瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:那珂郡七ケ村

 滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(滝宮牛頭天王社)

 天保12(1841)年7月に、滝宮念仏踊りをめぐって北条組と那珂郡七カ村との間で争論が起きます。
当時の青海村庄屋渡辺駒之助から大庄屋を通じ高松藩に次のような訴願が提出されています。「天保十二年七月 念仏踊一件留 口上」(『綾・松山史』)です。
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
当村念仏踊当年順年二付、当月二十五日踊人数之者召連、同日早朝滝宮迄罷越居申テ、七ケ村念仏踊済、当村念仏踊候儀ニ付七ケ村村念仏踊済相待居申候所、同日9ツ時分過済ニ付当郡大庄屋中初私共郡中 同役共、人数引継イ入場仕掛候処に付、双方除合(排除)卜相見へ棒突二先フ払ハセ、二王門前へ帰掛候二付、双方除合入場仕候テ踊済候処、大庄屋中ヨリ被申聞候者、御出役所へ先例之通申出仕候哉卜尋御座候二付、踊人数夫々目録今朝組頭ニ持セ御出役所迄相納候段申出候処、尚又右御出役所へ、罷出候様被仰聞ニ付、私義茂七郎同道仕御出役人宿迄罷出申候所、右目録指出候ヘハ則御届相済候義ニテ、前々ヨリ前段御届ハ不仕段御答仕候義二御座候、前々ハ七ケ村踊人数者、前夜ヨリ人込居申候二付、早朝滝宮踊済来候処、当年ハ如何之次第二御座候哉、九ツ過迄も相踊不申二付、当郡踊り人数之者共私共極早朝ヨリ入込相待居申候得共、前願之次第二付大二迷惑仕候、当郡者同日鴨村迄罷帰り、同村ヨリ氏部西庄迄相踊申日割二御座候処、当年ハ右の次第二付一統加茂村迄罷帰候処及暮、其日滝ノ宮計ニテ相済申候、
一 七ケ村念仏踊滝ノ宮踊人数者不残引取、村役人計り右様跡へ相残り居申義二付、私共踊人数引纏罷出申途中ニテ行合候様相成申候、大庄屋中私共罷出候義ハ多人数他郡越踊二参候義二付、右人数召連警固之為罷出候義と相心得罷在候処、七ケ村連も右同様と存候処、右の通踊人数引払候跡へ相残、市立多人数之中ヲ棒突ヲ以片寄可申由、先ヲ払ハセ打通候義、不得其意存申候、当郡ハ多人数引纏入場二相掛候二付、片寄候義も難出来存候得共、当年ハ存不寄義二付、双方除合無難二相済候得共、以後者右様当郡之邪魔致不申様 被仰付置可被下候様 宜奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
今年の滝宮への念仏踊奉納は、当村が順年でしたので、7月25日に踊人数を引き連れて、同日早朝に滝宮に参りました。七ケ村念仏踊が終わった後が当村の念仏踊の順番なので七ケ村念仏踊が終わるのを待っていました。同日9ツ時分過ぎ(13時)にやっと終了し、阿野郡大庄屋をはじめ郡中の役共が、踊衆を引き連れて入場しようとすると、那珂郡の付役人と双方で小競り合いが起きて、棒突に先払をさせて、二王門前へ退場しようとしました。この小競り合いについて踊り奉納終了後に、大庄屋から聞き取り調査があり、先例通り御出役所へ報告することになりました。
 踊り人数などについては、目録で前日に組頭に持参させて出役に届け出るのが決まりです。ところが私(義茂七郎)が役人宿に出向いて問い合わせたところ、目録は提出されていないとのことです。以前は七ケ村も踊人数者を、前夜の内に報告していました。しかし、今年はその報告がありませんでした。そればかりか、(予定時刻を大幅に超えて)九ツ過迄(昼過ぎ)までも踊り続ける始末です。
 当阿野郡の踊り組の者達は、早朝から滝宮にやってきて待機していたのに、大迷惑を蒙りました。
当方の北条踊りは、滝宮への奉納終了後に、その日のうちに鴨村まで帰って、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を例年予定しています。ところが七ケ村の遅延行為のために、加茂(鴨)村まで帰ることが出来ず、この日は滝宮だけになってしまいました。
一 七ケ村念仏踊は踊り終了後に、踊り手たちが残らず退場した後、七ケ村の村役だけが残ったのを確認した上で、私ども北条組は入場しようとしました。大人数の観客の間を入場するために、警固の人数を引き連れています。これは七ケ村組も同じと心得ています。
 私たち北条組が入場しようとすると(七ケ村役員は、市が立つほど多くの人数がひしめく中を棒突を先頭に、打ち払いながら退場しようとしました。そこで入場しようとする北条組と衝突し、小競り合いとなりました。入場中の当方に、除き合いを仕掛けてくるのは、はなはだ迷惑な行為です。以後は、このような当郡の邪魔をするようなことがないように、お上から仰付いただきたい。
宜奉願上候、以上

この「口上」は青海村庄屋から大庄屋を経て、藩に提出されたものです。いわゆる正式文書になります。北条組の言い分は、次の2点にあるようです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊り 那珂郡七ケ村の構成村と役割一覧

第一は、「七ケ村」が定めを守っていない点を指摘しています。
①例年なら前日に踊込人数目録が提出されるはずなのに、今年は届けられていないこと
②「七ケ村」組が、終了時刻を大幅にオーバーしても踊り続けたこと
③そのため北条組の踊りの開始が、午後からになり、当日の滝宮からの帰り掛けに奉納する予定であった鴨・氏部・西庄村の村社への奉納が出来なくなったこと。
つまり、七ケ村のルール違反に、北条組は大迷惑をこうむっていたとします。
第二は、「七ケ村」役人の横暴ぶりを指摘してます。
七ケ村の踊りが終わるのを、いらいらしながら待っていた北条組に対して、七ケ村は謝罪もせずに退場しようとします。しかも「七ケ村」村役人が棒引き(警護人)に先を払わせながら群衆を払い分けて出て行こうとします。それに対して入場しようとする北条組の先頭の棒引きは、応戦しないと責任問題になります。売られた喧嘩は買わなければならないのです。そこで両者のあいだに「除け合い」(小競り合い)が発生します。

この史料からは、次のようなことが分かります。
①七ケ村組と北条組がセットで同年に、滝宮に踊り奉納を行っていたこと
②北条組は七ケ村組の奉納中は別所で待機し、終了後に入場する手はずとなっていたこと
③北条組は、滝宮2社への奉納後に、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を予定していたこと
④棒引き(警護)は、先払役で実際に群衆を払い分けていたこと。
 この北条組の訴えについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは史料が残っていないので分かりません。
 幕末に岸の上村(まんのう町)の庄屋を務めた奈良家には、多くの文書が残っています。
その中に「滝宮念仏踊行事取遺留」には、文政9(1826)年から安政6(1859)年までの、13回にわたる七箇村組念仏踊の記録が綴りこまれています。筆者は、岸上村の庄屋奈良亮助とその子彦助の二人です。この綴りの冒頭には、次のように記されています。

 正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、夜半からの豪雨で、綾川は水嵩の増した。橋のない時代のことで、七箇村組は対岸で水が引くのを待っていた。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた北条念仏踊組が、滝宮神社の境内に入場しようとした。これを川の向こう側から見ていた七箇村組の衆はいきり立った。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、北条組の小踊二人を切り殺した。この事件後、北条組は48人の抜刀隊に警固されて、七箇村組とは順年を変えて踊奉納をすることになった。そして、両踊組の間には根深い対立感情が横たわるようになった。

 私は、これは事実を伝えるもので、警護役というのは、実際に起きた事件を教訓をもとに、各組でつけられていると思っていました。しかし、だんだんとこの記述については、次のような視点から疑念を持つようになりました。
①神前で神の子とされる子踊りの幼児を斬り殺しているにも関わらず、その後も朝倉家が久保宮の神職を続けていること。普通ならば厳罰に処せられるはずである。
②高松藩初代松平頼重が滝宮念仏踊りを復活させるのは、慶安三年(1650)年七月のことで、事件のあった正保二(1645)年には、中断期に当たること。
つまり、この年には高松藩では各念仏踊の滝宮へ奉納は中断していて、踊り込みはなかった時期になります。どうして200年後の七ケ村組の記録は、あえて北条村との関係を悪く記す必要があったのでしょうか。
  奈良家文書の「滝宮念仏踊行事取遺留」には、次のようにも記します。(意訳)
 文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂した。分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れがあった。岩崎平蔵は、「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、これを認めた。しかし、踊組の内には根強い反対意見もあって、岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力が生まれた。
 
 しかし、前回見たように北条組は、寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われています。それは文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からもうかがえます。奈良家文書が記すように「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂」という事実は確認できません。

  天保12(1841)年7月に、北条組が那珂郡七カ村を訴えたことについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは分からないとしました。しかし、次の天保15(1844)年の順年にはある変化が起きています。踊りの奉納日が次のようになっています
①北条組  7月24日
②七箇村組   25日
 ふたつの踊組の奉納日が別の日になっています。また、24日が雨天で、踊奉納ができなかった場合には、北条組は25日の七箇村組の後庭で踊ることとされています。これは、前回の北条組の訴えを受けての高松藩の対応策だったことがうかがえます。
 その次の順年である弘化4年(1847)年を見ておきましょう。
 この順年は、七ケ村念仏踊組は7月14日に大洪水があって、土器川が大破したので、各村社への巡回を中止し、滝宮両社と金毘羅山の奉納踊だけにしています。注目しておきたいのは、久保神社の宮司朝倉石見が、高松藩の命令で笛吹株を召し上げられていることです。代わって真野村から元次郎が担当しています。浅倉石見は、正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時に殺傷事件を起こしたとされる子孫になります。
   以上見てきたように、どうも奈良家文書の念仏踊りの北条組との関係について記した部分については、北条組に残る文書と整合性がとれないものがあるようです。

以上をまとめておきます
①正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、七箇村組と北条念仏踊組の間に殺傷事件があったと奈良家文書は伝えること。
②しかし、これについては高松藩による滝宮念仏踊り復活以前のことで、中断時期にあたり疑問が残ること
③北条組は、寛政6(1794)年に調停書で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われるようになる。
④北条組については、文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からも円滑に運営されていたことがうかがえる。
⑤岸の上の奈良家文書は、「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂し、ひとつが七ケ村の後で踊るようになった」と記すが、史料からは確認できない。
⑥天保12(1841)年7月に、那珂郡七カ村のルール違反を北条組が高松藩に訴える。
⑦その結果、次回からは両者の奉納日が24日と25日に分かれることになった。
⑧またその次の順年には、久保宮の神職の宮座株が没収されている。
 奈良文書の七ケ村組と北条組との諍いについては、綴りの表紙として後世に書かれたものです。19世紀になってからの北条組からの藩への控訴を、過去にまで遡らせて偽作した疑いがあると私は考えるようになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

      まんのう町諏訪神社の念仏踊り
                      念仏踊り(まんのう町諏訪神社)

  滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。最近は4郡だけになってしまった。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させた

滝宮念仏踊りは風流踊りで、もともとは雨乞い踊りではなかったようです。喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)には、次のように記されています。
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

ここには雨乞い祈願をしたのは菅原道真で、その成就に感謝して百姓たちがお礼のために踊ったと記されています。奈良のなむて踊りも、もともとは盆に踊られた風流踊りで、それが雨乞い成就の際に感謝の気持ちを込めて踊られるようになったことは以前にお話ししました。滝宮念仏踊りも、中世の時宗の念仏踊りが風流化したもので、それが丸亀平野の各郷村で盆踊りとして踊られていたものと私は考えています。

那珂郡 讃岐国図 高松市歴史資料館
正保讃岐国絵図(高松市歴史資料館) 17世紀前半の那珂郡

 近世になって滝宮に奉納することを許されたのは、4つの組です。それは近世の村切りによって村が出現する前の荘郷エリアで編成されています。例えば、那珂郡の七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の三つの領の13ヶ村にまたがる踊組です。その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。これは中世の小松・真野・吉野郷エリアにあたります。                         
まんのう町の郷
古代中世の荘郷

 七箇村踊組は、ただ滝宮で1回踊るだけではなかったようです。その前に、7月7日から盛夏の一ヶ月間に、構成員の各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後に真野の諏訪神社でに奉納した後に滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
  以上をまとめておくと次のようになります。
①中世の時宗念仏踊りが風流化し、丸亀平野の郷荘の盆踊りとして踊られるようになった。
②それが旱魃の際の雨乞いのお礼として、各郷で組織された集団が滝宮の牛頭天王神社(滝宮神社)に奉納された。
③近世になって一時的に中断していた踊りを、髙松藩初代藩主が復活させた。
④以後、事件などで中断期をはさみながら江戸時代末期まで奉納された。
⑤この念仏踊りは、中世の郷村時代に編成されたために、近世の村を越えたメンバーで編成されている。
⑥踊手や桟敷席などには宮座の存在が色濃く残っている。

私に分からないのは、どうして中世に「村」を越えて荘郷規模で組が編成されたのかという点です。
これについてヒントを提供してくれる本に出会いましたので、見ていくことにします。テキストは「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
日本中世地域社会の構造 (歴史科学叢書) | 榎原 雅治 |本 | 通販 | Amazon

中世の鎮守の機能について、研究者は次のように押さえています。
第一には、荘郷鎮守は百姓が五穀豊穣、現世安穏・後生善処を祈願する祈りの場でした。しかし、それだけではありません。荘郷内の平和を祈願する場所だからこそ、公的な場所でもありました。聖なる場所であり、公的空間でもある鎮守を掌握したものが支配者として正当性をもちえたともいえます。中世の武士団が地元の有力な寺社を保護したのも、支配を円滑にするには寺社を押さえ保護者であることをしめすことがポイントになることを、経験的に学んだ結果なのかも知れません。
第2に鎮守では、荘郷政所による検断(けんだん)が行われました。
 検断とは「検察」+「断獄」=「検断」で、不法行為)を検察してその不法をの罪を裁くことです。中世の検断は、鉄火取り、湯起請といった鎮守の場での神裁の形をとります。郷社の鎮守は神聖な裁きの場でもあったのです。
第3に、荘郷鎮守は荘郷内のメンバーの身分秩序会の確認の場でもありました。
鎮守の宮座が名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていたことや、新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていたことをみれば分かります。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちの身分序列の確認の場でもあったのです。

次に、荘郷の寺社がネットワークを形成していく具体例を、近江国坂田郡(現長浜市)の長浜八幡神社で見ていきます。
神社ご朱印巡り7 「長濱八幡宮」(滋賀県長浜市) | sadahachi.com

長浜八幡宮は八幡庄の鎮守で、室町中期の永享年間に堂塔建立が行われています。永享7年(1435)の勧進猿楽の際の桟敷注文井奉加帳(史料B)と、永享11年(1429)の塔供養の際の奉加帳(史料C)が残されています。史料Bを見る前に、当時の猿楽の席次について「予習」しておくことにします。
長浜神社 糾瓦猿楽桟敷図
京都札河原勧進猿楽桟敷注文
寛正5年(1464)の京都札河原勧進猿楽桟敷注文およびその付図(図2)があります。そこには、猿楽は円形の舞台で演じられ、その周囲に見物桟敷が設けられています。桟敷の中心(真下)は「神之座敷」です。「御前」が「神之座敷」の前という意味です。これを中心に、向正面に向かって注文の記載順に座っていきます。御前の両隣に公方夫妻(足利義政・日野富子)が座り、次いで対面に向かって関白、門跡、管領、有力守護、奉公衆と、およその身分の序列に従って席が決められていたことが分かります。
長浜八幡宮の猿楽桟敷の舞台設営もこれと同じような席順であったのでしょう。上演の際の席次は、どうなっていたのでしょうか
長浜神社 猿楽桟敷

座敷注文の記載順を見ておきましょう。
文中に「御前ヨリ東」「御前ヨリ西」とあるので、桟敷の席次を意識した順のようです。そしてその順序は「次第不同」とされていますが、そうはいいながら注文の端から奥に向かって、荘官・殿原層から村へという、序列があることがうかがえます。
下に続く
長浜神社 猿楽桟敷2
この席順を模式図化すると下図のようになります。

長浜神社 猿楽桟敷概念図2

長浜八幡神社の猿楽桟敷の配置については、以下のようになります。
桟敷の中央に荘官・殿原層・荘郷鎮守の僧や神官
末席には名主層
桟敷と舞台の間の「地居」に桟敷に昇れない層
猿楽鑑賞の座が、地域の身分秩序を目に見える形で示す場になります。参加者にとっては、自分の席がどこにあり、前後はどうなっているのかは大きな意味を持ったことでしょう。それは、そのまま「家の格付け」を示す者でもあったことになります。
研究者は史料に出てくる次の字句に注目します。
史料Bの奉加帳部分に「八坂 八人中」
史料Cに「イコマ(生駒)ノ宮村人」
Bの八坂社は祗園保の鎮守で、生駒宮は平方庄の鎮守です。八坂社や生駒の宮の「村人」が長浜の八幡宮に寄進しています。「村人」ということばは、近江においては村民一般ではなく、宮座の構成員である「オトナ層」を指す用語のようです。奉加帳に「八坂八人中」「イコマノ宮村人」などの名前が見えるということは、 この地域の荘郷鎮守の関係が、単なる寺社と寺社の関係ではなく、オトナ層同士の宮座と宮座の連帯関係でもあったと研究者は考えています。
こうした荘郷鎮守の関係は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
 それは地域の身分秩序を確認する場として機能していたと研究者は指摘します。表2は史料Bの桟敷注文に見えるおもな人物を荘郷別、身分別にまとめたものです。
長浜神社 猿楽桟敷注文票

ここに出てくるメンバーを見ると、八幡庄を中心とした荘郷から荘官層、殿原層、名主百姓層がそれぞれに桟敷料を払って、このイベントに参加していたことが分かります。つまり、実際に猿楽が上演されるときには、次の二つの階層が桟敷の上で目に見える形で確認できることになります。
単独で見物席を確保できる荘官層、殿原層、
村単位でなければ確保できない名主百姓層
また、新興の者はこの場に座る座を確保することによって、自らの位置を可視的に地域社会に承認させることができるという仕掛けになっています。
これらの史料に出てくる寺社を地図に落としたのが図1です。
長浜神社 ネットワーク

ここからは長浜八幡宮や観音寺をはじめ福永庄の神照寺、山階庄の本国社など、この地域の荘郷鎮守を中心とした寺社の造営などに、周囲の荘郷から寄進が出されています。地域的な連帯関係があったことが見えてきます。中世の寺社は、単独で存在していたのではないということです。これらを結びつけていたのが修験者たちになるようですが、それについてはまた後ほどみることにします。
長浜 大原観音寺
大原観音寺

長浜の東方にある大原観音寺は、大原庄の鎮守的な寺院です。ここにも応永26年(1419)の本堂造作日記(史料D)が伝わていて、奉加者の名前が記されています。

長浜神社 史料D

史料Dには、大原庄内外の村々の「村人」が奉加者として名前があります。「村人」というのは、先ほども見たように荘郷内の支配層のことです。各荘郷の「村人」が寺社のネットを通じて、荘郷を超えた広い地域社会の中に現れて、認められていることになります。寺社のネットは、村内の身分序列を、荘郷を超えた地域社会で承認していく役割を果たしていたことになります。
 さらに重要なことは身分だけでなく、「村」の存在自体、寺社のネツトを通して地域社会の中で承認されるものだったというのです。
荘郷内に「村」が政治的・経済的な主体として登場してくるのは鎌倉末期のことです。これを承認する体制は、荘園公領制の中にはありません。新たに登場した室町期の守護も荘郷の枠組みを超えて「村」を領国支配体制の中に位置づけることはありませんでした。そのような中世社会の中にあって唯一「村」を承認するシステムが、寺社の地域的ネットだったと研究者は指摘します。荘郷鎮守の地域的ネットに認めてもらうことで、「村」は「村人」という内部の身分秩序とともに、地域的な承認を獲得していったと研究者は考えています。つまり、このような寺社ネットに登録されないと、他の荘郷から村としても、指導者としても認めてもらえることがなかったことになります。
少々荒っぽいですが、これを丸亀平野の那珂郡南部で起きていたことに当てはめると、次のようになります。
①那珂郡南部の真野郡は、真野の諏訪神社を荘郷神社としていた。
②小松・真野郷は各村からの宮座構成員の「村人」メンバーで、念仏踊りが組織され諏訪神社に奉納された。
③その際には、踊り手は宮座メンバーに限られていたので、踊りに参加する人たちは小松荘や真野郷の「村人(有力者)」を相互認知する機会となった。
④神社の境内に設置された桟敷席も、エリア指定の世襲制で宮座メンバー以外は建てることができなかった。桟敷席に座ると云うこと自体が、地域での階層位置を示すもので、「村」での権勢表示の場でもあった。
ここからは丸亀平野の荘郷のなかでも、「村 ― 荘郷 ― 地域」のネットワーク化が進んでいたこと、そして、村内の身分秩序や村自体の存在が荘郷を超えた広い地域の中で公認されていく様子が見えてきます。その場が荘郷の鎮守であり、そこで踊られる念仏踊りであったことになります。そして、荘郷鎮守の地域的な関係とは、寺社の相互扶助によって成り立っていたようです。
  真野郡の諏訪神社は、滝宮の牛頭天王社と、近江八幡社の近隣寺社と同じように修験道関係者を通じた相互扶助関係があったことがうかがえます。それだけの勢力を牛頭天王社別当寺の龍燈寺に集まる修験者たちは持っていたことになります。

 中世の名主層の世界観は、次のようなものだったと研究者は考えています。
地域的な秩序を維持するためには、荘郷鎮守の維持が必要である。荘郷鎮守を維持するためには村内の身分秩序を維持することが必要だ。逆にいえば、荘郷鎮守を維持することは、その荘郷のみにとって意味をもつものではなく、地域全体の秩序を保つための義務なのである。この地域に対する義務を果たすことによって、荘郷内の宮座運営の体制、すなわち荘郷内の身分秩序は、地域社会の中で認められているのだ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
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