瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:遣唐使船

 
前回は、空海を唐から連れ帰ったのが判官・高階真人遠成の船であったことをお話ししました。遠成が乗っていった船と出港時期にについては、次の二つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の第四船として、同じく出発し、漂流の後に遅れて入唐したとするもの(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
その辺りのことを、今回は見ていこうと思います。
     テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
 高階真人遠成とその船については、代表的な論考は次の通りです。
一、木宮泰彦『日支交通史』上巻、 1926年
二、大庭脩「唐元和元年高階真人遠成告身について―遣唐使の告身と位記」1967年
三、高木紳元「兜率の山・高野山への歩み」1984年
四、茂在寅男「遣唐使概観」1987年
五、佐伯有清『若き日の最澄とその時代』1994年
遠成の船が延暦の遣唐使の第四船だったかどうかの観点で、 これらの論考を分類すると次のようになります。
①第4船らしいと推測する立場  木宮泰彦・茂在寅男
②第4船であったと確定する立場   大庭脩・佐伯有清
③第3、第4船ではなく新造船であったという立場 高木紳元

①の「第四船らしい」と最初に推測したのは、木宮泰彦氏で次のように記します。
延暦の遣唐使の第四船は唐に赴いたか否か明らかでない。空海・橘逸勢等が判官高階遠成と共に大同元年八月に帰朝しているのは第四舶ならんか。

と、遠成の船が第四船であった可能性を約百年前に示唆しています。
②の第四船であった説を代表する大庭脩氏は次のように記します。
第三船は判官正六位上三棟朝臣今嗣が乗っていたので、第四船に高階真人遠成が乗っていたことは疑いなく、第四船の消息のみが全く不明ということになる。(中略)
第四船に乗船していた遠成は、恐らく風に流されて遭難したのであろう。そしてその経過を知るよすがもないが、九死に一生を得て唐に到り着き、長安まで行ったのであろう。その時期は明らかではないが、本告が元和元年正月二十八日付の中書省起草の勅であるから、大使葛野麻呂等一行が長安に滞在し、告身を授けられた貞元二十一年十二月よりまる二年後にあたる。(中略)
 彼は大使藤原葛野麻呂と共に帰って来なかった以上大使等の出発後に長安につき、帰国の便を待っていたのであろうから、長くみれば、約一年半は長安で生活していたと考えられる。
大庭脩氏のポイントを要約すると、次のようになります。
①遠成は大使葛野麻呂一行が長安を離れた永貞元年(805)2月10日より後に、長安にたどりついた。
②遠成の船は延暦22年(804)7月6日、肥前国松浦郡田浦を出帆した第四船であり、九死に一生を得て唐に到りついたものである
③遠成は、その後、長安に約1年半滞在した
つまり、第1・2船と同時に出港したが、何らかの理由で第4船は長安への到着が大幅に遅れ、長安にやって来たときには第1・2船の正使・副使は長安を離れた後であった。にもかかわらず遠成は、その後、長安に約1年半滞在し、帰国時に空海を伴ったという説になるようです。どうも私には合点がいかない説です。

同じく第四船であったとする佐伯有清氏は、次のように記します。
ちなみに第四船の消息は、まったく記録されていない。ただし第四船の遣唐判官の遠成が唐の元和元年(806)正月28日、唐朝から中大夫・試太子充の位階・官職を賜わっており、同年(大同元年)十月、留学僧の空海、留学生の橘逸勢をともなって帰国している。帰国の復命は、同年十二月十三日であった。この日に高階遠成は、遣唐の功を賞されて従五位上の位を授けられている。遠成の行動を追ってみると第四船は、難航のすえ、かなり遅れて唐に着岸したようである。遠成は、延暦二十四年の年末ごろに長安に入り、使命を果すことができたのである。

佐伯説は、遠成の船を第四船とみなし、遠成の長安到着を延暦24四年の年末ごろとします。

そのような中で高階真人遠成の入唐目的を新たな視点で語る新説が出てきました。高木諦元氏の説を見ておきましょう。
ちょうどその頃、高階真人遠成が遣唐判官として長安に入り、帰朝の途につくところであった。この時期に、高階遠成が国使として入唐した目的が何であったかは定かでない。『日本後紀』巻十三によれば、帰国した遣唐大使藤原葛野麿が節刀を返還し、朝廷に帰朝報告をしていた頃、詳しくいえば延暦二十四年(805)七月四日に、一般の船が肥前国松浦郡庇良(ひら)嶋、いまの平戸島から出帆して遠値嘉(おちか)島を目指し、唐国へ向おうとしていた。この船は第十六次遣唐使船四艘のうちの行方不明になった第3船であって、判官の三棟今嗣(みむねいまつぐ)らが乗船していた。運悪しく、この船は再び遭難して孤島に漂着し、浸水しはじめた。三棟今嗣らは射手数人を船に残して脱出し、かろうじて生きのびることができた。やがて績が切れて船は漂流しはじめ、積んでいた国信物などとともに行方が知れなくなった。任務を放棄したかどで、判官三棟今嗣は懲罰に付されている。
一年前に難破して入唐を果せなかった第3船を、いま再び渡海せしめようとしたのは、あるいは新たに即位した順宗への朝貢のためであったとも思える。ただ朝貢のためだけであったかどうかは定かでないけれども、しかし、どうしても使節を再び派遣しなければならなかったことは事実であった。三棟今嗣にかわって、遣唐判官には急拠、大宰府の大監であった高階真人遠成が任命された。『類衆国史』に「遠成は率爾に使を奉じて、治行(旅行の準備)に退あらず。その意、衿むべし」とあるのが、そうした事情をうかがわせる。また『朝野群載』には、高階遠成に対する唐朝の位記を載せて「その君長の命を奉け、我が会同の礼に超る。冥法を越えて万里、方物を三際に献ず」とある。「会同の礼」とは、常期ではなく事あるごとに来朝して礼謁することをいうから、やはり、高階遠成の入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったろう。(中略)
 高階遠成が長安へ到着した月日は定かでないが、慶賀の意を表すべき皇帝が予期していた順宗から憲宗にかわっていたとはいえ、所期の目的は達成したことになる。

高木説には、全く新しい視点が二つあります。
その第一は、『類衆国史』の「率爾に使を奉じて、治行に退あらず」に注目して、遠成は延暦24年7月に再び遭難した第三船の判官三棟今嗣にかわって急遽任命され、唐に向ったとみなすこと
第二は『朝野群載』所収の「会同の礼」に注目して、遠成入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったとしたこと
  この説は、派遣目的が分かりやすく時間系列も納得がいくので、小説などではこの説にもとづいて高階真人遠成の遣唐使船の登場が描かれることが多いようです。
しかし、この新説に対しては、次のような疑問点が研究者からは出されています。
第一の疑問点は、805年7月4日に難破した第3船の判官三棟今嗣にかわって、大宰府大監の高階遠成が急遽、遣唐判官に任命されたととする点です。しかし、これが可能であるためには、次のような手続きが求められます。
①第三船の遭難報告が太宰府から都にとどけられる
②朝議での再度の派遣決定と、派遣する官吏の選定
③新遣唐使船建造と新皇帝即位への貢納物の準備・調達
④出発
つまり、使節団長の首のすげ替えだけではすまない話のようです。
 高木説は「中国皇帝の代替わりの新帝への朝貢礼謁のための特別の派遣」としますが、そう簡単に進むことではないようです。まず、遣唐使を派遣するには莫大な費用が必要でした。たとえ、財政面の負担をクリアしても、派遣する官吏の選定があります。前回見たように遣唐使船には一隻について、150名前後のスタッフが必要でした。ただ単に頭数をそろえればいいのではありません。遣唐使は、知乗船事・訳語などの職掌別の専門家集団です。その上、遭難して死者を出した船に乗っていた者は、不吉であるとして忌み嫌われ、再び派遣されるスッタフからは、はずされました。つまり、大部分のスタッフを新たに選ぶ「人材一新」が求められます。これは短期間にできることではありません。
 新たに大宰府の大監を務めていた高階遠成に判官への就任命令が届いたのは、いつごろなのでしょうか。
それからスタッフ選定が行なわれたとしても、都から大宰府への連絡には駅伝制を使っても4~5日は要したようですので、太宰府の遠成への通達は早く見積もっても7月下旬になったはずです。

 すぐに再び遣唐使派遣を考えた場合、帰国したばかりの遣唐大使・藤原葛野麻呂らが乗船していた第一船と、判官の菅原清公らが乗っていた第二船を、派遣することは検討できます。しかし、一度東シナ海を航海したこの隻船は、長い航海のためにボロボロになっていたようです。すでに中国の福州から明州に回航された時点で、第一船は一ヵ月余りの修理を必要としていました。また、乗組員のすべてが大宰府近辺で確保できたかどうかも問題になります。このように考えてくると、船の調達も無理筋のような感じがしてきます。
 問題の第二は、新皇帝への土産物、すなわち貢納品の調達です。
『延喜式』巻三十、大蔵省の「賜蕃客例」には、大唐の皇帝への賜物の規定が事細かく記されています。遠成の入唐の目的が唐の新帝への朝貢礼謁であったとするならば、贈り物は欠かせません。
その準備に時間を要したはずです。前回見たように、通常の遣唐使派遣は3年前には、正使・副使が決定し、貢納品などの準備を整えていました。遠成が前任者にかわって急遽派遣されたという説は、船の確保と貢納品の調達という問題をクリアできないと研究者は考えています。
 次に遠成一行の長安到着がいつであったかを推察し、そのことから逆算して、遠成等の日本出発の時期を見ておきましょう。
遠成は、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位記を授けられています。ここからこの時点で長安に滞在していたことが分かります。それなら遠成らは、いつごろ長安に入ったのでしょうか。遠成一行が長安に到着したのは、位記を授けられた前年、すなわち延暦24年(805)の年末頃ではなかったかと研究者は推測します。それは、前年の第一船の高野麻呂一行が何としても新年の朝賀の儀に間に合うように、「星に発ち星に宿り、晨昏兼行す」と昼に夜をついで長安への旅を急ぎに急いだことから想起されます。大唐帝国に朝貢にやってくる各国の使節団は日本だけではありません。日本は朝貢国のひとつにしかすぎません。唐側は、新年の年賀の挨拶にやって来ることを最も重視していたようです。
 遠成も当然、「新皇帝による最初の新年朝賀の儀」への参加を目指していたはずです。だとすると逆算して、いつごろ日本を出発しなければならい計算になるのでしょうか。
 前年の第一・二船は7月6日に、肥前国田浦を出帆しています。
①福州に漂着した第一船の一行は、12月23日に長安到着
②明州に上陸した第二船の一行は、11月15日に長安到着
 翌年の正月の朝賀の儀に列席するためには、7月中の日本出発がタイムリミットだったようです。これを先ほど見た第三船の遭難から再度の派遣決定、派遣吏員の選定、船の確保と整備、貢納物の調達といったことを重ね合わせると、急遽遠成が遣唐使判官に任命されても、すぐに出発することは無理だったことが推測されます。
 以上から修理された第三船遭難後に、遠成が急遠判官に任命され、派遣されたとみなす説は無理筋だと研究者は考えているようです。

第4の疑問点は、遠成の入唐目的が新帝への朝貢礼謁だったという点です。
高木説は、遠成は第3船の判官今嗣にかわって派遣されたものとします。とすると、前任者であった今嗣の入唐の目的も、新帝への朝貢礼謁のためであったことになります。本当に、今嗣の入唐は新帝への朝貢礼謁のためだったのでしょうか。
新帝への朝貢礼謁のためとされる使節派遣は、いつ決定されたかという点を、時間的経過で追ってみます。
唐朝の皇帝が亡くなって、徳宗から順宗に移ったとの知らせがわが朝廷にもたらされたのは、第一船の遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告書によるものだったことはまちがいないでしょう。葛野麻呂は、延暦24年(805)6月5日、対馬島下県郡に帰着し、同月八日付で長文の帰国報告書を都に書き送っています。そこには、次のように記します。
廿一年正月元日於入己元殿朝賀。二日天子不豫。廿三日天子雅王(徳宗)通崩。春秋六十四。廿八日臣等於・五天門・立レ使。始着素衣冠。是日太子(順宗)即‐皇帝位・。

ここには、貞元21年(805)正月23日徳宗が64歳で崩御し、代わって1月28日順宗が帝位についたことが記されています。この6月8日付の帰国報告書は、当時の山陽道の駅伝の通信能力からして4~5日後には都に届けられていたはずです。この報告書をみて、ただちに新帝順宗への朝貢のための使節派遣が決定されたとは思えないと研究者は云います。派遣の議は、正使の藤原葛野麻呂の上京・復命をまち、直接詳しい報告をきいた上で、執り行なわれるというのが手順ではないかと云うのです。肥前から藤原葛野麻呂が上京し復命したのは7月1日です。
第3船が肥前を出帆したのは7月4日です。
第3船がずいぶん以前から出発の準備を万端ととのえていて、出発のゴーサインをまつばかりとなっていたとしても、時間的には間に合わない計算です。もし仮に、6月8日付の葛野麻呂の帰国報告書を見て、朝議で派遣決定がされたとしても、先ほど見たように150名もの遣唐使スタッフの選定、遣唐使船の確保、貢納物調達の時間を考えると、20日足らずの短期間に、出帆までこぎつけられたとは不可能と研究者は考えているようです。
 以上から遠成が、葛野麻呂の帰国報告書にもとづいて新帝への朝貢礼謁のために派遣されたとは云えないとします。今嗣の乗った第三船は、葛野麻呂の帰国とは全く別の目的・理由で、唐に向かったことになります。しかし、それがなんであったのかは分からないままです。

高階遠成の入唐が新帝への朝貢礼謁のためであったかどうかを肩書きの視点で見ておきましょう。
遠成の入唐の際の肩書の記載を年代順に見てみると、すべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」「判官」です。遠成の肩書は「判官」です。高階遠成が、新帝への朝貢礼謁という特別の任務を帯びて新たに派遣されたとすれば「遣唐判官」の肩書きは相応しくないと研究者は指摘します。今嗣にかわって遠成が派遣されたとしても、今嗣の肩書も「判官」でした。また今嗣が乗っていた船は「遣唐使第三船」と記されています。新帝への朝貢使として新たに派遣されたのであれば、正使も遣唐使船もその役割にふさわしい肩書をもって入唐したのではないかという疑問です。船も第三船ではなく、第一船とするのが相応しいはずです。しかし、今嗣・遠成の肩書はともに「判官」であり、今嗣の船は第三船と記されています。

    以上から研究者は次のように結論づけます。
①遠成の船は、第三船ではなかったこと。
今嗣の遭難から再度の派遣決定・出帆にいたる時間的経過、遠成の長安到着の時期などを勘案すると、遠成が今嗣にかわって派遣されたとみなすことはできない。第3船は、座礁し、貢納物を乗せたまま行方知れずとなっているので、遠成の船は第三船ではない。
②遠成の肩書はすべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」など「判官」と記す。
遠成は「判官」の資格で入唐したのであって、新皇帝即位祝賀の特別の任務を帯びて入唐したとは思えない。延暦の遣唐使の一員であったと考えるのが妥当。このときの遣唐使船四隻のなか、第一・二船は、無事に任務を終えて帰国し、第三船は、行方知れずとなっている。残るのは第四船だけでなので、遠成が乗った船は第四船だったとしか考えられない。
③大同元年(806)12月13日、遠成の復命記録には次のように記されているだけである。
 大同元年十二月壬申、遣唐判官正六位上高階真人遠成授従五位上、遠成率爾奉使、不違治行、其意可衿、故復命日持授焉、

ここには、簡単に入唐した事実が簡略に記されているだけです。もし特別の任務を帯びての入唐使節だったのなら、それにふさわしい文言があってしかるべしと、研究者は考えているようです。このことも、遠成の入唐が特別の任務を帯びたものでなかったことを物語るものだとします。

  以上から、高階遠成は、第三船の判官三棟今嗣にかわって派遣されたのではなく、入唐の目的も新帝への朝貢拝謁のためではなかったと研究者は結論づけます。だとすると遠成の入唐目的はなんだったのでしょうか。ここで最初に示した「遠成の船は延暦の遣唐使船の第四船」説にもどります。

記録に、「率爾に使を奉り、治行に違あらず」とあるので、遠成は延暦の遣唐使の派遣が決定された当初に任命された判官ではなかったと研究者は考えます。では、いつ選ばれたのでしょうか。延暦の遣唐使は延暦22年(803)4月16日難波津を出発しますが、5日後に瀬戸内海を航行中に嵐に遭い、この年の派遣は中止されたことは前回にお話しした通りです。そこで船の修理後、翌年7月6日に、四隻の遣唐使船はそろって肥前国松浦郡田浦を出帆します。しかし、翌日7日には第三・四船との火信がとだえてしまいます。
  このとき第三、四船は、おそらく再度遭難したと研究者は考えているようです。そして、第三船は座礁・漂流し行方不明となります。第四船は博多にもどり、改修を受け翌年の延暦24年になってあわただしく出発したというのです。その際に、それまでの判官では不吉だというので、新たな判官が選ばれます。それは大宰府に在住していた人々を中心に人選が行なわれます。

『日本後紀』延暦二十四年(805)七月十六日の条は、第三船の三たびの出発と遭難、そして判官今嗣らへの処罰のことだけしか記されていません。しかし、このとき第三船とともに第四船も出発していたと研究者は考えています。遠成がいつ長安に到着したかは分かりませんが、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位を賜わっています。ここからは遅くともこの年のはじめには長安に到着していたことになります。そして逆算すると、遅くとも前年の七月には九州を出発していなければならないことになます。それは第三船の出発した7月4日と、時間的にぴったり一致します。
  以上から、高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であったと研究者は考えています。
以上をまとめておくと次のようになります
①急遠判官に任命された遠成を乗せた第四船は、延暦二十四年(805)七月四日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③これに対して第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」として、評価しようとする動きもあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

入唐 遣唐使船

遣唐使船復元模型

空海と最澄は、延暦23年(804)七月出帆の遣唐使船で入唐を果たしています。この時の4隻の船の内の第1船に空海、第2船に最澄が乗船していました。この遣唐使船について、私はよく分かっていませんでした。特に、第3・4船の動きが不可解なのです。今回は、この2隻に焦点を当てながら九州をはなれるまでの動きを追ってみたいと思います。テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
この時の遣唐使団について、従来から問題とされている点を挙げると次のようになるようです。
① 延暦の遣唐使の目的は何だったのか。わが国に何を持ち帰るために派遣されたのか。
② その成果は、どうだったのか。この遣唐使によって、何がわが国にもたらされたか。
③ 遣唐使の組織は、どのようであったか。
④ 遣唐使船の最後の寄港地はどこだったのか。
⑤ 延暦の遣唐使は、国書を持参していたのか
⑥ 空海が帰国時に乗船した判官高階真人遠成の船は、何の目的で再度入道したのか。はたして延暦の遣唐使の第四船だったのか否か。

この中の②については、空海と最澄による密教の請来がすぐに答えられます。しかし、その他については、今も議論が続いているようです。今回は③④⑥について、現時点で研究者はどのように考えているのかを見てみることにします。
③の遣唐使の組織について、研究者は次のような表を作成しています。
空海入唐 遣唐使スタッフと報酬
延喜式の遣唐使スタッフと手当表

遣唐使は「臨時業務」だったので、その都度編成されていました。そのため組織の規模・構成は、その都度異なるようです。延喜五年(905)に完成した『延喜式』には、遣唐使のスタッフに支給される手当が別表のように規定されています。今でもサラリーを見ると、組織におけるその人物の位置や重要度がある程度は分かります。そんな世俗的な視点で遣唐使たちへのサラリー(支給品)を見てみましょう。
ちなみに留学生・学問僧(留学僧)は「施四十疋、綿百屯、布八十端」とあります。これを上表で見ると副使のサラリーとほぼ同じ待遇であったことが分かります。ここからは、留学僧・還学僧に対する待遇の高さと期待がうかがえます。
 また大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・学問僧・還学僧のスタッフには、「別賜」として彩吊と費布が別に支給される規定になっています。 ここからは、留学僧が遣唐使の中枢メンバーであったことがうかがえます。

延暦の遣唐使の総人員はどのくらいで、どんな人物が任命されたのでしょうか
延暦の遣唐使は、宝亀九年(778)12月の送唐客使以来、24年ぶりの派遣でした。延暦二十年(801)8月庚子(十日)遣唐使の任命が行なわれ、藤原葛野麻呂が大使に、副使には石川道益が任ぜられ、あわせて判官・録事それぞれ四名も発令されます。前後の遣唐使の総人員は、次の通りです
霊亀二年(716)八月癸亥(二十日) 557名
天平四年(732)八月丁亥(十七日) 594名
承和元年(834)正月       651名
ここから推測すると延暦の遣唐使も600名前後で構成され、四船に分かれて出発したとされています。その中で具体的な人名が分かっているのは、次表の二十数名だけのようです。これは本宮康彦・森克己・鈴木靖民・田島公の各研究者たちによって、明らかにされている人物名を表にしたのものです。

空海入唐 遣唐使スタッフ氏名一覧
○がついているのが、各研究者がスタッフであったと認める人物です。空海や最澄・橘逸勢などは、もちろん全員の○がついています。しかし、留学僧の霊仙・金剛・法道・護命・永忠に関しては、意見が分かれていようです。大使・副使・判官・録事などについては「定説」となっているようです。確定的な人物名を記しておきます。
大使 藤原葛野麻呂、
副使 石川道益、
判官 菅原清公・三棟今嗣・高階遠成。甘南備信影、
准判官 笠田作
録事 山田大庭・上毛野頴人、
准録事 朝野鹿取、
留学僧 空海・円基、
留学生 橘逸勢・粟田飽田麻呂、
請益僧(還学僧) 最澄
最澄の訳語僧 義真、
係徒 丹福成、
写経生 真立人、
碁師 伴小勝雄、
舞生 久礼真(貞)蔵(茂)・和爾部嶋継、
楽生 舟(丹)部頭麻呂
以上の二十三名は、ほぼ信じてよいと考えられているようです。

出発までの動きを年表で見ておきましょう。
801 8/10 大使に藤原葛野麻呂を、副使に石川道益を任ず。
また、判官・録事各四人を任ず〔紀略13〕
802 4/15 朝野鹿取を遣唐録事に任ず〔補任〕。
9/8 最澄、上表して入唐求法を請う〔叡山伝〕
9/12 最澄の入唐を許す〔叡山伝。釈書1〕
円基。妙澄、天台留学僧として入唐を許される〔叡山伝〕
10/20 最澄が、通訳として義貞を伴うことを請許される
803 2/4 遣唐大使以下、水手以上に物を賜う〔紀略13〕
 3/14 遣唐使に彩吊を賜う〔紀略13〕
   3/18 遣唐使等、朝堂院において拝朝す〔紀略13〕
 3/19 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
  葛野麻呂は御被三領・御衣一襲・金二百両、
道益は御衣一襲。金一百五十両を賜う〔紀略13〕
   4/2 大使・副使等辞見し、節刀を授けられる〔紀略13〕
   4/7 空海、出家得度す〔続後紀4〕。 一説に延暦23年
 4/9 空海、東大寺戒壇院にて具足戒を受く。 
 4/14 遣唐使、難波津頭において乗船す〔紀略13〕
 4/16 遣唐使、難波津を進発す〔紀略13〕
 4/21 遣唐使船、暴雨疾風に遭う。
明経請益生大学助教豊村家長、波間に没す
  4/23 大使藤原葛野麻呂、暴雨疾風に遭い渡航不能を報告す。
   右衛士少志日下三方を遣して、消息を問わしむ
4/25 大使藤原葛野麻呂等、上表す〔紀略13〕
4/28 典薬頭藤原貞嗣・造宮大工物部建麻呂等を遣して、遣唐舶ならびに破損雑物を修理せしめる〔紀略13〕
5/22      遣唐使、節刀を奉還す。
船舶の損壊により渡海するあたわざるによる
  延暦22年(803)発の遣唐使船は、2年前の801年8月には大使と副詞、判官などのメンバーが決定されています。同時に、船が安芸国で建造され始めたようです。そして、802年には最澄の短期留学僧としての派遣が決定しています。しかも、最澄には専属の通訳僧の同行も許されています。ところが空海の名前は、この時にはありません。空海がこの年の検討線に乗っていたかについては、次の2つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の最初から加わっていたとするもの(延暦22年説)
② 一度渡海に失敗し、再度の進発をした時点で加わったとするもの(延暦23年説)

bb-81.jpg
難波津 住吉神社の鳥居前の碑文
4隻の船が安芸から難波に回航され、諸物資を積み込み、使節が乗り込んだのは4月14日です。その2日後の16日に難波津を出港して瀬戸内海を西航して那津(博多)を目指しました。ところがそのわずか5日後の4月21日に瀬戸内海を航海中に暴風疾風に遭って碇が使用できず、制御不能となり破損し「航行不能」状態になってしまいます。そのため専門家を派遣して修理を行わせています。しかし、短期間で修繕できるものではなかったようで、5月22日には遣唐使団長は「船舶の損壊により渡海するあたわざるによる」と節刀を一時奉還しています。この時には難波津を出発して5日目に瀬戸内海で難破してしまったようです。どの辺りで難破したのか、5日目というと順調なら鞆か尾道あたりでしょうか。被害を受けたのは何隻かなどを知りたいのですが、史料には何も記されていません。

平城京歴史館/遣唐使船復元展示 | 徒然日記 (NO3)

 遣唐使船の歴代総数は40隻あまりですが、そのうち12隻が難破・遭難しています。
無事に渡海できる確率は2/3程度だったことになります。その理由として、従来は次のような理由が云われてきました。
①季節風を知らなかったこと、
②造船技術をはるかに上回る大きさの船を無理に造ったこと、
③前の航海の経験が次の航海にはほとんど生かされていなかったこと、
しかし、①③に関しては、次のような異論も出ています。
①の季節風については、遣唐使の航海に関する史料の検討から、風についての知識は現代のわれわれよりよく知っていて、従来の経験が生かされなかったわけではない。
②の船については、150名近くの乗船のために、全長16m、幅7m前後、総トン数で160トン前後のずんぐりした船だったと推定される。その当時、中国・朝鮮半島諸国で造られる大きい船でも、せいぜい70人乗り程度であったので、遣唐使船は特別大きな船だったことになります。
遣唐使船 ・ 奈良平城宮跡 (奈良県) - 気ままな撮影紀行
復元された遣唐使船(平城京公園)
これに関しては、専門家は、次の二つを指摘されています。
第一は、東シナ海を渡る航路をとる必要や、人とモノを載せる必要から技術力以上の大型の船を造らぎるえなくなり、構造的に無理があった
第二は、船の総重量や荷物を多く積み込みすぎたことも遭難の大きな要因であった。
つまりは、船の大型化と操船に問題があったようです。 延暦22年(803)発の遣唐使船も、同じような問題を抱えていたのでしょう。
 多島海で潮流の複雑な瀬戸内海は、当時の帆走技術では大きな船体の遣唐使船は、操船が難しくて自力航海することはできなかったと専門家は考えているようです。そのため多数の大船(準構造船)で、遣唐使船を曳航したようです。その中で、強風で流されての船体破損事故だったのでしょう。
船が修理されて、翌年に再度出港するまでの動きを年表で見ておきましょう。
804 1/13 □□朝臣今継、三棟朝臣を賜う〔後紀12〕
3/5 遣唐使、拝朝す〔後紀12・紀略13〕
3/25 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
とくに恩酒一堺・宝琴一面を賜う〔後紀12・紀略13〕
3/28 大使藤原葛野麻呂に節刀を授く〔後紀12。紀略13〕
  5/12 空海、大使藤原葛野麻呂とともに第一船に乗り、入唐の途に上る〔集記〕

 この時の遣唐使船は船の修理後、翌年延暦23年(804)3月28日に、改めて、大使藤原葛野麻呂に節刀を授けられています。そして、5月12日に大使藤原葛野麻呂が率いる4隻の船は難波津を出港していきます。この時に、第一船に空海も乗船していたと「集記」にはあります。前年の出港の際には、空海の名前はないようです。難破事件で一年遅れにならなければ、空海の入唐はなかったことになるようです。
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 難波津 住吉神社から出港する遣唐使船

東シナ海へ出て以後の動きを年表で押さえておきます。   
804年7/6遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7 第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬 第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10 第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1 第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15 最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
9/18 兵部少丞大伴太「万里を新羅に派遣す。未審の二船が漂着した場合のためなり
9/26 最澄、台州に到る。
難波津から約2ヶ月足らずで、那津(博多)を経て、松浦郡田浦までやって来ています。4船は、ここから出発しています。
司馬遼太郎(『空海の風景』)に、次のように記します。
されていたのを読んだことがあるからです。

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きる。 
 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つ。風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのだ。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。 
 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。久賀島の田浦を出帆したということについては『性霊集』では、「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
 ここで司馬遼太郎氏が書いていることをまとめておくと
①最後の寄港地は、五島列島の久賀島の「田ノ浦」である。遣唐使大使の葛野麻呂が帰国後に提出した報告書(『日本後紀』)に、そう書かれている。
②最後の寄港地である久賀島の「田ノ浦」で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待った
③真夏の逆風の季節をえらんで出帆することから分かるように、当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。
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舳先で悪霊退散を祈祷する空海

①について『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を確認してみましょう。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。
死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。
時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 これが遣唐使大使の正式報告書です。ここには最後の寄港地は「肥前国松浦郡田浦従リ発シ 四船海ニ入ル。」とあります。
「肥前国松浦郡田浦」については、2つの説があるようです。
①ひとつは、現在の平戸の北端の田浦
②もうひとつは五島列島の久賀島の「田ノ浦」

7月6日に「田ノ浦」を発って以後の4船の航路をたどってみましょう。
 順風をとらえて東シナ海を西に進み西方沖で潮に乗って南下しようとします。ところが翌朝に逆風に遭い、強風と逆波にさえぎられて南下できなくなります。帆をあげて西南の風を背に五島列島のどこかに避難しようとしますが、済州島の方向に押し流されます。

  肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。

とあるので、夜八時~九時頃に、五島列島を遠く離れた西の海域で四船は、散りぢりになったようです。そして、福州近くの赤岸鎭に漂着する8月10日まで34日、東シナ海の潮流になすすべもなく浮かんでいたことになります。

空海入唐 空海と最澄の漂着地
三井楽を最終寄港地とする立場の航路図
 松浦郡田浦を出て、翌日の7月7日の夜には、漂流を始めたのです。最終寄港地は「肥前国松浦郡田浦」です。今の平戸市北端の田浦の岬の上には弘法大師像が建立され、平戸市と善通寺市が姉妹都市を締結しているようです。
平戸の史跡・名所案内|旅館田の浦温泉(公式ホームページ)
平戸市田浦の弘法大師像

 これに対して五島列島の三井楽町柏崎の海辺には、「辞本涯」(「本涯を辞す」)と刻まれた石碑が建っているようです。
三井楽(みみらくの島)(五島市)
三井楽町柏崎の「辞本涯」 
三井楽も空海が参加した第十六次遣唐使船団の最終寄港地だと名乗りを上げているようです。しかし、つまり平戸と、三井楽では最終寄港地をめぐる争論が展開されてきたのです。

 最澄の乗った第2船は、7月下旬に、明州郡県に漂着し、9月1日には判官菅原清公以下27名が、明州を発ち長安に出発しています。
それでは第3・4船は、どうなったのでしょうか。
「空海の風景」には、次のように記されています。

「第三、第四両船、火信応ゼズ」と書いている。火信とは、松明もしくは火縄をふることによって、たがいに所在をたしかめあうことであった。第三船はこの時期に海没してしまったらしい。第四船にいたっては海没の証拠すらなく、ついに行方が知れなくなってしまっている。
  
   司馬遼太郎氏は、第3・4船は海に消えたというのです。
しかし、史書には2隻は遭難エリアから那ノ津(大宰府)に引き返していることが記されています。そして、船体修理後に翌年の延暦24年7月4日に、肥前国松浦郡庇良島(平戸の田ノ浦)から、遠値賀島(五島列島の福江島)に向けて出港しています。瀬戸内海での難破から数えると3度目の出港になります。ところが第三船は、出港まもなく南風の逆風によって孤島に漂着し、判官三棟は船を捨てて上陸します。船は水夫らとともに海上に流され、ついに行方知らずとなってしまったようです。

空海入唐 田浦

第3船の難破事件は大宰府から朝廷に、次のように報告されています。
 遣唐使第3船は、805年7月4日、肥前国松浦郡庇良島から遠値嘉島をさして出帆したところ、南風にあって孤島に漂着し、船は岩間にはさまれ、海水に満たされてしまった。そこで責任者の今嗣らは岸に上がって脱出した。が、船の積荷は公物・私物何一つとして船からおろす暇もなかった。船には数名の射手を残していたが、結が切れて漂流しはじめ、その行方はわからなくなった

  これは、責任問題となったようです。船を見捨て下船した今嗣に対する処罰記事が「日本後紀」にはあります。
船の最高責任者の使命を忘れて、みずからの命をながらえることのみを考え、船の積荷を放棄し、下船した責任を問うて厳罰を加えるべし、との勅が下されます。これは、当然のことでしょう、船長が乗船者がいる舟を放棄しているのですから。どちらにしても、第3船は3度目の出航後に、五島列島の北で座礁難破し、漂流を開始し行方不明になります。3度出港し、一度も渡海できなかった船になるようです。
  最後に第4船を見ておきましょう
第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆します。今見たように第三船は、運悪く三たび難破します。これに対して、遣唐副使判官の高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)を乗せた第四船は、「三度目の正直」で中国にたどり着きます。高階遠成は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀にも参列する栄華を得ます。この時に空海は、密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後だったのです。そこに、突然に、遣唐使がやってきたことになります。前回、お話ししたように、空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,やてきた高階遠成に相談したのでしょう。空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国できるようになったのは、この遣唐使船がやってきたからです。それだけではありません。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
「与本国使諸共帰啓」
空海が皇帝に「与本国使諸共帰啓」を上申書を提出することを認めたからです。これは、現地での彼の独断です。帰国後に朝廷からの処罰を受ける可能性もあったはずです。もし、遠成の許可がなければ、空海の帰国は実現しなかったのです。そういう意味では、遠成は空海の密教招来に手を貸すという大役を果たしたことになります。また彼は皇帝代替わりの新年朝貢の儀にも参列し、中国の史書に名前をとどめる栄誉をうけてもいます。ちなみに空海の名前は、史書にはありません。また他の中国側の史料にも空海の名前はありません。

高階遠成略年譜──空海を連れて帰った人   
806 1 空海・橘逸勢が、高階真人遠成とともに帰国することを請う(性霊集5)
806 8 遠成が空海等とともに、明州を発ち、帰国の途につく
806 10/22 空海が高階真人遠成に託して「新請来経等目録』を進献す(御請来目録)
806 12/13 遣唐判官正六位上高階真人遠成、復命す。
この日、従五位上を特授される(類衆国史99)
811 5/10 従五位上高階真人遠成、主計頭となる
   6/16 従五位上高階真人遠成、民部少輔となる(同右)
812 3/12 民部少輔高階真人、高雄山寺において空海から結縁灌頂を受く
12/19 「従五位下少輔高階真人遠成」と民部省符に署名す(平安遺文1)
813 2/13 従五位上高階真人遠成、大和介となる(日本後紀22)
815 1/7 従五位上高階真人遠成、正五位下に叙せらる(日本後紀24・類衆国史99)
816 1/7 正五位下高階真人遠成、従四位下に叙せらる(類衆国史99)
818 3/21 散位従四位下高階真人遠成、卒す。年六十三(日本紀略前篇14)
  

以上をまとめておくと
①空海が遣唐使の留学僧に選ばれる前年に、遣唐使船は一度出港していた。
②しかし、その時には出航後わずか5日後の瀬戸内海で難破し、航行不能となった。
③翌年に改めて遣唐使船は出港するが、この時に空海は第1船に乗り組んでいる。
④平戸の北の田浦を出た4船は、五島列島を目指すが強風にあり散りじりになった
⑤空海の乗った第1船と、最澄の乗った第2船は、それぞれ中国に漂着し、長安を目指した。
⑥しかし、第3・4船は船に大きなダメージを受けて博多に引っ返し、1年かけて修理した。
⑦そして、再再度出港したが第3船は、孤島に漂着し破船・漂泊、
⑧第4船は3度目の挑戦で入唐を果たし、遣唐副使判官の高階真人遠成長安を皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

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