瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:郡里廃寺

忌部山2号墳の羨道部
山川町の忌部山2号墳 石室天井が高く積み上げられドーム型天井になっている

前回は麻植郡が阿波忌部氏の本貫地で、ドーム型天井を特徴とする忌部山型石室の古墳が見られること、これを造営したのが古代の忌部氏に繋がる集団であるという説を見ました。今回は、その忌部山型石室のルーツが、どこにあるのかを見ていくことにします。テキストは  「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。
麻植群の忌部山型石室は、美馬郡の段の塚穴型石室からの影響を受けていると研究者は指摘します。
段ノ塚穴型石室は美馬町にある段ノ塚穴古墳(国指定)を盟主とする特異なタイプの横穴式石室です。このタイプの石室は全国的に見ても、非常に珍しいもののようです。段の塚穴古墳に行ってみることにします。
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段の塚穴古墳群の太鼓塚古墳(美馬市坊僧 下が川北街道)
段ノ塚穴には、大鼓塚と棚塚の二つの大きな円墳があります。東側が大鼓塚で、東西37m、南北33m、高さ10mの徳島県最大の円墳です。西隣りの棚塚は、それよりひと回り小さく直径20m、高さ7mの円墳です。

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太鼓塚古墳入口
太鼓塚の石室は、全長13、1m、7、7mの長い羨道を持ち、玄室部4、5m、中央部で高さ4、25mの四国最大級の横穴式石室です。門扉はありますが鍵はないので、自由に入ることができる私にとってはありがたい古墳です。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
石室は結晶片岩を用いた両袖式で、段の塚穴型石室と呼ばれる胴張りの平面プランと持ち送り式に積み上げた天井。1951年(昭和26年)、墳丘西裾から須恵器・土師器・埴輪・馬具などが出土し6世紀後
から7世紀初頭のものとされています。

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太鼓塚古墳羨道と玄門 羨道は入口に向かってバチ形に開く
段の塚穴古墳・太鼓塚の玄門g
                  太鼓塚古墳玄門
 玄室の平面形は、中央部が膨らむ胴張り形で、玄室天井部は天井石7石が階段状に持ち送られることによるドーム状です。
段の塚穴古墳天井部
                 太鼓塚古墳の天井部
副葬品としては鉄製品・須恵器などが出てきていて、その出土品の年代判定から追葬がされているようです。石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」と呼ばれてきたようです。

段の塚穴古墳・太鼓塚の石室内部
太鼓塚古墳奥壁前の祠
奥壁前には小さな仏が奉られ、今も賽銭が数多くあげられていました。人々の信仰対象として奉られ、現在まで保護されてきたことが分かります。同時に、優れた築造技術を感じます。

段の塚穴古墳・太鼓塚の石室内部2
太鼓塚古墳玄室から入口方面
確かに太鼓のような膨らみを感じることができる玄室です。なお、玄室内部は暗いので強力な懐中電灯を持参することをお勧めします。入口から出てくると、外に拡がる風景が・・・


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段の塚穴古墳群の前に拡がる美田
目の前には、整備された美田が広がり、その向こうに吉野川が流れ、そして剣山へと伸びていく山脈が続きます。しかし、古代にはこんな風景ではなかったことは以前にお話ししました。古代の吉野川は、今よりも北側を流れ、郡里の寺町の河岸段丘からこのすぐ下まで押し寄せていました。この美田が現れるのは、吉野川の治水が進む近代になってからのようです。

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段の塚穴古墳群の西側の棚塚古墳
 西側にある棚塚を見に行きます。
全長8、5m、羨道部3、7m 玄室部4、5m、幅2m、石室全長:8,6m、高さ2,8m

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棚塚古墳の入口
太鼓塚古墳と構造的には似ていますが異なるのは、次の3点です。
①玄室の平面形は太鼓塚が中央部が膨らむ胴張り形でしたが、棚塚は長方形。
②玄室天井部は天井石5石が階段状に持ち送られることでドーム状にしていること
③玄室奥壁には石棚が付けられていること

段の塚穴古墳 棚塚1
棚塚古墳の奥壁と石棚
棚塚は石室奥壁側に石棚があることから付けられた名前のようです。石棚のある石室は、徳島では段ノ塚穴型石室だけで、七基が確認されています。

段の塚穴古墳 棚塚2
石棚の拡大写真

この太鼓塚と石棚柄の石室は県下で最大級であると同時に、巨石を巧みに積み上げた優れた技法の石室であることです。優れた技術者集団によって、造られたことがうかがえます。2つの古墳共通する特徴を挙げておきます。
①羨道部は入口部が広く、玄室方向に進むに連れて狭まり、玄室部入口の両側に立石が立てられ玄門としている。
②玄室部の平面形は太鼓張りか末広がり
③天井部は忌部山型と同じく玄室入口側と奥壁側から持ち送り、竃窪状とし玄室中央部の天井を最高位としている。
④忌部山型よりも天井部の高さはより高く、石室空間も広く、という意図がうかがえる。
⑤麻植の忌部山型石室と比較すると、段ノ塚穴型石室の構築技術の方がより優れている。
この2つの古墳に代表されるドーム型天井石室を持つ古墳を「段の塚穴型石室」と呼んで分類しています。
段の塚穴型石室をもつ古墳群とと美馬郡にある古墳分布図を見ておきましょう。

段の塚穴型石室をもつ美馬の古墳

段の塚穴型石室をもつ美馬の古墳一覧
美馬郡の段の塚穴型石室古墳の分布図と一覧表
ここからは次のようなが読み取れます。
美馬郡には、段ノ塚穴型石室をもつ古墳が23基あること
段の塚穴型石室をもつ古墳の一番西が大國魂古墳(美馬町城)で、一番東が北岡東古墳(阿波町)
③ 美馬郡の古墳は南岸よりも、北岸に立地するの方が多いこと。北岸優位
④ 段の塚穴型古墳は、山の上の高所立地はあまりなく、北岸の河岸段丘沿いの立地が多いこと
⑤ 敢えて集中地を挙げるなら、郡里と脇町の2つ

一番古いモデル(6世紀中葉)とされる大國魂古墳(美馬市美馬町)を、見ておきましょう。

大國魂古墳kaikoubu 2
大國魂古墳の開口部
この古墳は美馬町・重清西小学校北の大国魂神社の境内にあります。ここも「先祖の墓=信仰対象」として守られてきたのでしょう。この古墳は。段の塚穴型石室の中で、一番西に位置します。開口部は狭いですが、石室内部は完存してます。

段の塚穴古墳棚塚3
                大國魂古墳の玄室から見た開口部

幅2・22m、玄室長2.17m、高さ2.09m。石室全長は4.67m。
床面プランは、やや胴張りですが正方形に近い形式。側壁は下部に砂岩、上部に結晶片岩を用いています。奥壁には石棚がります。

大國魂古墳(美馬市美馬町)
大國魂古墳 奥壁の上部にもうけられた石棚 
石棚の位置が高すぎで、天井との空間が狭すぎるような感じがしますが、ここに何かが奉られていたのでしょう。大國魂古墳の特徴をまとめておきます
①段の塚穴古墳群に比べると石室の規模はやや小さい
②玄室の平面プランは胴張りをしているものの正方形に近い
③石室には、奥壁天井部に接する形で石棚が設置(奥行き30㎝、厚さ8㎝の小振りの石棚)
段の塚穴型石室変遷表
段の塚穴型石室の編年試案

初期の大國魂古墳から終期の段の塚穴古墳群を比較して、研究者は次のように指摘します。
①周忌の最終段階の段ノ塚穴古墳までに、石室は長く、高くという意図が働いている
②構築技術の高まりと同時に被葬者の権力的基盤の高まりがうかがえる。
このような石組技術をもった集団が古代の美馬にいて、独特の石室を作り続けたことになります。

段ノ塚穴型石室分布図
段の塚穴型石室と忌部山型石室の分布図

ついでに、ここで段ノ塚穴型石室と忌部山型石室の共通点も見ておきます。
③共に、石室内部をより広く高くするというベクトルが働いていること
④石室内をドーム状にし、天井を穹窪状に持ち送る「ドーム型天井」を採用していること
どちらが先行するかと言えば、段ノ塚穴型石室の初期モデルと考えられる大國魂古墳(5世紀末~6世紀初期)があるので、段ノ塚穴型石室が先と研究者は考えています。段ノ塚穴型石室が先に登場し、続いて忌部山型石室が続くとことを押さえておきます。

それでは段ノ塚穴型石室のルーツは、どこなのでしょうか?
それは、次の二ヶ所が考えられるようです。
①紀伊水道を隔てた和歌山県紀ノ川南岸下流域沿いに分布する岩瀬千塚型石室
②九州の肥後型石室
岩橋型石室 段の塚穴古墳のルーツ?

岩瀬型石室(和歌山)


肥後型石室
この両者は天井部を高く積み上げる点で共通点があります。段ノ塚穴型石室に見られる石棚を持つ特徴は、岩瀬千塚型に共通します。しかし、天井石を前後から持ち送りドーム状にするという手法は見られません。これは阿波で発展した独特の技法です。
 先ほど見た段ノ塚穴型石室の初期モデルとされる大國魂古墳と肥後型石室を比較すると、玄室プランが正方形であること、石棚がある点などでは共通します。そのため近年では、肥後型石室の影響を受けて、天井部を高くする技法が進化し、長方形の胴張り形がミックスされたとする見方が有力なようです。
  ここまでをまとめておきます
①麻植の忌部氏と美馬の佐伯直氏は、とも阿波に移り住んだということが史料からは読み取れる。
②段ノ塚穴型石室、忌部山型石室ともに、そのルーツを辿っていくと九州地域からの影響を受けて作られた可能性が高い。
③これは工人達の移住により構築技術がもたらされたというよりも、高い統率力を持った豪族が集団で移住・入植し、美馬郡、麻植郡を本拠地として活動したと考えられる。
④こうした勢力が、古墳末期から律令期において、美馬・麻殖で、独特のドーム型石室の終末古墳を造営し、引き続いて古代寺院の建立を手がけることになる。

それでは、美馬エリアに段ノ塚穴型石室を造営したのは、どんな集団だったのでしょうか
古墳末期に、横穴式の巨石墳を造っていたエリアでは、7世紀後半の白鳳時代になると古代寺院が現れることがよくあります。つまり、古代の国造クラスの有力者が、中央の支配者を見習って埋葬方法を古墳から寺院に切り替えたとされます。それが国造から郡司への生き残り戦略でもあったのです。彼らは壬申の乱の天武政権において、郡司として地方権力を握るために、中央政府の打ちだす政策に協力していきます。それが、白村江敗北後の国土防衛のための軍事施設整備であり、南海道などの整備、条里制施行の土木工事でした。同時に、郡司として郡衛やそれに付随した施設を整備していきます。つまり8世紀後半に、南海道などの主要道や郡衙・古代寺院がほぼ同時に姿を見せることになります。そのような場所が、美馬の郡里です。ここには、次のような施設がありました。

郡里廃寺2
             古代の美馬・郡里の政治的モニュメント
A 段の塚穴古墳(古墳末期の巨石墳)
B 郡里廃寺(有力豪族の氏寺)
C 美馬郡の郡衙
D 条里制跡
こうして見ると6世紀末に盟主的性格の強い段の穴塚古墳を作った集団は、白鳳期になると郡里廃寺を造営したことが考えられます。ここからは美馬には国造クラスとして活躍し、その後に美馬郡司にスライドしていく有力豪族がいたことがうかがえます。その豪族とは、誰なのでしょうか? 古代史料に美馬郡で活躍する氏族名はあまりいないようです。その中で、研究者は次の記事に注目します。

『日本三代実録』貞観十二(870)年七月十九日の条に、佐伯直氏が登場します。
「阿波国三好郡少領外従八位上仕直浄宗五人。賜姓 佐伯直。」
             (『日本三代実録』前篇、二七六頁、国史大系、吉川弘文館1924年)
ここには阿波国三好郡の少領である「仕直浄宗」以下の五人に佐伯直の姓が与えられたとあります。佐伯直氏は、讃岐では空海を生んだ善通寺の有力豪族で、次のように考えられていることは以前にお話ししました。
佐伯直氏
佐伯氏は3つの氏族がいて「擬似的血縁共同体」を形成していた
  『三代実録』巻貞観三年(861)11月11日辛巳条には、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたことが記されています。それから9年後に阿波三好郡の「仕直浄宗」以下の五人が佐伯直が下賜され改姓していたことになります。ここからは善通寺の佐伯直氏と阿波美馬の勢力は「佐伯」という同じ姓を持ち、同属意識で結ばれていたことがうかがえます。

奈良時代の平城宮跡二条大路出土の木簡二点にも美馬郡の佐伯直氏が登場します。
A 阿波國美馬郡三野郷戸主佐伯直国分米
B 阿波国美馬郡三野郷  戸主佐伯直国麻呂米五斗
『平城官発掘調査出土木簡概報 二条大路木簡二 24・30P(奈良国立文化財研究所、1991年)
この二つの木簡は荷札木簡で、美馬郡三野郷の戸主佐伯直が税として米を納めたことが記されています。納めた年月は分かりませんが奈良時代の史料であることはまちがいありません。ここからは奈良時代の律令期に美馬郡三野郷に佐伯直氏の集団がいたことが分かります。史料の中に美馬郡域に登場する氏族は、佐伯直氏以外には今のところいないようです。佐伯氏と美馬郡の段ノ塚穴型石室の分布が重なり会う可能性が大きいと研究者は考えています。以上からは次のような説が考えられます。
郡里廃寺 段の塚穴
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
 『郡里町史』(1957)は、阿波国には、文献から確認できる「粟国」と「長国」のほかに、記録には出てこないが「美馬国」とでもいうべき国があったという阿波三国説を提唱しています。この美馬国は②が実態だったと考えられます。

古代の善通寺と美馬の交流関係については、以前に次のようにお話ししました。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
                  郡里(こおざと)廃寺
この古代寺院を建立したのは、先ほど見たように佐伯直氏一族と考えられます。またこの廃寺跡からは、弘安寺廃寺(まんのう町)から出てきた白鳳期の同じ木型(同笵)からつくられた軒丸瓦が見つかっています。郡里廃寺建立に、善通寺の佐伯直氏が協力したことが考えられます。

弘安寺軒丸瓦の同氾
弘安寺(まんのう町)軒丸瓦の同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)
さらに、「美馬王国」と「善通寺王国(善通寺旧練兵場遺跡群)には、次のような関係がありました。
古代美馬王国と善通寺の交流


ここから研究者は、次のような仮説「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

ここでは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説があることを押さえておきます。そうだとすれば、弘安寺(まんのう町)と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 最後に美馬の段の塚穴型型石室を造営した勢力の経済基盤は何だったのかを考えておきます。

大仏造営 辰砂分布図jpg
四国を東西に走る中央構造線の南側は、朱砂(水銀)や銅鉱など鉱物資源の眠るベルト地帯でした。その中でも、徳島の水銀生産の実態が他に先駆けて、明らかになっています。吉野川の南側の山には、鉱物資源を求めて、早くから人々が入り込み水銀を畿内だけでなく各地にもたらしたことが分かっています。そのルートが「美馬 → 善通寺 → 多度津 → 瀬戸内海航路」です。これは、律令時代になってもかわりません。東大寺の大仏鋳造に必要だった水銀と銅鉱の多くは、渡来人の秦氏がもたらしたものとされます。そのために秦氏は、伊予や土佐にやってきて鉱山開発を行っていたことがうかがえます。高越山周辺の銅山でも、秦氏の銘が経筒に残されていることは以前にお話ししました。このように、古代において吉野川の南側は、鉱物資源の生産地として戦略的にも重要地帯であったことがうかがえます。そこに、佐伯氏や忌部氏が入植し、この地を開き、忌部山型石棺や段の塚穴型石棺という独特の古墳を残したというのが私の今の考えです。

 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制形成期に美馬郡司にスライドして、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院郡里廃寺の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった善通寺の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。
⑥中央構造線の南側には鉱物資源ベルト地帯が東西に走り、その開発のために麻植に入植した子孫が忌部氏であり、美馬に入植したのが佐伯氏である
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ
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修験者

  まんのう町の「ことなみ道の駅」から県境の三頭トンネルを抜けて、つづら折りの国道438号を下りていったところが美馬町郡里(こおさと)です。「郡里」は、古代の「美馬王国」があったところとされ、後に三野郡の郡衙が置かれていたとされます。そのため「郡里」という地名が残ったようです。「道の駅みまの家」の南側には、古代寺院の郡里廃寺跡が発掘調査されていて、以前に紹介しました。

郡里廃寺跡 クチコミ・アクセス・営業時間|吉野川・阿波・脇町【フォートラベル】
郡里廃寺跡

この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。

美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
郡里廃寺跡南側の寺町の伽藍群

 郡里廃寺の南側には、寺町とよばれるエリアがあって大きな伽藍がいくつも建っています。
それも地方では珍しい大型の伽藍群です。最初、このエリアを訪れた時には、どうしてこんな大きな寺が密集しているのだろうかと不思議に思いました。今回は郡里寺町に、大きなお寺が集まっている理由を見ていくことにします。その際に「想像・妄想力」を膨らましますので「小説的内容」となるかもしれません。
 地域社会と真宗 千葉乗隆著作集(千葉乗隆) / 光輪社 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」です。千葉氏は、郡里の安楽寺の住職を務める一方で、龍谷大学学長もつとめた真宗研究家でもあります。彼が自分の寺の「安楽寺文書」を整理し、郡里村の寺院形成史として書いたのがこの論文になります。
安楽寺3
河岸台地の上にある安楽寺と寺町の伽藍群
 寺町は扇状地である吉野川の河岸段丘の上に位置します。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
 この寺町台地に中世にあった寺は、真宗の安楽寺と真言宗の願勝寺の2つです。
寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺
願勝寺は、真言系修験者の寺院で阿波と讃岐の国境上にある大滝山の修験者たちの拠点として、大きな力を持っていたようです。天正年間(1575頃)の日蓮宗と真言宗の衝突である阿波法幸騒動の時には、真言宗側のリーダーとして活躍したとする文書が残されています。願勝寺は、阿波の真言宗修験者たちのの有力拠点だったことを押さえておきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の寺歴
 安楽寺は、上総の千葉氏が阿波に亡命して開いたとされます。
千葉氏は鎌倉幕府内で北条氏との権力争いに敗れて、親族の阿波守護を頼って亡命してきた寺伝には記されています。上総で真宗に改宗していた千葉氏は、天台宗の寺を与えられ、それを真宗に換えて住職となったというのです。とすれば安楽寺は、かつては、天台宗の寺院だったということになります。それを裏付けるのが境内の西北隅に今も残る宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠です。中世には、天台・真言のお寺がひとつずつ、ここに立っていたことを押さえておきます。
 その内の天台宗寺院が千葉氏によって、真宗に改宗されます。
寺伝には千葉氏は、阿波亡命前に、親鸞の高弟の下で真宗門徒になっていたとしますので、もともとは真宗興正派ではなかったようです。そして、南無阿弥陀仏を唱える信者を増やして行くことになります。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分表

 安楽寺の末寺分布図を見ると、阿波では吉野川流域に限定されていること、吉野川よりも南の地域には、ほとんど末寺はないことが分かります。ここからは、当時の安楽寺が吉野川の河川交通に関わる集団を門徒化して、彼らよって各地に道場が開かれ、寺院に発展していったことが推測できます。
宝壷山 願勝寺 « 宝壷山 願勝寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

念仏道場が吉野川沿いの川港を中心に広がっていくのを、願勝寺の真言系修験者たちは、どのような目で見ていたのでしょうか。
親鸞や蓮如が、比叡山の山法師たちから受けた迫害を思い出します。安楽寺のそばには真言系修験者の拠点・願勝寺があるのです。このふたつの新旧寺院が、初めから友好的関係だったとは思えません。願勝寺を拠点とする修験者たちは、後に阿波法華騒動を引き起こしている集団なのです。黙って見ていたとは、とてもおもえません。ある日、徒党を組んで安楽寺を襲い、焼き討ちしたのではないでしょうか?
  寺の歴史には次のように記されています。

永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」

 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜいままでの所に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか? その原因のひとつとして願勝寺との対立があったと私は考えています。

安楽寺文書
「三好千熊丸諸役免許状」(安楽寺)
  安楽寺の危機を救ったのが興正寺でした。
それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」には次のように記します。(意訳)
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える

この免許状の要点を挙げると
①「興正寺殿からの口添えがあり」とあり、調停工作を行ったのは興正寺であること
②内容は「帰還許可+諸役免除+安全保障」を三好氏が安楽寺に保証するものであること。
③「違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える」からは、安楽寺に危害を加える集団がいたことを暗示する
この「免許状」は、安楽寺にとっては大きな意味を持ちます。拡大解釈すると安楽寺は、三好氏支配下における「布教活動の自由」を得たことになります。吉野川流域はもちろんのこと、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えると云うことになります。安楽寺が讃岐と吉野川流域に数多くの末寺を、もつのはこの時期に安楽寺によって、数多くの念仏道場が開かれたからだと私は考えています。
 そして、安楽寺は調停を行ってくれた興正寺の門下に入っていったと私は考えています。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
 こうして、三好氏の讃岐支配の拡大と歩調を合わせるように安楽寺の教線ラインは伸びていきます。
まんのう町への具体的な教線ラインは、三頭・真鈴峠を越えて、勝浦の長善寺、長炭の尊光寺というラインが考えられます。このライン上のソラの集落に念仏道場が開かれ、安楽寺から念仏僧侶が通ってきます。それらの道場が統合されて、惣道場へと発展します。それが本願寺の東西分裂にともなう教勢拡大競争の一環として、所属寺院の数を増やすことが求められるようになります。その結果、西本願寺は惣道場に寺号を与え、寺院に昇格させていくのです。そのため讃岐の真宗寺院では、この時期に寺号を得て、木仏が下付された所が多いことは、以前にお話ししました。少し、話が当初の予定から逸れていったようです。もとに戻って、郡里にある真宗寺院を見ていくことにします。
近世末から寺町には、次のように安楽寺の子院が開かれていきます。
文禄 4年(1595)常念寺が安楽寺の子院として建立
慶長14年(1609) 西教寺が安楽寺の子院として建立
延宝年間(1675) 林照寺が西教寺の末寺として創立、
     賢念寺・立光寺・専行寺が安楽寺の寺中として創建
こうして郡里村には、真言宗1か寺、浄上真宗7か寺、合計8か寺の寺院が建ち並ぶことになり、現在の寺町の原型が出来上がります。

 安楽寺が讃岐各地に末寺を開き、周辺には子院を分立できた背後には、大きな門徒集団があったこと、そして門徒集団の中心は安楽寺周辺に置かれていたことが推測できます。どちらにしても、江戸時代になって宗門改制度による宗旨判別が行われるまでには、郡里にはかなりの真宗門徒が集中していたはずです。それは寺内町的なものを形作っていたかもしれません。郡里村の真宗門徒が、全住民の7割を占めるというというのは、その門徒集団の存在が背景にあったと研究者は考えています。
宗門改めの際に、郡里村の村人は宗旨人別をどのように決めたのでしょうか。つまり、どの家がどの寺につくのかをどう決めたのかを見ていくことにします。

寺町 - 常念寺 - 【美馬市】観光サイト
安楽寺から分院された常念寺(美馬市郡里)
「安楽寺文書」には、次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家六百軒を分与されたことが分かります。先ほど見たように、安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。それから200年余りは無檀家の寺中あつかいだったことが分かります。
美馬町寺町の林照寺菊花展 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
林照寺
西教寺の末寺として創建された林照寺も当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その都度門徒は西教・常念・林照の各寺に分割された
こうして、岡の上に安楽寺を中心とする真宗の寺院数ヶ寺が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧数多くの末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院をいくつも周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」
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郡里廃寺(こおざとはいじ)復元図
郡里廃寺跡は,もともとは立光寺跡と呼ばれていたようです。
「立光寺」というのは、七堂伽藍を備えた大寺院が存在していたという地元の伝承(『郡里町史』1957)により名付けられたものです。何度かの発掘調査で全体像が明らかになってきて、今は国の史跡指定も受けています。
郡里廃寺跡 徳島県美馬市美馬町 | みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"

郡里廃寺跡が所在する美馬市美馬町周辺は,古墳時代後期~律令期にかけての遺跡が数多く分布しています。その遺跡の内容は,阿波国府周辺を凌ぐほどです。そのため『郡里町史』(1957)は、阿波国には,元々文献から確認できる粟国と長国のほかに,記録にはないが美馬国とでもいうべき国が存在していたという阿波三国説を提唱しています。
段の塚穴
段の塚穴
 阿波三国説の根拠となった遺跡を、見ておきましょう。
まず古墳時代について郡里廃寺跡の周辺には,横穴式石室の玄室の天井を斜めに持ち送ってドーム状にする特徴的な「段の塚穴型石室」をもつ古墳が数多くみられます。この古墳は石室構造が特徴的なだけでなく,分布状態にも特徴があります。

郡里廃寺 段の塚穴
段の塚穴型古墳の分布図
この石室を持つ古墳は,旧美馬郡の吉野川流域に限られて分布することが分かります。古墳時代後期(6世紀後半)には、この分布地域に一定のまとまりが形成されていたことをしめします。そして、この分布範囲は後の美馬郡の範囲と重なります。ここからは、古墳時代後期に形成された地域的まとまりが、美馬郡となっていったことが推測できます。そして、古墳末期になって作られるのが、石室全長約13mの県内最大の横穴式石室を持つ太鼓塚古墳です。ここに葬られた国造一族の子孫たちが、程なくして造営したのが郡里廃寺だと研究者は考えています。
 
1善通寺有岡古墳群地図
佐伯氏の先祖が葬られたと考えられる前方後円墳群
 比較のために讃岐山脈を越えた讃岐の多度郡の佐伯氏と古墳・氏寺の関係を見ておきましょう。
①古墳時代後期の野田院古墳から末期の王墓山古墳まで、首長墓である前方後円墳を築き続けた。
②7世紀後半には、国造から多度郡の郡司となり、条里制や南海道・城山城造営を果たした。
③四国学院内を通過する南海道の南側(旧善通寺西高校グランド)内の善通寺南遺跡が、多度郡の郡衙跡と推定される
④そのような功績の上で、佐伯氏は氏寺として仲村廃寺や善通寺を建立した。

郡里廃寺周辺の地割りや地名などから当時の状況を推測できる手がかりを集めてみましょう。
郡里廃寺2
郡里廃寺周辺の遺跡
①郡里廃寺跡付近では,撫養街道が逆L字の階段状に折れ曲がる。これは条里地割りの影響によるものと思われる。
②郡里廃寺跡の名称の由来ともなっている「郡里」の地名は,郡の役所である郡衙が置かれた土地にちなむ地名であり,周辺に郡衙の存在が想定される
③「駅」「馬次」の地名も郡里廃寺跡の周辺には残っていて、古代の駅家の存在が推定できる
 このように郡里廃寺跡周辺にも,条里地割り,郡衙,駅家など古代の郡の中心地の要素が残っています。ここから郡里が古代美馬郡の中心地であった可能性が高いと研究者は考えています。そして,郡衙の近くに郡里廃寺跡があるということは、佐伯氏と善通寺のように、郡里廃寺が郡を治めた氏族の氏寺として建立されたことになります。

それは、郡里を拠点として美馬王国を治めていたのは、どんな勢力だったのでしょうか?
 
郡里が阿波忌部氏の拠点であったという研究者もいます。
 郡里廃寺からは、まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦と同じ木型(同笵)からつくられたもの見つかっていることは以前にお話ししました。
弘安寺軒丸瓦の同氾
       4つの同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)

弘安寺(まんのう町)出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」

弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      郡里廃寺の瓦 上側中央が弘安寺と同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、両者に何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
郡里廃寺の造営一族については、次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  播磨からきたのか、讃岐からきたのは別にしても佐伯氏の氏寺だと云うのです。ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説を以前にお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏を継続して建立された寺院です。
美馬郡の一族がなんらかの関係で讃岐の佐伯氏と、関係を持ち人とモノと技術の交流を行っていたことは考えられます。そうだとすれば、それは讃岐山脈の峠道を越えてのことになります。例えば「美馬王国」では、弥生時代から讃岐からの塩が運び込まれていたのかもしれません。そのために、美馬王国は、善通寺王国に「出張所」を構え、讃岐から塩や鉄類などを調達していたことが考えられます。その代価として善通寺王国にもたらされたのは「朱丹生(水銀)」だったというのが、今の私の仮説です。
 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制の中では郡司となり、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった多度郡の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。

 善通寺の大麻山周辺に残されている大麻神社や忌部神社は、阿波忌部氏の「讃岐進出の痕跡」と云われてきました。しかし、視点を変えると、佐伯氏と美馬王国の主との連携を示す痕跡と見ることも出来そうです。ここまで見てきて感じるのは、古代の美馬には忌部氏の痕跡がないことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木本 誠二   郡里廃寺跡の調査成果と史跡保存の経緯
*                                     阿波学会紀要 第55号 2009年
郡里町(1957):『郡里町史』.


まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦は、同じ木型(同笵)からつくられたものが次の3つの古代寺院から見つかっています。
① 阿波国美馬郡郡里廃寺
②さぬき市極楽寺
③さぬき市上高岡廃寺
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺が郡里廃寺のこと

上図を見れば分かるとおり、同笵瓦ですから同じデザイン文様で、同じおおきさです。ひとつの木型(同笵)が4つの寺院の間を移動し、使い回されてことになります。研究者が実際に手に取り比べると、傷の有無や摩耗度などから木型が使われた順番まで分かるようです。
 木型の使用順番について、次のように研究者は考えています。
①弘安寺の丸瓦がもっとも立体感があり、ついで郡里廃寺例となり、極楽寺の瓦は平面的になっている。
②彫りの深さを引き出しているのは弘安寺と郡里廃寺である
③さらに、両者を比べると郡里廃寺の瓦の方が蓮子や花弁がやや膨らんでおり、微妙に木型を彫り整えている。
以上から弘安寺 → 郡里廃寺 → 極楽寺の順で木型が使用されたと研究者は推測します。

この木型がどのようにしてまんのう町にもたらされて、どこの瓦窯で焼かれたのかなど興味は尽きませんが、それに応える史料はありません。
まずは各寺の同笵の白鳳瓦を見ていきましょう
弘安寺出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」
弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      阿波美馬の郡里廃寺の瓦 上側中央が同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、古代寺院建立者同士の何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ

  郡里廃寺の近くには、終末期の横穴式古墳群があります。
これが郡里廃寺の造営者の系譜につながると考えられてきました。さらに、その古墳が段ノ塚穴型石室と呼ばれ、美馬地域独特のタイプの石室です。墓は集団によって、差異がみられるものです。逆に墓のちがいは、氏族集団のちがいともいえます。つまり、美馬地方には阿波の中で独特の氏族集団がいたことがうかがえます。

段の塚穴

この横穴式石室の違いから阿波三国説が唱えられてきたようです。
律令にみられる粟・長の国以外に美馬郡周辺に一つの国があったのではないかというのです。段ノ塚穴は、王国の首長墓にふさわしい古墳なのです。
 しかし、美馬郡周辺のことは古代の阿波の記録にほとんど登場しません。東に隣接する麻植郡とは大きなちがいです。麻植郡は阿波忌部氏の本拠地として、たびたび登場します。しかし、横穴式石室では,規模,築造数などから美馬郡の方がはるかに凌駕する質と量をもっています。そういう意味では、 段ノ塚穴型石室は大和朝廷とはあまり関係のない一つの氏族集団の墓だったのかもしれません。ところが、その勢力が阿波最古の寺院である郡里廃寺を建立するのです。中央との関係が薄いとされる氏族が、どのようにして建立したのでしょうか。また、造営したのは、どんな氏族なのでしょうか?
この寺の造営氏族については次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②もうひとつは、讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  どちらにしても佐伯氏の氏寺だとされているようです。
ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。
「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 美馬の古代文明が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 しかし前回、まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説をお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏に建立された寺院です。
美馬郡の佐伯氏が讃岐の佐伯氏と、同族としての意識された氏族同士であり、古墳時代以降連綿と交流が続けられてきた氏族であるとすれば、阿波で最初の寺院建立に讃岐の佐伯氏が協力したとも考えられます。
 極楽寺は、さぬき市寒川町石田にあって、寒川郡や大内郡の有力な氏族であった讃岐氏の建立した寺院とされています。
讃岐氏は、このお寺以外にも石井廃寺、願興寺、白鳥廃寺などを建立したとされ、一族の活発な活動がうかがえます。発掘調査によって、単弁蓮花文軒丸瓦6型式が出土していますが。その中のGK101はGK102とともに初期のモデルのようです。
研究者は次のように指摘します。
「他寺の同笵瓦と比べると、平板的で粘土の抜きが十分でなく、 しかも間弁の部分では撫でて整えた印象があります。胎土には石英粒が混じっていて、須恵質の堅い焼き」

弘安寺同笵瓦関係図
弘安寺と同笵瓦の関係図

以上からは同笵の木型は、弘安寺で最初に使われ阿波郡里廃寺から
さぬき市の極楽寺へと伝わっていったことになります。それでは、弘安寺で木型が作られたのでしょうか? それだけの先進性を弘安寺は持っていたのでしょうか? 研究者は、そうは考えないようです。
上の図で弘安寺の瓦に先行する善通寺の瓦を見て下さい。同笵ではありませんが、共通点も多いようです。弁の数を減らし省略化し、製造方法を簡略化したモノが弘安寺の瓦だと研究者は考えています。つまり、この木型が作ったのは善通寺造営に関わった集団だったというのです。善通寺の瓦を祖型とする系譜を研究者は次のような図で表しています。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
ここからは善通寺が丸亀平野や東讃の古代寺院建立に、技術提供する立場にあったことが分かります。同時に瓦の木型を提供された側には、善通寺の造営者の佐伯氏との間に、なんらかの「友好関係」や「一族関係」があったことがうかがえます。
それでは、木型を提供した佐伯氏と提供された豪族間の緊密な関係は、どのようにして生まれたのでしょうか?
佐伯氏と因支氏等の場合は、多度郡と那珂郡というお隣関係で、丸亀平野一帯の開発や金倉川の治水・灌漑めぐる日常的な利害の中から生まれてきたものなのでしょう。それが、まんのう町への弘安寺建立になった可能性はあります。
東讃の讃岐氏などの旧国造家とされる有力氏族との関係は、前代以来連綿と続いた様々な交渉事の結果と推測できます。彼らは、白村江の敗北後の危機感の中で、屋島寺や城山の築城や南海道建設など、共通の目標に向けて仕事を進める立場に置かれました。その中で対立から協調・協力関係へと進んだ豪族たちも出てきたのではないでしょうか。
 阿波郡里廃寺の造営主体と見られる佐伯氏については、同族関係に加え、両地域の間で、弥生から古墳時代を通じて文化的交流がさかんであったことが挙げられます。

白鳳から奈良時代前期にかけての時期は、各地で寺院の建立が活発化した時代です。
 高い技術を必要とする造寺造仏のための人材や資材を、地方の造営氏族が自前で準備し、調達できたとは研究者は考えません。確かに飛鳥時代は、蘇我本宗家や上宮王家などに代表される政権中枢の有力氏族の下にだけ技術者集団が独占的に組織され、その支援がなければ寺院の建立はできませんでした。そのためかつては、瓦のデザインだけで有力豪族や有力寺院とのつながりを類推することに終始していた時代がありました。例えば、法隆寺で使われた瓦と同じデザインの瓦が故郷の寺院で用いられていることが、郷土愛を刺激した時代があったのです。
 しかし、7世紀中葉から8世紀初頭のわずか半世紀の間に400カ寺もの白鳳寺院が建立された背景には、 もっと複雑で多元的な動員の形態があったと研究者は考えるようになっています。 
 藤原京に建立された小山廃寺の造営に際しての動員について、近江俊秀氏は次のように指摘します。

瓦工は供給する建物単位で組織され、量の生産とともに解体される。さらに、個々の瓦工は同時期に生産を行なうのではなく、伽藍の造営順に従って、時期を違えて生産を行なうとしている。自前の工人が専従で造営に携わるので.建てものごとの速やかな動員によって建立がなった

これは多くの寺が密集し、幾通りもの工人集団が存在した畿内だからできたことです。地方豪族の佐伯氏が小山廃寺のようなスケールで工人を招集し、造営ができたとは思えません。しかし、善通寺周辺の工人の動向からは、地方にも工人や資材を準備し、供給する機能が整備されてきていたと研究者は考えています。瓦などの木型をはじめ供給する側と、される側の独自の繋がりのなかで地方寺院の建立が行われていたようです。
 もう少し具体的に云うと善通寺を建立した佐伯氏は、その時に蓄積した寺院建立技術を周辺の一族や有力豪族にも提供したということです。その木型が弘安寺 → 阿波の郡里廃寺 → 東讃の極楽寺などに提供され、使い回されたということでしょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで一      香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年
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