「氏神」を国語辞典『日本国語大辞典(第二版)」(小学館、2001年)で調べてみると次のように記されています。
①氏人がまつる氏族と関係の深い神や氏族の祖先神など。またそれをまつった神社。藤原氏の春日、鹿島、香取神社、橘氏の梅宮神社、源氏の平野、八幡神社平氏の平野、厳島神社など、氏の神。
②の用例として、「臥雲日件録』文安四年(1447)8月13日の次の記事を挙げています。②村落共同体が共通の守護神としてまつる神。またそれをまつった神社村氏神。鎮守。産土神。
凡世人、以神明主于我所生之地者、謂之氏神(凡そ世人、神明の我が所生の地に主たる者を以て之を氏神と謂う)
「氏神」という言葉は、古くは①のように「氏族の神」でした。藤原氏や源氏などの大氏族が自らの神とする春日社、八幡社などの神社ではなく、地域の有力者がそれぞれの家で祀っていた、それぞれの氏の神であったはずです。
戸田芳実は、紀貫之の屋敷の垣根に用いられる卯の花を詠った次の歌に注目します。
「祭る時咲きも合うかな卯の花は なお氏神の花にぞ有りける」(「貫之集」三四二、)
意訳変換しておくと
春の氏神の祭の時に咲く卯の花は、まことに氏神を象徴し、荘厳する役割を与えられた花であることよ
ここには屋敷の中で祀られる「氏神」と卯の花の関係が詠われています。屋敷の中に祀られた先祖神を祀る神が氏神という認識です。これに対して、②の用例に挙げられた風雲録相国寺の僧瑞渓周鳳の日記)の例は、「村の鎮守=氏神」とします。これは①の氏族の神、屋敷の神という意味とはちがう使い方で、新しく使われ始めた用法のようです。
そうだとすれば、もともとは領主の屋敷の神であった氏神が、どこかの時点で村の神として祀られるようになり、それを「氏神」と呼んだことが考えられます。 ここには中世前期には、領主層の氏神祭礼であったものが、中世後半になると郷村の文化へと転化していく姿が見えてきます。ある意味で武士居館は、先進文化の導入口の役割を果たしていたことになります。中世の武士たちが戦乱の中で離散し姿を消しても、その慣習・文化は郷村のものとなり、維持、活用されていったことが考えられます。
中世社会では、武家屋敷の東北に鬼門除けの宗教施設が置かれることがよくありました。


中世の武士居館 東北の尾根の上に鎮座する氏神
室町幕府の「御所八幡」などもその例です。室町幕府を開いた足利尊氏が、自らの邸宅内の守護神として、八幡神社を舘の東北隅に勧請します。それが居館が廃絶した後も、神社は村のものとして受け継がれて氏神として発展していくのです。武士居館の中には、神社だけでなく、持仏堂(じぶつどう)や屋敷墓も造られました。武士居館の中の持仏堂 一遍上人絵伝
持仏堂は、個人が平素から信仰している仏像(念持仏)や祖先の位牌を安置するための堂です。武士の居館内に建てられることが多かったようです。源頼朝が奥州征伐の祈願所として御所の裏山に設けた持仏堂は、頼朝死後に法華堂と呼ばれ、彼の墓所となりました。そして、菩提寺へと成長して行きます。持仏堂が、武士たちが離散し居館が消えても、郷村の手によりお堂として管理維持されていくものがありました。
近江一向一揆の拠点として有名な金森の場合を見ておきましょう。
ここでは集落の南西側に隣接して城館がありました。
近江一向一揆の拠点として有名な金森の場合を見ておきましょう。
ここでは集落の南西側に隣接して城館がありました。
金森寺内町絵図
現在の集落の中にある金森御坊は、武士居館跡の東北に当たります。つまり、武士居館の東北に建てられた浄土真宗の道場が金森御坊のスタートだったことが考えられます。そして、その周囲に寺内町が形成されたことが推測できます。 館跡の屋敷墓が村の共同墓地となっている例として研究者がとりあげるのが、木部城跡(滋賀県野洲町)です。
木部は、浄土真宗木部派の本山錦織寺がある所です。その寺伝には、もともとは天台宗の別院があったのを「邑主石畠資長」が親鸞に帰依して跡を継いだとされます。ここからは武家領主による関与がうかがえます。木部城跡周辺の地籍図を見てみましょう。
木部は、浄土真宗木部派の本山錦織寺がある所です。その寺伝には、もともとは天台宗の別院があったのを「邑主石畠資長」が親鸞に帰依して跡を継いだとされます。ここからは武家領主による関与がうかがえます。木部城跡周辺の地籍図を見てみましょう。
屋敷墓とは、屋敷地内の東北隅に造られた墳墓のことです。祖先(屋敷創設者)の墓を造り、先祖を神として祀ると共に、屋敷相続の正当性を得るという思惑があったようです。讃岐でも12世紀から屋敷墓が造営され、14世紀前半で中断します。これは惣村の発生によって、屋敷の所有権が村落共同体によって保証・強化されるようになったので屋敷墓の存在意義がなくなったためとされます。一族の離散や滅亡と共に居館が廃絶した後に、屋敷墓を中心に集落の共同墓地が造られるようになります。それは、居館から見ると東北部に位置することになります。
木部城跡の北側には「北三行寺」、東側に「南三行寺」の地名が残ります。これがかつての「天台宗の別院」跡かもしれません。こうしてみると「木部城」の東北隅にも、かつて何らかの宗教施設があり、館が廃絶した後に、その場所が村の共同墓地化したと推測できます。
滋賀県守山市の勝部火屋城の地籍図を見ておきましょう。
中央に「火屋共同墓地」があります。地籍図を見ると、墓地があるのは、堀跡を思わせる水路に囲まれた一画の東北部にあたります。隣接地には「城ノ越」の小字があります。先ほど見た木部城の場合と同じように、領主館の鬼門除けの位置にあった中世墓地が、館の廃絶後に村の共同墓地・火葬場とになったことがうかがえます。
以上から次のような説が生まれてきます。
①中世武士の居館の東北には鬼門除けの宗教施設が置かれた。②それが八幡神社やお堂・寺院・先祖神を祀る墓などであった。③それらの宗教施設は、武士居館廃絶後には、郷村の手によって守られることがあった。④逆に言うと中世に遡る寺院や神社の西南方面には、武士居館が隣接していた可能性がある。
④の「古い寺社の西南に武士居館あり」説を、多度津の道隆寺で見ておくことにします。
多度津の道隆寺は、中世には「海に開かれた寺院」として、塩飽諸島から荘内半島までの数多くの寺社を末寺とする大寺でした。
道隆寺境内の東南東100㍍ほどの所に「入道屋敷(武士居館)」と呼ばれる東西75m・南北65mの畑があります。近年までは堀状の凹溝があったようです。これは武士居館とされます。その鬼門の東北部に現在の本坊があります。このレイアウトは「中世に遡る寺院や神社の西南方面には、武士居館あり」説にピタリと当てはまります。武士居館が堀江の入江に建てられ、その氏寺として東北部に建てられたのが「原道隆寺」、それが中世に現在地に移動という筋書きが描けそうです。

中世には武士居館は「文明の窓口」としての機能や役割がありました。武士居館を通じて郷村にもたらされた宗教的施設や文化が、郷村の手によって引き継がれ残されたとしておきます。それが「氏寺」の呼称に痕跡が見られるようです。
参考文献
小島道裕 儀礼の場としての武士居館
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