の管理権に限定された変更です。領土変更があったと云っているわけではありません。港に関しては、西讃の仁尾湊を、東讃の香西氏が管理してた例もあるので、港湾管理に関しては、守護代の権限とは別のルールがあったと研究者は考えているようです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世宇多津海岸線の復元図

安富氏が管理することになった宇多津の繁栄ぶりを、見ておきましょう。
 阿野・鵜足郡では、室町期になると松山津にかわって宇多津が繁栄するようになります。この背景には、讃岐守護細川頼之が、守護所を宇多津に置いたことがあるようです。大束川は、かつては川津から現在の鎌田池を経て、坂出の福江方面に流れ出していたことは、以前にお話ししました。そのため、古代は坂出の福江や御供所が港として機能していました。それが、大束川の流路変更で、中世にはその河口になった宇多津が港町として機能するようになります。宇多津の後背地には、鎌倉期に春日社領となる川津荘がありました。そのため河口の宇多津が、年貢積み出し港として機能するようになります。

6宇多津2
中世宇多津の復元図

 康応元年(1389)2月、将軍足利義満が厳島神社への参詣の時に、宇多津の細川頼之の館へ両者の関係修復のために立ち寄っています。その時の様子が『鹿苑院殿厳島詣記』に次のように記されています。「群書類従』巻第233。
「此処のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり。磯ぎはにつヽきて占たる松がえなどむろの本にならびたり。寺々の軒ばほのかにみゆ」

意訳変換しておくと

「宇多津の町のかたちは、北に向かって広がる海岸線にそって海人の家々が並んでいる。東は野山(聖通寺山)の尾根が北に長く伸びている。磯際の海岸線には、松並みが続き、建ち並ぶ寺々の軒がほのかに見える。

ここからは、宇多津が家々・寺々が軒を並べた大きな町並であったことが分かります。
 細川氏が讃岐と京との間を往来する時には、宇多津が利用されたのでしょう。そのために京の文化は、いちはやく宇多津へ伝わり、京に似せた寺院が丘の上には建ち並ぶようになり、細川氏の家臣が居住する屋敷が作られ、丘の下の海岸線沿いには多くの商工業者が集中して一大都市が形成されるようになります。そのために物資があつまり、集積され、輸送するための港が賑わうようになっていきます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
江戸時代後半の宇多津

室町時代の讃岐国は、安富氏と香川氏が守護代として、讃岐を二分統治していたことは以前にお話ししました。
①安富氏 東方7郡 大内・寒川・三木・山田・香川東・香川西・阿野南条
②香川氏 西方6郡 豊田・三野・多度・那珂・鵜足・阿野北条
東方守護代であつた安富氏は、守護代就任当初から京兆家評定衆の一員として重任されていました。そのため在京し、讃岐を留守にしてすることが多ったので、一族を「又守護代」として讃岐・雨瀧山に置くようになります。一方、西方守護代であった香川氏は、ほぼ在国していたようです。そのため安富氏と香川氏の在地支配の方法は、おのずと違ってくるようになります。
 香川氏は地元に根付いて守護代権限を行使するとともに、その権限を利用して在地支配を早くから推し進めていきます。その動きを見ておくと
永徳元(1381)年 香川彦五郎(平景義)が、多度郡葛原荘内鴨公文職を京都の建仁寺永源庵に寄進
応永19(1422)年 香川美作人道が随心院領弘田郷代官職を請負う。美作入道は香川氏一族の一人ですが、その後に押領を図ったため代官職を能免されています。
守護代香川氏の動きについては、よく分からないことが多いのですが、 一族が各地の代官職を請け負って、やがてはその地位を利用して押領をしていく姿が、三野・秋山文書などからはうかがえます。守護代は、もともとは違乱停止の社会秩序を防衛する立場です。しかし、一族の押領を容認し、一族を用いての所領化を図っていく姿が見えてきます。応仁の乱後には、その動向が強くなり、細川氏に代わって丸亀平野や三野平野において、独自の支配権を確立していきます。香川氏は、戦国大名化への道を歩み始めていたと云えそうです。これは、讃岐を不在にしていた東方守護代の安富氏とは、対照的です。

最初に文安二年(1445)に、宇多津の港湾管理権が移動したことを「兵庫北関入船納帳」で見ました。
この目的は、讃岐における守護細川氏の権力基礎の安定と京上物の輸送の確保を計ることにありました。しかし、京都で管領職を務める細川氏にとっては、もっと深いねらいがあったようです。細川氏の立場に立って、それを見ておきましょう。
応仁の乱 - Wikipedia
細川氏の分国 青色
  当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々を分国支配していました。そのため備讃瀬戸の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。

6塩飽地図

その防衛拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。
宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津の管理権を任せることになったというストーリーが考えられます。宇多津の支配が安富氏に委ねられたときに、塩飽も安富氏の管理下に置かれたようです。
 つまり、宇多津・塩飽を安富氏に任せたのは、宇多津 ー 塩飽 ー備中児島を結ぶ備讃瀬戸の海上覇権をにぎるための戦略でもあったと研究者は考えているようです。
   その後の備讃瀬戸をめぐる動きについて簡単に触れておきます。
16世紀になり、細川氏と大内氏との間で、備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争が展開されます。これに細川氏が敗れ、塩飽は大友方についた能島村上氏へと支配権は移動していきます。安富氏の塩飽支配は長くは続かなかったようです。
細川氏の隠され裏のねらいは、讃岐で勢力を拡大する香川氏の動きを抑止することです。
 香川氏は讃岐に残り、在地支配を強化する道を着々と歩んでいました。その際に、香川氏が守護所の字多津の管理権を握っていることは、香川氏の勢力拡大にプラス要因として働きました。その動きを阻止するために細川勝元は、信頼できる安富氏に宇多津を任せた。宇多津の管理権を、香川氏から奪った背景には、このような細川勝元の思惑があったと研究者は考えています。
道隆寺 中世地形復元図
堀江港の潟湖にあった道隆寺
応永六年(1399)に宇多津の沙弥宗徳が買い取った多度部内葛原荘の田地を、多度津の道隆寺に焔魔堂僧田として寄進しています。道隆寺は、中世の港として機能していた堀江港の港湾管理センターの役割を果たしていた寺院で、塩飽や庄内半島などの寺社を末寺に持ち、備讃瀬戸に大きな影響力を持った有力寺院だったことは以前にお話ししました。同時に、香川氏の保護を受けていたことも分かっています。その道隆寺に、宇多津の宗徳が田地を寄進しているのです。この宗徳が、どんな人物なのかは分かりません。ただ、土地を買い取るだけの経済力を持っていた人物であったことは分かります。彼は経済的発展を遂げている宇多津において、裕福な階層に属していたのでしょう。また徳の一字から見て、宇多津の問丸の法徳の一族とも推測できます。このような人物と結ぶことで、香川氏は経済力を向上させ勢力を拡大させていたことがうかがえます。これは守護の細川氏にとっては好ましいことではありません。それは、阿波の三好氏のような家臣登場の道にもつながりかねません。細川氏にとっては、宇多津の支配は重要な意味合いを持っていました。東讃岐に拠点を持つ安富氏を宇多津へと移動させたのは、このような思惑があったためだと研究者は考えています。
 
 宇多津を失った香川氏は、どうしたのでしょうか
  これに直接応える史料はないようです。考えられる事を箇条書きするのにとどめます
①堀江港に替わって、新たに桜川河口に新多度津港を開き、香川氏専用の港湾施設とした。
②白方に拠点を置いていた海賊衆山路氏を、配下に入れて輸送力や海上軍備の増強に努めた。
③三野方面へと勢力を伸ばし、三野氏や秋山氏を家臣団化した
④香西氏の代官を務める仁尾浦への介入を強めた。

応仁の乱を契機として、讃岐での細川氏の力は大きく減退し、在地の国人が活発に動きを見せるようになります。
それは守護細川氏の支配下から抜けだし、在地支配を強化していく道だったのでしょう。ところが、その前に阿波三好氏が侵人し、東讃岐の国人たちは従属していきます。
 その中にあって最後まで対抗したのは香川氏でした。香川氏が周辺国人たちを家臣団化し、戦国大名化していく様子がうかがえるのは、以前にお話した通りです。

以上をまとめておきます
①讃岐守護代の安富・香川氏は、関税フリーの国料船の運行権を持っていた。
②国料船の当初船籍は、安富氏が方元(屋島の潟元)、香川氏が宇多津であった
③その港湾管理体制が文安2(1445)年に変更され、宇多津を安富氏が管理するようになった④この背景には、守護細川氏の備讃瀬戸制海権や讃岐国内統治をめぐる思惑があった。
⑤備讃瀬戸に関しては、宇多津・塩飽を安富氏に任せることで制海権確保の布石とした
⑥讃岐統治策面では、台頭する香川氏の勢力拡大を阻止しようとした。
⑦しかし、応仁の乱の混乱で細川氏による讃岐支配体制が弱体化し、東讃は阿波の三好氏の配下に入れられていった。
⑧一方、西讃については西讃守護代の香川氏が戦国大名化し、最後まで「反三好」の旗印を掲げた。
⑨香川氏は、多度津港を拠点として瀬戸内海交易において経済的な富を獲得し、それが戦国大名化のための経済基礎となっていたふしかがある

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力所収
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 13世紀の蒙古襲来後、幕府によって一宮や国分寺をはじめとする全国の有力な寺社に異国降伏祈祷が命じらています。
荘郷鎮守1 
重要文化財「金光明最勝王経」
当時行われた異国降伏の祈祷を端的に示す経典

こうした幕府の政策は、諸国に寺社の修造ブームが巻き起こすことになります。鎌倉後半期の地方寺社の造営・修理の状況を見ると、文永の役から13世紀終末までに、地方では有力寺院の改築ラッシュが続いたことがこの表からはうかがえます。
荘郷鎮守1 現校長後の地方寺社一覧

讃岐では善通寺が上がっていますが、それ以外にも三豊の本山寺や観音寺本堂ははじめ、この時期の造営寺社は多いようです。この時の寺社修造ブームの背後には、修験者の活発な活動があったとされます。それを今までに見てきた讃岐での修験者や高野聖たちの活動に照らし合わせながら見ていきたいと思います。テキストは「榎原雅治 荘郷鎮守の地域的関係の成立  日本中世地域社会の構造 2000年」です。

中世寺院築造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
第一は、この寺社修造運動が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと
第二は、地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していたこと
 正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」

という条文があります。ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたようにも見えます。これも時代状況をよく反映した文言と研究者は指摘します。
 このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させたようです。聖や修験者の活動によって荘郷鎮守をはじめとするその地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。

 その代表例として研究者が挙げるのが西国三十三所観音霊場をコピーして、作られた巡礼ネットワークです。
例えば若狭三十三所は、国内の荘園公領の鎮守によって三十三所霊場が形成されます。このメンバーである寺社は、共同で「小浜千部経転読」などの一国規模での法会を営んだり、それぞれの寺院での法会の開催をめぐって相互に協力しあったりするようになります。この法会には、「十穀」=勧進聖が関わるようになります。つまりこの時期の若狭には、修験者や聖たちの活動に先導されて、荘郷鎮守の地域的ネットワークが成立していたのです。
2 長尾寺 境内図寂然

長尾寺

このような動きは、讃岐の高松周辺の後の四国霊場にも見られます。
例えばに、四国辺路に訪れた澄禅の「四国遍路日記」(1653)には、長尾寺について次のように記されています。

長尾寺 本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云、当国ニ七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

ここには、長尾寺はかつては観音寺と呼ばれていたこと、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に当寺を加えて讃岐七観と呼ばれていったことが記されています。
長尾寺 聖観音立像
秘仏本尊の前立像として安置されている長尾寺の観音様

また寺の伝えでは、江戸時代の初期までは観音信仰の拠点として「観音寺」と呼ばれていたといいます。坂出から高松に至る海岸沿いの後の辺路札所の寺院がメンバーとなって「七観音」を組織していたことが分かります。善通寺を中心とした「七ケ所詣り」のような集合体が、ここにもあったようです。それを進めたのは、白峰寺や志度寺を拠点とした備中の五流修験と私は考えています。
 また西讃地方では、雲辺寺・大興寺・観音寺・本山寺・弥谷寺・曼荼羅寺という寺も、七宝山をゲレンデにして辺路ルートを開き、修験道によって結びつけられていたことは以前にお話ししました。

修験者によって地域の寺がネットワークで結ばれるという動きは、当時は全国的なものでした。讃岐でも有力寺社が修験者や聖によってネットワーク化されていたのです。

浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後のころ、一宮、荘郷鎮守などの有力寺院が周辺の小規模な村堂を末寺化していくこと
②在地寺院同士が造営や写経などをめぐって「合力しあう地縁的な一種の連帯関係を有していた」こと、
③在地寺院の連帯関係が、自由信仰、石動信仰といった地域の村落の上層農民の信仰を基盤に成立していたこと
 有力寺院による寺院の組織化(末寺化)が同時進行で行われていたというのです。
道隆寺 中世地形復元図
中世堀江港 潟湖の奧に道隆寺はあった

周辺寺社の末寺化を多度津の道隆寺で見ておきましょう。
 道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江港の港湾管理センターとして機能していました。そのため海に向けて勢力を拡大していきます。戦略として塩飽や庄内半島の神社や寺院の造営や写経などに協力しながら、これらを末寺化していきます。それを示したの下の年表です。道隆寺が導師を務めた寺社一覧です。神仏混淆時代ですから神社も支配下に組み込まれています。
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことが分かります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門末の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮の導師はすべて当院(道隆寺)が執行してきた

とあり中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。
永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 このように室町期には、讃岐でも荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係が成立していたことが分かります。そして研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。そして、道隆寺も長尾寺の場合も、修験者や聖たちによって形成されたものなのです。これが「西国33ケ所廻り」のミニコピー版であったり、「七観音めぐり」「七ヶ所参り」であったようです。そして、「四国大辺路」へと成長して行きます。ここでは百姓の信仰に基盤をもった地域の寺社が、修験者らに導かれてネットワークを結ぶようになっていたことを押さえておきます。

讃岐でも寺院修造だけでなく、大般若勧進も連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと
②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと
③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと
荘郷鎮守の「地縁的な合力関係」のありさまを、塩飽本島の正覚寺の大般若経に見てみましょう。
大般若経 正覚院巻571巻g

この大般若経の各巻からは、文二年(1357)11月から次のような寺院で写経されたことが分かります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷 西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
仲郡金倉庄金蔵寺南大門 大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するために、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
大般若経 正覚院 下金倉
正覚寺(丸亀市本島)の大般若経 讃州仲郡金倉下村惣蔵社にあったことが分かる

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、後の四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。宗派よりも地域の連帯性の方が重視されたようにも思えます。
大般若経 正覚院道隆寺願主
正覚寺の大般若経 「道隆寺中坊祐業」の名前が見える

 この中で中心的な位置をしめた寺院が「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺だと研究者は考えています。
そして、これらの寺社はいずれも石動山系(石鎚)の修験と関わりの深い寺社のようです。

増吽 与田寺

金蔵寺で大般若経が書写されていた時代に、大川郡与田寺で活躍していたのが増吽(正平21年(1366)~宝徳元年(1449)です。
彼は中世の僧侶として、次のようないくつもの顔を持っています。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
  修験者・勧進僧・弘法大師信仰者として「荘郷を超えた寺社の地域的な相互扶助的関係」を讃岐・阿波・備中・備前の数多くの寺との間に作り上げていました。まさに、時代の寵児ともいえます。増吽のようなスーパー修験者によって、各地域の寺院は国を超えて結ばれネットワーク化されていったのです。

増吽 水主神社と熊野三山
水主神社
  中世の大内郡の神祇信仰の中心は、水主神社でその別当寺が与田寺でした。
 水主神社は大内郡の鎮守社であり、讃岐国式内社24社の一つでした。江戸時代のものですが「水主神社関係神宮寺坊絵図(水主神社蔵)」、文政四(1822)年には、水主大明神を中心にして約67の寺社が描かれています。与田川流域の狭いエリアにこれだけ多くの宗教施設がひしめきあっていたのです。坊舎をふくめると100を越える数になります。与田山周辺を含めると、さらに数は増えるでしょう。その中には、宗教活動だけでなく経済活動に従事する出家の者たちもいたようです。彼らは、信仰を紐帯にいろいろなネットワークを結んでいたようです。これらは増吽に代表されるように修験者たちによって形成されたもののようです。

水主三山 虎丸山

以上をまとめておきます。
①元寇後に、異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④それと平行して地方の有力寺社は周辺寺社を支援しながら系列化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして勧進聖や修験者によって、地方の有力寺社はネットワーク化され「七観音参り」「七箇寺参り」「小辺路」などのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」へとつながっていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 威徳院勝造寺の調査報告書が平成11年に出ています。この調査書を見ながら威徳院の歴史を見ていきたいと思います。報告書は最初に次のことを予備知識として確認しています
①威徳院は山号を七宝山、寺号を勝造寺
②江戸時代は大覚寺派で、その後東寺真言宗で現在は真言宗善通寺派の寺院
③江戸時代初めの生駒藩時代には、讃岐十五箇院の一つ
④澄禅の記した『四国遍路日記』(1653年)では讃岐六院家の一つとされる
⑤本尊は十一面観音で、中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えている。

寺号が七宝山とあることに注意しておきたいとおもいます。七宝山は、このエリアの霊山で行場の続く「小辺路」があった山です。観音寺縁起には、観音寺から始まって仁尾まで7つの行場があり、五岳の我拝師山と結ばれる「小辺路」があったことが記されていました。中世にはここを多くの修験者たちが行き交った形跡が残ります。行場近くには、寺院ができます。それが時代ととともに里に下ってきます。その典型が本山寺です。本山寺もかつては七宝山の山中にあったお寺が、14世紀前後に現在地に移り本堂伽藍を構えました。七宝山から里下りしてきた寺には山号を「七宝山」とする所が多いようです。これはかつては、七宝山を霊山として、奥社がそこにあった痕跡だと私は考えています。もしかしたら威徳院も、そのような性格をもっていたのかもしれません。
 
 威徳院勝造寺の寺暦を『七賓山威徳院由来』(天和元年(1682)で見ていきます。
ここには威徳院開基について二説が併記されています。
一つは弘仁12年(822頃)に空海が四国巡遊のおりに草坊があって、そこにとどまり修行をしたのが始まりというものです。
もう一つは寛平元年(889)、弘法大師有縁の地に三間四面の堂宇を建立したのを始まりとするものです。
しかし、その後257年間は不詳とします。
 どちらにしても真言宗のお寺らしく空海伝説を創建説話に持ちます。
久安二年(1146)秋に浄賢法印が威徳院住職となったと記し、その後、良尚をはじめ何人かの住職の名前を挙げますが、その後は
「二百三十四年間ノ史実、住職ノ人林不分明

とします。つまり、威徳院は、創建から南北朝期から天正期までの「歴史は不詳」なのです。
ところが良尚が、一次資料に別の時代に登場するのです。
威徳院と関係の深い本山寺の聖教の中の奥書に、次のような記録が残されています。
「永正十二年乙亥正月二十一日讃州勝蔵寺威徳院住持良尚法印書写本悉破損故今住侶慧丁写之」

また威徳院にある聖教の奥書にも、次のような書き込みがあります。
「永正十二年乙亥正月廿一日於勝蔵寺書之自萩原地蔵院此本申請或人書写之以後令苦労写之也右筆良尚」)

ここからは永正十二年(1515)に威徳院住持として良尚という人物がいたことが分かります。
また良尚は「本山寺龍響血脈」には、慶長二年(1597)に威徳院住職となったとされる秀憲の2代前の人物としても登場します。ここからは良尚は16世紀後半頃の戦国時代の人物の可能性が高いと研究者は考えているようです。つまり「威徳院由来」に13世紀末~14世紀初の人として登場した良尚は、威徳院の歴史を古く見せるための作為だったようです。

 こうしてみてくると威徳院には、古代中世の歴史はなく、16世紀後半になって姿を現してきた「新興寺院」の可能性があることになります。しかし、最初に⑥で見たように、この寺には中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えています。これをどう考えればいいのでしょうか。これはまた別の機会に考えることにして、先を急ぎます

  威徳院は、どのようにしてこの地に姿を現したのでしょうか。
   威徳院由来に実在が信じられる住職名が並び出すのは天正十年(1582)の良田法印からです。その後、慶長二年(1592)からは秀憲法印が住職になったと記します。
『威徳院由来』には良田・秀憲について、次のように述べています。
道隆寺ヨリ当院ヲ兼帯ストモ云ヘリ」

 突然に、ここで道隆寺が登場します。道隆寺とは四国霊場で、当時は中世の多度郡港である堀江湊の「港湾管理センター + 修学センター」としても機能していました。海の向こう側の児島五流の影響を受けて、塩飽諸島や詫間・庄内半島などの多くの寺社を末寺として、備讃瀬戸への教線ライン伸ばしていた寺院です。その道隆寺の僧侶が、威徳院の住職を「兼帯」していたというのです。にわかには信じられませんでした。

  ところが『道隆寺温故記』を見ると、良田・秀憲の二人の住職が実在していたことが分かります。そして、次のような行事に登場しています。(良田は田と表記されている)
永禄十一戌辰年(1568)冬十月廿六日、雄(秀雄)、入寂。良田、補院主焉。
天正三乙亥年(1575)春三月十八日、塩飽正覚院本堂入仏供養導師、田(良田)、執行焉。
天正拾壬午年(一五八二)夏卯月廿七日、鴨大明神、田、遷宮導師執行畢焉。
天正十六戊子年(一五八八)春三月十九日、多度津観音堂入仏導師、田、修之。
天正十六戊子年秋九月五日、多他須。宮遷宮導師、田、執行焉。
天正十七己丑年(一五八九)秋九月十七日、堀江春日大明神、田、遷宮導師墨 焉。
天正十八庚寅年(一五九〇)冬十月廿一日、葛原八幡宮、田、遷宮導師畢焉。
天正廿壬辰年(一五九二)夏六月十五日、白方海岸寺大師堂入仏導師、田、令執行畢。
文禄元壬辰年(一五九二)冬十一月日、田、移住塩飽正覚院兼帯常寺。
文禄五丙申年(一五九六)、(中略)于時、田、捕白方八幡宮神鉢破壊、即彫夫 木、厳八躯尊像、以擬旧記、令安坐、開眼導師畢。
文禄五丙申暦夏六月八日、鴨大明神遷宮導師、田、執行焉。
慶長一于酉年(一五九七)秋八月八日、金倉寺本堂薬師如来開眼供養導師同前。
慶長四己亥年(一五九九)秋八月十四日、下金倉八幡宮、田、遷宮導師令執行畢焉。
慶長六辛丑年(1602)夏五月十四日、堀江弘演八幡宮、遷宮導師同前。
慶長十乙巳年(1605)春二月廿二日、粟嶋(粟島)常社大明神遷宮導師、田、令執行畢。
慶長十乙巳稔冬十二月十六日、田、於塩飽終焉。同月廿二日、秀憲、補道隆寺院主焉。
慶長十二丁未暦(1607)秋八月十三日、葛原郷八幡宮遷宮導師、憲(
秀憲)、執行焉。
慶長十五庚戌年(1610)秋九月九日、堀江弘漬八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
慶長十六辛亥暦(1611)冬十月宿曜日、憲、入院濯頂焉。
元和二丙辰年(1616)秋八月吉日、堀江八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳年(1617)秋八月九日、粟嶋八幡遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳暦秋八月九日、粟嶋聖徳太子入仏導師、憲、令執行畢焉。
元和三丁巳年秋九月廿日、津森村天神、憲、遷宮令執行畢焉。
元和六庚申年(1623)夏卯月廿六日、憲、白方海岸寺大師堂入仏導師令執行焉。
元和九発亥年(1623)閏八月朔日、葛原八幡宮、憲、遷宮導師令執行畢焉。
寛永二乙丑(1625)九月、葛原八幡宮釣殿、供養導師秀憲修行。
寛永四丁卯年(1627)三月廿三日、憲、入寂
ここからは次のようなことが分かります。
①永禄11戌辰年(1568)に雄(秀雄)が亡くなり、代わって良田が道隆寺の住職に就任。
②道隆寺と本末関係を結ぶ寺社が島嶼部では塩飽や粟島、内陸では下金倉・葛原八幡までのびている。海に伸びる教線ラインを道隆寺は持っていた
③末寺の寺社の遷宮や供養には、良田が自ら出掛け、導師を勤めている。
④良田が導師を勤めているのは1605年までで、以後は秀憲に代わっている
⑤道隆寺側の資料には、良田・秀憲が威徳院を兼帯していたことは触れられていない

ここで良田の道隆寺住職の在任期間を確認しておきます。
良田は永禄11年(1568)に道隆寺三十世となって、慶長十年(1605)に亡くなっています。威徳院由来には良田の在職期間は天正十年(1582)から慶長二年(1592)までとなっていました。在任期間にズレはありますが、良田が道隆寺の住職を16世紀後半に務めていたことは史料から裏付けられます。

 良田の名は、天正頃の人として古刹島田寺(丸亀市飯山町)十二世としても名前が見えます。この人物については、よく分かりませんが生駒親正によって再興された弘憲寺(高松市)開祖良純につながる人物で、高野山金剛三昧院に縁のある人と研究者は考えているようです。これも同一人物の可能性があります。
 
本島の正覚院に伝わる『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。
天正三年(1575)二月十八日  道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏
供養導師を勤める。
天正十八年(1590)年    秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年  道隆寺の良田が正覚寺に移り、道
隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日  良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は、物流センターの塩飽への参入拡大です。そのために本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し、本島で生活するようになったというのです。

以上を整理すると良田は、道隆寺の住職で、飯山の島田寺・本島の正覚寺・威徳院を兼帯していたことになります。つまり、後の記録に「兼帯」していたことをこれだけ記録されているのですから人望のある僧侶であったことがうかがえます。同時に、良田の時代に道隆寺の寺勢が急速に拡大したようです。道隆寺の教線拡大政策の一環として、その教勢ラインが三野郡の勝間郷にもおよぶようになったのが良田の時代だった、そして、道隆寺の支援で、威徳院が下勝間の地に姿を現すようになったとしておきます。

  16世紀後半の威徳院をとりまく三野郡の情勢は激変期でした。
天霧城主香川氏家臣→長宗我部元親→生駒親正→生駒一正と支配者が交替していきます。秋山・三野文書からは1560年代の三野地方は、天霧山城主の香川氏に対して、阿波三好勢力が伸びてきて、一時的に香川氏は天霧城を退城したことが分かります。それでも香川氏は、三野氏や秋山氏に感状をだし、土地給付も行っています。ここからは、香川氏が滅亡したわけではなく、一定の勢力をもってとどまっているたことがうかがえます。1577年には秋山帰来氏への土地給付をおこなってるので、この頃までには香川氏の勢力が回復していたようです。
 この時期は、阿波三好氏側に麻や二宮の近藤氏がついていました。そのため香川氏の家臣団である秋山氏などとの間で小競り合いが続いていたことが史料からは分かります。三好氏の勢力範囲は麻から佐俣・二宮ラインまで及んでいたことになります。そのため各武士団の氏寺は、小競り合いの際に焼き討ちの対象となったかもしれません。三野氏の菩提寺とされる柞原寺も、このような中で一時的には衰退したことが考えられます。その宗教的な空白地に道隆寺は進出してきたとしておきましょう。
 道隆寺の教線の伸張ルートとして考えられるのは、以下の2つです。
①道隆寺 → 白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院
②道隆寺 → 白方海岸寺 → 粟島  → 三野湾 → 威徳院
 その原動力はなんでしょうか。
経済的には、瀬戸内海の交易の富でしょう。道隆寺は、堀江港の管理センターの役割を果たし、本島や粟島、庄内半島の末寺もネットワークに組み込んでいました。そこから上がる富がありました。
人的なエネルギーはなんでしょうか。これは児島五流修験の人的パワーだったと私は考えています。児島五流の布教戦略については、何度もお話ししましたのでここでは省略します。
 五流修験(新熊野)と道隆寺は強い結びつきがあったようです。
五流修験の影響を受けた道隆寺やその末寺であった白方海岸寺、仏母院などは、空海=白方誕生説を近世初頭には流布していたことは以前にお話ししました。ここからは高野山系の弘法大師伝説とはちがう別系譜のお話が伝わっていたことが分かります。善通寺と道隆寺は中世には、別系統に属する寺院であったことを押さえておきます。

  道隆寺グループを率いる良田の課題は、新しい支配者である生駒氏との間に、良好な関係を取り結ぶことでした。
それに良田は成功したようです。
天正十五(1587)年に、生駒親正が藩主としてやって来ると、国内安定策の一環として、以下の真言宗の古刹寺院を「讃岐十五箇院」を定めてを保護します。
一、虚空蔵院与田寺 (東束かがわ市) 
二、宝蔵院極楽寺 (さぬき市) 
三、無量寿院随順寺 (高松市) 
四、地蔵院香西寺 (高松市) 
五、千手院国分寺 (国分寺町) 
六、洞林院白峰寺 (坂出市) 
七、遍照光院法薫寺(飯山町) 
ハ、宝光院聖通寺 (宇多津町) 
九、明王院道隆寺 (多度津町) 
十、威徳院勝造寺 (高瀬町) 
十二 持宝院本山寺(豊中町) 
十二、延命院勝楽寺(豊中町) 
十三、覚城院不動護国寺 (仁尾町) 
十四、伊舎那院如意輪寺 (財田町) 
十五、地蔵院萩原寺 (大野原町)

ここには、道隆寺も威徳院も含まれています。
このリストを見て感じるのは、三豊の寺院の比率が高いことです。
6/15が三豊の寺院です。それがどうしてなのか、今の私には分かりません。この中に威徳院も含まれています。また、威徳院と住職が兼帯することになる本山寺や延命院・伊舎那院も含まれています。
もうひとつ気づくのは、普通は寺院の名称は山号・寺号・院号の順序で表記されます。ところが上の表記では、寺号と院号を入れ替えて山号・院号・寺号の表記になっています。院号が重視されているようです。
  
  そして、関ヶ原の戦いの翌年には、新領主となった一正から、威徳院は寺内林を持つことが認められます。
戦国時代末期の激変期に、良田は道隆寺住職として、兼務する寺や末寺の経営を担当し、その中で生駒家の保護を受けることに成功しています。そこには一正の信頼を得て奉行として働いていた三野郡出身の三野氏の存在が大きかったのではないかと思います。三野氏が地元の威徳院の保護を何らかの形で一正に進言したことは考えられます。
 しかし、 先ほども見たように『威徳院由来』は、良田ではなく秀憲を威徳院中興(創建)と位置づけ、高く評価します。逆に良田を「過小評価」したいようです。
 威徳院には、浄賢からはじまり勢深、勢胤、賢真、亮賢、良尚、宥尚秀憲の八人の肖像を描いた画幅「威徳院住職図」一幅があります。そこには、それぞれの命日が以下のように記されます。
中興開山浄賢七月廿九日
勢深二月五日
勢胤四月朔日
賢真五月廿八日
亮賢十月廿七日
良尚八月八日
宥尚九月六日/
秀憲三月廿三日」
ここにも良田は描かれていません。
  良田の後を継いだ秀憲を見てみましょう
道隆寺の記録に、秀憲は、多度郡堀江村の生まれで、慶長十(1605)年に道隆寺31世となり、寛永四年(1627)に入寂とあります。威徳院の記録には、
「威徳院・明王院(道隆寺)兼帯。堀江村出身、加茂にて命終」

と記します。ここからは、良田に続く秀憲も、道隆寺との兼帯です。
分かりやすく云うと「末寺」であったのでしょう。
その後の威徳院の動きを見ておきましょう。
慶長十六(1611)年には、生駒藩が高松に19か寺を集めて行った論議興行に、威徳院の寺名があります。このころには西讃地域での地位を確立したようです。
 丸亀藩山崎家からも寛永十九(1642)年に、生駒家寄進の寺領高20石が安堵されています。この高は西讃では一番多く、次に来る興昌寺が6石6斗のなので、当時の威徳院の寺勢が強さがうかがえます。そして、前回お話ししたように下勝間の新田台地の開発を着々と進めて寺領を増やして行きます。元禄十二(1699)には43石の寺領を持ち、最終的には寺領高150石に達します。これが威徳院の隆盛の経済的な基盤となります。
 
萬治二年(1659)に住職となったのが宥印法印です。
彼は金毘羅の金光院からやってきたようです。 金比羅神を祀る金光院の僧侶は「宥」の字をもらい受けます。慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金毘羅大権現の金光院の院主を勤めた宥睨のもとで修行し、高野山で学んだようです。金光院の院主たちは、山下家の出身地である財田周辺の才ある若者を預かり、見所有りと見抜くと高野山に送り込み学ばせて、人材を育成したようです。そのひとりが宥印だったのでしょう。有印は、出身地の中ノ村伊舎那院(三豊市財田町)と高野山善性院を兼務し、貞享元年(1684)高野山の善性院で入寂しています。
 高野山善性院は讃岐出身の僧侶と関わりが深かったようで、文政~天保頃の本山寺聖教にも本山寺住職体円などがこの寺と関係があったようです。高野山のお寺と兼帯する僧侶は、讃岐には他にも数多く見られます。
『威徳院由来』は宥印法印の口述を、弟子の宥宣が記したものです。その中で宥宣は、宥印を威徳院興隆の人としています。
それを裏付けるために、周辺の末寺の寺社の棟札銘などに残る宥印の名前を探してみましょう。
寛文三年(1663)八月九日 熊岡八幡宮「再興正八幡宮」棟札銘
「遷宮供養導師本寺勝同村威徳院権大僧都法印宥印
寛文五年(1665)九月二十三日 「建立大明神」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
同年同月             「建立八幡宮」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
寛文六年(1666)四月五日「建立新田大明神拝殿幣殿」棟札銘
   「遷宮導師勝間威徳院住持権大僧都法印宥印
寛文七年(1667))三月  「建立大瞬神宮」棟札銘
   「遷宮導師権大僧都法印宥印」(24)。
寛文七年(一六六七)    詫間村善性院「天満宮」棟札銘
   「遷宮井供養導師勝同村威徳院住持権大僧都法印宥印
ここからは威徳院の住職が周辺の神社の導師を勤めていることが分かります。地域における地盤も固まってきたようです。また、『威徳院由来』には宥印について、次のように記されています。
「当院住職中、的場寺大池及西谷上池ヲ新二掘り築ケリ」

的場の寺大池や西谷上池などの新しいため池築造も行っています。これは新田開発とセットになったものです。

  また有印以後は、威徳院は高野山との関係を強めていきます。
それと反比例するかのように道隆寺との関係が薄くなっていきます。これをどう見ればいいのでしょうか。
 これと同じような動きを見せるのが弥谷寺でした。弥谷寺は、近世初頭までは白方の仏母院などと「空海=白方誕生説」を流布していたのですが、高野山との関係が深まるにつれて、善通寺寄りの立場を取るようになります。同じような動きが威徳院にもあったのかもしれません。その切り替えを行ったのが高野山で学んだ有印だったのではないでしょうか。

以上をまとめておくと
①威徳院には、古代・中世に遡る歴史はない。
②威徳院は16世紀後半に道隆寺の教線拡大策として、三野郡に新たに建立(再興)された寺院である。
③道隆寺は「海に伸びる寺」として備讃瀬戸の島々の寺社を末寺に置き、そこから海上交易の富を吸い上げるシステムを作り、隆盛期を迎えていた。
④道隆寺はその経済力と、五流修験の人材で、白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院 → 本山寺と教線ラインを伸ばした。
⑤旧香川氏の重臣で、生駒家にリクルートされた三野氏を通じて、道隆寺は生駒家に食い込むことに成功し、関係する威徳院や本山寺などを生駒家の保護下に置くことに成功した
⑥威徳院は、下勝間の新田台地の開発を積極的に行い多くの寺領を拓いた。これが近世の威徳院の経済基盤となった。
⑦道隆寺の末寺として建立された威徳院は、17世紀半ば以降に高野山との関係を深めるにつれて、道隆寺との関係を清算していく。そして本山寺や延命園との関係を深めながら三豊地区の真言衆の中心センターとしての役割を果たすようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   威徳院調査報告書 田井 静明威徳院について  香川県ミュージアム紀要NO2


大般若経 正覚寺
塩飽本島正覚院の大般若経 1巻巻頭
香川県には、大般若経がいくつかの寺や神社の残されているようです。このお経は全部揃えると600巻にもなり、かなりの分量になります。常備するためには写経する必要があります。以前に、平城京の都で行われていた国の写経所で行われていた工程を見ましたが、人手と資材のかかる大事業でした。中世になると地方の有力寺院でも大般若経の写経が行われるようになります。例えば、大川郡の与田寺は増吽よって「瀬戸内の写経センター」として機能していたことは、以前にお話しした通りです。増吽に周辺には、日頃から写経に携わっていた僧侶のネットワークが形成されていていました。そして写経依頼が出されると、瀬戸内海沿岸や阿波の僧侶達が宗派を超えて「結衆」し、担当を任された巻の写経を行っていたことを以前に見ました。
 それでは、寺や神社に納められた大般若経は、どのように「活用」されていたのでしょうか。
大般若波羅蜜多経(略して大般若経)は、この経を供養するものは諸々の神によって、護られると説かれました。そのために多くの人々に信仰され、災いを除くためにその転読が盛んに行われてきました。転読とは、一体何なのでしょうか?
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 大船若緑六百巻を全部読むことは無理です。
そこで、いろいろな「省略」法が考えられます。例えばチベットのラマ教では、お経を納めた経蔵のまわりを回るとを読んだのと同じ功徳があるとされるようになります。わが国でもお経が収められた六角経蔵や八角経蔵をぐるぐる回っていたようです。そして、大般若経の場合は、お経を一巻一巻広げて、十人なら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくという転読スタイルが出来上がったようです。
 地方では「ショーアップ化」されたいろいろな転読スタイルが行われるようになります。
例えば、紀州の山間部では、お経の巻物を本堂の床に転がし、巻頭部分だけを読み巻き戻すというスタイルも登場します。熱が入ってくると、巻物は投げたようで、かなり手荒に扱われたようです。当然、傷みます。そういう意味では、大般若経は破損する経典だったのです。そのため補修修繕が欠かせなかったようです。しかし、このような目に見える形の祈願を庶民は好みます。中世になると転読に便利なように巻物から「折り本」に、形が変えられます。
大般若経 転読

折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだということになり、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくスタイルが定着します。庶民にとっては、こちらの方がショーアップ化されて「ありがたみ」があるように思えたのでしょう。これが各地の寺院や神社の祭礼にも取り込まれていきます。
 当時は、神仏混淆で、神社の祭礼も別当寺の社僧が取り仕切っていた時代です。僧侶達が主役となる大般若経転読の行事は、急速に郷村に広がります。このような動きが大般若経の写経活動の背景にあったことを押さえておきます。こうして大般若経の転読は、豊作析願、祈雨・止雨祈願、疾病抜除、その他災害を防ぎ、安寧維持のために盛んに行われるようになります。
大般若経 箱担ぎ
箱に入れられた大般若経を担いでの村まわり
 
四国霊場の本山寺では近世には、大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
大般若経のお経の入った箱を担いで村を回ります。これも地域を回って読む一つのやり方ですから、「転読」といえるのかもしれません。住職が手にするのは「理趣分」という四百九十五巻のうち一冊だけです。それを各家々で七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。この際に、折り本からです風を「般若の風」と呼びました。この風に当たれば病気にならないというのです。有難いお経の起こす風が信仰対象になっていたようです。

 大般若経は全六百巻もあるお経です。
それを備えるための書写や版経の刊行は大事業でした。その実現のためには、大きな資力や人的な結集を必要とされました。作成後も、それを維持するためには多くの費用と努力が求められます。逆に、大般若経がどのように作られたか、それがどのように維持されてきたのか、あるいは退転したのかについての研究が進むにつれて、いろいろなことが少しずつ分かってきたようです。今回は、塩飽本島の正覚院に残された大般若経が、どのようにしてここにやってきたのかを追いかけて見ましょう。
テキストは「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です
香川県丸亀市本島町泊の寺院一覧 - NAVITIME
正覚院
本島泊の妙智山観音寺正覚院は真言宗醍醐派の寺院で、塩飽諸島きっての古利として知られています。
この寺は京都の醍醐寺を開いた理源大師聖宝の生誕地という伝承もあり、現在も広く信仰を集めています。そして今でも護摩法要が営まれるなど密教山岳寺院の性格を色濃く残しています。中世には修験者たちの活動の舞台となった気配がします。

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正覚院(丸亀市本島)
 「正徳三年六月改」とある『塩飽島諸訳手鑑』によれば塩飽諸島には真言宗寺院33ヶ寺、天台宗1ヶ寺、浄土宗2ヶ寺があったと伝えます。真言宗寺院が圧倒的に多かったことが分かります。正覚院は、その中でも真言宗寺院の本山として大きな位置を占めていました。この寺には国指定重要文化財や県指定、九亀市指定の文化財がいくつかあります。
観光・イベント・スポーツ:歴史・文化財:正覚院 木造観音菩薩像 | 香川県 丸亀市

その中でも国指定重文の本尊観音菩薩坐像は脇侍の不動明王像、毘沙門天像とともに鎌倉時代初期のすぐれた中央作とされます。その他にも鎌倉時代初期の線刻十一面観音鏡像等もあり、正覚院の由緒を物語るものになっています。
正覚院 夏まつり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
正覚院の夏祭り
 正覚院は寺伝では空海開基、聖宝中興としていますが、そこまで遡るのは文献史料の上では難しいようです。しかし、寺のある泊地区は古来からの本島の中心地区であったようです。
P1180919

正覚寺には、九亀市指定文化財の大般若経があります。
現在は「二〇六帖」が確認され、全て折本のようです。これらは次の2種類に分類できるようです
①南北朝時代の写経で、表紙が渋引きし刷毛目文様の193帖
②鎌倉時代建保五年(1217)の奥書のある写経で、藍色表紙の11帖
①の南北朝以前の193帖を書写の時代で分けると、次のようになるようです
平安時代院政期 一帖
鎌倉時代前期 五帖
南北朝時代 百八十三帖
室町時代 三帖
江戸時代 一帖
大般若経は、最初にお話ししたように「投げられるお経」でしたから、破損や散逸が起きます。その度に不足の巻を補写・購入・寄進等によって補充していくことになります。そのために異なる時代、異なる装填の経典が混じってくるようになるようです。

P1180932
正覚院

この寺の大般若経が揃えられたのは南北朝時代のことなのに、鎌倉時代のものと思われる巻が含まれているのは、どうしてでしょうか。
①勧進の際の収集経(新たに写経されたものでなく既存流通の巻を購入した)
②後に欠けた不足の巻を寄進等などで補完したときに、鎌倉時代前期に書写されたものが、やってきて600巻の中に加えられた
などが考えられます。奥書に、勧進が開始されたとみられる文和四年よりも前の巻もあるようです。そして、もとからこの寺にあったものではないようです。大般若経は移動する経典なのです。それでは、いつどこからこのてらにやってきたのでしょうか?

大般若経 正覚院第1巻奥書

上の巻第一には「文和四年十月十一日 始之」とあります。讃岐の守護細川繁氏治政下で、三野の秋山泰忠が本門寺を建立していた頃の文和四年(1355)十月に、この巻から書写が開始されたようです。巻第五百七十二・五百七十三には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。しかし「願主」の下は空白です。そのため、誰がどのような動機でこの事業を開始したか分かりません。奥書があるのは巻第四百代に入ってからで、それを列記すると、次のようになります
巻第四百七      延文二年十一月八日
巻第四百九      延文二年十一月十三日
巻第四百九十二   延文二年十一月二十三日
巻第五百十七  延文二年十一月十四目
巻第五百二十七 延文二年十一月十八日
巻第五百二十八 延文二年十一月二十一目
巻第五百三十二 延文一二年二月二十日
巻第五百五十二一 延文二年十二月十三日
巻第五百七十一 延文三年二月十九日
巻第五百七十二 延文三年二月十八日
巻第五百七十三 延文三年二月十日
巻第五百八十八 延文三年二月十六日
巻第五百八十九 延文三年二月一日
延文二年(1357)十一月から翌年二月にかけて、巻次を追って書写が進行していることがうかがえます。四ヶ月間で二百巻の書写ペースです。文和四年十月から延文二年十月まで約二年間で四百巻を書写したことになります。大般若経の書写には、十年くらいはかかることはよくありました。それからすれば、このペースは速い方です。書写スタッフが充実していたことがうかがえます。スタッフは僧侶だけで、俗人はいないようです。僧侶でその所属の分かるものを挙げて見ると、次のようになります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
讃岐國仲郡金倉庄金蔵寺南大門大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するため、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。真木信夫氏は『丸亀の文化財 増補改訂』の中で、①③④を挙げて安国寺は長興寺であることを示すものとしています。しかし、①③④は同じ延文二年十一月に書写されています。もし長興寺が安国寺に指定されたとすると、一寺の寺が二つの寺名を使っていたことになります。そんなことがあるのでしょうか。
②の如幻庵については、何も史料がありません。禅宗系寺院の庵室の可能性を研究者は指摘するのみです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
愛媛県越智郡玉川町の龍岡寺蔵大般若経巻第五百九十八奥書には、西迎寺のことが次のように記されています。
迂時康暦第三辛酉二月参拾日 讃洲綾南條羽床郷西迎寺坊中令書写畢 金剛資有俊

ここからは羽床郷にあった西迎寺では、約30年後の康磨三年(1381)にも大般若経の書写が行われていたことが分かります。羽床は南の山を超えるとまんのう町種子の金剛院と近い位置にあります。金剛院からは多くの経塚が出土しています。金剛院は書経センターで、宗教荘園の役割を果たしていたことを報告書は記します。その周辺部の寺院でも大般若経の書写が行われていたことがうかがえます。

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。
この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
 この他にも、所属の分からない巻第四百九十三・五百八十八書写の金剛佛子宥海、巻第五百七十一書写の金剛仏子宥蜜も「金剛」がつくので密教僧であり、宥伎との関係が推測されます。

以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。
大般若経の書写には、「知識」を広く結縁するという願いがあるためか宗派の枠を越えて行われます。当時の讃岐では、増吽のいた大川郡の与田寺が書写センター的な役割を果たして、いくつもの大般若経の書写を行っていることは以前お話ししたとおりです。また奥書にみえる寺は、宇多津のヒンターランドの讃岐国中央部に当たります。おそらく奥書記載のない他巻の結縁者も、多くはその圏内の者であったと研究者は考えているようです。

 その中でも中心的な位置をしめた寺院は、どこでしょうか。
①~⑥までの中で云えば、「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺のようです。金蔵寺が書写事業の中心であったことは、この大投若経のその後の変遷からも分かるようです。
以上をまとめておくと次のようになります
残された奥書からからは、文和四年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻が完成したことが分かります。これは異例の速いスピードでした
  その70年後に、一部が失われたか破損したようで永享八年(1426)に補写された巻もあります。そして、延徳三年(1491)に、多度郡道隆寺の僧が願主となって、那珂郡下金倉惣蔵社の所有となっていた大般若経一部六百巻を折り畳む事業が行われます。これが最初の改装で、巻物から旋風葉にスタイルが変更されたようです。

 延文三年(1358)に完成した大般若経が、どこに納められたかは分かりません。
しかし、その後に破損が生じたためか永享七年(1435)に那珂郡杵原宝光寺の慶宥により書写され補充されています。宝光寺という寺は今はありませんが、慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶だったのでしょう。那珂郡杵原は、現在の九亀市柞原町で、宇多津と金蔵寺との中間にあたります。宝光寺僧が書写補配したことから、この周辺部に大般若経が置かれていたことはうかがえます。

大般若経 正覚院 下金倉
讃州仲郡金倉下村の惣蔵社の「御経」と読めます

 どこに保管されていたのかが分かるのは延徳三年(1491)になってからです。
下金倉村の惣蔵社(官)の常住経として保管されるようになったことが上の奥書から分かります。下金倉は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社は、今はありません。
延徳三年は、書写が完成した延文三年から130年以上も経っていますが、もしかしたら最初からこの惣蔵社に置かれていたのかもしれません。近年の各地の大般若経調査で明らかになったことのひとつに、明治の神仏分離以前は神社に大般若経があったことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、大般若経書写が最初から惣蔵社に奉納するために行われたとかんがえることもできます。宗派を越えた結縁者(書経参加者)のネットワークからは金蔵寺という一寺院へ納めるためというよりも、地域での信仰の対象であった神社に備えるために行われた可能性が高いと研究者は考えているようです。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
巻第六百の奥書
 延徳三年の奥書には他にも興味深い記載があるようです。
それは、上の巻第六百の奥書です。ここには
「讃州多度郡於道隆寺宝積院奉如件」

とあり、全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。軸を取り外して、一定の行数で折り畳み、前後の表紙と包背布を付けることは、私が思うような簡単な作業ではないようです。これには専門の経師の技術が必要でした。大規模な修理や改装になるので「再興」とみなされ、発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。

大般若経 正覚院道隆寺願主

 巻第四百七には、祐信は道隆寺別当と記されます。
道隆寺は以前にもお話ししたように「海に開かれた寺院」として、塩飽や白方、庄内半島などの寺社を末寺として、地域の中核寺院の機能を持つようになっていました。その道隆寺が惣蔵社の大般若経の折本化を行ったようです。
道隆寺 中世地形復元図
中世の堀江湊と道隆寺周辺の復元図
道隆寺は、金倉川を隔てて下金倉の西側に位置します。
道隆寺文書には永正八年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳三年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。それが改装事業をおこなう契機になったのでしょう。

P1180652
木烏神社(塩飽本島 泊)

それでは、下金倉にあった大般若経がどうして塩飽に移されたのでしょうか? 
下の巻第四・三百八・三百二・三百二の奥書からは、惣蔵社の大般若経が天正十三年(1585)には海を渡って塩飽島(本島)泊浦の木鳥宮(神社)の経典となっていたことが分かります。木烏神社は本島泊の鎮守社です。
大般若経 本島木烏神社

 ここには、木鳥宮経典として社殿から出さずに護持されるべきものであったが、「衆分流通」であると記します。「流通」とは、もともとは仏の教えを広めるという意味ですが、ここでは鎮守神祭祀を担う泊浦住民共通の経典という意味のようです。ここからは、この大般若経が木烏神社で年中行事や臨時の転読等に用いられていたことが分かります。
P1180664
   木烏神社本殿から鳥居方面を眺める 直ぐ向こうが備讃瀬戸

 この年に西山宝性寺住持秀憲が破損していた六巻を修復し、不足の巻を補っています。西山とは泊の西山で、宝性寺はかつては正覚院の末寺であり、木烏神社とも関係があった寺院だったようです。
なぜ大投若経がこの島に移されたのか、それはいつのことかなど詳しいことは分かりません。ただ、道隆寺と正覚院は同じ醍醐寺系の寺院として密接な関係にあったようです。
P1180933
正覚寺
正覚院の『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。

弘治二(1556)年九月二十日 道隆寺僧秀雄が正覚院尊師堂の供養。
天正三年(1575)二月十八日 道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏供養導師を勤めています。
天正十八年(1590)年   秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年 道隆寺の良田が正覚寺に移り、道隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日 良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は塩飽への教線ラインの参入拡大で、本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。そのために道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し本島で生活していたようです。ここからは道隆寺にとって、塩飽本島は最重要の拠点だったことがうかがえます。それが下金倉にあった大般若経を、塩飽泊浦に移す背景になったと研究者は考えているようです。分かるのは、戦国時代に道降寺信仰圏内にあった下金倉の惣蔵社から、塩飽本島に移されたという事実だけです。  
 その大般若経が現在の正覚寺移ったのは、近代になってからのようです。その理由については、よく分かっていないようです。

以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金蔵寺が願主となり大般若経600巻が書写された。それがどこに納められたかは分からない。
②この大般若経は、15世紀末には那珂郡の下金倉惣蔵社の所有となっていたことが分かる。
③それを、多度郡道隆寺が願主となって、「折り本」化するスタイル変更が行われた
④戦国時代末に道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(官)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です

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道隆寺 堀越津地図

 多度津町の四国霊場第77番の道隆寺周辺の中世の復元図です。この復元図からは、次のような事が分かります。
①道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港があった。
②金倉川河口西側に砂堆があって、そこに多度津があった
③弘浜は砂堆と砂洲との間にあり、ここが堀江津であった。
④砂洲の背後には潟(ラグーン)があり入江を形成した。
⑤入江の奥に道隆寺があり、船着場として好地であった
⑥道隆寺は堀江津にも近く、港をおさえる位置にある。
砂州が沖合に一文字堤防のような形で形成され、その背後に大きな潟ができていました。まさに自然の良港だったようです。そして道隆寺の北はすぐに海です。多度郡の港町は 
①古代 弘田川河口の白方
②中世 道隆寺背後の堀江
③近世 桃陵公園下の桜川河口
と移り変わります。中世に堀江が港町だった時代に、その港湾センターの役割を果たしたのが道隆寺であることは、以前にもお話ししました。
道隆寺1航空写真

今から約60年前の1962年の航空写真です。
多度津・丸亀線が道隆寺境内が境内の北側を通るようになったために、今では北側の駐車場に車を止めてお参りする人が多くなりましたが、雰囲気があるのは南側からのお参りです。人や車の行き来が少なくなって、昔の趣が残されています。

道隆寺山門

この寺にお参りすると風通しの良さというか、のびのびとした感じを受けます。なぜそう感じるのかを考えて見ると、本坊や庫裡が伽藍の中にないのです。善通寺の東院と同じよう感じです。朱印記帳も伽藍の方でできるので、本坊がどこにあるのかは分からずしまいです。

道隆寺伽藍

それでは本坊は何処に?

道隆寺 堀越津地図2
多度津道隆寺周辺 入道屋敷跡
 航空写真で見ると、仁王門や金堂などの建つ伽藍から東南東に100㍍ほどの所に本坊があります。
今回とりあげる居館跡は、この本坊西側の長方形の畑です。
東西75m・南北65mの畑で、20年ほど前までは周りに堀城の凹溝があったとそうです。この土地は昔から「入道屋敷」と呼ばれ、道隆寺と関連する城館址とされてきました。畑の周りは水田なのにここだけが畑なのは、周囲より少し高く水掛かりが悪く水田に出来ないからだといいます。この入道屋敷の主は誰なのでしょうか?  もし武士だとすると、なぜ道隆寺のすぐそばに居館があるのでしょうか。道隆寺との関係をどう考えればいいのでしょうか?


道隆寺 グーグル

 
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には14世紀初頭(1304)の発願状があって、寺の由来を次のように記しています。
①鎌倉時代末期の嘉元二(1304)年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
②讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本西(堀江殿)は、道隆寺を氏寺として崇拝する理由を、藤原道隆と善通寺の善通は兄弟だからだ答えたこと
③兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
④ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
 道隆寺は、もともとは法祖宗のお寺でしたが、その後衰退したのを那珂郡鴨庄・地頭の堀江殿が「入道」し、本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などを建立し伽藍整備を行ったとします。堀江殿は「道隆寺中興の祖」で、「入道」して修験者でもあったようです。彼は真言密教の修験者なので、その後の道隆寺は真言宗に属すようになります。

道隆寺 道隆廟

 なぜ堀江殿が道隆寺を復興(実際には新規建立?)したのかというと、由来書は善通寺を建立した善通と、道隆寺を建てた道隆は兄弟であったからだというのです。ここには、当時西讃地方で最も名の知られていた善通寺と、道隆寺が因縁の深い寺であるというセールス戦略があるようです。この由来を、そのままは信じられませんが中世の港である堀江港を支配下に置く地頭の堀江殿が「入道」し、道隆寺を建立したというのです。
道隆寺は堀江殿の「氏寺」として「再」スタートしたということになります。
「入道」は広辞苑には
「在家のままで剃髪・染衣して出家の相をなす者。」
「沙弥」は「剃髪しても妻子があり、在家の生活をする者」
とあります。道隆寺を建立し、堀江港の港湾管理センターの機能を担わせるには「入道」は良い方法のように思えます。
 
道隆寺3

道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
(嘉元二(1304)年)
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、
重修造伽藍
ここからは鴨庄の領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたことが分かります。そして鴨庄は道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。

金倉 鴨
道隆寺と多度津鴨庄

 以上をまとめておくと、嘉元二年(1304)、鴨荘下村の地頭沙弥本西(堀江氏)が田畠を寄進し、僧円信を助けて伽藍を修造するとともに、新たに御影堂を造るなどして再興し、氏寺としたということです。
その後は、領家光定をはじめ、西讃守護代で多度津に拠点を置く香川氏やその家臣とみられる管主などさまざまな階層から所領の寄進を受けるようになり、道隆寺は発展します。
 ある研究者は、本西(堀江氏)が子々孫々に対して道隆寺を氏寺と定め、その一族や一門にも信仰を厳命したことについて、

「氏寺の信仰を媒介として一族の結合と所領経営の維持・強化を図る武家の惣領としての強固な覚悟の表現である。ここに、氏のための寺である氏寺としての大きな役割がある」

と、道隆寺が中世においては、武士団の結束を固める一族の寺であったとしています。
道隆寺仏像

 伽藍整備などのハード面の整備は堀江殿によって行われたとしても、お寺に魂を吹き込むのは僧侶たちです。優れた僧侶がいないとお寺は繁栄しません。

道隆寺の復興を行った僧侶は、永仁三年(1295)に院主となる円信のようです。『道隆寺温故記』には、永仁三年(1295)二月の記事として、次のような記事があります。
 円信、従根来持若干ノ自相・教相ノ書峡井仏像・絵多幅、仏道具等、来暫住当山、故慶、譲院主於信、謀興廃道隆寺、因以同七月十一日、移住于明王院焉、
次のように意訳します。
 円信が紀伊国根来から、若干の事相・教相の書物をはじめ仏像・絵、諸道具等を持って暫く道隆寺に滞在したところ、明王院主であった信慶が、この円信に院主を譲り、荒廃していた道隆寺の再興をゆだねたため、円信が明王院に移住した

ここからは次のような事が分かります。
① 円信は紀伊の根来寺の僧侶であったこと
② 聖教や各種の書物や仏像を持って堀江津にやってきた
③ 興廃していた道隆寺の院主に請われて就いたこと
 円信が道隆寺住職に就任した9年後に、堀江氏(本西氏)による伽藍建立が始まります。この間に円信は堀江氏を帰依させ、強い信頼感と信仰心を抱かせ、氏寺として復興しようとする決意を形作らせていったことになります。堀江氏の円信に対する信頼は強かったようで、道隆寺のお寺としてのランクを維持するために必要な道具・本尊・経論・聖経などを調えたは円信であったとして、彼の功績を賞賛しています。

道隆寺本堂

 それでは円信はこれらの「寺宝」を、どのようにして手に入れたのでしょうか?
それは瀬戸内海海運による各地域とのネットワークで入手したと研究者は考えているようです。注目するのは道隆寺と根来寺との関係です。例えば道隆寺に残る医書『伝屍病計五方』の奥書には、次のように記されています
「千時建武元年十月七日於讃州香東郡野原書写之、大伝法院我宝生年三十五」
ここからは建武元年(1334)に紀州根来寺からやってきた我宝という僧侶が、讃岐国野原(現高松市のサンポート周辺)のお寺で、これを書写したとあります。根来寺の僧侶が書写する書物をもとめて讃岐にやってきています。
 この我宝は、大須観音宝生院の真福寺文庫の『蓮華院月並問題』の奥書にも名前が残っています。
  杢二
為院家代々之祖師報恩講抄之。
正平九年甲午四月廿九日 第八代院務権少僧都頼豪 七十二
同十四年己亥一一月十八日  我宝      (朱書)
  貞治三年五月中旬比於讃州道隆寺明王院書写丁
この奥書からは、分かることは
①院家代々の祖師への報恩講のために書写した
②正平九年(1354)4月に根来寺の頼豪(72歳)が書いた本を
③5年後に我宝が書写した。書写の場所は、根来寺か野原(高松)かは分かりません。
④貞治三年(1363)五月に道隆寺明王院で、再度書写された。
根来寺の我宝が書写した本が、道隆寺にもたらされていたことが分かります。ここからも道隆寺と根来とのつながりが見えてきます。
道隆寺多宝塔

 書写は修行の一貫とされていました。
若い僧侶は、まだ見ぬ書物を求めては各地の寺院に出かけ、時には何ヶ月もかけて書写を行っていたようです。それが修行でした。貴重な書物を多く持つ寺院は自然と学僧が集まり、評価が高まっていきます。姫路にはそれを山号にした書写山圓教寺というお寺もあるくらいです。書き写すべきものは経典だけでなく、医学書や薬学・土木工学などにもおよんでいました。多くは中国から日宋・日明貿易を通じてもたらされましたが、留学僧が持ち帰ったものもあります。留学僧の目的のひとつは、どれだけ多くの書物を持ち帰るかにあったようです。そのためパトロンの博多商人から多額の資金を集めて、留学するのがひとつのセオリーでもあったようです。
 このようにしてもたらされた貴重な書物をどれだけ保管しているかを、有力寺院は競い合っていたようです。今の大学が「内の図書館の蔵書は100万冊で、珍本として○○がある」という自慢話と似ています。まさに、近世以前の大寺院は「大学」であり、学問の場でもあったようです。

 話を元にもどします。道隆寺は円信と堀江氏の連携で再興を果たして寺院体勢を整備していきます。それが可能となった背景の一つに、交易活動が活発に行われている港にある寺院という強みがありました。それを生かして道隆寺は、円信以後も紀伊国根来と人とモノの交流を行っていきます。それは経済的な交易活動ももちろん含みます。双方向だけでなく根来寺が作り上げた「瀬戸内海 + 東シナ海」交易網のひとつの拠点として、堀江津は動いていたことになるようです。
 当時の寺院は奈良の西大寺のように、積極的に瀬戸内海に進出し、拠点港に寺院を構えます。ある意味、寺院は交易上の「支店」でもありました。そのネットワークは日明貿易を通じて、東アジアに広がっていきます。この交易網に属していれば、巨大な富の動きに関われます。
 この時期の堀江津の道隆寺は「堀江殿」によって、根来寺のネットワークに参加することができるようになったのかもしれません。道隆寺再興には、堀江港の繁栄があったのです。繰り返しになりますが道隆寺は、堀江氏の自前の寺なのです。そこに居館が置かれても商人たちが不満や反発することはありません。この点が宇多津の日蓮宗の本妙寺や、観音寺の禅宗聖一派の西光寺と異なるところです。
 堀江津は最初の地図で示した通り、砂嘴の入口にあったようです。
そこには港として町屋があり、海運業者や問屋などが集住していたかもしれません。そこを避けて自分の居館のある入江奥の地に、堀江殿は道隆寺を建てたのかもしれません。居館が先、氏寺はその後、だから伽藍と本坊が分離したとも考えられます。
 港をおさえる立場にあった道隆寺は海運を通じて、塩飽諸島の寺社を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。まさに、海に開かれた寺院に成長していくのです。そこには、真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺や沙弥島には及んでいます。そのような影響が道隆寺にも及んでいたと私は思っています。
 まとめておくと
①中世の堀江津を地頭が堀江氏(本西氏)が管理していた。
②13世紀末に、衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した
③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた
④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。
⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。
⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」交易ネットワークの一拠点として繁栄した。
⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。
⑦西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。
  以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  上野 進 海に開かれた中世寺院 道隆寺  香川県立ミュージアム調査研究報告

 中世の道隆寺は、どんな場所にあったのか。

イメージ 1

中世の道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港がありました。

道隆寺が管理した堀江津について
 中世の地形復元地図を見ると金倉川河口の西側海浜部には、現在の中津万象園から砂州が西側に伸びていたことが分かります。そして現在の桃陵公園の下からは、東に砂堆が伸びています。この砂堆と砂州の間が海に開いている所が堀江津になります。その背後には潟(ラグーン)が広がり、入江を形成しています。この入江の奥に位置にあったのが道隆寺であり、船着場として好適な場所でした。道隆寺は堀江津に近く、港をおさえる位置にあり、塩飽の島々と活発な交流を行っていました。堀江津の港湾管理センターの役割を道隆寺は果たしていたと研究者は考えているようです。
「塩飽諸島 航空写真」の画像検索結果
  道隆寺の海への進出とは、どんなものだったのでしょうか

中世の道隆寺明王院は、周辺寺社の指導管理センターでもあったようです。この寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

イメージ 2
道隆寺明王院の周辺寺社へ関与一覧表
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると白方方面から庄内半島にかけて海浜部、さらに塩飽の島々へと広く活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた


ここからは、中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、三野郡や瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。  
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道隆寺大門

 道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。

永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋(高見島)善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘(本島)尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」
と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。

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道隆寺本堂
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的なそんざいでした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。
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道隆寺本堂内
金蔵寺と海との関係は?
金蔵寺は天台宗寺門派の寺院で、円珍の誕生址と伝える古刹です。
金倉川の西側、道隆寺よりもやや上流に位置し善通寺にもほど近い場所にあります。戦国前期頃と推定される次の文書が金蔵寺と港湾都市との関わりを考えるヒントになります。  
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
これによれば金蔵寺が大嵐で大破した際、宇多津・多度津・堀江に修造費の負担を依頼しています。寄付金額がそのまま、この時代の3つの港湾都市の経済力を物語っているのかもしれません。ここで不思議に思うのは、
どうして、内陸部にある金蔵寺が3つの港湾都市に援助を求めたのでしょうか?
なんらかのつながりがあって、金蔵寺の寄付依頼に応える条件が満たされていたからでしょうが、それは今の私には見えてきません。
 道隆寺には、応永六年(1399)に宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。宇多津の有力者の信仰を集める何かが金蔵寺にはあったのでしょう。
DSC05799
道隆寺伽藍

 道隆寺は鎌倉末期に復興し寺院体制を整備していきます。
これには紀伊国根来ゆかりの円信の役割が大きかったようです。道隆寺は海に開かれた寺院という特性を生かして、根来とのつながりを保持していきます。
 同時に、港をおさえる位置にあった道隆寺は海運を通じて宗教活動を展開し、塩飽諸島の寺院を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。海に開かれた寺院に成長していったのです。そこには真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺には及んでいます。その流れがこの寺にも影響をあたえていたと私は思っています。

DSC05800
道隆寺伽藍

 道隆寺は談義所でもあり、南北朝期には談義所相互のネットワークのなかにいました。付近の金蔵寺も談義所であり、この地域は善通寺への参詣者をはじめ、談義所を訪れる学僧や聖などさまざまな人びとが往来します。ある意味、大宗教ゾーンを形成していたのです。
 今の道隆寺の境内には、海とのつながりを連想させる物はなにもありません。時代の流れと共に、海は遠く遙かに去ってしまいました。しかし、この境内は海とのつながりによって形成されてきた歴史を持ちます。
「道隆寺 多度æ´\」の画像検索結果

参考史料 上野進 海に開かれた中世寺院 
       香川県歴史博物館 調査研究報告三巻
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 道隆寺-山伏が再興した寺

道隆寺の建立者道隆と善通寺の建立者善通は兄弟?

七十七番桑多山道隆寺の本尊は薬師如来です。
御詠歌は「ねがひをば仏道隆に入りはてて菩提の月を見まくほしさに」
道隆というこのお寺を建てた人の名前を詠み込んだ歌です。
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には
①14世紀初頭(一三〇四)の発願状があって、沙弥本所(山伏)による寺の由来が記されていること。
鎌倉時代末期の嘉元二年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
③讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本所は、庄内の道隆寺を氏寺として崇敬してきたが、その由来をたずねると、内大臣藤原道隆と善通寺の善通は兄弟であること
がこの縁起は書いています。

道隆の兄の善通は善通寺の善通と云います。
 大領は郡長さんに当たりますから、多度郡の郡長さんが善通寺の善通で、お寺を再興したので功徳といっています。善通は白鳳期の「善通寺」を再興した人です。しかし、この人物が空海の父や祖父とは別人であることは「善通寺」のところで述べました。
①兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
②ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
③道隆寺は、もともとは法祖宗か何かのお寺でしたが、その後衰退します。
④それを山伏の本所が再興したので、山伏の所属する真言宗になりました。
⑤本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などが建立され伽藍が整備できたようです。

白鳳期ごろのお寺は、渡来人が建てた寺が多いようです。

現在の飛鳥・白鳳期の寺址は、三百か寺ぐらい数えられますが、これはやはり渡来人が建てたと考えられます。飛鳥・白鳳期にかけて秦河勝が山城平野を開拓。それに南のほうでは、稲荷山を建てた秦中京伊侶具が非常に富み栄えました。秦中京は秦の本家という意昧でしょう。
 ここにひとつ濯漑の問題があります。
渡来人が日本人を使いながら、潅漑用水を造ってつぎつぎと開拓を行うことができたのは、水準器をもっていたからです。水がどちらに流れるかを水準器で測りながら用水路を造っていきます。当時は、日本人にはその技術がありません。そのうちに日本人もすっかり習得してしまったので、渡来人は不要の存在となり、次第に没落します。そうして、白鳳期のお寺もだんだんに衰退していったのです。
やがて勧進聖やその地方の援護者なりが出てきて、これを再興します。道隆寺にもこんな構図が考えられます。
イメージ 4

 道隆寺の縁起は、次のような悲しい物語です。

もと一大桑園があったが、大平時宝(七四九―五七)のころに、和気道隆が誤って乳母を弓で射殺してしまいます。その菩提のために、桑の木で薬師如来を刻み小堂を建てます。その後、弘法大師が薬師如来の大像を刻んで、桑の木で作った小さな薬師如来を胎内に納めて本尊とします。一方で、観音の像を刻んで観音堂の本尊としたということになっています。

イメージ 5

しかし、現実には

白鳳期の寺を道隆という山伏が再興したとするのが事実。

資料から推察できるのは次のようなことです。
 この寺は、和気氏が俗別当として、管理権を手中にしていました。
和気氏は、智証大師の和気氏と同族です。その関係から智証大師は、ここに五大尊示伽・降三世・軍茶利・会剛夜叉・大威像)の像を刻んだとされています。しかし、智証大師は平安時代初期の人で、金堂の中にあるのは鎌倉時代の五大尊ですから、この話は時代がずれています。
 道隆寺でおもしろいのは、中世に何度も田地寄進が行われ、弘法大師の御影供(弘法大師の三月二十一日の法要)、伽藍三時供養法、道隆寺鎮守花会(法花会)、一切経供養会、焙魔堂供養などが行われていることです。特に戦国時代の16世紀初めのの阿弥陀堂、阿弥陀像造立は、この寺の隆盛ぶりを示しています。

 
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これらは道隆寺が山伏寺になってからのことです。

道隆寺の住持が塩飽島に聖宝尊師のお堂建てています。
聖宝尊師は、醍醐寺の像験道の開祖に当たる方です。
これは道隆寺がこのあたりの山伏を支配していたことを示しています。
「道隆寺文書」によって室町時代の、大峰の入峰を捨身といっていたことがわかります。この文書以外ではまだ見たことかありません。
この文書では修験について、次のようなことも書かれています
入峰するということは自分の身を捨ててしまうことだ、死ぬことだと考えていたことがはっきり文章になっています。山に人るのは死ぬことである、よって山から出てきたときは生まれ変わっていると、修験の本質についてもきちんと書かれています。 そういう意味で、「道隆寺文書」は修験道の史料としても非常に貴重です。


 

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