瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:郷照寺

郷照寺3
 四国霊場 宇多津の郷照寺
前回までに郷照寺について、次のようなことを見てきました。    
 ①中世の志度寺や郷照寺・弥谷寺・白峰寺などは、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)で、そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していたこと
②彼らは、いろいろな要素を持っていて、真言系や時宗系、熊野系などのように区分できるのではなく、混淆とした存在であったこと
③同時に彼らは、諸国をめぐる芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布したこと。そのなかに滝宮念仏踊りの元になったや風流踊りもあったこと。
④中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えたこと。その背景は、時宗本山との本末関係の中に入ったため。
⑤しかし、郷照寺は「道場寺」とも呼ばれたように、中世の混沌とした信仰活動を受け継いだ部分があったこと。   
以上から以前にお話しした弥谷寺の阿弥陀浄土信仰の拠点化と同じ動きが郷照寺でも考えられます。

弥谷寺の阿弥陀浄土への道

 郷照寺では、阿弥陀念仏信仰と弘法大師信仰がどのようにミックスされながら伝えられたのでしょうか。それを江戸時代以降の堂宇変遷で、見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32pです。

郷照寺 調査報告書

郷照寺の地形区分図を見ておきましょう。

郷照寺 地形図

郷照寺の境内は、青ノ山(223m)東麓の標高約20mの尾根上にあります。旧参道は、遍路道(丸亀街道)を南へ脇道を入り、参道を南東方向へ登っていました。参道石段上には、次の3つの平場が重なっています。
平場1 本堂や庚申堂(太子堂)、茶堂、本坊
平場2 本堂の上に鎮守社跡(熊野権現)
平場3 大師堂
郷照寺の諸堂建立や建て替えは、上記の3つの平場を中心にして行われてきました。この3つのエリアに諸堂は展開していたことを押さえておきます。

郷照寺の遺構変遷について、研究者は次のように5つに時代区分します。
(1)第1期 17世紀から18世紀中葉
郷照寺の「寺開基由来帳」(延享5年(1748)k-119)には、次のように記されています。
四国兵乱による堂宇の焼失で退転していたものを、文禄年中(1592-1596)に覚阿弥により再興された

ここでも長宗我部元親によって兵火にかかった伽藍が、生駒藩時代に再興されたとします。しかし、ここに登場する覚阿弥による再興については詳しいことは分かりません。
それから百年後の刊行物には、次のように記されています。
「四国路日記」(承応2年(1653) 「道場(郷照)寺 本尊阿弥陀」
「四国遍路道指南」(貞享4年(1687)「少山上、(本堂)ひがしむき」
そして、「四国遍礼霊場記(元禄2年(1689) には「少山上、(本堂)ひがしむき。(中略)本尊阿弥陀第一尺八寸御作」と書かれ、以下のような絵図が添えられています。
郷照寺 「四国遍礼霊場記(元禄2年(1689)
道場(郷照)寺 四国遍礼霊場記(1689年)
この絵図からは次のような情報が読み取れます
①尾根上の平場に阿弥陀堂(本堂)、鎮守社(熊野社)、鐘楼のみが描かれている。
②髙松・丸亀街道沿いには家が建ち並んで、宇多津の町場が形成されている
③参道には石段や石垣のようなものは見えない。
鐘楼には、貞享3年(1686)「仏光山江照(郷照)寺」の銘が刻まれています。ここからは郷照寺は、戦国時代に一度退転した郷照寺は17世紀後半には「中興」されていたことが裏付けられます。
ここで私が注目するのは、鎮守社が熊野神社であることです。熊野神社の別当寺として創建された四国霊場は多いのですが、例えば登禅「四国辺路日記」(1653)には、愛媛の八坂寺のことが次のように記されています。意訳)

八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

ここからは八坂寺は、熊野権現を勧進した別当寺で、本尊は阿弥陀如来だったとされています。どちらにして、熊野行者の痕跡が色濃く残ります。郷照(道場)寺も八坂寺と同じようなルーツをもつ寺であったことがうかがえます。そこに、阿弥陀念仏信仰が高野の聖たちによって持ち込まれます。そして近世に入って弘法大師信仰が接ぎ木されていくという筋書きが描けます。この構図は、四国霊場の多くの寺院に見られるパターンです。なお、瀬戸内海沿岸への熊野権現の勧進の拠点となったのは、児島の五州修験であったことは以前にお話ししました。

五流修験のテリトリー拡大

五流修験 小豆島遍路開設説

 江戸時代中期の延享5年(1748)の「寺開基由来」には、聖徳太子堂(庚申堂)、石像弘法大師堂、熊野権現社、鐘楼、客殿、境内用水池が記されています。それを研究者が平面図に落としたものを見ておきましょう。

郷照寺 18世紀後半
18世紀後半の郷照寺
上記の伽藍配置を、次の年表と対比して見ておきます。
①天明4年(1784) 大師堂が本堂の上の平場3に建替えられ、尾根の上に伽藍が拡大。
②享保19(1734)  弘法大師絵像が奉納(「当寺諸寄附宝物」延享4年(1747)
③延享5年(1748)までに石造弘法大師堂建立
④明和元年(1764) 高松正覚寺で本尊開帳、その際に高松藩松平家の帰依により弘法大師繍画が製作寄進され、その安置のために奥の院が建立された。(「開帳中記録」天明4年)
⑤天明3年3月から4月 弘法大師950年遠忌に伴う本尊開帳 → 弘法大師信仰の高揚
⑥天明4年2月  大師堂が落慶(開帳中記録)
⑦大師堂の落慶までは、奥の院を「仮堂小屋」としています。明和元年に弘法大師繍画が寄進されてから天明4年の大師堂落慶までの期間おいて御影は奥の院に安置されていたようです。しかし、奥の院がどこにあったかは分かりません。
⑧寛政5年(1793) 塩飽や備前国下津井の講中の寄進で茶堂建替願を髙松藩に提出。
⑨寛政7年の本山の第54代遊行上人の来国を控え、本堂や客殿・庫裏の建替を出ている。

こうして整備された境内景観を「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800)で見ておきましょう。

郷照寺 四国遍礼名所図会 1800年

この絵図から読みとれる情報を挙げておきます。
①参道を上った平場1の石段の南側に鐘楼と本坊、北側に茶堂、平場奥に裳階付の本堂がみえる。
②太子堂(庚申堂)は、現在と位置が異なる。天明3年の弘法大師950年遠忌の本尊開帳では「庚申堂台進行上人御居間江幅壱之仮廊掛ル」(「開帳中記録」)とあるので、本坊(客)脇にある宝形造の小堂は太子堂(庚申堂)考えられる。
③本堂と茶堂との間の石像が描かれる場所は、石像大師堂の跡地
④平場3の宝形造の小堂が四国遍礼名所図会で「大師堂本堂のうらにあり」とされる大師堂
⑤平場2の小舎は、鎮守社(熊野権現)
この時期には、明和元年(1764)の弘法大師繍画寄進から天明3年(1783年)の弘法大師950年遠忌に合わせて、大師堂改築、本堂建替など、伽藍整備が活発に行われた時期になるようです。

第3期 19世紀前葉
郷照寺 19世紀前半 伽藍図
郷照寺 第3期19世紀前葉の堂宇配置
 諸堂の配置は、平場1に本堂、鐘楼、茶堂、平場2には熊野権現社、平場3に大師堂が建ちます。先ほど見た「四国礼名所図会」(寛政12年(1800)と比較して見ると、次のような点が読みとれます
①本堂に変更はない。
②太子堂(庚申堂)は、本堂前の北側に移築されている
③客殿と庫裡が別棟になって大規模化している。
④平場2・3の斜面落ち際には、土塀や石垣を表すとみられる二重線がみられる
郷照寺に石垣が登場するのは19世紀になってからです。

郷照寺の石垣
郷照寺の石垣 3・4・5 19世紀のもの
旧参道の2基の石垣記念碑(参道4:文化7年、備前下津井萩野屋久兵衛、播磨屋喜八郎、茶堂宗玄 参道5:再建発願人当山茶堂宗玄、施主当所井近郷分講中)は、平場2・3への石垣3~5の築造や平場1の石垣修理の祈念に建てられたものと研究者は考えています。寄進碑に名前のみえる宗玄は、寛政5年(1793)に茶堂に置かれたとみられる道心者と同一人物のようです。
第4期19世紀中葉
この時期に書かれた「金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))や「讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854~)に描かれた境内絵図を見ておきましょう。           

郷照寺 金毘羅参詣名所図会2
             郷照寺 金毘羅参詣名所図会(1847年)
4344102-55郷照寺2
郷照寺 讃岐国名勝図会(1853年)

伽藍で現存する建物としては、次の通りです。
A 本堂(桁行3間、梁間5間、二重、向拝1間、寄棟造、本瓦葺19世紀前業)
B 庚申堂(正面3間、側面2間、青画仏壇突出、向拝1間、宝形造、本瓦葺18世紀中葉)
C 大師堂(正堂正面1間、背面3間、側面2間、宝形造、本瓦葺明治10年(1877)
D 礼堂・桁行3間、梁間3間、入母屋造、向拝1、本瓦葺大正6年(1917
E 鐘楼(桁行間、梁間1問、入母屋造、本瓦葺19世紀中葉)
Aの本堂は、玄関(軒唐破風付入母屋造、本瓦葺)や客殿(入母屋造、本瓦葺)は江戸後期のもので、本山の遊行上人の宿舎として整備されたもので、格の高い建物となっています。「身舎の四隅の柱や柱などの重要な柱を残しつつも、柱を省略して大空間を設ける架構が特徴的」と研究者は評します。
Bの庚申堂は、建立年代が最も古い建築であり、「軸部に当初材をよく残し、組物や彫刻に整った意匠を有する小規模な仏堂」です。
Eの鐘楼は、昭和50年(1975)に本坊前から北へ移築されていますが幕末の建築です。

宇多津 讃岐国名勝図会2
讃岐国名勝図会に描かれた宇多津 本妙寺の隣に郷照寺
以上をまとめておきます
①現在の郷照寺境内は、江戸後期の18世紀後半に基本的な構成ができあがった
②その後、四国遍路の盛行や遊行上人廻国の受入を契機として、幕末までまで整備拡充が行われた
③3段の平場の伽藍地は小規模だが、他の札所寺院と比べて、二重、寄棟造、階付きの本堂や客殿は、大掛かりである
④この背景には、時宗総本山の遊行上人廻国の化益賦算所と宿坊となったことによるところが大きい。 ⑤四国遍路札所として、大師堂や茶堂はあるが、それよりも時宗寺院としての讃岐での中核末寺としての寺歴が現在の伽藍には反映されている。
投影されていると考えられる。
⑥近代になっても諸堂の充実が進められるとともに、参道の両脇や本堂と大師堂との間の平場2は墓地化した。墓地の拡大は、江戸時代の檀家が2軒、だったのに対して明治以降には40軒に増加したことを反映するものである。
⑦昭和30年代に大師堂の礼堂前に鞘堂(回廊)が設置
⑧昭和50年には参道が北へ振替えられ、旧参道の石階部分は埋め戻され、石垣に参道石段が新設された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32p
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4344102-55郷照寺2
           四国霊場 郷照寺(道場寺) 讃岐国名勝図会
前回は郷照(道場)寺について、史料から次のような事を見ました。
①郷照寺は寺伝にあるように、中世から時宗寺院であったのではない。
②中世は、高野聖や廻国行者たちの布教活動拠点として、さまざまな宗教活動者が混在していた。
③それが髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として再整備され、時宗に改宗された
今回は郷照寺と時宗本山の藤沢市の清浄光寺との関係を史料で見ていくことにします
テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。

時宗総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)について、ウキに書かれていることを要約しておきます。

時宗総本山清浄光寺 郷照寺本山

①神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院で、藤沢山無量光院清浄光寺と号す。
②明治時代からは法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人なので、 遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれるようになった。また藤沢道場ともいう。
③中世の西俣野(藤沢市)の領主だった俣野氏の一族・俣野五郎景平が開基。
④景平の弟である遊行上人第四代呑海が、正中2年(1325年)に俣野領内の廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山
⑤延文元年(1356年)八代渡船が鋳造した梵鐘には「清浄光院」と陽刻がされている。
⑥永享7年(1435年)足利持氏が仏殿120坪を寄進
⑦永正10年(1513年)伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山焼失。
⑧天順が慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興。これは後北条氏時代の焼失から、94年後のこと。
⑨寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行へ清浄光寺は「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出し、時宗274寺の総本山と認められる。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 郷照寺本山
時宗の総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)

「第1表」は、本山藤沢清浄光寺や京都七条道場金光寺に残る「藤沢山日鑑」「「行日鑑」「遊行在京日鑑」などの郷照寺の記録を研究者が抜き出したものです。

時宗総本山清浄光寺(遊行寺)to 

この表からは次のようなことが分かります。
①郷照寺は本山に対して年始伺い、暑中見舞い、上人相続の際、その都度、白銀などを献上している。
②僧侶昇進に関わる記録からは、両者が本山末寺の関係であったことが裏付けられる

例えば「藤沢山日鑑第6巻」安永9年7月の条を見てみましょう。
ここには、郷照寺の僧雪山の本山勤仕についての記載が次のように記されています。(要約)

雪山は高松藩寺社役所より百日間の暇をもらい本山の学寮で修養していた。その成果が良かったのか安永8年に本山の学寮主を拝命した。そこで、本山の衆役から高松藩寺社役所に雪山の「長之暇」を申し入れた。ところが松藩の寺社奉行からの回答は「他国の寺院に入ることは許可できない」というものであった。

ここからは末寺の郷照寺から本山に修行に出て、そのまま本山に残るようなシステムがあったことが分かります。しかし、それを髙松藩は認めていません。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 一遍像
清浄光寺の一遍像
江戸時代の時宗の僧階と郷照寺の関係を史料で見ておきましょう。
時宗の浅草日輪寺が享和元年(1801)に幕府寺社奉行に提出した「時宗法眼井法開階級之次第」に次のように記します。
「右剃髪仕世寿十五歳以上、藤沢山 京都七條道場 遊行回国先、右三会下之内、最寄を以掛錫仕、法騰相立候」

ここからは次のような事が分かります。
①仏門に入るのは15歳以上
②修行場所は、本山の藤沢清浄光寺や京都の金光寺の他に、廻国先でもよかったこと
③掛錫(修行)の年数を経るごとに僧階を昇格すること

僧階の序列と昇進については次のように記されています。
①掛錫が4年で茶執司となり「茶執司、掛錫より四夏相満候間を茶執司と申候面、藤澤上人遂行上人而上人之侍者為政給仕申」と藤澤上人や国先にて遊行上人の側で給仕を務める役となる。
②さらに6年で十室(漢室・岩室・純室・連室・伝室・行室・学室・了室・同室・聞室・安室)となり「十室、五夏相満候後、此十室二入候、此位階面宗門之安心伝法等相承仕」とあり、この段階で時宗の修行や教学を師匠から伝授された。
③9年で五軒(慈照臥龍軒文峰軒萬生軒衆領軒)の斬号を付与され「五軒、掛八夏相調候ハマ軒号を蒙り申候、宗門之伝法宗威血脈不残相承仕、初て和尚号を付(中略)在家之引導香仕事を差許申候」とあり、時宗の伝法、宗、血脈を相伝し、和尚と称することが許された。また在家信徒の引導や葬式などの仏事を執り行うことができるとうになった。
④13年で「二常住庵等覚庵」となり「二庵掛錫合十二夏相満、此階級二相進み、庵りを蒙り(中略)此法綸旨参内差許申候」とあり、「上人号」の旨を寺社伝奏勧修寺家へ申請、皇居への参内が許されるようになる。
⑤18年で、本寮(四院)(桂光院院興院東陽院)となり「本寮,十七年之法相談、十八年二宗門之書籍之内何でも壱部講釈相済、此階級=相進み、惣じて一宗之法務、右本寮四院有之之之是を司り、本山貴主を補佐する所之老僧と相唱中、是迄末寺井所化昇進之次第二御座」とあり、僧侶の最終階となる。そして時宗の書籍の講釈や宗派の運営に携わり、本山貫主の補佐も行う。また弟子を取ることができる

 郷照寺の位牌や過去帳には、18世紀の後半になると時宗僧階の最終位の院号をもつ住持が4人登場してきます。
A 洞雲院但阿存海和尚(寂年 天明4年(1784)第33世)
B 興徳院覚阿一浄智存和尚(寂年 文政13年(1830)第35世
C 興院覚阿和尚(寂年 安政6年(1859)第36世)
D 大僧都桂光院其阿上人本空和尚(寂年 明治42年(1909)
この4人に共通するのは、本山の遊行上人の廻国の際の受け入れを行っていることです。その功績を背景に昇任を果たしたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の宝暦10年(1760)9月の第52代遊行上人他阿から郷照寺□□相阿弥仏へ宛てた書状です。

「鵜足郷照寺義 此度建立等出精二て、地頭表殊、之外首尾能御領分動化相済、其上右勧化御城主今から御取会被下候由」

とあって、境内建物の整備に務めた功績として木蘭衣(軒号)が与えられています。ここからは地方の末寺住持にとって遊行上人の廻国などの本山勤行に励むことは、位階の昇任につながる功績として評価されていたことが分かります。
 さらに文化9年(1812)第55代一空上人の相続の前年に本山への出仕を行っていることや、万延元年(1860)年の京都七條道場金光寺の意に沿わない郷照寺住持の交代を命じた通達などからも、人事権を含む支配関係があったと研究者は考えています。ここでは、時宗本山が僧階権を握ることによって末寺の郷照寺を支配下に置き管理していたことが見えて来ます。

時宗の総本山は藤沢の遊行寺でしたが、西国を束ねる実質的本山は京都七条道場の金光(こんこう)寺でした。
 総本山の清浄光寺は法主の遊行上人が隠居した藤沢上人の住坊でした。それに対して京都の金光寺は、遊行上人が住職である寺で、西国の事実上の本寺でした。例えると、藤沢・遊行両上人の関係は、上皇と天皇の関係に置き換えると分かりやすいようです。

時宗総本山 京都金光寺1 書評

時宗総本山 京都金光寺1
金光寺の年表

 一遍によって開かれた時宗は、京都でも活発に布教が行われ、次々と時宗の寺院が建立されるようになります。その中で金光寺(こんこうじ)は、鎌倉時代後期の正安3年(1301)に七条東洞院(京都市下京区材木町)に建立されます。場所は、七条慶派仏師仏師定朝の屋敷跡に呑海が創建したもので、七条道場とも呼ばれ、周辺の仏師集団が信徒となっていたようです。彼らによって、優れた彫造が残されています。こうして、この寺は時宗遊行派の京都での拠点として隆盛を誇りました。現在の京都駅烏丸口のすぐ東側がその境内地でした。

時宗総本山 京都金光寺1 平面図
金光寺の境内緒堂建物絵図

 14世紀初めには、善阿が連歌師として活躍し、1461年(寛正2年)の飢饉では、金光寺の願阿弥という僧が勧進して六角堂の近くに小屋を建て、苦しむ市民に粥を施したり、五条橋の修復も行っています。
 豊臣秀吉の京都の都市改造の際には、七条仏所を他に移して拡張し、400石が与えられています。和漢三才図会では寺領197石と記します。 江戸時代には学寮が置かれ、それに隣接して火葬場が元禄年間に設けられています。しかし、明治40 年(1907)に長楽寺に合併され、跡地は民地となり、その跡形は消えてしまいました。なお、下京区本塩竈町には金光寺(市屋道場)が現存しますが、これとは別の寺院のようです。
 それでは金光寺と宇多津の郷照寺の関係を物語る史料を見ていくことにします。

郷照寺 万延元年(1860)年に作成された「[書状〕(智覚へ看住申付けるにつき)」(k-89)

「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-8987)

万延元年(1860)年に作成された書状「智覚へ看住申付けるにつき」(k-89)です。
ここには京都の七条道場金光寺より郷照寺世話人中宛に、郷照寺が無住となったため智覚を看住として取り急ぎ寺務を取らせることが記されています。ここに登場する智覚は、安政5年(1858)に作成された郷照寺の「人別御改帳」(k-60)に次のように記されています。

郷照寺 安政5年(1858)に作成された「人別御改帳」(k-60)

「鵜足郡宇足津村郷照寺 現住鵜足郡土器村出生 智隆 当年五拾八才一、同郡宇足津村出生弟子智覚当年拾六才」

ここからは智覚が第36世住持智隆(58歳)の弟子で、地元宇多津村出身で16歳であったことが分かります。その後の智覚については「郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)次のように記されています。
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87no)

「智覚 病身に付寺務難相勤二付 後住之僧差向候処」

ここには、智覚が病身なので寺務が勤め難くなったため、後任の僧を本山の金光寺より派遣されるようになったことが記されています。ところが、これに対して智覚は、異議を唱えて次のように返答しています。

「御領法御指支之儀有之候ニ付御断 且智覚儀病気追々快方二付弟子致無話取立居候」
意訳変換しておくと
金光寺より当寺(讃岐の郷照寺)に僧を送り込むことは、藩の法に差し支える。また私自身の病気も快方に向かっているため、そのような話は無用である

これに対する本山金光寺の回答は次の通りです
「智覚儀 宗法相背候麁有之候二付 此度取上退院申付候(中略) 当寺差向智学僧江後住職被仰付候様強面御願申上候」

意訳変換しておくと
 智覚については本山金光寺の意向に沿わないことが度々あったので郷照寺からの退去を申し付ける。今後については、金光寺より智学を後任住職として派遣することを高松藩に申し出ている。

 ここからは、末寺の郷照寺の住職については、七条道場の意向に沿わない者は辞めさせ、後任を派遣する権限を本寺は持っていたことが分かります。郷照寺も時宗本山の本末関係の中にあったことが裏付けられます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月
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イメージ 2
宇多津の郷照寺 四国霊場で唯一の時宗寺院

宇多津の郷照寺は、四国霊場の中で唯一の時宗寺院です。この寺については、時宗開祖の伊予出身の一遍によって時宗の拠点であったとされてきました。しかし、最近刊行された調査報告書には、この寺が時宗に改修されたのは、髙松藩初代藩主の松平頼重によってであると記されています。どうして、そう言えるのかを今回は見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。



宇多津地形復元図
DSC03878宇多津
中世の宇多津海岸線の復元図と各寺院

6宇多津1
中世宇多津の景観復元図

6宇多津2
中世の宇多津地形復元図と各寺院

6宇多津の寺院1

郷照寺の開基由来について

郷照寺縁起

 郷照寺の開基については、A「寺開基山来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
①天台宗寺院として創建後、空海の四国霊場開基の際に78番札所となり、その後の退転
②一遍が正応元年(1288)に(1239-1289)が時宗に改めて再興
③中世後半は、24代遊行上人不外(1460-1526)より讃岐国内に末寺7か寺を賜るなどの寺勢を誇った
④天正期(1573~1592)の四国兵乱により悉く焼失(「寺開基由来帳」)。
寺蔵文書であるB「開帳中記録」には、次のように記します。「開帳中記録」天明4年(1784)
①弘仁3年(812)に弘法大師による阿弥陀如来の彫像を契機に「仏光山道場寺」として開山
②天台宗恵心僧都(942-1017)の後に退転していた諸堂を、仁治4年(1243)に讃岐へ配流された僧道範(1178-1252)が「大師古跡の場」「真言止観の床」として再興
③正応元年に一遍が時宗寺院の「郷照寺」に改めたと
ふたつの縁起ともに、18世紀になって書かれたもので、札所霊場としての弘法大師空海の由緒や、一遍の晩年の伊予帰郷や讃岐・阿波の遊行(「一遍聖絵」正安元年(1299))をもとに、後世に創作され付け加えられたものと研究者は考えています。どちらにしても、これらの由緒は同時代史料ではなく、そのまま信じることはできません。 建立時期の参考になるのは、次の二点です
A 本尊の阿弥陀如来坐像が平安時代後期の作と想定されること
B 境内から古代末から中世初頭の丸瓦(工芸品4・5)が出土していること
ここからは郷照寺は、古代に遡ることはできず、中世初頭頃までの創建と研究者は想定しています。
縁起が説く弘法大師空海伝説の「道場寺」と一遍の「郷照寺」の由緒は、中世以前の諸宗派による複数坊が並立していたことを伝えるものなのでしょう。ここからは、何人もの念仏聖や廻国修験者たちが、それぞれの坊を持ってこの地で活動していたことがうかがえます。それは善通寺や白峯寺・弥谷寺でも同じで、そのような姿が中世の一般的な寺院の姿だったことを押さえておきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
            讃岐国名勝図会 宇多津

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていて、ふたつの名前を持っていたようです。
高松藩初代藩主松平頼重の命により、寛文9年(1669)に各大政所(大庄屋)に郡内の寺社を書き上げさせたC「御領分中宮由来同寺々由来」には次のように記します。

藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡 郷照寺 
一、開基永仁年中、一遍上人建立之、文禄年中、覚阿弥再興仕事」

意訳変換しておくと
「藤沢遊行上人の末寺で、時宗の鵜足郡郷照寺
 一、開基は永仁年中で、一遍上人が建立。文禄年中に、覚阿弥が再興した」
寛文年間(1661~1673)の藩政資料にも、遊行上人末寺の時宗寺院と記されています。
寺院名については、藩政史料や時宗本山との記録には「郷(江)照寺」の名称が使用されています。ところが江戸時代に刊行の四国遍路関係の案内本などには「道場寺」と記され、弘法大師ゆかりの札所と紹介されています。例えば真念の「四国辺路道指南」(貞享4年(1687)では、次のように記されています。
「讃州丸亀城下へわたる時は宇足津道場寺より札はじめよし」
「七十八番道場寺 少山上 堂ひがしむき 鵜足郡宇足津村 本尊阿弥陀 座一尺八寸
 御作おどりはね念仏 道場寺 ひやうしをそろえかねを打也」
意訳変換しておくと
「讃州丸亀城下へ船で渡るときには、宇足津道場寺から巡礼を始めるのがよい」
「七十八番道場寺は、小さな山の上にある。本堂は東向きで鵜足郡宇足津村にあり、本尊は一尺八寸の阿弥陀仏が座している。御作おどりは、念仏を唱えながら拍子をそろえ、鐘を打ち鳴らして飛び跳ねる」
  ここからは道場(郷照)寺には、時宗の念仏踊りが近世初頭まで伝わっていたことが分かります。

1 郷照寺踊り念仏
跳ね踊る時宗の念仏踊り 中央が一遍 (一遍絵図)
滝宮念仏踊りの由来の中には「菅原道真の雨乞成就を祈念して踊られるようになった」と記されます。しかし、古代に念仏踊りはありません。念仏踊りを始めたのは、中世の一遍です。一遍によって時宗の布教手段として全国的に広がります。それが風流踊りとして、近隣の村落に受けいれられるようになります。滝宮念仏踊りの起源は、時宗の念仏踊りにあることを押さえておきます。

郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。


南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺
   弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を宇多津で広めたことが分かります。ここには高野系念仏聖の存在がうかがえます。この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろな宗教者が巡っていました。この中で高野聖や時宗経系念仏聖は、弘法大師信仰を持ちながら念仏行や念仏踊りを踊っていたことが分かってきました。つまり、近世以前の郷照寺は、志度寺と同じようにさまざまな宗教者が集まって布教活動の拠点となっていたのです。だから「道場寺」なのです。時宗単独の寺とは云ず、真言系や天台系などの修験者や廻国行者の活動拠点となっていたことを押さえておきます。

 志度寺や郷照寺・海岸寺などの海沿いの霊場を拠点に活動した高野聖を見ておきましょう。
高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖でした。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や郷照寺も別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があったようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

五来重「高野聖」読書メモ 四国霊場の弘法大師一尊化を進めたのは高野聖だった。 : 瀬戸の島から
高野聖
 高野聖の廻国のことを「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺・郷照寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。
 ここでは次のことを押さえておきます
①志度寺や郷照寺・弥谷寺)は、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)であった。
②そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していて、真言系や時宗などに区分することができなかった。
③廻国行者たちは芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布した。そのなかには念仏踊りもあった。

中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えます。 
貞享四年(1687)頃の真念『四国辺路道指南』には、次のように記されています。

「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

ここからは真言宗本来の光明真言が唱えられるようになっています。南無阿弥陀仏の念仏は、各霊場から「追放」され、弘法大師の一尊化が確立していたことがうかがえます。つまり、江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。郷照寺の版木は、弘法大師の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。彼らの伝えた念仏踊りが、滝宮念仏踊りとして伝えられていると私は考えています。それは中世の道場寺(郷照寺)の性格を表すものなのです。

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていた。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
道場寺と表記されている郷照寺 (金毘羅参詣名所図会)
各書物には郷照寺の呼名が次のように記されています。
A 寂本の「四国編礼霊場記」元禄2年(1689)
「仏光山道場寺此寺本尊阿弥陀大師の御作鎮守社・鐘楼あり 
 いつのよ(世)りか、時衆の寺となれり」
B 四国遍礼名所図会(寛政12年(1800) 
「七十八番道場寺「仏光山江照寺」と両寺名併記
C 金毘羅参詣名所図会(弘化4年(1847)
「仏光山道場寺宇足津にあり四国遍礼第七十八番の札所なり」
D讃岐国名勝図会(嘉永7年〈1854)、
「江照寺 仏光山広徳院道場寺と云ふ 寺領五斗二升 時宗相州藤沢浄光寺末寺 
 四国八十八ヶ所の一、七十八番札所
寺院境内や周辺の道路道沿いにある明治期までの道標の多くには「道場寺」と記されているようです。 以上をどう考えればいいのでしょうか。研究者は次のように指摘します。

江戸時代から明治時代にかけては時宗寺院としての「郷照寺」と、弘法大師ゆかりの四国霊場第78番札所である「道場寺」という2つの名称をその性格により使い分けていた

このためふたつの名前が併存していたようです。

4344102-55郷照寺
四国霊場 郷照寺 (讃岐国名勝図会)

どうして郷照寺は、江戸時代になってもふたつの寺号を使い分けたのでしょうか?
それは時宗末寺の「郷照寺」でありながら、17世紀後半になると四国遍路が盛況になり、「弘法大師古跡の場」として札所の由緒を示す「道場寺」の寺号を手放すことができなかったためと研究者は指摘します。
 「四国遍路道指南』には次のように記されています。
(大坂から船で)讃州丸亀城下へわたる時は、宇足津道場寺より札はじめよし」

ここからは全国からの金毘羅参りの盛行と併せて、畿内からの四国遍路たちは丸亀湊に上陸し、郷照寺が打ち始めの札所としていたことが分かります。そのため郷照寺には多くの遍路がやって来るようになります。それが郷照寺に経済的利益をもたらすようになります。
 寛政5年(1793)の茶堂寄進の「下津井講中」「普請中順留諸法一件書出控」や、文化7年(1810)の石垣寄進碑にみられる「備前下津井萩野屋久兵衛」、「同播磨屋喜八郎」(石造物参道4)などです。これらは備讃瀬戸対岸の備前児島下津井の寄進者達の名が刻まれています。これは当時の丸亀湊へ備瀬戸主要航路の活発な交易活動の中で捉えられるものと研究者は指摘します。

それでは江戸時代の郷照寺が本山の記録に、どのように記されているのかを見ておきましょう。
寛永10年(1633)の時宗本山の末寺帳には、郷照寺の名はありません。つまり、この時点では、郷照寺は時宗末寺ではなかったことになります。それが享保6年(1721)の七条道場の末寺帳の讃岐の項目に次のように「讃岐七ヶ寺」が記されています。
「興善寺 爾保、興勝寺 勝間、荘厳寺 一宮、江(郷)照寺 宇多津、興徳寺 太田尼、
 浄土寺 由祐尼、高称寺 観音堂尼」

 これ以降の末寺帳には郷照寺の名が記されるようになります。つまり、高松藩初代藩主の松平頼重がやってくる寛永19年(1642)以前に記された史料には時宗寺院としての郷照寺の一次史料はないようです。 それが松平頼重が寛文9年(1669)に作成させた「御領分中宮由来・同寺々由来」には、次のように記します。
「藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡郷照寺」
「寺社記」(天保4年(1833)書写)には
「一、高五斗弐升 相州藤沢山清浄光寺末寺鶴足郡宇足津村時宗郷照寺」
藩政史料には、郷照寺は藤沢市の時宗総本山の清浄光寺の末寺とされています。
そして、「寺開基由来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
「一 寺領高五斗弐升 従古来附来り候処 龍雲院様御代古来之通御改御寄附候由」

ここからは高松藩主松平頼重(龍雲院)から寺領として5斗2升の経済基盤が保証さます。以後は、寺領が保護され続けてたことが分かります。

イメージ 3
四国霊場 宇多津郷照寺
松平頼重は政治的な意図をもって、次のような藩内の宗教政策を進めたことは以前にお話ししました。
松平頼重の宗教政策

郷照寺を時宗に改宗させて、保護を与えた背後にはなんらかの意図があったことが考えられます。
以上をまとめておくと
①郷照寺は、寺伝にあるように中世から時宗寺院であったのではない。
②髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として、時宗寺院として再整備された
 松平頼重の宗教政策については以前にお話ししました。そのなかで讃岐の真言宗勢力の抑制のために、金倉寺や白峰寺・根来寺・長尾寺などを天台宗に改宗して整備保護していました。郷照寺の時宗への改宗もなんらかの政治的な意図があったことがうかがえます。それが何なのかは、今の私には分かりません。  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。








  小松郷生福寺2
流刑先の小松庄・生福寺(まんのう町)法然の説法
        
浄土宗が四国に伝わるのは、承元元年(1207)に開祖源空(法然)が流罪先として讃岐に流されたときとされます。この時に、門下の幸西も阿波に流されていますが、彼の動向についてはまったく分からないようです。その後、幸西は嘉禄の法難(1327)によって、再び四国伊予に流されます。法然の讃岐流刑が、さぬきでの浄土宗布教のきっかけとする説もありますが、研究者はこれを「俗説」と一蹴します。例えば法然の「讃岐流刑」の滞在期間は、春にやってきて秋には流罪を許されて、讃岐を去っています。半年にも及ばない滞在期間です。「源空や幸西の流刑による来国は、浄土宗の流布という点では大した期待はもてない。」と研究者は考えているようです。

九品寺流長西教義の研究(石橋誡道 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

法然門下の九品寺流の祖・長西(
元暦元年(1184年) - 文永3年1月6日1266年2月12日は、伊予守藤原国明の子でした。

讃岐国で生まれ9歳のときに上洛し、19歳で出家して法然に師事します。京都九品寺を拠点にしたことから、九品寺流と呼ばれます。その教えは「念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願であり、諸行でも極楽往生は可能」というもので「諸行本願義」とも呼ばれるようです。長西は建長年間(1249~56)に、讃岐に西三谷寺を開いて教化につとめたとされます。しかし、それも短期間のことで、すぐに洛北の九品寺に移っています。その後、四国では浄土宗を伝道する者が現れません。「法然流刑を契機に浄土宗が讃岐に拡がった」という状況を、残された史料からは裏付けることはできないと研究者は指摘します。

4344102-55郷照寺

宇多津の時衆・郷照寺(讃岐国名勝図会)
 浄土宗の流れを汲む一遍の時衆は郷照寺などに、その痕跡を見ることができます。郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は

「おどりは(跳)ね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

で、一遍の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には、郷照寺が時宗の影響下にあったことを示す史料ともなります。
 滝宮念仏踊りの由来の中にも、「法然が伝えた念仏踊り」と書かれたものもりますが、実際には時衆の念仏踊りの系譜を引くものだと香川叢書は指摘しています。時衆のもたらした影響力は、讃岐の中に色濃く残っているはずなのですが、それを史料で裏付けることは今のところ出来ないようです。しかし、風流踊りの念仏系踊りにおおきな影響を与えているのは、法然ではなくて時衆門徒たちのようです。彼らによって、讃岐でも踊り念仏は拡げられたと研究者は考えています。それが、後世に法然の方に「接ぎ木」され換えたようです。

253 勝瑞城 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の居城 勝瑞

 戦国時代になって細川氏に代わって阿波の主導権を握ったのが三好氏です。三好氏の居城勝瑞でも、時衆が一時流行したことが「昔阿波物語」に次のように記されています。

昔阿波物語 | 日本古典籍データセット
昔阿波物語
勝瑞にちんせい宗と申て、門にかねをたゝき、歌念仏なと申寺を常知寺と申候、京の百万遍の御下り候て、談議を御とき候、その談議の様子ハ、浄土宗ハ南あミた仏ととなへ申候ヘハ、極楽へむかへとられ候か、禅宗真言宗ハなにとヽなへて仏になり候哉と御とき候て、地獄の絵をかけて見せ申候、……又極楽の体ハ、いかにもけつかうなる堂に、うちに仏には金仏にして見事也、念仏中ものハ、此ことくの仏になり、さむき事もあつき事もなく候と御とき候二付、勝瑞之町人ハ、皆浄宗になり申候、此時、禅宗真言宗ハたんなを被取めいわく……

意訳変換しておくと
勝瑞ではちんせい宗と呼ばれる宗派が、門で鉦をたたいて、歌念仏などを唱え、常知寺と称した。そして京の百万遍からやってきた僧侶が、説法を行った。その説法の様子は、浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えて、極楽へ向かうが、禅宗真言宗は何を唱えて仏になるというのだろうかと説くことからはじまり、地獄の絵を掛けて見せた……又極楽の様子は、いかにも素晴らしい堂が描かれ、その内側には見事な金仏が描かれている。念仏するものは、このように総てが仏であり、寒さ暑さもない常春の楽園であると説く。これを聞いた勝瑞の町人は、皆浄土宗になったという。この時には、禅宗や真言宗は、大きな被害を受け迷惑な……

ここには、京の百万遍からやって来た僧侶によって、時衆が勝瑞を中心に信徒を増やし、一時は禅宗や真言宗を駆逐するほどの勢いであったことが記されています。ところがやがて「少心有町人不審仕候」とその教義に疑問を持つ町人も出てきて人々の信仰心が揺らぎます。その時に、きちんと説明・指導できる僧がいなかったようで、

「皆前々の如く禅宗真言宗になりかへり候二付、浄地寺と申寺一ヶ寺ハかりにて御座候なり」

時衆信徒の多くは、再び禅宗や真言宗にもどって、時衆のお寺は浄地寺ひとつになってしまったと記します。ここからは浄土宗は、四国において、その伝道布教等に人材を得ず、また領主・武士等の有力なパトロンを獲得することができず、大きな発展が見られなかったと研究者は考えているようです。
1 本門寺 御会式
本門寺 西遷御家人の秋山泰忠が建立
日蓮宗はどうだったのでしょうか。
東国からやって来た西遷御家人の秋山泰忠が、讃岐国三野郡高瀬郷に本門寺を開いたことは以前にお話ししました。泰忠は、讃岐にやって来る以前から日蓮門徒でした。高瀬郷での経営が安定すると、正応2年(1289)日興の弟子日華を招いて、領内郷田村に本門寺を造営します。これが西日本での日蓮宗寺院の初見になるようです。この寺は秋山一族をパトロンに、「皆法華」を目指して周辺に信徒を拡大していきます。今でも三野町は、法華宗信徒の比重が高いうようです。

もうひとつの法華宗の教宣ルートは、瀬戸内航路を利用した北四国各港への布教活動です。
本興寺(兵庫県尼崎市) クチコミ・アクセス・営業時間|尼崎【フォートラベル】
尼崎の本興寺
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
DSC08543
宇多津の本妙寺に立つ日隆像
日蓮死後、ちょうど百年後に生まれたのが日隆で、日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出し、その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。そして、次のような港湾都市に寺院が建立していきます。大阪湾岸の拠点港としては
材木の集積地であった尼崎
奈良の外港としての堺
勘合貿易の出発地である兵庫津
また讃岐の細川氏守護所のあったる宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行っています。その結果、創建されるのが宇多津の本妙寺になります。

宇多津本妙寺
日隆によって開かれた日蓮宗の本妙寺(宇多津)
細川氏・三好氏政権を「環大阪湾政権」と呼ぶ研究者もいます。
その最重要戦略が大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っていて、人とモノとカネが行き来する最重要拠点になります。それを支配下に入れていく際に、三好長慶が結んだ相手が法華宗の日華だったことになります。長慶は、法華信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗の寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、堺や兵庫などの港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。
三好長慶】織田信長に先立つ日本最初の天下人 – 日本史あれこれ

天下人・三好長慶の勢力範囲=「環大阪湾政権」

 三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を、本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためとも考えられます。ただ、それだけではないでしょう。堺は、信長や謙信などの諸大名がやって来る「国際商業都市」で、そこに拠点をおいて自らの宗教的モニュメント寺院を建立することは、三好氏の勢威を広く示すことにもなったと研究者は考えているようです。
こうして「三好一家繁昌ノ折ヲ得テ、彼檀那寺法華宗アマリニ移り」と記すように、三好氏の保護を得て、法華宗は教勢を大いに伸ばします。

天正初年、天文法華の乱によって京都を追われた日蓮宗徒は、三好氏の政治拠点である堺を根拠地として、阿波に進出しはじめます。
番外編04 三好氏家系図 - 戦え!官兵衛くん。
そのころの阿波・讃岐は、三好長治の勢力下にありました。長治(ながはる)は伯父・三好長慶が「天下人」として畿内での支配力を強めなかで、本国阿波を預かる重要な役割を担っていました。しかし幼少のため、重臣の篠原長房が補佐します。また、長治は熱心な日蓮宗信者であり、日蓮宗勢力を積極的に支援します。こうした中で天正3年(1575) 堺の妙国寺等から多数の日蓮宗徒が阿波にやってきて、阿波国内すべてを日蓮宗に改宗させようとする「宗教改革」を開始します。これは当然に真言宗徒と対立を引き起こし、阿波法華騒動をひきおこします。
その経緯を「昔阿波物語」は、次のように記します。
 天正三年に、阿波一国の生少迄壱人も不残日蓮宗に御なし候て、法花経をいたヽかせ候時、上郡の瀧寺と申ハ、三好殿氏寺にて候、真言宗にて候、其坊主にも、法花経いたゝかせて、日蓮宗に御なし候、郡里の願勝寺も真言宗にて候を、日蓮宗になり候へと被仰候を、寺をあけて高野へ上り被申候、是をさりとてハ、出家に似相たる事と申て、諸人ほめ申候、此時堺より妙国寺・経上寺・酒しを寺三ヶ寺くたられ候、同宿余(数)多下り、北方南方手分して、侍衆百姓壱人も不残御経いたゝかせ被成候二付而、阿波禅宗・真言宗、旦那をとられ、迷惑に及ひ候二付而、阿波一国の真言宗山伏二千人、持明院へ集り、御そせう申上候様ハ、仏法の事に付て、国中を日蓮宗に被成候儀二候ハヽ、宗論を被仰付候様にと被申上

意訳変換しておくと
 天正三(1575)年に、阿波一国の老弱男女に至るまで残らず日蓮宗に改宗させ、法華経を頂く信徒に改宗させることになった。この時に上郡の瀧寺は、三好殿の氏寺で真言寺院であったが、その寺の坊主にも、法華経を読経する日蓮宗への改宗を迫った。郡里の願勝寺も真言宗であったが、日蓮宗を強制されて、寺をあげて高野山へ避難した。この行道について、人々は賞賛した。
 日蓮宗改宗のために堺から妙国寺・経上寺・酒しを寺の三ヶ寺の日蓮宗の僧侶達が数多く阿波にやってきて、北方南方に手分して、侍衆や百姓などひとりも残さずに法華経を授け、改宗を迫った。阿波禅宗・真言宗は、旦那をとられたために、阿波一国の真言宗山伏二千人が持明院へ集り示威行動を起こした。その上で「仏法の事について、阿波国中を日蓮宗に改宗させることの是非ついて、宗論を開いて公開議論をおこなうべきた」と御奏上書を提出した。

こうして開かれた宗論の結果、真言宗側の勝利となり、日蓮宗側は堺に引き退いたようです。
  先ほど見たように細川氏や三好氏は「環大阪湾政権」とも呼ばれ、海運のからみから堺の商人と繋がりが深く、町屋の宗派と言われた法華宗を大事にします。当時の法華宗は京で比叡山や一向宗とのトラブルで法難続きでした。そこで「畿内で失った教勢を、阿波で取り返そう」という動きがでてきます。これにたいして、阿波・讃岐の支配者である若い長治は、法華宗へ宗教統一することで、人々の宗教的な情熱をかき立て阿波の一体性を高めようとしたのかもしれません。しかし、これは現実を知らない机上の空論で、「家臣や民衆の心理から外れた蛮行」と後世の書は批判的に記します。
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千葉乗隆氏は「地域社会と真宗406P」で、法華騒動の結果引き起こされた後世への影響を次のように記しています。

「法華騒動による真言宗徒の勢力回復の結果、阿波国内の日蓮教線はまったく壊滅し、真宗教団の展開もブレーキをかけられた。阿波を橋頭堡として展開しつつあった真宗の教線もその方向を讃岐および土佐の両国に転ぜざるを得なかった。そしてまた、すでに展開を終わっていた禅宗教団も転寺・廃寺が続出したことは前述の通りである。

しかし、法華騒動の評価については近年新たな考え方が示されるようになりました。
例えば、 『昔阿波物語』を書いた鬼嶋道智は、十河存保に仕えて、後に蜂須賀氏に登用された人物です。彼は、徳島藩家老からの要請でこの書を書いています。つまり、この書は三好氏一族の十河氏であった家臣が、その後、登用された蜂須賀氏に近い立場で書いた軍記ものということになります。そのため三好氏を否定的に評価することが多いようです。
 例えば三好長治については、その無軌道ぶりや「失政」に重点が置かれます。それが三好氏の滅びる原因となったという論法です。今の支配者(蜂須賀氏)の正統性を印象づけるために、その前の支配者(三好氏)を否定的に描くというスタイルになります。具体的には、長治の失政が三好氏滅亡を招いたという記述です。勝利した側が、敗者を批判・攻撃し、歴史上から葬り去ろうとする際に用いられてきた歴史叙述の手法です。
 そういう点を含んだ上でもう一度、『昔阿波物語』の「法華騒動」を見てみると、
①真言宗山伏3千人が気勢をあげ、争論の場を設けるように主張したことを
②根来寺から円正が招かれて宗論となったこと
③篠原自遁の仲裁で、真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と結果は曖昧なこと。
 ここには、激しい武力抗争があったとは書かれていません。武力衝突なしの争論で、その結果として敗れたとされる日蓮宗も併存することになったと解釈できます。つまり「真言宗側の有利に解決された」とは読めません。以上から「騒動」ほどのものではなかったと考える研究者も出てきています。阿波における禅宗や日蓮宗の衰退を、法華騒動にもとめる説は再考が求められているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線

1四国遍路9

四国遍路と言えば、そのスタイルは白装束で「同行二人」の蓑笠かぶって、杖ついてというの今では一般的になっています。そして、般若心経や光明真言をあげて、納札・朱印となります。しかし、これらは、近世初頭にはどれもまだ姿を見せていなかったことは以前にお話しした通りです。般若心経は明治になって、白装束は戦後になって登場したもののようです。
1四国遍路5

それでは350年ほど前の元禄期には、四国遍路を廻る人たちは霊場で、何を唱えていたのでしょうか。これを今回は見ていきたいと思います。テキストは 武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰です
 1四国遍路日記
澄禅・真念の念仏信仰について
承応三年(1653)年の澄禅『四国辺路日記」からは、近世初頭の四国辺路についてのいろいろな情報が得られます。澄禅自身が見たり聞いたりしたことを、作為なくそのまま書いていることが貴重です。それが当時の四国辺路を知る上での「根本史料」になります。こんな日記を残してくれた澄禅さんに感謝します。
この日記の中から念仏に関するものを挙げてみましょう。
阿波祭後の23番薬王寺から室戸の24番最御崎寺への長く厳しい道中の後半頃の記述です。
仏崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在り、彼ニテ札ヲ納メ、各楽砂為仏塔ノ手向ヲナシ、読経念仏シテ巡リ

とります。ここは室戸に続く海岸線の遍路道です。仏崎の「奇巌妙石ヲ積重タル所」で納札し、作善のために積まれた仏塔に手を合わせ「読経念仏」しています。
次に土佐窪川の37番新田の五社(岩本寺)でも、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」と記します。
『四国辺路日記』には、参拝した寺院で読経したことについては、この他にも数ケ所みられるだけですが、実際には全ての社寺で念仏を唱えていたようです。

仙龍寺 三角寺奥の院
三角寺の奥之院仙龍寺
65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。
昔ヨリケ様ノ者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
寺も崖の上に建っている。乗念という禅宗僧侶が住持していた。
その禅僧が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここの住持は、念仏に対して激しい嫌悪感を示しています。それに対して、澄禅は厳しく批判していて、彼自身は念仏を肯定していたことが分かります。澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたことがうかがえます。
 澄禅の日記から分かることは、当時の札所では念仏も唱えられていたことです。そして、般若心経は唱えられていません。今の私たちから考えると「どうして、真言宗のお寺に、「南無阿弥陀仏」の念仏をあげるの? おかしいよ」というふうに思えます。

元祖 四国遍路ガイド本 “ 四國徧禮道指南 ” の文庫本 | そよ風の誘惑
四国辺路道指南
次に真念の『四国辺路道指南』を見てみましょう。       
男女ともに光明真言、大師宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり、

ここからは以下の3つが唱えられていたことが分かります。
①光明真言
②大師宝号
③札所の歌「御詠歌」を三遍
③の札所の歌「御詠歌」とは、どんなものなのでしょうか
 ご詠歌を作ったのは、真念あるいは真念達ではないかと考える研究者もいるようです。そこで念仏信仰や阿弥陀信仰が歌われているものを挙げていきます。( )内は本尊名。

二番   極楽寺(阿弥陀如来) 
極来の弥陀の浄土へ行きたくば南無阿弥陀仏口癖にせよ
三番   金泉寺(釈迦如来)  
極楽の宝の池を思えただ黄金の泉澄みたたえたる
七番   十楽寺(阿弥陀如来) 
人間の八苦を早く離れなば至らん方は九品十楽
―四番  常楽寺(弥勒菩薩)   
常楽の岸にはいつか至らまし弘誓の胎に乗り遅れずば
十六番  観音寺(千手観音)   
忘れずも導き給え 観青十西方弥陀の浄土
十九番  立江寺(地蔵菩薩)  
いつかさて西のすまいの我たちへ 弘誓の船にのりていたらん
二十六番 金剛頂寺(薬師如来)
往生に望みをかくる極楽は月の傾く西寺の空
四十四番 大宝寺(十一面観音) 
今の世は大悲の恵み菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ
四十五番 岩屋寺(不動明王) 
大聖の祈ちからのげに 岩屋石の中にも極楽ぞある
四十八番 西林寺(十一面観音)
弥陀仏の世界を尋ね聞きたくば 西の林の寺へ参れよ
五十一番 石手寺(薬師如来) 
西方をよそとはみまじ安養の寺にまいりて受ける十楽
五十二番 円明寺(阿弥陀如来)
来迎の弥陀のたの円明寺 寄り添う影はよなよなの月
五十六番 泰山寺(地蔵苦薩)
皆人の参りてやがて泰山寺 来世のえんどう頼みおきつつ
五十七番 栄福寺(阿弥陀如来)
この世には弓箭を守るやはた也 来世は人を救う弥陀仏
五十八番 仙遊寺(千手観音)  
立ち寄りて佐礼の堂にやすみつつ六字をとなえ経を読むべし
六十一番 香同寺(大日如来)   
後の世をおそるる人はこうおんじ止めて止まらぬしいたきの水
六十四番 前神寺(阿弥陀如来) 
前は神後ろは仏極楽のよろずのつみをくだく石鎚
六十五番 三角寺(十一面観音) 
おそろしや二つの角にも入りならば心をまろく弥陀を念ぜよ
六十五番三角寺奥之院仙龍寺(弘法人師)
極楽はよもにもあらじ此寺の御法の声を聞くぞたつとき
七十八番 道場寺(郷照寺 阿弥陀如来)
踊りはね念仏申す道場寺拍子揃え鉦を打つ
八十七番 長尾寺(聖観音)    
足曳の山鳥のをのなが尾梵秋のよるすがら弥陀を唱えよ

約20の札所のご詠歌に念仏・阿弥陀信仰の痕跡が見られるようです。本尊が阿弥陀如来の場合は、
11番極楽寺「南無阿弥陀仏 口癖にせよ」
57番栄福寺「来世は人を救う阿弥陀仏」
など、念仏や極楽浄上のことが直接的に出てきます。この時期の阿弥陀信仰が四国霊場にも拡がりがよく分かります。しかし一方で、本尊が阿弥陀如来でないのに、極楽や阿弥陀のことが歌われている札所もあります。58番仙遊寺は本尊が千手観音ですが
「立ち寄りて佐礼の上に休みつつ 六字をとなえ経を読むべし」

とあります。これはどういうことなのでしょうか。
 研究者は、この寺の念仏聖との関係を指摘しています。
また石手寺も本尊は、薬師如来ですが「西方をよそとは見まじ安養の寺」とあるように、西方極楽浄土の阿弥陀如来のことが歌われています。石手寺の本尊は薬師如来ですが、中世以降に隆盛となった阿弥陀堂の阿弥陀如来の方に信者の信仰は移っていたようです。ひとつのお寺の中でも仏の栄枯衰退があるようです。

本堂 - 宇多津町、郷照寺の写真 - トリップアドバイザー

 78番道場寺(=郷照寺)は「踊り跳ね念仏中す道場寺 拍子揃え鉦を打つ」とあります。

DSC03479

これは、時衆の開祖一遍の踊り念仏を歌っているのでしょう。郷照寺は札所の中で、唯一の時衆の寺院です。この時期(元禄期)には、跳んだりはねたりの踊り念仏が道場寺で行われていたことが分かります。澄禅『四国辺路日記』には郷照寺のことは「本尊阿弥陀、寺はは時宗也、所はウタズ(宇多津)と云う」としか記されていませんが、ご詠歌からは時宗寺院の特徴が伝わってきます。
 ただ元禄二年(1689)刊の寂本『四国術礼霊場記』の境内図には、「阿弥陀堂」とともに「熊野社」がみられ、時衆の熊野信仰がうかがえます。今は、その熊野社はありません。
 ある研究者は、中世の郷照寺を次のように評します。
「かつての道場寺(郷照寺)には高野聖、大台系の修験山伏、木食行者など、聖と言われる民間宗教者が雑住する、行者の溜り場的色彩が濃厚で、巫女、比丘尼といった女性の宗教者の唱導も行われていた」

 備讃瀬戸に面する讃岐一の湊・宇多津にある郷照寺は、伊予の石手寺と同じく民間宗教のデパートのような様相を見せていたのかもしれません。しかし、残されている資料からそれを裏付けていくのは、なかなか難しいようです。
寛文文九年(1669)刊の『御領分中宮由来同寺々由来』には
    藤沢遊行上人末寺、時宗郷照寺
一、開基永仁年中、 一遍上人建立之、文禄年中、党阿弥再興仕候事
一、弘法人師一刀三礼之阿弥陀有之事
一、寺領高五十、従先規付来候事
とあり、開基を永仁年間(1293~99年)としています。これは一遍上人没後(正応二年(1289)を数年を経た年となります。文禄年間に再興した党阿弥という名前は、いかにも時宗僧侶のようです。このように郷照寺には、時衆の思想や雰囲気が感じられますがそれを裏付ける史料に乏しいようです。

弥谷寺 高野聖2
高野の聖たち

 札所の詠歌から阿弥陀如来や念仏信仰を見てきました。その中でも五十八番仙遊寺、七十八番道場寺などでは、念仏思想が濃厚に感じられることが確認できました。

次に光明真言を見ていきましょう。
 真念の「四国辺路道指南』では、巡礼作法として最初に光明真言を唱えることになっています。
光明真言1

真言とは、意味を解釈して理解をするものではなく、その発する音だけで効力を発揮する言葉とされます。そして光明真言には5つの仏が隠れていて、様々な魔を取り払い、聞くだけでも自らの罪障がなくなっていくという万能な真言と説かれてきました。
 澄禅は『四国辺路日記』の中で、多度津の七十七番道隆寺の住持が旦那横井七左衛門に光明真吾の功徳などを説いたと記しています。ここからは江戸代初期に、光明真言が一部の信者たちに重視されるようになっていたことがうかがえます。

光明真言2

 また江戸時代前期に浄厳和上の高弟・河内・地蔵寺の蓮体(1663~1726)撰『光明真吾金壷集』(宝永五年1708)には、光明真言を解釈し、念仏と光明真言の効能の優劣が比較されています。そして念仏よりも光明真言の方が優れているとします。ここからは江戸時代前期には、真言宗では念仏と光明真言は、対極的な存在として重視されていたことがうかがえます。それが澄禅の時代から真念へと時代が下っていくに従って、念仏よりも光明真言の方が優位に立って行ったようです。

先ほどの多度津・道隆寺の住持は、かつて高野山の学徒であったと云います。道隆寺の旦那横井七左衛門は、その住持の影響で光明真言の貢納を信じるようになったのでしょう。これを逆に追うと、高野山では、すでに念仏よりも光明真言が重視されていたことになります。
 その背後には、念仏信仰を推し進めてきた「高野聖の存在の希薄化」があると研究者は指摘します。つまり、高野山では「原理主義」が進み、後からやってきて勢力を持つようになっていた念仏勢力排斥運動が進んでいたのです。そして、江戸時代になると修験者や高野聖の廻国が原則禁止なります。こうして念仏信仰を担った高野の念仏聖たちの活動が制限されます。代わって、真言原理主義や弘法大師伝説が四国霊場でも展開されるようになります。先ほど見た伊予の三角寺奥の院仙龍寺の住持の「念仏嫌い」というのも、そのような背景の中でのことと推測できます。

光明真言曼荼羅石
光明真言曼荼羅石(井原市)

 念仏信仰に代わって、光明真言重視する傾向は、全国的に進んでいたようです。これは江戸中期以降、光明真言の供養塔が増えていくことともつながります。そうした流れのなかで、四国辺路も念仏重視の時代から、光明真言重視に移行していったと研究者は考えているようです。以上からわかることをまとめておきましょう。
①真念は、弘法大師の修行姿を念仏聖としてイメージしていること
②澄禅は各霊場で念仏を唱えていること
③詠歌の中に阿弥陀信仰・念仏のことが織り込まれていること
などから元禄期には、霊場では念仏信仰の方がまだ主流であったことがうかがえます。
  最後に全体のまとめです。
①江戸時代元禄年間には、四国霊場では南無阿弥陀仏が遍路によって唱えられていた。
②それは中世以来の高野系の念仏聖の影響によるものであった。
③しかし、高野山での原理主義が進み、高野聖の活動が衰退すると念仏に代わって光明真言が唱えられるようになった
④般若心経が唱えられるようになるのは、神仏分離の明治以後のことである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

 四国遍路の形成過程については、次の2段階に分けて考えるのが一般的になっているようです。
①近世前の修験者等による行場巡りとしての四国辺路形成
②近世後の庶民による四国霊場88ヶ寺巡礼巡り
  ①の近世以前を、さらに細分化すると次のようになるようです。
③平安時代後期から鎌倉時代には『今昔物語集」や『梁塵秘抄』などに四国の海辺を巡る辺地修行や山岳修行が出てくる
④室町時代前期には熊野信仰に伴う参詣、修行のルートが確認される。
⑤室町時代後期になると、四十九番浄土寺の本尊厨子や八十番國分寺本尊像に「南無大師遍照金剛」や「南無阿弥陀仏」の落書がみられ、弘法大師信仰とともに念仏信仰も盛んであったことが分かります。
⑥江戸時代初期、承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記」には、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」とあり、各札所で念仏が唱えられていたらしい。

ここからは戦国期から江戸時代初期の「四国辺路」では、熊野信仰や六十六部、時宗に加えても念仏信仰が盛んに行われていたことが分かります。今から考えると、真言宗のお寺で「南無阿弥陀仏」の念仏が称えられていたことに、何かしら違和感を感じてしまいます。どんな風に阿弥陀信仰の念仏と霊場が混淆していたのでしょうか。

1 郷照寺3

七十八番札所郷照寺(宇多津町)で見てみることにしましょう。
 郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。このあたりに秘事法門が多いといわれるのは、念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものと研究者は考えているようです。そのため庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は、それらもなくなり大師信仰だけになっています。

1 郷照寺1

 縁起は、後世のものらしく霊亀年間(715ー17)に行基菩薩が開いたと伝えます。そして、弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいます。が、現在は時宗です。
そして、一遍上人の関係を伝えています。
一遍は四国の松山の人で、16年に及ぶ最後の遊行の際には、善通寺に参拝して郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡っていますので、ここを通ったことは確かです。また最後の遊行を前にして、自分の郷里に帰ったこともはっきりしています。正応二年(1289)8月末に亡くなっています。

1 郷照寺踊り念仏
一遍絵図の中の踊り念仏

郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。
それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は
「おどりはね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

です。これはまさに、一遍上人の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には時宗の影響下にあったことがうかがえます。
1 郷照寺踊り念仏2
          一遍絵図の中の踊り念仏

 郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。
南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺

これは、江戸時代初期頃の縦六七・ニ㎝、横一九・七㎝、厚さ三・七㎝のもので、表面に「時衆二祖真教様」の書体で大きく「南無阿弥陀仏」と書かれています。その下に「承和元(834)年三月十五日書之空海」とあります。そのまま受け取ると、弘法大師が高野山奥院に入定する前年に書いたことになります。空海真筆を強調しているようです。
 裏面上部には、椅子に坐わす弘法大師像、その背後に山岳中から影現する釈迦如来が刻まれます。その下に「讃岐国屏風浦誕生院」とあるので善通寺御影堂本尊を表していることになるようです。
 つまり表面の空海筆銘の六字名号と裏面の弘法大師像とを合わせれば、まさに弘法大師信仰と念仏信仰が合体した版本となるようです。その意味では貴重な物かもしれません。
 研究者が注目するのは、郷照寺の版木と、ほぼ同じ頃に造られた「空海筆銘六字名号」の版木が四十番観自在寺、五十一番石手寺、五十二番大山寺、八十一番白峯寺などにもあることです。弘法大師に関わる念仏信仰の拠点がどうも札所寺院であったようなのです。

空海と六字名号の関係について、もう少し見ていくことにしましょう。
鎌倉時代末期の『一遍聖絵』巻二に
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字名号の印板をとどめ、五濁常没の本尊としたまへり。
 
とあり、弘法大師が六字の名号を版木に刻んだとしています。一遍上人は時衆の開祖です。そして『一遍聖絵』は、一遍上人の弟、聖戒などが関わっていますので、時衆の影響が大きいとされます。
 また「四国辺土(遍路)八十八ケ所」の文言が記される説経『苅萱』「高野巻」には、弘法大師が入唐する際、宇佐八幡宮に参詣すると火炎の中から六字の名号が現れ、これを船板名号と称し、御神体として舟に彫りつけ無事に唐に渡ったと記します。「高野巻」は高野聖たちが深く関与したことは、すでに明らかにされているようです(真野俊和一「日本遊行宗教論』)
このふたつのことから弘法大師と念仏信仰(六字名号)の混淆の仕掛け人は
①時衆が深く関わっている
②時衆系高野聖の存在も大きい
ことが分かります。
 空海が開いた高野山は真言密教の聖地です。
しかし、時代と共に様々な流派を取り入れていきます。平安時代後期から覚鑁(かくばん・1095~1143))や明遍(みょうへん・1142~1324)などが現れ真言念仏や念仏を盛んにしています。
  覚鑁については、新義真言宗 総本山根来寺のHPでは「真言の教えの中興者として、次のように評価しています。
銅像 覚鑁
 
 興教大師(覚鑁)の時代は、真言宗は事相の興隆とともに多くの流派が林立し、修法に関して一部で混乱がみられました。こうした実状に悩んだ興教大師は、遍く諸流を学びかつ相承して、真言の法門の「源底」を求め、真言密教の秘奥を究められました。現在でも興教大師は、「大伝法院流」の祖として崇あがめられています。
  興教大師の教えの本質は、弘法大師の教えの継承・発展にあり、あくまでもその目標は「即身成仏」の実現にありました。しかしそれだけではなく興教大師は、当時興隆しつつあった浄土往生思想を真言密教の枠組みの中に見事に活かし、真言密教の立場からの正しい弥陀信仰のあり方を示されました。  興教大師は、高野山の独立を達成され、教学の振興をはかり、文字通り真言宗団を中興されたのです。

  室町時代になると、高野聖の多くが時宗化します。
そして、念仏を唱える時宗系高野聖の勢力が増し、高野山の念仏化が進んだようです。つまり、当時は真言の総本山である高野山で「南無阿弥陀仏」が称えられていたのです。その後、慶長十一年(1606)幕府の命により、高野聖の真言宗加入が行われます。(五来重「高野聖」)
1 郷照寺4

 もう一度、版本に話を戻します。
これが郷照寺で造られたのか、また他から持ち寄られたのかは分かりません。しかし、郷照寺の寺歴からすると、郷照寺で作られ所蔵されていた可能性が高いと研究者は考えているようです。どちらにしても、弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を広めたことに間違いはないようです。時宗系念仏聖の存在がうかがえます。
 この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろなプロの宗教者が巡っていたことが明らかになっています。この中で近世の四国遍路への展開・発展に大きく関わったのは高野山の行人や時宗経系念仏聖のようです。彼らには弘法大師信仰を持ちながら、念仏行や念仏踊りを踊るという二面性(?)があったようです。
 江戸時代前期、貞享四年(1687)頃に真念によって『四国辺路道指南』が刊行されます。そこには
「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

と記されています。ここにはもう念仏信仰はみられません。真言宗本来の光明真言を唱えています。南無阿弥陀仏の念仏は「追放」され、弘法大師の一尊化が確立している様子がうかがえます。江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。
 郷照寺の版木からは、弘法大師信仰の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。同時に、この版木は中世の四国辺路から近世の四国遍路への橋渡し的な意味を、持つものかもしれないと思えるようになりました。

武田和昭 四国遍路における弘法大師信仰と阿弥陀信仰   空海の足音四国へんろ展 所収

絵図から探る200年前の瀬戸内海の港 宇多津

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「宇多津街道図」で、宇多津町の法華宗寺院本妙寺に伝わる絵図です。宇多津西部の町並みが海側から鳥瞰するように描かれてています。とは言っても、二百年前の作品で見たとおり退色が進み、何が書いてあるか分からない状態です。もとは衝立であったのが、その後に巻いた状態で保管されていたのでしょう。
 画面向かって右下に、「東埜原民馨」の署名があり江戸時代後期の讃岐の絵師、大原東野が描いたものであることがわかります。近世後期の宇多津を描いた貴重な絵画作品として、宇多津町指定有形文化財に指定されています。 
 200年前の宇多津の街並み散歩に出かけましょう
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 先ほどの絵図を香川県歴史博物館が調査のために描き起こした写真です。手前に、宇多津の北に広がる海が描かれます。画面向かって右中央には、鳥居から続く階段とやや高くなった岩山の上に神社が見えます。これが宇夫階神社です。鳥居を抜けて階段を登ると隨神門があり、その奥に本社の屋根が見えます。
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本社の横には、宇多津の海を見渡す位置に高松藩の遠見番所が描かれ、また隨神門の左横には神宮寺と思われる建物が見えます。階段下の鳥居の脇には一対の常夜燈が描かれています。これは現在も宇夫階神社の境内にある文政10年(1827)9月の建立銘文をもつ常夜燈でしょう。この絵が描かれたときには建立されたばかりでした。
 宇夫階神社の大きな鳥居のすぐ左横には、秋葉社の鳥居と階段らしきものが描かれています。その前から西町を通って東にのびる丸亀街道には、荷を担いて行き交う人々の姿が見えます。宇夫階神社の北側には、すぐそばまで海が迫っていることが分かります。神社の崖下を丸亀街道が通っています。
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 宇夫階神社の鳥居に帰ります。
そこから東に向かうと街道の中ほどから、本妙寺へと続く参道が上に伸びています。その角には元禄年間(1799)に建立された石碑が描かれています。現在、この石碑は参道の西側に場所を移しています。本妙寺は、他の建造物に比べると本堂の屋根の形などが比較的詳しく描写されています。 
 本妙寺の東には、郷照寺の塀や建物と、画面左端から続く参道が描かれます。
本妙寺と郷照寺の参道口の中ほどに、鳥居のような建造物と小さな祠のようなものが見えますが、これは現在も浄泉寺前にある祠と石造物を表したものでしょう。
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その西隣りに描かれた四角形の台が描写されています。
しかし、現在はこれに相当する建造物は見当たらないようです。上の絵図は江戸時代後期にまとめられた「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」に収められた挿絵「郷照寺 浄泉寺」です。ここには、郷照寺の下の街道沿いにこの四角形の台が描かれ「御旅所」と記されています。その位置から考えて、宇夫階神社の御旅所でしょう。しかし、現在では宇夫階神社の御旅所は田町神事場と聖通寺神事場で、それ以外で町の中に御旅所があったという話は伝わっていません。
再び宇夫階神社前に戻って画面を見てみましょう。
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鳥居の前から画面右下に向かって横町の街道がのび、浜町の街道と交わります。その交差点ある方形の堂宇は、「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」の挿絵「宗夫階社 神宮寺 秋葉社 神石社」によると釈迦堂です。そして道向こうにある長い屋根の建造物は十王堂です。
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その海側には方形をした池の中央に祠のある亀石神社が見え、掘割とつながる導入溝も描かれています。現在ではこの周辺は埋め立てられ、中央公園や小学校が建っていますが、当時は亀石神社から海側にのびる地が砂州となっています。この時期は石垣などで整備されていない様子がうかがわれます。
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 東西にのびる浜町の街道には町屋が並び、往来する人々の姿が見えます。また、西町と浜町に挟まれた幸町付近は、家屋などのない低地であったことが知られていますが、この絵でも植物の茂みのような表現が見られるだけで、自然状態の利用されていない土地であったようです。
最後に、浜町から北の海側に広がる区画を見てみましょう。
 海に突き出た堤防に沿って十八世紀中ごろから開発が始まった古浜塩田が見えます。堤防の根元には、海水を煮詰めるための釜屋らしき建物が見え、その横には、木々に囲まれた蛭子神社と鳥居が見えます。塩田の周囲は石を積んで護岸されており、掘割の入口には目印となる燈篭が見えます。周辺には、掘割の中も含めて数艘の船が行き来する様が描かれており、港町として賑わっていた宇多津の様子が描かれています。さて、この絵を描いたのは誰なのでしょうか?
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作者は、大阪から琴平に移り住んだ大原東野です。 
明和八年(1772)奈良に生まれ、後に大阪に住み画家となります。文政2年(1819)6月に、息子の萬年とともに讃岐を訪れ、金毘羅の参詣道を修造するために「象頭山行程修造之記」を著します。これは、丸亀から金毘羅に至る街道の現状を嘆いた東野が、施主の求めに応じて扇面から屏風まで様々な絵画を制作し、その代金を街道修繕の工賃にあてるというもので、木版刷りで広く配ったようです。その後、大阪に帰らずに苗田村(現琴平町)の丸亀街道沿いに家を構え、石津亮澄著「金毘羅山名勝図会」の挿絵を手がけた以外にも、数多くの花鳥、人物図などを描きました。
 画家としての東野は人物図を得意としましたが、「金毘羅山名勝図会」などの景観図を描く技術と経験も充分に備えていました。さらに、讃岐の琴平に移り住み、宇多津のことを充分に知り、その地形の特徴を把握したうえでこの作品に取り組んだと考えられます。11年(1840)に没しました。各種の藤を育てていたという寓居は「藤の棚」と呼ばれ、今も地名にその名が残っています。   

制作目的と制作年代は?

 描かれている範囲が町全体ではなく、宇多津西部の景観に限定されている理由は何でしょう。
 
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この絵には見るものの目線を画面の主題へと自然に導く構図の工夫があるようです。私たちの目線は、まず手前に広がる海から、掘割を通って宇多津の町に向かいます。そして横町、西町と街道をたどって進み、中ほどで掘割と平行するようにのびる参道を登って本妙寺に至ります。意識しなくても、大きな水路や道をたどれば、画面中央に描かれた本妙寺に自然に辿り着くという工夫です。しかし、本妙寺は特に強調して描かれることもなく、あくまでも周囲の景観にとけこむように表されています。ここからこの絵の主題は、本妙寺ではあっても、宇多津の町に一体化した佇まいをみせる寺の姿を描くことにあったのではないでしょうか。海から宇多津を訪れた人や、街道を行く人々には、青ノ山を背に、町並みから一段高く位置する本妙寺が、この絵のように見えたのでしょう。 
 景観年代については、宇夫階神社の鳥居横に描かれる常夜燈を現存のものとみれば、文政10年(1827)建立以降と考えられます。また作者の大原東野は天保11年(1840)に没していますので、それまでの制作されたことになります。いずれにしても、街道が整えられ、船も人も行きかう二百年前の宇多津を描いた貴重な絵画作品といえます。
 以上のように、日常的風景の中に本妙寺を中心として成立する宇多津の景観を描く工夫が織り込まれている点を考えると本妙寺の依頼によって描かれた可能性が高くなります。そして当初は、衝立のような複数の人と鑑賞を共有できる画面に、風景として本妙寺の姿を表現してみせたのがこの絵ではないでしょうか。
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 参考史料 松岡明子 近世の宇多津を描いた景観図

   郷照寺は八十八か所の中で唯一の時宗のお寺です。

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一遍上人は四国の人ですから、しばしばこういうところを歩いたにちがいありません。また最後の遊行を前にして、自分の郷里伊予に帰ったこともはっきりしています。亡くなる一年前に帰って、郷里のあちらこちらにお参りしています。

 武具が非常に多いので有名な大三島の大山祗神社にお参りしたりして、それから十六年に及ぶ最後の遊行に出発します。善通寺から郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡って、神戸まで行って正応二年二二八九)八月末に亡くなっております。
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郷照寺は、もとは道場寺と呼ばれていました。

寺は海に臨んだ高台ですが、昔はすぐ下まで海であったといわれています。
正面に庫裡、客殿、庭園があります。納経所は寺他の石段の上にあります。
本堂は東向きに建っていて、その前に庚申堂があります。
本堂の後ろの高いところに大師堂があり、その裏に淡島堂(粟島明神堂)と稲荷社があります。淡島堂は以空上人が建てたということがはっきりしています。
以空上人は、五剣山ハ栗寺に弁財天をまつった人です。

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 縁起は、霊亀年間(七一五-一七)に行基菩薩が開削して、もとは仏光山道場寺と名づけたと書いています。
 弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいますが、現在は時宗で一遍上人の止住を伝えています。一遍は四国の松山の人で、善通寺に参詣して阿波から淡路へ越えたことがあるので、ここを遍ったことは確かです。
天正年間(一五七三-九二)の長宗我部氏の兵火で焼けたあと、江戸時代に再興して藩主の保護を受けました。書院にはすばらしい庭園があって、名石や名木があります。
 
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郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。
昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。

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このあたりは秘事法門が多いといわれるのは、このような念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものがベースにあるのかもしれません。庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は大師信仰だけになりました。

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